💄7)─1─平安時代。日本の女性相続、女流作家、母系女系図。『枕草子』。~No.15 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本皇室の母系相続と夫婦別姓及び創氏改名が女流作家を育てた。
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 平安時代までは母系相続、鎌倉から江戸までは母系父系両系相続、明治以降は父系相続。
 明治の近代化までの伝統的家族観は、夫婦別姓で、夫婦同氏であった。
 姓は変えられなかったが、氏は変える事ができ、創氏改名で新しい氏を作る事もできた。
 姓は先祖とのつながりでありったが、氏は自分の家族のみのつながりであった。
 儒教の中国と朝鮮は、単一の姓族制で、他の姓族から嫁いできた妻は同じ姓族に加えず他人として差別した。
 神道と仏教の日本は、多様性で姓族と氏族の両族制を採用して、他姓同士が結ばれると新しい氏を名乗って家族となり。姓族の一員となった。
 日本は、創氏改名が頻繁に行わた社会で、一国の中でありながら20万近い氏名が存在する。
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 2016年6月号 新潮45「女系図でたどる驚きの日本史 大塚ひかり
 (1)平家は滅亡していない
 大事なのは『胤(たね)』より『腹(はら)』だった!母系をたどると見えてきた、知られざる〝史実〟を、幾多の系図と共にお届けする。
 ……マイナスの反応もあって、それは『平家、滅亡してるじゃん』という声だった。
 たしかに手持ちの教科書の年表にも『1185年 壇ノ浦の合戦(平氏滅亡)』と書いてある。そして実は、私のたとえはそういう突っ込みはあるだろうな想定済みのものだった。
 平氏が滅亡したというなら源氏も滅亡している。むしろ平氏は『女系図』でみると、栄華は続くよどこまでも、だ。それも生半可な栄華ではない。清盛の子孫は今の天皇家にもつながっているし、女系図をたどれば摂関家や将軍家といった栄華の中枢にもつながっていく。
 何か言われたら、その事実を示せばいいという『用意』があったから、自信をもって平家の公達にたとえることができたのだ。
 平家の生き残りだらけ
 『女系図』とは、私が古典文学にはまった中高生のころから作っている系図である。
 南北朝時代に編纂された系図集『尊卑分脈』や古典文学全集などに収められた通常の父系の系図に対して、母系の系図をこう呼んでいる。
 たとえば平清盛の通常の系図は、
 桓武天皇葛原親王─高見王─高望王(賜平氏)─良望─貞盛─維衡─正度─正衡─正盛─忠盛─清盛─重盛─維盛─六代
 教科書や年表では重盛の弟たちや甥たちの死んだ壇ノ浦の合戦を以て『平氏滅亡』としてろり(重盛や維盛は壇ノ浦の戦い以前に)、『平家物語』では戦後14年経って、清盛の直系の曾孫である六代が斬首されたことを以て、
 〝それよりしてこそ、平家の子孫は、ながくたえにけれ〟(巻第十二)
 と、一門の滅亡とみなしている。現行の『平家物語』はこのあとに『灌頂巻(かんじょうのまき)』が続くが、『平家物語』の原形ではここで終わっていた。なんとも救いのないラストで、『平家物語』の原形が作られた鎌倉時代初期の人々は、六代の処刑を以て平家の滅亡と考えていたことが分かる(ただ、あとで触れるように、『平家物語』が『平氏』でなく〝平家〟滅亡としているところに注意)。
 が、それにしては、鎌倉時代以後、平家をなつかしむ文芸がたくさん登場する。
 高倉天皇の母建春門院の素晴らしさを中心に回想した『たまきはる』、高倉天皇中宮となった清盛の娘の建礼門院に仕えた女房による『建礼門院右京大夫集』、平家一門の華やかな日々を綴った『平家公達草紙』・・・・。
 一門の栄華と滅亡を描いた『平家物語』に怨霊を鎮める意味もあるのは有名だが、『たまきはる』や『建礼門院右京大夫集』『平家公達草紙』といった平家関連本の特徴は、公達の栄華に主眼を置いて、その日々をなつかしんでいる点だ。
 それもそのはず、これらはすべて一門の関係者の手になっている。
 拙著『女嫌いの平家物語』(ちくま文庫)にも書いたのだが、平家滅亡後の文学を担っていたのは、平家の関係者と言っても過言ではない。
 ……『建礼門院右京大夫集』の作者右京大夫は清盛の孫資盛の恋人で、彼女とも親戚関係にある『たまきはる』の作者健御前(藤原定家は彼女の同母弟である)は建礼門院(平滋子)に仕えていた。『平家公達草紙』の編者説のある冷泉隆房は清盛の娘婿である。
