🌈37)─1─日本民族の異性愛と同性愛(男色)は文化であり宗教であった。~No.72No.73 

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 2022年12月20日 YAHOO!JAPANニュース NEWSポストセブン「【書評】日本でも受け入れられていた同性どうしの性愛 歴史のからくりをときほぐす
 『歴史の中の多様な「性」 日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』/著・三橋順子
 ロシアによるウクライナ侵攻、安倍元首相銃撃といった衝撃的な事件が次々に起きた2022年。大きな歴史の分岐点に立つ私たちはいま、何を考え、どう処すべきなのか? 本誌・週刊ポストのレギュラー書評委員12名と特別寄稿者1名が選んだ1冊が、その手がかりになるはずだ──。
 【書評】『歴史の中の多様な「性」 日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』/三橋順子・著/岩波書店/3410円
 【評者】井上章一国際日本文化研究センター所長)
 性的少数者、いわゆるLGBT+の人権を擁護する声が、さいきん高まっている。欧米とくらべ、日本では彼らが揶揄されやすいことも、問題にされてきた。日本はその点でおくれているという指摘も、しばしば聞こえてくる。
 しかし、同性どうしの性愛が日本になかったわけではない。今の同性愛とはべつの形でだが、ひろくうけいれられていた。異性装に生きた人だって、少なくない。日本なりに、性的な多様性をはぐくんではいたのである。
 これをねじふせたのは、欧米である。伝統的に異性愛のみを正常としてきた西洋が、その価値観を非西洋世界におしつけた。そして、欧化を国是とした近代日本も、この考え方を受容する。同性間の性愛を変態よばわりしだしたのは、西洋化のせいである。
 ただ、今日の欧米は自分たちのかかげてきた認識を、反省するようになってきた。そして、こちらのほうは、まだ日本にとどききっていない。日本がおくれているようにうつるゆえんである。
 この本は、今のべたような歴史のからくりを、ていねいにときほぐす。また、欧化される前の日本で展開されてきた性のありかたを、えがきだしてもいる。なかでも、私は藤原頼長をあつかった文章に感心した。頼長は保元の乱でやぶれた、摂関家の長者である。平安末期の公家で、『台記』という日記をのこしている。
 この日記には、頼長の性生活が、あけすけにしるされていた。男どうしで情交にふけった様子が、はっきりわかる記録である。じゅうらいの日本史研究は、この性愛を頼長の政治実践にむすびつけ、読みといてきた。自派のネットワークを形成するために、あの男やこの男をだいたのだ、と。
 私はこの通説をうたがう。某男子と情をつうじたのは、彼のことが好きだったからかもしれない。打算のせいだとは、きめつけられないだろう。そんな私の疑問に、この本はみごとな解答をしめしてくれた。快哉をさけびたい。
 ※週刊ポスト2023年1月1・6日号
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 ウィキペディア
 日本における同性愛(にほんにおけるどうせいあい)の記録は古代に遡る。かつて男性同性愛は「男色」(なんしょく、だんしょく)、江戸期以降の武家社会におけるものは「衆道」・「若衆道」、歌舞伎の世界では「陰間」などの言葉で表現されていた。女性の同性愛については未解明な部分も多い。
 「日本におけるLGBTの権利」、「日本のゲイ文化」、および「日本における同性結婚」も参照
 概略
日本における男性同性愛や男性同士の性行為に関連する記録は古代に遡ることができる。 明治時代初頭の一時期より前の日本には、同性愛を制限する法律は存在せず、場所や状況によっては男色はほとんど公然と行われたといわれる。 古くから寺院においては女人禁制の掟があり、女性と性交渉をすることは禁じられていたが、同性間の性交渉を禁じる掟というものはなく、同性を性的対象と見なす機会が多くなりがちであった。性交の対象となる女性が容易に見つからない状況下における機会的同性愛や、女性に近い容貌の美少年や女形などの女装少年への性行為など、異性愛が背景にあるものも含まれていたと考えられる。
