✨14)─2─陸軍は、昭和天皇の中止命令を無視し極秘に原爆開発研究を続けていた。1944年7月~No.47No.48No.49 @ ⑩ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本海軍は、世界の軍事常識を無視した潜水空母伊400型潜水艦を進水させた。
 伊400型潜水艦は、世界最大級の潜水艦で、艦内に4機の水上攻撃機晴嵐」を搭載し、途中帰港して燃料補給せずに地球を一周半する航続距離を誇っていた。
 伊400型潜水艦に与えられた任務は、アメリカ大西洋艦隊が太平洋に来る前にパナマ運河を破壊する事であった。
 アメリカ大西洋艦隊がパナマ運河を通過した事が分かるや、サンディエゴなどのアメリカ西海岸都市部の海軍軍港への攻撃へと変更された。
 そして、最後はウルシー泊地の在泊敵艦船への特攻が命じられた。
 1945年7月 ウルシー泊地に向けて出港するが、8月15日に停戦命令を受けアメリカ軍に投降した。
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 7月5日(6月15日〜) サイパン島攻防戦。アメリカ軍兵士は、戦場に取り残された日本人女性を強姦し、慰安婦にする為に保護を名目としてトラックに乗せて後方に送った。
 抵抗する女は、容赦なく射殺した。
 絶海の孤島では。アメリカ本土から食糧や医薬品などの補給物資が届くまでに時間がかかる為に、消費を抑えるべく日本人を捕虜とせず、女子供・老人に関係なく殺した。
 後の。ソンミ村虐殺事件と同じ様な惨殺が至るところで行われていた。
 日本人の虐殺に利用されたのが、「玉砕」であった。
 死人に口なしである。
 アメリカ軍兵士は、日本人女性達に「虐待しないから早く出てきてくだなさい」と呼び掛けた。
 だが、アメリカ人兵士の蛮行を目の当たりにしていた日本人達は、人種差別で強姦魔の様な冷血なアメリカ人を信用せず、バンザイ・クリフと呼ばれる事になる断崖から投身自殺した。
 アメリカ人の魔の手から逃れる様に自決した者の数は、1万人超えると言われている。
 アメリカ人は、戦時国際法を無視して、日本人を人権・人格・感情を持った保護する人間とは見なしてはいなかった。
 追い詰められた日本人女性には、命を大事にして慰安婦となって生き延びるか、大和撫子としての操を守る為に強姦される前に自ら死を選ぶか、の二者択一しかなかった。
 日本人が集団自決を選んだ訳は、その選択の結果であった。
 集団自決の強制や自決命令などを告発して論ずる事は、無意味である。
 「敵に捕らえられば、女は強姦される」は、事実であったからである。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」は、その通りであった。
 沖縄戦の様に、国際赤十字が入って日本人捕虜を人間として扱って保護してくれていたら、気の弱い日本人は投降した。
 それが許されなかったが故に、日本軍兵士はバンザイ突撃で玉砕し、日本人非戦闘員は集団自決した。
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 太平洋の島々には、死闘を繰り返す日本軍兵士とアメリカ兵士しかいなかった。
 女性は、日本人居留民の女性、日本人の従軍看護婦、日本人と朝鮮人慰安婦であった。
 日本人の女性も子供も例外なく日本軍と戦い、最後を共にして死んだ。
 日本人の女性も子供も、生き残る希望はなかった。
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 アメリカ人兵士とは、何者だったのか。
 アメリカ人兵士は、敬虔なキリスト教徒として、女性を遠ざけて禁欲な生活をしながら日本軍と戦っていたのか?
