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「日本人は、自然を愛し、自然を大事にし、自然を守ってきた」はウソで、特に反民族のリベラル左派とエセ保守が言うグローバル的アース・エコロジーはウソである。
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2023年7月14日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「猿の神さま」が「狐の神さま」のところに移される…南方熊楠が「神社合祀」に怒ったワケ
なぜ熊楠は完成を嫌ったのか?
驚くべき才能を多方面に発揮しながら、その仕事のほとんどが未完に終わった南方熊楠。最新の研究成果や新発見資料をとりあげながら、熊楠の生涯を辿り、その「天才性」と「未完性」の謎に迫る!
人生で一度も定職に就かなかった男の、5万8000字もある「履歴書」
本記事では、前編〈
人生で一度も定職に就かなかった男・南方熊楠の、5万8000字もある「履歴書」〉にひきつづき、神社合祀とは何なのか、なぜ熊楠は反対したのか、くわしくみていきます。
※本記事は志村真幸『未完の天才 南方熊楠』から抜粋・編集したものです。
神社合祀政策とは何だったのか
そもそも神社合祀とはなんだったのか。聞き慣れない用語かもしれないが、「合祀」とは複数の神社をひとつにまとめることをさす。地域内にいくつかある神社をもっとも大きな(あるいは古い/便利な場所にある/祭神が有力な)神社にまとめ、「合わせて」「祀る」から、合祀という。
もとの神社は壊され、神社林は伐採され、更地にされた。ここで問題となったのが、跡地や鎮守の森の木々を売却することで利益が発生した点である。しばしば有力者や官吏の汚職につながり、ひとびとの反対を押し切って合祀が進められる原因ともなった。
神社合祀政策がとられた理由はいろいろある。ひとつには、地方改良運動といって、日本の隅々まで天皇を中心とした、神道による国家運営を浸透させようとした政策があげられる。明治政府は神道を「国家の宗祀」と位置づけ、神社を通した国民統合を はかった。そのためには、小さくて得体の知れない神社が無数にあるような状況は好ましくなく、統廃合が推し進められたのである。
さらに、この政策にもとづいて神社にかかる費用が公的に支給されることになる。神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)と呼ばれるもので、神饌とは神への供物、幣帛は布などの捧げものをいい、各神社の祈年祭、新嘗祭、例祭に際して県知事から相当する金額が出された。
しかし、当然ながら全国すべての神社に支給することなどできない。なおかつ1894~95年の日清戦争、1904~05年の日露戦争には莫大な戦費がかかった。日清戦争では賠償金が支払われたものの、日露戦争ではアメリカ合衆国の介入もあり、賠償金が得られなかった。そのために神社の数を減らし、残った神社にのみ費用を出そうとしたのである。
1906年に第一次西園寺公望内閣で神社合祀の方針が打ち出され、当時の内務大臣であった原敬の出した勅令によって府県ごとに実施されていく。府県が主体となったため、全国一律に進んだのではなく、地域ごとにずいぶんな差が生じた。
なかでも、おおよそ旧紀州藩域(紀伊国)にあたる三重と和歌山で激烈であり、三重が全国でもっとも合祀が進んで、9割以上の神社がなくなった。和歌山では、熊楠の記録によると5819社あったのが、もっとも少なくなったときには442社まで減っており、やはり10分の1以下まで落ちこんだ。全国的には、政策が終息する1914年までに約20万社あった神社が約13万社に減少したと推計されている。
神社合祀は、おおまかにいえば地域(村、集落、地区)ごとにひとつの神社へと減ら すのを目標とした。「神社中心説」といって、地域のひとびとの心や活動のよりどころを神社が果たすべきだとする考え方による。中心となる神社には右のように幣帛料を支給し、神官が配置されるなどして、ますます政府/自治体と結びついていくことに なる。
いまでもそうした神社に行くと、このときに合祀された神社が境内にずらりと並んでいる。合祀によって名称を変更した神社も少なくなく、たとえば田辺市古尾にあり、
熊楠も関わった八立稲神社は、合祀された西八王子神社、八幡神社、出立神社、稲成神社の名称を合成したものであった。
みかんと神社合祀
神社合祀がかならずしも、「上からの圧力」だけではなかった点にも言及しておきたい。現在でも、宗教離れや神社離れが急速に進行し、祭の担い手が足りなくなったり、伝統的な神事が途絶えたりといったことが問題となっているが、明治末期にすでに同様の事態が起きていた。祭や神事には労力やお金がかかるし、コミュニケーション力も求められる。わずらわしいと思うひとたちが、当時から増えていたのである。
しかも、熊楠の父がまさにそうだったわけだが、江戸末期からの規制のゆるみと、明治以降に地域をまたいだ移動が解禁されたことにより、若者を中心に地域からひとびとが流出していった。
