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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本に万世一系の天皇と正統性の根拠を日本神話に置く皇室がなかったら、地球上に日本という地名は存在せず、日本国は成立せず、日本民族(大和民族)日本人は生まれなかった。
日本という地名、日本国という国名、日本民族(大和民族)日本人という民族名は、万世一系の天皇と日本神話の皇室によって御墨付きを与えられている。
万世一系の天皇と日本神話の皇室が存在しなくなると、日本という地名も、日本国という国名も、日本民族(大和民族)日本人という民族名は永遠に失われる。
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日本民族(大和民族)日本人は、天皇と皇室を敬い、自分の命を犠牲にしても守ろうとした。
日本国籍日本人は、天皇と皇室に特別な思い入れはなく、敬愛もせず、尊崇の念もなく、むしろ軽蔑し見下し天皇と皇室の必要性を認めず廃止する事に反対はしない。
日本民族(大和民族)日本人は減り、日本国籍日本人が増え始めている。
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1868年 隠岐騒動。隠岐維新。隠岐自治政府を同志の誓い『公辺の利害損失申すまじく候こと』『同志中の儀は、和親を本(もと)として、瑣細(ささい)の故障(さしさわり)かつ異論申すまじく候こと』
忌部正孝(正弘の子孫)「海が荒れれば本土と隔絶される隠岐では、協力しないと暮らしていけない。だからお互いの立場を尊重し、話し合いで物事を決める風土があった。この誓いには、そんな島の人々の心が感じられます」
隠岐・島後の神官や庄屋らが中心となり、約3,000人の島民が武器を持って蜂起して、島を支配していた圧政を行っていた松江藩の役人を島外に追放した。
決起を指揮した水若酢(みずわす)神社の大宮司・忌部正弘らは、島民による自治政府を樹立した。
隠岐騒動に思想的影響を与えていたのは、儒学者の中沼了三であった。
中沼了三は、京で儒学を学び私塾を開き、薩摩や土佐の勤皇の志士と交わり尊王攘夷派として名が知れわたっていた。
隠岐の庄屋の子弟は、京に遊学して中沼の門下生となり尊皇攘夷に目覚め、島に帰り有志を集めて「文武館」を設立した。
文武館は、松江藩に対して外国の侵略から日本国と隠岐を守る為には武力が必要であるとして、島民に文武を稽古する場が必要であると訴えた。
壱岐の島民は、目の前で起きたでロシア海軍の対馬軍事占領事件を忘れていなかったし、蝦夷との北前船の寄港地として北方領土で起きたロシア海軍の海賊事件も忘れてはいなかった。
そして、近海を頻繁に航行する外国の軍艦や商船に対する脅威が島民を動かした。
ロシア軍の侵略行為が、鎖国下で平和に惰眠を貪っていた日本人を目覚めさせ、国家存亡という危機意識を天皇・皇室を中心にまとまって暴力で祖国を守るという覚悟をもたらした。
精神レベルで、隠岐は皇室と深い関係を持っていた。
小室賢治(隠岐の島町文化財保護審議会委員)「尊皇と攘夷の機運が高まり、やがて自治政府設立の動きにつながっていったのです」
松江藩は、幕府の開国・交易路線と庶民の武装化禁止の政道に従って、尊皇派庶民の憂国嘆願書を分を弁えない不届きであるとして却下した。
ロシアの侵略という危機から目覚めた庶民は、幕府・藩、サムライ・武士という御上に楯突いた。
一揆勢は、流血を伴う騒動を起こすとロシアの侵略を誘い込む恐れがあるとして、役人が抵抗せず退去を受け入れたので、餞別として米・味噌・酒を贈って本土に送りとどけた。
忌部正孝「隠岐古典相撲に見られる島の人の優しさだったのではないでしょうか」
松江藩は、武士の体面から島民による一揆・反乱による自治政府を認めるわけには行かず、壱岐・島後を武力で奪還の為に出兵し、抵抗する者は殺した。
島民による壱岐自治政府は、14人の死者を出し、80日で崩壊した。
松本健一「国家を一人一人が支える国民の意識を持って、お互いに協力、和親につとめ、勤勉、努力、禁欲、節約を旨とすべし、というのである。これは近代化を推し進める国民のエートス(精神)に通じている」
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ウィキペディア
隠岐騒動は、明治元年(1868年)に江戸幕府領で松江藩が実効支配していた隠岐国で起こった、松江藩と隠岐島住民の一連の騒動。雲藩騒動ともいわれる。
騒動までの経緯
寛永15年(1638年)の松平直政の松江への入部以来、隠岐は松江藩の預かり地となっていた。江戸時代中期以降、隠岐では食糧難が恒常化していたが、松江藩は有効な手立てを打つことなく、島民の間では藩に対する不信感が高まっていた。
