関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
司馬遼太郎「歴史には、感情がある。18、19世紀から20世紀にかけて、帝政ロシアおよびその後のソ連が、近隣の国々に恐怖という感情を持たせつづけてきたことを忘れては、世界史も日本史も理解できない」
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山川均・向坂逸郎・高橋正雄著「自分で巣を作らず、外の鳥のつくった巣の中に自分の卵を追っ払って乗っ取る」(『日本の革命を語る』)
共産党は、ホトトギス政党であった。
ホトトギスは、寄生的な繁殖習性で、ウグイスの巣を利用した。
日本共産党は、天皇制度を廃絶し日本を共産主義化するべく、利用できる政党に入り込み乗っ取り、政権を内部から操ろうとした。
そして、シロアリの様に民族国家日本の土台を食い荒らし、内部から破滅しようとしていた。
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レーニンは、日本を共産主義国家にする為には敗戦革命しかないとして、日米戦争を起こすように命じた。
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対日包囲網としての、ソ連・コミンテルン、中国共産党、日本共産党。
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マルクス主義者は、帝国主義戦争に反対する平和勢力といわれていた。
コミンテルンは、絶対平等の「人類の理想」を掲げた。
軍国日本は、平和勢力と闘っていた。
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日本には、日米戦争を起こそうとしたレーニンを偉大な指導者と崇め、その思想を学び実践しようとした日本人達がいた。
彼らは、大学などの最高学府を卒業した優秀で有能なエリート達であったが、人としての持っているはずの思考の一部が停止していた。
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レーニンの思想を正統に引き継いでいるのは、中国共産党である。
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瀬長亀次郎(日本共産党副委員長)「弾圧は抵抗を呼ぶ、抵抗は友を呼ぶ」
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1901年 日本で初の社会主義政党である社会民主党が組織された。
1903年 清国は、中国の近代化を日本に学ぶべく、優秀な中国人約1,000を日本に留学あせた。
日本は、中国の近代化の為に彼らを支援し、親日派中国人を増やす事に力を入れた。
片山潜は、中江兆民と共に「平民新聞」を創刊した。
片山潜は、抑圧された人民を救済するには宗教ではなくマルクス主義であるとして、キリスト教を捨て社会主義者となった。
平民新聞は、エンゲルス著『空想から科学へ』など社会主義・共産主義に関する多くの文献を翻訳して出版した。
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1905年 日露戦争。
日本は、ロシアの侵略から祖国日本を守る為に戦争をした。
それは、正しい戦争であった。
敗れたロシア人は、人種差熱主義者として、日本を絶対に許さず、絶えず復讐戦の機会を狙っていたが、日本陸軍の実力を恐れていた。
日本に勝つ為には、日本陸軍を弱体化させ無力化する必要があった。
中国では日本が日露戦争に勝利した事で、日本への留学熱が高まり、日本へ中国人留学生約8,000人が押し寄せた。
中国人留学生の内で、日本と友好関係で西洋列強からアジアの独立と平和を築こうという考えは少数派であった。
大半は、日本と再度戦って日本軍を撃破して中国人の自信を取り戻し、アヘン戦争の復讐戦を勝利して中華帝国の威信と栄光を復活させる事を誓っていた。
中国は、反日であり、親日ではない。
知日とは、日本に勝つ為に日本を知ろうという事であって、友好の為ではない。
日本陸軍は、戦争勝利の為に、レーニンら共産主義革命家等に活動資金を提供した。
ロシア人活動家等は、明治天皇の写真を飾って、ロシア帝国と戦う日本を称えた。
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1906年 日本最初の合法社会主義政党(無産政党)である日本社会党が結成された。
陳独秀ら中国人留学生は、日本語に翻訳された社会主義や共産主義の文献を読み革命家となった。
中国共産党の芽は、日本で生まれた。
1911年 孫文ら革命派は、日本右翼勢力の力を借りて辛亥革命を起こした。
2月12日 清王朝が崩壊して、アジアで初めての皇帝なき共和制国家・中華民国が誕生した。
1912年 袁世凱は、軍事力を背景にして中華民国初代大統領に就任した。
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1914年6月28日 オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が、サラエボで暗殺された。
第一次世界大戦への引き金となった重大事件である。
如何なる理由があろうとも、国家元首とその家族を暗殺若しくは暗殺未遂を行う事は、弁解の余地がない重大犯罪である。
事件を起こした民族や国家は、報復として攻撃され、虐殺されても、文句は言えない。
報復攻撃を戦争犯罪として非難する国は、存在しない。
世界は、国家元首へのテロは許さない。
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1915年 袁世凱は、中華の混乱は伝統的な皇帝制でなければまとまらないとして皇帝に即位した。
陳独秀は、社会主義・共産主義の日本語訳文献を携えて帰国し、新文化運動を始め、知識人層を啓蒙する為に伝統的儒教価値観を批判する雑誌『新青年』を刊行した。
憂国の念に燃える知識人層や学生達は、欧米列強や日本に敗れ沿岸部を租借として奪われ、植民地支配が進む事を憂い、腐敗堕落でなすすべをしらない無能さに苛立ちを覚え、陳独秀らが始めた社会主義運動を支持し始めた。
1916年 袁世凱は、独立派を中心とした反帝制運動の盛り上がりで失脚し、失意の内で憤死した。