 そうした平家の関係者たちが力を持つ文学界で、平家の栄華をなつかしみ、懐古する風潮が当時あった。
 そうした平家の関係者たちが力を持つ文学界で、平家の栄華をなつかしみ、懐古する風潮が当時あった。『建礼門院右京大夫集』や『平家公達草紙』の作者は平家の全盛時代をそれぞれ、〝忘れがたく〟思うために綴ったと書いているが、
 『平家のことを知りたい』
 という需要もあったようで、
 〝片端をだにその世を見ぬ人は、さすがに聞かまほしうすもありけり〟(平家全盛の片端をすら知らない人は、さすがに聞きたがる者もあるのだった)
 と『たまきはる』にはある。
 こうした風潮が起きるのは、あとで触れるように平家と敵対した源氏が、政治的に平家以上に滅ぼされたと言えるような状況になっていたため、大手を振って平家に好意を寄せることができた、ということが一つあろう。
 もう一つは、先祖の栄華を知りたがる平家の生き残りたちがあちこちにいたからではないか。
 母系をたどる『女系図』で見れば、そこら中、平家──清盛の生き残りだらけなのだ。
 天皇に繋がる清盛の血
 と、その前に、当時は一夫多妻の上、貴族社会では男が女のもとに通う結婚形態が残っていたため、女のほうでも、右京大夫やその母のように離婚再婚を繰り返したり、複数の男を通わせていた。その母方をいちいちたどっていくとこ足配線状になってわけがわからなくなってしまう。
 平家の女系図とはいっても、テーマ別に、あるいは人物別に、複数の系図を作る必要が出てくるわけで、中郄時代から今に至るまで、こうした系図作りが私の趣味であった。
 ……
 ここで目を引くのは、清盛の娘に源義経の同母妹がいることだ。母は、『平治物語』によれば中宮呈子の侍女の採用にあたり集められた美女1,000人から選ばれた常盤(常葉)で、はじめ源義朝に愛され義経ら3人の息子を生み、平治の乱で義朝死後、清盛の愛人となり、娘(『平家物語』によれば〝廊の御方〟)を生んだとされる(『平家物語』によると清盛に飽きられたあとは大蔵卿長成の妻になりという〝子共あまた有ける〟)。
 同じく『平家物語』によれば、安芸国厳島の内侍と呼ばれる女性とのあいだに生まれた娘は後白河法皇のもとに参り、〝女御のやうにてぞましましける〟とある。『源平盛衰記』には、公卿や殿上人が付き従って〝偏へに女御入内の様なり〟(巻第二十五)とあって、御所に入る様子が女御のようにものものしかった、という意味のようだ。
 北条政子平氏
 で、思い出していただきたいのは、教科書などには『平氏滅亡』とあるものの、『平家物語』には〝平家〟が滅亡したとあること。
 平氏と平家とどこが違うの?と思うかもしれないけど、違う。
 『平家物語』で滅亡したとされるのは、清盛と彼の兄弟の男系の子孫である。ここでの〝平家〟は清盛の父忠盛(もしくは祖父正盛)の父系の一門を指すと考えていい。
 が、平氏というと、清盛の一門だけでなく、清盛の妻時子も平氏で、伊勢平氏の清盛の家系より家格の高い堂上平氏と呼ばれる一族だ。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻の北条政子平氏である。しかも清盛の先祖と同じ平貞盛(将門のいとこで将門を討伐した)の子孫なのだ、より清盛と血筋は近い。
 が、本稿ではそうした広い意味での平氏ではなく、平忠盛の子の中でもとくに清盛の血を引く末裔という切り口で話を進めてきた。
 そしていわゆる『平家の公達』は女系図で見れば滅亡などしていないことが分かるのだが、『平氏』となると滅亡どころか、鎌倉幕府の最高権力者になっていらわけだ。つまり『平氏滅亡』という教科書の記述は間違いなのである。
 さて一方の源氏はというと、源頼朝の死後、2代将軍頼家も3代将軍実朝も死去、直系の子孫として頼家の娘の竹御所と呼ばれる女性が残っており、藤原氏から迎えた4代将軍頼経(女系図をたどれば彼ら源平両氏の子孫でもある)と結婚するものの、男子を死産して自らも死去。ここで頼朝の直系は途絶えている。
 滅びたというならむしろ平清盛の子孫より源頼朝の子孫のほう・・・と言えるのだ。
