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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
戦国時代とは、殺すか殺されるかの生き地獄であった。
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2022年1月20日 MicrosoftNews 文春オンライン「山陰の小京都に現れた異景! ヤバい歴史が刻まれた「津和野カトリック教会」を探訪する
かつて城があった地から真っ直ぐに伸びた大通り、歴史を感じさせる白壁の近代木造建築、町のいたる所にある掘割を優雅に泳ぐ鯉……。島根県南西部の穏やかな山間にある津和野町は、城下町時代の佇まいを残す町並みから“山陰の小京都”と呼ばれ、数多くの観光客が訪れる町として知られている。
そんな津和野町の中心部を歩くと、突如、ひときわ目をひく教会のような建物が視界に飛び込んできた。
© 文春オンライン 山陰の小京都に突如現れた“異景”
城下町の一角にそびえ立つゴシック風建築――。“異景”ともいえるような組み合わせにクラクラとしながら建物の中へと入ると、そこは紛うことなき“教会”であった。
なぜ“山陰の小京都”に、このような教会が建てられたのだろうか。ささやかな知的好奇心を胸に、隣接する資料館に入ってみる。
すると、思いもよらず、津和野町の“ヤバい歴史”を知ることとなった。
何人もの殉教者が出ていた地
津和野町は、信仰の自由が認められていなかった江戸時代後期に、信仰放棄の強要に抵抗を続けたキリシタンが流配されてきた地だったのだ――。
資料を一つひとつ読んでいくと、流配が行われたきっかけは、海外文明が日本に入ってくる事態に畏怖の念を抱いていた江戸末期の役人が、信仰心を包み隠さず表明した長崎県浦上のキリシタンたちを恐れ、弾圧を行っていたこと。改宗の強要は江戸幕府から明治政府にまで引き継がれたこと。浦上のキリスト教信者約3400人が捕らえられ、西日本の各地に流配されることとなったこと。その地の一つが津和野町だったこと。津和野町では役人からの拷問が行われ、結果的に何人もの殉教者が出ていたこと……。頭が重たくなるような悲惨な歴史が資料に記されていた。
津和野町の教会は、自身の信念を曲げず、殉教することとなった人々の篤い信仰を称えて、ドイツ人のシェファー神父が昭和3年に建立した(現存する教会は昭和6年に再建された)ものだったことも資料館で知った。
また、津和野に残された“キリシタン弾圧の歴史が刻まれた場所”は教会だけではないそうだ。町外れの山中にある「乙女峠」が、当時、実際にキリシタンたちが改宗を迫られた地であり、弾圧のリアルなさまを現在に伝える建物や碑が数多く残されていると記載がある。
風光明媚なこの町でいったいどんなことが起こったのか。知りたい。そんな思いで現地へと向かった。
山中で行われた過酷な拷問
教会から徒歩15分ほどで「乙女峠」の入り口に辿り着いた。急勾配の山道を登ること、およそ5分で到着したのが「乙女峠マリア聖堂」だ。
禁教令が解かれた後、かつての殉教者たちを思い、祈りの場として建てられた聖堂だという。聖堂内部の壁画には、イエス・キリスト、そして聖母マリアの足元で、迫害の苦しみに耐えるキリシタンたちの様子がステンドグラスに描かれている。
そして、その側に位置するこじんまりとした池。
ここは実際に拷問に用いられていた池だったのだ。旧暦の11月(現在の11月下旬から1月上旬)という真冬。日によっては氷の張るこの池に「裸になって池に入れ」と飛び込まされていたのだという。
私たちが津和野を訪れたのは12月。ちょうど旧暦の11月にあたる頃だ。池の水に手を触れる。すると、数秒で指先の感覚が無くなってくる。こんなにも冷たい水中に体ごと沈められる。
いったい、なぜ、それほどまでに残酷なことが行われたのだろうか。町に残された歴史は本当にすべてが実際に起こったことなのだろうか……。
津和野は“最も拷問が厳しかった”地だった
“山陰の小京都”と呼ばれる、現在の津和野からは想像できない、悲惨な歴史の一端に触れた際に抱いた疑問について、津和野カトリック教会の主任司祭を務める山根敏身さんに話を伺う機会を得た。
なぜ、長閑なこの地で、凄惨な拷問が行われることになったのだろうか。まずは率直な疑問を投げかける。
山根司祭「長崎の浦上で改宗に抵抗したキリシタンが見つかったのは1865年のことでした。そこから、幕府はどうにか改宗をさせないといけないと考えたものの、1868年には戊辰戦争が起こり、会津や箱館は戦争状態にあったわけです。一方、西日本は新政府の支配下にあるという状況でした。そうした事情から、改宗をさせるべく、西日本の20藩22箇所にキリシタンたちが流配されたんです。
津和野が選ばれた理由は、はっきりとはしません。ただし、一つの解釈としてこんなふうに言われることがあります。
御前会議で流配先が決められた際に、各地の大名に受け入れについての賛否を聞き、そのときに津和野の殿様が――田舎者ということもあってか――『説得すれば改宗するだろう』と主張した。津和野の殿様がそんなことを言っているので、周りから『できるものならやってみろ』と。ただし、記録には残っていないので、はっきりとはわからないのが本当のところです」
流配先での拷問は、記録によると、一番優しかったのが鹿児島、一番厳しかったのが萩・津和野だったのだそうだ。そうした差がなぜ生まれたのか、正確なところは明らかになっていないが、当時の支配者の立場によるところが大きかったのではないかと山根司祭は振り返る。津和野で起こった拷問の厳しさ、その実態はどのようなものだったのだろう。
