🏞120)─1─日露間樺太島仮規則(樺太雑居条約)。パリ万博。ロシアは、北海道を強奪する為に日本領樺太に軍隊を派遣した。1867年~No.481No.482 @ ㊹ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 幕府は、タイ方式で平和を維持しなかったし、樺太や北海道を質草として軍資金と軍隊を借りる事はしなかった。
 日本は、幕府の御蔭で朝鮮のような惨めな境遇に陥る事がなかった。
 日本と朝鮮は、違う道を歩いていた。
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 幕府の開明派は、西洋列強の侵略から日本を守るべく諸改革に取り組んでいた。
 大久保忠寛大政奉還を、西周は議会制度の導入を、それぞれ献策した。
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 ウォルター・バジョット「国民は党派を作って対立しているが、君主はそれを超越している。君主は表面上、政務と無関係である。そのため敵意をもたれたり、神聖さを穢されたりすることがなく、神秘性を保つ事ができるのである。また君主は、相争う党派を融合させる事ができ、……目に見える統合の象徴となる事ができるのである」(『イギリス憲政論』)
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 小栗上野介「一言以て国を亡ぼすべきものありや、どうかなろうと云う一言、これなり幕府が滅亡したるはこの一言なり」
 幕府が滅んだのは、「自分達で何とかする」という覚悟と決意と実行を放棄して、「何とかなる」「どうにかなる」という他人任せの無責任に逃げたからである、と。
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 1867(慶応3)年 東海地方で、伊勢神宮などの護符が降ってくるという珍事が発生した。庶民は、閉塞した社会に雰囲気に嫌気をさし、ヤケクソでノー天気となって「ええじゃないか!」と奇抜な格好をして乱舞した。
 衰弱した幕府には、彼らを武力で止める力はもうなかったし、その気もなく馬鹿騒ぎを放置した。
 庶民は、欲求不満を晴らす騒動・打ち壊しを起こしても、社会を転覆させる様な放火と略奪の暴動を起こす気はなかった。
 それが、気弱な日本人である。
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 2月6日(旧暦1月2日) 小出秀実・石川利政は、ロシア外務省アジア局長ストレモウホフとの間で交渉したが難航してまとまらず、ロシア案を元に日本の要望を入れた上で条文を作成し、帰国後、日本政府内部で検討する事とした。
 3月30日(旧暦2月25日)日露間樺太島仮規則(樺太雑居条約)の仮調印をおこなった。
 アメリカ合衆国は、ロシア帝国からロシア領アラスカを購入した。
 幕府側は、5月に帰国した小出から日露間樺太島仮規則の説明を聞き、条約の一部条項の樺太全島をロシア領とし得撫島と3島を日本領とする交換案を拒絶し、6月にその旨をロシア領事に通告した。
 結局、樺太における国境を画定することはできず、樺太はこれまで通り両国の所領とされた。
 ロシアは、日本側が国境紛争を起こさないように穏便に解決しようとした事を弱腰とみて、樺太に軍隊を派遣した。
 箱館府従事の東全八郎は、軍隊を派遣し南下してくるロシア軍に激しく抗議した。
 「そも、雑居条約なるものは、小出大和守の一存ならば、反故同様」
 ロシアは、日本領蝦夷地(北海道)まで強奪するのが本心であった為に、日本側の抗議を無視して樺太の実効支配を強めていった。
 ロシアとは、領土を強奪する国であった。
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 4月 浦上四番崩れ。浦上の隠れキリシタンは、神父の指導で個の信仰への思いを強くし、檀那寺の聖徳寺による異教の葬儀・埋葬を拒否してキリスト教式自葬行動で御政道に盾突いた。
