✨15)─3─戦争に巻き込まれて死んだ学童・女子挺身隊・従軍看護婦らは靖国神社の神として祀られた。1945年7月25日~No.56No.57No.58 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 軍国日本は、昭和天皇の厳命で原爆開発を中止したが、ユダヤ人科学者が開発した原爆を投下された。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、ヒトラーと同罪の極悪犯罪人として有罪とされている。
 日本人でも、原爆製造を中止させた昭和天皇戦争犯罪者と固く信じている者がいる。
 昭和天皇を平和を愛する優れた君主であると言う者は、外国にはいない。
 中国でも、韓国でも、アメリカでも、イギリスでも、そして、ドイツでも、イスラエルでも、
 昭和天皇が軍部と対立しながら戦争を回避し戦争を早期に終結させようとしていた事を認めない、日本人も多くいる。
 其れが、天皇戦争犯罪天皇の戦争責任である。
 日本国内には、反天皇反日的日本人が存在している。
   ・   ・   ・   
 サルトル「(原爆投下を知って)白人種の上にだったら、彼等も敢えてなし得たか疑問だね。黄色人種だからね。彼等は、黄色人種を忌み嫌っているんだ」
   ・   ・   ・   
 ジョセフ・ナイ「ドイツは、原爆投下の是非が検討される前に降伏していた」
   ・   ・   ・   
 武谷三男「あの二号研究というプランですが、あれは仁科先生のもとで進んだ原爆製造計画という事になっているけど、あんなものできない事は科学者なら誰もが知っていた。ただ素粒子論の研究や、原子核分裂の研究を進める為のプロジェクトだったんです。もっともアメリカが実際に原子爆弾を開発するとは思わなかった」
   ・   ・   ・   
 吉岡斉「(F号研究は)ウラン濃縮法として遠心分離法を採用した。その点では『二号研究』より先見の明があったといえるが、遠心分離機関発は設計段階で敗戦によって中止されたので、その点では実際の装置を作って実験をおこなうところまでこぎつげた『二号研究』には及ばなかった」(『新版 原子力の社会史』)
   ・   ・   ・   
 辻 哲夫「戦争末期になって、敗色濃い中での泥縄式戦時研究の動員が発令され、中間子論の研究者たちも陸軍や海軍研究に参加させられることになった。しかしそれまでは、単に大目にみられていただけで、とくに奨励援助されることもなかった。 してみると中間子論グループが活気を失わなかった理由の多くは、むしろ研究者集団のあり方、そして集団自身の意識構造に求められるべきことであろう。 理論物理学そのものは、大衆的な土着の思潮からは、あいも変わらず完全に遊離していたが、湯川はもはや孤独ではなかったであろう。彼の開拓した分野に、意気盛んな同僚、若手研究者が集まり、研究の討論、方法論の吟味に熱中する生気に満ちた雰囲気が常に絶えなかった。戦時のざわめきの中でそうであったということは、あるいは理論物理学の知的特権であったかもしれない。……戦時の苦難を耐え通す国民の知的守護神としての意味もこめられていた。あぶん戦局の不利な中で国家の威信のよりどころを求める国民の風潮が、その相応の知的象徴を望んだからでもあったろう」(『物理学史への道』)
   ・   ・   ・   
 山本洋一「仁科博士は、科学者としては立派なかたであつたろうが、技術者ではなかった。大学の工学部だったというだけでは技術者とはいえない。仁科博士が中心で、御自身の門下だけで原子爆弾を完成しようとの考え方には、ひとりよがりがある、我があるのである。多額な研究費をひとりじめして、技術者の介入を許さなかったのは、極秘に名を借りて、理論物理の研究をつづけたのであったといわれても仕方がない。武谷博士のごときは、『はじめから原爆などできるつもりではなかったが、理論をおしすすめうために』と公言されている」(大法輪昭和28年8月号 『日本原爆の真相』)  
   ・   ・   ・   
 チャーチル「日本の運命が原子爆弾によって決定した、と考える事は誤りであろう。日本の敗北は、最初の原爆投下前に確定していたのである。圧倒的な海洋軍事力がこれをもたらしたのであった。この海洋軍事力にしてはじめて、そこからとどめの攻撃を敢行し、本土軍隊をして突撃に出でしめる事なく投降させた海洋基地の獲得が、可能となったのである」
