💄40)─2─近代日本の女性教育とは古い女性差別から新しい女性差別への転換であった。~No.83 

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 2023年9月28日 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン「日本が“ジェンダー後進国”になった発端は「近代女子教育の挫折」にあった 「良妻賢母」に消された声に光を当てる『焼き芋とドーナツ』
 算術を習う明治時代の女学生たち Photo by ullstein bild/ullstein bild via Getty Images
 幕末維新期の日本では、米国から帰国した留学生らが女性への高等教育を普及させようとしていた。だが、日本政府が「良妻賢母」に基づく教育方針を推進したことによってこの試みはとん挫し、女性たちは低賃金労働や家事の担い手として組織や家庭に組み込まれていく。
 【画像】(続きを読む)日本がジェンダー後進国になった発端は「近代女子教育の挫折」にあった
 日米両国の女性労働者の自立の喜びと、そこに至るまでの奮闘を描いた湯澤規子氏の新著『焼き芋とドーナツ』から、現代日本にはびこるジェンダー差別の一因とも言える近代女子教育の挫折を抜粋で紹介する。
 津田梅子がアメリカ合衆国で見たもの学んだこと
 今日から遡ることおよそ150年前、新しい日本の教育に寄せられた大きな期待を背負って渡米した津田梅子が帰国後になぜ、失意の中で二度目の留学を切望したのか。
 そして、マサチューセッツ州ウッズホールの海洋生物学研究所で生物学に目覚めた彼女がなぜ、帰国後の日本で生物学ではなく女性の高等教育にその後の人生を賭したのか。
 今ならその理由を理解できる気がする。その背景には、近代日本の草創期に目指された「新しい女性教育」とその挫折という、近代日本社会の大きなうねりがあった。
 1871年に梅子を含む日本の少女たちがアメリカ合衆国へ送り出された時、それからの女性は男性と同じような教育機会をもち、新たな時代を切り拓いていくことが期待されていた。その理想を実現すべく、アメリカ合衆国で梅子たちの到着を心待ちにしていたのは、当時アメリカ駐在小弁務使であった森有礼(ありのり)である。
 彼は日本の教育について報告したうえでアメリカの有識者たちに意見を求め、梅子たちと出会ってから2年後の1873年、『Education in Japan(日本における教育)』と題した英文による一書を上梓している。そこには、梅子たちが身を置くことになった19世紀のアメリカ合衆国における女性教育の状況が次のように記されていた。本書後半で論じてきた、アメリカの女性たちのライフヒストリーとも共鳴する内容なので、一部紹介しよう。
 「女性教師」という項目の中で、アメリカは世界的に見ても珍しく女性教師の割合が非常に高く、おそらく公立小学校で採用されている全教員の約4分の3は女性であることが明記されている。それは、男性が不在となりがちな開拓時代、独立・南北戦争下で、コミュニティにおける女性の役割が拡大せざるを得なかったという歴史的条件にも規定されていた。
 また、誕生したばかりのコミュニティでは教師に十分な給与が払えなかったため、女性教師を低給で雇うという経済的な理由もあった。
 森は注目すべき点として、女性教員が多い理由はそれだけではなく、彼女たちが教師としての高い資質を持っていたことにも言及している。さらに、「女性の教育」という別項目を設け、次のように具体的な状況を記した。
 初等教育において少女たちは少年たちと同じように教育され、国土を耕す数多の家族が若者たちの教育に寄与している。家庭内での教育では、宗教的な文化の影響も受けながら道徳と信頼が形成される。こうした教育のありかたは、ニューイングランドへ入植した人びとが、この新しい土地で生き抜くために、男女を問わず必要な知識を授けようとした動機に支えられていたのだろうと、森は考察を加えている。
 新しい国家を形成していく段階にあったアメリカならではの社会状況として興味深い事実である。それはまさに、本書を通じて描いてきた草創期の小説家や科学者になった女性たち、工場で働き始めたピューリタンの娘たちの子ども時代やその後のライフヒストリーそのものでもあった。
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 クーリエ・ジャポンクーリエ・ジャポン「『焼き芋とドーナツ』が描く日米女性の奮闘
 日本がジェンダー後進国になった発端は「近代女子教育の挫折」にあった
 算術を習う明治時代の女学生たち Photo by ullstein bild/ullstein bild via Getty Images
 幕末維新期の日本では、米国から帰国した留学生らが女性への高等教育を普及させようとしていた。だが、日本政府が「良妻賢母」に基づく教育方針を推進したことによってこの試みはとん挫し、女性たちは低賃金労働や家事の担い手として組織や家庭に組み込まれていく。
 日米両国の女性労働者の自立の喜びと、そこに至るまでの奮闘を描いた湯澤規子氏の新著『焼き芋とドーナツ』から、現代日本にはびこるジェンダー差別の一因とも言える近代女子教育の挫折を抜粋で紹介する。
 津田梅子がアメリカ合衆国で見たもの学んだこと
 今日から遡ることおよそ150年前、新しい日本の教育に寄せられた大きな期待を背負って渡米した津田梅子が帰国後になぜ、失意の中で二度目の留学を切望したのか。