山根司祭「はじめの頃は、――どこもそうでしたが――現地に住まわせて、武士やお寺の僧侶や神社の神官による改宗の説得程度だったようです。説得係を任された人は気の毒だったと思います。最初は浦上から送られてきた田舎の百姓だと思って説得をすることになる。そうすると、説得しようとしている相手から、逆に議論を持ちかけられるわけですからね。『あなたたちは太陽を拝めと言っているが、太陽をつくった神様を拝むべきではないのか』なんていう具合です。簡単ではなかったと思いますよ」
「命を、絶つことになるんですよね」
山根司祭「埒があかなくなったからなのか、当時の役人の本当の意図はわかりませんが、説得は拷問へと変わっていって、雪の降る頃に裸にさせられて池に飛び込めだとか、与える食料を制限して飢餓に追いやるだとか、三尺牢(四方約90cmで身動きの取れない小さな檻)に押し込めたり、着るものを与えなかったり、医療的な面でも……。改宗を迫るために、どんどん厳しい対応になっていったんだろうと思いますよ。かつてのキリシタンたちは、そういう厳しさの中で、そうですね。命を、絶つことになるんですよね」
そうした厳しい拷問の数々に手を染めた役人だが、もちろん人の心はあった。
山根司祭「萩に流配されていた方が病気になって弱っていたんです。そのとき、家族が津和野に流されていることを知った役人――恐らく僧侶か神官の方――は、その人を津和野に送ったんですよ。家族に会った安心感からか、改宗の説得は続いていたものの、その方はすごく元気になって、萩へと戻っていったそうです。厳しいばかりではなく、当時の役人にも人間としての優しさはあったんですね」
しかし、拷問による改宗が求められ続けたことは確かな事実だ。一方で、改宗した人は、乙女峠にある尼寺に住まわせられ、1日米5合、お菜代71文、ちり紙1枚を与えられ、自身で自由に働くこともできるという高待遇を受けることができた。そのため、拷問に至る前段階で改宗する人たちも少なくなかったという。
山根司祭「信仰を捨てた人もいるわけです。その人達は乙女峠にある尼寺に住まわされていました。『改宗したらこんな生活になるよ』と、心理的な圧迫をかけてくるんですね」
山根司祭「ただ、改宗した人は、この世の楽を謳歌するわけではなく、拷問に耐え抜く人たちに食糧を援助していたそうです。
後に明治政府は改宗した人を先に故郷・浦上に帰すわけですが、そのときに、まだ改宗せず抵抗を続ける人が、帰郷する人たちに『この人達はしょうがない。心ならずも改宗した。ただ、この人達のおかげで私達は信仰を貫きながら生きながらえている。だから、どうぞ彼らを赦して温かく受け入れてください』と手紙を持たせていたことが記録に残されています。改宗した人も改宗しなかった人もどちらも辛かったろうと思いますよ。望んでそうなったわけではないんですしね。そんななか、同じ宗教を信じる仲間、お互いがお互いを思い合って、できるかぎりの行動をおこしていたわけですね。麗しい話だと思います」
そうした共助があったことを知ってか知らずか、役人たちは改宗させるべく、互いの間に“軋轢”を生むことに躍起だった。
「可哀想と思われるかもしれませんが……」
山根司祭「役人は、改宗した人たちを指導役に任じて、まだ改宗していない人たちを指導するように仕向けたのです。『改宗したら早く浦上に帰れるよ、こんな贅沢な暮らしが送れるよ』と。軋轢を生み出そうとしたわけですね。
当時、津和野で改宗を迫られていたリーダー・高木仙右衛門は後年、「旅(流配)の話はするな」と子孫に語り継いでいたそうです。なぜかというと、皆が浦上に帰ったあと、誰々は改宗した、誰々は最後まで改宗しなかった、あそこの家の祖先は信仰を捨てて我々を苦しめた、あそこの家の祖先は信仰を貫き通した。お互いがそう言い合って対立と分裂が起こることを避けたかったからでしょうね」
そんな高木仙右衛門をはじめ、当時青年だった守山甚三郎らは後に津和野での経験、藩からの拷問によって亡くなってしまった人たちのリストをつくるなど、いくつかの記録を残した。たしかな記録が残っていることが、いまも津和野が流配の地として有名になっているひとつの理由だという。
山根司祭「一般的には、拷問が行われたことを悲しく、可哀想と思われるかもしれませんが、私としては、この人達は自分の信念を貫いたという意味で信仰の模範というふうに見ています。立派な人として尊敬に値する人。学ぶべき方々というんでしょうか。何よりも、迫害があって、命を捧げたことを知るだけでなく、そこから何かを学ぶことが大切ですよね。命を懸けてまで守るものは、自分にとって何があるのかと考えさせられます。記録が残されているおかげで、私達は一つひとつ学びを得ることができるんです。
そして、信仰に生きるとはどういうことか。これは、信教の自由にもつながっていることなんです。彼らが迫害を受けていたことを外国の公使・大使が日本政府に物申して、それによって迫害を受けていた人たちの生活環境が変化し、流配から解放され、最終的には明治憲法において信教の自由が明記されるようになったわけですからね。そういった意味で、この地でかつて起こっていたことが歴史の中で果たした意義というのは大きいのかなと思っています。悲惨な出来事はたしかに起きた。だからこそ、そこから何を学べるのかということですね」
山陰の小京都に残されたキリシタンの歴史は、これからも残され、語り継がれ、私達に学びを与えてくれる。
写真=山元茂樹/文藝春秋