   ・   ・   ・   
 日本とアメリカは、戦争をしていた。
 戦争は、勝つか負けるかの二者択一であって、第三の終結方法は存在しない。
 勝利者は、名誉ある勝者の権利から何をしても許された。
 敗北者は、惨めな敗者として全ての要求を無条件で受け入れねばからない。
   ・   ・   ・   
 7月25日 トルーマンは、原爆が大量破壊兵器で、使用すれば大量の一般市民が死ぬ事を知りながら、8月10日迄に日本で二発の原爆を投下実験する「ミッション」に署名した。
 連合国軍上層部は、日本が天皇中心とした国體護持のみを条件で降伏を望んでいる事を知っていたし、日本軍には抗戦する余力はないとの認識でも一致していた。
 アメリカ政府や軍隊とユダヤ人科学者らは、核兵器の威力を科学的計算で予想していた。
 天皇制度存続を保証する条項を省いた「ポツダム宣言」が、正規の外交ルートではなく対日謀略ラジオ放送で、日本側に伝えられた。
 日本が、天皇の安全を保証していないポツダム宣言を拒絶する事は分かっていた。
 日本側は、ポツダム会議が行われ、日本に降伏勧告が出される事は知っていた。
 その宣言文にスターリンが署名していない事に、ソ連を通じての降伏申し込みに望みがあると信じた。
 日本人は、自国の為に相手国を破滅させるという冷厳な国際外交の本質を見ぬく能力がなく、信義や道義で自分に都合の良いように解釈する「甘さ」があった。
 日本人の失敗は、「お人好し」に人を簡単に信用してしまうと言う、他人に対する甘えと状況に対すると認識不足である。
 日本に原爆を落とされる最大の要因も、「お人好し」と「甘さ」であった。
 昭和天皇と、東郷茂徳靖国神社)や広田弘毅靖国神社)や近衛文麿ら宮廷派の、天皇制度存続・国體護持での和平工作は失敗に終わった。
 軍国日本は、被害拡大を避ける為に早期停戦を希望した。
 連合軍は、原爆投下実験の為に戦争継続を望んでいた。
   ・   ・   ・   
 連合軍は、天皇の安全を保証すれば日本が降伏する事を知っていた。
   ・   ・   ・   
 アメリカは、ポツダム宣言を採択し日本に通告する前に、2発の原爆実験を日本市民の上で行う事を決定していた。
   ・   ・   ・   
 日本が原爆の被害を受けない唯一の方法は、人民革命を起こして、昭和天皇を殺害するか、国外追放するか、逮捕して連合軍に引き渡すかの、三通りしか残されてはいなかった。
 それ以外に、原爆を回避する方法はなかった。
 それが、無条件降伏である。
 反日的日本人は、数十万の一般市民の命を助ける為に昭和天皇の一つの命を切り捨てるべきであったと主張している。
 昭和天皇の価値は、数十万の一般市民の価値に比べたらたいした価値ではないと。
   ・   ・   ・   
 連合国は、ポツダム宣言で、日本政府の主権を認めて「陸海軍の武装を解除して無条件降伏する」などの幾つかの条件を提示した。
  ポツダム宣言(外務省訳)
 一 吾等合衆國大統領、中華民國政府主席及グレート、ブリテン國總理大臣ハ吾等ノ數億ノ國民ヲ代表シ協議ノ上日本國ニ對シ今次ノ戰爭ヲ終結スルノ機會ヲ與フルコトニ意見一致セリ
 二 合衆國、英帝國及中華民國ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自國ノ陸軍及空軍ニ依ル數倍ノ増強ヲ受ケ日本國ニ對シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ 右軍事力ハ日本國ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同國ニ對シ戰爭ヲ遂行スル一切ノ聯合國ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
