💖16)─1─足軽出身の堀口九萬一公使はメキシコ・クーデターで大統領一家を助けた。大正2(1913)年〜No.62 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 明治・大正で世界的に活躍した政治家・軍人・官僚そして学者の多くが、地方の身分が低い家柄の出身で、子沢山の貧し家庭で厳しく育てられ、世襲に無縁で、親の七光りはなく、自分の学力と能力で実績を積み、時代の必然・場の幸運・人の偶然に恵まれてのし上がっていった。
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 2021年10月3日号 サンデー毎日「これは、アレだな  高橋源一郎
 お(祖)父さんは総理大臣
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 『狼の義』(林新・堀川恵子 角川書店)は、犬養毅の伝記本だが、その中で評論家大宅壮一は『明治の政治的性格は、初期にさかのぼるほど、かえってよりリベラルであった』として、犬養毅大隈重信原敬高橋是清らの名をあげている。明治から戦前にかけて、実は、ある意味で現代よりも、原書を読み海外の事情を深く知り、海外に知己も多い政治家がたくさんいたのである。犬養毅が、亡命中の『中国建国の父』孫文の世話をしたことは有名だ。」
 伊藤博文は、英語が話せる事と交渉能力が高い事が認められて総理大臣になった。
 伊藤博文は、林十蔵の長男として生まれた。
 貧しい小作人であった林十蔵は、縁あって足軽の伊藤家に養子に入り、伊藤博文も伊藤家に家族として迎え入れられた。
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 堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日(元治2年1月28日) - 1945年(昭和20年)10月30日)は日本の外交官、漢詩人、随筆家。号は長城。詩人、堀口大學の父として知られる。
 来歴・人物
 越後長岡藩足軽の子として生まれる。彼が3歳の時、戊辰戦争で父は戦死。
 秀才として知られ、18歳のとき地元長岡の学校で校長となる。上京後、東京帝国大学法科大学に最優秀の成績で入学、在学中の1892年に息子が誕生。後の詩人堀口大學である。その翌年に卒業した。
 1894年、日本初の外交官及領事官試験に合格。外務省領事官補として朝鮮の仁川に赴任中、1895年、閔妃暗殺に際して、朝鮮の大院君に日本側から決起を促した廉で停職処分を受ける。翌1896年に復職するも、外交官としては陽の当たらない道を進むことを余儀なくされた。1898年に公使館三等書記官に任ぜられる。

 太平洋戦争(大東亜戦争)中には「アングロサクソンの残忍性」「今度は米国は負ける」など戦意高揚の文章を書いている。敗戦直後の1945年10月に死去。
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 2021年9月16日号 週刊新潮「変見自在  高山正之
 自国軍が欲しい
 日本人はともかく、どの国も隣の国が安定、繁栄するのを好まない。
 米国も然りで19世紀、メキシコ大使にジョエル・ポインセットを任命した。
 任務は反政府勢力を育て、内乱を起こさせること。
 しかしあと一歩というところで陰謀がバレた。
 ポインセットに与(くみ)した者は処刑され、彼も這々(ほうほう)の体で逃げ出した。お土産はクリスマスの頃に葉っぱが赤く染まる野辺の花だった。
 それは米国で大いに流行って、彼に因んでポインセチアと名付けられた。
 彼の後任大使も内乱誘発を心掛けた。彼から数代後のヘンリー・ウイルソン大使がとうとうウエルタ将軍を唆(そそのか)してクーデターをやらかせ、成功した。
 大統領のマデロは殺され、夫人と子供にも処刑部隊が差し向けられた。
 夫人は日本公使堀口九萬一を頼り、堀口は随員らも含めて保護した。
 部隊が公使館を取り囲むと堀口は入り口の床に日の丸を広げて大音声した。
 『日本と戦争する覚悟で我を倒し、日の丸を踏んで乱入するがいい』
 部隊はその気迫に押されて退散した。
 堀口はウエルタに会って夫人らを亡命先に送り出すことも認めさせた。
 当時の日本は最強の露西亜陸軍を壊滅させ、不沈とされた露の装甲戦艦12隻をすべて沈めた驚異の強国として知られていた。
 戦争は他の手段で行う政治の一形態だと言われる。外交はその最先端での政治行為に外ならない。
 ウエルタは九萬一の気迫に加えて彼の後ろに透けて見える『強い日本』に十分気圧(けお)された。
 『セニョール、何の文句がありましょうや』
