🌏17)─2─西洋哲学・近代啓蒙思想と儒教が日本思想、国家神道、愛国・修身・道徳、皇国史観を作った。~No.56No.57 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の近代化とは、無神論啓蒙思想・西洋哲学と中華儒教で日本の表舞台から国学神道や仏教などの宗教を排除する事であった。
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 日本民族は、創り主である絶対神と信仰の契約をして奇跡と恩寵を受けるという普遍宗教などには魅力を感じないどころか興味も関心も薄かった。
 「人は信仰を持つ」という教養に対する世界の常識からすると、日本人は無宗教といえる。
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 2022年1月号 WiLL「たたかうエピクロス  古田博司
 日本神道の危機はひとまず回避された
 ──小室圭さんと眞子さまの結婚
 低きを高め、高きを低めよ
 ある読者から、小室圭さんと眞子さまの結婚について、分かることを教えてほしいという問いかけがあったので考えてみようと思ったのだが、神道を宗教としている者として、祭司長家に不敬があってはならないので、よほど筆に注意しなければならない。ただ眞子さんに役立つことを真っ先に申し上げれば、これは階級を降りる行為であり、ルターのマグニフィカートで言えば『低いを高め、高きを低めよ。神は最も高みにいるので低きしか見ない』というところの低きに身を置くことになったということである。
 ……
 シモーヌ・ヴェイユが良いことを言っている。
 『不幸は人を高貴にするものではないということが、わたしたちにはなかなか想像できない。というのは、わたしたちが不幸のことを考えるとき、その人の不幸のことを考えているからである。ところが不幸な人は、自分の不幸のことなど考えていない。とにかく、なんでもいい、どんなにささいなものでもよいから、切に慰めとなるものを願い求め、それだけで心がいっぱいになっているのである』(『カイエ』2、みすず書房、1933年、31頁)。
 ……
 かつて2003年6月の韓国大統領宮中晩餐会で、私は今の上皇后さまにお会いしたとき、お体から神の気が立ちのぼるのをたしかに視たのである。私自身が慄(おのの)いたので妻にもすぐ知れた。上皇后さまは神の情けを享(う)けられた方であり、この方ある限り、皇室はそのたびの危機を乗り越えられるだろうと、私には思られる。 
 階級社会を昇降する者たち
 出のわるい人、育ちのわるい人に最も欠けているのは、『良い人を見たことがない』ということである。……ここで良い人というのは、正直上流階級の人のことであり、付き合ううちにどんなに傲慢か知れてやがては離れることになるかもしれないが、とりあえずこの人たちを見ることである。……
 政治家でも、『下』の階級から上がってきた人たちがいる。橋下徹氏と河村たかし氏など。どんなに苦痛だったか、私にはよく分かる。河村氏など、若い頃はガラッパチで根は良い人に見えたが、年を取るにつれてえげつなさが残ってしまい、人のオリンピック金メダルをかんだ。あんなことくらいは許してあげればよいものを、と私などは思うのだが、それは同じような境遇ゆえで、上の方の階級の人たちには許せなかったのだろう。
 これからの時代はもっと冷酷で殺伐として、えげつなくなるから、ハードルを少し下げることを『上の下』階級の人たちにお勧めしておきたい。
 『低き』への降嫁の発端
 変異系のコマをはじめて視たのは、1990年、私が下関市立大学に勤務していた時だった。ここは九州大学経済学部の植民地のようなところで、経済学部は2名を除いて全員マルクス学者だった。……
 みんなが経済学会で知り合いだったらしく、大したはしゃぎようだった。もっとも経済学者といえば、70年代まではほとんどがマルクス経済学者であり、80年代から米国流の数学を使った経済学の留学組が帰ってきて、90年代前半で教授の数がやっと逆転する。それでも文系全体ではマルクス学者の方が多かった。この頃私は筑波大に移ったのだが、授業で朝日新聞の悪口を言うと、刃こぼれするように怒った学生たちが教室を出て行ってしまったものだ。
 朝日新聞のことを話して、学生がゲラゲラ笑うようになったのは、90年代の後半からである。この頃にはもう、経済学部にマルクス経済学の講義はほとんどなくなっていた。一橋大や大阪市大くらいだったろうか。
 ……
 日本知識人の反神論の教義問答
 オレゴン州立大学教授マレー・ウルフソンに、『ユダヤマルクス』(堀江忠男訳、新評論、1987年)という題の、じつに嫌な本がある。『嫌な本』というのは、著者自身がマルクスの憎悪にシンクロし、それが『ユダヤ人としての自己嫌悪だ』と、解明しているからである。行間からは、ウルフソン自身のユダヤ人嫌いまで蒸れて立ちのぼってくるようである。
 1976年から2年間、フルブライト派遣の講師として、日本の大学で講義を行い、堀江忠男氏の早大大学院経済研究科滞在の折に、この本をまとめたという。はしがきが面白い。
 『マルクス主義が学界でなぜいつまで残存しているのかを説明しなければならぬ立場に追いこまれたとき、日本人の同僚たちは「マルクスは正しいという事実を、われわれは直視しているにすぎない」──こう答えるのが筋なのだろうが──あっさりそういうことはめったになかった。・・・次のように言った人物もある。──日本を大崩壊に投げ込んだ軍国主義勢力に反対した学者たちを、アメリカ占領軍が支持したからだ、と。マルクス主義は大学に立てこもって、日本社会の大学を基盤としたエリート制度における儒教風の教義問答の一つになった、というわけだ』