 三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ對スルドイツ國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民ニ對スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ 現在日本國ニ對シ集結シツツアル力ハ抵抗スルナチスニ對シ適用セラレタル場合ニ於テ全ドイツ國人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廢ニ歸セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ 吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ
 四 無分別ナル打算ニ依リ日本帝國ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍國主義的助言者ニ依リ日本國ガ引續キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ經路ヲ日本國ガ履ムベキカヲ日本國ガ決定スベキ時期ハ到來セリ
 5 吾等の條件は左の如し
 吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ 右ニ代ル條件存在セズ 吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ
 六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
 七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄ハ聯合國ノ指定スベキ日本國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
 八 カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
 九 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ
十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ
 十一 日本國ハ其ノ經濟ヲ支持シ且公正ナル實物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ 但シ日本國ヲシテ戰爭ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ 右目的ノ爲原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ區別ス)ヲ許可サルベシ 日本國ハ將來世界貿易関係ヘノ參加ヲ許サルベシ
 十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ
 十三 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス右以外ノ日本國ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
   ・   ・   ・   
 7月26日  軍部は、報道規制をかけながら、徹底抗戦を呼びかけるべく各新聞にポツダム宣言の概要を報道した。
 ワシントンは、陸軍航空隊に対し日本に数発の原爆投下を命じ、翌27日に天皇の地位の安全を曖昧にしたポツダム宣言を対日謀略ラジオを使って日本に伝えた。
 連合国は、知日派の情報により、天皇の安全が保証されない限り、日本軍及び日本国民は降伏しない事を熟知していた。
 連合国が、日本の切望する天皇中心とした「国體護持」という条件を受け入れていれば、早い時期に日本は降伏していた。
 7月28日 鈴木貫太郎首相は、記者との懇談の場で、天皇制度存続の保証がないとしてポツダム宣言を「黙殺する」と語った。
 トルーマンとバーンズは、日本側の予想した拒否反応で原爆投下の大義名分を手に入れ、原爆投下が可能になる8月1日でポツダム会談を終了させる事にした。
 アメリカ側は、共産主義が世界中に滲透するのを防ぐ為に、ソ連が参戦する前にアメリカだけに降伏させようとしていた。
 7月30日 ポツダム会談は、アメリカとソ連の戦後ヨーロッパの新たな枠組みで対立して、思わぬ所で会談は難航した。
 遅くない将来、自由・資本主義のアメリカと共産主義ソ連が対立する事は誰の目にも明らかであった。