さらに生業の変化もあげられる。江戸期の農業の基本は米作であった。年貢は米で納入しなければならず、稲作がなかば強制されていた。しかし、明治以降はそうした統制がなくなる。紀州ではもともと江戸後期からみかん栽培が始まっており、現金収入が計算できることもあって、急速に柑橘類や梅が広まる。水田から果樹園へと、景色が一変したのである。そのなかで成功するひともいれば、落ちぶれて村を離れるひとたちも出る。社会の在り方が大きく変化しつつあったのである。
これが神社には大打撃となった。新しい労働力も入ってくるが、そうしたひとたちを伝統的な氏子集団が受け入れてくれるかといえば、そうではない。このような状況は、上越教育大学の畔上直樹による『「村の鎮守」と戦前日本――「国家神道」の地域社会史』(2009年) に詳しいが、風景という点でも、水田からみかん畑や梅林への切り替えは、大きな変化をもたらしていく。
稲作から果樹栽培(柑橘類・梅)への転換の影響は、それだけではなかった。神社が暦と密接に連関していた点を見逃せないのである。日本の暦は、稲作を前提につくられており、たとえば秋に大きな祭をおこなうところが多い。稲の収穫を感謝する神事だからである。
ところが、梅の収穫期は6月、柑橘類なら12月から3月にかけてとなる。稲作をしていたころとは生活のサイクルがずれ、祭からも収穫への感謝という意義が薄れていく。これらが合わさって、和歌山では神社合祀が極端なまでに先鋭化していったのであった。
怒る熊楠
図1。グリエルマ・リスターによるアオウツボホコリの記載図(南方熊楠顕彰館、田辺市)
それでは、いったいなぜ熊楠は神社合祀に反対したのか。熊楠が反対運動をスタートさせたのは、植物採集でこもった那智から離れ、田辺に移ったのちの1909年9月のことであった。
神社が合祀されるということは、神さまが引っ越したのと同じで、それまでの境内が空っぽになる。空っぽになったところは、そのまま残しておくことなどせず、転用される。田畑にされるなり、建物が建つなり、公園ができるなりして、従来の環境が潰されてしまう。熊楠にとってそれはみずからの研究フィールドが破壊されることを意味した。そのため、危機感を覚えて反対運動に立ち上がったのである。
熊楠が反対運動を始めた直接のきっかけは、近所の稲成村の糸田神社(日吉神社、猿神社とも呼ばれた)が合祀されたことであった。南方家から歩いていけ、鬱蒼とした神社林があり、お気に入りのフィールドのひとつとなっていた。
ここで熊楠はアオウツボホコリという変形菌(図1)を採取している。灰青色のきれいな姿をしており、それまで見たことのない種類であった。1906年12月23日にイギリスの変形菌研究者であるアーサー・リスターに送ったところ、1907年3月19日付の書簡で新種だと伝えられ、熊楠はたいそう喜んだ。
熊楠が発見した変形菌の新種の第一号となったのである。ところが、この書簡が日本の熊楠のもとに届いたのは4月5日。その直前の4月1日に糸田神社の合祀が決定し、同村内の稲荷神社に移されてしまったのである。翌年には境内も整理され、アオウツボホコリが発生していたタブノキの倒木も処分された(図2)。これが熊楠を怒らせたのであった。
やはり変形菌研究者だった、アーサーの娘のグリエルマ・リスターに宛てた1909年2月19日付の書簡では、「わたしたちに多数の変形菌の標本をもたらしてくれた猿の神さまは、狐の神さまのところへ移されてしまいました。ここの景色はやがて破壊されてしまうでしょう。二度とアオウツボホコリを採取する見込みはありません」と書かれている。糸田神社は猿を神のお使いとする。それが稲荷神社、すなわち狐のところに移されてしまったというのである。
これによって神社合祀のもたらす危険に気づいた熊楠は、和歌山各地で進む合祀に対して、果敢に反対運動を繰り広げていくことになる。
志村 真幸
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近代国家日本は、キリスト教の宗教侵略から天皇制度を守る為に無宗教の中華儒教的国家神道を創作し、ロシアや中国による軍事侵略を撃退する為に多くの神社を廃止して神域を没収しエネルギーにして兵器製造に注ぎ込み大陸軍と大海軍を創設した。
伝統的民族神話宗教は、積極的自衛戦争に勝つ事を最優先とした軍国主義政策の犠牲になった。
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無宗教の国家神道と伝統祭祀の皇室神道・宮中祭祀は、厳密に言えば無関係である。
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6月25日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「なぜ神社の「整理整頓」に反対したのか…日本初の「環境保護活動家」南方熊楠が守りたかったものとは
大山神社 (南方熊楠顕彰館、田辺市)
生物学から、人類学、民俗学、比較文化、江戸文芸、説話学、語源学......、ありあまるほどの才能を多方面に発揮し、さらに近年は「エコロジーの先駆者」としても注目が集まっている南方熊楠。
【写真】日本初の環境保護活動家・南方熊楠をご存知ですか?