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 東京に、アメリカの原爆開発情報が報告された。
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 7月 絶対国防圏の要であるサイパン島アメリカ軍に占領されるや、軍部は原爆開発を本格的に始動した。
 東條首相兼陸相は、参謀総長として、兵器行政本部の総務部長・管晴次中将に原爆開発に必要なウラン鉱石10キロを大至急集める様に命じた。
 嶋田繁太郎海相は、軍令部総長として、技術将校らに対して戦局打開の奇襲兵器・原爆の速やかな製造開発を命じた。
 海軍は、京都大学の荒勝文策教授の研究室に依頼し、帝国大学や国立大学から優秀な科学者を集め、民間の企業数社に参加を命じた。
 日本国内では、アメリカの様な完全な報道規制ができなかった為に、「マッチ箱一つでワシントンやニューヨークなどの大都市を破壊できる」というウラン爆弾の噂が広がった。
 科学雑誌新青年」に、立川賢は『桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ』という原爆を使ったSF小説を掲載した。
 常識ある大人は夢の様な新兵器を笑ったが、青少年は原爆を神風として信じた。
 サイパン島陥落後。神重徳大佐は、軍令部に対して航空機だけではなく艦艇による水上特攻作戦を提案し、重立った上官を説得するべく廻った。
 だが、人命軽視の作戦に賛同する上級将校は殆どいなかった。
 かって、東郷平八郎山本五十六も自殺行為の作戦を反対していた経緯から、日本海軍には特攻作戦を邪道として嫌う風潮があった。
 人間魚雷「回天」試作品完成。11月から、実戦に投入した。
 1945年3月 有人誘導ミサイル爆弾「桜花」実戦に投入した。
 アメリカ軍は、バカ爆弾と嘲笑った。
 ロケット戦闘機開発陣は、研究者と物資が不足る中、乏しい研究情報の中で試行錯誤を繰り返し、独自技術で一号機「特呂二号」を完成させた。
 試験飛行で、離陸には成功したが、着陸には失敗して横転し、操縦士大塚豊彦海軍大尉は死亡した。
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 7月7日 サイパン島守備隊玉砕。
 7月9日 朝日新聞は、『特輯決戦の新兵器』で、ドイツ軍のV一号ロケットと共にウラニウム爆弾について詳しい情報記事を掲載した。そして、そうした大量殺傷兵器は夢物語で製造は不可能であると解説した。
 7月10日 軍令部は、特攻計画である「特殊兵器緊急計画」を発表した。
 7月18日 東條英機は、首相と陸相を辞職し、内閣は崩壊した。
 東條英機は、航空本部総務部長川嶋虎之輔大佐に、原爆完成は不可能でも原子力研究の継続を命じた。
 「日独米の三ヶ国でそれぞれ研究をしているようだが、特に、アメリカの研究が相当進んでいるとの情報もある。これが開発は、この戦争の死命を制する事になるかもしれないから、航空本部が中心になって、これが促進を図れ」(川嶋虎之輔『原子力の開発について』)
 「富嶽」開発計画の推進者の1人であった東條英機首相が辞任した事によって、全ての物資を本土防衛の新型戦闘機開発に集中させる事になり、「富嶽」計画は中止された。
 大型長距離爆撃機開発計画書は、1942年に、中島飛行機の中島知久平がアメリカ本土を空襲の為に提出した。
 陸海軍共同計画委員会は、1943年に計画を承認した事で始まった極秘計画であった。
 中島飛行機は、日本とアメリカ本土の間の往復飛行が可能な6発エンジンを持つ大型長距離爆撃機富嶽」の開発を始めた。
 日本陸軍は、極秘にアメリカ本土を長距離爆撃する計画を立案し、長距離偵察爆撃機キ74と爆撃機キ91の研究に取りかかっていた。
 だが、開発途中で終戦を迎えて日の目を見る事に終わった。
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 7月 陸軍兵器行政本部は、第8陸軍技術研究所に国内外でのウラン鉱石探査を命じた。
 陸軍・理研の二号研究は、以前に増して原爆製造に力を入れた。
 陸軍は、戦争を始めた責任から、戦局を挽回する為に仁科研究班に対して原爆開発を急ぐ様に、軍刀で床を叩き怒鳴りつけて威圧した。
 研究現場を指揮する仁科芳雄は、原爆の完成が不可能である事を知りながら、原子力研究の為に軍部から予算と若い優秀な科学者・学生を得ていた。
 技術将校は、貴重なカネを注ぎ込んでいる以上、面子として新兵器開発を強要した。
