💖2)─3・A─日本赤十字社の戦争協力と人道貢献。従軍看護婦は靖国神社の乙女。~No.4No.5 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
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 日本軍は戦局が許す限りにおいて、日本赤十字社に協力し、従軍看護婦の救護活動に便宜をはかった。
 従軍看護婦の殉職者は、靖国神社の祭神として祀られた。
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 現代の歴史教育は、戦前の日本軍部の下で行った人道貢献や平和貢献を認めず歴史の闇に葬っている。
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 日本赤十字社
 名誉総裁(Honorary president)とは、国際機構もしくは公益法人、政党などが設置する栄誉職または称号を意味する。
 日本では、天皇ないし皇族などがその地位に就くことが多い。一例として、日本赤十字社では、法人代表者である社長の上位に名誉総裁・名誉副総裁が置かれ、名誉総裁は皇后が、副総裁はその他の皇族が務める。ともに、法人の運営や予算執行には関与しない名誉職である。功労あった看護師・助産師に贈られるフローレンス・ナイチンゲール記章の授与式に臨席し、贈章・授与を行う
 名誉副総裁
 また、日本赤十字社では名誉副総裁の職を定め、文仁親王妃紀子常陸宮正仁親王、正仁親王妃華子、崇仁親王妃百合子、 寬仁親王妃信子、憲仁親王妃久子が就任している。
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 赤十字情報プラザ
 Vol.8 日露戦争~捕虜の救護
 日露戦争は1904(明治37)年2月に勃発し、約1年9ヶ月の間に多くの傷病者を出ました。日本赤十字社はこの間に152の救護班、約5,170人の救護員を満州や朝鮮などの戦地、大陸と日本を往復する病院船、また国内の軍病院などに派遣しました。
 上:負傷ロシア人捕虜の治療
 下:下賜された義足を手にするロシアの負傷兵
 上:負傷ロシア人捕虜の治療
 下:下賜された義足を手にするロシアの負傷兵
 日本赤十字社の救護活動は、日本兵だけにとどまらず、ロシアの傷病兵や俘虜(捕虜)に対しても同様に行われました。
 これは国際法により、傷病兵は敵味方の差別なく救護しなければならず(*1)、俘虜には博愛の心をもって接するよう(*2)に決められていたためです。
 また日本赤十字社が救護活動を行った松山俘虜収容所では、皇后陛下(後の昭憲皇太后)から失明や手足切断を余儀なくされたロシア兵に義眼、義肢が下賜されました。
 これらの活動に対してはロシア兵からも厚い信頼が寄せられ、ロシア赤十字社やロシア軍病院長から謝状が日本赤十字社に贈られました。
 *1 戦地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ関スル条約(赤十字条約)〔1886(明治19)年加入〕
 *2 陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約付属書〔1900(明治33)年批准〕
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 Vol.9 社史稿~日本赤十字社の記録
 写真左から
 『日本赤十字社史稿』(明治10年明治40年)、『日本赤十字社史続稿上・下巻』(明治41年大正11年)*、『日本赤十字社社史稿』**第4巻(大正12年昭和10年)、第5巻(昭和11年~昭和20年)、第6巻(昭和21年~昭和30年)、第7巻(昭和31年~昭和40年)、第8巻(昭和41年~昭和50年)、第9巻(昭和51年~昭和60年)、第10巻(昭和61年~平成7年)、第11巻(平成8年~平成17年)、第12巻(平成18年~平成27年
