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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族は、天皇神話を信じ、信じ切って、正統性世襲男系父系天皇を命を捨てても守り通してきた。
それが天皇を核とした、皇国史観、愛国主義、民族主義、天皇主義である。
日本の民族宗教とは、神話宗教であり、崇拝宗教であり、信仰宗教ではなく、奇蹟・恩寵宗教でもない。
反天皇反民族反日本のマルクス主義者や共産主義者には無意味な話である。
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第45代聖武天皇の后・光明子皇后は、慈愛の行為として癩(らい)病患者の膿(うみ)を口で吸い出し、親身に寄り添って介抱した。
光明皇后の発願、「千人の垢を流す」。
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イエス・キリストは、全知全能の創り主(唯一の絶対神)の奇蹟・恩寵として、癩(らい)病患者を癒やし、死者を蘇らせ、嵐を静め、集まった聴衆全員が餓えないように不足した食べ物の量を生み出して与え、そして隣人愛の信仰を説いた。
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インド・中央アジアの仏教、中国の儒教・道教・易学など諸子百家、ペルシャのゾロアスター教、パレスチナのユダヤ教、ヨーロッパ・ギリシャの原始キリスト教、アラブの初期イスラム教、その他数多くの宗教・文化・学問が大陸から伝来し、日本はそれらを受け入れ学び日本流に改良・改善して身に付ける事で進化・進歩していった。
日本が、中国や朝鮮と違うのはこの為である。
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仁徳天皇「私はすっかり富んだ。民が 貧しければ私も貧しい。民が豊なら私も豊ななのだ」(かまどの逸話)
天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇と日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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奈良県総合医療センター 看護部
看護の特徴
“支えあい あふれる笑顔で チーム医療”
光明皇后の施浴伝説
~豊かな知識 確かな技術と 奈良に受け継がれる優しい心の融合~
奈良時代、聖武天皇の妃、光明皇后は千人の人々の体を洗う施浴を行いました。皮膚がただれ、膿が出ている患者もためらわず、平等に触れ合い、伝説となっています。その他にも医療施設である「施薬院」や貧困者救済のための「悲田院」をつくり、人々を救おうとしました。古くからこの奈良の地に伝わる“誰にでも平等に慈愛の心をもって接する”という看護の原点を「奈良看護」と名付けました。
奈良県総合医療センターの看護
~わたしたちが大切にすること~
1,普遍的な思いやりを持って接する専門職としての誇りをもち、真摯に向き合い、安全で安心な看護を提供します。
2,患者さん、ご家族の皆さん、そして私たちも喜びあい、苦しみや悲しみも分かち合える看護の心を提供します。
3,“みんなが笑顔”になれる病院、笑顔あふれる働きやすい環境を自分たちで作っています。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
光明皇后 こうみょうこうごう (701―760)
聖武(しょうむ)天皇の皇后。藤原光明子(こうみょうし)。名は安宿媛(あすかべひめ)。のち中台天平応真仁正皇太后(ちゅうだいてんぴょうおうしんにんしょうこうたいこう)。父は藤原不比等(ふひと)、母は橘三千代(たちばなのみちよ)。716年(霊亀2)皇太子首(おびと)親王妃となり、724年(神亀1)首親王が即位して聖武天皇となるとともに夫人となり、729年(天平1)長屋王の変の後まもなく臣下の女としては異例の皇后となったが、当時皇后は天皇と並んで国政に参画する伝統があり、以後藤原氏の政界活動のよりどころとなった。立后と同時に皇后宮職(こうごうぐうしき)が置かれたが、749年(天平勝宝1)には昇格して紫微中台(しびちゅうだい)と改称し、長官に藤原仲麻呂(なかまろ)が就任するに及んで、ここは実質的に政治を主導するところとなった。皇后は天皇とともに仏教を深く信仰し、国分寺の建立、東大寺大仏の造営などを積極的に勧めたといわれ、病人や孤児の救済のため施薬院(せやくいん)や悲田院(ひでんいん)など福祉施設をつくったことでも知られる。孝謙(こうけん)天皇の母。陵は佐保山東陵(さほやまのひがしのみささぎ)と称し、奈良市法蓮(ほうれん)町にある。
[押部佳周]
『林陸朗著『光明皇后』(1961・吉川弘文館)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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神道とは、惟神(かんながら)の道である。
神道の真髄は、「惟神の愛」である。
惟神の愛とは、森羅万象への感謝を込めた、生きとし生きるモノ全てに向けられた見返りを求めない無償の愛である。
八百万の神々の下で、他人とはもちろん、自然とも一体となり、心と心の絆でつながり合う愛。
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申命記「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なる貴方の神を愛せよ」