 もちろん最後の部分は皮肉で、その後にマルクス主義は選良を分けるふるいだとまでいう。私が面白いと思ったのは、そこではなく、日本の儒教マルクス主義を同じ地平で、すなわち教義問答だと見ている点である。その共通点は、無神論だということであろう。儒教は『怪力乱神を語らず』、マルクス主義は『宗教はアヘンだ』という。
 近代期の知識人の無明
 この19世紀の無神論と20世紀の無神論の間で、日本の知識人はどう動いていたのだろうか。渡辺浩氏は、『明治革命・性・文明』(東京大学出版会、2021年)で、儒教や武士の間で、すでに脱呪術化や脱宗教化が進行していたという。1881年、福沢諭吉は仏教への対抗として幽冥(ゆうめい)の説を駁(ばく)するようになったと言い、1906年、山路愛山神道や仏教を愚民向けの治世の術、キリスト教もそのたぐい解した。1872年、岩倉欧米視察団の佐々木高行は、それでも大統領までキリスト教の寺に行く真面目さに感嘆し、抜群の人民統制の道具だと評した(455~456頁、462頁)。
 1886年、維新政府に仕えた西村茂樹は、『我が国のような国は、すでに至貴至尊の皇室があるから、民心をすべてこの皇室に向かわせれば、国の強固と安全は求めなくとも得られる。どうして宗教の力をかりる必要があるだろうか』(470頁、現代語文は古田)と言い、伊藤博文は1888年、大日本帝国憲法草案審議の枢密院第1回の冒頭で、日本では『宗教ナル者』が弱く、『機軸』たりえない。そこで『皇室』をキリスト教の代用物とせざるを得ない(438頁)と、『君権』を最大限に尊重する方針を取ることにしたのだった。
 だが、私に言わせれば、彼らは重大なことを見落としていたのではなかったか。彼ら初期明治政府の指導者にとって、あくまで『仮面』であった皇室崇拝の下に神道の『祭司長』という本当の貌(かお)があった。神道は宗教であり、祭場と儀式をその根幹として、祭司長が魂降ろししなければならないという、宗教の常識を彼らは知らなかったということである。
 また無神論を始めた知識人
 その間の西洋哲学の日本への流入については、本連載の21回にまとめて書いておいたのだが、もう一度簡単に振り返っておこう。明治の初期、1889年代が画期で、このとき英米より入り来たった哲学が、どんどんドイツ流にかわってしまった。実利主義、有用主義の英米から、ドイツ観念論への転換である。この時代が、先ほどの皇室崇拝に政府方針が固まる時代に重なる。
 その後マルクス主義は、まず勉強のできる知識人ならばみんなが感染した。だいたい、三木清あたりの1930年代から広まり、戦後は全国的に広まった。もちろん知識人だけである。庶民はそんなものには免疫があった。神道や仏教である。上流階級には、キリスト教徒に内村鑑三が出て後光が射したが、人口的にはごくごく僅少(きんしょう)だった。
 結局、日本知識人は、江戸後期から20世紀丸々、200年ほどを無神論の方が窮理(きゅうり)の学、そして科学に近いものだ、宗教は迷信だ、アヘンだと、誤り続けたのだった。日本の哲学者たちは、『深入りすると、宗教になってしまう』と恐れ、〈じぶんで考える(セルブストデンセン)〉ことを止めた。
 ……
 ……こんなにリベラル教徒(進歩派)の多いところで大丈夫なのかと、私などは危惧した。もちろんマルクス主義者もリベラル教徒も、無神論で、こちら側に『普遍』があり、人間は唯物論の法則で進化すると、固く信じている。この普遍信仰は私が進歩史観とともに、論理的に葬っておいた。
 日本神道に起こった出来事
 ……
 先ほども述べたように、宗教の根幹は祭場と儀式である。それを国費から私費に変えようというのは、つまり簡素化であり、それは宗教心の弱体化を意味するのであり、私には日本神道にはあってはならない危機が到来したように感ぜられたのである。確かに秋篠宮家に何かが起こっている。それはおそらく、人間中心の学の行き過ぎによってもたらされた『無神論』の侵入であろう。私ごときが直観で捉えたのであるから、おそらくあの方はもっと強いロゴスを享(う)けられたことと推察する。
 そして2021年、10月26日、眞子さんと小室圭さんとの結婚という出来事が起こった。すべての儀式を省略した、本人たち中心の『低き』への降嫁である。……」
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 日本の啓蒙思想儒教に似ている点は「無神論」で、それは反宗教無神論マルクス主義共産主義にも通じている。
 3者に共通するのは、3者とも教養人、知識人、エリート、インテルで、宗教を持つ人間を愚民と軽蔑し差別し見下している。
 国家神道とは、イデオロギーであって宗教ではなかった。
 啓蒙思想儒教は軍国日本建設と軍国主義政策推進の為に、宗教統制という宗教弾圧をおこなったのが廃仏毀釈と神社合祀であり、修身教育としておこなったのが大日本帝国憲法教育勅語軍人勅諭、国體の本義、その他であった。
 マルクス・レーニン主義に対して、中華主義が強い儒教は親和性を強めて接近していったが、天皇主義で日本化した啓蒙思想は相容れなくなり反発し敵対し保守主義民族主義国粋主義に傾いていった。
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 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、戦国時代における中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
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 明治天皇昭和天皇の歴代天皇昭憲皇太后貞明皇后の歴代皇后は、親ユダヤ派として、国内外で数多くの人道貢献や平和貢献を続けていた。