 "社史稿"とは、「社史を作るためのもとになる原稿」という意味です。初巻の『日本赤十字社史稿』は、当時の松方正義第2代社長の「緒言」(巻頭言)の日付から「明治44年12月」(1911年)頃に発行されたと考えられています。
 博愛社の誕生から明治40(1907)年までを記録した初巻のページを開くと、「博愛社ノ創立」、「日本赤十字社ノ成立及発達」、「明治十年西南戦役ニ於ケル救護」(西南戦争)、「明治二十七八年戦役ニ於ケル救護」(日清戦争)、「明治三十七八年戦役ニ於ケル救護」(日露戦争)などの項目が並んでいます。
 「博愛社ノ創立」の項では、慶応3(1867)年のパリ万博で初めて赤十字の存在を知った佐野常民が、明治6(1873)年のウィーン万博でその発展に刺激を受け、明治10(1877)年の西南戦争の際に大給恒(おぎゅうゆずる)とともに博愛社の設立に奔走する様子が描かれています。
 博愛社から日本赤十字社に改称して初めて正式参加した「第4回万国赤十字総会」(第4回赤十字国際会議:1887年にドイツで開催)の記録も同巻に残されています。
 「欧州以外ノ交戦ニ際シテ救護ヲ加フヘキヤノ問題」(ヨーロッパ以外での戦争の際に救護活動を行うべきかどうかという議案)の提案について、「そもそもジュネーブ条約は人類が互いに相憐れむという気持ちから発したもので・・・(中略)そこに地理学的境界を定めるということならば日本は退席する」という発言を日本代表の石黒忠悳(ただのり)(後の第4代社長)が行ったことから、議題は撤回されたと記されています。
 『日本赤十字社史続稿上・下巻』で、明治41(1908)年から大正11(1922)年まで、第一次世界大戦救護やポーランド孤児救護などが記録されています。次巻から『日本赤十字社社史稿第○巻』と表記されるようになり、第4巻は大正12(1923)年から昭和10(1935)年まで、第5巻[昭和11(1936)年~20(1945)年]以降は、10年間ずつに区切って編纂されるようになりました。 そしてこのほど、平成18 (2006)年~27(2015)年をまとめた第12巻(詳細はこちら)を発行しました。
 *『日本赤十字社史稿』、『日本赤十字社史続稿上・下巻』は、第1-3巻にあたる。
 ** 第4巻以降の書名は『日本赤十字社社史稿』。
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 Vol.10 ポーランド孤児救済
 ロシア革命後の内戦に巻き込まれたシベリア在住のポーランド人は、飢えと寒さ、疫病などで過酷な生活を送っていました。男性は義勇軍として戦場に駆り出され、女性も子どもを残し死んでいく者が多く、後には多くの孤児たちが残されました。
 これらシベリアのポーランド孤児のうち、1歳から16歳までの765人が、1920年大正9年)から1922年(大正11年)にかけて2回にわたり、日本赤十字社の援助により日本経由で故国の土を踏みました。これは日本赤十字社の最初の外国人難民支援活動でした。
 第1回目の孤児たちは1920年7月に来日し、約1年間の日本滞在の後横浜から米国経由で、2回目の孤児たちは大阪で生活し神戸から欧州航路で、それぞれポーランドに帰国しました。
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 日本赤十字社
 戦争の記憶を語りつぐ~殉職救護員慰霊碑・看護婦立像
 殉職救護員慰霊碑と看護婦立像
 日本赤十字社(以下、日赤)の本社社屋(東京都港区)の前庭には、昭和34年の赤十字思想誕生100周年の際、イタリア大使を通じて贈られたソルフェリーノの丘の糸杉の木や、日赤創立100周年(昭和52年)を祝ってギリシャ赤十字社から贈られたヒポクラテスの木(医学の祖ヒポクラテスにちなんだスズカケの木の愛称)など、赤十字ゆかりの木が立ち並んでいます。
 そんなみずみずしい緑の木々が生い茂る前庭の一角に、日赤の殉職救護員慰霊碑と看護婦立像が設置されています。日赤本社は毎年8月15日、この慰霊碑と立像への献花を行っています。
 この慰霊碑と救護看護婦立像は、日赤創立以来、いくつもの戦地や事変地あるいは災害の現場で救護活動に従事し、殉職した救護員の尊い犠牲を忘れず、その御霊を慰めるため、日本赤十字社創立100周年記念事業として昭和52年に建立されたものです。