 トルーマンとバーンズは、原爆投下までスターリンとの会談を続けるはけには行かず、未解決問題をパッケージ提案としてソ連側に押し付けて中途で打ち切って、急いで帰国の途に就いた。
 戦後の「原爆カード」を使用した冷戦は、この時から始まった。
 現代の一部の日本人は、一人の天皇の為に、広島と長崎の合計30万人が犠牲になる事は不条理であると主張している。
 スターリンは、北海道を自国領にする為に、対日戦参戦の期日を繰り上げるように命じた。同時に、原爆を早急に完成させるように厳命した。
 核兵器保有国による、世界支配を目論む核競争時代の始まりである。
 関東軍は、ソ連シベリア鉄道を使って極東軍の増強を急いでいる事を東京に知らせ、対ソ戦に備えて主力部隊を満州の北部から中部に配置転換した。
 満州開拓団は、手に入れた土地を手放す事に不満を感じ、逃避する為の手荷物支度に手間取り、逃げるタイミングを逸した。
 日本人の土地に対する愛着が、判断を狂わせ、優柔不断となって悲惨をもたらした。
 東京の軍中央は、ソ連の仲介で停戦が可能である以上は、ソ連軍の参戦はないとの甘い判断を下していた。
 約束を守らない共産主義者を信用できると、自分に都合良く信じ込んだ「甘さ」が悲劇の始まりであった。 
   ・   ・   ・   
 『日本外交史 25巻 大東亜戦争終戦外交』
 「アメリカは既に1945年2、3月の頃マリアナ諸島のうちテニアン島を原爆攻撃の発進地として選定、目標としては、(イ)日本国民の抗戦意志を挫折させるような場所で、(ロ)しかもその地域が軍事的戦略的価値をもち、(ハ)爆撃効果が正確に把握できるよう、その時までに破壊されておらず、半径がほぼ1マイルの広さを持つ人口密集都市である事を要件とした」
   ・   ・   ・   
 8月 荒勝研究室は、F号研究についての見解を総括した。
 「あくまで研究段階、工学的に製造する段階にははるかに及ばない」
 海軍側も、今の戦争では原爆完成は無理である事は知っていたので、次の戦いに備えての開発研究と割り切っていた。
 ジョン・ダワー「(日本の)最良の物理学者や化学者は爆弾研究に無関心な態度しか示さなかった─あるいは、ひとたび課題が命じられるや、軍部とは対照的に、『学問』として、つまり純粋に学術的な営みとしてそれに取り組んだ─のである。この学問というのは、研究に参加した科学者たちの回想に共通する言葉だが、それを疑う理由はないように思われる」(『昭和─戦争と平和の日本』)
 吉岡斉「本質的には、日本の科学者が原爆研究以外の分野でも戦時動員に対して協力的でなく、自分自身の研究テーマを追求したがる傾向をもっていたことが、原爆研究にもあらわれたとみるのが妥当である。……要するに、戦時研究という大義名分によって若手研究者を戦場に送るのを阻止し、ついでに軍から支出される潤沢な研究費を自分自身のアカデミックな研究の為に使うというのが、この時期の日本の多くの科学者の行動様式であり」(『新版 原子力の社会史』)
 アメリカ軍諜報部は、ラジオ放送で、新型爆弾を日本に投下するという放送を繰り返していたと言われている。
 軍部は、本土決戦の決意を打ち砕く為の謀略であるとして、新聞に敵の策に乗らないように注意を呼びかける記事を掲載させた。
 憲兵隊や警察当局は、海外放送を聞き、日本の敗北を噂する者を非国民として逮捕した。
 だが。そうした噂は広まり、一億総玉砕を覚悟した国民の決意がぐらつき始めた。
 日本国内に厭戦気運が広がって、日本の降伏は時間の問題であった。
   ・   ・   ・   
 某原子物理学者「我々は、ウラン爆弾の製造に関わったにせよ、実際に製造まで行き着かなかった事に僥倖という感じを持っています。まあハッキリ言えば、悪魔の手先にならなくて良かったという事になるわけです」
   ・   ・   ・   
 アメリカは、昭和天皇が製造中止を厳命した原爆を開発し、敵国・日本人の犠牲を無視して投下実験を強行した。
 原爆投下実験りきで、実戦で使う事に固執し、日本の降伏を受け容れて中止する意思は毛頭なかった。
 非戦闘員である日本人の女や子供達は、尊厳を持った人間とは見なされず、単なる原爆実験のモルモットにされ、生きたまま灼熱地獄で酷たらしく焼き殺された。
 原爆投下実験は、二発がワンセットとして使用され、一発では終わらなかった。
   ・   ・   ・   
