⛩42)─1─琉球の御嶽崇拝、日本民族の古神道、アイヌのカムイ崇拝は同種同根である。〜No.101No.102 ⑦ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 

 反日派敵日派の中国人や朝鮮人・韓国人には、日本民族日本人の宗教・精神性を理解できない為に宗教テロや宗教犯罪を繰り返す。

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 グローバルな普遍宗教は、ローカルな民族宗教・地域宗教・辺境宗教を野蛮宗教・下等宗教として容赦なく滅ぼす。

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 縄文人の自然崇拝・精霊崇拝・大地母神崇拝が、日本の古神道産土神崇拝、沖縄の御嶽(うたき)崇拝、アイヌのカムイ崇拝の源流である。
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 縄文人の自然崇拝・精霊崇拝・地母神崇拝は原始宗教として、普遍宗教のような、絶対神による天地創造、メシア(救世主)の出現、創世(始まり)と終末(終わり)、死後における最後の審判と魂の救済、天国(神の国・光の国)に復活して永遠の命を得る、そして奇跡や恩寵などは全てない。

 普遍宗教では、絶対神が人を愛し人を助けてくれる。

 縄文人の原始宗教では、愛と救済の絶対神は存在しない。

 縄文人は、多発する大規模自然災害で絶滅的被害を何度も襲われていた。
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 日本と大陸での自然崇拝・精霊崇拝・地母神崇拝は、優劣に関係なく根本的に違う。
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 2019年4月4日号 週刊文春「文春図書館 私の読書日記
 丁々の対談、体熱の収支、御嶽とグスク  池澤夏樹
 ……
 沖縄の御嶽は内地の神社に似た信仰の拠点だが、両者の間には大きな違いがある。御嶽にはほとんどの場合、建物がないのだ。聖地であってただそれだけ。
 『沖縄の聖地 御嶽──神社の起源を問う』(岡谷公二 平凡社新書 800円+税)はまず御嶽について簡潔な説明であり、半世紀以上に亘る御嶽巡りの記録であり、神社と御嶽の起源についての考察であって、これには柳田国男折口信夫の説への批判が含まれる。
 御嶽巡りのところは斎場(せーふぁー)御嶽の近く、久高島が見えるところに住んだぼくには懐かしい。その地の島の御嶽も知っているところがある。御嶽ほど整備されていない小さな拝所(うがんじょう)での御願(うがん)は日常の習慣だった。
 なぜ御嶽には社殿がないのかでなく、なぜ神社には社殿があるのかと考えて、『仏教寺院の影響も大きかった』という説に納得した。本来ならば人と神が出会う場で充分なのに、そこに国が割り込んで権威を立てようとした。それと平行して女性が排除され巫女は神官に取って代わられた。
 沖縄で琉球王朝は社殿を造らず、女性も残った。今でも民間の巫女であるユタの大半は女性だ。」

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 日本列島は、死と隣り合わせの容赦なき過酷な自然であった。
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 日本神道における自然崇拝・精霊崇拝には、自然保護・住環境の保全が根本にある。
 日本の豊かな四季は、日本神道のご神体が見せる「よき表象」である。
 日本文化に流れているのは自然文化という日本神道である。
 自然文化とは、自然が生み出すマイナス・イオンや1/fゆらぎである。
 日本文化とは、花鳥風月+虫の音、苔と良き菌が複雑に織り成す生きた文化である。
 静寂の中でゆっくりと呼吸をし、穏やかに心を見つめ、静かに魂・霊魂とささやき合う。

 日本の中心にあるのは、愛の「神」ではなく包容の「自然」である。
 日本民族は、内気なほど「内省」と「内観」で、お人好しとして「自然の為に働き、人(他人)の為に生き、世(社会・地域)の為に仕事をする」事を生き甲斐としていた。