 しかし外交官の後ろ盾になってきた大日本帝国陸海軍は戦後、マッカーサー憲法によって廃棄された。
 外交官には気迫しか残さなかったが、GHQによって首相になった幣原喜重郎は『外交は軟弱に限る』を新路線とした。
 この男はワシントン会議で米国に日英同盟を切れと言われると、国益より国際協調とか言って応じた。
 『外交は白人様の言う通り。争わず、譲歩する』がモットーだった。
 かくて戦後外交は気迫も要らなくなった。
 それが見える形になったのが三島割腹事件の後に起きた日本赤軍パレスチナゲリラPFLPのシンガポール襲撃事件だった。
 爆弾を投げ、現地人5人を人質に魚本藤吉郎大使が人質解放を交渉した。
 『ならアンタが身代わりになれば』と言われた。
 前によど号事件があった。日航機をハイジャックした日本赤軍に運輸政務次官の山村新治郎が交渉して乗客の身代わりを買って出た。彼は北朝鮮まで飛んで大任を果たし、男をあげた。
 その機会を与えてやろうと言う日本赤軍。しかし魚本は断った。『それは軟弱外交に反するので』
 膠着に嫌気したPFLPの別働隊が在クウェート日本大使館を襲った。
 石川孝大使は女性職員の更衣室に隠れた。見つかると本省に涙声で『助けて』と電話をかけてきた。
 イラン戦争ではまだ煙も立たない前に日本大使館は安全圏に引っ越した。川口順子外相が『余りに早い』と戻らせたこともあった。
 とっくに外交官は気概も気骨も捨てていた。
 先日の天声人語が早めに撤収したあと『英大使は一人残ってアフガン人協力者の出国ビザにサインし続け』『最後の最後に英軍機で帰国した』と書く。
 日本は自国軍がないけれど現地スタッフを置き去りにして逃げたのは『割り切れない』と続ける。
 それをお前が言うのか。
 戦争も軍靴の響きも嫌い。9条を守ればいいと70年間偉そうに言い続けた。
 軟弱外交もいい。支那朝鮮ごときにも友好で行うと紙面に書き続けた。
 その通りにやってきた外交官を今になって腐す方が割り切れなくないか。
 もうGHQの時代は終わった。はっきり自国軍が欲しい、外交官は気概を持てと素直に要ったらどうか。」
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 2017年12月12日 毎日新聞堀口九萬一 サムライ外交官の功績しのぶ メキシコ赴任中、大統領一族救う 駐日大使が遺品観覧 /新潟
 「美と文学の探策者 堀口大学展」の展示に見入る大使夫妻=長岡市の県立近代美術館で
 詩人の堀口大学の父で長岡出身の外交官、堀口九萬一(1865~1945年)が100年以上前にメキシコ大統領一族を救った縁にちなんで10日、カルロス・アルマーダ駐日メキシコ大使が長岡市を訪れた。同市立中央図書館で開催された「詩人堀口大学と長岡展」で九萬一の遺品などを観覧し、関係者と交流するなどして九萬一の功績をたたえた。【金沢衛】
 九萬一はメキシコ臨時代理公使に赴任中の1913年に軍事クーデターに遭遇。殺害されたフランシスコ・マデロ大統領の一族20人以上が親交のあった日本公使館に逃げ込んだ。人道的立場から一族を保護し、クーデター勢力から守ったことでメキシコでは「サムライ外交官」と慕われている。上院議会が一昨年、九萬一を模範的な生き方としてたたえ日本への感謝を示すため議会内に記念プレートを設置。自国民以外の上院議会での顕彰は…
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 2017年12月14日 朝日新聞「新潟)九萬一に感謝 メキシコ駐日大使が長岡訪問
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 堀口九萬一が愛用したスプーンなどの展示物に見入るアルマーダ大使(右から2人目)=長岡市の県立近代美術館
 駐日メキシコ大使のカルロス・アルマーダ氏が長岡市を訪れ、県立近代美術館で開かれている堀口大学展を見学した。大学の父で外交官だった堀口九萬一(くまいち)が、メキシコ赴任中に遭遇した軍事クーデターの際、当時の大統領の家族らを助けた史実があり、大使が訪問を希望していたという。
 九萬一(1865~1945)は長岡藩士の家に生まれ、大学は長男。ブラジルなどでも公使を務めた。メキシコ臨時代理公使だった1913(大正2)年2月、同国のマデロ大統領がクーデターで殺害された。大統領夫人ら親族20人余りは、親交があった九萬一に助けを求め、日本の公使館にかくまわれた。
 九萬一は自著「世界と世界人」で、公使館が襲われるとの風説を聞き、クーデター指導者に「窮鳥懐に入る。猟夫もこれを殺さず」と人道的な対応を求めたことを記している。大学は当時、九萬一とともにメキシコにいたという。