 山本洋一(陸軍技術将校・『大法輪』誌「日本原爆の真相」昭和28年8月号)「動力源としての原子炉が出来れば、原子爆弾も可能である。戦局不利となればなるほど、一発の原子爆弾でも造って、アメリカを驚かしやりたい。科学技術の戦いは、一歩先に原子爆弾を造れば、戦争を止めるにも有利である」
 武谷三男「日本で原爆など出来るわけがなかった。その事は僕らは当時よく知っていた。ただその完成の理論は有るわけだから、それに向けて小さな努力を続けていた事は事実であった」
 竹内柾「結局、その当時、日本が持っている技術水準では、原爆はとうてい出来ないという事ですね。細かい事は忘れてしまいしたが、私達がとにかくサイクロトロンを造ったと言っても、このサイクロトロンでは原爆製造には1000年はかかるという状態ですよ。日本には材料が無い上に、製造の技術そのものも全くなかった事になります」
 「二号研究は陸軍から見ると原爆製造計画だろうが、我々から見れば原子核の分裂の研究に過ぎず、実際にウラン235に中性子を当ててその様な分裂が起きるのかを試す実験だった」
 吉岡斉「成果は極めて貧弱であるが、成果について云々する以前の問題として、『二号研究』の構想内容そのものが、国際的にみてきわめて見劣りのするものであった事を、指摘しておかなくてはならない」(平成23年10月『新版 原子力の社会史 その日本的展開』)
 日本外務省と軍部は、秘密諜報機関「TO機関」を組織し、中立国スペインの諜報部の協力を得て、アメリカなどの連合国内に十数人の工作員を潜入させていた。アメリカに潜入していた諜報部員は、国家最高機密であるマンハッタン計画を日本に伝えた。
 軍部は、アメリカの原爆開発情報に衝撃を受け、アメリカより前に原爆を完成させるべく研究を加速させた。同時に、原爆投下を実現させる為にロケットと超重爆撃機の開発も急いだ。
 アメリカは、莫大な国際資本と世界中の最先端技術を総動員していた。
 日本は、規模の小さい民族資本と対外技術支援のない中、一国のみで奮闘していた。 
 日本の戦略に、「負けて勝つ」というのがある。
 東條英機は、開戦責任と捕虜虐待責任と慰安婦に関する女性への性暴力を看過した罪などで、A級戦犯として処刑された。
 昭和天皇は、生前も、逝去後も、最終命令権者として戦争責任で追及されている。
 日本とオランダで行われた女性による国際司法法廷は、全ての証拠を慎重に細部まで充分に審議した結果として、昭和天皇東條英機情状酌量の余地なく第一級犯罪者と認定した。
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 7月22日 小磯国昭内閣成立。
 7月23日 アメリカ軍は、日本軍守備隊が守るテニアン島に上陸して、8月2日に占領した。
 日本軍守備隊約1万人は、奮闘むなしく玉砕した。
 島内にいた日本人居留民1万5,000人中約1,500人は、アメリカ軍の捕虜になる事を嫌って崖から飛び降りて自殺した。この崖を、自殺の崖、スーサイドクリフと呼ばれている。
 愛国心ある日本人の情緒として、祖国防衛の為に劣勢にも関わらず最後の勝利を信じて壮絶なる戦いで戦死していく日本兵を目の前にしたとき、その死を無視して自分ひとりだけ降伏して生き残る事に「申し訳ない」という罪悪感を抱いた。
 民間人の集団自決は、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓ではなく、日本民族の一員として同じ極限状態を共有して逃げ出さないという、日本独自の家族愛における心中心理で起きたといえる。
 個ではなく集団で行動する日本人は、仲間との絆を大事にして生死をともにする事に喜びを感じ、仲間を見捨て裏切ってまでして自分ひとりが生き残る事を恥とした。
 かっての、日本民族の「絆」には生死を共にするという悲壮感があった。
 同じ血を引く日本民族という共同体意識の希薄な日本人は、仲間としての「絆」もなく、敵軍に追い詰められた状況でもないのに、恥も外聞もなく喜んで連合軍に降伏して捕虜となった。彼等は、自分が生き残る事しか考えない為に、罪悪感もなく、平然として、日本国家と日本民族を裏切り、敵に売り渡した。
 宗教的科学的人種差別主義者のアメリカ人兵士は、降伏してきた民間人を襲い、日本人女性を強姦して殺害した。
 そして、報告書には「玉砕」としたためた。
 アメリカ社会は、平時において人種差別による強姦やリンチ事件が絶えず、人種差別による殺人事件があっても犯人が白人であれば警察は見て見ぬふりをした。