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仏教といっても、日本仏教は異端に近い仏教で、インド仏教や東南アジア諸仏教とは全然違い、もちろん中国仏教や朝鮮仏教とも全く違う。
反宗教無神論のマルクス主義者・共産主義者にはどうでもいい話である。
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TOP 葬儀コラム 仏教を深く信仰し民衆を救うための福祉にも取り組んだ光明皇后
仏教を深く信仰し民衆を救うための福祉にも取り組んだ光明皇后
仏教を篤く信仰していたとされる聖武天皇。また、その后である光明皇后も仏教への信仰心が深く、慈悲に満ちた心から、民衆を救う事業を行った。そして、光明皇后は伝説を残していった。光明皇后の慈愛に溢れる事業が行われてきた施設を紹介していく。
仏教を深く信仰し民衆を救うための福祉にも取り組んだ光明皇后
光明皇后とは
藤原不比等と縣犬養橘三千代の間の娘として、光明子は生を受ける。光明子は16歳のときに後の聖武天皇である首皇子(おびとのおうじ)の后となる。光明皇后は即位すると、執政や社会事業を行うための拠点として、皇后宮職を設置した。光明皇后は国からの制約を受けないために民衆を救済するための施設や組織を宮外に作り、光明皇后の私財を投じたとされる。
悲田院
悲田院は貧しい人や孤児を宿泊させたり、扶翼したりするために設置された。「悲田」という言葉は慈悲の心で困窮者に施せば、福徳を生み出す田となるという意味が仏教思想において込められている。光明皇后が設置する以前に、聖徳太子が四天王寺に建てたのが最初であるという伝承があるが、記録として残っているものでは光明皇后のものが最古である。
施薬院
施薬院は貧しい病人や孤児の救済や療治、施薬を行うために設置された。諸国から集められた薬草を無料で施薬したとされる。東大寺にある正倉院に保管されていた人参や桂心も提供された。また、光明皇后自身が現場に立って、治療に当たったという伝説も残っている。
法華寺浴室
薬草を用いた蒸し風呂による治療をするために設置された。法華寺浴室は使用できる機会が限られてはいるが、現在も利用できる施設である。またこの浴室には伝説がある。光明皇后が千人の垢を流そうと発願し、光明皇后は自ら999人の垢を流していった。そして、最後の人となったとき、その千人目はライ病(ハンセン病)患者の老人であった。老人は「体の膿を口ですべて吸い取ってほしい」と懇願した。光明皇后はその願いを聞き入れ、膿をすべて口で吸い取り出した。すると、患者の老人は光輝きだす。老人は実は阿閦如来であった。
仏教文化を開花させた光明皇后
仏教思想のもとに、奈良時代の頃から福祉事業を行ってきた光明皇后はまさに「福祉事業の創始者」と呼べる。全国に国分寺と国分尼寺を建立するよう聖武天皇に勧めたのも光明皇后である。興福寺の阿修羅像を始めとする仏像も光明皇后の命によって作られたとされる。光明皇后の活躍により、聖武天皇朝は奈良時代で仏教最盛期を迎えることとなる。光明皇后は福祉事業だけでなく、文化に大きく寄与した。
ライター 笹田唯衣
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紛れもなき日本民族日本人の切なる願いはただ一つ、数万年前・数千年前の祖先と数千年後・数万年後の子孫の為に、民族中心神話所縁の正統性男系父系天皇制度と神の裔である現皇室の天皇・皇族を守り残す事のみであった。
日本民族日本人が天皇に向ける畏敬・敬愛・親愛は、情緒、情愛よりも強く深く濃い「情念」である。
ゆえに、日本民族日本人は天皇・皇族・皇室、国體=天皇制度を守る為ならば死を厭わず、武器を取って戦った。
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皇室の血族優先(ネポティズム)は、血縁・地縁による依怙ひいき、縁故、身びいきとは違う。
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中国・朝鮮は、公・忠より私・孝を優先する一族・家族中心の宗族主義で、公然と賄賂による不正が蔓延る依怙ひいき、縁故、身びいきである。
楊逸「王朝時代の中国は、『家国』意識が強かった。漢王朝は『劉家天下』、唐王朝は『李家天下』と、国土と人民も皇帝家の『私有物』という考え方でした。」
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クラウゼビッツ「敵の軍隊を壊滅しても、国が残れば軍隊は再建できる。敵の国を壊滅しても、国民が残れば国は再建できる。しかし国民の意志、魂を壊滅させれば、完全に敵国を壊滅できる」
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天皇神話、天皇・皇室、天皇制度を滅ぼそうとしたのが、西洋のキリスト教、近代のマルクス主義・共産主義、東洋の中華儒教であった。
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少ない。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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現代の部落解放・同和解放が対象とする被差別部落民とは、明治後期以降の日本人であって、それ以前の日本人ではない。
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戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア、学教教育、部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲、万世一系の男系父系天皇制度である。