 8月6日 軍都広島に世界最初のウラン型原爆が投下された。
 軍都と言っても、都市の大半は何の変哲もないごく有り触れた民間住宅地帯であった。
 一般市民が家を出て、平凡な日常生活を初め始めた午前8時15分30秒に原爆が炸裂した。
 生きたまま焼き殺されたのは、大半が民間人であった。
 それは、充分に計画されたミッションであった。
 エノラ・ゲイ号無線手デイック・ネルソン「見事命中。あらゆる点で大成功。目に見える効果はアラモゴードより大。爆弾投下後、機内は異常なし。基地へ向かう」
 荒勝文策「軽々に原子爆弾言ってはいけない。調べてうえで結論を出そう。アメリカの謀略に乗ってはいけない」
 山本洋一陸軍技術少佐は、連合国が所有するウラン鉱石で幾つぐらいの原爆を製造し所有しているかの試算を行い、9日午後に報告書を陸軍第8技術研究所に提出した。
 報告書は、アメリカの国力から為て500〜1,000個の原爆を製造能力があり、既に250〜500個は所有していると予想した。
 夜。近衛師団参謀は、宮内省に対して、広島に投下された新型爆弾はこれまでの爆弾とは違って強力な破壊力で、皇居内御文庫の防空壕では安全とはいえないと報告した。もし、同様の新型爆弾が使用される恐れがあるときは、昭和天皇大本営地下壕にある特別地下壕に移って貰いたいと要請した。
 軍部は、新型爆弾が原爆である事を隠した。
 深夜。大本営は、藤田尚徳侍従長に、「今、沖縄の基地を出た敵機は特殊な電波を発しております。広島に強力爆弾を投下した敵機が、基地出発直後に基地と連絡したようです。それと似ています。充分注意するように」と連絡した。
 昭和天皇は、岡部長章侍従から、軍部が説明した広島で使用された爆弾が新型爆弾で、東京がその脅威にある事を聞き、大本営地下壕に避難した。
 昭和天皇「新型強力爆弾の事今初めて聞いたが……。明日になったら武官長を呼んでくれ。いいね、武官長だよ」
 昭和天皇は、原爆が非人道的大量殺傷兵器であるとの知識を持っていただけに、使用された新型爆弾が原爆であったろとう推測した。
 原爆を否定した昭和天皇が、その原爆で日本が攻撃されたと知らされた事は皮肉としかいいようがない。
 昭和天皇戦争犯罪人と告発し戦争責任を追及し天皇制度を廃止しようとする現代の日本人には、日本民族としての「絆」はない。
 岡部長章「(昭和天皇は)御記憶の極めて良い方ですから、8月6日夜半の『お憤り』は、アメリカの新型弾はそれに成功したらしい、との御判断をなさったものだと思います。8月8日の読売新聞朝刊には、当の仁科博士が、記者のインタビューに『核分裂応用のものとは思えぬ』と語られた記事が載っていました。しかし、結局それは希望的観測でした」(『ある侍従の回想記』)
 トルーマンは、ワシントン時間6日午前11時に、日本に原爆を投下し、都市を破壊した事を新聞とラジオで発表した。
 アメリカ国民は、戦争が早期に終結する事を期待した。
 日本が、二発目の原爆を回避する方法は二つあった。
 ロシア革命の様に、人民が戦争を終結させる為に蜂起し、専制君主昭和天皇と家族を虐殺し、政府と議会と軍部を掌握する方法。
 ドイツ革命の様に、昭和天皇が退位し、天皇制度を廃止して 自由と民主主義の政府を樹立する方法。
 だが、サムライには殺されても神の裔・天皇を裏切る事が出来なかった。
 サムライではない現代日本人ならば、日本文明の呪縛が薄いだけにそれが出来るかも知れない。
   ・   ・   ・   
 広島全体の中学生以上の学生・生徒に、国民の義務として徴用制度が拡大され学徒動員が命じられた。
 女子生徒も、「女子挺身隊」として戦争に協力を求められた。
 学生や生徒は、広島市内建物疎開の為に市内各地に別れて作業に取りかかっていた。
 特に、現在の平和大通りに学生・生徒が動員されていた。
 動員された学生・生徒合計8,000人以上の内6,000人以上が、被曝死した。
 日本教育史上最大の惨事であった。
 朝鮮人学生も、中に含まれていた。
 戦後。動員された学生や生徒は準軍属扱いとされ、中国や韓国・北朝鮮及びアメリカなどの反対する靖国神社の祭神として合祀された。
 靖国神社に反対する人々は、靖国神社の英霊として祀られている少年少女の安らぎに思いを馳せる事はなく、被爆の痕のケロイドや放射能でのたうち回りながら悶絶死を遂げた傷ましいうめき声を聞く事はない。
