🌈25)─2─江戸時代の日本人は「死活の極み」として死を怖がるのではなく価値を見出していた〜No.50 ④ 

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 2023年2月28日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「誰かのために喜んで死ねるか…死を怖がるのではなく価値を見出す「死活の極み」とは
 松下 隆一
 江戸時代の人々は「いつ死んでもいい」という覚悟を持っていたのかしれない。「2023年の時代小説の大本命」との呼び声高い『侠』(きゃん)を上梓した松下隆一さんによるエッセイ、前編「『いつ死んでもいい』という覚悟はあるか…江戸時代の下層庶民から学ぶ『後悔なく死にゆくヒント』」につづき、後編では日本人に備わる「清明心」をキーワードに江戸時代の死生観・人生観を読み解く――。
 誰かのために喜んで死ねるか…死を怖がるのではなく価値を見出す「死活の極み」とは
 © 現代ビジネス
 日本人には「清明心」が備わっている
 前回、明日の生死すらわからない江戸時代の庶民においては、終活のような未練がましいものはなく、日頃からいつ死んでもいいという潔い覚悟を持った、「死活」があったのではないかと書いた。もちろんこれは意識的にではなく、無意識のうちに日常に溶け込んだ意識でもあっただろう。ただこれは江戸時代だけでなく、古来より日本人が持つ意識であったのかもしれない。
 日本人には元来、「清明心」が備わっているという。
 清き明き心、というわけで、一点の曇りもない、誠実で嘘のない心といったところだろうか。古来より日本人は四季折々、花鳥風月、自然豊かな国土に生き、あるがままを受け入れ、調和することで生き延びきた知恵があるという人もいる。
 自然と調和して生きるのなら動植物と同じように、死に煩わされ、抗うという概念もなくジタバタせずに受け入れるというのである。よその国から見れば何という消極的態度かと思われるかもしれないが、日本人特有の美質であろうかと思う。
 他方、「俺はまだ死にたくない!」と、みっともなく踠いて足掻くのは「恥」ともされた。時代劇を見ていればよくわかるが、往生際が悪い多くの人物は悪党で、そのみっともないザマを見て、観客や視聴者は蔑み、こらしめられると溜飲を下げるのである。
 この恥と往生際の悪さで思い出す逸話がある。それは三浦徳平さんという方が書かれた、『一下士官ビルマ戦記──ミートキーナ陥落前後』(葦書房)という戦記によるものだ。
 ビルマミャンマー)戦線といえば地獄の死闘、白骨街道などと呼ばれ、軍上層部の無能、無知な作戦によって数多くの兵士の命が奪われた戦いであった。この戦いの終盤、米英軍に追い詰められた日本軍は陣地を捨てて転進することになる。それには船でミャンマー中央を流れるイラワジ川(現・エーヤワディー川)を渡らなければならなかった。ところがモンスーン期を迎えた川は濁流で氾濫し、しかも機動力のある船はわずかで、あとは丸木舟や筏を利用しなくてはならなかった。
 だが一刻も早く渡河しなくては迫り来る敵に殺されてしまう。この時、用意された船は当初の予定よりも少ない数だった。死にたくないとばかりに我先に乗ろうとして兵士たちは醜い争いをする。ところがそれを一喝して一番先に乗って渡河したのは大隊長だった。この醜態を見たある軍曹がこう呟くように言った。
 「舟が着いた時の状況を見ると、俺はもう嫌になった、浅ましいというか、何というか……、俺はそうまでして舟に乗らなくていい。どうせ今日まで死ぬ覚悟でいたのじゃないか」
 そう言うとまだ守備をしている陣地まで戻って行ったという。軍曹の思いに同調した二人の部下もついて行った。著者は「葉隠れ精神の一端を見るようだった」と書いているが、実際、この軍曹は肥前の出身であった。
 ここでの大隊長や我先にと競って乗ろうとした兵士にあるのは「私の命をまず守りたい」という私利私欲の足掻きである。それに引き換え、拒絶した軍曹らは恥より、清明心を選んだ。だが実際に生死を決める極限状態にさらされれば、人間の大部分は大隊長や競った兵士たちのような選択をするのかもしれない。つまりそれがごく普通の感覚なのだろう。
 ただ、著者の疑問は、「将兵を死地に投じた軍幹部たちが無事に復員を果たしている」という事実だった。「これは一体どういうことなのだろうか」というのである。権力者が命を救われ、庶民が理不尽に奪われる。この構造は、今にも十分通じる話ではなかろうか。
 では、真に清明心を持って恥のない人生を送るというのは、どういう生き方なのだろう?