 自利自愛自欲ではなく他利他愛無欲である。

 日本民族の生きる意義は、人としての「生き甲斐」であって絶対神への信仰の証しとしての「神聖な使命」ではない。
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 2019年2月12号 サンデー毎日「今こそ、読みたい   池内紀
 世界で淘汰された自然信仰が『ご都合教』として残されている
 『社をもたない神々』 神崎宣武 (角川選書 1,700円)
 奄美大島の山で出くわしたのが、山頂近くに草地がポッカリと口をあけていた。ただの草原ではなく、何やら特有の雰囲気がある。奄美には長らく民間呪術に通じた『ノロ』と呼ばれる女性がいて、陰の信仰をになってきた。その草地は神座(かみくら)のつくられた場所のようだった。儀式が終われば取り払われて、あとはふだんの草っ原にもどる。
 注意して見てあるけば、全国にごまんとあるだろう。山に神がいて、森が恐れられていた。なかでも人々が敬い、立ち入りをはばかってきたところ。せいぜい石の碑が一つ、あるいは小さな祠(ほこら)があるだけ。見たところ、草が繁るにまかせてあるが、あきらかに人がそれとなく守りつづけてきた。
 『社をもたない神々』は、そんな聖地に現れる。境内や石垣や拝殿や本殿とかかわらない。『世界の原初民族にも相通じるアミニズム(自然信仰)であり、シャーマニズム(呪術信仰)である。日本での古神道も、それに類するものだった』
 それを縷々(るる)語られたりするとヘキエキするが、この本が楽しいのは、五つのケースにわけて実践が紹介されていることだ。なにしろ著者は民俗学者にして、岡山の宮司であり古神道の神主である。季節がくると新幹線でとんで帰り、おごそかにピカピカの衣装を身にまとってノリトをあげている。神々と自在にまじわっている。
 歳神(としがみ)、竈(かまど)神、田の神、塞(さい)の神、水分(みくまり)の神、産土(うぶすな)荒神。・・・いま、あの世代以上で、地方から上京してきた人は、幼いころの記憶にあるはずだ。もっと親しくコージンサン、サイジンサンなどと呼んでいた。それが自然の伽藍(がらん)になった。見上げると、差しわたす枝がアーチをつくり、そこに日がさすと緑の葉が眩(まぶ)しかった。天然のステンドグラスというものだった。
 ご神体としての山、神木としての樹木と精霊の宿る森。『菅江真澄(すがえますみ)遊覧記』で引き用されているが、すでに江戸中期のころ、『社(やしろ)をもたない神々』が多くの善男善女を集めていた。山を登りつめたところが『カミがおわします聖域』とすると、坂を上がりつめて、その先は下るところの峠は、『山の神に手向(たむ)けをする』ところ。日本人は上手に聖域と手向けの役廻りを区別してきた。
 世界のどの民族も、はじめはアミニズムだった。やがて教義や教祖で整理され、また近代国家のなかで、自然信仰は淘汰されるか、絶滅した。そのはずである。ところが『それが、先進国のなかで日本だけに残存しているのである』。
 代々の社家(しゃけ)の人には、神道の実践がひそかな聖地巡礼である。日本人の心性のなかにたしかにあって、そして物量の洪水のなかで、いつしか見失い、忘れはてたものをたしかめて。
 いや、忘れはてたわけではない。私は日本人の信仰心を、ひそかに『ご都合教』と呼んでいる。ふだんは忘れていても、入試や結婚といった都合にあわせて甦(よみがえ)り、両手を合わせて大まじめに拝んだりするが、ことが終われば、あとかたもない。ちなみに本書では、つつましく婉曲(えんきょく)的に結んである。『日本とは、かように多様で無碍(むげ)なる非原理とも不定型ともいえる信仰を伝えた「不思議な国である」、といっておこうか』
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 縄文人の自然崇拝・精霊崇拝の祭祀は女性(巫女)が取り仕切り、男はその神託・託宣に従っていた。
 つまり、日本の原始社会は、女性上位男性下位、女尊男卑もしくは男女同列であった。
 何故なら、女性は命を危険に晒して子供を産み育てるからである。
 何故そうなったか、縄文人は、中国大陸や朝鮮半島のように周辺地帯・近隣の村を襲撃し、暴力で若い女性を略奪・拉致・強制連行しなかったからである。
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 日本が不寛容な性差別的男尊女卑になったのは、家父長主義、男性中心社会の仏教、儒教キリスト教が渡来したからである。
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 日本神道は、世界の宗教に通じている。

