✨15)─2・A─陸軍は、昭和天皇の厳命に従い原子爆弾開発を断念した。1945年4月~No.53No.54No.55 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 トルーマンは、日本の降伏前に二発の原爆を投下する最終決断をした。
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 レイモンド・チャンドラー「強くなければ生きられない、優しくなければ生きる資格がない」(『プレイバック』)
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 思うだけで、具体的な行動しなければ何もならない。
 神に、奇跡や恩寵を期待して願うのは無意味で、むしろ感謝して祈るべき。
 思った事を実行する。
 無理だといつて諦めたら、何もならない。
 生きる為には、諦めない。
 人は、人の中でしか生きられない。
 権利には、責任と義務が伴う。
 責任と義務を果たした者だけが、権利を主張できる。
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 柳田国男は、戦争で日本の古き良き民俗文化が崩壊する事を憂い、世の中が変わっても国土に息づいていた祖先からの暗黙知を呼び戻すべく、4月から5月にかけて『先祖の話』を執筆し、自序を敗戦後の同年10月22日に書いた。
 「歴史の知見」から、戦場で戦死する若き兵士や本土で無差別爆撃によって死んで行く若者に対して、死とは絶望ではなく将来に命に希望をつなぐ事であると訴えた。
 死ぬ事によってご先祖様となって、子供達の命を救い、子孫の平和と幸福を見守るのだと。
 人は近視眼的自己撞着の自己一代主義で生きるのではなく、祖先から自分、自分から子孫への永久に続く連続的な絆で生き生かされている存在であると。
 たとえ戦争で不運にも命を落としたとしても、尊敬される立派な祖先となり、その強い意志と力で子孫を救済し擁護して、家の安定と保持する役目があると説いた。
 今この瞬間に生きる「現在の私」は、自分を見守ってくれている御先祖様の御蔭として感謝し、供養と謝恩を疎かにせず繰り返すべきである。
 たとえ命を失っても「未来の私」は、祖先の一員となって子孫を守り、家に留まって家を護るべきであると。
 死後に、立派な御先祖となって子孫を守り世の中を正しき道に導く為に、命ある限りしっかりと生きて欲しいと。
 人は、人生の辛さに涙を流し、肉体の痛さに歯を食いしばり、精神で状況を受け入れ堪え耐えて生きるしかないと。
 戦下の今こそ、今の世への不満や不平あるいは不安を別の所に置いて、身体の力を抜き、背筋を伸ばし、息を整え、無心となって、心を落ち着かせ、心を安らかにしなければならない。
 いま息をして生きている自分を意識する事が大事なのであって、どんな家庭に生まれ、どんな学校を出て、どんな仕事をしてきたかは、一切関係ない。
 自分だけの過去・現在・未来そして日常生活ではなく、祖先と子孫の間にあるつながり・絆としての縦軸で自分を考えて欲しいと。
 日本の伝統的民俗文化は、死者である御先祖の加護を受けて生き、死して後に御先祖となって子孫の未来を支える事であった。
 御先祖がある限り、日本の豊かな精神文化に於いて断絶する事がない。
 御先祖を忘却しない為に、死者の尊厳を踏みにじらない為に、戦死した者の霊魂を顕彰して永遠に残す為に靖国神社護国神社が存在する。
 戦死した者、戦下で死亡した者は、無名ではなく有名な死者として弔う、それが日本の宗教観である。
 ゆえに。日本には、世界各国にある様な、無宗教的な魂・霊魂なき「無名戦士あるいは無名戦没者」の碑などは有り得ない。
 死者の慰霊・弔いを行う時に立てる柱や石は霊魂・魂の依り代として、人々は宗教的儀式として拝礼する。
 真面な日本人であれば、霊魂や魂が宿る粗末な柱や石碑に謙虚な気持ちで頭を垂れるが、霊魂や魂なき巨費を投じて作った石碑には見向きもしない。
 焦土となった国土で民族が復興するには、2000年の永い時間をかけて受け継いできた御先祖からの叡智にすがるしかなく、御先祖の心・志・気概を捨てる事は伝統文化を持った民族の消滅であり、亡国的行為であると。
 「おおよそ国民の意思と愛情とを、縦に百代にわたってつなぎ合わせいた糸筋のようなものが、突如としてすべての人生の表層に現れ来た」