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 啓蒙思想(英: Enlightenment、仏: Lumières、独: Aufklärung)とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。その主義性を強調して啓蒙主義(けいもうしゅぎ)ともいう。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光で照らされること」である。自然の光(ラテン語: lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味である。
 時代的に先行するルネサンスを引き継ぐ側面もあり、科学革命や近代哲学の勃興とも連動し、一部重複もするが、一般的には専ら(経験論的)認識論、政治思想・社会思想や道徳哲学(倫理学)、文芸活動などを指すことが多い。17世紀後半にイギリスで興り、18世紀のヨーロッパにおいて主流となった。フランスで最も大きな政治的影響力を持ち、フランス革命に影響を与えたとされる。ヨーロッパで啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のことを啓蒙時代という。
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 比較ジェンダー史研究会事務局
 国立大学法人奈良女子大学
 生活環境学部 三成研究室
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 【解説】啓蒙主義の比較(英・仏・独)(三成美保
  HOME世界史Ⅱ9.18世紀ヨーロッパ(啓蒙の世紀)9-1.啓蒙の世紀と公私二元モデルの形成【解説】啓蒙主義の比較(英・仏・独)(三成美保
 啓蒙主義の比較(英・仏・独)
 三成 美保(出典:三成美保ジェンダーの法史学』勁草書房、2005年)
[1]イギリスとフランス
 啓蒙主義は、1680年代から18世紀末のほぼ1世紀にわたり、全ヨーロッパ規模で展開した知的運動であり、社会運動であった。しかし、その性格は一様ではない。批判の対象とされた政治体制や宗派のあり方が、国により異なっていたからである。
 イギリスでは、啓蒙主義は、比較的穏健な政治運動として展開した。1688年の名誉革命は、宗教戦争と絶対主義の終焉を意味した。こののち、自由主義プロテスタンティズムとむすびついたイギリスの啓蒙主義勢力は、既存勢力と妥協しながら、けっして急進化することなく、議会制の拡充をもとめていくことになる。
 フランスでは、王権が文芸を積極的に保護した17世紀にすでに、デカルト科学的精神に触発された反権威主義的な批判的精神もまた芽生えはじめていた。ナント王令の廃止(1685年)は、この批判的精神が、王権やカトリック教会にたいする攻撃へと転ずる直接的なきっかけとなる。フランス啓蒙主義は、反絶対主義、反教権主義という性格を色濃く帯びていたのである。
[2]ドイツ
 これにたいして、ドイツ啓蒙主義には、つぎのような固有の特徴がみとめられる。①イギリス・フランスから継受された啓蒙主義、②宗派分裂と政治的分裂の影響、③啓蒙絶対主義との親近性、④「学術的」akademisch性格である。
 ①啓蒙主義がイギリスやフランスからの継受としてドイツに移入された結果、ドイツの啓蒙主義者たちは、啓蒙先進国としてのイギリス・フランスの出版物や政治的事件につねに注意をはらいつづけた。しかし同時にそれは、宮廷を支配したフランス文化に対抗して、ドイツ語の洗練化をはじめとするドイツ独自の文化を樹立する運動をも促進した。
 ②宗派分裂と政治的分裂は、二つの特徴をはぐくんだ。まず、宗派分裂を反映して、ドイツ啓蒙主義の最大の関心は、政治・社会問題にではなく、宗教問題におかれた。当初から、啓蒙主義は、プロテスタントや敬虔主義と密接なつながりをもって展開する。一方、政治的分裂は、啓蒙主義の文化的中心が分散するという結果をもたらした。ロンドンやパリのような情報や人が集中する拠点を欠くドイツでは、各地の都市に在住する知識人のあいだを媒介する文字情報がいっそうの重みをもったのである。
 ③ドイツ啓蒙主義は、啓蒙絶対主義と妥協しながら展開した。一部は「政治化」Politisierungしたが、それは秘密結社を母胎に強まったにすぎない。全体として、ドイツ啓蒙主義は、君主制の転覆はめざさず、むしろ、啓蒙精神を政治にとりいれ、啓蒙主義者を国政に参加させることを要求した。そのかぎりで、君主による「上からの啓蒙化」に積極的に貢献したのである。
 ④ドイツの啓蒙主義は、フランスやイギリスとくらべて、対話よりも読書を重視する傾向が強く、その意味で「学術的」性格が強かった。学術的文字情報の媒体が、新高ドイツ語である。17世紀半ば以降、官房ドイツ語とルター・ドイツ語がまざりあって生まれた新高ドイツ語は、そもそも、民間の口語からは意識的に距離をおく荘重華麗な文章用語であることをめざした。啓蒙期には、この高尚な文語的共通言語が、印刷物の標準言語とされ、啓蒙人の討論・談話・書簡用語となる。農民にとって、新高ドイツ語は、「ハレ」の言葉としてまったく無縁ではなかったとはいえ、日常言語にはなりえなかった。農民は、啓蒙主義の担い手たりえず、「民衆啓蒙」の対象にとどまる。啓蒙主義の学術化に対応できたのは、書籍・雑誌の媒体となった新高ドイツ語を自在にあやつれる階層、すなわち、一部の貴族と、都市在住の学識層・官僚、上層市民に限られていた。ドイツ啓蒙主義は、「インテリ啓蒙主義」Gelehrtenaufkla”rungnにほかならなかったのである。
