💖9)─2─日本赤十字社の集団的自衛権と同盟国への戦争貢献。赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」。~No.39No.40No.41 

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 赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」展
 出発・病室、フランス救護班の概要出発・病室、フランス救護班の概要
 イギリス、フランス、ロシアへの救護班派遣の概要
第一次世界大戦中、日本政府はイギリス、フランス、ロシアの3国から救護派遣の依頼を受けた。日本政府は直ちに日本赤十字社に対して、3国に救護班1個班を派遣し、戦傷病患者の救護に当たるよう懇請した。
 日本赤十字社は救護班を外国の病院に派遣することは創設以来はじめてのことであった。そのため欧州各国の赤十字救護班と比較されることを考慮し、また日本赤十字社救護班として、無事その大任を果たされるよう、派遣救護員の人選については技量、身体、人格、語学等の細部にわたり特別の注意を払った。厳選の結果、全国各支部から選ばれた救護員数はイギリス派遣27名、フランス派遣29名、ロシア派遣20名である。
 日赤熊本県支部からは竹田ハツメ看護婦が選ばれ、フランスに派遣された。日本赤十字社は派遣救護員が博愛精神に則り救護活動を展開し、大任を無事全うできるよう細心の注意を払った。救護班は責任の重大さを胸に秘め、総裁閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王殿下をはじめ、本社、各支部職員及び政府、国民の激励と盛大な見送りを受け、大正3年10月(ロシア)及び同年12月(イギリス、フランス)に、それぞれの任地に出発した。
 イギリス、フランス、ロシアへの救護班派遣の概要
 塩田医長(東京帝国大学医科大学助教授)以下28人は大正3年12月16日に横浜を出港した。その後、長途の航海を終え、大正4年2月4日にマルセーユに上陸し、パリに到着したのは翌日の5日朝であった。
 日本赤十字社救護班が診療を開始する建物は、凱旋門に近いパリで一流の「ホテル・アストリヤ」を改装して当てられた。派遣救護員は医療機器、薬品、看護用具、事務具等を整備し、「日本赤十字社病院」として、3月16日から診療を開始した。4月3日には開院式が盛大に行われた。参列者は、各階の病室、とくに3階の治療室、調剤室等の整備された施設整備の状況を視察し、全員賞賛の言葉を惜しまなかった。その後「日本赤十字病院」の名声が広がると、大正4年4月4日にポアンカレー大統領の病院視察が行われた。開院当初は80人の戦傷病患者を収容し、治療看護に当たったが、救護班全員の規律正しい行動と、博愛の心に富んだ治療看護、すぐれた医療技術はフランス国民に賞賛され、わずか半年の間に130人に増加した。
 フランス派遣救護班は、大正4年7月13日にフランス政府と協定した5ヵ月間の勤務期間を終了したが、入院患者も満床の状態が続き、また日本赤十字救護班に対する信頼と賞賛の声は各地で高まり、戦時病院の模範とまで賞賛されるに至り、再再延期の末、大正5年7月1日閉院までの間、救護した患者数は、実人員910人、延べ人員にして54,832人に達した。フランス国に別れを告げるに当たり、フランス赤十字総裁の感謝状、フランス政府の表彰状、あるいは大統領の謝辞、各界からの送別の宴の催し等、救護班全員に対して心から感謝の意が表された。
 救護班は大正5年7月10日にパリを出発、9月15日に日本に到着、翌16日解散式を挙行した。その式場で総裁閑院宮載仁親王殿下より慰労のことばを賜った。竹田ハツメ救護看護婦は1年10ヵ月の間、終始健康で無事大任を果たすことができ、県民の盛大な歓迎を受けた。その後竹田ハツメ救護看護婦は、フランス派遣救護員とともに、フランス国勲章を受領した。
 (日本赤十字社熊本県支部100年史より)
 日本赤十字社 熊本県支部
 〒861-8039
 熊本市東区長嶺南2丁目1-1 熊本赤十字会館3階