   ・   ・   ・   
 8月7日 東郷茂徳外相は、トルーマン声明を聞き、陸軍に原爆が使用されたのかを尋ねた。
 陸軍は、即答を避け、トルーマン声明は日本軍及び日本国民の戦意を砕く為の謀略の疑いがあると答えた。
 トルーマン声明「今から16時間前に、アメリカの航空機一機が日本の重要陸軍基地広島に一個の爆弾を投下した。……これこそ原子爆弾である。」
 「7月26日にポツダムで最後通告を発したのは、日本国民を完全な破壊から救う為にであった。日本の指導者は、早速この最後通告を拒否した。もし彼らが、さらに我が方の条件を受諾しないならば、これまで地球上で見た事のない様な空からの破壊の雨を蒙る事になるであろう」
 連合国各国は、原爆投下は戦争の勝利に貢献するものであるとして、その正当性を認め、その偉業に賛辞を送った。
 日本の国策同盟通信社は、一発の新型爆弾で広島が破壊され、約30万人が被災し、女子供に関係なく数万人が一瞬にして死傷したと伝えた。そして、新型爆弾の使用は非人道的虐殺と非難した。 
 大本営は、関係者を集めて特別委員会を設置して爆弾の究明にあたったが、原爆とは正式に認めなかった。
 河辺虎四郎参謀次長は、広島を破壊したのが、理化学研究所が開発しようとして断念した原爆であったとの報告を受けた。
 陸軍は、関係閣僚会議の場で、原爆かどうかはわからないが強力な破壊力を持った新型爆弾であり、新型爆弾が原爆かどうか調べる為に人を出していると報告した。
 東郷外相は、「日本が和平に応じなければ重ねて他の場所にも投下すると放送している」と警告した。
 日本側としては、再度の原爆投下は避けたいが、天皇の安全が保証されない限り和平に応ずるわけにはいかなかった。
 軍部の強硬派は、国體護持を主張し徹底抗戦を譲らなかった。
 革新官僚(隠れマルクス主義者)は、天皇制を打倒し日本を共産主義化する為に、ソ連軍が参戦し日本に上陸するまでの時間が稼ぎとして徹底抗戦を支持した。
 軍部の徹底抗戦派は、仁科研究室や荒勝研究室を訪れ、原爆製造を声を荒たげて要求した。
 両研究室は、原爆は製造できないと突っ張れて追い返した。
   ・   ・   ・   
 8月8日 有末精三中将と仁科芳雄博士ら大本営調査団は、一日遅れで、航空機に乗って広島に到着した。
 仁科博士は、迫水久常内閣書記官長に、広島を破壊したのは原爆であると報告した。そして、一日でも早い戦争終結を望んだ。
 浅田常三郎は、荒勝文策に従って広島入りし、その被害状況から原爆が使用されたと海軍省に電報を打った。
 『原爆と思われる。対抗すべき手段なし。深甚なる考慮を希望す』
 浅田常三郎「仁科さんは広島の状況を見て、『えらいことになった。どうにもならん』と呟いていたと私たちは聞かされました。荒勝さんは一言も発せずに、じっと瓦礫の山を見ていましたよ」
 政府も軍部も、ポツダム宣言を受け入れるべきか拒否すべきか決められず混乱していた。
 アメリカ軍は、日本が降伏を受諾する前に、二発目の原爆投下実験を終了するべく急いでいた。
   ・   ・   ・   
 アメリカは、二発の原爆投下実験が完了するまでは軍国日本の降伏を受け入れる気はなく、昭和天皇や戦争指導者が降伏を決断する前に二発目の投下実験を行うべく急いでいた。
   ・   ・   ・   
 8月9日 御前会議。昭和天皇は、再度、政府及び軍部に対して早期降伏を希望すると発言した。
 日本国内のアメリカへの協力者は、降伏を決めた御前会議の模様をアメリカに伝えたかどうかは不明である。
 昭和天皇「私の任務は、祖先から受け継いだこの日本という国を子孫に伝える事である。今日となっては、一人でも多くの日本国民に生き残ってもらい、その人達に将来再び起ち上がってもうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。それにこのまま戦争を続ける事は、世界人類にとっても不幸な事である。もちろん、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など、それらの者はみな忠誠を尽くした人々で、それを思うと、実に忍びがたいものがある。しかし、今日は、その忍びがたきを忍ばなければならない時だと考えている。私は、明治天皇の三国干渉の時のお気持ちも考え、私の事はどうなっても構わない。耐えがたい事、忍びがたい事であるが、この戦争をやめる決心をした」 