 もっとも頼朝自身はともかく、彼の同母姉妹に目を向けると中納言藤原能保の妻となり男女を生み、とくに女子のほうは藤原氏の『氏長者』である良経の妻となってやはり氏長者となった道家や順徳院の中宮立子を生んでいる。4代鎌倉将軍として都から鎌倉に下った藤原頼経はこの道家の子で、系図を見れば分かるように、妻の竹御所と同じ頼朝の血縁であり、頼朝の父義朝の子孫なのである。頼朝の姉妹の系譜には摂政関白の正妻もいて、伊豆の流人だった頼朝と比べれば格段に繁栄していると言える。
 『腹』が運命を左右する
 女系をたどった平家の末裔を追った本としては、つとに角田文衞の『平家後抄』があり、私も影響を受けた。が、私がそもそも『女系図』に目覚めたのは、平家絡みではなく、平安時代藤原道長の栄華を描いた歴史物語の『栄華物語』を読んでいた中郄時代のことであった。
 紫式部と同時代の赤染衛門が書いたといわれる本は、『誰と誰が結婚し、誰が生まれ、誰が死んだ』という貴族社会の動向やスキャンダルから成り立っていて、内容を頭に入れようとすると、おのずと系図を書かずにはいられないという具合だった。『大鏡』『愚管抄』『古事記』『日本書紀』などの歴史物はいずれも同様で、古典好きな私が大学で日本文学ではなく日本史学を専攻したのも、古典文学の物語としての面白さより、古典文学から当時の人の暮らしぶりや考え方を知る面白さのほうが私の中ではまさっていたからで、古典文学を読むために系図を作るというより、系図を作るために古典文学を読むようなことになっていた。
 趣味が高じるあまり、大河ドラマを見てもギリシャ神話を読んでも、飼い犬の血統書を見ても系図を作らずにはいられなくなり、25年前、1991年に出した『愛は引き目かぎ鼻』(NTT出版)では、その名もずばり『女系図』という一章を立て、滅亡したと言われる蘇我氏が実はまったく滅亡しておらず、藤原氏系図蘇我氏や源氏のそれにも書き換えられるということを、系図入りで説明した。そこに書いたことをここで繰り返せば、
 『男側の系図で見るから、滅びたり滅ぼされたりする一族がいるのである。一転、視線を女の側に向けると、栄えているのは滅びたはずの一族だったりする』
 とりわけ一夫多妻&生まれた子供は母方で育つ母系的な古代社会では、同じきょうだいでも『母』の地位や資産によって出世のスピードや命運が決まるのはもちろん、天皇家の歴史もいかに母系の地位を獲得するかの権力闘争史として見ることができる。
 蘇我氏が権勢を振るったのも、母方である物部氏の〝母(いろは)が財(ちから)〟ゆえ(『日本書紀』)であるし、『源氏物語』の主人公が〝光る〟源氏と称えられながら皇位につけなかったのも〝母方からこそ、帝の御子もきはぎはにおはす〟(母方の家柄次第で、同じミカドの皇子といってもそれぞれ身分の相違があらわれる)から(『薄雲』巻)から、だった。出てきた『腹』が子の運命を左右していたのだ。
 『母系の力は絶大』で、時代をさかのぼると、『母が違えば他人同然』という状況があったからこそ、古代天皇家の血なまぐさい闘争も引き起こされた。
 そうしたもろもろを、女系図で浮き彫りにしていくことで、見えなかった日本の権力地図を描けたら・・・。驚きの日本史を浮き彫りにできたら。そしてはじめて感じた、この人もあの人もつながる、滅びていない!と分かったときの楽しさを蘇らせ、共有できたら、と思う」
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 新潮45 7月号「女系図でたどる驚きの日本史
 なぜ光源氏天皇になれなかったのか──王朝の身分は〝腹〟できまる。
 …… 
 『逆玉』で出世した道長
 〝腹〟がこのように取り沙汰されるのは、それだけ〝腹〟が大事だからだ。
 どの母から生まれたか、その母の身分や地位によって、その子の運命が大きく変わるから、である。
 ……
 現代人から見れば、いずれも高貴な皇女なのだが、平安貴族の感覚だと、〝后腹〟(中宮腹)>〝女御腹〟>〝更衣腹〟というふうに、〝腹〟によってはっきり序列があった。
 どの〝腹〟から生まれた子であるかによって、世間の評価も出世もすべて違うのが平安時代だったのである。
 こんなふうに〝腹〟=母方がものを言う平安時代、女系を重視して妻選びをしたのが、紫式部が仕えた彰子の父藤原道長であった。
 『栄花物語』によれば、兄の道輶が才女のキャリアウーマン郄内侍(こうのないし、高階貴子。従2位式部大輔高階成忠の娘)、道兼が藤原遠量女といった格下の女と結婚する中、道長は、左大臣宇多天皇の孫・従1位雅信)の〝嫡妻腹(むかひばら)〟(正妻の生んだ子)で〝后がね〟(将来はお后に)として大切に育てられていた源倫子と結婚する。
