🌏46)─1─統帥権は、庶民出身の民選議員を信用していなかった証しである。山県有朋の徴兵制と軍人勅諭。~No.154No.155No.156No.157 ⑫

統帥権と帝国陸海軍の時代 (平凡社新書)

統帥権と帝国陸海軍の時代 (平凡社新書)

  • 作者:秦 郁彦
  • 発売日: 2006/02/11
  • メディア: 新書

 統帥権は、人間不信から、庶民出身の民選議員を信用していなかった証しである。
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 日本民族日本人の本性は、百姓根性として「冷めた」で、人間不信で疑り深く、言霊を怖れるが故に安易に付和雷同して行動はしない、である。
 人間不信で疑り深い証拠が、「統帥権」である。
 安易に付和雷同して行動しない証拠が、悪意を持った扇動者に踊らされて暴動・騒乱・内乱・内戦を起こすことが少ないことである。 
   ・   ・   ・   
 高坂正堯『国際政治 恐怖と希望』
 国家とは、力の体系、利益の体系、価値の体系の複合体である。
   ・   ・   ・   
 歴史は、現実に起きる諸条件及び諸要素が全く異なる為に、同じ事を繰り返す事はない。
 歴史を教訓として学とすれば、それは平和学ではなく戦争学である。
 地政学軍事学を伴わない歴史教育は、無意味ある。
   ・   ・   ・   
 戊辰戦争を戦った武士出身の元老・元勲らは、選挙で口先で当選した庶民出身の民選議員の忠誠心を信用してはいなかった。
   ・   ・   ・   
 軍部と軍国主義者が、好戦的な一般国民の後押しを得て、統帥権を悪用して暴走した。
   ・   ・   ・   
 2016年3月18日 週刊朝日司馬遼太郎の言葉 この国のかたち─『統帥権
 第11回 統帥権と元老
 〈──あんな時代は日本ではない。
 と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある〉
……
 〈『この国のかたち』の主人公は、国家としての、また地域としての、あるいは社会としての日本である〉
 もともとユーラシア大陸に寄り添うような小さな島国で、住民はおもに稲作を守り続けてきた。
 〈『日本史のなかに連続してきた諸政権は、大づかみな印象としては、国民や他国のひとびとに対しておだやかで柔和だった』〉
 これには異論もあるだろう。豊臣秀吉朝鮮出兵もあった。明治後には日清戦争日露戦争と、海外に出兵することも多くなった。
 ただし、日露戦争が終わった1905年から45(昭和20)年までの40年間は、明らかに日本史のなかでは異常な歴史だった。
 とくに31(昭和6)年の満州事変以降は陸軍の暴走が続いた。
 〈『おや、あなたたちは、どこのどなただったかね』と、明治の夏目漱石が、もし昭和初期から敗戦までの〝日本〟に出遭うことがあれば、相手の形相のあまりのちがいに人違いするにちがいない〉
 ……
 まず統帥権の成立事情から司馬さんは書いている。『統帥』とは『軍隊を統(す)べ率(ひき)いる』であり、『統帥権』とは本来、単に『最高指揮権』というだけのことだった。
 〈英国やアメリカでも当然ながら統帥権国家元首に属してきた。むろん統帥権文民で統御される〉
 日本でもシビリアンコントロール文民統制)は利いていたが、昭和になると制御ができなくなった。萌芽は明治維新早々にあったようだ。
 維新直後、新政府は直属の軍隊を持たなかった。薩長土3藩があわせて1万の藩兵を献上し、これが近衛兵となった。
 〈政府は近衛兵たちにフランス式の軍帽と軍服を着せたが、中身は江戸時代の武士で、天皇の親兵であるという実感をもたなかった〉
 一方で、新政府は廃藩置県を断行し、徴兵制を進めていく。
 当然、食禄を奪われる士族たちは反発し、なかでも近衛兵舎は不満が渦巻いていた。
 長州の山県有朋(中将、陸軍卿)は薩摩の西郷隆盛(大将、近衛都督)の力を頼りに近衛兵たちを抑えてきたが、その西郷自身が征韓論をめぐる政変の末、1873(明治6)年に辞表を出してしまう。 
 西郷帰国を知った薩摩系の近衛将校たち(一部土佐も雷同)ら百数十人もいっせいにやめた。
 〈辞職者たちは大挙営門を出たとき、営門わきの池に帽子(帽子のてっぺんが赤かった)をほうりこんだ。天皇統帥権など、あったものではなかった〉
 池が帽子で赤く染まったという。
 桐野利秋少将ら辞職者たちも西郷同様に帰国し、やがて西南戦争を迎えることになる。
 〈結局、統帥のみだれが、明治10年の西南戦争という未曾有の内乱をひきおこした。そのみだれは、隔世遺伝のように、昭和の陸軍に遺伝した〉
 総力をあげて鎮圧したものの、翌年、その論功行賞への不平などから近衛砲兵大隊の兵260余人が反乱(竹橋事件)を起こしている。
 〈大隊長などを殺し、砲を曳いて大蔵卿大隈重信邸などを襲撃した。要するに、統帥の思想さえない猛獣たちだった〉
 懲りた山県有朋が作ったのが『軍人勅諭』(1882年公布)だった。哲学者の西周が起草、法律のエキスパートの井上毅が全文を検討、ジャーナリストの福地源一郎が読みやすくした。
 〈励声一番、『朕は汝等軍人の大元帥なるぞ』という。この一言で、統帥権の所在が明快になったといっていい〉
 忠節、礼儀、武勇、信義、質素といった倫理規定が続き、世論に迷うこと、政治にかかわることなどを厳しく戒めている。
 さらに1889(明治22)年に大日本帝国憲法明治憲法)が発布され、その第11条に、
 『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』
 と定められた。
 〈『軍人勅諭』および憲法による日本陸軍のあり方や機能は、明治時代いっぱいは世界史の常識からみても、妥当に作動した〉
 要するに、成立当時の『統帥権』は、むしろ軍隊の暴走を抑えることに力点が置かれていたようだ。
 三権(立法、行政、司法)分立が保たれた憲法が運用され、『統帥権』が三権に超越するといった考え方は認められていなかった。
 〈このことは、元老の山県有朋伊藤博文が健在だったということと無縁ではない〉
 西郷、大久保利通木戸孝允の『維新の三英傑』はすでにいない。生き残り組の2人は、明治政府の脆弱さをよく知っていた。特に山県は『軍事』の効能、運用の難しさが身に染みていた。
   ◇   ◇   
 〈幼少の天皇明治天皇)を要する新政府は兵をもたなかった。世界史上、軍隊をもたない革命政権は、他に例がない〉
 京都大学教授の伊藤之雄さん(63)には『明治天皇』『山県有朋』『昭和天皇伝』などの著書がある。『伊藤博文』(2009年)を書いたあと、司馬さんに驚かされたという。
 ……
 『『翔ぶが如く』の山県有朋はそれほどよく書かれていなかった印象があります。『この国のかたち』で統帥権の問題を考えたとき、司馬さんのなかで山県の評価が少し上がったのかなという気がします。「山県や伊藤が健在だった」という表現に、司馬さんの直観的な、本質をつかむセンスを感じます。『この国のかたち』は90年前後ですが、資料をもっと読んでいるはずの研究者が以外に見えていなかった部分です。大久保の後を継ぐ形となった伊藤が健在の時代は、シビリアンコントロールがよく利いていました、日清戦争以後に権力を固めた山県には、軍事のプロとしての使命感があり、陸軍を引き締めていました』
 伊藤さんは愛犬に『俊輔』と付けるぐらいに伊藤博文が好きだが、山県も調べるにつれて好きになった。
 『悪くいわれることが多いですが、私は愚直な人柄がいいと思います』
 昭和になると、陸軍大臣が辞表を出し、後任を出さずに内閣を倒すという言外に脅すことで、内閣を陸軍い従わせるという事態が頻発した。海外出兵の是非や予算がよく紛糾の原因となったが、山県は未然にそれを防いでいたようだ。
 『山県は陸軍卿のときも、政治家になったときも、陸軍省を通じて陸軍全体を統制しようとします。具体的には人事ですね。陸相を誰にするかということを重視し、武断的な人間よりも桂太郎寺内正毅のような行財政能力のある人間を選んでいます。まあ、長州ばかりではありますが。軍備拡張はしたいが、内閣や議会を納得させる必要がある。そのとき、責任ある専門家として予算も無茶苦茶なことはいわないし、いわせない。作戦でもそうですね。戦時の実際の作戦の細かいところは参謀本部の仕事ですが、政府から自立して勝手にやるのは絶体許さない。素人が作戦に口を出すのを山県は嫌いますが、陸軍、参謀本部の独走も許さない。山県には生真面目に国家に仕えるという明確な姿勢があります』
 司馬さんは明治憲法に制度上のそれほどの不備があったとは考えていなかったようだ。伊藤さんはどう考えているか。