 そして、マサチューセッツ州ウッズホールの海洋生物学研究所で生物学に目覚めた彼女がなぜ、帰国後の日本で生物学ではなく女性の高等教育にその後の人生を賭したのか。
 今ならその理由を理解できる気がする。その背景には、近代日本の草創期に目指された「新しい女性教育」とその挫折という、近代日本社会の大きなうねりがあった。
 1871年に梅子を含む日本の少女たちがアメリカ合衆国へ送り出された時、それからの女性は男性と同じような教育機会をもち、新たな時代を切り拓いていくことが期待されていた。その理想を実現すべく、アメリカ合衆国で梅子たちの到着を心待ちにしていたのは、当時アメリカ駐在小弁務使であった森有礼(ありのり)である。
 彼は日本の教育について報告したうえでアメリカの有識者たちに意見を求め、梅子たちと出会ってから2年後の1873年、『Education in Japan(日本における教育)』と題した英文による一書を上梓している(注1)。そこには、梅子たちが身を置くことになった19世紀のアメリカ合衆国における女性教育の状況が次のように記されていた。本書後半で論じてきた、アメリカの女性たちのライフヒストリーとも共鳴する内容なので、一部紹介しよう。
 「女性教師」という項目の中で、アメリカは世界的に見ても珍しく女性教師の割合が非常に高く、おそらく公立小学校で採用されている全教員の約4分の3は女性であることが明記されている。それは、男性が不在となりがちな開拓時代、独立・南北戦争下で、コミュニティにおける女性の役割が拡大せざるを得なかったという歴史的条件にも規定されていた。
 また、誕生したばかりのコミュニティでは教師に十分な給与が払えなかったため、女性教師を低給で雇うという経済的な理由もあった。
 森は注目すべき点として、女性教員が多い理由はそれだけではなく、彼女たちが教師としての高い資質を持っていたことにも言及している。さらに、「女性の教育」という別項目を設け、次のように具体的な状況を記した。
 女性たちの人生と歴史を動かした「ブッククラブ」の力
 初等教育において少女たちは少年たちと同じように教育され、国土を耕す数多の家族が若者たちの教育に寄与している。家庭内での教育では、宗教的な文化の影響も受けながら道徳と信頼が形成される。こうした教育のありかたは、ニューイングランドへ入植した人びとが、この新しい土地で生き抜くために、男女を問わず必要な知識を授けようとした動機に支えられていたのだろうと、森は考察を加えている。
 焼き芋とドーナツ
 『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』
 湯澤規子著 KADOKAWA
 日米の女性労働者の自立と交流を「食」を通して生き生きと描く。
 新しい国家を形成していく段階にあったアメリカならではの社会状況として興味深い事実である。それはまさに、本書を通じて描いてきた草創期の小説家や科学者になった女性たち、工場で働き始めたピューリタンの娘たちの子ども時代やその後のライフヒストリーそのものでもあった。
 女性が高等教育の対象にはならなかった状況も見落とされることなく付記されている。そのうえで、森はアメリカにおける女子教育に寄与した具体的な人物の名前を列記しながら、50年余りの高等教育における女性の活躍が目覚ましく、その結果、労働者が非常に優秀になったとも述べている。産業革命期に女性が自ら賃金を得るようになり、家族を養う女性たちも登場した。そうした中で、森が実感していたのは、次のような社会の変化であった。
 The necessity, therefore, for higher instruction for women has been widely and deeply felt, and the disposition to recognize and provide for this necessity has increased very rapidly within a few years.(注2)
 女性のための高等教育の必要性は広く深く感じられるようになり、この必要性を認識し提供する気風は、数年のうちに非常に急速に高まった。
 その事例として挙げられた複数の大学には、津田梅子とともに渡米した山川捨松やエレン・スワロウ・リチャーズが学位を授与されたバッサー大学も含まれている。とはいえ、大学において男性と同じ教育を受けるのは未だ難しい状況であることにも、森は言及を忘れなかった。
 森がこの本を執筆していた1870年代初頭はまだ、エレン・スワロウ・リチャーズがバッサー大学を卒業した後、家業に従事しながら学ぶ情熱の火を心に灯し、マサチューセッツ工科大学の扉をたたこうとする、まさにその時期であったからである。その後の女性たちの奮闘と葛藤は、本書後半でみてきたとおりである。
 森はその後の経緯も含め、アメリカの女性教育の激動と急速な発展を目の当たりにしていたがゆえに、世界的な視野に立ちながら、女性教育の可能性を十分理解していたにちがいない。つまり森は、アメリカ合衆国という新たな国家が形成されていく過程における教育の重要性に深く共感し、明治維新によって新たな国家を形成しようとしていた日本の未来を教育によって拓いていく可能性をこそ、『Education in Japan』に込めたのだと読めるのである。