 道長藤原氏の中でも摂関家と言われる家柄だが、父の兼家は、母も正妻も受領階級(国守の最上席)出身だ。道輶、道兼、道長兄弟はすべて受領の娘から生まれている。
 そんな中、道長左大臣の正妻腹の娘という高嶺の花を狙う。
 当然、倫子の父は大反対で、
 〝あなもの狂ほし〟(なんと馬鹿げたことだ)『栄花物語』巻第3
 と、相手にしなかった。
 『誰が、たった今、そんな〝口わき黄ばみたるぬしたち〟(くちばしの黄色い青二才連中)を婿として出入りさせて世話をするものか』
 というのだ。
 それを、イベントなどで道長を見たことのある倫子の母(藤原朝忠の娘・穆子)が、
 『この君はただ者には見えません。私に任せてちょうだい』
 と一人で縁談を進めた。娘の結婚に際しては、父より母が発言力をもっていたことからも、当時の母権の強さがうかがえる。
 こうしてめでたく左大臣家に〝婿取り〟(『栄花物語』)された道長だったが、父兼家はその〝位〟が左大臣家の婿としては浅いことを〝かたはらいたきこと〟(みっともない)と考えて、ほどなく道長左京大夫(さじょうのかみ)に任じる。
 それだけではい。道長の実家である兼家邸に仕える人々も、
 『兄君たちの北の方たちは別段のこともないと思っていたら、この君は実にご立派できらびやかな方に婿入りなさったものだ』
 と、何かにつけて〝心ことに〟(格別に)気を配ってお仕えするようになった。高貴な妻との結婚が道長にもたらしたメリットは絶大だったのだ。
 ちなみに道長は、倫子との結婚の翌年、やはり高貴な源氏の姫君明子と結婚している。その父源高明醍醐天皇の皇子で(正2位)左大臣だったが、藤原氏の策謀で太宰府に左遷されており、『源氏物語』の源氏のモデルの一人と言われる。
 『この殿の北の方が2人とも源氏でいらっしゃるので、後世には源氏がお栄えになるに違いない』(〝この北の政所(まんどころ)方の2人ながら源氏におはしませば、末の世の源氏の栄えたまふべき〟)
 と、『大鏡』は評している。
 婿取り婚が基本
 高貴な妻たちのおかげもあって、地位や尊敬を得ることのできた道長は、長男頼通を、当代一の高貴な文化人として世に尊崇される具平親王の娘(隆姫)の婿にした。親王がこの結婚に乗り気であると知った道長は、
 『〝男(おのこ)は妻(め)がらなり〟(男は妻の家柄しだいだ)。〝いとやむごとなきあたり〟(非常に高貴な家)に婿として参るのが良いようだ』(『栄花物語』巻第8)
 と喜んでいる。
 ……具平親王村上天皇の皇子(七宮)で、麗景殿女御(醍醐天皇の皇子代明親王の娘荘子女王)の〝御腹〟(お腹から生まれた子)であり、北の方も村上天皇の四宮為平親王の娘(中姫君)で、源高明の娘の〝腹〟である。
 このくだり、『栄花物語』ではいちいち母親の〝腹〟から生まれたかが明記されている。頼通の妻となる隆姫が、母方父方ともに高貴な〝腹〟から生まれたか、いかに血筋の良い娘であるかを強調しているのだ。
 婿取り婚が基本の当時、頼通は、親王家に華やかに迎えられた。頼通のために親王家で用意された女房は20人、童女や下仕えは4人ずつ、すべてが奥深く心憎いまでの有り様だった。
 道長の『愛人』だった紫式部
 ……」
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 日本には、儒教の中国や朝鮮そしてキリスト教の西洋に比べて女性蔑視・女性差別・女性軽視・女性迫害は少なかった。
 ゆえに、レディーファーストやウーマンリブ(1960年代)は無縁であった。
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 日本社会では、女性が強かった。
 単純馬鹿で分別のない碌でもない男ほど、単細胞亭主となって妻や子供に暴力をふるう。
 亭主が稼いできた給料を取り上げ、家計を支配するのは、母系相続として妻の役目であった。
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 平安時代。男が出世できるかどうかは、父親ではなく母親で決まった。
 妻を誰にするかで、男の昇進と栄達が決まった。
 娘が、誰を婿として選ぶかで家の繁栄が決まった。
 全ては、女性次第であった。
 男は、位の高い家の娘に色恋の歌を詠んで贈って気をひき、夜な夜な娘の部屋に忍び込んでいた。
 娘は、数多くの男と色恋遊びをしながら相手を決めて結婚した。