 慰霊碑には明治27年日清戦争から第二次世界大戦において戦時救護に服し、殉職した1317人と、関東大震災や集中豪雨災害などの際の救護による殉職救護員9人の計1326人の、名簿と各人の功績を収録した「遺芳録」が納められています。
 世界の脚光を浴びた日赤の看護婦
 日清戦争が始まる少し前、華族女学校の教師などを勤めた高山盈子(たかやまみつこ)(1843~1903年)は日赤の看護婦取締(現在の総婦長にあたる)に就任しており、開戦2日後の明治27年8月3日、20人の看護婦とともに第1班として広島の予備病院に向かいました。
 これが日本の職業看護婦の最初の従軍活動といわれています。
 明治37年には日露戦争が勃発。日清戦争の時とは異なり、日赤が明治23年から全国規模で養成を続けてきた看護婦は、その技能を十分に発揮するところまで成長を遂げていたといわれています。
 ロンドンで明治42年に開催された国際看護婦協会大会に、日本から初めて参加した萩原タケは、「日本の看護婦の特徴を一言で表すとすれば、それは“規律”です」と表現したといいます。
 その後、第一次世界大戦時に派遣された従軍看護婦たちは、語学に堪能で技術的にも優れ、その活躍ぶりは世界的にも脚光を浴びたということです。
 69年目の終戦記念日を迎えて
しかしその後、昭和12年日中戦争を皮切りに始まった第二次世界大戦で、従軍看護婦たちは苦難の道のりを歩むことになります。昭和12年に限っても派遣された救護班は149班、計3,573人に上りましたが、数万人規模の負傷者を前に、十分な救護活動は展開できなかったといわれています。
 そのような中で、28歳の若さで伝染病に倒れた宮崎まき婦長は、従軍看護婦の最初の殉職者となりました。
 日赤が昭和12年から20年にかけて、国内外に派遣した医師、看護婦らで構成された救護班は960班3万3,156人に達し、その中には看護婦長1,888人、看護婦2万9,562人が含まれていました。
 しかし、終戦を迎えても国外から日本に帰還できない救護班や、国内の軍関係の病院で引き続き任務にあたった救護班は340班もありました。日本軍が崩壊した後も、従軍看護婦たちの戦争は終わっていませんでした。救護班要員の引き上げは昭和30年まで続き、殉職した日赤の要員は1,187人に及び、この大半は看護婦であるといわれています。
 本日8月15日は、戦後69年目の終戦記念日。戦争の記憶の継承が難しくなっているといわれる昨今、毎年恒例の献花は、埋もれつつある歴史を再発見する機会を与えてくれます。万緑とセミの声があふれる8月、各地では多くの平和祈念行事が執り行われています。これを機に、戦争体験者の方がたの声に耳を傾けてみませんか?
 「頼まれて、戦争体験談を話すことがありますが、熱が入ると『そんなに戦争が好きか』と誤った質問が時にはあります。とんでもない。体験者だからこそ、戦争のおろかさ、平和の尊さを語り伝えねばならないのではないでしょうか」
 -元日赤従軍看護婦の会『日本赤十字従軍看護婦~戦場に捧げた青春~』より
 ※現在では「看護師」という呼称が一般的ですが、本稿では当時の時勢を反映してあえて「看護婦」という呼称を使用しています。
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 従軍看護婦は、軍隊に随伴して野戦病院などに勤務して医療活動を行う女性看護師である。
 日本の従軍看護婦
 帝国陸海軍
 日本の従軍看護制度が始まったのは明治20年代と言われる。1890年(明治23年)4月に、日本赤十字社看護婦養成所に10名が一期生として入校した。養成期間は3年で、卒業後には20年間にわたり応招義務が課せられた。
 根拠となる養成所規則には「20年間ハ国家有事ノ日ニ際セバ本社ノ招集ニ応ジ」とあり、のちに応招義務年限は15年、さらに12年へと短縮されたものの、この規則の効力は旧日本軍解体後の1955年(昭和30年)1月16日まで存続した。