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 赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」
 日本赤十字社熊本県支部創設120周年記念・赤十字思想誕生150周年記念事業
 2009年は赤十字思想が誕生して150周年の年であり、日本赤十字社熊本県支部が誕生して120周年の年でした。
 このことを記念して、第一次世界大戦中にフランスからの要請に応えて、ここ日赤熊本県支部から派遣された赤十字救護看護婦・竹田ハツメさんの貴重な遺品(熊本県文化企画課博物館プロジェクト班所蔵品)を皆様にご覧いただきました。 赤十字の歴史と活動を少しでも身近に感じていただくことができ、幸いです。
 竹田ハツメ救護看護婦は、大正3(1914)年、日赤熊本県支部から選ばれてフランスに派遣された日本赤十字社創設以来初めてとなる外国の病院への派遣救護員の一人です。また、日本赤十字社看護師同方会熊本県支部の初代支部長でもあります。
 展示品は、以前から竹田家の資料として県に所蔵されていたもので、縁あって初めてその一部を一般公開いたしました。赤十字活動の歴史的資料がほとんど残っていないなか、明治、大正、昭和初期における日赤熊本県支部の事業や、当時の欧州における日本赤十字社の国際活動を顕彰できる貴重な品々でした。
 竹田ハツメさんは、日赤退任後は熊本医科大学看護長や、従軍看護婦としてご活躍後、家政婦紹介所を創業されたとのことです。今後もこれにとどまらず、ご紹介の機会を設けていきます。
 史料展 平成21年5月1日~8月31日
 熊本赤十字会館 1階 展示ホール
 パネル展 平成21年6月29日~7月31日
 熊本赤十字病院 1階 外来大通り ギャラリー
 主催 日本赤十字社熊本県支部
 共催 日本赤十字社看護師同方会熊本県支部
 協力 熊本県(文化企画課博物館プロジェクト班)、日本赤十字社
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 2014年11月10日 産経新聞「【野口裕之の軍事情勢】第一次大戦、日本も欧州で闘っていた…日本人従軍看護婦の活躍
 安倍晋三政権は女性活躍の場を増やそうとしている。女性活躍推進法案も審議入りしたが政策・法律整備だけでは効果は限定的だろう。女性に限らぬが、やっぱり使命感は尊い。手元に日本赤十字社熊本県支部編纂の《竹田ハツメ展 史料集》が有る。後に旧制熊本医科大学看護長となる竹田ハツメさん(1881~1973年)は第一次世界大戦(1914~18年)中、日赤熊本県支部から選ばれ、日赤創設以来初めて欧露に派遣される救護班の一員となる。第一次大戦は近代的兵器で鎧われた堅牢な野戦要塞と鉄道での物資・人員輸送により防御側有利→持久戦となり、武器弾薬の生産・補給施設など戦場外や、鉄道・船舶=民間人も使う輸送手段も標的と化した。従って軍人・軍属に民間を含めた死者は1700万前後、負傷者を加算すると3700万以上に達した。英国人ジャーナリストは戦場を「肉のミンチ調理器具」、野戦病院勤務の米国人看護婦は戦死傷者を「人間の残骸」とまで形容した。人類が経験したことのない国力を総動員した《総力戦》において、目を背けたくなる患者や血の臭いと闘った日本人看護婦の、強烈な使命感や職業意識は実に誇らしい。
 露仏英へ精鋭を派遣
 大日本帝國は大正3(1914)年9月、ロシア/フランス/英国の救護員派遣要請に閣議決定で応える。参戦半月後のことで、国際的地位を一層向上させるためにも、派遣を成功させなければならなかった。最新医療機材と大量の薬品を用意し、医長▽医員▽事務員▽通訳▽看護婦長・看護婦で救護班を編成。戦時救護訓練を受けた《救護看護婦》は日赤本社や道府県支部別に技量/肉体強健/人格/一定の語学力を基準に厳選された。救護看護婦とは日赤用語で第一次大戦後、帝國陸軍が一般看護婦を採用して以来呼ばれ始める《従軍看護婦》と実態は同じだ。
 早くも翌月ロシアに向かう。4週間近くシベリア鉄道に揺られ現在のサンクトペテルブルクに着く。救護班総数20名(内看護婦13名)で、社交倶楽部、後に貴族の別邸に戦時病院・日赤救護班病院を開設。延べ4万3600名の患者を診る。
