💄31)─1─徳川将軍を生んだ生母の多くが、百姓・町人の庶民や下級武士などの身分低い娘か罪人の娘であった。~No.64No.65 @ ⑤

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 女性の役割分担として、政治・外交・財政・軍事の表舞台から遠ざけ、家の中に閉じ込め出産・子育と家族繁栄・家内安全に専念させたのは徳川将軍家であった。
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 徳川将軍家は、歴史を教訓として、将軍の生母や未亡人が力を持つ事や、生母や御台所の生家が外戚として権力を握り政治を専横する事を恐れた。
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 日本の男性は、女性を社会から締め出し政治から遠ざけられたのは、女性の知力や胆力を恐れた方である。
 口げんかした時、男性は女性には叶わない。
 日本の男性が女性に暴力を振るうのは、負けるのが怖いからである。
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 2016年1月号 新潮45 「女系図でたどる驚きの日本史 大塚ひかり
 徳川将軍の母の身分はなぜ低いのか?
 百姓、八百屋、魚屋の娘に、罪人の娘までいた徳川歴代将軍の生母たち。
 徳川家は『将軍の外戚』を作らぬよう細心の注意を払っていたのであった。
 子や孫に呼び捨てにされた側室
 大奥を舞台にしたドラマでは、側室が男子を生むと急に大事にされ、子供にも『母上』などと呼ばれるシーンがあったものだが、江戸時代最後の将軍慶喜の孫娘の大河内富士子夫人によれば、
 『テレビで気になるのは、側室が皆ひどく威張っていること。いくら跡取りをお生みにしても側室は局(つぼね)で、格は老女の方が家では上位ですよ』(遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』)
 老女とは侍女の筆頭のことで、大奥では『お年寄』と呼ばれる。側室はその下に位置し、子や孫にも呼び捨てにされていた。
 そのように徳川将軍家の側室の地位が低いことは本を呼んで知っていた。
 が、今回、将軍家の母方の系図を作ろうとして、はたと困った。
 特定の強い外戚がない。
 『女系図』が作れないのだ。
 歴代将軍の母となった女にはそもそも高貴な人が少ない。百姓や八百屋、魚屋の娘などもいて、中には四代将軍家綱の母のように、禁猟区の鶴を捕って売り死罪となった者の娘もいる。
 これは、平安時代天皇家には藤原氏、鎌倉前期の源将軍には北条氏、室町時代の足利将軍には日野氏というふうに、強い外戚がつきのだったそれまでの権力者にはないことではないか。
 と思い立って、平安・鎌倉・室町。・江戸の各時代の最高権力者の母親の地位や出身階級を調べたところ、女系図的に非常に興味深いというか、驚くべき結果を得た。
 ……
 通時代的に権力者の正妻腹率を表にしたのはこれが初めてだと思うが、平安時代の摂関77%、鎌倉時代の将軍67%、執権56%、室町時代の将軍47%、江戸時代の将軍20%の順で、時代が下るにつれ見事に正妻腹率が低くなっているのが分かる。
 なかでも江戸時代の徳川将軍の正妻腹率の低さは異常なほどで、予想していたとはいえ、正直、他の時代とここまで極端な差が出るとは思わなかった。
 要するに徳川将軍はほとんど側室腹なのだ。
 これはどういうことかというと、一つには、母方の重要性が低くなっている、女の影響力、地位の低下を示していよう。
 性を売る遊女の地位が14世紀を越えると『劇的といってよいほど』変化し、15、6世紀になると、遊女の統括者は女から男へ変わり、地位が低下することは網野善彦が指摘していて、『一般平民の中での女性の地位も』15世紀以降『かなりの変化が起こりはじめている』(『職人歌合』)と言い、私も古典文学を読んでいるとその実感はあった。
 そういう女の地位の変化が、権力者の正妻腹率の変化にも表れている。
 その芽はすでに平安末期、天皇の母方が実権を握る外戚政治から、天皇の父方(院)が実権を握る院政に移り変わったころからあった、中流貴族の娘が大貴族の養女となって天皇家に入内するということが増えてきた。〝腹〟より父の名が大事になってきたのだ。
 極めつけが江戸時代の将軍家で、庶民の娘が武士の養女になって大奥にあがり、大奥の最高権力者たる『御年寄』などの推薦を得て、将軍のお手つきになったりする。
 とくに江戸時代の前半など、将軍の子さえ生めば身分は何でもいいという感じで、いくら女の地位が低くなったとはいえ、ここまで極端なのは将軍家ならではの事情があった。
 正妻と側室の極端な身分差