 世界の宗教が行きついた先が、世界の辺境・地の果て・大地の端・生と死の境界線である日本列島であった。
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 何故、日本神道琉球の御嶽崇拝・アイヌのカムイ崇拝が違うのか。
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 日本の宗教は、内に向かって五穀豊穣、国家安寧、民族幸福、そして外に向かって国家鎮護(護国)と怨敵退散・外敵退散(神風)が目的であった。
 それを全てを執り行えるのは、祭祀王である万世一系男系天皇(直系長子相続)の天皇御一人だけである。
 男系天皇であれば、女性天皇でも祭祀を行う資格はある。
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 朝鮮半島南部に住んでいた縄文人の子孫である倭族は、西方大陸系草原の民・黄河流域民の侵略を受け暴力的に倭人の住む日本列島へ追い出された。
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 日本神道は、教祖や教義・聖典を持たないだけに、渡来した諸宗教の教義で優れていると教えを、自己解釈(歪曲・捏造・改竄)して積極的に取り込んできた。
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 日本神道の核心は、自分の祖先を神として祀り崇める祖先神・氏神の人神崇拝である。
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 日本神道には、人としての心・魂・霊魂崇拝はあっても、人を超えた絶対神信仰はなかった。
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 日本民族日本人・琉球民人・アイヌ人は、すべて縄文人の子孫である。
 縄文人は、日本列島を中心にして、南は沖縄・台湾から、西は朝鮮半島南部、北は北海道・北方領土4島・千島列島・樺太まで広く分布し、手漕ぎの小舟を操って日本海を行き来しながら交易を行っていた。
 日本海縄文人の海であって、朝鮮の海「東海」ではない。
 縄文人は、血縁関係にある揚子江流域民や台湾人、さらには東南アジア沿岸地域とも海上交易を行っていた。
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 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海である。
 反日派敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国である。

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 文永の役における元軍は、蒙古軍と高麗軍の連合軍であったが。

 蒙古軍の兵士は、モンゴル人兵士より帰化高麗人兵士の方が多かった。 

 対馬壱岐で日本人を虐殺したのは、高麗人兵士や帰化高麗人兵士達であった。

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 世界には、宗教・信仰が原因の差別や偏見、弾圧や迫害、そして「神の御名」という聖戦(戦争・騒乱・テロ)による殺し合いが絶えない。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、絶対神から与えられた正当権利として、アフリカ人や日本人をキリスト教徒に改宗させ奴隷として売買していた。
 中世キリスト教会は、地球を支配し、人類全てをキリスト教に改宗させるという「神聖な使命」に従って、異教と異教の神と異教徒を滅ぼすべく「神聖な炎」で焼き尽くしていった。
 異教徒は、生きたまま十字架にかけられ焼き殺された。
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 キリスト教キリスト教会・キリスト教徒が、異教・異教の神・異教徒から弾圧や迫害されて殺される事は人類に対する重犯罪とされた。
 だが、その逆、異教・異教の神・異教徒がキリスト教キリスト教会・キリスト教徒に弾圧され迫害され殺される事は人類の偉大な功績と称賛された。
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 人類の歴史では、キリスト教の「神の御名」によって地球上から数多くの宗教・神々が消滅させられ、夥しい信者・信徒・教徒が虐殺された。
 世界の宗教史とはそうした歴史である。
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 共産主義マルクス主義)は、反宗教無神論から人類の宗教史を否定し、全ての神仏を皆殺しにし、全ての宗教施設を破壊つくそうとしている。
 気の弱い人間は、宗教に頼り救いを求めた。
 気の強い人間は、宗教を否定して主義主張で神々を殺した。
 現代日本では、人間中心主義で神々が殺されている。
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 ウィキペディア
 琉球神道は、沖縄本島を中心に信仰されてきた多神教宗教である。琉球王国時代、王国各地の宗教支配の手段として祭政一致体制に整備され、現在は民間信仰として残る。ニライカナイ信仰、御嶽信仰とも称する地域もある。
 琉球按司や王はノロ聞得大君祭政一致体制に組み込む一方でそれにそぐわない土着の地域信仰であるユタを度々弾圧した。

