💖2)─2─近代天皇の私有財産の使い道。人道貢献としての昭憲皇太后基金。~No.3 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本人はもとより過去の日本人で、歴代の天皇や皇后、皇族に匹敵する世界が認める偉業を行った者は誰もいない。
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 特に近代天皇・近代皇室は、世界の古今東西の如何なる王侯貴族とも違い、世界の平和と日本国の発展と日本人の幸福の為に、歴史的な人道貢献を数多く行っていた。
 特に、明治・大正・昭和・平成の歴代皇后の業績は偉大であった。
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 国民世論は、「あいちトリエンナーレ2019」における昭和天皇に対する不敬行為を黙認した。
 国際社会も、表現の自由として「あいちトリエンナーレ2019」を支持した。
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 昭憲皇太后基金
 2019年10月5日 東京新聞人道支援 ともしび次へ 国際赤十字昭憲皇太后基金
 明治天皇の皇后である昭憲皇太后が国際赤十字に寄付して設立され、現在も世界で平時の人道支援に役立てられている「昭憲皇太后基金」を支援しようと、都内の女性グループが5日、渋谷区内でコンサートを開き、収益を基金に寄付する。グループは「基金は日本の誇り。支援のともしびを消してはいけない」と来場を呼び掛けている。 (市川千晴)
 日本赤十字によると、昭憲皇太后は一八八八年に起きた磐梯山福島県)の噴火災害で、日赤に医師の派遣を求めた功績で知られる。一九一二(明治四十五)年には、自然災害の支援や保健衛生改善などのために十万円(約三億五千万円相当)を国際赤十字に寄付し、基金が創設された。戦争で傷ついた兵士の救助を目的に創設された国際赤十字が、世界で人道支援を行うきっかけになったという。
 日赤の担当者は「国籍、宗教、政治的信条に一切関係なく、公平に困っている人たちに救いの手を差し伸べようという赤十字は、皇室が古くから大切にされてきたお考えとも一致していたのでは」と話す。
 同基金は、これまでに利子と配当による約十五億八千万円で、百七十の国と地域を支援。当初は皇室からの御下賜金(ごかしきん)や日本政府の拠出が多かったが今は、企業や市民の募金などが支える。
 コンサートを主催するのは学習院女子中・高等科卒業生の有志で作る「継聖会」。発起人の大田区の斎藤紀子さん(77)らは、基金を取り上げた講演会を聞いて利子が減っていると知り、「何かできたら」と一五年秋から、講演会やコンサートを年二回ほど開くなどしてきた。
 斎藤さんは「支援が国際親睦と世界平和につながるという創設の思いを、一人でも多くの方に知って賛同して頂けたら」と話す。共に活動する同区の千家慶子さん(77)も「孫の代まで平和な世界を届けたい」。
 基金を研究する国際神道文化研究所の今泉宜(よし)子主任研究員も「世界に向けて日本が果たすべき役割を発信した昭憲皇太后の思いを引き継ぎたい」と話す。
 五日は明治神宮参集殿(渋谷区)でバイオリンと尺八の慈善コンサートを開く。正午からバザー。午後一時から講演、演奏は一時半~三時。入場券は一般四千円、学生二千円で、会場で当日購入できる。」
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 明治神宮は、祭神を明治天皇昭憲皇太后と定め、大正4(1915)年に着工し、5年後に完成した。
 歴史の浅い新しい神社ではあるが、毎年の正月における初詣参拝者は全国で最も多い。
 GHQは、日本のキリスト教化と戦争犯罪清算として、靖国神社明治神宮伊勢神宮宇佐神宮など皇室所縁の主要神社を焼却破棄する計画を立てた。
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 現代の日本人は、昔の日本人とは別人の様な日本人である。
 現代の資産家・富裕層は自分と自分の家族の為に金を使うが、昔のお大尽さん・金持ちは世の為・人の為・世間の為に資産を使っていた。
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 天皇や皇族を税金で暮らしている特権階級の道楽者と論じる日本人は、伝統・文化・歴史・宗教・言語・習慣・風習・因襲を共にする日本民族ではない。
 現代のメディアは、皇室の家計や皇族の生活費で如何に巨額な税金が浪費されているかと面白おかしく報道し、生活苦に喘いでいる日本人の間に天皇・皇族・皇室への嫌悪感や敵意を生み出し、天皇制度廃絶の感情・気運を作るべく躍起となっている。
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 日本の天皇・皇室は、世界の王侯貴族、特に中華の中国皇帝や朝鮮国王とは全然違うのである。
 現代日本人特に天皇・皇室を否定する日本人は、歴史力・文化力・宗教力が乏しい為にその事が理解できない。
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 GHQは、皇室資産の大半を没収し国庫に入れた。
 財政難の日本政府は、没収した皇室資産を戦後復興に使った。