 人のために喜んで死ねるかどうか
 先に時代映画『人情紙風船』を取り上げたが、同じ山中貞雄監督作品に、『河内山宗俊』(一九三六年/原作・監督山中貞雄 脚色三村伸太郎)という時代劇がある。河内山宗俊は歌舞伎や講談でお馴染みの人物だが、山中監督の手にかかると趣向を変えた俠客の物語となる。
 河内山と足の悪い浪人、金子市之丞(以下、金子市)はひょんなことから知り合い意気投合する。そしてヤクザ一家(森田屋)に追われる不良の広太郎と、広太郎の不祥事のために森田屋に身売りされた広太郎の姉、お浪を命がけで取り戻そうとする。だが多勢に無勢で河内山と金子市に勝ち目はなく、いよいよ命を賭さないといけない状況に陥ってしまう。その際の二人の滋味あるやりとりをシナリオから抜粋したい。
 河内山「市つぁん、覚悟はできているだろうな」
  金子市、黙って頷く。
 河内山「どう転ンだところで、首の危ねえ仕事だ」
 金子市「然し、儂はな、これで人間になった気がするよ」
  河内山、黙って金子市の顔を見詰める……
 金子市「儂はな、今まで無駄飯ばかり喰って来た男だったが、……今度はそうじゃないだろう」
  河内山、頷く。
  金子市、寂しい笑いを浮べる。
 金子市「人のために喜んで死ねるようなら人間一人前じゃないかなあ……」
 人のために喜んで死ねる──ここに死活の極み、清明心がある。この生き方は何も時代劇だからというわけではない。いや、利己心に満ちた現代にこそ真剣に考えるべきことに感じる。金子市のような生き方を見つけられた人間は、思い残すことなく死を迎えることができるだろう。金子市は死に怯えるのではなく、死を凌駕するほどの価値を発見したのだ。
 『人情紙風船』と同様に、この映画でもラストで河内山と金子市がヤクザ者たちとの死闘の果てに命を落とすが、その間際に吐く金子市のセリフも象徴的だ。
 「人間潮時に取り残されると恥が多いというからな」
 たとえば昨今の日本の政治家の多くを見れば一目瞭然であるが、潮時に取り残され、権力の座にしがみついて晩節を汚す方がいかに多いことか。それはひとえに利己心ゆえであり、稲盛和夫さんが言われていたように、利己心を少しでも上回る利他心で生きればそうはならないだろう。『論語』に学んで自省するだけでこの危機は回避されるのに、そうした古典は本棚で埃を被って長年眠っているのが常なのである。
 人生のエンディングはどうあるべきか
 司馬遷は『史記』において、俠客(游俠)についてこう書いている。
 「俠客の行為は間違ったやり方で正義を通しているのかもしれない。だが一旦約束したことは必ず守り、必ず実行する。我が身を顧みず、人が困っていると見ればすっ飛んで行って生きるか死ぬか、命がけで奮闘する。だがその行為がどれだけ立派であっても、どこまでも謙虚で奢らず、自慢することを恥とする」
 要するに、物事をやるにおいて、命を賭してでも筋を通す覚悟があるかということだ。しかもそれを当たり前のこととして一切公言もしない。ネット社会においては、善行を公にする人が有名無名を問わず多数いるが、これを恥として日陰者に徹する生き様を美徳としたのが、本物の俠客といえるのである。
 かつては任俠をテーマとした舞台や時代劇が数多く創られ(任俠映画もそうだが)、学びが多かったのは確かである。それらには理不尽な権力によって虐げられ、暴力によって蹂躙される庶民の姿が描かれていた。そこに颯爽とヒーローがあらわれ、獅子奮迅の活躍をすれば拍手喝采となるわけだが、観客は侠客そのものの生き様を、我がこととして真剣にとらえようとしないのが実情である。
 結論めいたことを申せば、成功や失敗にかかわらず、本当にやりたいことをやり抜いて死ぬ。やりたいことが人のためなら最高だろう。これが人間の本分であるように思う。しかも筋を通すがゆえ、抗いの中で目的を達成する意義は、今も昔も変わらないと考える次第である。
 とはいえ、そう生きたとて、死に際しての恐怖や後悔が完全に拭い去れるとは思えない。だが、気概と覚悟さえ持って生き抜けば、いざ死ぬ段になって、多少は諦めがつくというものではなかろうか。
 私は、そのような生きるか死ぬかの死活をテーマに、『俠(きゃん)』という時代小説を書いた。安定した生き方より、心ならずも生きるか死ぬかの切羽詰まった生き方を選んでしまった、南本所で蕎麦屋を営む元博奕打ちの男と、その周辺の人たちとの交流を軸とした人情物語である。