 「我々が百千年の久しきにわたって、積み重ねて来たところの経歴というものを、まるまるその痕もないような国々と、同一視することは許されないのみならず、現にこれからさきの方策を決定するに当たっても、やはり多数のそういった人たちを相手に、なるほどそうだというところまで、対談しなければすまされぬのである」
 「国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒のいう無縁仏の列に、疎外しておくわけには行くまいと思う」
 戦争で戦死した若者達を祖先とする子孫は、今ある自分達の為に犠牲となってくれた祖先を忘れ事なく、死者を蔑ろにするべきではない。
 祖先の尊厳を冒?する事は、自分が、子孫から祖先として忘れ去られ霊魂の慰霊を拒絶され遺棄る事である。
 自分の死後に魂が子孫から祖先として祀られる為には、自分が戦死した祖先の魂を祀り、先祖の魂との対話を続ける。
 過去と未来を断絶させる自分だけが良ければそれで良いという一代主義を避け、伝統的な未来を支える為に過去に向き合うべきである。
 靖国神社とは、逃れられない時代の不運で死んで行く若者達に、必ずや子孫が祖先神・人神として忘れず会いに来て対話してくれるという夢物語を語る事で、死後に安心を与える宗教的精神装置であった。
 戦後。靖国神社は、人神を否定する宗教や反宗教無神論マルクス主義者から集中砲火を受けて廃止を求められている。
 特に、中国、韓国・北朝鮮アメリカは、靖国神社の存在を猛烈に反対している。
 そして、子孫であるはずの反日的日本人も靖国神社の宗教性を完全否定している。
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 日本国内はおろか世界からも、半永久的に、昭和天皇戦争犯罪と戦争責任が問われ続けている。
 昭和天皇を守ろうとしているのは、日本民族日本人だけである。
 昭和天皇の名誉を擁護してくれる外国人は、ほとんどいない。
 世界中が、昭和天皇ヒトラー同様の時効無き戦争犯罪者と断罪している。
 特に、ユダヤ人の昭和天皇への憎しみは強烈である。
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 昭和天皇は、日中戦争も太平洋戦争も避けようとしていたし、講和による早期停戦を希望していた。
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 4月5日 ソ連は、日本に、来年期限が切れる日ソ中立条約の延長を為ないと通告した。
 事実上、延長破棄通告は対日戦参加の意思表示であった。
 それは、国際法違反であった。
 4月6日 第二艦隊司令伊藤整一中将は、開戦時の軍令部副長としてのケジメから戦艦大和の乗船したが、艦隊の乗務員を水上特攻で殺す事には反対であった。
 戦艦大和は、片道の燃料で、護衛機もなく、水上特攻として出撃して撃沈された。
 山岡荘八終戦の為の供物」
 伊藤正徳「大和、武蔵は沈んだが造船技術は沈まなかった」
 吉田満戦艦大和ノ最後』「進歩のない者は決して勝たない負けて目ざめることが最上の道だ日本は進歩ということを軽んじ過ぎた
 私的な潔癖や徳義にこだわつて、本当の進歩を忘れてきた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか、今目覚めずしていつ救われるか
 俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望ぢないか」
 第二艦隊将兵計3,721人が戦死した。
 沈没・戦艦「大和」、伊藤整一第二艦隊司令長官、有賀幸作艦長以下約2,740人。生存者269〜276人。
 軽巡洋艦「矢矧」446人。
 自沈・駆逐艦「磯風」20人。「霞」17人。
 轟沈・駆逐艦「浜風」100人。「朝霜」326人。
 大破・「冬月」12人。「涼月」57人。 
 「雪風」3人。
 「初霜」は負傷者2人。
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 軍国日本は、戦争にせよ、平和利用にせよ、最先端科学の原子力開発を怠って敗れた。