 2カ月近く遅れて、フランスに29名(同23名)が、船で横浜を出発し、スエズ運河経由でマルセイユ→パリに50日も掛かって到着。凱旋門にほど近い一流ホテルを戦時病院・日赤病院として借り上げ、延べ5万4900名の患者と向き合う。
 さらに3日後、27名(同22名)が英国へ発つ。米国を横断し1カ月後にロンドン郊外で救護に従事、患者は延べ7万8800名に上った。
 「戦時病院の模範」と激賞
 冒頭触れた《史料集》が収録する戦死傷原因や使用兵器を記したノートには、ハツメさんらがくじけそうになったであろう地獄絵図が透ける。「白兵創/刺創」「銃創」「砲創」「爆傷」など大戦以前にも在る戦死傷原因と人数が並ぶ。「轢傷」というのは新兵器のタンクで轢かれた将兵だろうか。一方で、大戦で進化した「機関銃」「地雷」や低性能ながら投入された「飛行機」、非道なダメージ故国際法で当時既に使用禁止だった「ダムダム」弾も、使用兵器として特記されている。
 さすがに看護婦らは精神的にも肉体的にもボロボロだったに違いない。「さすがに」と断ったのには訳がある。3カ国に赴く看護婦には、日清戦争(1894~95年)→北清事変(義和団の乱/1900年)→日露戦争(1904~05年)時、内地の陸軍予備病院や外地より傷病兵搬送に当たった病院船などで勤務した、経験者が優先された。仏派遣看護婦も経験者が3分の1を占めた。看護実績は高く評価され、パリの日赤病院は他の仏病院に比し重篤者を治療する拠点となる。ハツメさんも日露戦争で傷病兵を扱ってはいた。だが、第一次大戦は毒ガスによる熱傷や右肩から左肩を串刺しにした砲弾片、シェルショック(戦争ストレス反応)…など、凄惨の烈度は別次元だったようで、ハツメさんは「戦慄」した。
 しかも、看護婦は言葉の壁に悩まされてもいた。パリ到着までの50日間、フランス語、特に体の部位などにつき猛特訓を繰り返す。ところが、地方訛の強い兵士との意思疎通は難しく、当初は日赤への入院を嫌がる将兵も少なくなかった。
 もっとも、悲惨な患者に慣れ、会話が少しずつ成立するようになると、既に称賛されていた医員の治療法に加え、ずれない包帯の巻き方など、看護技術は外国医療団の学習対象になり「戦時病院の模範」(1915年12月11日付仏紙)と激賞される。出血が止まらぬ兵士の傷口を9時間も抑え続けており、博愛の心に富んだ応対も連合軍将兵の心を打った。《史料集》に、浴衣を着た傷病兵とともに写る写真を見る。ハツメさんたちが激務の合間、血まみれで後送されて来る傷病兵用に、清潔な着替えとして縫ったものだ。斯くして、手づるを使い入院を画策する将兵まで現出する。
 強烈な使命感と職業意識
 派遣先政府も実力と献身的看護、規律に瞠目した。5カ月間の派遣予定が仏露2回、英国が1回延長を要請。わが国は受諾している。帰国に際し、フランスでは大統領の謝辞や政府/赤十字の表彰・感謝状、英国でも国王謁見の栄誉を得た。各界主宰の送別宴への出席も忙しかった。《史料集》に載るハツメさんの写真では、勲七等瑞宝章▽勲八等宝冠章▽仏国勲章▽日露戦争従軍記章が胸に光る。
 ところで、仏組は出国~帰国・解団式まで1年10カ月間、露組は同じく1年7カ月、英国組も1年3カ月と、独身者もいたろうが長期にわたる過酷な単身赴任が続いた。戦時の救護(日赤)看護婦召集には、乳飲み子を抱えるといった家庭の事情にかかわらず、原則20年の長期にわたり応召義務が課せられていたためであった(後15→12年に短縮)。しかし、御国の名誉に挺身する使命感と職業意識が占めた部分が格段に大きい。
 日清戦争当時は「卑しい看護婦が名誉有る帝國軍人の世話をするのか」と非難が聞かれたが、北清事変→日露戦争での評価が欧露派遣につながる。その欧露派遣は「看護婦さん」が女子の憧れになってゆく過程を加速した。女性の憧れる職場環境を、安倍政権が創造できるか-。女性の側にも、強烈な使命感や職業意識がなければ達成はおぼつかない。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)」
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