🎑2)─1─消えゆく昭和の夜の演芸とオタク文化に繋がる趣味の教養化と知的笑い。~No.2No.3 

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 テレビ文化の衰退は、インターネット、AIが原因ではない。
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 夜の演芸とは大人の色気でありリノベーションを生み、オタク文化とは若者の好奇心でありイノベーションを生んでいた。
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 2023年5月6日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「40年の歴史「タモリ倶楽部」終了が意味するもの オタク文化に繋がる趣味の教養化と知的笑い
 太田 省一
 「タモリ倶楽部」は一時代を築いた(写真:時事通信
 © 東洋経済オンライン
 「タモリ倶楽部」が約40年の歴史のなかで開拓・追求してきたのは、今日のオタク文化に繋がる「趣味の教養化」、そして「知的笑い」であった。その受け皿としての番組を失うことは、テレビ文化そのものの衰退に繋がるかもしれない。それほどまでに「タモ 倶楽部」は特別な番組だった。
 最後まで「現役感」があった
 2023年3月31日深夜の放送をもって、テレビ朝日の長寿バラエティ番組「タモリ倶楽部」が最終回を迎えた(関東地区ほか)。だが当初、放送40年という節目を機に終了するという報道になんとなく違和感を覚えた人もいたのではないだろうか? 
 というのも、「タモリ倶楽部」という番組には、最後まで「現役感」があったからである。ここで「現役感」というのは、「タモリ倶楽部」という番組が現在の深夜番組、ひいてはバラエティ番組における一つのスタンダードになっていて、それを自ら体現し続けていたという意味である。脱力感溢れるマイペースぶりながら、よく毎回こんなことを思いつくなという意表を突いた挑戦的な企画で楽しませてくれる。そんな番組としての若々しさがあった。
 では、「タモリ倶楽部」の具体的な特徴や魅力、そして長続きの理由はどのあたりにあったのか?「タモリ倶楽部」の足跡を改めて振り返りながら考えてみたい。
 「タモリ倶楽部」が深夜だった理由
 「タモリ倶楽部」初回の放送は1982年10月9日。ほぼ同時に平日昼の帯バラエティ番組であるフジテレビ「森田一義アワー 笑っていいとも!」(以下「いいとも!」と表記)も始まった。
 「タモリ倶楽部」誕生の経緯は、次のようなものだった。テレビ朝日で1981年にスタートした「夕刊タモリこちらデス」(「夕刊」という漢字を分解すると「タモリ」になる)という夕方6時台の番組があった。ニュース番組のパロディで、しかも直前に筑紫哲也がキャスターを務める報道番組「日曜夕刊!こちらデスク」が放送されていた。本家とパロディを連続で放送するという大胆な番組編成である。
 だが、結局番組は編成上の都合もあってわずか1年で終わることになる。そのことを申しわけなく思った当時のプロデューサーが、タモリに「しばらく深夜で遊んでいてくれないか」と考えて企画したのが「タモリ倶楽部」であった(『デイリー新潮』2022年12月19日付記事)。
 この経緯を見る限り、「タモリ倶楽部」はタモリにとっていわば仮住まいにすぎなかった。しかし結果的に、40年余り続く長寿番組になる。そこにはまず、「深夜で遊ぶ」というコンセプトが見事にはまったことがあるだろう。どんな状況でも、誰とでも楽しくやれる“遊びの達人”であるタモリにとって、隠れ家的な深夜はうってつけの居場所だった。
 また「いいとも!」との兼ね合いのなかで、タモリというタレントの本質的な部分を確保しておきたいという事情もあったかもしれない。1982年は、テレビにおいて本格的に「フジテレビの時代」が始まった年である。1980年以降漫才ブームの勢いのままにバラエティ路線を突き進んだフジテレビは、この年いわゆる「視聴率三冠王」を達成し、以後12年間その座を守り続けることになる。
 そのなかでの「いいとも!」MC就任には、タモリにとって諸刃の剣という面があった。当時のタモリには、怪しげな「密室芸人」というイメージがまだ強かった。そんなタモリがお昼の帯番組のMCに就任することはタレントとしてメジャーになる一歩であったものの、タモリならではのひと癖もふた癖もある毒の魅力が薄れてしまうという危惧もあった。
 その点、「タモリ倶楽部」は対抗的にバランスを取るうえで格好の番組だったと言える。お昼と深夜という対照的な時間帯で、テレビ局も異なる。それによって「フジテレビの時代」におけるテレビの明るいお祭り化の波から、おのずと一定の距離を取ることができる。「タモリ倶楽部」のスタートは、タモリ自身にとっても、もう一つそんなメリットがあった。
 「趣味の教養化」をもたらした
 では、「タモリ倶楽部」は深夜番組の歴史になにをもたらしたのだろうか?