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 日本人青少年2,571人は、沖縄を救うべく神風特攻隊に志願して若い命を散らした。
 沖縄の沖合いで戦死した若き特攻隊員の霊魂は、靖国神社の神として祀られた。
 日本の若者達は、日本領の一部でる沖縄(尖閣諸島)を外敵から護る為に戦死した。
 特攻隊員として戦死した若者達が、犬死に無駄死にというのであれば、沖縄を護って戦死した事は無意味となる。
 昭和天皇と日本が沖縄を見捨てたというのであれば、靖国神社に祀られた特攻隊員の自己犠牲は無価値となる。
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 軍部は、沖縄を捨て石として見捨てたのではなく、本土決戦の準備をする為の時間稼ぎとした。
 其の為に、中国前線から精鋭の第24師団と第62師団を主力として、海軍陸戦隊なども加えて約7万7,000人を配備した。
 さらに、沖縄戦を支援するべく海と空で特攻を決行して、約6,200人を戦死させた。
 出撃できる海軍艦艇を失った日本海軍には、アメリカ海軍の大艦隊に包囲された沖縄にできる支援はもう残されては居なかった。
 日本軍将兵沖縄県民も、昭和天皇と日本国家から捨てられたと考える事なく、絶望的な攻防戦を勇敢に戦った。
 戦後日本の反戦平和市民団体や反日的日本人が、沖縄は捨て石として見捨てられたと主張するならば、戦死した日本人達の「志」を冒涜し尊厳を踏みにじる、非人間的行為である。
 ゆえに、昭和天皇は沖縄への思い入れが強かったが、沖縄は昭和天皇の慰霊の旅を拒否続け、昭和天皇はその思いを叶えられず崩御された。
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 4月12日 ルーズベルトは死去し、副大統領トルーマンが新大統領に就任した。
 トルーマンは、ルーズベルトの諸政策を全て踏襲した。
 国民世論や議会が昭和天皇戦争犯罪者として厳罰を求めている以上、無条件降伏を緩めて天皇制度の存続を認める事はできないというのが、基本方針であった。
 4月25日 スチムソン陸軍長官は、トルーマンに最高機密のマンハッタン計画を説明した。
 4月28日 ムッソリーニは、自国民によってリンチ的に処刑され、見せしめとして愛人と共にミラノ広場で逆さまに吊された。
 イタリアは、「無条件降伏」を受け入れた。
 4月30日 ヒトラーは、ドイツ軍に国土を焼き払い、国内にある全ての美術品や民族的文化施設を完全破壊し、全国民を殺害する様に命じて、自殺した。
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 5月 梅津美治郎参謀長は、昭和天皇に、松代の新大本営建設工事が完成した事を報告し、御移動を要請した。
 昭和天皇は、「国民と一緒にここで苦痛を分かち合う」として疎開する事を拒否した。
 5月7日 ドイツは指導者を失い、国家が崩壊して「無条件降伏」した。
 ドイツ国民は、情報統制にってなにも知らされず騙されてたと主張し、全ての戦争犯罪ヒトラーナチスに押し付けて無罪を主張した。
 責任転嫁が、ドイツの戦争責任の取り方であった。
 連合国が求めた「無条件降伏」の原則とは、こうした無条件降伏であった。
 日本の臣民は、昭和天皇の安全と国体護持を最低条件として戦っていただけに、連合軍が要求する無条件降伏に絶望した。
 ニューヨーク・タイムズ紙「この国の民族は非常に優秀だが、ナチスによって道を間違った。我々は、彼らが速やかに立派な国を造る為、あらゆる手立てw講じて協力しよう」
 アメリカ人は、人種差別から、非白人の日本人とは違って白人であるドイツ人には同情的であった。
 5月10日 アメリカの原爆投下の目標選定委員会は、京都、広島、横浜、小倉をリストアップした。
 5月15日 アメリカ陸軍爆撃部隊は、東京空襲のついでに理化学研究所の熱拡散塔を破壊して、原爆開発研究の続行不可能とした。
 関係者の間で、なぜ、最高機密扱いとされていた熱拡散塔が爆撃されたのか疑問とされた。
 一部で、日本国内に潜むスパイがアメリ諜報機関にリークしたのではないかとささやかれていた。
 陸軍は、原爆開発を続行するべく地方都市に研究施設を再建するべく準備を開始した。
