✨10)─1─陸軍航空総監東條英機中将は戦闘機「隼」と原爆開発研究を許可した。アメリカでの新薬人体実験。1940年~No.32 @ 


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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ハーバート・ビックス「ヒロヒトは操り人形ではなく黒幕だ」
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 エドマンド・バーク(イギリスの哲学者)「社会は人の私欲を制御する権力が何処かになくては存在し得ず、かつ、その権力が個人の内に少なければ、それだけ、より強力なる権力が個人の外の何処かになければならない。節度なき心の持つ人は自由たり得ぬ事は、物事の永久の本質に定められている」
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 カント「自己愛は、私達の全ての確立の原理として仮定されると、あらゆる悪の源泉にほかならないのである」(『たんある理性の限界内の宗教』)
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 軍部は、国家総力戦として、国立の単科大外や総合大学に対し国防に貢献する実学を重視する組織改革を迫った。
 国立総合大学は、国策に従って、最新兵器を開発する為に即戦力的人材養成と科学技術の研究をおこなうべく理工系を充実する組織改革を行った。
 西洋の大学は、中世に神学部を主学部として建学され、哲学、医学、化学、文学へと発展したが、科学や技術は産業革命の近代に入るまで軽視されていた。
 日本の国立大学は、西洋列強の侵略から日本を防衛するには急速な近代化しかないとして、実社会に即役立つ実学と医学そして教員養成に重点を置いて建学された。
 日露戦争勝利後に、国立大学の役目は変わった。
 国立大学は、ロシアの侵略という最大の危機を乗り切り、清国と朝鮮が敵日的行動を放棄した後、総合大学として歴史、文化、文学、哲学、教養といった目に見えない人文社会学に力を入れるようになった。
 国家的危機がされば、認識が変わり、学ぶべき学問も変わった。
 国際社会に出て、他文化の外国人と交流しても臆する事のない教養を身に付ける為に、物事を多面的に見る目や様々な価値観を尊重する幅広い教養と深い洞察力を学生に教育した。
 日本の国立大学は、西洋の大学とは建学当時の発想が違い、最初から国家に奉仕するエリートを養成する学問所として建学されていた。
 だが。平時から戦時に変われば、国策の国立大学は人文社会学系から実学、医学、教育へと組織改革を行った。
 日本は、絶えず、崖っぷちに立たされ、剣が峰を歩く定めゆえに、欧米列強のように悠長に構えて鷹揚な行動できる「ゆとり」は全くなかった。
 欧米列強は「持てる国」の集合体であるが、日本は「持たざる国」の単体であった。
 持たざる国の単体国家・日本が、持てる国の集合体・欧米列強と同じ考えで同じ事をやっていては生き残れない。
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 1938年 日本で、ウラン鉱山の開発が始まった。
 12月 ドイツの原子物理学者は、実験室の研究結果で、中性子をウラン235の原子核に当てると原子核が分裂して巨大なエネルギーを生み出す事を見つけ出した。
 この発見は、世界の原子物理学者にも知れわたった。
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 1940年 河合栄治郎「他人の批評なるものは、何人に対しても起きるものではない。何らかの存在価値があり、その存在を無視しえない人物に対してのみ起こる」(『学生に与ふ)
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 日本政治専門家チャールズ・B・ファーズは、左翼系ユダヤ人が主催する太平洋問題調査会から『日本の政府』という書物を出版した
 理化学研究所仁科芳雄博士は、陸軍航空技術研究所所長安田武雄中将に、原爆開発に関する可能性を報告した。
 安田中将は、部下の鈴木辰三郎少佐に原爆開発に関する調査を命じた。
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 アメリカの医学関係者は、マラリアの新薬の効能を検証するべく、人体実験としてシカゴの囚人(400人)にマラリアを感染させ新薬を投与した。
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 2月 イギリス。バーミンガム大学のオットー・ロベルト・フリッシュとルドルフ・パイエルスという2人の亡命ユダヤ人物理学者は、少量の高純度ウラン235単独で核分裂の連鎖反応は可能であるという、「フリッシュ・パイエルスの覚書」を政府に提出した。
 イギリス政府は、ウラン型原の可能性を探る為に「モード委員会」を設置した。
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 4月 理化学研究所仁科芳雄博士は、欧米諸国の科学者の間で話題になっている原爆開発が日本では遅れていると、陸軍航空技術研究所長安田武雄中将に直訴した。そして、日本も欧米諸国に負けないようにウラン爆弾の研究を急ぐように進言した。
 安田中将は、工兵出身の将校で、大正時代にはドイツ軍の兵器を研究していた。
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 5月 安田武雄所長は、所員の鈴木辰三郎中佐に「原子爆弾は造れるのか」を調査するよう指示した。
 ドイツ軍は、フランスに向けて電撃戦を開始した。
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 6月22日 フランスのペタン政権は、コンピエーニュの森で、ナチス・ドイツとの休戦に調印して降伏した。
 永世中立国スイスは、自国民に対して「侵略を受けた時は徹底して戦い、絶対に降伏してはならい」と言う法律を制定し、女も子供も全ての国民が侵略軍に対してゲリラ戦を仕掛ける様に命じた。
 世界に対して、「領土に侵入した他国軍に対しては徹底して戦い、領空を侵犯する飛行機は連合国、枢軸国を問わず撃墜する」、そして祖国防衛に敗れたら国土を焼き払って侵略国に草木一つたりとも与えないと宣言した。