INFORMATION
津和野カトリック教会
住所 〒699-5605 島根県鹿足郡津和野町後田ロ66−7
電話番号 0856-72-0251
(「文春オンライン」編集部)」
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日本民族の宗教とは、亡き家族の魂を仏として弔って拝み、祖先の霊魂を祖先神・氏神の人神として祀り崇拝する事で、そこにあるのは「畏れと加護の慎み」であって「奇跡と恩寵の信仰」ではない。
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日本に於けるキリスト教関連の非人道的犯罪は、表暗黒史として日本人によるキリシタン弾圧であり、裏暗黒史としては中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易である。
世界は、日本人によるキリシタン弾圧を凶悪犯罪と認めているが、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易は否定していない。
つまり、日本人は人間ではなく、権利が剥奪された奴隷か人間以下の獣・家畜とみなされた。
ローマ教皇は教書を発して、改宗してキリシタンになった日本人は「神に愛された僕・人間」であるから奴隷にする事を禁止した。
敬虔な宣教師達は、奴隷として売られる日本人を積極的に改宗していた。
白人キリスト教徒商人達は、奴隷として売れる日本人が減って金儲けできない為に、カトリック教会に対して教皇教書の緩和を求めた。
ローマ教皇は、イエズス会など全ての修道士会に対して、「神の愛」で異教徒日本人をキリスト教徒に改宗させ、「神の福音」で日本国を悪魔教(天皇・神道・仏教)から解放しキリスト教国に生まれ変わらせるように命じた。
つまり、非文明の野蛮で未開の日本で、神とイエス・キリストの御業である奇跡をおこし恩寵で満たす事を求めた。
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日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連・コミンテルン・中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
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庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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日本人は、悪人、悪党、罪人である。
故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏(阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷であった。
バチカン、ローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
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戦国時代、日本は中世キリスト教会とイエズス会などの修道会による宗教侵略を受けていた。
日本に於けるキリシタン弾圧とは、人類史的世界史的宗教史的な宗教戦争であった。
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国連専門機関の一つであるユネスコ(国連教育文化機関)は、日本人によるキリシタン弾圧を人類が忘れてはならない歴史的記憶であるとして世界遺産に認定し、日本人に残虐な凶悪犯という永遠に残る、日本人が生きている限り消せない烙印を押した。
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天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲、万世一系の男系父系天皇制度である。
天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲で万世一系の男系父系天天皇の神性である。
つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那岐命(イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
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現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズム、ジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
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日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲で万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