 『制度上の不備はないと思いますね。ただし、しっかりした内閣でなければ運用できません。たとえば原敬内閣は、シベリア撤兵を成し遂げています。どの軍隊をどこまで引くかという、普通で考えれば完全に参謀本部の権限ですが、原と田中義一陸相で決め、閣議で決めて通告しています。参謀本部は受け取れないとしますが、最後には山県が動いてそれをのませている。原がすごく賢かったんですね。もし山県が参謀本部の肩を持ったらできませんが、自分と陸相の辞表をちらつかせて山県に認めさせています。あの憲法下でも、ちゃんと内閣主導で作戦まで口を出すことはできた。まったく文官の首相で、明治維新の志士でもない原がそこまでできたわけですから。ただし、内閣が国民の信頼を失い、弱くなっているときはだめです。もうひとつ、天皇の威信が確立していないときは難しい』
 司馬さん86(昭和61)〜87年にNHKの番組『雑談「昭和」への道』に出演している。『統帥権』に焦点を絞った番組で、司馬さんの死後、その内容をまとめた『「昭和」という国家』という本が出版された。昭和の軍指導者を痛切に批判している。
 〈国家を引きずり回し、国家を自分たちの考えているイリュージョン(幻想)のとおりに持っていき、博打場でひと財産投げ込むようなやり方で、国家を賭け物に使いました〉
 さらには軍人勅諭にも触れた。
 〈軍人勅諭には、軍人は政治に関与してはいけないということが書いてある。昭和の軍人たちは中身を読んでいなかったのでしょうか〉
 ……」
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 下級武士は、戦争に勝って元老や元勲となった。
 百姓町人=庶民第一世代は、才覚や功績で官僚や重臣となった。
 百姓町人=庶民第二世代と第三世代は、大学で教育を受け登用試験に合格して官僚となった。
 少数の高学歴出身知的エリートの官僚は、反天皇マルクス主義に染まった。
 地方の名士は、国民選挙で当選して代議士・政治家となって議会に参加し、与党議員は政府を擁護し、野党議員は政府を攻撃した。
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 陸軍参謀本部は、山県有朋の主導で『統帥論考』を作成した。
 統帥権とは、国家権力たる三権、行政権(政府)、立法権(議会)、司法権(裁判所)からの制約を受けず、完全に独立している。
 政府の政策、議会の議決、国民世論の批判に影響もされない。
 さらには、大元帥天皇の意思さえも無視した。
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 日本の軍隊は、第1に天皇の為であり、第2に国の為であり、第3に国民(日本民族日本人)の為に存在した。
 故に、日本の軍隊は、天皇を護る御親兵として創軍された、天皇統帥権で統率する皇軍と呼ばれた。
 1872(明治5)年3月 山県有朋は、御親兵を近衛兵と改めた。
 1872年11月 徴兵の詔。
 1873年1月 徴兵令。
 日本国籍を有する日本人であれば、身分や家柄に関係なく兵役に就く事を命じられた。
 非人・エタなどの賤民も、山の民・川の民・海の民などの部落民も、琉球人やアイヌ人までも、例外ではなかった。
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 日本が想定していた敵とはロシアであった。
 世界的大帝国ロシアの最強の陸軍部隊と大艦隊から日本を守る為には、兵役適齢期の日本人男性を根刮ぎ徴兵するしかなかった。
 つまり、対ロシア戦(日露戦争)は生きるか死ぬかの一大決戦であった。
 常識で考えれば、弱小国日本では巨大国ロシアには万に一つの勝ち目もなかった。
 だが、対ロシア戦(日露戦争)は、江戸時代後期から避けて通れない道であった。
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 庶民は、武士と違って戦いを免除された人々で、戦争が起きれば非戦闘員としれ逃げる権利を持っていた。
 もし、庶民出身の政治家が議会の多数派となり内閣を樹立すれば、ロシアとの戦争を避ける為に、樺太・千島列島はおろか北方領土蝦夷地(北海道)さえ割譲して平和を求めた可能性があった。
 武士・サムライ出身の元老・元勲や重臣達は、戦いを嫌う意気地なしの庶民を軽蔑し、そして怖れた。
 その為には、庶民出身政治家に、軍隊の司令権・指揮権を与ず軍隊を自由にさせない事であった。
 庶民は、武士と違って土地・領地・領土・国土に対する愛着はなく、自分の土地ではない土地を誰が所有しようが興味がなかった。
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 外国との対外戦争をするかどうかは、天皇の意思ではなく、天皇から与えられた内政・外交の大権を持つ政府と軍隊を動かして戦闘を行う軍部が協議し、政府と軍部の首脳部が協議し、国家の責任として決定した。
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 統帥権とは、軍部が暴走して戦争を起こさない為と政府が軍隊を支配し独断で軍隊を動かさないようにする為の、軍隊の行動を縛り・政治家の軍隊支配を防ぐ事を目的とした天皇の大権の一つである。
 天皇が神聖不可侵の存在とされ、天皇家・皇室の家族・一族からし天皇に即位できないと定められたのは、この為である。
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 日本民族日本人の深層心理には「人間不信」が存在する為に、凶器は持ちたくないし、国民の選挙で選ばれた政治家と言っても「た何処の馬の骨とも分からない」赤の他人に軍隊を預ける事に恐怖感を抱いていた。
 古代においては宗教家を、近代民主主義においては政治家を、マルクス主義共産主義)が蔓延してからは思想家を、戦争を起こす危険性があるとして恐れた。
 そこで、軍隊を最も安心できる天皇に預け封印した。
 日本民族日本人が天皇を守って戦ったのは、その為である。
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 大日本帝国憲法は、そうした軍隊支配と戦争を防ぐ為に、軍隊を政府から分離して天皇の大権の一つとし、天皇が私的に戦争を起こさないようにする為に開戦権を政府に預け、政府と軍部が協議して全会一致で開戦を決議し、天皇はその決定に対して裁可を与える、途定めた。
 そこには、戦争の責任者が存在しない。
 何故なら、日本の戦争が自衛戦争であり、侵略戦争ではないからである。
 日本国・大日本帝国が人工的に建国されたのは、ロシアの侵略から日本を守る為であった。
 戦争責任は、勝利や敗北に関係なく、侵略戦争にあって自衛戦争にはない。
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 だが、国連の東京裁判史観は軍国日本が主張した自衛戦争を領土拡大の侵略戦争として完全否定した。
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 天皇最高裁定権者、最終決定権者として、道義的責任があるとしても現実的責任をとる必要がなかった。
 つまり、天皇の戦争責任は存在しない。
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 古今東西の戦争、内戦、反乱、動乱は、軍隊を支配した実力者によって発生していた。
 軍隊を正常に管理する事が、平和の秘訣であった。
 王侯貴族が軍隊を支配すると、ゲーム的スポーツ的な騎士道戦争が起きた。
 宗教家が軍隊を支配すると、排他的で不寛容な宗教戦争が起きた。
 政党=政治家が政治力で、軍人が軍事知識で、資産家がカネで、軍隊を支配すると独裁体制化して私利私欲の自己満足戦争が起きた。
 思想家(マルクス主義者・共産主義者民族主義者)が軍隊を支配すると、最も恐ろしく邪悪で陰湿な思想戦争、人民革命が起きた。
 国民・民衆から見れば、王侯貴族・宗教家は少数派であり、政治家・軍人・資産家・思想家は多数派である。
 特に、思想家には王侯貴族的権威・権威、宗教的正統性、政治的正当性、経済的損得がない為に、主義・思想・哲学の正義・大義を実現する為の道具として軍隊を手に入れる事が最優先課題であった。
 その為に、軍隊を王侯貴族・宗教家・政治家・資産家そして軍人から切り離し丸裸にする必要があった。
 思想戦争である人民革命は、軍隊から始まっている。