 一部の技術将校や研究者等は、技術的には、理化学研究所の熱拡散法では10%の濃縮ウラン10キログラムを製造する事は不可能との報告書を提出した。
 海軍が取り組んでいた、京都帝国大学の遠心分離法による遠心分離機の設計図がようやく完成し、その材料調達が始まった。
 海軍は、チェコのウラン鉱山から二酸化ウラン560キログラムをドイツ海軍潜水権を利用しようとして運ぼうとしたが、ナチス・ドイツが無条件降伏し、潜水艦(Uー234)もウラン鉱石と共に連合国側に投降して、同作戦潜水艦は失敗した。
 上海の闇市場で130キログラムの二酸化ウランを購入しようとしたが思うようには行かず、原爆の材料であるウラン235の確保は絶望的となっていた。
 5月28日 大本営は、ソ連軍侵攻に備えて、関東軍に対して満州北部と西部を放棄して東部に主力部隊を配置するように命じた。
 5月下旬 仁科芳雄は、陸軍航空本部の鈴木辰三郎少佐に、ウラン爆弾の製造は不可能であると伝えた。
 阿南惟幾陸相は、二号研究が中止されたとの報告を受けた。
 陸軍の一部将校は、理研の科学者に原爆製造の継続を脅迫的に要請した。
 科学者側は、「研究を続けるだけの施設も材料も失われた」として、中止を譲らなかった。
 理研と科学者達は、東京から地方に疎開して、戦後の原子力エネルギーの為に細々と研究を続けた。
 陸軍の技術将校は、陸軍が集めたウラン含有鉱石を海軍側のF号研究に渡すべく行動を起こした。
 陸軍は、昭和天皇の講和交渉への希望を受けて、二号研究を放棄した。
 徹底抗戦派は、国體護持の為にも原爆開発の継続を望んでいた。
 海軍のF号研究は、京都帝大を中心に秘かに続けられていた。
 日本の原爆開発予算は、最高軍事機密事項であった為に知る者は極一部でしかなかった。
・二号研究(熱拡散法)
  予算 2,000万円(当時の約500万ドル。現在の300億円)
  研究者 20名
マンハッタン計画(気体拡散法・隔膜法)
  予算 22億ドル(当時の103億4,000万円、当時の1ドル=4.7円)
  動員数 12万5,000人。
  中心的科学者や技術者の大半が亡命ユダヤ人。
 マンハッタン計画の科学者は、理研と京都帝大の原爆開発データの入手を求めたといわれている。
 スチムソン陸軍長官は、東京の二号研究が中止され開発研究資料が焼失した為に、F号研究のある京都を原爆投下目標から外すように命じたといわれている。
 京都や奈良が爆撃されなかったのは、日本の文化財を戦火で失うのが忍びなかったからではない。
 京都と奈良にある文化財が、高値で売買できる商品だからである。
 大陸の戦争では略奪が付きものである。
 それは、今も昔も変わらない国際常識である。
 キリスト教国である欧米諸国は、植民地から略奪した文化財を陳列する為に博物館を建設した。その好例が、大英博物館である。
 敗戦国の国民は、戦勝国が欲しがるモノであれば、自国の大事な文化財でも惜しげもなく売って金に換えた。手許になければ、博物館や寺院や王宮を襲撃し、制止する者は誰彼関係なく殺してまで略奪して売った。
 大陸文化の多くは、死滅した民族の死んだ文化である。大陸の文化財は、生命力のない死んだ文化の残骸、優れた技術力のみを証明する非宗教の学術的遺物にすぎない。つまり、単なる研究材料である。
 日本の文化は、古代から生き続けている文化であり、古代の命・魂・霊が宿る生きた文化財である。信仰心篤い日本人による略奪行為は少なく、その多くが国外に売られて散逸する事なく国内に残った。
 但し。今後。反宗教無神論を標榜する科学至上主義日本人が増加すると、宗教的日本文化もどうなるか分からない。その好例が、特定の宗教を排除した国立戦没者墓地建設を求める靖国神社問題である。
 日本軍は世界の常識が理解できなかったがゆえに、日本軍兵士による戦場での略奪行為が少なかった。
 連合国軍は、戦費で消費した費用を、日本の文化財を奪って埋め合わせしようとしただけである。
 資本主義は、あくまでも「費用対効果」である。
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 6月 昭和天皇は、東京大空襲の惨状を視察し、戦争の継続は国家の破滅、民族の死滅をもたらすとして、戦争終結の研究を始める事を希望した。
 日本は、バチカンが中立にこだわって講和交渉の橋渡しを渋っていると判断し、信用できない相手ではあるがソ連を仲介役に利用する事を決めた。