 翻訳(Translation)
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 日本思想(英: Japanese philosophy)は、日本の哲学・思想のこと。日本哲学とも言うが、近現代の日本人による哲学を指すことが多い。太古にはアニミズムシャーマニズムとしての神道があったが、仏教、儒教、西洋思想の伝来によって習合・混合し、日本特有の思想風土が出来上がっていった。
 研究史
 「日本思想史」の形成
 日本思想が学術的な考察の対象に上ったのは明治時代以降のことである。戦前の代表的な思想史家として津田左右吉村岡典嗣和辻哲郎などがいる。
 儒教と国民道徳論
 「文明開化」に伴って、明六社福沢諭吉西周らによって西洋思想、西洋哲学の輸入が盛んに行われた。その中で、欧化主義に対して日本の伝統思想を回顧する動きも現れ、国粋主義国家主義者たちは国民道徳論を唱えた。東京帝国大学で西洋哲学の普及に努めた井上哲次郎は、朱子学陽明学、古学といった日本儒教・江戸儒学の研究を始め、西村茂樹も西洋哲学と伝統思想を融合した『日本道徳論』を著した。エドマンド・スペンサー社会進化論を紹介した加藤弘之らは啓蒙思想を批判する国権主義に走った。元田永孚儒教天皇崇拝を一体化させた「教育勅語」を起草した。
 ナショナリズム
 歴史学者津田左右吉は、日本古代史や『論語』の文献研究で知られるが、『文学に現はれたるわが国民思想の研究』を著して、初となる本格的な日本思想の通史的叙述を行った。自由主義的なナショナリストであった津田には『支那思想と日本』の著作もあり、中国が日本思想に与えた影響を否定することに力点を置いていた。村岡典嗣は『日本思想史研究』や『本居宣長』の著作があり、日本思想の文献学的研究を行った。村岡は宗教哲学者者の波多野精一から大きな影響を受けており、日本思想の中の宗教哲学の探求を動機として、江戸時代後期の国学者平田篤胤に日本伝統思想における宗教哲学の完成を見出していた。村岡典嗣の活躍した東北帝国大学では、西田直二郎の「文化史学」が興隆し、石田一良、佐藤弘夫らを輩出した。

 明治維新から自由民権運動まで
 「幕末期の文化」、「大日本帝国」、および「日本近代史」も参照
 近世日本思想が儒教と仏教の中で発展したのに対して、急速に西洋思想に影響を受けた明治維新の後にイギリスの啓蒙やフランスの人権が流行した。これは、横井小楠福沢諭吉近代主義に代表されて現出した。日清戦争及び日露戦争の時期から、日本の資本主義がよく発展した。キリスト教社会主義が発展し、様々な社会運動と結びついた。また、ナショナリズム的な思想・学問が外国の学問に反発しつつ形成された。
 啓蒙と人権
 明治維新において、イギリスとフランスの市民社会、特にイギリスの功利主義および社会的ダーウィニズム、フランスの国民主権ジャン=ジャック・ルソーが紹介された。
 明治初期の思想家は西洋の市民社会の中でもイギリス的な啓蒙を唱えた。彼らは日本の伝統的な権力や封建社会を批判しようとした。しかし、彼らは結局政府と迎合して抜本的でない上からの近代化を受け入れた。1873年に、森有礼明六社を結成した。この文化的会合に参加する人々は実学重視、人間の特徴を実践的につかむこと、国情に合った政府の形成を理想とすることといった点を共有していた。森有礼は文部卿として国民教育の普及に努めた。横井小楠は、幕末に実学党を結成して門閥制度に代わる能力主義や共和思想を反映し、儒学朱子学の流派に影響された実学を提唱した。
 福沢諭吉は科学技術やアレクシ・ド・トクヴィル、英国文明論を日本に紹介して、自然権は当然人権が天賦のものであることであると唱えた。彼は文明の発展は人間の精神の発展であり、人の独立は国家の独立を導くと考えた。「便宜のために」政府は存在し、その出現は文化に見合ったものであると福沢は考えた。政府の唯一の理想的な形など存在しないと彼は言った。また、日本は列強に対抗して大陸へと対外進出するべきだと彼は主張した。西周は人の振る舞いはその人の持つ関心に基づくと断言した。加藤弘之は社会的ダーウィニズムの影響のもとで自然権を放棄し、代わりに適者生存を唱えた。
 明六社のメンバーは結局政府と人民の調和を唱えたが、民主思想家はフランスの基本的人権を吸収し、西南戦争後に明治寡頭制に対して言論によって国民が反抗・革命を起こすことを支持した。1874年に、板垣退助民選議院設立建白書を提出した。このことが自由民権運動として日本中に広まった。植木枝盛は板垣を支持して基本的な草稿を作成した。ルソーに強く影響されて、中江兆民主権在民と個人の自由を主張した。しかし、日本の状況を考慮して、彼は立憲君主制の重要性に言及している。彼によれば、大日本帝国憲法は議会によって徐々に改正されるのが望ましいということであった。・・・
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 ドイツ啓蒙主義とフランス啓蒙主義の性格 : 神と存在論
 Uber EinfluB der franzosischen Aufklarung auf die Deutschlands : Gott und die Ontologie
 渡邉 直樹
 WATANABE Naoki
 宇都宮大学国際学部
 THE FACULTY OF INTERNATIONAL STUDIES, UTSUNOMIYA UNIVERSITY
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 抄録