 日本赤十字社看護婦養成所を卒業した者は、平時には日赤病院その他に勤務し、戦時招集状が届けば、いかなる家庭の事情があろうとも、戦地に出動するのが原則であった。事実、太平洋戦争(大東亜戦争)時には、産まれたばかりの乳飲み子を置いて、招集に応じた看護婦も少なくない。
 1891年、新島八重篤志看護婦になり、1894年には日赤京都支部が救護員を広島予備病院に派遣するや、新島は看護婦取締を託され、同院第三分院に勤務した。新島以外では篤志看護婦は上流階級の女性が多かった。
 日清戦争において、はじめて日赤看護婦が陸海軍の病院に招集され、活躍をした。当時のマスコミは、その壮挙を大いにたたえ、「従軍看護婦」として宣伝したため、たちまち国民にその存在を認知されることになった。日清戦争では、25名の救護員が殉職しているが、うち看護婦は4名であった。内地勤務であるので、戦地ではない。伝染病罹患による病死であった。
 日清戦争後の論功行賞において、招集された日赤看護婦は叙勲の対象になったため、新しい女子の職場として,大いに看護婦の人気が高まった。
 日露戦争中の日本の従軍看護婦
 日清戦争の教訓から、1901年(明治34年)12月の日本赤十字社条例(勅令223号)が改正され、第1条において
 「陸海軍ノ戦時衛生勤務ヲ幇助ス」
 「陸軍大臣海軍大臣ハ第1条ノ目的ノ爲日本赤十字社ヲ監督ス」
 「救護員ハ陸海軍ノ規律ヲ守リ命令ニ服スルノ義務ヲ負フ」
 「看護婦長及看護人長ノ待遇ハ下士官ニ、看護婦、看護人ハ兵ニ準ス」
 と規定され、日赤看護婦と陸海軍の関係は、不即不離のものとなる。
 日露戦争においては2160名もの日赤看護婦が従軍し、39名の犠牲者を出した。(看護婦長2名、看護婦37名)ただし、日露戦争でも全員が内地勤務で、犠牲者も病死である。1907年靖国神社に合祀された。日露戦争当時、広島で赤十字病院の看護婦になった新島八重の写真が残されている。
 第一次世界大戦、シベリア出兵において、はじめて病院船への乗り組み、外地勤務が命じられた。
 1919年(大正8年)、それまで平時の陸軍の病院には看護婦は全く存在しなかったが、東京衛戍病院において試験的に看護婦を採用したところ、大変に評判がよかったので、翌年からすべての陸軍衛戍病院において看護婦を採用し、「陸軍看護婦」と称するようになった。はじめは陸軍看護婦は、日赤看護婦養成所の卒業生からのみ採用していたが、のちには一般の看護婦資格を有するものからも採用した。その待遇は傭人であったが、陸軍部内限り、婦長は「伍長相当待遇」看護婦は「二等兵相当待遇」であった。戦時においては陸軍看護婦も日赤看護婦と同じく、外地での勤務も命じられた。
 満州事変中の日本の従軍看護婦。(1931年9月)
 その後、日中戦争が勃発し戦線拡大すると、従軍看護婦の不足と従軍者の補充が大きな問題となった。そこで、日赤は従来3年だった救護看護婦の教育期間を2年半に短縮した。太平洋戦争勃発後の1942年には従来の救護看護婦(高等女学校卒業)を甲種看護婦に格上げし、新たに乙種看護婦(高等小学校卒業の学歴で、2年間の教育)という速成コースを設けるとともに、採用年齢の下限を従来の18歳から16歳にまで引き下げた。
 満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)で、うち1,120名が戦没した。太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名にも上った。応召中の日赤看護婦は15,368名であった。海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは欠けている。
 敗戦直後、旧海軍が日本人慰安婦を、軍病院の看護補助者に雇用せよとの通達が発見されている。
 従軍看護婦と外国
 1890年、和歌山県沖にてトルコ軍艦エルドグロール号(一般的には エルトゥールル号 として知られている) の沈没に、日本赤十字の看護婦2名派遣(後、2名増員)。1892年の千島号とイギリス船ラベーナ号の衝突(愛媛県沖)には日本赤十字愛媛支部が俊野イワ(正式に訓練をうけた第2回生)が派遣された[10]。1900年の北清事変ではフランス人を広島陸軍予備病院で治療した。日露戦争ではワリヤーク号の負傷者が仁川臨時赤十字病院、病院船、県立松山病院で治療ほかでも佐世保海軍病院その他で活躍した。第1次世界大戦では、ドイツ軍捕虜を青島と四国で治療している。