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 国際社会における日本国の信用は、1945年にGHQによって与えられた主権在民の正当性を有している日本国民日本人ではなく、日本神話の血の継承を正統性として約2000年前から日本を統治してきた日本天皇の存在にある。
 つまり、他国の占領者から与えられた主権在民国民主権は人為的法律に基ずく便宜的正当性であって、血の神話における伝統・文化・歴史・宗教・言語・習慣・風習・因襲に基ずく神聖不可侵の普遍的正統性ではない。
 日本における唯一の正統性とは、最高神である女性神天照大神の血を男系父系相続で正しく受け継いだ現皇室の血筋・血統・皇統だけである。
 女系母系継承にあるのは、正当性であって正統性ではない。
 血の神話とは、祖先神・氏神の人神信仰である。
 それは、中華(中国や朝鮮)の儒教とは無関係・無縁である。
 人神とは、天地創造の創り主・全知全能の唯一絶対神・父なる神ではなく、血・肉、命・身体、心・志、魂・霊がつながっている自分の確かな祖先である。
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 日本赤十字社
 昭憲皇太后基金
 ホーム プレスリリース 2019年度 100年以上の歴史を持つ「昭憲皇太后基金」の配分決定 ~約4,400万円を14カ国に~
 100年以上の歴史を持つ「昭憲皇太后基金」の配分決定 ~約4,400万円を14カ国に~
 2019年4月11日
~世界で最も古い開発協力基金~ 世界170カ国、累計額約15億8,400万円
 赤十字国際委員会国際赤十字・赤新月社連盟で構成される昭憲皇太后基金合同管理委員会は、今年度の同基金の配分先を決定しました。14カ国の赤十字赤新月社に対し、総額約4,400万円(39万5,782スイスフラン)が配分されます。これまでの配分は大正10年の第1回から今回(第98回)までで、累計約15億8,400万円、配分先は170カ国の国と地域にのぼります。
◆ 今日の開発援助の先駆けとなった昭憲皇太后基金
 K-002975A.jpg「昭憲皇太后基金」は1912年(明治45年)の赤十字国際会議において、赤十字の平時活動の奨励のために昭憲皇太后明治天皇の皇后)が国際赤十字にご寄付された10万円(現在の3億5千万円相当)を基に創設されました。
 世界で武力衝突が起こり、のちに第一次世界大戦が起こるこの時代において、多くの国の赤十字社が戦時救護の対応に追われている中、地震や台風、火災、噴火等の大きな災害等に備えるための国際基金の設立は画期的なことであったと言われています。
 同基金は、皇室をはじめとする日本からの寄付金によって成り立っています。国際赤十字の中に設けられた合同管理委員会によって運営され、原資を切り崩すことなく、そこから得られる利子が世界の赤十字社の活動に配分されます。毎年、昭憲皇太后のご命日にあたる4月11日に配分されています。
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 ウィキペディア
 昭憲皇太后基金(英: Empress Shoken Fund)は国際赤十字基金
 解説
 1912年(明治45年)、アメリカ合衆国ワシントンD.C.にて開催された第9回赤十字国際会議において、昭憲皇太后が国際赤十字に下賜した10万円(現在の3億5000万円に相当)を元に創設された。
 第1回から第100回までの配分総額は約11億240万円であり、2015年(平成27年)3月31日時点の基金総額は約18億5730万円(1500万スイスフラン)。
 1944年(昭和19年)を除き、1921年(大正10年)から現在に至るまで毎年、昭憲皇太后の命日である4月11日に基金の利子が世界各国の赤十字社赤新月社に配分され、これまで世界161ヵ国の国や地域の災害や感染症に苦しむ人々の救済や福祉の増進、防災や病気の予防などの活動に充てられてきた。
 その後も貞明皇后香淳皇后、また上皇后美智子からの下賜金、または日本赤十字社の資金協力などもあり、様々な形で基金が増額されている。
 100周年を迎えるに当たり、明仁天皇美智子皇后からの下賜金、明治神宮明治神宮崇敬会からは1000万円の寄付があった。
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 日本赤十字社
 昭憲皇太后基金
 関東地方 | 東京都渋谷区
 歴史上の人物・場所
 日本とスイスが共有する人道的理想は、世界の赤十字運動の発展に大きな影響を与えました。
 人道的活動に携わる皇室
 毎年何百万人もの日本人や外国人が明治天皇昭憲皇太后を祀っている明治神宮を訪れます。百年以上前、激動の時代に日本を統治したことで知られている明治天皇は、歴史書に登場する回数や観光客の間での知名度という点では際立っているため、昭憲皇太后はどうしてもその陰に隠れてしまいがちです。しかし、日本と世界に残した人道的社会事業の遺産という観点では、おそらく同様に素晴らしいものがあります。
 昭憲皇太后(1849-1914)は、「意思が強く、実行力のある女性」と評され、宮廷改革の任務を背負っていました。皇太后の主な関心事の一つは女子教育であることから、女性教師養成のための大学の支援を行いました。活動は日本国内にとどまらず、1912年には、スイスジュネーブで数十年前からはじまっていた国際赤十字の平和活動を支援するために10万円を下賜し、昭憲皇太后基金を設立しました。