 この論文は、ドイツ啓蒙主義固有の性格について主にフランス啓蒙主義との対比において考察したものである。18世紀の初め、ドイツ啓蒙主義の展開はベルリンにおいて最も進んでいた。この発展に寄与したのが、フリードリヒ二世であり、彼はフランス啓蒙主義者たちをベルリンに招聘することによって、ベルリンをパリ以上の啓蒙主義の中心地たらしめようとした。しかしながら、フランス啓蒙主義が政治的方向においてその実際的思想を発展させたのとは異なり、ドイツ啓蒙主義は神学と宗教・哲学的分野、人間の内面性においてその発展的思想を形成した。本論は、デカルトに始まる近代の合理主義者たちの神学における神と存在論の解釈とドイツの代表的啓蒙主義者レッシングの思想を踏まえつつ、このドイツ啓蒙主義固有の宗教的・神学的性格の基本原理を分析したものである。
 収録刊行物
 宇都宮大学国際学部研究論集
 宇都宮大学国際学部研究論集 6, 17-26, 1998-06-30
 宇都宮大学
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 日本民族は、自然を崇めその恵みに感謝する崇拝宗教=神道を信じていたが、それは自然神の恩寵・奇跡・慰め・癒しを期待しての信仰ではなかった。
 宗教が世界で言われるような全知全能の唯一絶対神による啓示宗教・福音宗教、戒律・教義宗教、信仰宗教、恩寵・奇跡・癒し宗教、施し宗教、教団宗教であるとするのなら、日本には宗教は存在しない。
 日本民族が受け入れる以前に、日本列島には馴染まなかった。
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 国家神道は、近代天皇制下の日本において作られた一種の国教制度、あるいは祭祀の形態の歴史学的概念である。 皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立つ総本山とし、国家が他の神道と区別して管理した「神社神道」(神社を中心とする神道)を指す語である。
 1945年(昭和20年)のGHQによる神道指令において「国家神道」の廃止が命じられており、「国家神道」という言葉はこの時に初めて一般に広まったものである。

 憲法政治下での神社の立場
 靖国神社
 近代化を進めるにあたり、日本が手本とした欧米においては、社会制度を安定に保つ基軸としてキリスト教の存在が重きを占めていることが注目され、明治初期にはキリスト教を国教化することが言論界を中心に提案されていた。一方、帝国憲法制定時、伊藤博文をはじめとする政府高官は、キリスト教のみならず仏教や神道についても、日本社会の基軸とするには力不足であるとの認識であった。
 結局、国家の基軸は皇室に求められ、神道を含めた各宗教は明文上は特別の扱いを受けなかった。
 また、明治維新の直後の一時的な神社重視の政策は、ほどなくして反転、神社の統廃合や「民営化」を促す方向へと舵を切る。まず、維新時に神社の多くは一時的な補償金と引き換えに境内地の多くが国庫に帰属しており、明治9年(1876年)からは教部省の指導で無格社や仏堂の整理を開始。明治17年1884年)末までに伊勢神宮および一部の官国幣社(約150社)を除いたほとんどすべての神社が自立経営を求められた。
 明治20年(1887年)からは官国幣社への支出も15年分割の「基金」という形で徐々に減額し、最終的には、伊勢神宮靖国神社、忠魂社を除いては祭典時に神饌幣帛料が供されるのみとなる予定であった。これについては神職らが運動を行い、明治39年1906年)、官国幣社に対しての経費支出は継続することとなった。
 しかし同年、一町村一社を原則に統廃合をおこなうとする「神社合祀令」が出された。同年以来、内務省は数年間かけて神社の整理事業をおこなった(神社整理)。合祀が著しかったのが三重県和歌山県で、三重県の6500社の神社が7分の1以下に、和歌山県の3700社の神社が6分の1以下に合祀された。最初の3年間で全国の4万社が取り壊された。1913年頃に事業はほぼ完了し、社数は19万社から12万社に激減した。この措置には、地域の氏神信仰に大きな打撃を与えるなどの理由で反対意見も多く出された。民俗学者博物学者の南方熊楠は『日本及日本人』などで10年間にわたって反対運動をおこなった。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「廃仏毀釈」の解説
 廃仏毀釈 はいぶつきしゃく
 一般には仏教を廃毀し,僧侶を排斥する宗教政策,運動,思想をさす。インドでは前2世紀バラモン教のプシャミトラによる仏教徒迫害,13世紀初めのイスラムの侵入によるものがあるが,中国では3世紀以来廃仏の動きがあり,唐の韓愈や宋以後の朱子学派の廃仏論はきびしく,かつその影響も大きかった。中国仏教史で「三武一宗の法難」といわれるのは有名である。これは,北魏の太武帝北周武帝,唐の武宗,後周の世宗によって行われた廃仏をいう。日本で廃仏思想が表面化してくるのは江戸時代末期,神道儒教の学者が神国思想を鼓吹するようになってからで,寺院や仏像の破壊が行われた。特に明治維新後政府によって神仏分離の政策がとられると,多年仏教によって圧迫を受けてきたと考えていた神職者たちは,仏教を排撃し,各地で仏像,経巻,仏具の焼却や除去を行なった。しかしこれらの廃仏運動は,むしろ仏教覚醒の好機であり,日本近代仏教は廃仏毀釈をてことして形成されていった。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 ウィキペディア
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 しんぶん赤旗 日本共産党
 廃仏毀釈とは? その後の神道と仏教の関係は?