1900年代初頭の日本では、複数の神社をひとつにまとめる「神社合祀政策」が押し進められていた。国家運営の観点と経済的な理由から明治政府が行った合祀政策に、当時全く考えられていなかった視点から反対した天才がいた。
(※本稿は、志村真幸氏の新刊『未完の天才 南方熊楠』を一部再編集の上、紹介しています)
前回記事はこちら『人類史上もっとも文字を書いた男・南方熊楠は、驚くべき才能を多方面に発揮しながら、なぜ、その仕事のほとんどが未完に終わったのか』
怒る熊楠
図 5-1 グリエルマ・リスターによるアオウツボホコリの記載図(南方熊楠顕彰館、田辺市)
それでは、いったいなぜ熊楠は神社合祀に反対したのか。熊楠が反対運動をスタートさせたのは、植物採集でこもった那智から離れ、田辺に移ったのちの1909年9月のことであった。
神社が合祀されるということは、神さまが引っ越したのと同じで、それまでの境内が空っぽになる。空っぽになったところは、そのまま残しておくことなどせず、転用される。田畑にされるなり、建物が建つなり、公園ができるなりして、従来の環境が潰されてしまう。熊楠にとってそれはみずからの研究フィールドが破壊されることを意味した。そのため、危機感を覚えて反対運動に立ち上がったのである。
熊楠が反対運動を始めた直接のきっかけは、近所の稲成村の糸田神社(日吉神社、猿神社とも呼ばれた)が合祀されたことであった。
南方家から歩いていけ、鬱蒼とした神社林があり、お気に入りのフィールドのひとつとなっていた。ここで熊楠はアオウツボホコリという変形菌(図5-1)を採取している。
灰青色のきれいな姿をしており、それまで見たことのない種類であった。1906年12月23日にイギリスの変形菌研究者であるアーサー・リスターに送ったところ、1907年3月19日付の書簡で新種だと伝えられ、熊楠はたいそう喜んだ。熊楠が発見した変形菌の新種の第一号となったのである。
ところが、この書簡が日本の熊楠のもとに届いたのは4月5日。その直前の4月1日に糸田神社の合祀が決定し、同村内の稲荷神社に移されてしまったのである。翌年には境内も整理され、アオウツボホコリが発生していたタブノキの倒木も処分された(図5-2)。これが熊楠を怒らせたのであった。
やはり変形菌研究者だった、アーサーの娘のグリエルマ・リスターに宛てた1909年2月19日付の書簡では、「わたしたちに多数の変形菌の標本をもたらしてくれた猿の神さまは、狐の神さまのところへ移されてしまいました。ここの景色はやがて破壊されてしまうでしょう。二度とアオウツボホコリを採取する見込みはありません」と書かれている。糸田神社は猿を神のお使いとする。それが稲荷神社、すなわち狐のところに移されてしまったというのである。
これによって神社合祀のもたらす危険に気づいた熊楠は、和歌山各地で進む合祀に対して、果敢に反対運動を繰り広げていくことになる。
『南方二書』で熊楠の訴えたこと
図 5-3 『南方二書』(南方熊楠顕彰館、田辺市)
熊楠は新聞に意見書を発表し、中央の議員たちや和歌山県知事に書簡を送りつけるなどして、反対運動を進めた。よく知られているのが、『南方二書』(図5-3)である。熊楠が自身のエコロジー思想を展開した文章として有名で、もともと東大の植物学者の松村任三に宛てて書かれたものの、熊楠が松村と面識がなく、柳田国男に仲介を頼んだところ、柳田が独断で小冊子として出版し、各方面の有力者に配布したものであった。
熊楠の手による原本は長らく所在不明だったが、柳田の秘書的な役割を務めた鎌田久子によって2004年に発見され、南方熊楠邸保存顕彰会(現在の南方熊楠顕彰館)に寄贈された(図5-4)。冒頭部には、柳田からの印刷所への指示書が貼り付けられ、つづいて熊楠の直筆部分となる。柳田がいなければ、この文章が広く知られることもなかったわけで、『南方二書』は熊楠と柳田の「合作」と呼べるかもしれない。
