🏯37)─2・D─260年間、武士の家禄は物価が高騰しても上がらなかった。~No.71 

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 武士は、特権を持っていたが、貧乏人であった。
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 武士は、世襲であはるが、血縁でも地縁でもなかく、男系でもなく、そして身分・階級でもなかった。
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 武士は、西洋の騎士ではないし、中国の士大夫・武官でもなく、朝鮮の両班でもない。
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 2023年5月7日 YAHOO!JAPANニュース マネーポストWEB「物価は上昇しても給料は上がらない… 徳川幕府誕生「平時への移行」が武士の生活を苦しめた皮肉
 家康が築いた「太平の世」が武士の生活を苦しめた一面も?(JR静岡駅近くに建つ徳川家康像)
 「物価は上がるのに、給料がなかなか上がらない」──世界的なエネルギーや食料価格の高騰を受け、日本でも多くの家庭が厳しい経済事情に喘いでいる。歴史作家の島崎晋氏によると、今年の大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康が創始した「徳川幕府支配下の日本でも、武士は現代の家庭と似たような状況に置かれていたという。それは、戦国大名が鎬を削る戦時から、徳川家の一強支配による平時への移行過程で定められた経済の仕組みによるものだった。島崎氏が解説する。
 江戸時代、武士階級の給与は「米」で支給された
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 放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、5月以降、いよいよ大大名同士の激突が始まる。まずは織田信長岡田准一)&徳川家康松本潤)v.s.武田信玄阿部寛)だ。前回の「信玄を怒らせるな」(第16回。4月30日放送)では、クライマックスで出陣を前にした信玄が家臣たちを前に次のような檄を飛ばした。
 「天下を鎮め世に安寧をもたらす。それはたやすいことではない。織田信長、その器にあらず」「時は今。この信玄、天下を鎮め、人の心を鎮めるため、都へ向かう。敵は、織田信長
 戦乱の世を終わらせ、太平の世を築くのは自分でなくてはならない。そのために信長の打倒は不可欠と宣言したのだ。が、史実が伝える通り、信玄自身の手でそれをなすことは叶わず、戦時から平時への移行は、織豊時代を経た後、家康とその直系の子孫の手で達成されることになる。
 「一国一城令」の発布や「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」(いずれも1615)、大寺院に対する個別の御法度の制定などは新たな秩序づくりの土台である。家康・秀忠・家光の3代がかりで、戦時から平時への移行が進められた。とくに家康の代にはその手始めとして、領主の居城を除いたすべての城の破却と、下剋上および他藩への移籍の禁止が定められた。
 家康亡き後、島原の乱(1637~1638)と寛永の飢饉(1642)を経て、百姓に課せられた軍役が撤廃されたことで、平時への移行は完成する。
武士は「領主」から「給与生活者」に
 武士の経済事情は鎌倉時代以来のそれとは大きく変わり、もはや荘園領主ではなく、君主に依存する給与生活者と化した。給与は現物で、精白をしていない玄米の状態で支給された。
 江戸時代の武士の給与は領内の田畑に由来したわけだが、新たな征服地が生じない江戸時代には、耕地面積の拡大は新田開発に依るしかない。この点に関しては、江戸時代概説の古典的名著とも呼ぶべき大石慎三郎著『江戸時代』(中公新書。1977年初版刊行)に以下のような、わかりやすい説明がある。
 〈平安時代から室町時代の半ばころまでは、わが国の耕地面積はほとんど増加していない〉〈室町時代中期を100とした場合、江戸時代初頭は172.8、同中期には313.9というおどろくべき数字となってあらわれるのである。そしてこのとき以降明治初期までにみるべき増加がなかった〉
 つまり耕地面積の増加は戦国時代に最初のピーク、江戸時代になって第二のピークを迎えるが、江戸時代中期には限界に達した。それにより、経済にどんな影響があったのか。
 実質上の石高が増えることはもうないから、武士の昇給は期待できない。片や、生活必需品の調達は物々交換とはいかず、武士たちは俸禄として支給された玄米を換金しなければならなかった。その方法は、米問屋へ直接持ち込むのでなく、札差(ふださし)という中間業者に換金してもらうのだが、札差は高利貸しを兼ねるのが普通で、困窮化した武士は札差にとって二重のお得意様になることが多かった。
 物価は上昇を続けているのに、毎年の俸禄は据え置き同然。武士たちに借金以外でできる対策は、節約や野菜の自家栽培、共同購入、副職、内職などに限られた。武力により築かれた武家政権のもとで、支配層であるはずの武士がひもじい生活を強いられるなど、皮肉としか言うほかない。
 「武士は食わねど高楊枝」──この言い回しの起源は不明だが、武士としての矜持を重んじるような諺が広く定着した背後にも、もっともらしい理由をつけて、武士の忍耐を称揚するきな臭さが感じられる。
 儒者経世家の熊沢蕃山や、同じく儒家兵学者でもあった山鹿素行など、太平の世における武士のあるべき姿について問題提起をする者が多く現われた。「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」の一節で知られる『葉隠』の著者、佐賀藩士の山本常朝(1659~1719)もその一人。1702年に起きた赤穂浪士による吉良邸討ち入り(元禄赤穂事件)が義挙と称えられたのも、武士のありかたを巡る、当時の空気があればこそだった。
 【プロフィール】
 島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近刊に『featuring満州アヘンスクワッド 昔々アヘンでできたクレイジィな国がありました』(共著)、『イッキにわかる!国際情勢 もし世界が193人の学校だったら』などがある。
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