 現代を生き抜くヒントを書いた、などというつもりはまったくない。ただ、死に臨むにあたっての心情を、どこにでもいる庶民の視点から描いてみただけのことである。この小説書を読んでいただき、己の人生のエンディングについてどうあるべきか、少しでも心の隅にでも留めていただけたら幸いである。
 誰かのために喜んで死ねるか…死を怖がるのではなく価値を見出す「死活の極み」とは
 © 現代ビジネス
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 3月1日 MicrosoftStartニュース スポーツニッポン新聞社岩下志麻 原点となった小津安二郎監督の魔法の言葉「悲しい時に悲しい顔をするもんじゃないよ」
 「東京物語」「晩春」など数々の名作で世界にその名をとどろかせる小津安二郎監督。2023年は生誕120年&没後60年のメモリアルイヤーだ。この節目の年に松竹は一大プロジェクトを実施。その一端を、誕生日にして命日に当たる(昨年)12月12日に東京・築地の松竹スクエアで開いたキックオフイベントで明らかにした。スポニチ本社のある江東区の深川は小津監督の生誕地。世界の巨匠もグーンと身近に感じられ、ゆかりの周辺を探訪した。さらには遺作となった「秋刀魚の味」に主演した岩下志麻さんに登場願い、撮影時の思い出などをたっぷり語ってもらった。
 「秋刀魚の味」で花嫁姿を披露した岩下志麻 (提供・松竹)
 © (C) スポーツニッポン新聞社
 岩下にとって「秋刀魚の味」は宝物の1本。作品との出合いは財産となり、演技を考える原点にもなったという。そんな志麻さんが小津監督の思い出をしみじみ語る。
 おしゃれでしたね。白いワイシャツとかズボンとか、いろいろこだわってらっしゃいました。体は大きい方でした。でも穏やかでね。怒った顔を私は見たことないし、怒鳴った顔ももちろん拝見したことない。本当に穏やかで優しい先生でした。
 ――笠智衆さん演じる父親に花嫁姿を見せて嫁いでゆくシーン。ジーンときました。
 他のシーンではいつも50回とか60回、時には100回もテストがあったんだけど、あそこのシーンだけ1回でOKが出たんです。先生のイメージにぴったりだったのかしら。
 ――100回も?
 巻き尺をいじりながら「失恋」を表現するシーンは100回もテストを重ねました。ミシンの前に座って巻き尺をいじる。セリフもないし、泣くわけでもない。ただただ巻き尺を右や左の手に巻き付けて、それをやってるだけ。失恋の感じを出すシーンだったんですけど出来なくって…。
 ――なかなかOKが出なかったんですね。
 ずっとメロドラマをやってましたから、感情過多になるお芝居をやる癖がついていたんだと思うんです。失恋したからってすごく悲しい顔をしてたんじゃないかな。小津先生は「無表情に、無表情に」と指示されましたが、悲しい感情がわいてきちゃって…。
 それと巻き尺を巻くリズムも先生のリズムと合わなかったんだと思うんです。先生、すごく自然体でリズムを大事になさってたから、それが合わなかったのかも。その後、誘われてお食事に行った時に「志麻ちゃん、悲しい時に人間っていうのは悲しい顔をするもんじゃないよ」って。「人間の感情ってのは、そんなに単純じゃないんだよ」とおっしゃるんです。「ああ、やっぱり失恋したからって、私はすっごい悲しい顔してたんだろうなと後で思いましたね」
 ――監督は小道具へのこだわりも強かったと聞きます。
 絵なんか全部本物ですよ。何百万円という絵を借りてらして。先生は、言ってみれば、ワンカットが一枚の絵ですよね。ローアングルのカットも絵のようです。(北鎌倉の)先生のご自宅から見て鎌倉は南で、東京は北。「鎌倉に1センチ、東京に2センチ」と、絵をかける場所までこだわってらしたんですよ。それで何百万円の、いわゆる本物の絵ばかりだから、小道具さんすごい大変だったと思います。
 あと小道具で私、すごく覚えているのは、(劇中に出てくる)お料理屋さんの食器。赤坂の本物の料亭から取り寄せて使ってらした。だからね、清水焼きよみずやきとか九谷焼くたにやきとか、本当におしゃれないい食器がいっぱい並んでましたよ。
 ――色にもこだわりがあったとか?