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 日本赤十字社(英: Japanese Red Cross Society、仏: Société de la Croix-Rouge du Japon、西: Sociedad de la Cruz Roja Japonesa)は、日本における赤十字社。1952年(昭和27年)に制定された日本赤十字社法によって設立された認可法人。社員と呼ばれる個人及び法人参加者の結合による社団法人類似組織である。略称は「日赤」(にっせき)。
 前身たる博愛社は1877年の西南戦争時に設立された。1886年明治19年ジュネーヴ条約に調印した日本政府の方針により、翌1887年(明治20年)に日本赤十字社と改称した事が現在の日本赤十字社という呼称の始まりである。
 代表者である社長は、大塚義治(元・厚生労働省事務次官)。名誉総裁は皇后雅子。名誉副総裁には、代議員会の議決に基づき、各皇族が就任している。

 歴史
 博愛社として
 元熊本洋学校教師館ジェーンズ邸で有栖川宮熾仁親王から日本赤十字社の前身組織である博愛社設立の許可を受ける佐野常民
 日本赤十字社の前身は旧田野口藩主の伯爵大給恒(おぎゅう ゆずる)や元老院議官で後に伯爵となった佐野常民(さの つねたみ)、同じく後に子爵となる桜井忠興(さくらい ただおき)らが、西南戦争時の1877年(明治10年)に熊本洋学校(くまもと ようがっこう)に設立した博愛社(はくあいしゃ)である。佐野らは、「戦争の悲惨な状況が拡大していること」に鑑みて、陸軍省に「敵味方の区別なく救護を行う」という赤十字の精神を発現する博愛社として、救護班を派遣することを願い出た。しかし、陸軍卿代行の西郷従道明治維新の功労者西郷隆盛実弟)は、「内戦は国家間戦争とは異なり、逆賊=犯罪者の救護は赤十字の救護とは言えないのではないか」と、その精神に理解を示せず、設立を許可しなかった。そこで、佐野らは元老院議長で征討総督の有栖川宮熾仁親王に直接、設立と救護班の派遣を願い出る。逆徒であるが天皇の臣民である敵方をも救護するその博愛の精神を熾仁親王は嘉し、中央に諮る事なく設立を認可した。ただ「敵味方ともに助ける」というその思想が一般兵士にまでは理解されず、反乱士族側と明治政府軍側の双方から攻撃もしくは妨害などを受け死者が出たと言われている。
 日本赤十字社
 明治20年日本赤十字社の初代総裁である小松宮彰仁親王
 日本赤十字本部 1910年(明治43年)当時
 東京の日本赤十字病院 1910年(明治43年)当時
 第一次大戦で欧州に向かう日本赤十字の医師・看護団。1915年(大正4年
 博愛社は国際赤十字の精神を発現する団体として創設され、赤十字として認知されるよう活動していたが、1886年明治19年ジュネーヴ条約に調印した日本政府の方針により、翌1887年(明治20年)に日本赤十字社と改称し、特別社員および名誉社員制度を新設し、初代名誉総裁に小松宮彰仁親王が着任した。当時西欧の王室、皇室は赤十字活動に熱心であり、近代化を目指す日本の皇室でも昭憲皇太后明治天皇皇后)が初代名誉総裁を務め積極的に活動に参加し、正式紋章「桐竹鳳凰赤十字章(とうちくほうおうせきじゅうじしょう)」は、昭憲皇太后の宝冠のデザインを模倣して制作・制定された。同社の活動に際しては、華族や地方名望家がその指導的立場に就いた。また、当初、活動の本拠が置かれたのも、東京都千代田区の子爵桜井忠興邸であった。
 1888年明治21年)6月、支部設置を決定した他、有功章、社員章を制定した。 全国に赤十字運動への理解と普及を目指す最中、1888年明治21年)7月、福島県磐梯山が、巨大な水蒸気爆発により山体崩壊を招き、大災害を引き起こした。 このため、当時国際紛争解決にむけた人道組織であった赤十字を、自然災害にも活用すべく政府に願い出た。赤十字として国際的にも例がない戦時以外の活動であったが、政府は了としたため、瞬時に救護班を現地へ派遣、救援活動を行った。