 全米キリスト教会協議会G・B・オックスナム議長とJ・F・ダレスは、原爆使用は道義に反するとして、トルーマンに投下作戦の一時中止を申し込んだ。
 オクスナム主教「多くのキリスト教徒は、日本の都市に対する原子爆弾の使用に深く心を痛めております。何故なら、原爆の使用は必然的に無差別破壊をもたらし、人類の未来にとって極めて危険な前例となるからです。……原爆は人類に託されたものと見なすべきであり、日本国民に対して新型爆弾に関する事実を確認させ、降伏条件の受諾に十分な機会と時間が与えられるべきである事。そして、日本国民にこれ以上の原爆による破壊がもたらされる前に、日本が最後通牒について考え直す十分な機会が与えられる事を謹んで要請する」
 『カトリック・ワールド』誌編集長J・M・グリル師は、原爆使用はキリスト教文明に打撃を与え、絶対神の道徳律に叛く犯罪であると非難した。
 バチカンと極一部の国際機関は、その被害の甚大さを知るや、原爆使用を非難したが、その他多くの国際機関は沈黙を守った。
 午前2時50分 原爆を搭載したB29のボックスカー号は、テニアン島を離陸した。
 午前6時頃 日本軍の各諜報部隊は、広島に原爆を投下した爆撃隊と同じコールサインを発する特殊任務部隊が日本に接近している事を電波傍受で掴み、大本営に報告した。
 午前10時前 ボックスカー号は、第一目標の小倉上空で45分間も旋回しながら数度爆撃を試みるが失敗して、第二目標の長崎に向かった。
 午前11時2分 長崎に、2発目のプルトニウム型原爆が投下された。
 ソ連軍は、中立条約を無視し、慌てて日本に宣戦布告して、満州と日本領土の南樺太・千島列島への侵攻を開始した。最終目標は、北海道の軍事占領であった。
 日本国内のソ連への協力者は、天皇制度を打倒して人民を解放する為に、ソ連軍の北海道上陸を待ち望んでいた。 
 日本政府は、天皇の聖慮を仰ぎ「国體(直系長子相続の男系天皇制度)を維持する」ことを唯一の条件としてポツダム宣言を受諾する事を決定した。
 外務省は、宣言を受諾し、降伏を受け入れる事を連合国に伝えた。
 昭和天皇は、反宗教無神論共産主義に日本が占領され、124代受け継がれて来た「国體」が消滅する事を最も恐れた。
 海軍は、昭和天皇の指示で中止したはずのF号研究に関する合同会議を開いた。
 会議は極秘扱いとされ、話し合われた内容は不明である。
 トルーマンは、ソ連の参戦を歓迎する演説を行った。
 日本の革新官僚と軍部の一部は、日本国内でアメリカ軍とソ連軍を戦わせる為に、ソ連軍が日本に上陸するまで徹底抗戦を主張していた。
 ユダヤ人科学者達は、原爆投下実験の効果を調べ、破壊力の科学的データを得る為に、一刻も早い広島・長崎入りを切望していた。
 第8技術研究所に提出された山本報告書は、軍部上層部にはわたらず、宮内省の方に渡された。
 岡部尚章「山本という陸軍の少佐の試算によると原子爆弾の数は500を超える……」
 原爆投下プロジェクトは終了した。
 原爆の投下実験と爆破効果のデーター収集が目的である以上は、三発目の勧告・脅迫・恫喝・威嚇はあっても、その被害の甚大さから実施される事はありえなかった。
   ・   ・   ・   
 8月10日 仁科芳雄博士ら科学者と有末精三参謀本部第二部長を団長とする大本営調査団は、合同会議を開いた。
 仁科ら科学者は広島と長崎に投下された爆弾を原爆と認めたが、軍部は依然として原爆とは断定しなかった。
 軍部の本土決戦での不安材料は、44年から日本国内に強制連行された反天皇反日朝鮮人200万〜400万人であった。
 鈴木辰三郎「広島、長崎に投下された事に衝撃を受けました。しかしアメリカに製造開発が出来るなら、日本にも出来るはずだ、もう一度、二号研究を復活させたい、今度は将官クラスを総責任者にして国家的規模で行きたい、そう思いました。私は広島から長崎へ向かった仁科先生の調査団に同行していたのですが、帰りの飛行機の中ではその事を考えていました」
 日本政府は、アメリカ政府に対して、原爆使用はハーグ会議の陸戦の法規慣例に関する第22条及び第23条に違反する行為であると激しく抗議した。