 キリシタン迫害の為に、罪人送致や刑屍体埋葬など忌避仕事を義務化された部落民・非人が動員された。
 「邪宗門之儀ニ付内密申上候書付……私共は祖先から申し伝えの事がござりまして、天主教のほか何宗にても後生の助けには相成りません。しかれども御大法でござりますので、これまでいたし方なく檀那寺聖徳寺に引導を頼んでおりました。けれどもそれは義理でいたしました事で、本当は上の空で引導を受けました。しかれどもこんにち外国人居留地に礼拝堂が建立され、フランス寺で教化の次第を聞きますと、先祖伝来の教えと一致いたしまするによって、格別信仰いたしておりまする。……それによって熱心に信仰いたしておりまする。檀那寺浄土宗に限らず、何宗にてもアニマ(霊魂)の助けになる教えは御座りませんによって、御大法に背き奉る段、いかにも恐れ入りまするが、宗門一条につきましては如何なる厳罰に処せられますとも、甘んじて受け申す覚悟にござりまする」
 長崎奉行は、隠れキリシタンが世に出る為に幕府が定めた寺請制度を崩壊しようとしているとの危機感を持ち、密偵を放って浦上キリシタンの内情を探った。
 大浦天主堂に所属する一部の宣教師が、幕府との約束を破って居住地を出て、村に忍び込んで隠れキリシタン接触し、数カ所に秘密教会を設け、禁止されている邪宗門の秘密儀式を行っていると、江戸に報告した。
 高山文彦「浦上部落とキリシタン部落は、差別される者どうしやった。それを時の権力は一方を捕り手に仕立て、両者をいがみあわせて、下層民どうしでぶつかりあわせて支配構造を組み立ててきたわけだ」(『生き抜け、その日のために』)
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 4月1日(〜11月3日) パリ万国博覧会。参加した42ヵ国は自国自慢として最新機術と自信作製品を出展した。会期中1,500万人が来場した。
 徳川幕府薩摩藩佐賀藩は、それぞれ出品して競い合った。
 心ある武士は、フランスやイギリスなど西洋諸国の最先端技術の出品と日本の伝統的工芸品を見比べて余りの落差の激しさに愕然とし、同じ日本人でありながら幕府だ藩だと体面や面子に拘っていがみ合う様に危機感を抱いた。
 技術力の劣った日本が国内分裂気味に対立してまとまらなければ、西洋列強の侵略を受けたら一溜まりもなく占領されて植民地となると、恐怖感に襲われた。
 強い危機感を抱いたという点において、開国派の幕府は長州藩など攘夷派に比べて優れていた。
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 5月17日 越前藩主松平春嶽は、外国との戦争と佐幕派倒幕派との内戦を避ける為に近代的諸改革を献策する、信州松代藩下級武士・赤松小三郎建白書『御改正之一二端奉申上候口上書』(通称、建白七策)を受け取った。
 赤松は、語学に優れ欧米の洋書を読み、鉄砲などの武器の性能を研究し、クリミア戦争南北戦争などの戦術を学び、江戸で私塾を開き諸藩から多くの塾生(約800人)を得て近代戦法を教えていた。
 薩摩藩も、多数の若者を入塾させ、『英国歩兵錬法』(64年版)を薩州軍局から出版し薩摩兵の近代化を推し進めてた。
 赤松は、公武合体論者で、会津藩の山田覚馬らと共に内戦を避けるべく「天幕御合体、諸藩一和」を説いて回っていた。
 幕府は、赤松を開成所教官に抜擢する事を申し込んだ。
 松代藩は、藩の逸材で「藩の兵制改革に必要」と断り、赤松に松代への帰藩を命じた。
 赤松(37)は、帰り支度をしていた66年9月3日に薩摩藩中村半次郎に暗殺された。
 島津久光は、その死を悼み、弔慰金300両を贈り、京の金戒光明寺に墓を建てた。
 青山忠正(仏教大学教授)「赤松の建白七策は当時の有識者が抵抗なく受け取ったはずだ。すでに前年に福沢諭吉の『西洋事情』初編が発行されて20万部のベストセラーになっていた。そのなかにアメリカ合衆国憲法の訳も載っていて、赤松はそれを参考にして日本向きの内閣制、上下二局の議会制を説いたのです。松平春嶽島津久光はともに真面目に赤松の建白書を読んでいたでしょう」