 徳川将軍家の妻妾を見て驚くのは、正妻(御台所)と側室の極端な身分差だ。
 御台所は、3代家光将軍以降は、皇族や最高位の公卿から迎えられた。15代中2代ほど外様大名の島津家出身の御台所がいるが、いずれも近衛家の養女になってから輿入れしている。
 幕府がこうした方針をとった理由は、『天下を統一し、征夷大将軍となった以上、例え大々名であろうともすべて臣下であり、最早武家の社会には対等に交際できる家柄は一つもなくなった』というのと、『徳川幕府にとって朝廷、公卿はやはり面倒な存在であったから、常にこれを懐柔して置く必要があった』(高橋金芳『江戸城大奥の生活』)と説明される。
 初代将軍家康は朝廷を非常に意識しており、1920年、2代秀忠の五女和子が天皇家に入内したのは亡き家康の方針によるものだった(村井康彦編『洛 朝廷と幕府』)。  が、ふつうに考えれば、側室の一人くらい大名家から迎えてもいいだるに、幕府はそうしない。側室は基本的に旗本の娘で、先にも触れたように武家以外の者もいた。これは側室が、大奥に仕える女中から選ばれるためで、御台所が『将軍家と対等』という位置づけなのに対し、側室は『将軍家の臣下』という位置づけだ。平安貴族でいえば、女房として仕えつつ主人の性の相手もするいわゆる『召人(めしうど)』に近いかもしれない。
 つまりは召使である。
 ……天皇の死後、その妃が再婚することもあった平安中期では考えられないことでびっくりだが・・・。
 将軍に寵愛されれば一族が恩恵を受けるのは確かで、3代将軍の側室のお夏の方は京都の町人の娘で、御湯殿役という、将軍の入浴の世話をする下級の女中だったのがお手つきとなり男子を生んだ。そのため彼女の父は甲府家の老臣、弟は5,000石を賜って家老になった。とはいえ、あくまで家老なので、先の水野忠央と同じく陪臣に過ぎない。
 側室はもとの身分が低いので家族の立身もたかが知れており、母方が大きな力を持つべくもない。
 では御台所(正妻)はどうかというと、大奥の主人であっても、権力者ではない。大奥の最高権力者は御台所ではなく、『御年寄』と呼ばれる旗本出身の女中の長だ。冒頭の大河内夫人の言う『老女』である。奥女中の中から将軍に側室を推薦するのも主として彼女らの役割だ。
 側室も御台所も力を持てないように出来ている。
 徳川将軍家の妻妾政策から浮き彫りになるのは、『強い外戚を決して作らない』という固い意思だ。
 そのために作られたのが『大奥』だったのではないか。
 御年寄が大奥を取り仕切る決まりは、3代家光将軍の乳母春日局によって整えられた。これによって『将軍の妻をロボット化した』(『別冊太陽 徳川十五代』所収)のである。
 もとより京という遠隔地、それも実権のない皇族・公卿を御台所に迎えたところで、徳川家にとって大きな脅威にはならない。辻達也によれば、平安末期の源頼朝から安土桃山時代織田信長に至るまで、敵を討伐する際は、必ず朝廷に奏請して戦いの大義を得るのが武士の常だった。ところが豊臣秀吉徳川家康小牧・長久手の戦い以来、『大きな軍事的対峙において朝廷がまったく介入の余地を失い』無力な存在となっていた(同氏編『天皇と将軍』)
 しかもそ御台所は『御年寄』によって権勢を抑えられ、ただでさえ低い身分出身の側室も力を持てぬ仕組みが作られていた。側室が将軍とねる際は、将軍の左に少し離れて『御添寝』役 、側室の右にも少し離れて『御坊主』(女でありながら坊主頭で男の衣装で将軍に仕え、奥のみならず表にも行ける)が寝る。つまり4人で寝るわけで、『御添寝』役も将軍のお手付き(側室)だったため、側室と将軍の睦言を他の側室が監視するという恐ろしいシステムになっていた。もっともこれは開幕当初からあったわけではなく、。
 『五代綱吉のころ柳沢吉保が愛妾染子を利用して、甲府100万石の御墨付きを認めさせた事件からという』(高柳氏前掲書) 
 徳川将軍家は、御台所や側室の一族が政治的な力を持たぬよう、代を重ねるごとにシステムを強化していった。
 娘を天皇家に入内させ、生まれた皇子の後見役として一族が権勢を振るう外戚政治によって『政=性』を体現していたのが平安貴族なら、将軍の性を大奥に封じ込め、表の政治と切り離し、大奥の運営すらも『御年寄』の手に委ねることで『政』と『性』を峻別したのが徳川幕府家なのだ。
 そのベースを作ったのは先にも触れたように春日局だが、基本方針を作ったのは家康ではないか。
 〝フグリ〟をつぶされた将軍
 家康は『吾妻鏡』を愛読していた(貴志正造 『全訳吾妻鏡』 一 訳者序)。『吾妻鏡』は周知のように北条氏による鎌倉6代将軍までの歴史書だが、これを読むと北条氏が自分たちの権勢を邪魔する一族を徹底的に粛清していることが分かる。