 明治初期の1872年、西欧キリスト教社会の影響で同性愛行為の中で鶏姦(肛門性交)のみが違法とされたが(鶏姦罪)、1880年制定の旧刑法にはこの規定は盛り込まれず撤廃された(後述)。以下では日本における同性愛の歴史などについて触れる。
 歴史
 武家における男色は「衆道」も参照、太平洋戦争後については「新宿二丁目#ゲイ・タウンの歴史」も参照
 「男色」(なんしょく)という言葉は日本だけでなく同じ漢字を用いる中国にも存在し、「色」は両国ともに性的な快楽を意味している。この用語は近代以前の日本における男性間の性行為に類するものに広く使われていた。「衆道」という用語も特に古典を中心に使われていた[要出典]。タフツ大学の歴史学教授 Gary Leupp によると、古代における日本の男色習慣は中国から伝来し、漢字などと共に日本の文化に取り込まれていったとされる。
 無名の作家による同性への恋を綴った古の作品は存在するが、それらの多くは微かな表現であり、一般的な同性の友人に対する愛情を表現したものとする見方もある。それにも関わらずそれらは後世にまで語り継がれ、また平安時代にはさらに増え、11世紀頃にはより多くなってくる。
 藤原頼長をはじめとした平安時代に実在した人物の日記には同性愛行為の記述を含んだものが存在している。そのうちのいくつかは当時天皇の地位にあった人物との関係性を記したものも存在した。以下では年代ごとに日本における同性愛の歴史に触れる。
 古代〜近世
 古代
 日本における男色の最初の記録として、4世紀ごろの記述である『日本書紀』の神功皇后の項にある記述をあげる説(岡部東平「阿豆那比考」『嚶々筆語』一巻、1830)もある。「摂政元年に昼が闇のようになり、これが何日間も続いた。皇后がこの怪異の理由を尋ねたところ、ある老人が言うには、神官の小竹祝の病死を悲しんだ天野祝が後を追い、両人を合葬した「阿豆那比(アヅナヒ)之罪」のためであるという。そのため墓を開き、両者を別々の棺に納めて埋葬すると、直ちに日が照り出した」との記述がある。岡部説では、この「阿豆那比の罪」が日本最古の男色の罪とするが、史料に忠実に解釈すると、「阿豆那比の罪」は血縁関係に無い別社(二社)の神職を一緒に埋葬したことを指すといえる(難波美緒説、2014)。他にも後追い自殺(殉死)をした関係性は『日本書紀』に十数件が記述される。また、天皇から寵愛を受けたという記述も多く残る。全てを男色とは決めつけられないが、男性が男性を「寵愛」する記述は珍しいものではない。
 奈良・平安時代: 寺院での男色
 奈良・平安時代には仏教の広まりとともに、寺院での男色もかなり広まったと考えられている。奈良時代には貴族の子弟が寺院に入り、僧の身の回りの世話などをすることが制度として確立していた。男色の対象とされた少年達は、元々は稚児として寺に入った者達である。彼ら有髪の少年は寺稚児、垂髪、渇食などと呼ばれた。こうした稚児を寵愛する風習は、奈良時代以降かなり仏教界に広まっていた。天台宗などでは僧と稚児の初夜の前に行われる「稚児灌頂(ちごかんじょう)」という儀式があり、稲垣足穂少年愛の美学』に詳しい。灌頂を受けた稚児は観音菩薩の化身とされ、僧侶は灌頂を受けた稚児とのみ性交が許された。寺社内での男色を知る貴重な資料に、平安時代に成立したとされ、稚児灌頂について記された『弘児聖教秘伝』や、大分後のものだが京都醍醐寺所蔵の「稚児之草紙絵巻」(元享元年,鎌倉末期)などがある。奈良時代にはめぼしい男色の記録はないが、『万葉集』には大伴家持らの男性に宛てたと思われる恋愛を詠んだ和歌が多数収められている。また、奈良時代後期には孝謙天皇の皇太子に立てられていた皇族・道祖王が「先帝(聖武天皇)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなし、先帝への服喪の礼を失した」などの理由で廃嫡に追い込まれたとの記録がある。」
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