嘉永5年(1853年)の黒船来航以来、黒船の日本近海への出没が頻繁に発生し、松江藩は幕府から隠岐国の防御を命ぜられ、文久2年(1862年)にイギリスとアメリカから艦船を一隻ずつ購入している。さらに松江藩は文久3年(1863年)に、隠岐の軍備増強のため、当時全国的に導入されつつあった農兵制を隠岐で採用し、藩士・錦織録蔵がこれを指導した。元治元年(1864年)には、隠岐防御への協力を朝廷より命ぜられていた鳥取藩から、景山龍蔵も派遣された。しかし、隠岐国郡代の枝元喜左衛門は西郷港に入港した船に立ち入った際、帯刀を船内に置き忘れるという失態を犯した。これにより、島民の松江藩への信頼は大きく失墜した。慶応2年(1866年)、松江藩は農兵隊に加えて、島の有産家の子弟30人を選び、これに扶持を与えて「新農兵」として組織した。次いで翌年には武芸差留を布告し、事実上農兵は廃止された。
騒動の概要
隠岐の住民たちは、従来より尊王攘夷志向が強かった。同様に尊王志向の強い十津川では「文武館」(現、奈良県立十津川高等学校)が儒者中沼了三により設立されていた。これを知った中沼の弟子の中西毅男は、同名の学校設立の嘆願書を同士73名の連署を得て、新任の郡代である山郡宇右衛門に願い出たが、取り下げられた。慶応4年(1868年)2月、神官・庄屋ら島民有志が徳川慶喜への直訴をしようと京都に向かうが、本州に上陸後に長州藩の取り調べを受け、王政復古がなったことを知り、退却した。また、山陰道鎮撫使総監の西園寺公望から隠岐国の庄屋方へ宛てられた書状を、山郡が庄屋らに渡る前に開封したことが露見する。これらを受けて3月15日、島後の庄屋職の会合が郡代追放でまとまると、島前の庄屋らにも参加を求めた。そして3月19日早朝、島後・島前の住民およそ3,000人が隠岐郡代の陣屋を急襲し、山郡は隠岐から追放され、施政機関としての総会所が陣屋に設置され、島民による自治が開始された。
騒動のその後
4月1日、中西毅男は明治政府から、隠岐が天朝領であることの確認と自治の認定を受けようと京都へ向かったが、思うような回答がないまま時が過ぎた。
閏4月27日、太政官から隠岐支配の内示を受けた松江藩主松平定安が派遣した兵が隠岐に上陸、松江藩兵が陣屋を奪還したが、島民側に同情的な薩摩藩、長州藩、鳥取藩が仲介し、5月16日に松江藩兵は撤退し、島民による自治が一時復活したものの、明治元年11月に鳥取藩の管理下に置かれることとなり、自治は事実上終了し、翌年2月に民兵組織も解体された。
明治4年、島民と松江藩双方の騒動に関係した者が罰せられ、一連の騒動は収束した。」
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外国勢力の侵略から祖国を守る為に武力を用いるべきだと真剣に考えていたのは、サムライ・武士らではなく百姓や町人の庶民達であった。
百姓や町人の庶民が持っていたのは、武士道精神ではなく、奉納相撲の立合における蛮勇を奮い立たせる「気合い」「気迫」「気力」であった。
日本は、武士道精神の国ではなく、奉納相撲の「気合い」「気迫」「気力」の国である。
百姓や町人の庶民が好んだのは、相対して立ち会う剣術ではなく、相手と四に組んで力を出し合う相撲であった。
奉納相撲は、日本独自の神聖で真剣に行う生真面目な神事であり、朝鮮半島の娯楽的お気楽な遊びの取っ組み合いとは縁もゆかりもない。
身分低い百姓ら庶民は、幕府・藩に対して「御上の申す通り、合理ごごもっとも」と下僕・奴隷の如く従順に従っていたわけではなく、命令に為たがって年貢・租税を納めては居たが、約束を破ったり理に叶わぬ命令には反発し猛省を求める一揆を行っていた。
日本の庶民は、絶対服従を強いられ苛めに苛められていた西洋の大衆や中華の民衆とは「全く」異なる被支配民であった。
西洋や中華の常識的解釈は、日本では通用しない。
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日本の庶民が何故、政治権力である幕府・藩、サムライ・武士に対して強気であったかといえば、2000年近い歴史を持つ日本天皇・皇室が弱い立場の庶民に味方してくれるという安心感があったからである。
事実。武力を持つ政治権力の幕府・藩、サムライ・武士らは、外国からの侵略から国を守りたいと願う憂国勤皇の志を抱いた庶民に味方する日本天皇・皇室に敗北した。
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後に、マルクス主義者・共産主義者が日本での暴力的共産主義革命に失敗したのは、身分低い弱者でる庶民が理解できなかったからである。
日本には、共産主義者が倒すべき強権的政治権力や絶対的宗教権威を独占する世襲の上流階級・特権階級が存在しなかった。
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日本の改革は、権力者が上からトップダウンで行うのではなく、庶民の合意で下からボトムアップで起きていた。
ボトムアップ改革の正当性を保証するのが、万世一系の日本天皇・皇室であった。
万世一系の天皇制度を守ったのは、百姓や町人そして賤民(エタ・非人・部落民)などの社会的弱者であった。
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