 浮気もし、不倫もし、何度でも結婚と離婚を繰り返し、そのつど子どもを産んでいた。
 女性は、男性とは違って親の遺産を相続して裕福であった。
 男は、女性の資産を目当てに結婚したが、妻に嫌われたら家を追い出されて実家に帰っていった。
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 公家の結婚は「婿取り婚」で、夫が生家から妻方へ通う「妻問い婚」と夫が妻の家に入る「婿入り婚」の二つがある。
 女性は親の屋敷を相続した。
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 日本は、神代から母系女子力が強かった。
 父系男子力が強くなったのは、武士が天皇から日本の統治権を委託された鎌倉時代からであった。
 江戸時代の庶民の間では、母系女子力の方が父系男子力よりやや強かった。
 商家は、女系図として、身代をできの悪い息子ではなく賢い娘に譲った。
 父系男子力が日本を支配したのは、明治維新によってキリスト教的男性至上の家父長主義が入ってからであった。
 結婚は、身分制に基づいて、親同士が子供の結婚を決めていた。
 本人同士の自由恋愛は、極稀であった。
 だが。親同士が結婚を決めるのは日本だけの事ではなく、ヨーロッパでもごく普通に行われいた。
 政治権力と宗教権威で国家を形成している社会では当たり前の事で、国家間の王族結婚は外交であり、国内の有力者結婚は政治であった。
 結婚は、戦いに勝つ為の戦略の一手段に過ぎなかった。
 自由恋愛は世間知らずの乙女の夢物語で、ドロドロした現実世界には存在しなかった。
 結婚によって、国家間の同盟が成立し、有力者間の絆が結ばれた。
 男性至上の宗教世界において、女性は人権なき道具に過ぎずなかった。
 男性至上の宗教の代表が、ユダヤ教キリスト教イスラム教の一神教であった。
 儒教の女性蔑視は病的で、嫁いできた女性を家族の一員と認めない排他性の強い男性至上思想である。
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 平安時代において、男が女の家に通うという、世界的に異常な恋愛と結婚が行われていた。
 結婚適齢期の男は気に言った女に恋文・恋歌という和歌を送り、女は恋の和歌の優劣で受け入れるかをどうかを決めた。
 女の両親も、恋文・恋歌から相手の男を技量を読み解いて、娘の婿にするどうかを決めた。
 優れた恋文・恋歌を作るには、有名な歌人に大金を払って手解きを受けなければならない。
 つまり。優れた恋文・恋歌を作る事が出来るのは、金持ちで高い地位にある家の御曹司だけであるからである。
 女も、男の恋文・恋歌に対して返歌を送った。
 男は、女の返歌を読んで結婚するかどうかを決めた。
 女の返歌は、しばしば母親かお付きの文才ある女官が代作した。
 男は、求婚の恋文・恋歌を送り、三日間女の家に通った。
 女性の家では、相手の両親に気に言って貰う為に、酒を飲み、面白い話をし、笛や鼓などの楽器を演奏し、舞い踊り、優れた芸能の才を披露した。
 面白く遊べない無骨で才もない男は、つまらない男として嫌われた。
 誠実や真面目は、二の次であった。
 父親は、通ってくる男の服装や言葉遣いや立ち居振る舞いで技量を見定めた。
 男を婿として結婚させるかどうかは、母親が決めた。
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 男系の武士は、戦で手柄を立てて立身出世して領地を拡げた。
 女系の公家は、娘を天皇家に入内させて皇子を生ませて後見人となるか、有力貴族の妻にして官位を上げるしかなかった。
 公家の浮き沈みは、男達を引き付ける、器量が良く才気長けた娘を授かるかどうかにかかっていた。
 女の仕事は、子を育て家を切り盛りする事ではなく、男遊びをして出世の糸口となる公達を捕まえて結婚する事であった。
 女性の理想は、世話女房ではなく、栄誉栄華をもたらす社交的女房であった。
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 須藤健一「祖母、母、娘というように、代々女性の血縁関係(出自)を辿って、社会集団を作り上げ、相続・継承の方法を決定する」(『母系社会の構造──サンゴ礁の島々の民族誌』)