 「中村に命令できたのは西郷隆盛だから、西郷の政治・軍事の秘密保持のために殺されたのだろう。西郷は明治維新の実力者だったから赤松を殺した犯人は誰も口を拭っていわなかった」
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 6月9日 坂本龍馬は、後藤象二郎土佐藩船「夕顔丸」に乗船し京に向かう途中で「」船中八策」を作成した。
 6月14日 長崎奉行所は、国内法に従って主だった隠れキリシタン指導者68名を捕縛し、4ヶ所の秘密教会を破壊した。
 外国人宣教師は、外交問題に発展する恐れがある為に見逃した。
 隠れキリシタンが捕縛した仲間を奪い返しに押しかけて来る恐れがあった為に、別の牢屋に移して警備を強化した。
 諸外国の領事は、近代国家では個人の信仰の自由は国内法を越えた自然法に基づく基本的人権であり、個人の信仰を踏みにじる事は非人道的行為であると厳しく抗議した。
 長崎奉行は、キリシタン宗門は国内法で定められた国禁である以上、如何に外圧を加えられ様とも厳重に取り締まると拒否した。
 外国公使らは、絶対神への忠誠と個人の信仰を守る為に命を捨て殉教を覚悟している日本人キリシタンを救うべく、軍艦を長崎に派遣して即時釈放を求めた。
 長崎奉行は、軍事力を持って交渉を有利に進めようとする領事団に対して意固地となり、捕縛は国内法による合法的取り締まりであるとして、外国とは無関係であるとして申し込みを門前払いした。
 長崎奉行徳永石見守の上申書「我が国民を処断するに各国領事に相談して取り計らねばならない理由もなく、彼等からも故障がましい事を申し立てる理由は毛頭ない」
 キリスト教欧米列強が、宣教師への不当行為を理由にして外圧を加え、改善されなければ武力を行使して軍事占領し、植民地化する事は歴史が証明している。
 帝国主義戦争とは、敬虔なる宣教師がらみの植民地戦争ともいえる。
 江戸のアメリカ公使ファルケンブルクやフランス公使ロッシュら公使団は、幕府との直接談判で捕らえられた隠れキリシタンを救出しようとした。彼等は、内政干渉ではないと強調した上で、個人の信仰の自由は自然法に基づく基本的権利で有り、国内法で禁止し弾圧する事は人権侵害である強く申し込んだ。
 外国奉行小笠原壱岐守は、キリシタン禁制を定めた国内法を犯した犯罪者であり、葬儀は檀那寺の僧侶を呼んで弔う事との伝統的仕来りを破った不心得者であるとして、毅然として外圧を拒絶した。
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 7月 幕府は、各国公使に、樺太における国境を画定することはできず、樺太はこれまで通り日露両国の所領とされ、混住の地とする事を通告した。 
 日本は、領土拡大の野心もなければ、ロシア帝国との戦争も好まず、腫れ物に触れる様に静かに放置したかった。
 だが。ロシア帝国は、東方への領土拡大という明快なる国家戦略から、樺太及び千島列島から北海道への侵略を進めていた。
 ロシア帝国は、非白人の日本との約束を無視し、争いを避けて日本人島民が増えない事を良い事に、大量のロシア人を入植させて日本人島民の生活を圧迫した。
 日本人島民は、ロシア人入植者の急増で少数派となり、多数派となったロシア人の押し付けてくるロシア人有利な決まり事に反発して争うが頻発しし始めた。
 元々。樺太アイヌ人の島であった所に、日本人が入植した。
 日本人は、樺太を領有化する意思がなかった為に、アイヌ人と棲み分けて争う事なく生活していた。
 後から入植してきたロシア人は、樺太を領土とするべく、島内の多数派になるべく大量の人数を入植させた。
 白人至上主義のロシア人は、地域の多数派となるや少数派に対して遠慮する事がなくなり、新たな領主として非白人のアイヌ人や日本人島民を支配しようとした。
 ロシア帝国は、樺太を北海道侵攻の前哨基地とするべく支配強化を図り、裏で北海道に逃げてきた旧幕府軍を支援した。
 明治新政府は、北海道にロシア帝国を上陸させない為に旧幕府勢力の鎮圧が急務で、樺太問題どころではなかった。
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 7月6日 イカルス号事件。長崎・丸山遊郭が近い寄合町の路上で、イギリス軍艦イカルス号の水夫2名が斬り殺された。