 深夜番組の源流をたどると、日本テレビ系「11PM」に行き着く。1965年にスタートしたこの深夜ワイドショーには、二つの柱があった。「お色気」と「趣味」である。まず想定する視聴者がサラリーマンなど大人の男性だったことから、「お色気」が番組の柱になった。時に女性のヌードも登場するのは深夜ならではのことだったが、そうしたお色気重視路線は世間から「低俗」との批判を受けながらも、深夜番組の定番になっていく。
 もう一つの柱の「趣味」でも、扱われたのは釣りやゴルフ、麻雀など大人の男性向けのものだった。こうした趣味がテレビでじっくり扱われるのは画期的なことで、メイン司会者の大橋巨泉はそれらすべてに精通しているという強みを生かし、人気タレントの地位を確立する。
 これらの要素は「タモリ倶楽部」にも受け継がれた。踊る女性のお尻がアップになる有名なオープニング映像はあるものの、お色気に関しては印象が薄いかもしれない。ただかつてはお色気絡みの企画もそれなりに多かった。例えばタモリと評論家・編集者の山田五郎が女性のお尻を“品評”する「今週の五ツ星り」というコーナーもそのなかに入るだろう。
 とはいえこの企画の力点は、お色気よりはむしろ美術史の知見などをもとにお尻についての蘊蓄を傾けるところにあった。つまり、「趣味の教養化」である。そのように趣味の世界を深掘りするスタイルは、深夜番組の共有財産になっていく。むろんその原点は「11PM」であったが、それをある種の教養として大真面目に楽しむところに「タモリ倶楽部」の新しさがあった。
 ただし、深掘りの仕方、その味付けは時代とともに変化した。1980年代から1990年代には、サブカルチャーのテイストが強かった。メインストリームから外れたところにある文化に光を当てる。例えば廃盤になってしまった隠れた名曲を紹介する「廃盤アワー」などはそうだろう。また、街中にある用途不明の建造物(全面タイル貼りの「タイルの家」など)を鑑賞する「東京トワイライトゾーン」も人気コーナーになった。
 ところが2000年代以降になると、時代的に重心がサブカルチャーからオタク文化へと移っていく。「メイン」「サブ」といった文化の階層構造よりも、個人ごとの趣味嗜好を等しく重視するようになっていくのである。それとともに「タモリ倶楽部」の企画の傾向も変化した。
 従来、バラエティの企画としては想像できなかった工具や重機などを特集したのも「タモリ倶楽部」が先駆だったと言えるだろうが、代表的なのはやはり鉄道関連の企画だろう。タモリを中心に「タモリ電車クラブ」という電車好き有名人のクラブが生まれ、2000年代あたりから電車に関する企画が定番になっていった。ほかにも地図や坂道など、タモリ自身の趣味をベースにした企画が増えていく。
 同時に、オタク化する時代のなかで「元祖オタク」とも言うべき存在としてタモリに対する世間の尊敬の念も高まった。2008年にはNHKで古地図を使った街歩き番組「ブラタモリ」も始まり、専門家も舌を巻くようなタモリの博識さがいっそう際立つようになる。リスペクトされる「趣味人」としてのタモリの確立である。
 「知的笑い」が凝縮された「空耳アワー