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 外務省
 深化し続ける絆 ― 日メキシコ外交樹立130周年
 日本とメキシコは,これまで400年以上にわたり友好的な関係を築いてきました。特に明治政府発足から20年後(1888年)に締結された「日墨修好通商航海条約」は,日本悲願の平等条約であり,当時の日本政府にとって,そしてその後の日本外交にとって,非常に大きな意味を持つものでした。外交樹立から130年を迎えた今,日本とメキシコ両国の,国と国,人と人との絆について改めて振り返ります。

 メキシコに渡った日本人と「サムライ外交官」
 日墨修好通商航海条約の締結から9年後の1897年,メキシコ南部のチアパス州に35人の榎本植民団が入植しました。これはペルーより2年,ブラジルより11年も早い,中南米への初の組織的移住となりました。以降日本とメキシコは,太平洋という広い海をまたいで,国と国,人と人との絆を大切に育んできました。当時の両国間の信頼関係を表すエピソードのひとつに「サムライ外交官」の活躍があります。メキシコ革命時の1913年,ウエルタ将軍がクーデターを起こした際,その標的となったマデロ大統領の親族たち20名以上が助けを求めて逃げ込んだのは,日本の公使館でした。当時の臨時代理公使だった堀口九萬一氏(詩人の堀口大学の父)は,公使館が攻撃される可能性もありながら,同親族を保護したのです。2015年にメキシコ上院議会は,両国間の平和と人道の証として堀口九萬一氏を顕彰する決議を採択。この史実は,メキシコ国民と日本国民の関係の歴史上,最も美しい1ページのひとつとして,今も現地で語り継がれています。
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 在メキシコ日本国大使館
 マデロ大統領家族に対する日本公使館の庇護に関するメキシコ連邦上院決議記念プレート除幕式及びメキシコ空手連盟による空手道実演
 4月21日、メキシコ連邦上院議会において、マデロ大統領一族に対する日本公使館の庇護に関し日本国民への感謝を記した記念プレートの除幕式が開催されました。この記念プレートは、パトリシオ・マルティネス・ガルシア上院議員の発意により、2月26日に上院本会議において採択された決議に基づくものであり、同決議は、1913年のマデロ大統領家族に対する日本国公使館の庇護に関して、日本国民、日本政府、外交官堀口九萬一の親族に感謝し、この史実をメキシコ国民と日本国民の関係の歴史の最も美しい1ページとして語り継ぐとしたものです。同プレートは、「1913年2月の苦難の日々における、その模範的な生き方とマデロ大統領家族に対する保護に関して、堀口九萬一と偉大な日本国民に捧げる」と刻まれており、上院議場中庭の栄誉の壁に飾られる予定です。
 同式典には、ミゲル・バルボサ・ウエルタ連邦上院議会議長、テオフィロトーレス・コルソ連邦上院議会アジア太平洋外交委員会委員長、パトリシオ・マルティネス・ガルシア上院議員、和久井伸孝日墨協会会長と共に、山田大使が出席しました。バルボサ上院議長は、堀口九萬一臨時公使がその倫理、道徳心に誠実に従い、マデロ大統領一族を庇護したこの史実は劇的であり、悲痛さ、苦しみを伴うものであるが、他方、日墨両国間にとっては偉大な勝利であると述べました。また、トーレス委員長は、堀口九萬一臨時公使の英雄的行動は、外交という観点だけで行われたものではなく、人道主義の立場から行われたものであり、日墨両国が400年以上にわたり築いてきた互いに尊敬しあう友好関係から生まれたものである等と述べました。
 また除幕式に先立ち、福田純子メキシコ・ナショナル・コーチ(全日本空手道連盟公認六段、糸東流)が、迫真の形の演武を披露したほか、メキシコ空手連盟所属選手たちによる約束組手等が披露されました。
 注:1913年2月9日、メキシコ革命の最中、悲劇の10日間と呼ばれるウエルタ将軍によるマデロ大統領に対するクーデターの際、マデロ大統領夫人、同父母の親族20名以上が日本国公使館に駆けつけ、一族の親しい友人であり、また臨時代理公使であった、堀口九萬一に庇護を求めた。堀口臨時代理公使は、ウエルタ将軍一派が日本公使館を攻撃すると見られていたにもかかわらず、一族の保護を続けた。クーデター後、マデロ大統領及び政権関係者は殺害されたが、一族は無事に公使館を出ることが出来た。この堀口臨時代理公使の人道的対応は、メキシコ国内において幅広く評価され、政権に就いたウエルタ大統領自身からも称賛されたと言われるなど、両国の友情を示す多くの逸話の1つとして知られている。
http://www.mx.emb-japan.go.jp/reconocimiento2015jp.html