 アメリカは、日本側の暗号を全て解読して、日本が終戦交渉を望んでいる事を知っていた。
 その頃。バチカンを舞台に、アメリカの情報機関OSSとバチカン駐在日本公使館が水面下で、終戦交渉の糸口を見出す為の接触を始めていた。
 日本政府としては、ホワイトハウス国務省関係者ならば信用したであろうが、相手が謀略機関であるOSSではにわかに信用できなかった。
 そして、バチカン・ルートによる和平工作に不満を持ったのがソ連であった。スターリンは、日本の一部を領土として確保する前に、戦争が終結する事には反対であった。
 バチカンも、ソ連の対日参戦を知らされていた為に、昭和天皇が望んでやまなかった和平への仲介を取るとの意思表示を避けていた。
 6月1日 アメリカの政府・軍隊・科学顧問団からなる暫定委員会は、原爆投下実験についての最終決定を行った。
「1、原子爆弾を出来る限り速やかに日本に対して使用すべきである。
 2、原子爆弾は二重目標 ─ 即ち周囲もしくは近接地に最も破壊されやすい家屋(一般民家)や建物(民間ビル)のある軍事施設、もしくは軍事工場地帯に対して使用すべきである。
 3、爆撃は事前警告なしに使用すべきである。」
 実験に使用する原爆は、ウラン型とプルトニウム型の二種類であった。
 6月19日 トルーマンは、ホワイトハウスで、軍首脳部が立案した日本本土上陸作戦を検討する会議を開いた。
 マーシャル参謀総長は、上陸作戦に伴う死傷者数の予測は難しいと報告した。
 作戦担当者は、空爆海上封鎖で日本軍の抗戦能力を破壊しているので、戦死は約22万人と予想していた。だが、具体的数字を挙げるのは適切ではないと意見具申していた。
 マッカーサーは、九州上陸作戦の被害予想を求められて、10万5,000人と答えた。
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 6月22日 革新官僚と統制派エリート軍人は、民主主義より共産主義こそ日本に馴染む以上、国體を守る為にソ連中国共産党と同盟を組むべきだと訴えていた。
 参謀本部は、参謀本部第二十班(戦争指導班)が4月29日に作成していた「今後の対ソ施策に対する意見」と「対ソ外交交渉要綱」を、東郷外相に提出した。
 意見書は、対米英戦争継続の為に対ソ戦を回避するべきであると強調し、対ソ依存度を強めて日ソ同盟を締結して、ソ連の要求を全て受け入れて日ソ中(延安の中国共産党政権)連合の道をとるべきだと主張した。
 そして、「ソ連の言いなり放題になって眼をつぶり……満州遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や朝鮮をかなぐり捨てて、日清戦争前の態勢に立ち返り、対英米戦争を完遂せよ」と。
 隠れマルクス主義者である革新官僚の主要メンバーは偽装転向者で、日本を敗北させて共産主義化しようという「敗戦革命」工作を行っていた。
 統制派エリート軍人も、軍国日本を一等国にする為にはマルクス主義の計画経済が欠かせないと革新していた。
 共産主義ファシズムニューディールも、その実態はマルクス主義であった。
 ゆえに。革新官僚や統制派エリート軍人は、アメリカの民主主義よりもソ連共産主義に親近感を持ち、中国共産党と水面下で接触していた。
 日本の本当の危機とは、日本国内の体制内部に存在していた。
 御前会議。昭和天皇は、「戦争の終結についての具体的研究を望む」と異例の発言した。
 A級戦犯東郷茂徳外相と広田弘毅元首相は、昭和天皇の早期戦争終結という希望を叶える為に、和平交渉準備に取り掛かった。近衛文麿元首相に、和平交渉を行う為に、ソ連への特使を依頼した。
 近衛文麿は、神国日本での共産主義革命勃発の可能性が増大しているとの危機感から、特使依頼を受けた。
 天皇側近は、共産主義者の暗躍が神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)制度の破壊につながるとして、徹底抗戦派や革新官僚らの妨害を避けながら和平成立に動いていた。
 沖縄守備隊玉砕。日本側軍人・軍属・民間人の戦死傷者18万6,500人。
 日本国内に、反日感情を抱く朝鮮人200万〜400万人が輸送船を使って強制連行されていた。
 日本の決定から7時間後。