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 昭和天皇立憲主義固執しすぎた事が、このような事態を招いたともいえる。陛下にはいま少し号令を発して欲しかったという声も聞いたが、私としては立憲主義を尊重してそうはできなかった。いまにして思えば、残念な事をした」、
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 『司馬法』「国 大なりといへども、戦いを好めば、必ず滅ぶ。天下 平らかといえども、戦いを忘れなば、必ず危うし」
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 参謀本部は、「最高の機密、門外不出の書」である昭和3年に『統帥綱領』、昭和7年に『統帥参考』を作成し、陸軍大学を卒業して参謀本部の統帥部に配属されるエリート軍人官僚のみに閲覧を認めた。 
 日本帝国軍人は、政治家、官僚・役人、財界人、左翼の学者・知識人・運動家らが、対中協調路線で、天皇の名誉、国家の体面、国民の生命財産、国外の権益を、中国への思いやりや配慮で譲歩して見捨てるというのであれば、統帥機関として責任から武力を持って守ろうと決意した。
 明治憲法大日本帝国憲法)は、植民地戦争を是認する帝国主義憲法ではなく、五箇条の御誓文による日本式民主主義を基礎に編纂された近代憲法である。
 近代法理思想を忠実に遵守する、三権分立の理想的な憲法である。
 統帥権は、国家存立の三権には入らないが、政治的独裁者や深慮分別ない政治家に私的に乱用され私欲・個人欲の追求に軍隊を悪用されない為に、政府や議会から切り離して天皇の大権として独立させた。
 日本人は、「人は、善人ばかりでなく悪人もいる」事を実感と知っていたがゆえに、軍事権・統帥権を私的に使わない天皇に預けた。
 天皇も判断を誤って道を間違える事があり、天皇を悪用する偽善者が現れる事を知っていたが故に、天皇を神聖不可侵の存在とすると当時に天皇の権限を憲法で縛った。
 伊藤博文らは、天皇を利用して幕府を倒した自己の経験を学んで明治憲法を編纂した。
 だが、明治期と昭和前期の国際情勢、特に中国をめぐるアジア情勢は激変して、明治憲法では対応できなくなっていた。
 中国の内戦から発生した弱肉強食の無法地帯的混乱に対して、「相手の立場に配慮して一歩下がって譲歩する」という日本人の謙虚では対応できなくなっていた。
 だが、政府や議会が時代遅れとなった中国への配慮外交で日本人居留民が犠牲になり、虐殺事件再発防止を平和的な話し合いで勝ち取ろうとする無能な政治家や官僚を目の当たりにした時、軍部は国権を侵害しようとも超法規的に行動するしかなかった。
 『統帥参考』「統帥権。……従て統帥権の行使及結果に関しては、議会に於て責任を負わず。議会は軍の統帥・指揮ならびに之が結果に関し、質問を提起し、弁明を求め、又は之を批評し、論難するの権利を有さず。」
 「統帥と政治。……兵権行使する機関は、軍事上必要なる限度において、直接に国民を統治することを得(う)……軍権の行使する政務に関しては、議会に於いて責任を負わず」
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 2・26事件が、中国共産党政府の天安門事件反革命暴乱)や韓国独裁制政府の光州事件民主化運動)の様な軍隊が自国民を虐殺する惨事に至らなかったのは、統帥権が絶対不可侵の天皇にあって政党や政府になかったからである。
 兵士の忠誠心は、中国共産党政権では共産党に、韓国独裁制政権では軍部に、軍国日本では政府・政治家ではなく国と天皇にあった。
 戊辰戦争西南戦争まで、日本人同士が殺し合っていた。
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 「ピープル」という語彙を恣意的に漢字に置き換えて偏見もって曲解すると、欧米のキリスト教倫理による民衆と東アジアの儒教道徳による民と共産主義の絶対論理による人民とは何処か違う。
 東アジアの民といっても、苅っても苅っても際限なく生えてくる中華世界の民草と、民は大事な御宝と詔を発する日本の庶民とは全く違う。
 異民族に支配された中華世界の民草は、唯一絶対価値観の儒教道徳による縦社会の上下関係で身動きができなかった。
 異民族に支配された事のない日本の庶民は、曖昧な相対価値観の神道道徳による横社会の水平関係で縛りは強くなかった。
 中国と朝鮮は人社会で、日本は自然社会であった。
 その違いは、頻発する自然の大災害に拠っていた。
 日本の庶民である百姓町人は、面従腹背で、建前として御上に「ご無理ご尤も」と土下座して平伏すが、本音では御上を嘲笑っていた。
 百姓は、年貢を納めていたが、戦国時代では合戦が起きれば雑兵となって乱取りや落ち武者狩りをして私腹を肥やし、江戸時代では一揆を起こして御政道に楯突く、強欲で手に負えない輩であった。
 町人は、租税を払わず好き勝手に住まいを移し、御政道を落書で批判し川柳で嘲笑い、私利私欲で打ち壊しや逃亡を図る始末に於けない輩であった。
 質素倹約と勤勉を旨とする武士は、百姓町人=庶民を信用せず、むしろ警戒していた。 武士と百姓町人=庶民に違いは、人生観や死生観そして職業倫理にあった。
 武士は、「武士は食わねど高楊枝」として、安い俸禄で格式や気位を守ながら極貧生活を我慢し、少ない手間賃の内職を百姓町人に頭を下げて貰って家族を養っていた。
 武士は死を覚悟して潔く生きる事を信条としていたが、百姓町人=庶民は命あっての物種として生きる事に貪欲であった。
 統帥権は、武士のように自分を厳しく律した世襲職業軍人でもない百姓町人=庶民が臨時雇いの俄軍人となり、私欲私利で軍事力を悪用して、政治に口出し御政道を歪め、財政に手を伸ばして着服し私腹を肥やす事を、食い止める為に新設された。
 武士は、百姓町人=庶民出身の政治家や官僚等による悪しきシビリアンコントロールを避ける為に、統帥権を政府から独立させ天皇の大権とした。
 武士は、百姓町人=庶民が近代的国民としての自覚を持ち、国民としての責任と義務を果たす行動が取れるようにする為に皇国史観に基づく愛国主義民族主義教育を徹底的に行った。
 武士は、国益・公益より私益・個人益に走りやすい百姓町人=庶民のシビリアン(文官・文民)を信用しなかった。
 そして、百姓町人=庶民出身の総理大臣(首相)が強力な権限を持って政府を支配し、腹心の部下を各大臣や政府要職に配して徒党を組み、クーデターを起こし、天皇を殺害するか国外に追放して天皇制度を廃絶して、大陸的な独裁的共和制国家を樹立する事を警戒した。
 戦前までの内閣は、各大臣の省益を重視した発言の為に内閣不一致で総辞職するように、意図的に脆弱に仕組まれていた。
 例えれば、ヒトラームッソリーニスターリンなど暴君的独裁者を輩出しないような制度である。
 日本は、皇統につながらない一般人(日本人若しくは外国人)が政治と軍事の実権を手に入れ独裁者となってクーデターを起こし、天皇を殺害し、自分が新たな天皇に即位して日本を支配する事を最も恐れていた。
 政治と軍事の分離。
 政治は軍事の上に置く。
 軍事は政治に口出ししない。
 天皇に叛逆する百姓町人=庶民の政治家・軍人が、日本を侵略し植民地としようと目論むロシアや清国=中国などの反日派外国勢力と軍事同盟を結び、外国勢力の軍事支援を受け、外国軍隊を援軍として引き入れる事を恐れた。
 武士が作った国は、百姓町人=庶民という国民を恐れ疑い警戒していた。
 明治・大正中期の日本国では、国家と国民は必ずしも一体ではなかった。
 明治・大正中期までは武士が滅私奉公で日本を支配していたが、大正後期と昭和初期は百姓町人=庶民が自己欲得で日本を支配した。
 強欲な百姓町人=庶民が統帥権を武士から奪い、より多くの富を国内外で武力を用いて手に入れるべく暴走して日本は破滅した。
 明治時代。武士の世襲職業軍人は、百姓町人=庶民の俄軍人第1世代を天皇と国家を守る防人とするべく厳しく軍事教練を行い、日清戦争日露戦争に勝利した。
 大正時代。百姓町人=庶民の俄軍人第2世代は、第1世代の薫陶を良く守って第一世界大戦とシベリヤ出兵を戦った。 
 元老は、有能な百姓町人=庶民を便利に使える官僚として、今処理すべき課題に対して柔軟に人事異動を行った。
 昨日まで内務省の役職に就いていた所を、今日は農庶務省に出向され、明日は外務省に異動させられる、と言う事もありえた
 昭和前期。百姓町人=庶民の俄軍人第3世代は、明治・大正期に日本軍が勝ち取った輝かしい戦火に酔い痴れ、自分もその栄光を手に入れようと望み、そして軍事行動を行った。