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敗れし國の秋のはて 評伝 堀口九萬一
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 アメリカは、北米のメキシコやアルゼンチン、ブラジル、ペルーなどの中南米諸国で親日派知日派が増える事は国家安全・国家存立を脅かし、日本政府の国策としての中南米諸国への日本人移民促進を「静かな侵略」と認識し危機感を強め、日本を南北アメリカ大陸から追放し国力を削ぐ為の対日強硬策を採用した。
 アメリカは、日本を追い詰める対日強硬策として利用したのがファシスト中国(中国国民党)と中国共産党であった。
 その先兵手として協力したのが、日本・中国・朝鮮などアジア地域で信者を増やしていたアメリカ・キリスト教諸派ユダヤアメリカ報道機関(新聞や雑誌)であった。
 アメリカの国民世論は、急速に反日となっていった。
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 後年、親ユダヤ派の松岡洋右外相は、国内に増えるポーランドユダヤ人難民を減らす為に中南米諸国で受け入れてくれる国を探した。
 反ユダヤ感情が強いアメリカは、松岡洋右の外交をモンロー主義に基ずく安全保障に対する脅威として認識して警戒を強めた。
 松岡洋右は、詳しいアメリカ情勢を知る為に、信頼できる日本人外交官に反人種差別団体や人権派活動家に接触する密命を与えていた。
 FBIは、反政府・反白人の黒人・ユダヤ人への松岡コネクションを警戒した。
 中南米諸国は、一度はユダヤ人難民の上陸を認めたが、アメリカの強力な外圧(脅しに近い)に屈してユダヤ人難民を乗せた日本の輸送船の入港を拒否して追い返した。
 松岡洋右は、天皇の名誉と国家の責任として、アメリカとイギリスとの外交正式ルートを利用して、安全な航路を使ってアメリカ本土やパレスチナへの安全輸送を続けた。
 アメリカは、日本政府に対して、外務大臣松岡洋右は和平交渉の障害であるとして更迭を求めた。
 近衛文麿首相は、和平交渉を成立を優先して松岡洋右を解任した。
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 日本軍部、特に日本陸軍ポーランドユダヤ人難民救護に積極的に協力していた。
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 親ユダヤ派の昭和天皇は、ヒトラーナチス・ドイツから逃げて来たポーランドユダヤ人難民の保護と安全地帯への出国を望んでいた。
 これが、皇道主義に基づく八紘一宇の精神と靖国神社の心・志である。
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 戦後、敗戦国日本ではポーランドユダヤ人難民を助けた日本人の多くが戦争犯罪者とされ、杉原千畝は外務省から追放され、東条英機松井石根らは見せしめ的リンチ縛り首で殺され遺灰は海に捨てられた。
 松岡洋右の評価は、善人ではなく悪人で、有能ではなく無能というので一致しいる。
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 日本の常識では「情けは人の為ならず」としてお人好しに徹して人助けをしたが、世界の常識は「人助けは愚かな行為」として自分の命や家族を守る為に他人を助けず見捨てた。
 ホロコーストにおけるユダヤ人の悲劇は、世界の常識が生んだ事である。
 事実、同じ国民・隣人として生きてきたヨーロッパ人は、ユダヤ人を庇って処刑されない為にユダヤ人をヒトラーナチス・ドイツに引き渡した。
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 現代の日本人は善人であろうと独力を重ねている。
 が、日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
 日本が信用され日本人が愛されているのは、戦前の軍国日本が行った数々の歴史的な自己犠牲による人道貢献と平和貢献・勝利貢献であって、戦後の平和憲法下で人道貢献と平和貢献を拒絶する現代日本人ではない。
 その証拠が、湾岸戦争で組織された多国籍軍自衛隊を派遣して参加せず、自分が死にたくない為に、戦死する他国の若者達に戦争資金を出して逃げた事である。
 つまり、友・友人、親友から生死を共にして戦う戦友を切り離した事である。
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