 イギリス軍諜報機関は、スイス・ベルンの中華民国政府駐在陸軍武官から重慶・軍参謀本部への暗号機密電報を傍受した。
 駐在武官は、同情報の入手先をベルンのアメリカ情報機関からの最高機密情報と伝えた。
 「国家を救う為、現在の日本政府の重要メンバーの多くが完全に日本の共産主義者達に降伏している。あらゆる分野部門で行動する事を認められている彼らは、全ての他国の共産党と連携しながら、モスクワに助けを求めようとしている。日本人は、皇室の維持だけを条件に、完全に共産主義者達に取り仕切られた日本政府をソ連が助けてくれるはずだと提案している」
 ベルンの国民政府駐在武官は、日本がアメリカと極秘で和平交渉を行っている事も、日本がソ連を仲介として停戦を申し込んでいる事も、アメリカ側からの情報提供で知り重慶に伝えてた。
 世界中が、昭和天皇と軍国日本が早期停戦を望み秘密交渉を初め様としている事を知っていた。
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 6月23日 沖縄戦終結
 6月28日 陸軍は、仁科研究所が原子核エネルギーの利用は不可能との最終報告を受け、アメリカに於いても利用は出来ないであろうと、自己満足的に判断して原爆開発を断念した。
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 7月7日 アメリカ軍合同情報委員会は、対日戦に関する情報分析の報告書をおこなった。
「1,日本政府は、同盟国ドイツの降伏、沖縄戦における敗北、本土の無差別爆撃による破壊で、日本の軍事的勝利は不可能である事を確信している。
 2,日本軍は、アメリカ軍の上陸作戦に備えて本土決戦態勢を固めているが、天皇をはじめとしたリベラル派は戦争を政治的に終わらせる事を希望している。徹底抗戦の主張は、和平交渉で名誉・体面を保つ為に有利な条件を引き出そうとしている虚勢にすぎない。
 3,彼等は、ソ連の参戦は即敗北につながると信じているだけに、ソ連参戦が確実と見れば、参戦前にソ連を仲介として和平を申し込む可能性がある。
 4,無条件降伏を、ドイツやイタリアの例から国家の消滅と受け止め、ヒトラームッソリーニの例から天皇の命が危険に晒されると恐れている。連合国の条件次第で、日本は降伏を受け入れ、天皇を救い、国家の崩壊を救う為に、軍隊の武装解除とアジア・太平洋の植民地を放棄などの譲歩を受け入れる可能性がある。
 結論として、無条件降伏にこだわらなければ、日本の降伏は今日でもありうる。」
 7月10日 関東軍は、ソ連軍に対する持久戦の兵員増強の為に、満州在留日本人男子を根刮ぎ動員し、約20万人を召集した。
 朝鮮人までも動員したかは不明である。
 7月12日 参謀次長河辺虎四郎中将は、戦況打開の切り札として原爆開発に期待をかけていただけに、二号研究の中止を決断をする事に落胆した。
 7月16日 オッペンハイマー博士等は、人類史上初めての原爆実験に成功した。
 「我は死神なり。世界の破壊者なり」
 日本軍部の諜報機関は、アメリカ軍がニュー・メキシコで強力な破壊力を持った新型爆弾の実験に成功した事という情報を入手した。
 アメリカ軍暗号解読班は、東京の東郷茂徳外相からモスクワの佐藤尚武駐ソ大使に対する暗号電文を解読し、ワシントンのグルー国務長官代理に報告した。
 天皇が戦争の早期終結を望んでいるが、政府・軍部は連合国が無条件降伏にこだわる以上は、日本兵は最後の一兵、国民は最後の一人になっても戦い続ける。
 政府は、天皇の希望に従って、ソ連に戦争終結に協力を依頼する為に近衛文麿天皇親書を持たせて特派する事を決めた。早急に、モロトフ外相に特派受け入れを要請せよ。
 グルーは、ポツダムに向かうトルーマンに「早期降伏へのドアが開いたのではないかと推察する」との緊急電報を送った。
 フォレスタル海軍長官は、報告書を読んで、天皇は戦争終結を強く希望していると受け止めた。無条件降伏の原則にこだわって日本を追い詰めるべきではないと、トルーマンに働き掛けた。
 スチムソンル陸軍長官は、日本が和平を望んでいる事は明らかであるから、天皇の安全を保証する条件で降伏する様に要求すべきであると進言した。もし降伏を拒否したら、ソ連は対日戦に参加し、原爆の使用を準備していると警告を発する。それでも降伏を拒否すれば、原爆を日本国内に投下し、降伏するまで原爆を使用する。