 近代的教育制度は、エリート官僚を量産する為に、優秀な百姓町人=庶民を東京帝国大学法学部に集めた。
 軍部も、元老の楔から解き放たれるや、独自でエリート軍事官僚を育成する為に選抜して海軍大学校陸軍大学校に入学させた。
 東京帝国大学法学部、陸軍大学校海軍大学校を卒業したエリート官僚達は、学校の成績で主要官庁に入省し、局長から次官へと昇進して日本を動かした。
 日本は、百姓町人=庶民がエリート官僚として国家を支配する官僚国家となった。
 エリート官僚は、庶民感覚を忘れ、国民ではなく国家の為に、国益よりも省益の為に、学閥の権益を守る為に行動していた。
 百姓町人=庶民は、欧米の民衆に比べて賢くなく、キリスト教倫理による自己犠牲的心情に比べて薄情であった。
 百姓町人=庶民は自己責任意識が強く、いざという時は、自分の命を危険に曝してまで困っている他人を助けようとはせず、「やむをえない」「仕方がない」と自分を納得させ見捨てて一人で逃げ出した。
 百姓町人=庶民は、自分の生活を損ねず利益を与えてくれれば支配者が誰であっても気にはせず、天皇であろうと、武士であろうと、極端な話し中国人や朝鮮人やロシア人などの外国人であっても、何処の馬の骨であっても文句を言わず従った。
 戦前までの庶民は、武士の潔さに憧れ、自己犠牲の忠君愛国武士・楠木正成を武士の鑑として、生き様を見習うべき手本とした。
 戦後の庶民は、支配者・武士は被支配者・庶民を苛めた悪と断じ、滅私奉公で戦死する事が分かっていた戦いをした楠木正成を、先見の明がなく思慮分別のない馬鹿武士として切り捨てた。
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 2000年代以降に起き始めた、人気だけで当選した政治家の見識なき暴言や成績優秀な高学歴なだけの官僚による不祥事の数々。
 そうした劣化・退化した政治家や官僚に、昔の統帥権である自衛隊の指揮権も持たせる恐怖。
 それは、与党・保守派でも、野党のリベラル派や革新派やエセ保守派でもかわらない。
 主権在民として国民総選挙で選ばれた政治家が、シビリアン・コントロール文民統制)として軍部の政治への介入や独走を抑止すると言うが、その政治家のモラル崩壊による独走を誰が止めるのか。
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 2017年から2018年にかけての、政府と野党の国会における論争、当選する為に離散集合する野党議員達、見識のかけらもないく失言暴言を繰り返して恥を知らない与党議員達。
 そこには、国民はおろか国家もないに等しい。
 日本の政局・論戦を見・聞くにつれて、空しく、無気力になり、やる気をなくす。
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 政治家は、政権を取る為に政党を組織し、政権打倒の為に悪意ある政局を作り出し、敵対政党を貶める為に醜い政争を繰り返す。
 昭和前期の統帥権暴走は、政治家同士による政争の道具として使われ始めたのであって、軍人が政治に介入し政権を奪おうとして起こしたのではない。
 問題は、政治家・政府・国会の側にあって、軍部・軍人の側にはなかった。
 右翼・右派などの院外団は、政治家から活動資金を貰って敵政党を攻撃して政局を混乱させ政争を激化させた。
 新聞などの商業メディアは、部数を売り上げ利益をあげ金儲けする為に、偏向報道で政争を書き立て、国民の政治不安・政党不信・政治家嫌悪を煽った。
 そして、右翼・右派さらに宗教家による流血テロが頻発した。
 共産主義は、最高学府の大学に浸透し、有能な青年を洗脳して革新官僚に仕立て上げ、派遣されてきた若き幕僚軍人を感化させた。
 日本のエリート官僚や軍人官僚エリートは共産主義の影響を受けていた。
 それでも、官界や軍部が共産主義に暴走しなかったのは、天皇統帥権の為であった。
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 日本には、ナチス・ドイツソ連あるいはアメリカのように映画や演劇を利用したブラック・プロパガンダという発想がなく、ただ不利な情報を検閲で不許可と削除した報道のみを許していた。
 それは削除報道であって洗脳報道という、高度テクニックはなかった。 
   ・   ・   ・   
 韓国のロウソク革命や諸外国の反政府派による暴動・紛争・内戦は、気に食わない政権を直接解体する実力行使であった。
 その時、軍隊の指揮権は何処が持っているのか。
   ・   ・   ・   
 フランスの市民革命やロシアの共産主義人民革命は、軍隊の中から起きた。
 革命や内戦の原因は、貧富の格差であった。
 貧富の格差が、社会を崩壊させ、不満を抱く下層民によるテロや殺人を引き起こす無法地帯を作り拡大させる。
   ・   ・   ・   
 日本のテロリズムは、最初に右翼・右派から始まり、次にキリスト教や仏教などの宗教に移り、最後に左翼・左派で終わった。
 日本では、宗教や主義(〜イズム)が弱まった時が最も安全で安定した平和な時代、庶民が豊で安心できる幸せな時代である。
 何故か、それは日本民族の本性が気弱・脆弱・貧弱で、物音一つにも絶えずオドオド・ビクビク・ヒヤヒヤしている臆病者だからである。
   ・   ・   ・   
 花鳥風月プラス虫の音の日本文化とは、その些細な変化・異変に恐怖を感じているからである。
 何故か、それは日本が甚大なる被害を引き起こす自然災害が多発する危険地帯だからである。
 日本民族が最も恐れたのは、人ではなく自然であったがゆえに、生き残る為には花鳥風月プラス虫の音の些細な変化・異変を災害が起きる前にいち早く知る必要があった。
 自然を注意深く観察する事から、花鳥風月プラス虫の音の日本文化が生まれた。
 自然災害と花鳥風月プラス虫の音は一体である。
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 国民選挙による民主主義でシビリアン・コントルールが正しく有効に機能するのか、実は誰も保証できない。
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 歴史的事実として、宗教が軍隊を支配するのも危険である。
 キリスト教による十字軍やイスラム教の聖戦による大虐殺を見れば、宗教と軍隊の一体がもたらす大惨事は明らかである。
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 政治から宗教と主義(〜イズム)を切り離し、軍隊を宗教や主義(〜イズム)に投げ与える事は避けねばならない。
 だが、何らかの根拠を元にした理想がない政治は野蛮に過ぎない。
 その意味では、排他的不寛容な狭義的な思想や哲学ではなく、おおらかで寛容な広義的な思想や哲学を持っている必要がある。
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 最も恐ろしい主義(〜イズム)は、過激な共産主義や穏健な社会主義を生み出したマルクス主義であった。
 それは、天皇制度や愛国心を悪用する右翼・右派も同じ穴の狢(むじな)で憎みべき相手である。
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 軍隊を支配する個人もしくは組織・団体で最も危険なのは、宗教ではなく主義主張がハッキリした政党である。
 宗教は、如何に狂信的信者が出ても、何処かで神の摂理を信ずる心から良心が芽生え、自己嫌悪が生まれ歯止めとなる。
 政党は、党則・党是、憲法・法律を絶対正義とする為に良心は生まれず歯止めが効かない。
 神の摂理は、人間の意思で如何様に解釈できても永久不変である。
 党則・党是や憲法・法律は、独裁者・権力者の意思で如何様にも変更が自由である。
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 軍隊を政治・宗教・主義(〜イズム)から切り離す為に考えられたのが、大日本帝国帝国憲法における「統帥権の独立」である。
 日本では、暴力的共産主義人民革命が起きず、ファシズム政党による独裁体制が成立せず、政府・議会が軍隊の指揮権を持っていなかった。
 同様に、宗教家による神政政治が生まれず、宗教団体が軍隊を支配する事もなかった。
 日本軍部の高級軍人の宗教・信仰は、日本神道、日本仏教、キリスト教カトリック教会・プロテスタント諸派)、儒教イスラム教、その他新興宗教とバラバラで統一感はなく、軍首脳部入りする条件として国家神道への改宗を求められなかった。