 解説
 民俗学者折口信夫は著作「琉球の宗教」の冒頭で、琉球の宗教を袋中以来の慣用によって琉球神道の名で話を進めたいと断った後、琉球神道は日本本土の神道の一つの分派、あるいはむしろ巫女教時代のおもかげを今に保存していると見る方が適当な位であると述べた。
 鳥越憲三郎は『琉球宗教史の研究』の中で、琉球宗教の二大潮流をなすものは御嶽信仰と火神信仰であるとし、やがて火神(ヒヌカン)は日神(テダ)と同一視され、按司(アジ)や国王の実権の所在を表徴する役割を持つに至ったと述べている。
 宮里朝光「琉球人の思想と宗教」によれば、琉球の固有宗教は、個人的な幸福を祈願するのではなく、社会及びそれを支える生活や生産について祈願し祝福するもので、社会が平和になれば個人は幸福になれると考えたのだと言う。その固有信仰は、祖霊神、祖先崇拝、火神、ニライ・カナイ、おなり神、水のセジ、万物有霊などがあるが、拝む対象の日月星辰を通して現世に益をもたらす祖霊に報本反始するものであると述べている。
 このように琉球は特有の信仰を有している。以下、その固有信仰などについて解説する。
 信仰の由来
 琉球神道は自然発生的に生まれたと考えられている。ノロ世襲型、ユタが原始的な召命型のシャマニズムであること、御嶽は古代集落が原型と考えられ御嶽信仰は祖霊崇拝が変化したものと考えられること、またおなり神信仰は古代の母系社会や女性上位社会の変化と考えられること、これらのことから古代信仰の形式をとどめていると考えられている。
 神
 仲松弥秀『神と村』では、全知全能のセジの具備者なる存在を古代琉球人が考えていたか否かについては研究不十分であるが、種々の機能を各々分担したセジの保持者は想定していたと考えられると述べ、人間は自己の欲するものを顕現してくれるセジを期待するのが至極当然であろうから、琉球における神とは「人間に善をもたらすセジの顕現者」と言う観念に傾斜していくことになるだろうと述べている。
 また、琉球の神は主に「来訪神」と「守護神」に分類でき、守護神や来訪神のいる異界・他界に豊穣を祈り、特に太陽神を最高神として崇める多神信仰である。[要出典]来訪神は異界の神であり、平時には人々の集落に存在しないか、御嶽にのみいると考えられる。しかし祭りの時になると異界から集落や集落の御嶽に訪れると考えられており、来訪神と人間の関係は極めて近しい。特に著名な神は、琉球の創造神であるアマミキヨ(アマミク)とシネリキヨや、ニライカナイ最高神である東方大主(あがりかたうふぬし)、国王就任の際に現れるという君手摩(キミテズリ)などであるが、この他にも多数の神がいると考えられている。来訪する神は世界的に島嶼民族に共通して見られ、一般に海を神聖視するが、これは琉球においても同様である。[要出典]これに関連して、折口信夫は「まれびと論」を展開した。 一方、守護神はもともと地域集落の死者の魂=祖霊であり、ニライカナイで神となって集落に戻ってくるとされ、この神は平時に拝所や御嶽にいると考えられている。また、過去の偉大な功績を残したノロが神とされ、墓地が御嶽となる例が確認される。