 〈問い〉 奈良の山辺の道沿いに、法隆寺に匹敵するお寺が明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で壊されたという跡がありました。廃仏毀釈とはどんなものだったのですか? その後、神道と仏教の関係は?(埼玉・一読者)
 〈答え〉 廃仏毀釈(棄釈)とは、明治維新政府の神道国教化政策にともなっておきた仏教の抑圧・排斥をさします。
 1868(明治元)年3月、新政府が「祭政一致」の立場から神道の国教化をはかり、一連の神仏分離令をだしたのを契機に、政府が設置した神祇官(じんぎかん)や各地の神職に扇動された勢力が寺院を襲撃し、僧侶資格を奪うなど、仏教にたいする排撃運動がおこりました。寺院の廃止や仏像の破壊、仏事の禁止などもおこなわれました。奈良の興福寺では、五重塔を解体し薪(まき)として売却しようとする企てもすすめられました。それまで神仏習合(神と仏教とが混ざり合っていること)だった多くの神社では、仏教的なものをひきはがす動きがひろがりました。
 こうした仏教排斥にたいして、真宗門徒などの廃仏反対運動が起こり、政府も廃仏毀釈は朝廷の望むところではないと弁解するなど、政策的な手直しにつとめ、この騒動は鎮静化にむかいました。こうして神道国教化政策は変転しますが、政府は1872(明治5)年4月には、通達で仏教寺院に神道の布教を命ずるにいたります。
 その後、明治政府は、軍人勅諭(82年)、明治憲法(89年)、教育勅語(90年)によって、全国民に神格化された天皇への崇拝と神社参拝を強要しました。国家神道体制のもとで格付けされた神社の上級神職は公務員化しました。
 僧侶の多くは、仏教の教えとともに天皇への忠誠を説きながら、旧檀家(だんか)制度に依拠して寺院と教団を維持しました。国家神道体制のもとで、日本は軍国主義侵略戦争の道を歩み、戦時体制下では「皇道仏教」も主張されました。
 国家神道体制は第2次大戦の敗北で破たんします。祭政一致専制天皇制の否定にたち、内心・信教の自由と政教分離の原則が明記された現憲法が成立しました。国家から分離された多くの神社は、神社本庁を結成し、仏教寺院と対等の宗教法人となって現在にいたります。神社本庁指導部は神道国教化をふくむ改憲運動を推進しています。
 神道の束縛から解放された仏教では今日、靖国神社への首相の公式参拝に反対し、平和の声をあげている伝統仏教教団が少なくありません。(平)
 〔参考〕藤谷俊雄「国家神道の成立」(『日本宗教史講座』第一巻所収)三一書房安丸良夫『神々の明治維新岩波新書
 〔2008・11・15(土)〕
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 1847(弘化4)年 マルクスエンゲルスは、プロレタリア革命を広める為に共産主義者同盟の綱領を起草して、共産党宣言を行った。
 マルクス主義社会主義共産主義の歴史は浅い、新しいイデオロギーである。
 1922(大正11)年 ソ連コミンテルンは、天皇制度を打倒して暴力革命を起こす為に日本共産党を結成させた。
 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、人道貢献や平和貢献を行っていた昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 ウィキペディア
 神社合祀とは、神社の合併政策のことである。神社整理ともいう。複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の摂末社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす。
 明治末期の神社合祀
 目的
 神社合祀の目的は、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させることにあった。また、教派神道は宗教として認めるが、神社は宗教ではなく「国家の宗祀」であるという明治政府の国家原則(宗・政・祭体制)に従って、地方公共団体から府県社以下神社に公費の供進を実現させるために、財政が負担できるまでに神社の数を減らすことにもあった。
 この政策は内務省神社局が主導したが、同省地方局の関与もあったらしい。というのも、地方局は合祀の目的の一つである地方公共団体からの府県社以下神社への公費供進を認めるのを地方公共団体にさらなる財政負担を求めるものとして消極的だったが、それを認める代わりに地方自治政策の一環としての神社中心説を神社合祀政策に盛り込んだのであった。
 神社中心説とは地方の自治は神社を中心に行なわれるべきだという考えのことで、これにより合祀政策に一町村一神社の基準が当てはめられることとなった。神社の氏子区域と行政区画を一致させることで、町村唯一の神社を地域活動の中心にさせようとしたのである。
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 2021年5月3日 読売新聞「「日本人のアニミズムは何でも取り込み、民主主義も仏教も日本化させます。日本はアニミズムとハイテクが融合した稀有(けう)な文明です」。東京都台東区浅草寺で。後方に東京スカイツリーが見える=鈴木竜三撮影
 啓蒙思想を「日本化」出来た「超多神教」の社会…「つまみ食い」した中国は「異端児」
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 カトリック教会の総本山、バチカンでかつて日本大使を務め、宗教や文明と政治の関係に詳しい上野景文氏に聞いた。(国際部次長 柳沢亨之)
 「啓蒙思想教」とキリスト教。バトルが激しい米国はある意味健全
