🏯97)─1─足軽の語源は古代ペルシャ(現・イラン)で遣唐使によって日本に伝来した。〜No.189No.190 ⑭ 

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 武士かどうかは武器を持って、主君に忠誠を誓い命令に従って合戦に参加して敵を殺すかどうかである。
 足軽は、合戦に参加する為に下級武士である。
 小者・中間(ちゅうげん)・奉公人そして人足は、武士に仕えて雑務を行うが、合戦に参加せず逃げ回ったから武士ではない。戦場で乱取りをしたのは、主に彼らであった。
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 豊臣秀吉は、足軽から天下人に出世した。
 平賀源内は、足軽の三男。
 佐藤一は、足軽から新撰組隊士。
 山県有朋は、足軽から元老になった。
 伊藤博文は、小作人から足軽になり元老になった。
 堀口九萬一は、足軽から外交官。
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 2021年11月号 WiLL「昨今の日本の外交官はすぐ逃げる  高山正之
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 日本と中東はけっして遠くはない。イランで武士階級のことを『アシュカリ』と言う。テヘラン特派員時代の助手は姓だけでなく名にもアシュカリがつく武人の家柄だった。この言葉はササン朝ペルシャが滅びた後、ペルシャの王子ピールーズの唐亡命によって中国にまでもたらされ、遣唐使とともに日本に入った。源平時代に突如として使われ始めた『足軽(あしがる)』の語源と言われる。
 王子ピールーズが唐に流行らせたものは多い。詩人の白楽天ペルシャ女性の踊るペルシャダンスを見て『胡旋女』と題する漢詩を書いている。
 『弦鼓一聲袖擧/回雪飄搖轉蓬舞/左旋右轉不知疲・・・(絃と鼓が一斉になると両手が上がり、雪のように廻り、蓬{よもぎ}のように舞う。左に旋回し右に回転して疲れをしらぬ)』と。
 その時代には李白阿倍仲麻呂長安にいた。ペルシャ人が持ち込んだ食べ物の1つが『カバブ』だ。ペルシャダンスを見ながら仲麻呂もきっと食べたに違いない。カバブは羊肉を串刺しにして炭をおこした細長い火桶の上に渡して焼く。テヘランのレストランの厨房でそれを見たが、その佇まいは蒲焼屋のそれと同じだった。おまけに炭はイランの森にある『鉄の木』。日本語に訳せばウバメガシ。つまり備長炭だ。それはまさに蒲焼そのものと言ってもいい。
 ちなみに蒋介石が日本人240人を虐殺した通州事件を載せない岩波『広辞苑』は蒲焼の語源を『ガマの穂に似ているから』と実にいい加減を書く。ガマ(蒲)がカバに訛(なま)るわけもない。奈良の正倉院には漆胡瓶(しっこへい)があるが、これもペルシャ産だ。
 たとえば韓国には『いい加減でいいじゃないか』という意味の『ケンチャナヨー』がある。支那にも『没法子』がある。ロシア語にもイスラム系にも『インシャアラー』とかがある。ただペルシャ人にはいい加減を許さない言葉がある。いい加減な奴を『チャランデパランデ』と言う。日本語の『チャランポラン』と同じ意味だ。足軽を含め、カバブが日本に伝わって蒲焼になったと考えた方が、はるかに理解がしやすい。
 かくも中東、とくにペルシャとは日本は文化面で交流があったが、これがアフガンになると、様相(ようそう)がまったく異なる。
 今回のアフガン陥落について、朝日は8月17日付の社説で『アフガンと米国「最長の戦争」何だった』と題して、《テロの根源は、各地に広がる紛争や差別、貧困であり、失敗国家をなくさない限り、安全な世界は築けない。同時多発テロから学ぶべき教訓を生かさず、軍事偏重の行動に走り続けた結果、疲れ果てたのが今の米国の姿ではないか》と批判した。要するに米国のせいでアフガンが混乱しているというわけだが、イスラム思想研究家の飯山陽は、朝日の批判はまったくの町外れだと反論している。産経の『報道されないアフガン「不都合な真実」』(8月29日付)がそれだが、飯山の指摘はその通りだ。」
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 足軽は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。
 平安・鎌倉・室町時代
 発生は平安時代とされ、検非違使の雑用役・戦闘予備員として従軍した「下部」が足軽の原型とされる。鎌倉時代中期頃まで、騎馬武者による一騎討ちを原則としたことから、足軽は従者や運搬などの兵站や土木作業に従事させられることが多かった。
 南北朝時代に悪党の活動が活発化し下克上の風潮が流行すると、伝統的な戦闘形態は個人戦から集団戦へと変化し始め、足軽の活躍の場は土一揆国一揆にも広まった。応仁の乱では足軽集団が奇襲戦力として利用されたが、足軽は忠誠心に乏しく無秩序でしばしば暴徒化し、多くの社寺、商店等が軒を連ねる京都に跋扈し暴行・略奪をほしいままにすることもあった。
 応仁の乱時、東軍の足軽(疾足)300余人が宇治神社を参詣する姿を人々が目撃したものとして、「手には長矛・強弓を持ち、頭には金色の兜や竹の皮の笠、赤毛など派手な被り物をかぶり、冬だというのに平気で肌をあらわにしていた」という。一方で、雲泉太極の『碧山日録』には、「東陣に精兵の徒300人あり、足軽と号す。甲(かぶと)を擐せず、矛をとらず、ただ一剣をもって敵軍に突入す」と記され、兵装に統一性がなかった事がわかる。『真如堂縁起』には、足軽達が真如堂を略奪している姿が描かれているが、兜をつけず、胴具は身につけているものの下半身は褌一枚の者、半裸の者など無頼の姿である。
 また、足軽を雇ったのは大名といった武家に限らず、東寺など寺社勢力も自衛のために足軽を雇った。東国では太田道灌が「足軽軍法」という名で活用するが、足軽を直属軍に編成した足軽戦法の祖とされる。
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