 そもそも、国家神道は宗教でも主義(〜イズム)でもなかった。
   ・   ・   ・   
 2018年7月号 新潮45「マスコミとテロ 先崎彰容
 官僚の不祥事が続き、権力に対して『汚らわしい』という感情を抱く人が増えている。
 でも、『マジメ』で『美しい』社会を作ろうとする欲望は、テロリズムと隣り合わせだ。
 『汚らわしい』権力中枢
 昨今の新聞紙面やニュースを賑わせた財務官僚トップの不祥事、そもそものことの発端は、財務省福田淳一事務次官が、1対1で会食している女性記者にたいし、性的な発言を繰り返した『証拠』を、雑誌『週刊新潮』が、音声データをふくめて報道したことにはじまります。
 立場上問題があるとは言え、仮に相手に好意をもった場合、異性に対して自分の思いを伝えるには、雰囲気とそれなりの『技術』が必要です。デートの前に服装に気を配る、話すときにいつもより少し声色を変える、気の利いたレストランを予約して、誕生日のサプライズとして花束を用意しておく──。異性との距離感の詰め方は文化であり、はるか以前の日本人なら、和歌でお互いの思いのやり取りをしていた。こうした『技術』を一切すっ飛ばして『抱きしめていい?』『エロくないね。洋服』などの発言に終始した官僚トップは、異性との交渉力をもたないだけでも十分に失格と言えるでしょう。
 自己の感情を直接相手にぶつけた結果、一方的好意は相手にとって嫌悪しかもたらさなかった。被害者の女性だけではありません、私たちが溜息をつきつつも報道に釘づけになったのは、財務次官その人に決定的に清潔感が欠けていたからです。『技術』なき下品な性的要求は、私たちに生理的拒否反応を引き起こし、『汚らわしい』を感じさせる。
 4月中旬の新聞各紙は事務次官の醜態と更迭を伝え、野党は一斉に麻生財務大臣の辞任要求をつきつけました。またほぼ同じころ、性的不祥事を理由に新潟県知事も辞任に追い込まれ、国税庁長官は文書改ざん容疑でこれまたその地位を追われていた。まさに日本の権力中枢は、汚らわしいものとして報道されていたのです。
 もちろん、この官僚批判にたいし、野党と同じ気分で批判を強くすることもできるでしょう。反対に『また官僚バッシングか』と溜息をついて、御上批判もほどほどにせよ、とうんざりする立場もあり得ます。すべてをスキャンダルとして、好奇の眼で見過ごすことも可能です。
 しかし連日のスキャンダル報道の過熱ぶりを見るとき、筆者を襲ったのは、こうした批判と擁護の二項対立とはまったく違う印象でした。簡単に言えば、問題はもっと深刻だと直感したのです。頭をよぎった重たい不安こそ、『テロリズム』という問題でした。なぜ官僚の不祥事が、著者にテロリズムなどという言葉をとつぜん喚起させたのか。その事情を説明するには、一見今回の事件とは無関係にみえる、二つの事例を経由しておく必要があります。
 二つの事件
 話は2017年末に遡ります。筆者はある若手ジャーナリストに呼ばれて、政治討論番組に出演しました。10月に行われた衆議院議員選挙は、野党が直前に分裂し足並みが乱れたこともあり、自民党の圧勝となりました。事実上、安倍政権は国民の信任を得たかたちとなり、長期政権を打倒する突破口は見いだしにくい状態に、野党もマスコミも追い込まれていたのです。選挙ではどうにも安倍政権を覆すことができない。そこで、そもそも『民主主義』それ自体を問い直すべきだというのが、番組後半の趣旨でした。
 むろん、民主主義とは何かについて議論を深めるのは、とても大事なことです。その際に、番組は拙著『違和感の正体』(新潮新書)からデモと民主主義にかかわる部分を丁寧に引き用し、フリップにしたうえで議論を進めてくれました。
 筆者はそこで明確に、安保法制反対運動や原発反対運動にたいして批判的な立場をとっており、デモにも批判的であることを書きました。とりわけ国会前で行われたデモにおいて、ある高名な大学教授が『安倍に言いたい。お前は人間じゃない!たたき斬ってやる!』と発言したことを、厳しく指弾しました。
 この点にかんして、司会のジャーナリストから、次のような二つの『事実』を指摘されたのです。第一に、安倍首相に対して罵詈雑言を投げつけたのは確かに良くないことである。しかし、一方で世間ではネット右翼と呼ばれる急進的な連中が、ヘイトスピーチを行い、差別意識を煽っているではないか。なぜ先崎はこの種のデモを批判しないのか。
 そして第二に、高名な大学教授に後で話を聞いてみると、『悪気は全くなかった。周囲の昂奮した雰囲気に気分が高揚し、思わず正義の味方として発言をしてしまった』というのが、事実らしいということ。要するに本人に悪意はなかったのだよ、だから先崎さん、もう少し大目に見てあげてくださいねという和やかな発言だったのです。
 しかし楽屋でお茶を飲みながらこの『事実』を聞かされた時、筆者はわが耳を疑いました。なぜなら友人でもあるこのジャーナリストに、筆者の発言の真意が一切伝わっていないことが分かったからです。一マスコミ人がこちらの発言趣旨を理解できないのは問題ない。しかし日本を代表するマスコミ人が、もし、時代を見誤っていたらどうか。時代の先端を読み、次に起きる事態に警鐘を鳴らすことこそ、マスコミの役割だとすれば、彼は決定的に今、時代を誤診しているのではないか。少なくとも、筆者からみて彼はあきらかに時代を読み切れないでいる。
 ここまで考えを進めた時、もう一つの事件が頭をよぎったのです。それは2010年、当時官房長官の立場にあった民主党仙谷由人が『自衛隊暴力装置だ』と発言し、物議をかもした事件のことでした。
 暴力装置という言葉の由来等もいろいろ言われましたが、要は、自衛隊を侮辱する発言をしたことは事実です。つまりデモに参加した大学教授の絶叫と、民主党政権時代のトップに近い者の発言が、筆者から見た場合、『同じ過ち』をおかしているようにしか見えなかった。ではいったい、何が同じだというのか。また同じであると指摘することが、先の財務省トップの一連の不祥事報道とどのようにかかわるというのか。
 手中にした権力の使い方
 それは次のような事態です。日本政治のトップに近い官房長官が、自衛隊を侮辱することは何を意味するか。自衛隊が実質的に唯一の、わが国における武力を手中に収めた集団であるとすれば、忠誠を誓うはずの権力者の側から突き放された事実は、即刻、武力の政権からの離脱を想定しなければなりません。
 言うまでもなく、暴力を手中に収めた手段が日常では平穏を保ち、私たち国民はもちろん、政権に対しても力を行使しないのは、ひとえに時の権力から与えられたプライドと、その自負心に担保された『忠誠心』以外にあり得ません。当たり前のように思っている暴力の鎮静化は、実は、この権力者と武力保持集団との間の精神的紐帯によって守られいるだけなのです。
 この薄氷に乗るような均衡が崩れ様を、私たちは容易に実見することができます。たとえば治安情勢の悪化した諸外国で、政権が軍隊を掌握できない場合が起こる。すると、反乱軍と政府側の武力──たとえば警察権力──などが対峙し反乱軍が優勢になった場合、警察権力までも寝返りそれを国民が支持すれば、現政府は『賊』に成り下がるのです。つまり反乱軍は正規軍となり、軍事政権が今度は新政府として軍事力と国民の心を掌握してしまうわけです。このまさしく『梯子を外される』事態こそ、クーデターとして私たちがテレビの向こうで見る光景なのです。
 だとすれば、仙谷氏の発言は、単なる失言といった程度で済まされる話ではない。一瞬でも気を抜けば、自衛隊もまた暴発する可能性があるのだということ、その暴力の頂点に君臨する忠誠心を育みコントロール下におくことこそ、文民統制最大の関心事なのだということが忘れられていた。日本国の中枢にいる政治家が、この緊張感を喪失していた『事実』こそが、最も憂慮すべき事態なのです。
 政治家としての資質、とはよく聞く言葉ですが自らが手にしている権力に対する緊張感の欠如は、資質の欠如に直結していると思えてなりません。
 そう思って眺めてみると、あの大学教授の発言もまた、同じ危険性を孕んでいることに気付きます。なぜなら大学教授という社会的地位にある人間が、一国の首相の殺害云々を口にした場合、もし『マジメ』な若者がそれを鵜呑みにすれば、暴力が露わになる瞬間があるかもしれないからです。
 確かに、彼は『自分はそんなつもりで発言していなかった』と言うことでしょう。しかし、それこそが問題なことになぜ気づかないのか。自らはいかにも感じのよい正直者で、それであるがゆえに周囲の熱気にほだされやすく、つい暴言を吐いた。でも彼が個人的に正直者であることと、彼が『公的』な立場にあって発する言葉の権力、存在の重みと影響力はまったく別物であることに、なぜ気づけないのか。さらに、彼の発言を筆者に伝え、『悪気はなかったそうだよ』と教えてくれたジャーナリストもまた同じように、彼を一個人として評価して何ら問題を感じていない。