 米国を通して何が見えるかという話から始めます。新聞やテレビで「米国は分断している」と言われます。「分断」には二つの側面があります。一つは経済や教育など世俗的な要因による分断です。二つ目は文明や宗教から来る分断です。この二つ目の方を見たいと思います。
 米国の分断を見るために有効な補助線は「啓蒙けいもう思想」です。啓蒙思想の受け入れに前向きな人たちが一方にいます。他方に、啓蒙思想の受容に消極的な人たちがいます。つまり、啓蒙思想が出てくる前の17世紀頃のキリスト教的価値観の方がいいと思う人たちです。
 啓蒙思想は「世界の中心」だった神を棚上げし、そこに人間を持ってくることで、「神中心主義」から「人間中心主義」への転換を導く考え方です。宗教を封じ込める世俗主義の思想です。
 米国では「人間中心主義」の新しい文明観と「神中心主義」の旧文明観の間で綱引きが行われています。文明的には米国は二つあると言えます。「二つの米国」は長年、すみ分けてきました。太平洋・大西洋の沿岸部分は大体、新文明派で、内陸部は旧文明派です。
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 米国の沿岸部の人たちは、脱宗教を志向する北欧やベネルクス3国、フランスに近いです。LGBT(性的少数派)の権利を訴える超現代的な人たちです。米国は21世紀と18、19世紀の意識が同居した社会です。
 フランスや北欧にも文明の対立はありますが、新文明派が圧倒的に強い。逆に周縁部では旧文明派が強く、啓蒙主義志向のEUに反発します。中間がイタリアで、米国と同様、新文明と旧文明の力関係が伯仲しているため、衝突のエネルギーが大きくなります。
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 啓蒙思想には、個人の自由を絶対視する「自由教」のほか、「人権教」、「民主主義教」、公の場所から宗教を締め出すフランス式の「ライシテ(政教分離)教」、科学を信仰する「科学教」があります。啓蒙思想の人たちはこれらの正義を奉ります。
 キリスト教は仏教や神道と違って、絶対的な善や悪へのこだわりが非常に強い。啓蒙思想は、キリスト教の鋳型と宗教的な情熱をそのまま引き継いでいます。一言で言うと、啓蒙思想は宗教です。米国では今、「啓蒙思想教」という宗教とキリスト教という宗教とがバトルしています。わかりやすく言うと、「宗教戦争」です。
 このバトルが激しいことは米国の特徴で、ある意味で健全です。西洋では米国で例外的に伝統主義派が元気です。西洋で啓蒙主義派の攻勢に対する防波堤役を担っているのは、バチカンと米国の伝統主義派です。
 「分断」とは、一つにまとまっていたものが分かれることです。米国は元々一つでないので、分断という概念そのものが間違っていると思います。新旧文明の勢力が伯仲する米国では、勢いづいた方が選挙で勝ちます。先の大統領選では、新文明派に風が吹きました。4年後や8年後には逆の方にシフトするかもしれません。二つの文明は、共和、民主の2大政党と表裏の関係にある感じがします。
 フランスの「宗教たたき」。中国共産党の発想が似ている
 「ライシテ」のフランスは、言論の自由を絶対視し、それが宗教を冒とくしたとしても意に介しません。フランスは「啓蒙思想教」の元祖のような国で、フランス革命以降ずっとカトリック教会を締め上げてきました。「宗教たたき」の対象は、初めはカトリック教会でしたが、今はイスラムです。イスラムが禁じる画像、それも預言者ムハンマドの風刺画をフランスの週刊紙が掲載し、テロ事件が起きています。」
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 明治期日本の啓蒙思想における「自由・平等」--福沢諭吉西周加藤弘之をめぐって (小特集 東アジアにおける知的システムの近代的再編成(1))
 Jiyu and Byodo in Meiji Japan
 鈴木 貞美
 抄録
 福沢諭吉ら明治啓蒙思想家たちは、明治維新を「四民平等」を実現した革命のように論じたが、黒船ショックが引き起こした倒幕運動は、開国か、尊皇攘夷かが争われ、紆余曲折を経て、尊皇開国に落ち着いたもので、その過程で政治の自由や四民平等がスローガンにあがったことはない。すでに、江戸時代のうちに、いのちの自由・平等思想がひろがり、身分制度も金の力でグズグズになっていたため、デモクラシーは至極当然のことのように受けとめられたのだった。明治新政府は、一八三七年一月に徴兵令の告諭を発し、国民の自由・平等を認め、それと引きかえに「国家の災害を防ぐ」ために、西洋でいう「血税」として、二十歳に達した男子に三年の兵役義務を課した。「国民皆兵」制度は、国民各自が自分の権力の一部を国家に提供し、秩序を維持し、各人の安全の保証を得るという自然権思想に立つものだが、明治啓蒙家たちの思想においては、自由、平等が未分化で、自然権思想や社会契約説の定着が見られないことが、すでに指摘されている。しかし、その理由については、これまで恣意的な分析しか行われてこなかった。その理由は、ヨーロッパやアメリカにおけり各種の「自由・平等」思想をひとくくりにして、天賦人権論として受けとめたこと、それらのリセプターとして、江戸時代に公認されていた朱子学の「天理」や、ひろく流布していた天道思想が働いたことに求められる。そして、江戸時代の通念では、いのちの自由と平等とがセットになっていたため、天賦人権論者たちは、あらためて自由と平等の関係について、それぞれを社会や国家と関係づけながら考えようとしなかったのである。それゆえ、個々人の諸権利についても、いのちにおける、社会における、国家におけるそれが切り分けられないまま、個人、社会、 国家の相互の関係についての考え方が、時どきの状況により、また論者の立場によって、たえず変化することになった。ここでは、まず「自由」「平等」が、どのように受け止められたのかについて検討し、そのうえで個々人の社会論、国家論を考えてみたい。外来の概念とその「リセプター」となった伝統概念とをあわせて考察すること、また、「自由と平等」のように、複数の概念を組み合わせて、個々人の概念形成を解明することは、社会的に流通する概念組織(conceptural system or network)の形成を解明するために有効かつ不可欠な方法である。