 津田梅子たちは、こうした理想と情熱を胸に抱いた森に迎えられ、アメリカの新しい女性教育を一身に受けながら成長したわけである。そうであったからこそ、彼女たちが自らの経験を伝えるために女性教育に携わり、日本に生きる女性たちとともに時代を切り拓いていくのだという、強い使命感と情熱をもって帰国したことは想像に難くない。
 日本の男女格差と政治研究に風穴を開けた、イェール大のローゼンブルース教授を知っていますか
 現代の起点としての「新しい女性教育」の挫折
 しかし、梅子たちが帰国した1882年には、政府の教育に関わる方針は当初の理想からは大きく方向転換し、女性たちが男性と同じ高等教育機会を得ることは望むべくもない状況へと後退していた。さらにその後の女性教育にとって、いや日本の教育全体にとって不幸なことに、帰国して初代文部大臣となった森有礼が志半ばで1889年に暗殺され、この世を去ってしまったのである。かろうじて、明治女学校がアメリカ合衆国を参照しながら「新しい女性教育」に挑戦していたが、本書4章でふれたように長くは続かなかった。
 その後、政府は儒教的道徳観にもとづく「良妻賢母」を掲げた女性教育を重視するようになり、その方針は産業革命の進展と戦時下において強化されていった。こうした動向は、女性たちの自立を促すというよりもむしろ、「大きな家族」を標榜する家族主義的な労使関係と、新たに誕生した「小さな家族」としての近代家族制度の定着へとつながっていく。そして、女性たちは自らの能力と稼ぎで自立し、自活する機会を逸し、広く連帯する機会を生み出せないまま、それが戦後にも引き継がれていった。
 この近代初期における「新しい女性教育」の挫折が、ジェンダー・ギャップ指数がいつまでたっても低位に据え置かれたままの現代日本社会の起点となっているのではないか。資本主義社会を支えるシャドウ・ワークに依存する思想的基盤として、国家や企業が半ば共謀しつつ「内助の功」や「良妻賢母」の論理を意図的に社会制度、家族制度に組み込んでいった戦後日本社会の展開がその証左である。(注3)
 日本でもようやく1945年に女性の参政権が認められたとはいえ、女性たち自身の内面から湧き上がる「わたし」や「わたしたち」の獲得と、社会変革への働きかけは低調であったと言わざるを得ない。それは、本書冒頭で触れた『わたしの「女工哀史」』が世に問われるまでに、長い時間を要したという問題ともつながっている。
 一方、アメリカの産業革命は、女性たちが「共和国の母」とは異なる生き方があることに気づき、自立に目覚める機会となった。女工や教師として独身女性が自立する人生の選択肢も誕生した。それゆえに女性たちは、「自立して生きるための賃金とは何か」という問題を議論するようになった。「最低賃金」ではなく「暮らすための賃金」をという発想転換を社会に求めるようになったのは、その成果にほかならない。
 「人格を耕す(cultivation of humanity)」という自己修養を思想的基盤としながら、アメリカの女性たちは新しい国で、新しい時代をともに生きていくことを模索した。19世紀半ば以降は、そこに移民の増大という社会変化が加わり、階層を越えたシスターフッドが展開することにもつながった。
 とはいえ、産業革命期に拡大する都市で女性が自立して生きていくことには困難が伴っていたこともまた事実であり、その厳しさゆえに女性たちの連帯が各地で生まれ、議論が交わされ、全国的なネットワークへと展開したのである。
 (注1) Arinori Mori, Education in Japan, D. APPLETON & COMPANY, 1873.(スタンフォード大学図書館デジタル資料を参照)森有礼の女性観、女子教育などについては、次の論文がある。長谷川精一「森有礼の女性観と女子教育思想」『相愛女子短期大学研究論集』40、1993年、51〜63頁。
(注2) 前掲1、191頁。
(注3) 上野千鶴子『家父長制と資本制─マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波現代文庫)などが参考になる。
 ※この記事は『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』からの抜粋です。
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 Text by Noriko Yuzawa 湯澤 規子
 1974年、大阪府生まれ。法政大学人間環境学部教授。「生きる」をテーマに地理学、歴史学、経済学の視点から、当たり前の日常を問い直すフィールドワークを重ねている。『在来産業と家族の地域史 ライフヒストリーからみた小規模家族経営と結城紬生産』(古今書院)で経済地理学会著作賞、地理空間学会学会賞学術賞、日本農業史学会学会賞を受賞。『胃袋の近代 食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会)で生協総研賞研究賞、人文地理学会学会賞(学術図書部門)を受賞。著書に『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』(KADOKAWA)『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか 人糞地理学ことはじめ』(ちくま新書)『「おふくろの味」幻想 誰が郷愁の味をつくったのか』(光文社新書)などがある。
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