天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲で万世一系の男系父系天皇の神性である。
つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那岐命(イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
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現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズム、ジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
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日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲で万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
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日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
神の宗教的民族神話とは、古事記と日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神を最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
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世界大百科事典 第2版「悲田院」の解説
ひでんいん【悲田院】
奈良・平安時代に,身寄りのない貧窮の病人や孤児などを収容した公設の救護施設。723年(養老7)奈良の興福寺に施薬院(せやくいん)とともに設けられたのが初見で,その後諸大寺にも設けられ,730年(天平2)光明皇后によって皇后職に悲田,施薬の両院制が公設され,奈良・平安時代を通じ救療施設の中心となった。仏教の博愛慈恵の思想にもとづいてはいるが,唐の開元の制度に倣った施設で,悲田院の名称も唐制の踏襲である。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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日本大百科全書(ニッポニカ)「悲田院」の解説
悲田院 ひでんいん
身寄りのない貧窮の病人や孤老を収容する救護施設。「悲田」とは慈悲の心で哀れむべき貧窮病者などに施せば福を生み出す田となるの意。聖徳太子が四天王寺に建てたと伝えるが、723年(養老7)興福寺に施薬院とともに建てたのが初見。光明(こうみょう)皇后もまた施薬・悲田の二院を設けている。平安京には左・右京に官営の悲田院が置かれ、京中の病者・孤児などを収容した。833年(天長10)武蔵(むさし)の国司が行旅の飢病者を救うために置いた「悲田処」は布施屋に近い。京の悲田院は、室町時代のころまで左京の一所(鴨(かも)川の西)が残った。民間の慈善事業として、鎌倉時代に忍性(にんしょう)が各地に悲田院などを設けたのが有名。
[中井真孝]
[参照項目] | 施薬院 | 布施屋
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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施薬院(読み)せやくいん
精選版 日本国語大辞典「施薬院」の解説
せやく‐いん ‥ヰン【施薬院】
[1] 〘名〙
① 天平二年(七三〇)光明皇后によって創設された病者の施療施設。初め、藤原氏が経費を負担する施設であったが、のち役所となり、別当・使・判官・主典の四等官および医師が任命された。諸国より薬種を貢上させて、収容された京中の病人を治療したり、京中の孤児・貧窮者を救済したりするため、左右両京に設けられた悲田院(ひでんいん)と並んで救護活動をした。このほか、諸国、諸寺にも同様の施設が設けられた。やくいん。
※続日本紀‐天平二年(730)四月一七日「辛未、始置二皇后宮職施薬院一」
② =せやくいんし(施薬院使)①〔日葡辞書(1603‐04)〕
[2] 徳川幕府が享保七年(一七二二)江戸小石川に設けた養生所の別称。施薬所。
※正宝事録‐一八六五・享保七年(1722)一二月七日「極貧之病人之ため、施薬院可レ被二仰付一候哉旨」
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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「イエスの病気の癒しと罪の赦し」
日本福音教団富谷教会 礼拝説教 辺見宗邦牧師
辺見宗邦牧師が富谷教会で行う礼拝説教を随時アップしてまいります。
毎週土曜日か、前日の金曜日に掲載いたします。
「イエスの病気の癒しと罪の赦し」
2015-02-01 12:51:11 | 聖書
〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
本日の聖書 ルカによる福音書5章12~26節
12イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。 13イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。 14イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」 15しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。 16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
17ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。 18すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。 19しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。 20イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。21ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 22イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。 23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。 25その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。26人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
本日の説教
ガリラヤで伝道を始められたイエスは、カファルナウムで「汚れた霊に取りつかれた男」を癒し(ルカ4:31~37)、シモンの家で熱病で苦しんでいるシモンのしゅうとめを癒し、いろいろの病気で苦しむ者の一人一人に手を置いて癒されました(ルカ:38~41)。 ゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖)で、漁師たち、シモン・ペトロとシモンの仲間、ヤコブとその兄弟のヨハネを弟子にされました。そして、「イエスがある町におられるとき」という書き出しで、「重い皮膚病を患っている人」の癒しの物語が始まります。マルコによる平行記事では、カファルナウムの出来事としています(マルコ2:1)。
「重い皮膚病」は、ギリシャ語原典では「レプラ」という語が用いられています。新共同訳聖書では「重い皮膚病」と訳していますが、新改訳聖書や、日本聖書協会の口語訳聖書では「らい病」と訳されています。「らい病」という言葉は差別用語とみなされ、新共同訳聖書では「重い皮膚病」と改定されています(96/11/01)。
【「らい病」は、体の末梢神経がまひしたり、皮膚がただれたような状態になるのが特徴で、病気が進むと容姿や手足が変形することから、患者は差別と偏見の対象になり、感染力が強く、遺伝病であり、不治の病であるとする誤解と思い込みがありました。1873年(明治6年)にノルウェーのハンセンが、らい菌を発見したことにより、「ハンセン病」という名称が使われるようになり、その後研究が進み、らい菌は、感染力が非常に弱く、たとえ感染しても発病することはまれであることが明らかになりました。また、1940年(昭和15年)代以降は、治療法が確立され、早期に発見し、適切な治療を行えば、治すことができる病気となりました。ハンセン病が感染症であり適切な治療を行えば治ることが分かっても、日本では隔離政策が1996年(平成8年)まで続いたことなどから、それまでの誤解が払拭されず、ハンセン病患者やその家族は偏見と差別を受けました。私は、昭和34、5年頃、当時東神大の学生だったとき、郷里の教会の牧師と共に、宮城県栗原市瀬峰町にある東北新生園というハンセン病患者の収容施設である国立療養所におられた患者の方を見舞ったことがあります。ハンセン病は、当時「らい病」と呼ばれ、「らい予防法」廃止後は、官民ともに「ハンセン病」が正式な用語となりました。】
ギリシャ語の「レプラ」は、ヘブライ語の「ツァ-ラアト」の訳語で、「ツァ-ラアト」は現代医学でいうハンセン病だけでなく、治療がきわめて困難な皮膚病を含もものでした(レビ記13~14章参照)。この場面に登場する患者がどのような皮膚病を患う患者であったかは明らかではありませんが、「ツァ-ラアト(レプラ)」を患う者は、当時は恐れや無知から非常に不思議で恐ろしいものとされ、イスラエルの律法では不浄の者と見做され、この病気に罹った人々は人々の目に触れない所に隔離され、共同体の外に住まねばならなかったのです。だれかが近づいたなら、<わたしは汚れた者です。汚れた者です>と呼ばわって警告しなければなりませんでした。それは伝染病予処置だったが、本人にとってはみじめな状態に陥ることから大きな苦痛を伴いました。
この男は人から聞いて、イエスなら自分を助けることができるだろうと信じていたのでしょう。この男は律法を犯し、刑罰を受けることは覚悟のうえで、町に入り、、イエスに近づき、ひれ伏したのです。そして、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのです。
「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去りました。マルコ福音書によると、「イエスが深く憐れんで」、その人に触れて癒したのです。主イエスはこの男に触れることによって、その人の孤独と恥を共に負われたのです。そしてイエスのこの行為と<清くなれ>という言葉によって、全身をおおっていた「重い皮膚病」はたちまち彼から去りました。イエスの命令によって、古い汚れた状態から新しい清い状態への大逆転が、一瞬にして起きたのです。
今や重い皮膚病が癒されたその人に、イエスは二つの指示を与えました。一つは、彼は誰にもこのことを語ってはならない、ということです。イエスはすでにたくさんの人々に取り囲まれており、これ以上、うわさが広まると、4章42節で起こったように、群衆に引き止められ、ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせることが出来なくなるためであったと思われます。もう一つの指示は、祭司の所に行って見せ、律法に適った儀式として、清めの献げ物をし(レビ記14章)、人々に証明しなさいと命じたのです。
しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来ました。 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられました。父なる神との絶えざる祈りの交わりが、イエスの霊の力に満たされる源だったのです。
ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていました。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのです。ファリサイ人は、サドカイ人とは違って祭司ではありません。イエスが彼らを「偽善者」と非難しましたが、しかし彼ら全員を「偽善者」と見做したわけではありません。彼らの活動の中心は神殿ではなく、会堂であって、その宗教の中心は書物と口伝からなる律法でした。彼らは律法を詳細に読み取って、生活の種々な状況に当てはめました。そのようにして、信仰を保ち、共同体を維持しようと努めたのです。彼らは宗教指導者として、イエスに関して流布されている話の真相を確かめるために集まってきたのでしょう。
主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられました。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとしました。
【中風(ちゅうぶ)とは、半身の不随とか、腕や脚のマヒする病気です。一般的には、脳出血後に残る(後遺症の)マヒ状態のことで、「中気」とも言います。】
ここでは<中風(ちゅうぶ)の人(パラリュティコス)>は「不随の者」を意味し、病名を確定することは出来ませんが、いずれにしても、患者は歩けない状態にあった人です。男たちのグループ(マルコ福音書では4人)が中風の人をイエスの前に連れてきて寝かせようとしました。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、開けた穴から、人々の真ん中にいるイエスの前に、病人を寝床ごとつり降ろしました。
当時パレスチナの家屋の屋根はおそらく横梁(ばり)の上に角材を並べ、その上に木の枝や柴を編み、粘土で練り固めた平屋根でした。屋根には外から階段で上ることができました。屋根は、マルコ福音書では<屋根をはがして穴をあけ>とあるので、粘土を固めた屋根のようですが、ルカ福音書では<瓦をはがし>とあります。これはルカ自身のギリシャ・ローマ的な背景を反映しています。男たちは、瓦の屋根をはがして、イエスの前に病人を床ごとつり降ろしました。<床>は貧しい人が使う小さくて粗末なベッドです。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。<その人たちの信仰>とは、癒された病人が家に帰る時<神を賛美しながら>とあることから、中風の患者の信仰と四人の信仰です。イエスの権威と奇跡的な力に対する信頼です。中風の人へのイエスの最初の言葉が、「人よ、あなたの罪は赦された」と言う言葉でした。彼の病気が彼の霊的な状態と関係していることが明らかに暗示されています。イエスが、あなたの罪は赦されたと言えば、病人は癒されたも同然なのです。イエスは癒しかつ罪を赦すという両方のことができる<主の力>(17節)を与えられているのです。
ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めました。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と考えたのです。イエスは、彼らの考えを知って、お答えになりました。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われました。イエスにとっては罪を赦すのも病を癒すのも同じ権威に属することでした。病を癒すイエス行為は、罪の赦しによる神との好ましい関係の見える「しるし」なのです。これがイエスが病人を癒す理由であり、<圧迫されている人を自由にする>(4:18)ということの意味でもあり、神の救いの見えるしるしです。
そして、イエスは中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。癒された人はすぐさま立ち上がって、寝ていた台を取り上げて、神を賛美しながら帰って行きました。主イエスの癒しの権威により、この人は、古い病の状態から健康な全く新しい完全な状態に転換した神の救いの喜びを賛美しました。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めました。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言いました。
中風の人の癒しの伝承は、後の弟子たちの時代にも伝えられ、弟子たちは、生まれながらの足の不自由な男を<イエス・キリストの名によって>癒しています(使徒言行録3:6)。
イエスは四福音書の随所で幅広い病気を治しています。失明、難聴、中風、重い皮膚病、てんかん、歩行困難、手の委縮など身体的症状が最も多いが、他に、悪霊を追い出す必要がある状態として描かれる、精神的疾患があります。イエスは症状にあわせ、触れる、言葉をかける、唾(つばき)を使うというような異なる手段をとっています。新約聖書の癒しの話は、罪の赦しの話であり、罪の赦しによる神との好ましい関係の見える「しるし」であり、神の国へ入れる救いなのです。
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