 犯人は、当初目撃情報から坂本龍馬が率いる海援隊とされたが、明治後に再調査で福岡藩士金子才吉と判明した。
 金子は、事件直後に切腹していた。
 7月25日 親幕府派のロッシュ公使は、浦上キリシタン問題を幕府側に有利に解決すべく、大坂城で将軍慶喜と協議した。
 ロッシュ公使のレック長崎領事への手紙「耶蘇教を奉じ、国法を破ったという日本人は、呵責を受ける事なく赦免される事になったから、今後日本人に国法を破らせるような事はしない様に、プチジャン司教にも私がそう言ったと伝えよ」
 ロッシュ公使からプチジャン司教への書簡「日本の国法で許されている八宗以外の宗教を公然と奉じ、国法を破った為に長崎で捕縛された日本人は、余が請求によって放免される事を日本政府は承知した。それについて日本政府に仁恵の心が深く、幕府の好意たる事を疑わない証拠は、右の様なとき、つねに行ってきた謝罪の法を強制しないで釈放する事である。それはこれまで先例のない事であった。貴下におかれても、貴下の宗旨を奉ずる人が、このたびの如き法を犯す事ない様に処置せられたい」
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 8月1日 長崎の牢で棄教する様に苛酷な拷問に耐えていた隠れキリシタンは、ローマ教皇ピオ9世への、如何なる迫害を受け殉教しようとも絶対神への信仰を守り通すとの手紙を、プチジャン司教に託した。
 この時期に、天草の叛乱のとき同様な拷問が出来るはずがなく、異教国日本をキリスト教に屈服させようとする嘆願書であった。
 8月7日 フランス皇帝ナポレオン3世は、個人の信仰は尊重されるべきであるが、個人の信仰を守る為に国法を破り内戦をもたらす事は厳しく禁ずべきであるとの、幕府の裁定に同意する親書を慶喜に送った。
 8月11日 幕府は、長崎奉行に対して、国法を隠れキリシタンに周知徹底させて釈放し、宣教師が浦上に立ち入らぬ様に監視を強化する様にとの命令書を作成して送った。
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 9月4日 長崎奉行は、多くの隠れキリシタンが棄教を約束したので釈放したが、棄教を拒否する指導的立場の数人に棄教をさせるべく拷問にかけた。
 拷問の事実を知ったロッシュ公使は、拷問はしないとの約束を破る行為であるとの詰問書を送って抗議した。
 幕府は、事実を素直に認めて謝罪すると共に、長崎奉行能勢大隅守と徳永石見守を更迭した。新たな長崎奉行に、ヨーロッパの事情に明るい河津伊豆守を任命した。
 長崎奉行所は、棄教して赦免された隠れキリシタンが改宗戻しを行っているとの情報から、番兵を派遣して宣教師と隠れキリシタン接触を監視した。
 キリスト教会は、日本を改宗するさせる事を神聖な使命としていただけに、俗権力である異教徒の幕府との約束を守るつもりはなかった。
 最終目標は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を改宗させる事であった。
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 10月11日 長崎に着任した河津伊豆守は、蒸し返された浦上キリシタン問題解決の為に取り組んだ。日仏パリ条約締結の使節団に加わってフランスに派遣され、ヨーロッパにおけるキリスト教会の実情を検分してきた経験から穏便な解決を目指した。
 捕縛した隠れキリシタンに対し、国内法ではキリシタンは禁制として取り締まっているが、将来的には解禁となから今は方便的に棄教せよと諭した。
 気弱で争い事を避けようとする日本人は、曖昧な解決法としてその場逃れの方便を多用したが、厳格で不寛容な国際常識はそれを断固として許さなかった。
 殉教を覚悟した隠れキリシタンは、如何なる妥協も、絶対神への信仰を裏切る行為であるとして拒絶し、地上で生きる為に一時的棄教は悪魔の誘いであるとして完全拒否した。
 長崎奉行所は、外交団との約束で拷問による棄教の強制は避け、ひたすら話し合いによる説得に努めた。