 日清戦争(1894年(明治27年) - 1895年(明治28年))時には、初めて国際紛争の医療救護班を戦地に送り出した。この時、帝国陸軍近衛師団軍楽隊楽手でもあった加藤義清が出征する友人を見送りに駅に行った際、同じく大陸の戦地に向けて出発しようとしている日本赤十字社従軍看護婦達の凛々しい姿に強い感銘を受け、一夜で作詞したといわれている軍歌『婦人従軍歌』がある(従軍看護婦を唄った歌曲は世界的にも珍しく、同時に明治日本軍歌を代表する曲の一つに数えられている)。
 1901年(明治34年)には明治天皇の名による勅令により「日本赤十字社条例」が設置され、「日本の陸軍大臣海軍大臣の指定する範囲内において陸海軍の戦時衛生勤務を幇助すること」ができるようになった。
 日露戦争(1904年(明治37年) - 1905年(明治38年))が起こると、日本赤十字社は旅順など満洲で投降したロシア人捕虜の人道的な待遇に尽力した。第一次世界大戦でも中国山東省の青島で捕虜となったドイツ人も日赤の援助により人道的な待遇を受けた。
 また、第一次世界大戦(1914年(大正3年) - 1918年(大正7年))時には、連合国のフランス、イギリス、ロシアからの要請に応え、3カ国に救護班を派遣した。1934年(昭和9年)、第15回赤十字国際会議が東京で開催されている。
 軍部の勢力が拡大するにつれ、日本赤十字社による戦争捕虜への援助が困難になった。日中戦争支那事変)(1938年/昭和13年 - 1945年/昭和20年)では宣戦布告なしの「事変」であったため、両軍はジュネーヴ条約を適用しなかった。太平洋戦争(大東亜戦争)(1941年/昭和16年 - 1945年/昭和20年)が勃発すると、赤十字救護班は積極的に戦地に赴き、多数の殉職者を出すこととなった。一方、日本軍が東南アジア方面で数十万人にのぼる欧米人(軍人、民間人を問わず)を収容所に収容したが、「国際赤十字委員会や日本赤十字社が積極的な救護活動をしなかった」として連合国側のマスメディアから非難があった。
 戦後
 太平洋戦争(大東亜戦争終結後、捕虜とともに民間人として現地に抑留された救護班は、収容された日本人に対する救護を行った。
 敗戦直前の広島と長崎の原爆被害者に対して、国際赤十字委員会と日本赤十字社は積極的に救護を行い、現在でも、日本赤十字社広島市長崎市原爆症患者を救護する病院を経営している。
 また、連合国軍占領下の日本では、衛生状態が深刻な状態にあり、赤十字では駅などに救護所を設けて、病院内外での救護活動を活発に行った。
 沿革
 武内桂舟画「看護婦」1904年。奥に病院船が描かれている
 1877年(明治10年) - 前身の「博愛社」創立。当時の標章は日章の下に赤線一本(「ジュネーブ条約」未加入であったため、赤い十字と類似の記号を用いることを避けて暫定的標章を作成することとしたが、その過程でキリスト教を嫌悪していた公家出身の三条実美太政大臣の「耶蘇のしるしじゃ」の一言で一本線になったと伝承されている)。
 1886年明治19年) - ジュネーヴ条約に加入
 1887年(明治20年) - 「日本赤十字社」に改称(赤十字の標章を使用し始める)
 1888年明治21年) - 磐梯山噴火で世界初の平時救護(それまでの赤十字社の活動は「戦時救護」のみ)活動・日赤初の災害救護活動でもある。
 1890年(明治23年) - オスマン帝国(現在のトルコ)特派軍艦のエルトゥールル号遭難事件に際して救護班を派遣する。
 1904年(明治37年) - 日露戦争において、152の救護班、約5,170人の救護員を満州や朝鮮などの戦地、大陸と日本を往復する病院船、また国内の軍病院などに派遣し、日本兵、ロシア兵捕虜ともに救護した
 1920年大正9年) - ロシア革命で取り残されたポーランド孤児救済を実施する(第1次)。
 1942年(昭和17年) -太平洋戦争(大東亜戦争)に際して捕虜救恤委員部を設置する。
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