 収録刊行物
 日本研究
 日本研究 40, 377-391, 2009-11
 国際日本文化研究センター
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 日本は、古代から昭和初期まで大陸勢力の侵略という国滅亡と民族死滅の危機に晒されてきた。
 古代から江戸初期までは、中国と朝鮮の侵略。
 戦国時代は、キリスト教による宗教侵略。日本人奴隷交易。昭和前期のキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇・皇族の暗殺失敗事件。
 江戸後期から明治期は、ロシアの軍事侵略。北方領土危機。
 明治初期は、アメリカによる軍事侵略。ハワイ王国滅亡。
 大正期から昭和前期までは、マルクス主義ソ連コミンテルン中国共産党などの国際共産主義勢力によるイデオロギー侵略。日本人共産主義者テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗事件。
 日本侵略の外国勢力を総称して、反天皇反民族反日本国際的反日勢力という。
 国家のエリートや社会のインテリを養成する最高学府・大学を支配したのは、大正期頃からマルクス主義学者で、敗戦後はレーニンマルクス主義学者であった。
 そして、反天皇反民族反日本的な国家のエリートや社会のインテリは、国民世論・民意を支配する為に、教育現場だけではなく新聞・雑誌・出版、テレビ・ラジオなどメディアの多方面に浸透していった。
 故に、明治から昭和初期までに起こした戦争は、領土拡大の侵略戦争ではなく、現人神天皇、神国日本、神仏の子孫である日本民族を、外敵である夷狄(ロシア、中国、朝鮮、
アメリカ)の軍事力と邪教キリスト教)の信仰力から守る為の積極的自衛戦争であった。
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 世界では、人種・民族、血筋・血統、出自・出身、家柄・階級などに関係なく、才能・能力・実力があれば誰でも自国や他国、自民族や他民族に関係なく皇帝や国王になれ、哲学・思想・イデオロギーは個人の上昇志向・アップ志向を正当化し統治権に正統性を与える。
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 日本民族は、それを否定し、排除して、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系内での男系父系天皇制度を生み出した。
 つまり、天皇家・皇室とは、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻す為のムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 それが、日本独自の曖昧な遺恨を残さない「恨みっこ無し」解決、昨日の敵は今日の友という能天気な発想である。
 ゆえに、天皇は神聖不可侵として、その正統性を崩す哲学・思想・イデオロギーは認めず排除した。
 皇族が天皇家・皇室から臣下に降ることはあっても、臣下から天皇・皇族に昇る事は絶対にできない。
 それが、歴史上、非民族神話、非神話宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した正当性女系母系天皇が認められなかった根拠である。
 ただし、臣下に降った元皇族・旧宮家が「父系の血筋」を根拠として皇族に復帰して天皇に即位する事はあった。
 歴史的事実として、それが日本で地獄のような悲惨な戦乱や革命が起きなかった最大の要因である。
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 日本列島には、グローバルな普遍宗教である啓示宗教、教義宗教、信仰宗教、恩寵・奇跡宗教、教団宗教などは馴染まず、日本民族は貴んでも信じず、むしろ敬遠して遠ざけた。
 日本仏教は、中国や朝鮮の仏教とは違い、日本列島に馴染むように異質な宗教へと変貌して根付いた。
 日本儒教も同様である。
 キリスト教は、日本への同化・同質を拒絶した。
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 日本列島では、集団を否定し個を前面に押し出すグローバルな哲学・思想・主義主張は根付かず、むしろ反目し合い摩擦や対立を繰り返し、その中でもマルクス・レーニン主義共産主義は敵対しイデオロギー闘争を繰り返していた。
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 キリスト教マルクス・レーニン主義共産主義などの反天皇反民族反日本国際勢力は、ウイルスのように寄生した宿主(日本)を自分たちが生存しやすいように改造すべく暴力闘争を行った。
 それが、キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義者テロリストによる昭和天皇や皇族の暗殺失敗事件の数々であり、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易である。
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