 「アメリカが今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別性かつ残虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁ぜられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり……。いまや新奇にして、かつ従来の如何なる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり。帝国政府はここに自らの名において、且つ全人類及び文明の名においてアメリカ政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべき事厳重に要求す」
 アメリカは、返答の様を認めずとして回答しなかった。
 国際世論は、日本軍による南京虐殺バターン死の行進や連合国兵士捕虜への処刑・虐待などの残虐行為の方が、依り陰険で悪辣な犯罪行為であると信じ、人道的道徳的倫理的に戦争犯罪責任を追及されるのは軍国日本であると主張した。
   ・   ・   ・   
 8月11日 トルーマンのオクスナム主教への回答「私ほど原爆の使用に心を痛めている人間はいません。しかし、私は日本の宣戦布告なき真珠湾攻撃と戦争捕虜の虐殺にも非常に心を痛めました。日本人が理解する唯一の言葉というのは、私達が日本人に対して原爆投下をする事のように思えます。『獣』と接するときは、それを『獣』として扱わなければなりません。非常に残念な事でありますが、それが真実です」
   ・   ・   ・   
 オッペンハイマー「私は、原子爆弾を作ったのが誤りだったと思った事は一度もない。それは、時代の背景の中で考えなければならないからだ。我々は原爆の製造の面でナチスの方がはるかに進んでいると思っていたし、あの恐ろしい兵器をあの悪魔の如き権力者が持つ事が世界の破壊につながると確信していた」
   ・   ・   ・   
 ユダヤ系国際報道機関は、昭和天皇戦争犯罪者として「人道に対する罪」と「平和に対する罪」で裁判にかける事を要求した。
 国際世論は、昭和天皇東條英機ヒトラー同様にホロコーストを行った一味として有罪とする事を訴えた。
 ソ連・イギリス・アメリカ・オーストラリア・フィリピンなどの反日諸国世論は、昭和天皇の処刑を求めた。
 ユダヤ人は、昭和天皇の死を望んでいた。
 世界中で、昭和天皇を擁護する国はなかった。
 戦前の軍国日本人のみが、孤軍奮闘で昭和天皇を守ろうとしていた。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、歴史的事実を全て知った上でなを、昭和天皇の戦争責任を追及している。
 一部の国際派日本人は、歴史的事実を全て調べ、とことん研究した上で、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)制度は日本人の無責任体質及び事勿れ主義の元凶であるとして、自己判断で決断し責任とれる大人の日本人にする為に廃絶すべきであると求めている。
 そして、子供達に歴史的事実を教え、天皇を敬愛せず憎みきるように教えている。
 それが、現代日本の中国・韓国・日本三国共通の歴史教育である。
   ・   ・   ・   
 日本と韓国の被爆者団体は、人権派弁護士や両国の市民団体の支援を得て、日本政府に対して、被爆は日本の誤った軍国政策のせいであるとして、謝罪と賠償金を請求する裁判を行っている。
 反戦平和市民団体は、昭和天皇戦争犯罪者として告発し、侵略戦争を命令し原爆投下を阻止できなかった事などの戦争責任を追及している。
 中国と韓国は、広田弘毅東郷茂徳らは許し難い戦争犯罪者である以上、その霊魂を鎮める為に靖国神社で祀る事は、侵略戦争を正当化する犯罪行為として猛反対している。
 日本人の中に、東アジアの一員として中国や韓国の主張を支持し、戦前の日本を「悪」として完全否定する立場から靖国神社の廃止を求める者がいる。
 現代に生きる彼等は、歴史の事実をくまなく掘り起こし、すべてを深く総合的に研究し、正しく体系的に理解し、誤りのない様に熟慮の上で、不動の信念のもとで歴史を正す為に決然と行動している。
 彼等にとって、知らない歴史的事実はない。
 彼等は、全てを知っている。



 
   ・   ・   ・