 ソルフェリーノの思い出
 1859年に赤十字の原型が生まれました。スイスのビジネスマンであったアンリ・デュナンが、イタリア統一戦争の激戦地ソルフェリーノに出向いた時のことです。40,000人以上の兵士が、医療救援も受けずに戦場で死傷しました。その後、数日間、デュナンと地元の人たちは、何千もの負傷者に手を差し伸べて救援活動に従事しました。この一件がデュナンを突き動かすことになり、スイスに戻った彼は、戦場において敵味方の区別なく負傷者の救護にあたる、国の救済組織をつくることを提唱し、ジュネーブ条約制定に向けた道筋を示しました。
 数年後の1863年、デュナンとジュネーブから来た5人により国際負傷軍人救護常置委員会(通称5人委員会)を結成しました。これが、のちに赤十字国際委員会の誕生に発展していきます。スイスの国旗を反転させた白地に赤の十字マークを施した旗が採択されました。世界最大の人道主義組織となっていくわけですが、傷病兵を救護し、救護する活動自体を中立なものとすることを定めたジュネーブ条約に、12カ国の代表が調印しました。1919年には、ヨーロッパ各地あるいは世界中で結成された赤十字社をとりまとめるための、赤十字社連盟(今日においては、国際赤十字赤新月社連盟として知られています)が設立されました。その中には、日本赤十字社もありました。
 日本における赤十字運動
 南西戦争の犠牲者を救済するために、佐野常民(1822-1902)により、「慈善団体」として1877年に創設された日本赤十字社は、現在は世界にある187の赤十字社の中でも最大規模を誇っており、2014年時点で、個人会員960万人と、法人会員12万に支えられています。近衛忠煇により率いられた非政府組織 [日本スイス協会へのリンク] は、国内外で活動を行なっており、国際法の尊重、災害対応の調整、献血の募集、教育および医療プログラムの実施、福祉サービスの提供などを訴えています。
 昭憲皇太后は、当初から日本赤十字社を奨励し、日本の赤十字運動に大きな影響を与えました。赤十字国際委員会、国際赤十字赤新月社連盟で構成される昭憲皇太后基金管理合同委員会により運営され、日本政府、日本赤十字社、皇室、明治神宮からの寛大な支援により、基金は、1912年の1万円から2018年には、約17億円にまで拡大しました。創業以来、約2.2億円を拠出し、各国の国際赤十字赤新月社の発展と活動に大きく貢献しました)。
 毎年4月11日(皇后両陛下の崩御記念日)、赤十字国際委員会、国際赤十字赤新月社連盟で構成される昭憲皇太后基金管理合同委員会によって助成金の配分が行われ、結核プログラム、救急訓練、献血、地域の活動など幅広いイニシアチブに配分されます。世界中の150以上の各国赤十字社赤新月社が、皇后両陛下の慈善事業により恩恵を被りました。まだ課題はあるものの、スイスと日本の理念のおかげで、世界で多くのことが成し遂げられてきています。
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 今日の開発協力の先駆けとなった「昭憲皇太后基金
 2018年4月13日
 日本でまだ誰も“平時に備える”という発想をもたなかった明治時代、今もなお、世界中で赤十字が実施する開発協力活動に大きく貢献している「昭憲皇太后基金」が生まれました。
 各国赤十字社の支援活動推進(平時事業)のために
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 ハンガリー赤十字社 看護教育
 (第9回配分1930年)
 (出典「日本から世界へ思いやりの100年」)
 「昭憲皇太后基金」は1912年(明治45年)にワシントンで第9回赤十字国際会議が開催された際、赤十字の平時の活動を奨励するために昭憲皇太后明治天皇の皇后)が国際赤十字にご寄付された10万円(現在の価値で3億5千万円に相当)を基に創設されました。
 明治45年というと、大卒の初任給が30円程度、庶民にとって当時の1円は現在の4,000円程度の重みがあったと考えられます。世界で武力衝突が起こり、のちに第一次世界大戦が起こるその時代、世界の多くの赤十字社は戦時救護の対応に追われていました。そんな中、台風や地震等の災害への備えや、保健衛生の改善といった平時の活動を行うための国際基金の創設は、画期的なことであったと言われています。
 同基金は、皇室をはじめとする日本からの寄付金によって成り立っています。基金は国際赤十字の中に設けられた合同管理委員会によって運営され、原資を取り崩すことなく、そこから得られる利子が世界の赤十字社の活動に配分されます。配分先は昭憲皇太后のご命日にあたる毎年4月11日に決定されています。これまでの配分は大正10年の第1回から今回(第97回)までで、合計約15億4000万円、配分先は166の国と地域に上ります。
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 昭憲皇太后基金
 (The Empress Shoken Fund)
 令和2年12月
 緊急・人道支援
 1.沿革
 (1)1912年にワシントンにおいて第9回赤十字国際会議が開催された際、当時の皇后であった昭憲皇太后が国際赤十字に対し、赤十字の平時における救護活動推進のため10万円(現在の3億5千万円相当)を寄付されたのを機に設立された。