 御嶽
 沖縄本島の村落には必ず御嶽(ウタキ)と呼ばれる聖林があり、そこには村人の保護者であり支配者である神が住み給っている[8]。御嶽に祀られる神は、その村落の構成員と血縁関係を持つ氏祖で、村落構成員に対し絶対的守護の義務を負っている。
 御嶽は日本本土に見られる神社の原初的形態である神籬の形式を伝えるものである。鳥越憲三郎は、琉球の村落成立の重要な因子として、生活資料が確保できるかの経済的条件、気候や住環境の良し悪しの自然的条件、御嶽を創立する場所が選定できるか否かの宗教的条件の3つをあげ、村落成立にはこの3つが満たされる必要があったと述べている。
(詳しくは御嶽 (沖縄)参照)

 沖縄本島の祖霊信仰
 沖縄本島は祖先崇拝の盛んな土地として知られている[26]。また、御嶽の節にあるとおり、氏祖は村落の守護神とされる。

 

琉球王国における体系化と東方信仰

 琉球王国祭政一致の政策を敷き、各地の類似信仰を吸収、弾圧、廃止などを行い整理統制化した。各地に様々な呼び方をされていた聖域を「御嶽」という呼称に変え、ノロは階級化され、集落のノロが各集落の御嶽を管理し、地方の豪族領主である按司の血縁の女性をその地域全体のノロを統括する大阿母(神職名)とし、さらに国王の血縁の女性をノロ々々の頂点である聞得大君とした。
 また、琉球王国は太陽神(てぃだ)を最高神とする東方信仰を根幹においた。そして琉球国王は太陽に重ねて称えられ、ニライカナイの君手摩神の祝福を受け、オボツカグラのの認証を持つとされて、王権神授論を構成した。ちなみに、琉球王国の進貢船に掲げられた旗は白地の中央に赤い日の丸の日章旗で有った(進貢船の派遣自体は14世紀まで遡るが、当初から日章旗が用いられていたかは不明。本土では勘合貿易の船旗として日章旗が用いられていたことが知られる)。
 東方には太陽が昇る穴(太陽が穴:てぃだがあな)があると考えられ、その先は神域と考えられた。[要出典]すなわち東方は太陽のある聖域であり、反対に西方は死の領域と考えられ、忌避された。王国時代の風葬は西方の崖や洞窟で行われた。首里からみて、太陽が登ってくる地平線の真下にある玉城村など四間切は聖地と考えられ、多くの御嶽が集中している。またさらに東方の海に浮かぶ久高島は琉球王国最高の聖地と考えられ、久高島の中央にあるクボー御嶽は太陽が穴そのものとされていた。以来、久高島は現在に至るまで沖縄最高の聖地として知られている。
 また、琉球王国時代には、琉球開闢神話が史書として残された。『中山世鑑』や『琉球神道記』などに、日本(大和)の開闢神話と酷似した神話が記録されている。開闢神話において、琉球は天帝(日の大神、太陽神)によってアマミキヨ、シネリキヨの二柱の神によって土地を造成され、島となり、それから琉球開闢七御嶽をつくり、島に人間を放ったとされている。
 また、琉球王国は先島を勢力下に収めるたびに、この信仰をその地に広め、現地にノロや司(つかさ:八重山ノロ職名)を置いている。しかし基本的に間接統治であったため、現地の信仰の多くもそのままに残され、御嶽のような形式がその地域の信仰に取り込まれていくこととなった。ただし、王国と敵対したオヤケアカハチが信仰していた八重山地方のイリキヤアマリ神信仰のように、滅ぼされた信仰も存在する。
 琉球王国では、その王統が伊平屋・伊是名島に由来することから、伊平屋・伊是名の神を王国の守護神として王府首里に勧請した形跡が伺える。[要出典]一例として、国王巡礼の守護神となっていた有名な園比屋武御嶽の神が、元々は伊平屋の神であったことがあげられる。また、聞得大君の神名である「しませんこ あけしの」は、もともと国頭地方勢理客の御嶽の神名であることがわかっている。