 中でも印象的なのは比企氏の粛清で、北条氏は比企氏ばかりか、北条政子の実の息子である2代将軍頼家まで殺している。頼家が母方の北条氏ではなく、妻方の比企氏側についたからだ。
 ……
 思えば、天皇家外戚の座を争っていた平安貴族の世界は平和であった。道長が権力に物言わせ、自分の娘彰子の生んだ第二・第三皇子を東宮にしたり、第一皇子を生んだ定子の兄弟たちを左遷するようなことはあっても、権力のために子や孫まで殺すというようなことはなかった。 
 強い外戚を作らない
 もちろん北条氏とて、殺生や権力闘争でエネルギーを消耗することは避けたかったに違いない。
 3代将軍実朝が頼家の遺児公暁によって殺された後(それも北条氏の謀略という説もある)、北条氏が公家将軍・皇族将軍を京から迎えるようになったのは、北条氏に拮抗する強い外戚を作らないための大発明だったと言える。
 このやり方に徳川将軍家はならったのではないか。
 家康自身、側室は鋳物屋の妻や町家の娘など低い身分の者が多く、お嬢様好みの秀吉と比較されるところで、稲垣史生は『秀吉みたいに上品な美女でなく、専ら実用的な魅力ある女を求めた』と評するが(前掲書)、一つには、強い外戚を作らぬためではなかったか。
 御台所に京都の貴人を迎えるのは3代家光以降の慣習なので、直截(ちょくせつ)的に家康は関わらないまでも、『吾妻鏡』を愛読していた家康の精神を、春日局なり後任の幕僚なりが受け継いだということはあろう。
 徳川幕府の妻妾政策は『吾妻鏡』、もっというと北条氏から学んだところが大きいように思う。
 それは徹底的に徳川家のみが力をもつやり方であり、権力闘争を避けるやり方でもある。
 頼家に貢献しながら北条氏に滅ぼされた比企氏の悲劇を繰り返さないために・・・と、言いたいところだが、比企氏の女系図を作ってみると……、北条氏の血を伝えている上、江戸時代の島津氏にもつながっている。唯一武家ながら二度も徳川将軍家の御台所を出した、あの島津氏だ。
 徳川幕府ではなぜ島津氏だけが特別扱いされたかというと、島津氏ので『5代藩主綱豊が五代将軍綱吉の養女竹姫を娶ったことから、将軍家の縁戚となる。そして、将軍家の一族である御三卿の一橋家に8代藩主重豪(しげひで)の娘茂姫が嫁いだ。その相手の一橋豊千代が、宗家の血筋が絶えたため、10代将軍家治の養君(将軍となるべき養子)となり、11代将軍家斉となった』(山本博文編著『図解大奥の世界』)。『いわば偶然のなりゆき』(同前)であったわけだが・・・。
 島津氏の先祖忠久の実父は源頼朝と伝えられている(尊卑分脈・島津家譜・系図纂要など)。源頼朝は家康の目標とした人物で、『家康がかねがね源氏の流れに結びつきたいという「そし」(素志)をいだいて』(辻達也編前掲書)源氏につながる系図を作り、源氏を名乗っていたことを思うと、奇して縁を感じてしまう」
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 ヨーロッパでは、諸国の王家は政略結婚を繰り返して姻戚となり、他国の王位継承権を持っていた。
 中世ヨーロッパ世界では、他国の王位継承権を主張しての戦争が絶えなかった。
 日本天皇家には、女性神天照大神伊勢神宮)と神武天皇橿原神宮)の血を混じりけなく引く正統な皇族のみを天皇と認めるという「天孫降臨神話」に基ずく神聖不可侵の大原則がある為に、中華世界の儒教的天帝と天子思想を完全に排除して万世一系の皇統(国體)が守られてきた。
 大陸の王侯貴族は、男優位として、血に塗られた暴力で勝利し征服する事で正当性が認められた。
 日本の天皇は、女性優位として、神話物語による血の継承で正統性が認められた。
 だが、サムライ・武士は血を伴う大陸の王侯貴族に似ていたが、サムライ・武士を統治者として承認するのが天皇の権威である為に、血を忌避する天皇を超える事も廃絶する事もできなかった。
 世界史・大陸史では。有力な外戚が、娘が産んだ幼帝を奉じて叛乱を起こして王国・帝国を乗っ取り、遂には自分が皇帝・国王になる事件が多々存在する。
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 権力を握った女性の愛欲・欲情・見得そして嫉妬やヒステリーなど激しい感情が原因で、内戦や対外戦争が起き、王朝の繁栄と王朝の滅亡がもたらされた。
 冷静な判断を誤らせ理性を失わせる、女性の身を焦がし心を狂わす激情を止める術はない。
 古今東西、何れの国・王国も、「傾国の美女」の出現を最も恐れた。
 儒教は、「天帝の命で樹立した中華帝国を滅亡させ、天の子とされる皇帝の尊き血を断絶させる最大の原因は、君主を色香で惑わし籠絡する美女である」と決めつけて、徹底した不寛容な「男尊女卑」を社会に広めた。




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