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 公家の結婚は「婿取り婚」で、夫が生家から妻方へ通う「妻問い婚」と夫が妻の家に入る「婿入り婚」の二つがある。
 子供が生まれた時、若夫婦は妻が親から受け継いだ家屋敷に棲みついた。
 藤原道長の住まいである土御門の邸宅は、妻が相続した屋敷であった。
 倫子の両親は、邸宅を娘夫婦に譲って、一条邸に移った。
 子供を産むのが女である以上、その子供の父親が誰だか知っているのは女だけである為に、家屋敷や財産を女に継承させた。
 男系相続であれば、生まれた子供が本当は誰の子か分からなくなる。
 女系相続であれば、子供を生むのが実の娘(或いは養女)である事は確実であった。
 和泉式部は、数度結婚し、幾人かの男と付き合った為に、生まれた子供が誰の子か分からなくなり、子供の父親を問われて歌で答えた。
 「この世にはいかがさだめんおのずから 昔を問はん人に問へかし」
 (この世では何で決められましょう。あの世で生前の行いを裁く閻魔様にでも聞いて下さい)
 夫と死に分かれた未亡人は、別の男と再婚するもよし、幾人かの男と付き合うも自由であった。
 才気ある年上の女性と自由に付き合えるとあって、夫を失った未亡人のもとに通う男が絶えなかった。
 倫理的に女の性への縛りがゆるかった為に、未亡人は一人ではなく、同時に数人と付き合い、気に言った男が現れたら再婚した。
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 平安時代は一夫多妻で、公家は正妻以外に数人の妻を別宅で持っていた。
 正妻ではない妻は、夫が来ない時は別の男を家に引き込んで遊んでいた。
 若い公達は、女の喜びを知らない処女には興味がなく、自由に遊んでくれる年上の女や人妻に憧れて恋文・恋歌を送り家に忍び込んでいた。
 妻達は、若い公達と遊ぶ為に、子供の面倒を乳母に任せっきりで育児放棄していた。
 だが、権力や財のある夫から嫌われたり愛想を尽かされ捨てられると、母子は路頭に迷ってしまう。
 妻達は、男遊びをしていても、夫に嫌われないように恋文や恋歌を絶えず送っていた。
 この為に、『古今和歌集』や『小倉百人一首』などには恋歌が多い。
 日本の古典文学は、こうして生まれた。
 その代表作が、清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』や赤染衛門の『栄花物語』である。
 それらの作品は、女性が書いている。
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 2017年2月4日号 週刊現代「わが人生最高の10冊
 作品の深意を知れば、読書の質が変わる 片瀬須直
 ……
 『枕草子』の隠れた意味とは
 ……
 『枕草子』は優れた随筆と言われているのですが、僕は少し違った見方を持っています。
 『枕草子』には、物事の美しさや価値観を描いている箇所もあれば、『牛車を卯木(うつぎ)の花で飾りましょう』とか、自分たちがいかに楽しいことをやったかを延々と描いているところもある。
 清少納言中宮定子の中宮職の女房。定子は藤原通隆の娘で、通隆は死後、弟の藤原道長が権力を握ると、自分の娘を后にしたい道長に定子は迫害されました。そして、定子は、20代で産後の肥立ちが悪く亡くなる。
 『枕草子』が書かれたのは定子の死後なんです。清少納言は『それでも誇りを失わないぞ』と中宮はこんなに素晴らしい暮らしをしていたと描いている。非業の死については書かず、ひたすら楽しくて生き生きしていた日々しか書いていない。
 そんな隠れた意味を知った時に『枕草子』は人の『魂の記録』になる。構造がわかった時に、全く違う読み方ができることが、作品の面白さの一つなんだと思います」 
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 2017年10月13日号 週刊朝日「週刊図書館 ベストセラー解読 永江朗
 『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』山本淳子
 ……
 『枕草子』は清少納言一条天皇の妻、定子に仕えていたころのエッセイである。定子の周囲の優雅で楽しい日々が描かれている。しかし史実は逆だ。定子は兄たちが起こした政治スキャンダルに巻き込まれ、没落と出家、そして復帰と早世という波乱に満ちた生涯を送る。
 このギャップは何なのか?