『南方二書』では、那智の神林の開発計画を皮切りに、和歌山各地で進む神社合祀が批判されている。植物学者である松村を意識して書かれたため、植物名が次々とあげられ、それらがいかに貴重であり、いま危険にさらされているかが訴えられていく。そのなかで、これまで鎮守の森や神林として手つかずのまま残されてきた空間が失われる危険が指摘される。
田辺に近い町にある王子、田中神社などについては、次のように書かれている。
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これらの大社七つばかりを例の一村一社の制にもとづいて、松本神社といって大字岩田の役場の真向かいにある小社、もとは炭焼き男の庭のなかの鎮守祠であったものを炭焼き男の姓を採って松本神社と名づけたものへ合祀し、跡のシイノキ林を濫伐して村長、村吏らが私利を取ろうと計って、大字岡の七八戸ばかりのうち、村長の縁者二戸の他はことごとく不同意であるのにもかかわらず[……]
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しかし、それを不満に思った村民が助けを求めてやってきたことで、熊楠は地元の新聞を通して反対の声を上げる。こうしたメディア戦略と、村人たちの抵抗により、八上王子の合祀はとりやめとなり、田中神社は合祀されたものの、木々の伐採は免れ、やがて復社、すなわちもとの場所に戻すことに成功した。熊楠の反対運動は、確実に効果を上げていったのである。
八上王子は熊野古道の九十九王子社のひとつに数えられる古社であった。田中神社は名前のとおり、水田のなかのこんもりとした社叢で、『南方二書』によれば「柳田国男氏が本邦風景の特風といった」場所であった(図5-5)。両社は現在も昔日の風景をとどめ、熊野古道をめぐる旅行者たちに人気の観光スポットとなっている。
ここで注目したいのは、熊楠が批判している理由が神社の木々の伐採にあった点である。八上王子のシイノキの林が切られてしまうのを、熊楠は気にかけていた。シイノキは木材としても使われるが、「炭焼き男」とあるとおり、木炭にしたのかもしれない。紀州は炭の名産地として知られ、田辺市秋津川には紀州備長炭発見館という施設があるくらいだ。いずれにせよ、合祀を進めようとした側(しばしば村長や役人など)は、神社合祀を上から命じられて実施していただけではなく、木材の利用価値にも目を付けていたのである。
明治維新は大量の木材需要を生んだできごとであった。東京をはじめ各地で次々と建物がつくられ、あるいは鉄道の枕木、火力発電所の燃料、船の用材と大量の木々が使われていく。和歌山でも紀州藩が管理してきた山林が国有林となったことで、1878年に官行業が開始され、多数の木々が切られ、海路で東京へ運ばれていった。1904年には高野山国有林に森林軌道が引かれ、1908年には熊野の奥深くに安川製板所が開設される。1911年には富里和田川(現在の田辺市)や田辺の南のに製板所ができた(土永知子らの研究による)。木材がお金になることが広く知られていったのである。もちろん神社がなくなった跡地にも、建物を建てたり、農地に転用したりとさまざまな「私利私益」の可能性があった。
熊楠が植物学者の白井光太郎に宛てた書簡(1912年2月9日付)に同封された原稿「神社合祀に関する意見」で、西牟婁郡川添村(現在の白浜町)で
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一四社を滅却伐木して市鹿野の大字にある村社に合祀し、[……]実際神林を伐りつくし、神殿をつぶし、神田を売却して
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と述べているとおりである。
熊楠は村人たちの心のよりどころとしての神社というだけでなく、神域に生えている植物が失われることにも憤っていたのである。
(つづく)
志村 真幸
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