🏞116)─1─徳川幕府は自衛戦争に備えて日本沿岸に台場(砲台)1,000基を建設した。~No.474 

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 昔の日本人と現代の日本人は別人の様な日本人である。
 日本天皇と日本国を外国の侵略軍から守る為に、昔の日本人は戦争と死を覚悟していたが、現代の日本人は平和の為に戦争を拒否している。
 現代の日本人に、江戸時代末期の徳川幕府を「国際情勢が理解できなかった無能集団」と否定的に論じる資格はない。
 現代の日本では、国防の為の砲台は有事法制反対派によって造れない。
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 2021年3月6日 MicrosoftNews ラジオ関西「幕末の守りの要 和田岬砲台とは?「大阪湾の防備と台場展」神戸市立博物館
 兵庫県内で初めて国の史跡に指定された和田岬砲台に迫る特別展「和田岬砲台史跡指定100年記念 大阪湾の防備と台場展」が、神戸市立博物館で開催されている。近年行われた全面的な解体修理事業や研究からその歴史的意義を探る。2021年3月28日まで。
 神戸市兵庫区にある和田岬砲台が作られたのは1866年のこと。そのおよそ50年後の1921年五色塚古墳などとともに国の史跡に指定された。それまでは弥生・縄文時代などの「古い」ものが史跡に指定されていたが、比較的「新しいもの」も指定するという動きがある中での史跡指定となった。
 © ラジオ関西 和田岬砲台写真 1870年代初頭 神戸市立博物館
砲台とは、その言葉通り大砲を設置するための軍事施設で、「台場」と呼ばれるのが一般的だった。
 日本沿岸にあった台場は1000か所に及ぶと言われ、その1割を超える100基以上が、大阪湾岸や京都に至る淀川筋にあった。しかもそれらが建造されたのは、1853年のペリー来航から明治維新までの10数年ほどの間のことだ。
 和田岬砲台は、幕府が力を入れて作ったとされ、当時は湊川砲台とともにランドマーク的な存在だった。中央にマルテロタワー(日本語にすると「石堡塔」=せきほとう)と呼ばれる円筒形の砲塔が据えられた近代的な洋式台場で、このような構造の台場は和田岬湊川の他、西宮と今津の兵庫県内の4基しかない。
 和田岬石堡塔外冑壁之図 慶応元年(1865) 神戸市立博物館© ラジオ関西 和田岬石堡塔外冑壁之図 慶応元年(1865) 神戸市立博物館
和田岬砲台は、大正末期から昭和にかけての「昭和の大修理」と平成19年から行われた「平成の大修理」を経て、それまでわからなかった事実もわかってきたという。
 和田岬砲台などの設計を担ったのは、勝海舟長崎海軍伝習所に学んだ蘭学者の佐藤与之助。この蘭学者の設計を形にしたのは、石工や船大工という日本の伝統的な技術を持つ職人たちだった。例えば、砲台2階には大砲を打つための穴があけられている。大砲を冷やした水が火薬庫となっている1階に漏れないように床は防水加工されている。ここに船大工の技術が生かされている。またボルトやくぎなどは数百種類にも及び、そのすべてが、「地元」で作られていたという。洋式の砲台でありながら、日本の伝統技術が使われたということが、最新の研究からわかった。
 © ラジオ関西 膝形鉄釘・座鉄・母螺 (短) 文久3~慶応2年(1863-66頃) 三菱重工株式会社蔵
 神戸市立博物館の高久智広学芸員は「大阪湾は台場の最先端だった。将軍の権威を示す『政治的な役割』としての台場ではなく、建設を担った地元地域の技術の素晴らしさも知ってほしい」と話す。
 また企画展「神戸源平巡りー『平家物語』の舞台を訪ねてー」も同時開催中。多くの人が持つ「モダンでハイカラな神戸のイメージ」は、1868年に神戸港が開港した後に根付いたもの。それ以前の神戸はどうだったのか。所蔵する作品を中心に源平合戦で活躍した武将たちの雄姿や足跡を紹介する。
 © ラジオ関西 武勇雪月花之内生田森えびらの梅 慶応3年(1867) 神戸市立博物館
 特別展「和田岬砲台史跡指定100年記念 大阪湾の防備と台場展」、企画展「神戸源平巡りー『平家物語』の舞台を訪ねてー」の会期は、2021年2月6日(土)から3月26日(日)まで。」
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