だが「芸人」としてのタモリの真骨頂は、また別のところにあった。1970年代後半、「恐怖の密室芸人」と称されたタモリの芸の核には「知的笑い」があった。声色ではなくその人が言いそうなことをアドリブで真似る「思想物真似」、でたらめ外国語を駆使した「四カ国親善麻雀」、さらには日本語もどきの「ハナモゲラ語」など、それらはパロディやナンセンスをベースにしたものだった。
 「タモリ倶楽部」にもそのエッセンスは受け継がれた。特に初期は番組の構成作家だった景山民夫の存在もあり、その傾向は顕著だった。「男と女のメロドラマ 愛のさざなみ」もその一つ。タモリ演じる義一と中村れい子演じるれい子が毎回違うシチュエーションで「運命の再会」をするミニドラマシリーズ。全体のストーリー展開などは二の次で、メロドラマならではの情緒たっぷりな再会シーンをパロディにして面白がろうというスタンスだった。
 「SOUB TRAIN」というコーナーもあった。こちらは、アメリカの人気音楽番組「SOUL TRAIN」のパロディ。タイトルは言うまでもなく「総武線」のもじりである。タモリがファンキーな司会役に扮し、ディスコ風のセットで少し前に流行ったダンスステップを出場者が披露するという内容だった。
 そして、なんといってもパロディやナンセンスのエッセンスが凝縮されていたのが、1992年からレギュラー化され、番組の代名詞的コーナーになった「空耳アワー」である。
 改めて説明するまでもないが、「空耳」とは外国語の曲が思いがけない日本語に聞き取れること。発見した視聴者が投稿し、その内容に合わせた映像を番組スタッフが制作して曲とともに流す。音と映像の相乗効果で笑いが増幅する仕組みである。
 例えば、クイーンのしっとりとした曲『My Melancholy Blues』冒頭の一節「Another Party's Over And I'm Left Cold Sober」が、なぜか「花のパリ側~ なめこそば〜」と聞こえる。それに乗せて画面では、パリのオープンカフェ風の店で物思いにふける女性の座るテーブル上に置かれたなめこそばの丼がアップになる。原曲のイメージと日本語のギャップ、それを表現するシュールな映像が相まって思わず笑いを誘われる。
 また、プリンスでも見事な「空耳」が生まれた。『Batdance』の「Don't Stop Dancin'」という歌詞が、どういうわけか「農協牛乳」とシャウトしているように聞こえる。画面には、おなじみの農協牛乳の1リットルパックがスモークの焚かれたなか、重々しくせり上がってくる映像が流れ、その大仰さに爆笑してしまう。
 そこには、でたらめ外国語やハナモゲラ語の面白さと同じ構造がある。ともに、元々の言葉の意味を解体すると同時に、それらしく聞こえる別の音を立ち上がらせる。いわば異化作用であり、ナンセンスとパロディを合体させたものだ。しかも「空耳」の場合は、視聴者と番組スタッフとの連係プレーによってタモリの個人芸とは違う味わいが加わっている。映像メディアとしてのテレビにおける知的笑いのお手本のようなコーナーと言ってもいいだろう。
 深夜番組のスタンダードになった
 「タモリ倶楽部」については、「マニアック」と形容されることが多い。だがここまで述べてきたように、その中身は一様ではない。少なくともそこには「趣味の教養化」と「知的笑い」という二つの方向性があった。では、それらは深夜番組やバラエティ番組の歴史にどのような影響をもたらしたのだろうか?