 先生は赤がとてもお好きでしたね。改めて小津作品を見てみると、ワンカットに必ず赤が入ってるんです。食器でも、ちょこっと赤の模様が入ったお茶碗ちゃわんが置いてあったり、あと、自宅(のセット)なんかでもやかんが赤だったり、ゴルフバッグが赤だったり。
 表(のセット)だと、ネオンが赤だったり、ポスターが赤だったり。とにかくワンカットに必ず赤が入ってました。その時は気がつかなくて、だいぶ経ってから、私が本を書く時でしたね。プロデューサーの山内静夫さんに「どうして小津先生は、赤をね、ああやってワンカットの中にもお入れになったんですか?」と尋ねたら「それは小津美学。先生は赤が大好きだったんだよ」とおっしゃってました。色も小道具も一つ一つ凝ってらして、本物志向でした。
 ――演出の特徴は?
 自然体で、先生のリズムがあるから、なんか変な演技プランを考えて撮影に臨むと却下なのね。だから私、その後に思ったんですけど、先生の演出っていうのは白紙で行って、まあ抽象的な言い方だけど、先生に、その役の色を塗ってもらう。そういう演出だなっていう感じがしました。例えば首の動かし方、首の動かし方のテンポ、首の上げ下げのテンポ、そういうのまで、全部指導なさいましたからね。だから、こっちのリズムで勝手にやっても全部NGです。やっぱり先生の額縁の中にきちっと収まらなきゃダメでしたね。
 ――右頸部けいぶにがんが見つかり、還暦の誕生日に逝った監督。病魔が憎いですね。
 撮影が終わる頃に「もう1本やろうね」とおっしゃってくれたから、本当に残念です。お見舞いに伺った時もね。「僕は何も悪いことしてないのにね」と言って涙流されてね。本当に今でも思い浮かびます。先生の病床の姿が。もう1本出来れば、もうちょっと、先生の中に入れたかなと思いますね。60歳の誕生日に亡くなられた。早いです。1本と言わず、まだまだ何本も撮っていただきたかったです。
 ――小津作品への出演は岩下さんにとって?
 財産です。ずっと前にフランスの小さな映画祭に招かれ、そのシンポジウムに参加したんですが、ジャーナリストの方たちが何を私に質問したかというと、全部小津監督の「秋刀魚の味」のことでした。「どんな監督だった?」「ローアングルの演出をどういうふうにしたのか?」とかね。本当に小津監督に関しての質問攻めでした。「ここまで世界的になられて、凄いなと思いましたし、出させていただいて改めて光栄だと思いました」
 ――原点ですね。
 「悲しい時に悲しい顔をするもんじゃない」「人間の感情ってそんなに単純じゃないよ」とおっしゃったのが、その後の原点になってるのね、よく考えると。「悲しい時に悲しい顔をしないで」と先生そうおっしゃったから、悲しい時にちょっと笑って言ってみようかとか、怒って言ってみようかなとか、そういうふうに発想が飛んでね。先生のあの言葉が、演技を考えるに当たってすごい原点になってます。独特の演出方法。「秋刀魚の味」に出させていただいたことは本当に光栄なことだし私の宝物です。
 ――記念イヤーは映画館での上映もあるようです。
 やっぱり映画はね、大きな画面で見たい。さらなる魅力が見えてくるし、テレビで見てもそれなりには素晴らしいですが、やっぱり小津監督の作品は映画館で見てほしいです。
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