 彼らに共通しているのは、無邪気なまでのヒューマニズムではないでしょうか。人間の善意を信じ、政治の世界にまで個人の性格の善悪を滑り込ませ、評価基準にしてくださいと言っている。事態が自分にとって不利になると、善意のなかに立て籠もり、自分の誠実さを差し出して失言をやり過ごそうとする。彼らと、4月に起きた財務省トップのセクハラ発言とその後の身の処し方とのあいだに、いったいどんな違いがあるのでしょうか。
 政治思想史家の丸山眞男をもちだすまでもなく、本来、政治とは人間の諸活動のうち公と私を厳しく峻別したうえで、公の世界での活動にかかわるものを指す行為です。古くは古代ギリシアにおいて、経済活動は『家政』と呼ばれ私的な事柄とされ、奴隷等も使用されることで行われる日常的な営みとされていた。その代償として、社会全体をどう切り盛りしていくかにかかる時間をもつことができる者が生まれ、彼らだけが公的活動に従事し、それを『政治』と呼び、特別な行為として位置づけた。
 だとすれば、大学教授は自らがマスコミの常連であり、ある一定の公的権力を手中に収めていることを自覚していなければならなかった。だが彼にはそれができなかった。無自覚に手中の包丁を振りまわした。もし『マジメ』な青年が彼の言葉に敬意をもって聞き入れ、社会を評価する際の『ものさし』として、世間を眺めていたとすればどうなるのか。そこには、汚辱にまみれた政治家たちが、右往左往している光景があるのではないか。政治家にたいし、口にするのも恐ろしいような決意をもってしまう可能性を、誰が否定できよう。『たたき斬る!』べきだと、他ならぬ大学教授自身が絶叫しているのだから。
 テロリズムへの誘惑
 これは何も、筆者自身が思い詰めて思考実験をしているわけではありません。残念ながら日本思想史上に、複数の『先例』があるからこそ警告を発しているのです。
 一例として、大正時代に起きたテロ事件をいくつか見ておきましょう。まず安田善次郎暗殺事件(1921/大正10年)です。現在の東京大学を象徴する時計台を安田講堂と呼びますが、それは彼が時計台を寄付したことによるものです。その安田善次郎を、朝日平吾という青年が暗殺したのです。
 明治23年に、佐賀県に生まれた朝日の生涯を一言であらわせば、当時の社会から次第に疎外されてゆく過程だと言えると思います。彼が成功をもとめてもがけばもがくほど、社会は彼をはじき出し彼は憎悪をふかめてゆく。明治35年に12歳で母親に先立たれた後、朝日は長崎の鎮西学院に入学。その後軍隊に入隊し、青島戦に参戦するなどしたが、復員後は早稲田大学日本大学に入学しました。
 しかし物事に飽きやすい性格も災いしてか、大正5年、朝日の姿は朝鮮・満州を放浪するいわゆる大陸浪人となっていました。最終的に内地へともどった朝日は、当時の日本国内を格差が進み、恵まれない者と財閥とに分裂した汚辱にまみれた国家だとみなし、国家改造運動に着手します。その具体化が、一種の下層労働者救済施設『労働ホテル』の建設計画でした。その資金調達のために財閥の巨頭・安田善次郎との接触を、強引に試みた朝日は、資金調達を拒絶されたその場で凶行におよんだのです。
 彼の起こした行動は、その直後に18歳の青年中岡艮一による原敬暗殺のひき金を引いたことからも、いかに絶大なものであったかがわかるでしょう。思想史を専門とする筆者から見て、本稿とのかかわりで特に注目したいのは、朝日の斬奸状にしばしば見られる次のような特徴が、同時期のテロリストに共通する精神構造だということです。
 たとえば朝日の斬奸状『死の叫び声』には、次のような論理が記されています。日本臣民は、天皇の赤子である。である以上、臣民のすべての者が安堵した生活をおくれないならば、それは朕の罪である・・・これは歴代天皇の、そして今上天皇の奉じる精神であり『一視同仁ハ実ニワガ神国ノ大精神』のはずである──。
 この何気ない文章のうちに、多くのヒントが隠されています。朝日は『臣民』の名において、天皇のもとで暮らす平等な日本人の一人として自らを位置づけ、安心を得ようとしています。天皇のもとで日本人としての資格をもつことは、自らがその分身として平等な立場で幸福と栄光を手に入れる当然の『権利』をもつという考えに朝日を導くわけです。しかし、これまた当然のことながら、朝日の現状はそうではないのであって、自分への不甲斐なさは、世間への憎悪へと、つまり世間こそ悪であり、汚れていて、善である自らがそれを正さねばならぬという思考へと朝日を導いていったのです。
 とりわけこの時期、社会改造を行うために暴力の使用に踏み切った者たちには、『真正』『善』そして『美』という言葉が繰り返し使われていることに注意しなければなりません。たとえば後に、北一輝の思想的影響の下に2・26事件で有罪判決を受けた西田税という人物は、『無眼私論』のなかで次のように述べています。

 真を見、善を表したる死は最も美し、
 しかしてこは哲理に順して人生を行くときのみ来る。
 吾人は真に美しき死を冀(こいねが)わざるべからず。
 真に美しき人生の行路を辿るものは真に美しき死を求め得べし、
 ・・・余はかくのごとき人生を詩的人生という。

 神聖なる血をもってこの汚れたる国家を洗い、しかしてその上に新たに真日本を建設しなければならぬ。

 朝日と西田に共通する『善』と『美』への憧れは、大正時代の時代情勢が影響していると言われています。明治期のように植民地化への対抗という国家規模の緊張感が、大正時代からは消えました。大正デモクラシーとよばれるように、日本は久しぶりの朗らかな国内状況に恵まれ、また一等国を自負して自信過剰に陥っていたのです。
 しかい一方で、短い夏でもある大正時代は、つづく戦争へ向かってゆく秋風が吹く時代でもありました。『労働ホテル』という名前からも分かるように、明るさの陰には失業者が膝を抱えているような時代でもあったのです。朝日の正義感はそれなりの実感を伴ってもいました。しかしこうした『マジメ』さは、世知辛い世間によって跳ね返されます。朝日は自らの身の置き所を見失う。つまり自らが懸けるべき対象、生きている意味を与え、生に充実感を与えてくれる何かが、決定的になくなってしまったのです。
 朝日や西田らの眼に、時代はどう映ったのか。それは今一人のテロリストのことばを借りれば、『結局世の中は優勝劣敗の事実と、それに付随する
御都合主義ばかりで、善悪の絶対的基準とか、道とかいうものはないので、各人勝手に生きられるだけ生きればよいのではないかというように考えられますがどうでしょう』(井上日召『梅の実』)という現実認識だったのです。
 彼らテロリストにとって、現実とは驚くほどに欺瞞に満ちている。その混乱を突きつけられ、欺瞞に満ち溢れた社会を構成している価値観から零(こぼ)れ落ち『負け組』に分類されたとき、彼らは絶望する。その絶望は、『善悪の基準など、この世界には存在しないではないか』という苛立ちの気分を生み出だす。そしてその先に、彼らの『真』と『美』の仮構(かこう)が登場してくるのです。
 官僚批判の末路
 著者が昨今の財務省事務次官の更迭問題をめぐって、世間の報道に違和感を覚えた理由を、次のようにまとめることができるでしょう。
 国家中枢部を担う人間にたいし、その恥部をマスコミがあからさまにし、それを国民はジロジロ眺めている。その際、性的刺激あるいは興味本位から不祥事を眺めている限り、筆者は、日本人は『まだ精神の余裕がある』と考えるようにしています。
 ところが一方で、ここまで連日不祥事を垂れ流した場合、さらにダイの大人たちが連日、触った触らないの痴話喧嘩の『事実』を突いている光景が常態と化した場合、日本人のある部分のなかに、とりわけ『マジメ』な人たちが、この国を良くしたいと思う一心から、『真』と『善』と『美』を求めて、ある過激な行動にでる恐れを、誰が否定できるのかということです。
 現代社会には、まずもって『マジメ』で『美しい』社会をつくりたい人が溢れかえっている。マスコミはマスコミの正義感から、不祥事を摘発しているのでしょう。それを見た人の中から、あるいは社会を浄化するために、死をも厭わないような人間が出てこないとも限りません。そして、こういう危険性に感度を失った政治家やジャーナリスト、大学教授たちの言葉もまた、この国に暗い影を落とし始めているかもしれないのです」
   ・   ・   ・     
 『軍人勅諭
 ■原文