 バーンズは、この時点での日本の降伏を認める事を拒否し、原爆投下を警告する事にも反対した。全ては、全軍の最高軍司令官であるトルーマン大統領の政治的判断によるものとした。
 ポツダムにおけるアメリカの陸海空軍参謀本部合同会議。会議は、「日本は海上封鎖と空爆で壊滅状態にあり、原爆を使用しなくとも降伏する」との結論を出した。
 軍の制服組は、原爆の使用は必要ないという事で意見が一致していた。
 議長役の海軍提督リーヒー首席補佐官は、原爆投下についての質問に、20億ドルという巨額の予算を使い、原爆を使用せずに戦争を終結させては議会から浪費と厳しく追求される恐れがあると説明した。
 日本降伏前の原爆投下は、文官・背広組による議会対策の為に強行された。
 米英軍合同参謀本部会議。イギリス側は、無条件降伏にこだわらず、日本に天皇制度は解体しない事を知らせてはどうか、との提案をした。
 天皇をなくしては日本は大混乱に陥って収拾がつかず、統制を失った日本軍による抵抗が数年は続いて厄介な事態になると、懸念を表明した。
 アメリカ側は、天皇制を含む問題は政治レベルの問題であると即答を避けた。日本に対する無条件降伏要求は、ソ連の対日宣戦布告のタイミングで出されるべきであるとした。
 会議は、無条件降伏条項から天皇制度廃止を削除するかどうかは、トルーマンチャーチルの首脳会談で取り上げる事を要請する事に決めた。
 トルーマンは、実験が成功する日程に合わせてポツダム会議を引き延ばしてきた。 
 原爆実験が成功した。
 7月17日 スターリンモロトフは、トルーマンの宿舎を訪れ、バーンズを交えて会談した。
 スターリンは、ヤルタ密約で保証された中国利権の回復と北海道領有を条件として、8月中旬に日本との戦争に参加する事を伝えた。
 7月18日 東郷外相は、佐藤駐ソ大使に、天皇制度存続を条件として降伏する用意がある事をソ連側に伝え、和平仲介の依頼を急ぐ様に電報を打った。
 同情報は、ポツダムスターリンのもとに報告された。
 アメリカ軍諜報部は、この情報をキャッチしていた。
 チャーチルは、スターリンからの依頼で、日本が和平仲介を求めている事をトルーマンに伝えた。
 トルーマンは、無条件降伏の原則を緩め、日本の名誉を保ち、国家としての存続を保証する様な戦争終結は認められないと答えた。「真珠湾攻撃以降の日本には、軍事的名誉なんかない」
 トルーマンは、先日の訪問に対する答礼としてスターリンの宿舎を訪れた。
 スターリンは、日本側からの和平の仲介を依頼されている事を披露した。
 トルーマンは、その事実を知っていたが素知らぬふりをして、日本の天皇制度存続という条件付き降伏を取り上げない様に要請した。
 日本側の、原爆投下以前での有条件降伏要請は完全に拒否された。
 日本が原爆の惨禍を避ける方法は、天皇制度を廃止し、昭和天皇戦争犯罪者として連合国側の法廷に引き渡す以外に無かった。
 天皇の安全と国體護持の為に、玉砕し、特攻を繰り返している臣民たる日本人に出来るはずがなかった。
 トルーマンのもとに、原爆実験成功の第二報が届けられた。
 7月21日 琵琶湖ホテル。F号研究に携わる海軍技術研究所科学研究部長黒田麗少将と一部の技術将校、京都帝大の荒勝文策教授とそのグループ、理論の湯川秀樹教授、大阪帝大の奥田毅教授、名古屋帝大の坂田昌一教授らは、今後の原爆開発について合同会議を開催した。
 研究者側は、「理論的にはまったく可能だが、現状の日本の国力などから考えても無理だといって構わないと思う」として、F号研究の中止を訴えた。
 海軍側は、原爆完成に向けての研究継続を要求した。
 海軍による原爆開発計画も、陸軍同様に、核兵器に反対する昭和天皇の強い希望によって中止された。
 「昭和天皇の希望により、大量殺傷兵器である原子爆弾の開発と日本核武装計画は潰えた」
 が、一部の海軍技術将校らは、陸軍技術将校らと同様に原爆開発の続行を望んだ。
 荒勝研究室は、原爆開発ではなく原子力エネルギー研究を続けた。
・F号研究(電磁分離法。遠心分離法)
 予算 500万円 (現在の約7億円)
 7月22日 トルーマンは、この日に、日本に原爆を投下する最終決断をしたといわれている。
 なぜ、降伏を希望している日本に原爆投下を強行したかは疑問とされている。
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