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日本民族は、血の繋がった祖先から命・魂(霊魂)、身体、心、志、気持ち、気概を受け継いで産まれ生きてきた尊い人であって、全知全能の唯一絶対神が自分に似せた姿に土塊・塵・ゴミをこねて形を整え命・魂を吹き込み祝福した貴い土人形ではなかった。
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日本人とは、日本列島に住む全ての人間の事で日本民族の事ではない。
帰化人は日本民族の一員とされたが、渡来人は日本人と呼ばれても日本民族から排除された。
何故なら、帰化人は利他として天皇に忠誠を誓い日本国の為に働いたからであり、渡来人は自利として天皇への忠誠を拒否し日本国に叛き自分の為のみに働いたからでる。
昔の歴史は帰化人の神話・物語であったが、現代の歴史は渡来人の話である。
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日本民族は自分の父母・祖父母・曾祖父母・祖先を、「家の神様」として神棚に祀り、「家の仏」として仏壇に納めた。
家の神様や家の仏様は、必ずしも血縁者だけではなく血の繋がりのない赤の他人の他家からの養子も入っている。
日本の世襲とは、そういう意味である。
日本民族の宗教とは、自分につながる祖先を祖先神・氏神様として祀る人神崇拝宗教つまりローカルな家・家族・一族限定宗教であって、天地創造の絶対神の福音を信じる信仰宗教・啓示宗教・奇跡宗教・救済宗教といった人種・民族といった枠組みを超えたグローバルは普遍宗教ではない。
その象徴が、最高神である女性神・天照大神を祀る天皇家・皇室である。
日本の宗教では、仏教が伝来するまでは人が死んで行く死後の世界はなかった。
天上界の高天原も地下界の黄泉国も、死ぬ事がない天孫系(天皇系)の天つ神が住む世界であり、死んでしまう八百万の神である国つ神が行ける世界ではないし、ましてや人が死んでいく世界でもなかった。
死んでしまう国つ神や人は、死んだら神域である鎮守の森・ご神体とされる高い山・大岩・巨木・海の向こうに宿り、家の近く・家族の近くにある地元の氏神神社に鎮座した。
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祖先霊・祖先神・氏神の人神信仰は、命と魂、血と身体、遺伝子とDNAを受け継ぐ事である。
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人は、二人の両親から産まれてくる。
日本民族の祖先な数は?
日本人の命が尊いわけ。
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祖先神・氏神の人神信仰とは、純血の血縁ではなく、混血の地縁である。
一人の日本人には、二人の両親がいた。二人の親には、四人の祖父母がいた。四人の祖父母には、八人の曾父母がいた。
14世代前では、8,192人。
23世代前には、419万4,304人。
25世代前では、1,677万人。
27世代前では、1億3,422万人。
だいたい約700年前の鎌倉時代で、当時の日本の総人口は700万人から1,000万人。
30世代前には、5億3,687万912人。
40世代前には、5,497億5,581万3,888人。
50世代前には、562兆9,499億5,342万1,312人。
100世代前の、祖先の人数は?
指数関数的な増加。
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祖先のうち一人でも欠ければ、今の命は存在しない。
今の命が断たれれば、この後の命は存在しない。
それが、命の重みである。
そして、日本の家である。
昔の日本人は、「命の継続性」という家の枠で、自分と家族の幸せの為に命を守りながら努力して生きていた。
ゆえに、「命の絆」が断ち切られる「死」を穢れとして恐れた。
この世は、生きるに値する。
命は、等しく尊い。
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祖先神・氏神の人神崇拝とは、永遠の命、生命の連続、命の継続として、祖先から子孫への絆であった。
日本民族は、家族・自分の欲得としての短期的願望と家・子孫の理想としての長期的願望を持っていた。
日本民族は、多神教崇拝宗教の信徒であって一神教信仰宗教の信者ではない。
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イザベラ・バード「わたしは死んだ過去の時代の霊魂が私の背後に近づいてくる、と感じた」(伊勢神宮参宮して)
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小林武彦(東京大学定量生命科学研究所教授)「いま、私たちが存在するのは、過去に夥しい死に支えられているから。生き物にとって死とは、進化を実現させるためにある。変化と選択を繰り返して進化し、生き残った末裔が私たちなのです。自分も生まれてきた以上は生を謳歌し、命を次の世代につなぐためにも〝利他的に〟死んでいかなければならないのです」
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ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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