 我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中国のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此間世の様の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦?なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐国風に傚はせ給ひ六衛府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打続ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変り遂に武士となり兵馬の権は一向に其武士ともの棟梁たる者に帰し世の乱と共に政治の大権も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剰外国の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を悩し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の専蒼生を憐み給ひし御遺沢なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を弁へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我国の光を耀さんと思ひ此の十五年か程に陸海軍の制をは今の様に建定めぬ夫兵馬の大権は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か国家を保護して上天の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽さゝるとに由るそかし我国の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其栄を耀さは朕汝等と其誉を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を国家の保護に尽さは我国の蒼生は永く太平の福を受け我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ
 一、軍人は忠節を尽すを本分とすへし凡生を我国に禀くるもの誰かは国に報ゆるの心なかるへき況して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報国の心堅固ならさるは如何程技芸に熟し学術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正しくとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑国家を保護し国権を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ
 一、軍人は礼儀を正くすへし凡軍人には上元帥より下一卒に至るまで其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものそ下級のものは上官の命を承ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷属する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧きものに対しては総へて敬礼を尽すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊も軽侮驕傲の振舞あるへからす公務の為に威厳を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け上下一致して王事に勤労せよ若軍人たるものにして礼儀を紊り上を敬はす下を恵ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊の蠧毒たるのみかは国家の為にもゆるし難き罪人なるへし
 一、軍人は武勇を尚ふへし夫武勇は我国にては古よりいとも貴へる所なれは我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし況して軍人は戦に臨み敵に当るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を弁へ能く胆力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己が武職を尽さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて犲狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ
 一、軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を践行ひ義とは己か分を尽すをいふなりされは信義を尽さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧気なる事を仮初に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まで遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき
 一、軍人は質素を旨とすへし凡質素を旨とせされは文弱に流れ軽薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陥りて志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の伝染病の如く蔓延し士風も兵気も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩に免黜条例を施行し略此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等輭にな思ひそ
右の五ヶ条は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ抑此五ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此五ヶ条は天地の公道人倫の常経なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや
 明治十五年一月四日
 御名 御璽
  ・  ・  1882年
 ■現代語訳
 我が国の軍隊は代々天皇が統率している。昔、神武天皇みずから大伴氏(古代の豪族)や物部氏(古代の豪族)の兵を率い、中国(当時の大和地方)に住む服従しない者共を征伐し、天皇の位について全国の政治をつかさどるようになってから二千五百年あまりの時が経った。この間、世の中の有様が移り変わるのに従い、軍隊の制度の移り変わりもまた、たびたびであった。古くは天皇みずから軍隊を率いる定めがあり、時には皇后(天皇の妻)や皇太子(次の天皇になる皇子)が代わったこともあったが、およそ兵の指揮権を臣下(天皇に仕える臣)に委ねたことはなかった。中世(鎌倉、室町時代)になり、文官と武官の制度をみな支那風に倣って六衛府(左近衛、右近衛、左衛門、右衛門、左兵衛、右兵衛という軍務をつかさどる六つの役所)を置き、左右馬寮(左馬寮、右馬寮という軍馬をつかさどる二つの役所)を建て、防人(九州の壱岐対馬などに配置された兵。外国の侵略に備える)などを設けたので軍隊の制度は整ったが、長く平和な世の中が続いたことに慣れて朝廷の政務(政治をおこなううえでのさまざまな仕事)も武を軽んじ文を重んじるように流れていき、兵士と農民はおのずから二つに別れ、昔の徴兵制(徴集されて兵隊になること)はいつの間にか廃れて志願制(自分の意志で兵隊になること)に変わり、遂に武士を生み出し、軍隊の指揮権はすっかりその武士の頭である将軍のものになり、世の中が乱れていくのと共に政治の権力もその手に落ち、およそ七百年の間、武家(武士)の政治がおこなわれた。世の中の有様が移り変わってこのようになったのは、人の力をもって引き返せないと言いながら、一方では我が国体(国家のあり方)に背き、一方では我が祖宗(神武天皇)の掟に背く浅ましい次第であった。