 テレビバラエティ史において、1980年代は特筆すべき時代にあたる。それはひと言でいえば、“壊す笑い”が“構築する笑い”に代わって優位になった時代だった。
 前者の代表であるフジテレビ「オレたちひょうきん族」と、後者の代表であるTBS「8時だョ!全員集合」が同じ放送時間帯で熾烈な「土8戦争」を繰り広げたのは、そんな時代の象徴だ。そして「タモリ倶楽部」が始まった1982年10月に、「ひょうきん族」が「全員集合」を初めて視聴率で上回るという歴史的な出来事が起こる。“壊す笑い”の時代の本格的始まりである。
 深夜帯は、そうした新しいバラエティの最前線となった。1983年に始まったフジテレビ土曜深夜の「オールナイトフジ」はその一つだ。素人の女子大生をMCやリポーターに起用し、果ては歌手デビューまでさせたこの番組は、女子大生ブームを巻き起こしたことで知られる。そこに若き日のとんねるずも加わり、“壊す笑い”ならではのハプニングの連続による学園祭的なノリが毎回繰り広げられた。それは、すでに進んでいたフジテレビ主導によるテレビのお祭り化が深夜にも及んだことを意味していた。
 一方、「タモリ倶楽部」はお祭り化からは距離を置きながらも持ち前の「趣味の教養化」と「知的笑い」によって“壊す笑い”の重要な一端を担った。そして、深夜番組ならではのディープな味わい、すなわち“深夜番組らしさ”の観念を定着させることに大きく貢献した。要するに、深夜番組のスタンダードになったのである。
 例えば「知的笑い」の要素は流行現象を歴史上の事実になぞらえる教養番組のパロディ「カノッサの屈辱」(フジテレビ、1990年~1991年)に見出すことができるし、また音楽や競馬、さらにはラーメンやカレーなどのマニアが知識を競い合う早押しクイズ「カルトQ」(同、1991年~1993年)は「趣味の教養化」をベースにしたものと言えるだろう。「タモリ倶楽部」は、こうした深夜番組の発展のための地盤固めの役割を果たした。
 こうして隆盛を迎えた深夜番組は、テレビ全体の構図すらも変えることになる。深夜帯は隔絶された特殊な時間帯ではなく、将来のプライムタイムでの放送も見込んだ時間帯となった。言い換えれば、深夜番組はテレビのトレンドの発信源になったのである。「カルトQ」などもそうして“昇格”した番組の一つだった。
 現在もその構図は変わっていない。例えば「シャワーヘッド」など毎回ニッチな分野に精通した人々が登場して蘊蓄を披露する「マツコの知らない世界」(TBSテレビ)は、「趣味の教養化」の系譜を受け継ぐ代表的番組だが、2011年に始まったときは深夜番組であった。そのような例は枚挙に暇がない。
 ただ、「タモリ倶楽部」は違っていた。「毎度おなじみ流浪の番組」というのは毎回冒頭でタモリが発する決まり文句だが、その言葉に反して放送時間は終始金曜深夜から移動することはなかった(関東地区)。深夜番組がプライムタイムのような早い時間帯に移動することは一つの名誉には違いないが、その結果深夜時代の濃さが失われ、番組自体の輝きを失ってしまうことがままある。そのことを意識したかは定かでないが、「タモリ倶楽部」は深夜帯にずっととどまり、その“良心”であり続けてきた。
 バラエティ番組の「タモリ倶楽部」化
 とすれば、なぜこのタイミングで終了のときを迎えることになったのか?
 「タモリ倶楽部」が担った「趣味の教養化」は、深夜に限らず、今やバラエティ番組の王道と言っても過言ではない。先述の「マツコの知らない世界」もそうだし、「アメトーーク!」(テレビ朝日、2003年放送開始)でも、「家電芸人」や「キャンプたのしい芸人」など趣味系の企画は定番だ。「立ち食いに取り憑かれた佐藤栞里」のように、何かに強烈にハマっている芸能人への密着企画が人気の「沸騰ワード10」(日本テレビ、2015年放送開始)などもある。
 その意味では、「タモリ倶楽部」は歴史的役割を終えたのかもしれない。極論すれば、バラエティ番組全般が「タモリ倶楽部」化したとも言えるからである。さらには、ユーチューブなどSNSを通じて趣味の深掘りコンテンツを一般人も発信できる時代になった。タモリ自身に関しても、「ブラタモリ」などで趣味人としての自分を今後も見せていくことができる。
 ただその一方で、「タモリ倶楽部」のもう一つの特色だった「知的笑い」としてのナンセンスやパロディ、とりわけ鋭い批評性のある知的な笑いは、皆無というわけではないが今のバラエティ番組ではあまり見られない。
 そのあたりは、よく言われるようにコンプライアンスが厳しくなった時代背景もあるだろう。むろん時代の変化に伴う社会規範やモラルの変化もあり、それが必要な面もある。しかしコンプライアンスを無批判に適用するあまり、知的な笑いがやせ細ることは、テレビ文化そのものがやせ細ることに繋がりかねない。
