🎑70)─1・A─『森と木と建築の日本史』。日本の植林して木を育て再利用する意義。~No.159No.160 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 天皇陛下全国植樹祭への出席は重要なお役目であった。
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 2022年7月24日 読売新聞「文化 本
 『森と木と建築の日本史』 海野聡著 岩波新書
 評・金子拓
 木を育て再利用する意義
 先日、都心にある繁華街の商業施設が木造9階建てで新築されるという報道に接した。このように木造高層建築の話を耳にすることも多くなってきた。新国立競技場に木材が多用されているのは周知のとおり。ことほどさように、建築の場において木の再評価が進んでいるように見受けられる。
 日本は古来、森林資源に恵まれ、人びとは日常的に木と親密な関係を持ち、これを利用してきた。その代表が建築物である。本書は、『木造建築における1本1本の木の選択から、森林からの材料供給という周辺環境まで、木そのものに徹底的にこだわって日本の歴史や文化を考えてみよう』という考えにより、古代から近現代に至る日本人と木の関係が建築という視点から捉えられている。
 古代では巨木を用いた建築が多く誕生した。柱や梁(はり)はもちろん、一枚板の板戸など建具もまた巨木から製材された。寺院や都城の邸宅を造営するための材料確保には、寸法などの規格化と作業の効率化が課題となる。木材運搬に馬が酷使され、短命であったというデータもある。
 中世になると巨木の入手が困難になり、小規模の部材でも建物が建築可能となるような技術の進展が見られた。ただ、継続的な森林伐採による環境破壊も深刻化し、育林など森林保全の試みも見られるようになる。資源確保と保全のせめぎ合いのなか、近世では支配者層が積極的に保全策に乗り出し、森林資源の持続的な利用が図られた。
 こうした木と人間の関係史は、文化財修理の取り組みを利用した調査の積み重ねにより深められてきた。材料を分析することで時代的・地域的特性が明らかになる。木がどこから採取されたかがわかれば、おのずと運搬・流通の仕組みの考察へとつながってゆく。
 文化財の修理・保全のためには技術の継承も重要な課題となる。木造建築の技術はユネスコ無形文化遺産にも登録された。再利用できるという木材の特性は持続性という課題にも通じ、本書が語る歴史は現代的意義をもつことになる。」
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森と木と建築の日本史 (岩波新書 新赤版 1926)
建物が語る日本の歴史
古建築を復元する 歴史文化ライブラリー
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 記紀神話によると、森の木々は素戔嗚尊が蒔いた種から生えてきた。
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 日本神道・日本神話とは、狭間・境を神聖視する自然崇拝宗教である。
 隙間・境とは、生と死、平地と山・森林・海、天と地、光と闇、明と暗、そして神と人、人と動植物である。
 人は、地上界、平地・平野で生き働き家族とともに生活している。
 八百万の神々は、天・天界(高天原)、山・森林・海におられる。
 神々の世界・天上界と人間界・地上界を繋ぐ狭間・境には、神社仏閣を建て穢してはならない祈りの場として掃き清めていた。
 狭間・境に立つ事ができる人が、現人神と讃えられる男系の正統天皇御一人であり、女系の正当天皇ではないし皇族でもない自称天皇の紛い物でもなかった。
 狭間・境は、宗教的パワースポットであっても、カルト的神秘ではなく、科学でもなく、イデオロギーや哲学・思想でもなかった。
 にたような神霊スポットは、琉球の御嶽である。
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 世界文明・世界宗教キリスト教ユダヤ教イスラム教なども啓示宗教は「平野と森の対立文化」から発生した為、人は神に祝された命溢れる平野・平地に住み、山・森林・海は神と敵対する悪魔、魔物、獣、犯罪者などが巣くう魔窟であり、神の平野・平地を離れて魔窟がある山・森林・海に少し入った所は魔女・異端者・追放者が潜んでいると信じられていた。
 つまり、自然とは悪魔、魔物、獣、犯罪者が蠢いている魔窟であり、聖なる火で焼き滅ぼすべき汚れた土地であった。
 それ故に、普遍宗教である啓示宗教・都会宗教は自然宗教である田舎宗教・土着宗教を「神の御名」によって滅ぼし、人間文明は生活を邪魔する自然を破壊してきた。
 人類最古の神話とは、半神半人の英雄が森林の守護神(魔物)・大地母神(大蛇)を倒し、森を切り開き、開墾して農地を拡げ、城塞都市を造って王国を打ち立てる物語である。
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 日本民族は、高温多湿で病原菌(悪玉菌)・有益菌(善玉菌)・雑菌(日和見菌)などの細菌が多い自然環境・住環境で生きてきた為に衛生観念が高く片付け上手で綺麗好きであったが、現代日本人の様な神経質で異常な病的潔癖性ではなかった。
 それを言い当てた狂歌が「白河の 清きに魚も棲(す)みかねて もとの濁(にご)りの田沼恋しき」である。
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 日本の宗教的価値観から生まれた境・隙間、灰色、中庸とは、善・正であれ悪・邪であれ相手を逃げられない所まで追い詰めない為であり、曖昧な所・いい加減な所を残して言い訳可能な状況を残して助ける為であった。
 それが村八分である。
 昔の日本で、絶対価値観による不寛容な異端審問、魔女狩り、異教徒虐殺、人種差別・民族差別・人間差別が起きなかったのはこの為であった。
 善悪・白黒を付けないという多種多様な宗教性から、日本の物の怪・妖怪、幽霊・亡霊、怨霊は世界の悪魔、魔物、獣とは違う。
 つまり、日本には生き返って無差別に無関係な人々を虐殺するゾンビは無意味である。
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