 軍国日本は、味方になってくれる外国人を持たず、援軍を出してくれる国もなく、一人孤独に戦っていた。
 天皇制度国家日本は、四面楚歌の中、最後の承知を信じて絶望の中で、自分と仲間を信じて戦っていた。
 敵は、押し寄せてくる大軍だけではなく、国内にもいた。
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 小磯国昭首相は、昭和天皇に、軍部が御座所と大本営を長野県松代に移転させる計画を相談した。
 昭和天皇は、「自分が帝都を離れては、国民に不安感と敗北感をいだかせる恐れがある」として、東京から長野に疎開する事を拒否した。
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 夏。陸軍は、非常識に近い兵器開発を目的とした「海洋決戦態勢確立事項」という極秘計画書作成した。
 仁科芳雄は、原爆の研究に携わる全て研究員を集めて、原爆完成についての意見を聞いた。
 全員が、不可能であると答えた。
 田島英三「我々は当時20代から30代の前半の世代ですから、全員が口を揃える様な形になり、原爆なんか造れませんと断言しました。下っ端の研究者に仁科先生は、自由に研究をさせてくれたのですが、しかし陸軍の管轄の機関からはかなりの研究費を貰っていましたので、その責任は大変だったと思います。我々には愚痴は言いませんでしたが」
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 8月 マンハッタン計画の極秘生物学的研究プログラムは、プルトニウム及びウランを人体に注射する人体実験を始めた。
 バンダービルト大学は、公衆衛生局から実験費を貰い、テネシー州保健省と共同で、約820人の貧民であるカフカス人の妊婦に放射性の鉄の追跡薬を投与した。
 8月20日 学術研究会議は、小磯国昭首相、杉山元陸相、米内光政海相、二宮治重文部大臣、広瀬久忠厚生大臣、藤原銀治郎軍需大臣に建議した。
 「今や戦局は愈愈緊迫を告げ、戦力就中航空戦力増強に国家の総力を結集せんとするとき、本会議は全力を挙げて其の要請に対処する為、戦力を急速増強に直接寄与すべき重要研究事項を簡抜して、担当研究者をして一切の障害を排除し其の研究に専念せしめ、強力に之を推進して成果の急速発揚に努めんとす」
 また、会長岡田武松名で全会員に檄を飛ばした。
 「作戦に関係ある研究については、研究者をして軍の戦術及兵器の研究並に整備に直接参画せしむると共に、当該部局と緊密なる連絡を保たしむ事」 
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 9月18日 ハイドパーク覚書。イギリスの原爆開発計画の暗号名をとって、チューブ・アロイ覚書とも言う。
 ニューヨーク州ハイドパークにあるルーズベルト邸で、ルーズベルトチャーチルは、原爆を日本の民間人の上に落とし、日本が「無条件降伏」するまで投下を続けるとの警告を与えるべきであると合意した。
 ここに、日本人への原爆投下が正式決定した。
 両首脳が日本人の上に投下する事に固執したのは、日本人への人種差別が働いていたとも言われている。
 ドイツへの原爆投下が一度も検討されなかったのは、ドイツ人がキリスト教白人であったからといわれている。
 国際世論は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)制度の存続を認めてはいなかった。
 その反天皇世論を煽ったのは、ユダヤ系国際報道機関であった。
 連合国は、日本人は女子供・老人の民間人であっても日本軍と協力して突撃してくる以上は、殺害すべき敵と認定した。
 それは、銃後の日本本土にいる全ての日本人非戦闘員も対象とした。
 当然、乳飲み子の乳幼児さえも容赦はしなかった。
 ライフ誌「アメリカ人は、ドイツ人を憎む事を学ばねばならないが、ジャップに対しては憎しみが自然に湧いてくる。これは、かってインディアン達と戦った時と同様に自然なものである」
 「唯一の良いインディアンは、死んだインディアンだ」
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 10月 アメリカ陸軍航空隊は、日本本土に対して無差別縦断爆撃を行う為に、サイパン基地からBー29の大編隊を出撃させた。
 総力戦を戦うアメリカ軍にとって、日本軍兵士も非戦闘員である日本人民間人も同じ敵にすぎず、イエローモンキ、害虫として抹殺すべき相手にすぎなかった。
 アメリカ軍機は、日本各地で大規模な無差別爆撃を行った。