 とすれば、今回の「タモリ倶楽部」の終了はまだテレビに残されていた批評的知性のいっそうの危機に繋がってしまうのではないか。そのことの重さを、私たちは今一度真剣に受け止め、じっくり考えてみるべきだと思う。
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 日本民族は、バブル経済に突入する寸前まで自分だけの個性を磨いて押し出す事に躍起になっていた、それ故に世界を驚かし社会を変革させるイノベーションもリノベーションも生み出していた。
 が、バブル経済全盛期に日本民族の輝きを失い、バブル崩壊によって個性を見捨て、イノベーションもリノベーションも生み出さなくなった。
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 大金を投じた官製クールジャパンは、バブル期におこなった成功モデルの巨額開発投資同様に失敗した。
 数百億円で建設した公的宿泊施設やレジャー施設を数億円で民間に売却したが、損害を出した官僚・役人は責任を取らず昇級し好条件で天下り、諸悪の権化であった政治家は反省・謝罪せず辞職しないどころか大臣に就任した。
 日本の政治家や官僚と言っても、バブル黎明期を境にして昔の政治家・官僚と現代の政治家・官僚とでは違う。
 それは、メディアと学者、アナリスト・コメンテーターも同様である。
 彼らとは、リベラル派・革新派・保守派に関係なく超エリート層と言われる高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達である。
 日本人と言っても、現代の日本人と昔の日本人とは違う日本人である。
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 5月7日 MicrosoftStartニュース 週刊女性PRIME [シュージョプライム] 「『ブラタモリ』終了説に「ない」とNHK局員が一蹴!関係者が明かした「タモリという男」
 タモリ
 © 週刊女性PRIME
 40年続いたテレビ朝日系『タモリ倶楽部』(金曜深夜0時20分)が3月末に終了したのと同時期に、NHKブラタモリ』(土曜午後7時半)も年内で終わり、タモリ(77)は同時に引退すると報じられた。
 ブラタモリ終了説を局員が一蹴
 もっとも、『ブラタモリ』を担当するNHKクリエイターセンターに所属する局員に聞くと、「終了するという話は局内にない」と、この説を一蹴する。
 本当に年内で終了するのなら、既に後続番組の準備を始めなくてはならない時期。MCを務めるテレビ朝日系『ミュージックステーション』(金曜午後9時)の後任司会者も探し始めているはず。
 そもそもタモリに引退するつもりはないというのがテレビ界の共通した見方。最大の理由は所属事務所「田辺エージェンシー」の田邊昭知社長(84)が現役で精力的に活動しているからである。
 タモリの生みの親が漫画家の赤塚不二夫さん(享年72)であるのは知られているが、一方で育ての親は田邊氏にほかならない。赤塚さんは1975年、福岡から上京してバーで芸を披露していたタモリを一目で気に入り、衣食住から車、遊興費まで与えた。見返りは一切求めなかった。
 翌1976年、タモリ田辺エージェンシー入り。赤塚さんと親交のあった構成作家高平哲郎氏(76)の紹介だった。4か国語麻雀などタモリの話芸は新しかったものの、マニアックだったので、ほかの芸能プロは獲得に消極的だったが、田邊氏は高く評価したという。
 この時、タモリは既に30歳。かなり遅いデビューだったものの、田邊氏のマネージメント力を背に人気者の座へ駆け上がり始める。
 タモリは同事務所に所属した1976年から和田アキ子(73)が司会を務める日本テレビ系『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(1973~79年)にレギュラーで登場した。軽いお色気とドタバタ喜劇、歌が売り物のバラエティーで、小学生から大人にまで人気の番組だった。現在の50代以上の多くがタモリを初めて観たのはこの番組ではないか。
 番組内でタモリは4か国語麻雀のほか、イグアナのモノマネ、ハナモゲラ語を披露。当時、人気者だったザ・ドリフターズ横山やすし・西川きよし星セント・ルイスたちとは全く違う芸で、タモリ知名度はたちまち全国区になった。この番組の制作協力は田辺エージェンシーだったのである。