 『枕草子』は清少納言の身近雑記ではなく、定子ひとりのために書かれたのだという。それも定子の存命中から没落まで長期にわたり書き継がれたと推測される。定子存命中は定子を慰め喜ばせるために、没後は彼女を讃えるために書かれた。そのために清少納言は、道化のように失敗してみせもした。
 定子の一族にとって政敵の藤原道長は、なぜ『枕草子』を歴史から消し去ろうとしなかったのか。それは定子の怨霊を恐れたからだろう。
 『枕草子』は鎮魂の書でもあるのだ」
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 子供は父方ではなく母方のものという考えから、子供の命名権は母親が持っていた。
 『古事記』「(垂仁天皇)すべて子供の名前は必ず母が付けるものが、どのようにこの子の名を付ければいいのか」
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 女性の貞操を求めないという風潮は、自然と下々にまで広がり、未婚女性や未亡人宅への夜這いが常態化した。
 武士は父系相続に拘った為に、親同士が結婚相手を決め、女性の貞操を厳しく追及したが。
 庶民は相続する物がなかった為に、処女に気にせず気に入った相手と結婚し、女房が産んだ子は無条件に自分の子供として育てた。
 女の親も、若い内から男遊びをして、男を自分の部屋に引き入れても気にしなかったし、子供を産まなければ咎めもしなかった。
 何時、間違って子供を産むかも知れないから、早めに嫁に出した。
 世間は、男の噂が立たない娘を奇異に見ていた。
 親としては、年頃になっても男遊びをしない堅物の娘に、病気でもあるのではないかと心配した。
 世間は、男に逃げられた女より、女に逃げられた男を駄目人間と軽蔑し嘲笑った。
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 司馬遼太郎「政子は、頼朝に対し、生涯、農夫のように一夫一妻であることを強制しつづけた」
 土地財産の相続は、王朝貴族の母系から武士の父系に変わった。
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 日本神道の古層。
 古代のから平安にかけて日本は、地母神信仰から発展した女性神最高神とされ、女性神を崇拝する女性中心の女系社会であった。
 中華から儒教が伝えられ広まるや男性中心男系社会となり、「女には三界に家なし」とされ、女性は男性の所有物され、女性の生殺与奪の権は男性に与えられた。
 男性・夫は浮気しても罪に問われないが、女性・妻が浮気すると罪に問われた。
 明治に入るや、西洋からキリスト教の父性家長主義が浸透して男系社会となり、母系崇拝は消え、女性は男性の肋骨で創られた添え物とされた。
 日本は、儒教の中国や朝鮮とは違っていたし、キリスト教の西洋とも違っていた。
 そして、イスラム教やユダヤ教とも違い、強いていえばそれら以外の世界に近かった。
 女性の地位の変化は、多種多様が同列並列で存続できる相対的価値観から他者の完全なる排除という単一的画一的な絶対的価値観による。
 地位の下落による女性差別は、男性中心の絶対的価値観がもたらした弊害である。
 女性差別・性差別は、国連人権委員会女性差別撤廃委員会が激しい言葉で非難される通り現代日本では顕著であるが、明治以前ではそれほど酷くはなかったし、平安時代まで遡れば女性の方が男性よりも優遇されていた。
 現代日本では女性差別・性差別は存在するが、昔の日本では女性差別・性差別は存在しなかった。
 歴史が好きな日本人や伝統文化を大事にする日本人など日本の常識を持つ日本人なら、その事を知っているからめくじらを立てて女性差別・性差別で日本を非難しない。
 日本の歴史や伝統文化が鳥肌が立つほどに嫌いな日本人だけが、分別なく、女性差別・性差別を騒ぎ立てている。
 彼らは、歴史を教訓せず、伝統に敬意を払わず、日本民族的思考をしない知識人である。






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