 現代日本反戦平和市民団体の一部は、無差別爆撃を受けたのは当時の日本政府の誤った政策によるものであるとして、日本政府に賠償金と謝罪を求める裁判を行っている。
 軍令部総長官舎で、海軍首脳会議が開かれ、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は「必死必殺の体当たり攻撃」作戦案を提案した。
 伝統ある日本海軍の敢闘精神からしても賛成でいない用兵の最大の愚行ではあったが、追い詰められた現状を打開するにはやむを得ない作戦であるとして承認した。
 及川古四郎軍令部総長「決して命令してくださるな」
 米内光政海相も特攻作戦に賛成したが、井上成美海軍次官は邪道であるとして反対した。
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 11月 原子物理学の権威であり貴族院議員の長岡半太郎は、陸軍兵器行政本部編輯の『軍事と技術』誌12月号に「原子核分裂を兵器に利用する批判」を掲載した。
 専門家の立場から、ウラン爆弾の開発と製造は理論的に可能であるが、興味本位に取り上げる事に反対する意見を表明した。誤解いを正す為に、ウラン爆弾の製造方法をわかりやすく解説した。開発する為の技術的困難さと、ヒト・モノ・カネの国力からウラン爆弾開発は不可能であるとの結論を明快にした。
 第8技術研究所は、日本海軍の敗退によって制海権と制空権を失った今、ウラン鉱石を探せるのは日本国内のみであるとして、福島県石川郡石川町付近で採取できる巨晶花崗岩が有力であるとの報告書を提出した。
 連合軍は、アルザス・ロレーヌ地方の古都ストラスブールを占領し、特殊任務チームを派遣してドイツの原爆開発状況を調査した。綿密に調査した結果、ドイツは原爆を開発し保有していないとの結論を出した。
 ソ連は、アメリカが原爆開発を進めているとの情報を得て、極秘に開発研究を始めていた。
 原爆の日本投下という「タイムテーブル」(バーンズ)は決定した。
 日本が原爆投下を免れる方法は、日本が無条件降伏を受け入れ、
 フランス革命ロシア革命の様に人民が昭和天皇と皇族と天皇信奉者を虐殺するか、
 ドイツ革命や辛亥革命の様に昭和天皇が退位して天皇制を廃止するか、
 の二者択一しかなかった。
 それ以外の解決法では、多くの犠牲者を出しているアメリカ世論も、日本に侵略されている中国世論も納得しなかった。
 11月3日〜45年4月 風船爆弾空襲作戦。
 風船爆弾約9,300発を、千葉県一ノ宮と茨城県大津、福島県勿来の各海岸からアメリカ本土に向けて送った。
 約10%程度の数百個〜1,000個が、アメリカ本土やアラスカ、カナダに到達し、爆弾が爆発して森林火災や送電線を破壊して被害を与えた。
 オレゴン州では、飛来した風船爆弾が爆発して民間人6名が死亡した。
 アメリカ当局は、情報操作を行い、緘口令を敷いて事実を隠蔽した。
 日本軍部は、アメリカが被害報道をしなかった為に、作戦が成功したのか失敗したのか判断できず作戦を中止した。
 11月12日 高松宮日記「『コバルト』に対して艦政本部で暴力団を使ってとろうとしあり、近く上海の85トンも搬出することとなろう。最近海軍の悪いことが陸軍なみになった。」
 海軍と陸軍は、秘密主義のもとで個別に原爆開発の研究を行い、相手よりも先に原爆に必要なウラン鉱石を取得するべく躍起となっていた。
 海軍は、終戦時に、550キロのウラン化合物を貯蔵していた。
 11月17日 仁科芳雄は陸軍東京第二造兵廠長信氏良吉中将らと協議して、「仁科研究室に於けるU研究状況」という報告書をまとめた。
 陸軍は、以前にも増して、一刻も早い原爆の完成を強く要請していた。
 二号研究において最大の悩みは、原材料のウラン鉱石がなく、原爆のもとになるウラン235の生成が出来なかった事であった。
 竹内柾「正直言いましてね、ウラン爆弾というより、原子力エネルギーをどうやったら取り出せるか、その方に私達の関心は強かったですよ」
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 12月 陸軍は、福島県石川郡石川町でのウラン採掘を決定した。
 当時、岡山県鳥取県の県境に当たる人形峠にウラン鉱脈は知られていなかった。


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大東亜戦争と高村光太郎―誰も書かなかった日本近代史

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