 (2)その後、皇室からの計12回に渡る追加下賜金、我が国政府拠出金(昭和41年より平成3年度まで毎年1,000万円、平成4年度より平成9年度まで毎年2,000万円、平成10年度より平成13年度まで毎年1,700万円、平成14年度は850万円)、民間からの寄付金を加え、2019年末現在の基金総額(元金)は約1,668万スイスフラン(令和元年度支出官レートで約18.8億円)に上る。
 (3)大正10年(1921年)から始まった同基金配分は、昭和19年を除いて途絶えたことはなく、今年で第99回目の配分となる同基金の支援実績総額は400,160スイスフラン
 2.運営
 (1)赤十字国際委員会(ICRC)及び国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)より各3名指名された、計6名の独立した委員による合同委員会(我が国寿府代大使はオブザーバーとして出席)により管理・運営されている。
 (2)その運用収益は、毎年1回(昭憲皇太后命日である4月11日)開発途上国赤十字赤新月社からの申請に応じて配分され、各国における平時の救護活動(救急車、医療機材の購入、赤十字組織の強化等)に役立てられている。なお、本件基金により購入された救急車両や物資等には「昭憲皇太后基金よりのギフト」とエンブレムが記入され、本件基金は関係諸外国に広く知れ渡っている。
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 ウィキペディア
 昭憲皇太后(1849年5月9日〈嘉永2年4月17日〉 - 1914年〈大正3年〉4月9日)は、日本の第122代天皇明治天皇の皇后。諱は勝子(まさこ)、のちに美子(はるこ)。お印は若葉。旧名は、一条美子(いちじょう はるこ)。
 欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。皇后として史上初めて洋装をした。明治天皇崩御に伴い皇太后となり、1914年(大正3年崩御(64歳)。嫡妻として明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王大正天皇)を養子とした。
 皇太后時代
 1912年(明治45年)7月30日、明治天皇崩御し、皇太子嘉仁親王践祚および皇太子妃節子の立后と同時に皇太后となった。
 1914年(大正3年)4月9日午前2時10分、沼津御用邸にて狭心症のため[2]崩御。公式には4月11日同時刻。丸2日ずらされたのは、宮内省内蔵頭当時の収賄で司直の手が及びかけていた宮内大臣渡辺千秋を急遽更迭させるための措置であった。
 同年5月9日、宮内省告示第9号により「昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)」と追号され、翌年5月1日に、夫の明治天皇と共に明治神宮の祭神とされた。
 陵墓は、京都府京都市伏見区にある伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)。
 業績
 明治維新期の皇后として、社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現:学習院女子中・高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した。慈善事業の発展に熱心で、東京慈恵医院や博愛社(現在の日本赤十字社)の発展に貢献した。
 1902年(明治35年)発行、バッスルスタイルのローブ・モンタントを召して。(ロシアの日本紹介文献にて)
 赤十字の日本国内における正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后が大日本帝国憲法発布式で戴冠したパリの高級宝飾店ショーメ制作のフランス製の宝冠のデザインが、桐と竹の組み合わせで構成されていた事から、日本近代化の象徴として「これがよかろう」という自身の示唆で、さらに皇后を象徴する瑞獣である鳳凰を戴く形に決定されたという。
 1912年(明治45年)、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にて第9回赤十字国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后は10万円(現在の貨幣価値に換算すれば3億5000万円ともいわれる)を下賜した。赤十字国際委員会はこの資金を基にして昭憲皇太后基金 (英:Empress Shōken Fund) を創設した。この基金は現在も運用されており、皇后の命日に利子を配分している。
 皇后として欧化政策の先頭に立たなければならない立場を強く自覚し、1886年明治19年)以降は、着用の衣服を寝間着を除いて全て洋服に切り替えた。洋服を率先着用した理由としてもう一つ、「上半身と下半身の分かれていない着物は、女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。
 能楽、美術、工芸の発展にも心を配り、日清・日露戦争に際しては、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。和歌や古典文学にも造詣が深く、創作した短歌(作歌)は3万6000首に上るが、その一部は『昭憲皇太后御歌集』に見ることができる。
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