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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族日本人の祖先は、女系男系両系で繋がっている。
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奈良時代は、男尊女卑の儒教の影響は薄かった。
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2017年5月25日号 週刊文春「出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義」
[古代編]
(18) 女性が動かした奈良時代
藤原京から平城京に遷都し、いよいよ『奈良時代』がはじまりました。語呂合せでいえば『なんと(710年)見事な平城京』ですね。
この時代を端的にいえば、ずばり女性が大活躍した時代です。
その20年前、690年の持統天皇即位の背景に、大唐世界帝国の武則天が、強大な権力を握った女帝として君臨するという、時代のロールモデルが存在していた様を私たちは見てきました。
武則天は科挙で有能な人材を登用し、宰相・狄仁傑(てきじんけつ)を自身の片腕にして全国に睨みを利かせました。
この支配の仕組みは日本にも大きな影響を及ぼしたと思われます。
弱い男・強い女・賢い補佐
奈良時代は、ざっくりいえば病弱で幼い『か弱い男の天皇』と、彼を庇護するかたちで政治を動かしていく『たくましい女性』、そしてその女性を補佐する『ブレーン』の三者で成り立っていたと考えるとわかりやすいと思います。
なぜその三者体制になったか。
天武天皇より以前は、『大王は経験や実力のある壮年の王族から、豪族たちが合議して決める』という慣例がありました。大王には豪族を束ねる人望が必要だったからです。
ところがその慣例を、持統天皇が破ります。15歳の文武に天皇の椅子を譲り、持統天皇自身は、天皇と同等以上の権力を持つ『太上天皇』という地位を設けて、若い天皇の後見を続けました。
以降、幼くか弱い天皇を、強い母や妻が支え、それを補佐するため専門能力に長けた官僚が必要となったわけですね。
かつては『奈良時代の女帝たちは、男の天皇から男の天皇への中継ぎとして即位したんやで』という視点で語られていました。
しかし今では退位したあとも、後世の院政のようなかたちで政治を動かしていた、間違いなく強い『女帝(女性)の時代』だったという見方が有力になってきています。
後見役の女性上皇たち
では奈良時代の天皇の歴史を大まかに見ていきましょう。まず天皇名を順に並べてみましょう。
元明(女)→元正(女)→聖武(男)→孝謙(女)→淳仁(男)称徳(女・孝謙天皇の重祚)→光仁(男)→桓武(男)・・・
桓武天皇が長岡京に784年に遷都し、奈良時代が終わります。
すると、文武─聖武─淳仁という『線の細い男の天皇』の流れと、元明─元正─光明子(聖武天皇の皇后)─孝謙・称徳という『強い女の天皇・皇后』の流れが見えてきます。
707年に、文武天皇がわずか25歳で亡くなります。
このとき、文武の嫡子である首(おびとの)皇子(のちの聖武天皇)は、まだ7歳でした。そのため、文武の母・阿閇(あべの)皇女が元明天皇として即位します。
元明の父は天智、母は代々天皇家にキサキを出してきた蘇我氏ですので(持統の異母妹)、この即位に血統的に文句を言う人はいなかったでしょう。
元明天皇は715年には娘の氷高内親王に位を譲り、元正天皇が誕生しました。元正は女系です。
2代続けて女性が天皇になったのは、日本史上唯一のケースです。
元正は、36歳で即位するまで独身を守り、その後も終生独身を貫きました。これはいつでも登板できる天皇候補として、またその子どもが次の天皇候補とならないよう、備えさせられていたからだという見方もあります。
この元正天皇の時代には、母の元明は、721年に亡くなるまで、太上天皇として実質的に政務を執っていたよです。
元正天皇は在位9年、724年に24歳の聖武天皇を天皇に譲位し、ついに文武の嫡子を天皇にすることに成功しました。
今度は若い聖武天皇の後見役を、元正太上天皇がしていたと見られています。ちょうど元明上皇─元正天皇の関係と同じですね。
聖武天皇と光明子
聖武天皇の皇后は、光明子(藤原不比等の娘)でした。
光明子の母・県犬養(あがたいぬかい・橘)三千代は、出身身分は低かったものの、仕えていた元明天皇から信頼されて文武天皇の乳母となり、権力を得た〝やり手〟でした。
その三千代と不比等の子ですから、光明子は健康で聡明でした。
彼女は書も嗜み、正倉院には自筆の書が収められています。
聖武天皇と光明子は同じ701年生まれですが、藤原不比等にとっては孫と娘の結婚です。
聖武天皇の母・宮子は身分が低い藤原氏の生まれで、文武天皇との間に聖武を産んだものの、周囲からの反発は強く、精神を病んでしまい聖武に長く会えなかった、という話を以前しましたね。
聖武天皇の治世は、国民の2〜3割を失うほどの疫病、地震や飢餓、内乱などを重なりました。聖武は救いを求めて仏教に傾倒していき、やがて病気がちなると最後に出家して政務から身を引きました。
そんな聖武でしたが、おばさんの元正と妻の光明子がついていたからこそ、奈良時代を通じて25年という、もっとも在位期間が長い天皇になれたのでしょう。
ちなみに元正太上天皇の崩御は748年です。聖武は、その翌年には光明子との間の娘・安倍内親王(孝謙天皇)に玉座を譲ってしまいます。
安倍内親王は、その10年前の738年、21歳のとき日本史上唯一の女性皇太子となっていました。
幼くして漢字に親しみ、皇太子になってからは、唐に長期留学して当時最先端の知識を日本にもたらした吉備真備に、儒学や中国史、仏教などを教わっていました。
彼女も生涯を独身で過ごし、756年に聖武が亡くなると、聖武の遺言で、『あとは道祖(ふなど)王に』と孝謙天皇に皇太子がたてられました。
道祖王は天武天皇の孫で、藤原不比等にも近い皇族でした。
ところが道祖王は(本当かわかりませんが)淫行を理由にすぐクビになり、藤原仲麻呂の意のままになる大炊(おおい)王(同じく天武の孫)が皇太子に立てられます。
孝謙天皇の時代は、彼女の母・光明子とその腹心・藤原仲麻呂が実質的な政権運営を担っていました。
そして孝謙天皇は、その大炊王(淳仁天皇)に生前譲位することになります。
母の光明子が760年に亡くなると、孝謙上皇は、藤原仲麻呂改め恵美押勝(えみのおしかつ。淳仁天皇から名をもらって改名していた)との対立を深めていきました。最終的には、僧・道鏡や吉備真備をブレーンにつけて、恵美押勝を倒し淳仁天皇を廃して、自分が称徳天皇として重祚(ちょうそ)します。
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道祖王や淳仁天皇を見ても、この時代の男の天皇(候補)はか弱い感じがしますよね。
この時代には『女性が政治に口を出すのはあかん』という意識は全くなく、女性が大活躍していました。
称徳天皇のあとは女性の天皇は長く現れず、『天皇は男やないと』ということになっていったのです」
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