 その6年後の1982年からは32年続いた『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)が始まった。タモリをMCに抜擢したのはプロデューサーだった故・横澤彪氏だが、番組のスーバーバイザーを前出・高平哲郎氏が務めていたことも起用の背景にある。高平氏と田邊氏にパイプがあったのは前述のとおりである。
 鉄道や相撲などタモリの趣味を番組化した『タモリ倶楽部』の企画時も田邊氏の意向が反映された。なにしろ同番組はテレ朝と田辺エージェンシーの共同制作だったのである。
 田辺氏の存在がなかったら現在はなかったと言っても過言ではない。これまで47年にわたって2人は二人三脚を続けてきた。今後もタモリは田邊氏と命運を共にするというのがテレビ界の見方なのだ。
 業界人からのタモリの評価「任された仕事はきっちりやってくれる」
 田辺エージェンシーには永作博美(52)らも所属するが、筆頭タレントはタモリ。同社からは昨年末、堺雅人(49)が独立したものの、田邊氏とタモリの歴史の長さ、関係の深さとは比較にならない。
 『タモリ倶楽部』は視聴率を狙っているようには見えない番組だったが、それでもタモリの人気と、ほかの番組にない個性的な内容で2000年代までは世帯視聴率が10%を超えることもあった。
 だが、ここ数年は深夜番組が乱立したこともあり、視聴率は個人1.5%強(世帯3%)程度を推移していた。それでも良い数字なのだが、内容がマニアックであることやタモリとの年齢差のためか、若い視聴者の個人視聴率がやや低かった。
 テレ朝は終了発表時に「番組としての役割は十分に果たした」と声明したが、本音に違いない。タモリ側もやり尽くした思いだったのではないか。なにしろ40年だ。共同制作なのだから、終了はテレ朝と田辺エージェンシーの合意の上で決められているはずだ。
 タモリ自身は最終回で「40年間本当にありがとうございました」と頭を下げたものの、過去の述懐や心残りの言葉は一切なし。あっさりとしたものだった。
 『ブラタモリ』の場合、仮にタモリが年齢による体力低下などを理由に継続に消極的になったとしたら、NHK側が対応策を考えれば済む話なのである。具体的にはタモリの1日の移動距離や撮影時間を減らすなどの方法が考えられる。極端な話、ロケに出るのは隔週にしたっていいのだ。スタジオ出演のみの週を設けることも可能だ。
 『ブラタモリ』は高視聴率を続けているNHKの看板番組。東京・下北沢を探訪した4月22日放送は視聴率が個人6.3%(世帯11.1%)に達し、激戦区の土曜午後7時台で断トツの数字を記録した(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。同局は番組の存続に全力を上げるだろう。
 4月末には『ブラタモリ』の元プロデューサー・山名啓雄専務理事(56)が、報道と制作の指揮官であるメディア総局長に就任した。宿泊の伴うロケに一緒に行っていたこともあり、タモリとは昵懇(じっこん)の間柄である。山名氏はなるべくタモリに負担を掛けないよう考えるだろうし、タモリも山名氏が現場のトップになった年に降りようとは考えないのではないか。
 テレ朝で『タモリ倶楽部』の当初の責任者だった元同局取締役制作局長の故・皇達也氏はこう語っていた。
 「タモリさんと付き合った人なら誰でも同じことを言うでしょうが、彼には欲というものが一切ない。お金についてだけでなく、仕事面もそう。任された仕事はきっちりやってくれるものの、自分を売り込むようなことは決してしない。自分から番組を続けたいとか降りたいとかも言わない」(皇氏)
 タモリは淡々とした人なのである。
 振り返ると、2014年3月の『笑っていいとも!』の終了時もそうだった。出演者が悲しみ、視聴者から惜しむ声が続々と上がる中、本人は平然としていた。観る側が拍子抜けするほどだった。
 『ブラタモリ』も『ミュージックステーション』も淡々と続けるのだろう。また、77歳という点ばかり注目されるが、伊東四朗は85歳の今も俳優として刑事を演じ、警察署長などを演じている北大路欣也は80歳、草野仁アナも79歳で現役を続けている。
 タモリの年齢を周囲が気にするのは早いのではないか。
 取材・文/高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)放送コラムニスト、ジャーナリスト。1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立。
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