 だが、キリシタン側は意固地となって如何なる説得も拒絶して開き直った。
 多神教の日本人にとって、信仰の為に命を犠牲にして悔いないという一神教の信者が理解できなかった。
 昔の日本人は、大陸の人間の様な強烈な宗教心がないだけに、絶対神への信仰よりも自分と家族の命を守る事を優先し、自分と家族が助かるのであれば喜んで棄教に応じた。
 気弱で信仰心の薄い日本人には、信仰の為に殉教死する事が理解できなかった。
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 慶応2年12月25日(1867年1月30日) 孝明天皇は、天然痘崩御したが、朝廷内は崇徳院の祟りと恐れた。
 慶応3年1月9日(1867年2月13日) 睦仁親王(満14歳)は、元服前であったが践祚の儀を行い皇位に就くが即位せず、改元もせず慶応の元号を使った。
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 10月末 坂本龍馬は、越前に赴き、福井藩松平春嶽に会い山内容堂の上洛要請を伝えた。
 10月14日 坂本龍馬は、京都奉行兼大目付の永井玄蕃頭尚志に面会した。
 龍馬暗殺の実行犯とされる見回り組の佐々木只三郎は、二条城、京都所司代屋敷、所京都奉行所などを警戒区域としていた。
 徳川慶喜、朝廷に大政奉還した。
 坂本龍馬の新時代の政権構想は、薩長の暴走を抑える為に、英明な松平春嶽を首班として横井小楠と三岡八郎由利公正)らを登用するものであった。
 慶応3年10月14日(1867年11月9日) 討幕派の岩倉具視は、徳川幕府討伐の偽密勅を国学者・玉松操に書かせ、薩摩藩長州藩に下した。
 大政奉還。第15代将軍徳川慶喜は、討幕派の機先を制すべく、政権返上を明治天皇に上奏した。
 10月15日 明治天皇は、これを勅許した。
 大政奉還の願いが許可された為に、政権を私する徳川家を討つべしとの偽詔勅は名分を失い、倒幕大号令は沙汰止みとなった。
 坂本龍馬暗殺。
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 12月9日 小御所会議において、徳川慶喜内大臣辞任と幕府領の返還を命ずる事が決定された。
 鎌倉幕府以来、大名・領主支配として所領給付と領土安堵が将軍の命で行われていた。
 幕府直轄領の返還命令は、将軍に与えられていた国土の領主権の剥奪を意味していた。
 これまでは将軍の御意向が天皇の御内意より優位にあったが、これ以降は朝廷の伝統的権威が幕府の世俗的権威の上に立つ事となった。
 大名・領主の主従関係は、将軍・幕府から天皇・朝廷に移った。
 ただし、天皇専制君主として日本を直接支配する事ではなく、これまで同様に天皇は権威としての飾りに過ぎなかった。
 庶民は、詳しい事情が分からないにしても、新しい時代が来た事だけは解った為に、大名・領主の領民から天皇の国民となった事を「御一新」と呼んだ。
 「王政復古の大号令
 尊皇倒幕派は、王政復古を宣言し「諸事、神武創建の始め」に基づくとして、鎌倉以来の幕府体制を廃止し平安以来の摂関制を廃絶した。
 薩長倒幕派の陰謀によって王政復古の大号令が発せられ、天皇親政が宣言され、幕府は賊軍とされた。
 戊辰戦争の始まりである。
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 1867年末 朝廷側の財政は逼迫し、朝敵幕府を倒すだけの軍資金がなく、急遽、三井組、小野組、島田組等の豪商に頭を下げて御用金を調達した。
 天皇家私有財産として、歴代天皇が質素倹約・ケチにケチって節約して蓄えた御貯金が2万石〜3万石(現代の金に換算して3億〜4億円)あった。
 1868年 朝廷御貯金は、豪商・豪農・諸藩からの献上で約10万円になった。
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天皇と日本の起源 (講談社現代新書)

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