 時は流れて弘化、嘉永の頃(江戸時代末期)より、徳川幕府の政治が衰え、その上、外国の事(米国をはじめとする欧米列強が通商を求めて日本を圧迫)が起こって侮辱を受けそうな事態になり、朕(天皇の自称)の皇祖(天皇の祖父)仁孝天皇、皇孝(天皇の父)孝明天皇が非常に心配されたのは勿体なくもまた畏れ多いことである。さて、朕が幼い頃に天皇の位を継承したはじめに、征夷大将軍(幕府の長)はその政権を返上し、大名、小名が領地と人民を返し、年月が経たないうちに日本はひとつに治まる世の中になり、昔の制度に立ち返った。これは文官と武官との良い補佐をする忠義の臣下があって、朕を助けてくれた功績である。歴代の天皇がひたすら人民を愛し後世に残した恩恵といえども、しかしながら我が臣民のその心に正しいことと間違っていることの道理をわきまえ、大義天皇の国家に対する忠義)の重さを知っているからである。だから、この時において軍隊の制度を改め、我が国の光りを輝かそうと思い、この十五年の間に、陸軍と海軍の制度を今のようにつくり定めることにした。そもそも軍隊を指揮する大きな権力は朕が統括するところなのだから、その様々な役目を臣下に任せはするが、そのおおもとは朕みずからこれを執り、あえて臣下に委ねるべきものではない。代々の子孫に至るまで深くこの旨を伝え、天皇は政治と軍事の大きな権力を掌握するものである道理を後の世に残して、再び中世以降のような誤りがないように望むのである。朕はお前たち軍人の総大将である。だから、朕はお前たちを手足のように信頼する臣下と頼み、お前たちは朕を頭首と仰ぎ、その親しみは特に深くなることであろう。朕が、国家を保護して、天道様(おてんとう様)の恵みに応じ、代々の天皇の恩に報いることが出来るのも出来ないのも、お前たち軍人がその職務を尽くすか尽くさないかにかかっている。
 我が国の稜威(日本国の威光)が振るわないことがあれば、お前たちはよく朕とその憂いを共にしなさい。我が国の武勇が盛んになり、その誉れが輝けば、朕はお前たちとその名誉を共にするだろう。お前たちは皆その職務を守り、朕と一心になって、力を国家の保護に尽くせば、我が国の人民は永く平和の幸福を受け、我が国の優れた威光(人を従わせる威厳)は大いに世界の輝きともなるだろう。朕はこのように深くお前たち軍人に望むのであるから、なお教えさとすべきことがある。どれ、これを左に述べよう。
 一、軍人は忠節を尽くすことを義務としなければならない。およそ生を我が国に受けた者は、誰でも国に報いる心がなければならない。まして軍人ともあろう者は、この心が固くなくては物の役に立つことが出来るとは思われない。軍人でありながら国に報いる心が堅固でないのは、どれほど技や芸がうまく、学問の技術に優れていても、やはり人形に等しいだろう。その隊列(兵隊の列)も整い、規律も正しくとも、忠節を知らない軍隊は、ことに臨んだ時、烏合の衆(烏の群れのように規律も統率もない寄せ集め)と同じになるだろう。
 そもそも、国家を保護し国家の権力を維持するのは兵力にあるのだから、兵力の勢いが弱くなったり強くなったりするのはまた国家の運命が盛んになったり衰えたりすることをわきまえ、世論に惑わず、政治に関わらず、ただただ一途に軍人として自分の義務である忠節を守り、義(天皇の国家に対して尽くす道)は険しい山よりも重く、死はおおとりの羽よりも軽いと覚悟しなさい。その節操を破って、思いもしない失敗を招き、汚名を受けることがあってはならない。
 一、軍人は礼儀を正しくしなければならない。およそ軍人には、上は元帥から下は一兵卒に至るまで、その間に官職(官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲)の階級があって、統制のもとに属しているばかりでなく、同じ地位にいる同輩であっても、兵役の年限が異なるから、新任の者は旧任の者に服従しなければならない。下級の者が上官の命令を承ることは、実は直ちに朕が命令を承ることと心得なさい。自分がつき従っている上官でなくても、上級の者は勿論、軍歴が自分より古い者に対しては、すべて敬い礼を尽くしなさい。
 また、上級の者は、下級の者に向かって、少しも軽んじて侮ったり、驕り高ぶったりする振る舞いがあってはならない。おおやけの務めのために威厳を保たなければならない時は特別であるけれども、そのほかは務めて親切に取り扱い、慈しみ可愛がることを第一と心がけ、上級者も下級者も一致して天皇の事業のために心と体を労して職務に励まなければならない。
 もし軍人でありながら、礼儀を守らず、上級者を敬わず、下級者に情けをかけず、お互いに心を合わせて仲良くしなかったならば、単に軍隊の害悪になるばかりでなく、国家のためにも許すことが出来ない罪人であるに違いない。
 一、軍人は武勇を重んじなければならない。そもそも、武勇は我が国においては昔から重んじたのであるから、我が国の臣民ともあろう者は、武勇の徳を備えていなければならない。まして軍人は、戦いに臨み敵にあたることが職務であるから、片時も武勇を忘れてはならない。
 そうではあるが、武勇には大勇(真の勇気)と小勇(小事にはやる、つまらない勇気)があって、同じではない。血気にはやり、粗暴な振る舞いなどをするのは、武勇とはいえない。軍人ともあろう者は、いつもよく正しい道理をわきまえ、よく胆力(肝っ玉)を練り、思慮を尽くしてことをなさなければならない。小敵であっても侮らず、大敵であっても恐れず、軍人としての自分の職務を果たすのが、誠の大勇である。
 そうであるから、武勇を重んじる者は、いつも人と交際するには、温厚であることを第一とし、世の中の人々に愛され敬われるように心掛けなさい。理由のない勇気を好んで、威勢を振り回したならば、遂には世の中の人々が嫌がって避け、山犬や狼のように思うであろう。心すべきことである。
 一、軍人は信義を重んじなければならない。およそ信義を守ることは一般の道徳ではあるが、とりわけ軍人は信義がなくては一日でも兵士の仲間の中に入っていることは難しいだろう。
 信とは自分が言ったことを実行し、義とは自分の務めを尽くすことをいうのである。だから、信義を尽くそうと思うならば、はじめよりそのことを出来るかどうか細かいところまで考えなければならない。出来るか出来ないかはっきりしないことをうっかり承知して、つまらない関係を結び、後になって信義を立てようとすれば、途方に暮れ、身の置きどころに苦しむことがある。悔いても手遅れである。はじめによくよく正しいか正しくないかをわきまえ、善し悪しを考え、その約束は結局無理だと分かり、その義理はとても守れないと悟ったら、速やかに約束を思いとどまるがよい。
 昔から、些細な事柄についての義理を立てようとして正しいことと正しくないことの根本を誤ったり、古今東西に通じる善し悪しの判断を間違って自分本位の感情で信義を守ったりして、惜しい英雄豪傑どもが、災難に遭い、身を滅ぼし、死んでからも汚名を後の世までのこしたことは、その例が少なくないのである。深く戒めなければならない。
 一、軍人は質素を第一としなければならない。およそ質素を第一としなければ、武を軽んじ文を重んじるように流れ、軽薄になり、贅沢で派手な風を好み、遂には欲が深く意地汚くなって、こころざしもひどくいやしくなり、節操も武勇もその甲斐なく、世の人々から爪弾きされるまでになるだろう。その人にとって生涯の不幸であることはいうまでもない。
 この悪い気風がひとたび軍人の間に起こったら、あの伝染病のように蔓延し、軍人らしい規律も兵士の意気も急に衰えてしまうことは明らかである。朕は深くこれを恐れて、先に免黜条例(官職を辞めさせることについての条例)を出し、ほぼこのことを戒めて置いたけれども、なおもその悪習が出ることを心配して心が休まらないから、わざわざまたこれを戒めるのである。お前たち軍人は、けっしてこの戒めをおろそかに思ってはならない。
 右の五ヶ条は、軍人ともあろう者はしばらくの間もおろそかにしてはならない。
 さてこれを実行するには、ひとつの偽りのない心こそ大切である。そもそも、この五ヶ条は、我が軍人の精神であって、ひとつの偽りのない心はまた五ヶ条の精神である。心に誠がなければ、どのような戒めの言葉も、よいおこないも、みな上っ面の飾りに過ぎず、何の役にも立たない。心にさえ誠があれば、何事も成るものである。まして、この五ヶ条は、天下おおやけの道理、人として守るべき変わらない道である。おこないやすく守りやすい。
 お前たち軍人は、よく朕の戒めに従って、この道を守りおこない、国に報いる務めを尽くせば、日本国の人民はこぞってこれを喜ぶだろう。朕ひとりの喜びにとどまらないのである。
 明治十五年一月四日
 御名 御璽
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あの戦争と日本人

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