 スイス国民は、祖国を守る為に武器を取った。
 スイス空軍は、大戦中に領空に侵入した飛行機250機を撃墜したが、200機を失って壊滅した。
 スイスは、武器を持たない非暴力無抵抗主義ではなく、武器を持ち戦う事によって永世中立を守った。
 中立国とは、他国に認められ誰かから与えられる地位ではなく、武器を持ち戦って勝ち取る称号である。
 戦わなかった中立国は、ドイツ軍に侵略され軍事占領された。  
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 7月 ルーズベルトは、世界戦争に参戦するにあたり、陸海軍の情報部隊とは独立した政府直属の中央諜報機関の立案をウィリアム・ドノヴァン大佐に命じた。
 7月18日 リトアニアの日本領事館の前に、ポーランドユダヤ人が通過ビザを求めて殺到した。
 杉原千畝領事館は、困惑した。
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 9月 昭和天皇は、過去の事例からソ連に次いで国際条約から個人的約束まで守らず踏みにじるナチス・ドイツとの同盟は、日本に不利益をもたらす元凶になるとして再考を求めていた。
 昭和天皇「独伊のごとき国家とそのような緊密な同盟を結ばねばなれぬ様な事で、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」
 昔の日本は、自分を犠牲にしても子孫の代の身の上を心配して行動していた。
 つまり、先々の事まで考慮に入れながら、今の現状に対応していた。
 そこには、責任逃れの事なかれ主義も、問題を先送りする無責任もない。
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 10月 鈴木少佐は、東大の嵯峨根遼吉教授等と相談し、「原子爆弾は出現する可能性がある」との報告書を提出した。
 陸軍による、原爆開発である暗号名「二号研究(仁科芳雄博士の姓から『二』をとって)」の始まりである。
 日本軍部は、資源らしい資源を持たず、欧米列強に比べて国力や軍事力に劣る日本が勝利する為には、原子力をエネルギーとしてではなく兵器として開発する必要があると判断した。
 軍上層部は、日本の様な小国にとって原爆を開発し、核武装する事は安全保障上どうしても必要であると決断した。対戦相手と予想されるアメリカやソ連に原爆開発で先を越される事は、日本にとって決定的な不利になると考えた。
 当時の航空総監は、手続きに五月蠅い几帳面な軍人官僚である東條英機中将であった。部下の独断専行を嫌う事務屋である以上、巨額の費用を必要とする原爆開発は上官である東條総監の決裁を得ていた。
 東條英機は、陸軍航空隊の最優秀戦闘機「隼」の製作を許可していた。
 安田武雄「日本は、小さな国だろう。幾ら飛行機を作ってみたってアメリカには及ばない」
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 理化学研究所の責任者である大河内正敏所長。
 仁科芳雄は、航空本部の問いに対して、ウラン爆弾製造開発は理論的、技術的に可能性であると報告した。
 ウラニウム235をウラン原石の中から分離する事が必要で、1キロ分離するする事で火薬1万8,000トンの爆発力だと説明した。
 本心では「今次の戦争ではウラン爆弾は日本では作れない」と思っていた。
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 陸軍内部の東京第2造兵廠の技術将校達は、仁科研究室とはまったく別にウラン爆弾の研究を進めていた。
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 40年末 ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のノーマン・フェザーとイーゴン・ブレッチャーは、新元素94番の核分裂の可能性についての報告書をモード委員会に提出した。新元素94番は、後にプルトニウムと名付けられた。
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 紀元二千六百年記念行事とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元皇紀)2600年を祝った一連の行事を指す。本ページでは記念行事に記念事業も加えて記述する。
 概要
 西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の「恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」(総裁:昭和天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王、副総裁:内閣総理大臣近衛文麿、会長:徳川宗家第16代当主・徳川家達)を創設。「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められていたため、これらの行事は押し並べて神道色の強いものであった。神祇院が設置され、橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された。また、研究・教育機関では、神宮皇學館旧制専門学校から旧制大学に昇格した。
 日本政府は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また日中戦争支那事変)の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうとしたこともあり、1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催された。
 1940年(昭和15年)11月10日、宮城前広場において昭和天皇香淳皇后臨席の下、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。
 長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」(祝い終わった さあ働こう!)の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。」
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