 日本神道との類似性
 伊波普猷は、明治37年(1904年)に発表し昭和17年(1942年)に改稿した「琉球の神話」の中で、『中山世鑑』の起源神話と『古事記』の淤能碁呂島神話、『宮古島旧記』の神婚説話と三輪山神話などの類似を指摘し、琉球群島にはこれら以外にも色々な神話伝説があり神話の宝庫であることから、広義の琉球群島には未だ世に知られていない無数の神話伝説があり、これらの神話伝説を悉く集めて日本本土の神話伝説と比較研究を始め、更に進んで朝鮮、満州、蒙古と比較研究をすることは、ただ神話学者にとって必要なだけでなく、人種学者にとっても必要なことであると説き、ポリネシア群島の人種移動の問題はこのような研究によって解決されたのだと指摘した。
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 御嶽(うたき)は、琉球の信仰における祭祀などを行う施設である。「腰当森(くさてぃむい)」、「拝み山」などともいう。

 概要
 琉球王国第二尚氏王朝)が制定した琉球の信仰における聖域の総称で、それ以前はさまざまな呼び名が各地方にあった。この呼称は主に沖縄本島とその周辺の島々で発声されるが、宮古地方では「すく」、八重山地方では「おん」と発声する(近年では「うたき」への傾倒がみられる)。

 信仰上の位置
 御嶽は琉球の神話の神が存在、あるいは来訪する場所であり、また祖先神を祀る場でもある。地域の祭祀においては中心となる施設であり、地域を守護する聖域として現在も多くの信仰を集めている。琉球の信仰では神に仕えるのは女性とされるため、王国時代は完全に男子禁制だった。現在でもその多くが一定区域までしか男性の進入を認めていない。
 形態
 御嶽の多くは森の空間や泉や川などで、島そのものであることもある。御嶽によっては空間の中心にイベあるいはイビ石という石碑があるが、これは本来は神が降臨する標識であり、厳密な意味でのご神体ではない(ご神体として扱われているところも多い)。宮古八重山地方では、過去に実在したノロの墓を御嶽とし、そのノロを地域の守護神として祭っていることが多く見られる。
 大きな御嶽では、「神あしゃぎ(神あしゃげ、神あさぎ)」と呼ばれる前庭や建物といった空間が設けられていることがある。これは信仰上、御嶽の神を歓待して歌ったり踊ったりするための空間である。語源は「神あしあげ(神が足をあげる場=腰を下ろす場)」と考えられている。
 鳥居が設置されている御嶽が散見されるが、これは明治維新から琉球処分以降の「皇民化政策」による神道施設化の結果であり、本来のものではない。沖縄本島では戦後、鳥居が撤去された御嶽も多いが、宮古八重山地方の御嶽の多くには戦後もそのまま鳥居が残されている。

 起源
 御嶽はもともと古代社会において集落があった場所と考える説が有力である。その証左として、御嶽の近くから遺骨が見つかる例が少なくない。これは、祖先崇拝であることに強く関係していると考えられる。また、多くの川や泉が御嶽もしくはそれと同格の扱いをされているが、これは保水力の乏しい琉球石灰岩からなる沖縄県周辺の土地性などから、古代社会では水源が神聖視されたためと考えられる。
 グスクには拝所が存在するものも多いが、このことから、グスクは元々は御嶽を中心にした集落であったものが発展し、城砦化したと指摘する説がある。また、首里城、玉城城など、城そのものが御嶽とみなされていた城もある。
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