中国は中華民国と幾つかの軍閥が割拠して、武力統一を目指す激しい内戦状態に突入した。
日本は欧米列強は、中国在住の自国民の内戦から保護する為に、過去の諸条約を根拠にして最小限の軍隊を合法的に駐屯させた。
もし。軍国日本が、中国の内戦から日本人居留民を保護し、戦争に巻き込まれたくなかったら、中国に住む全ての日本人居留民を見捨てるか帰国させるべきであった。
中国人が、中華思想で日本との対等関係による友好を望まない以上、上下関係を巡っての日中戦争は避けられない運命にあった。
中国人留学生は、その目的の為に日本に留学していた。
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1917年 ロシア革命。レーニン率いる共産主義者による大虐殺。
共産主義者は、血に餓えていた。
共産主義の大義を成功させる為ならば、数百万人でも、数千万人でも、虐殺しても罪の意識を抱かなかった。
共産主義国は、大虐殺の上に建国され、大虐殺によって守られていた。
軍国日本が、相手にしていたのはそうした共産主義者、ソ連、ロシア人であった。
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1918年8月 米騒動。
シベリア出兵。
日本軍部と軍国主義者による、人道的貢献。
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1919年 レーニンは、世界でも共産主義革命を起こす為に国際組織コミンテルン(共産主義インターナショナル)を創設し、世界各国に地方支部としての共産党を結成させて指導した。
日本は法秩序が守られ安定していた為に後回しとして、社会混乱が甚だしく法秩序のない中国を有望地域として共産主義化工作を行った。
中国の指導層や富裕層に共産主義への警戒心を取り除く為に、カラハン宣言を発し、ロシア帝国が不当に手に入れた中国利権を中国に返還すると宣言した。
だが。ロシアは、如何なる手段であっも一度手に入れた利権や領土を放棄する気はなかった。
知識人層や学生達は、ソ連を植民地支配からの解放者と誤解して歓迎し、共産主義に好意を抱いた。
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3月1日 3・1独立運動。
5月4日 5・4運動。
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1920年2月〜6月 ニコライエフスク(尼港)虐殺事件。
ロシア人、中国人、朝鮮人らのパルチザンは、ロシア人約8,000人と日本人約700人を虐殺した。
9月 コミンテルンは、中央アジア及び中国の共産主義指導者をカスピ海西岸のバクーに集めて東方諸民族会議を開催した。
会議は、資本主義国の植民地支配からの解放にお互いが全面的に支援し合う事を約束した。
コミンテルンの真の目的は、世界をソ連の利益に従属させ、諸外国の共産党をモスクワが指導する事であった。
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10月6日 レーニンは、ロシア共産党モスクワ組織の活動分子の会合での演説で、日本を共産主義化するには日本とアメリカを戦争に追い込み、日本を敗戦させ、敗北を利用して武力蜂起して共産主義革命を行うべきであると訴えた。
世に言う、敗戦革命論である。
共産主義者が取るべき基本方針は、日本とアメリカの間に相互不信を増幅させ、日本人とアメリカ人の間にお互いを憎む感情を植え付け、日本の国力を疲弊させ軍事力を弱体化させる事であると。
日米戦争の芽は、日本に関係ないと事で作られていた。
レーニンがなぜ日米戦争を引き起こして日本を敗北させようとしたか?
それは、ロシア人が持っている日露戦争の敗北という屈辱の復讐である。
日露戦争の敗北という屈辱を持つ限り、ロシア人は反日になっても親日・知日になる事は有り得ない。
レーニン「二つの帝国主義の間の、二つの資本主義的国家群の間の対立と矛盾を利用し、彼らを互いにけしかけるべきだという事である。
……
第一の、我々にもっとも近い対立──それは、日本とアメリカの関係である。両者の間には戦争が準備されている。……このような情勢の下で、我々は平気でいられるだろうか、そして共産主義者として、『我々はこれらの国の内部で共産主義を宣伝するであろう』と言うだけで済まされるであろうか。これは正しい事ではあるが、これが全てではない。共産主義政策の実践的課題は、この敵意を利用し、彼らを互いにいがみ合わせる事である。そこに新しい情勢が生まれる。二つの帝国主義国、日本とアメリカを取ってみるなら──両者は戦おうと望んでおり、世界制覇を目指して、略奪する利権を目指して、戦うであろう。我々共産主義者は、他方の国に対抗して一方の国を利用しなければならない」
アメリカ共産党は、党員の多くをワシントンに潜り込ませ対日強硬策を国策に採用させていた。
同じ頃、アメリカ国内では人種差別的な排日運動が盛り上がり、対日感情は悪化していた。
日本は、地下資源を輸入し商品を生産して輸出する事で国家経済を維持する外国依存度の高い国で、特にアメリカへの依存は国家存亡に関わる最重要度であった。
対米協調路線は、国策の根幹を成していた。
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1921年 北京大学文科長の陳独秀と早稲田大学に留学していた李大訢等は、中国共産党を結成し、コミンテルンに忠誠を誓った。
陳独秀ら日本留学組は、相次いで日本の文献を中国語訳して出版し啓蒙活動を続けた。
其の為に、中国の行ける共産主義・社会主義から民主主義や科学に至るまでの近代的用語の70%近くが、日本生まれの和製漢語であった。
趙新利「中国共産党が創立される前に中国で出版された『共産党宣言』などのマルクス主義著作のほとんどは、日本に留学している中国人によって日本語から翻訳された。中国共産党の創立にも、陳独秀、李大訢など留日学生の努力があった」
日本に留学した中国人の大半が、日本との平和的友好の為に活動せず、その正反対の敵対活動に走っていた。
中国共産党は、上海で第一次全国大会を開き、正式に結党した。
毛沢東は、地方出身の一共産党員として無名に近かく、日本留学組でもなく結党主要メンバーではなかった。
中国共産党は、満州支部を設立し、満州に於ける日本権益を破壊するべく抗日工作を開始した。
ロシア人は、日本に奪われた満州権益の正統な所有者であるという信念から、中国共産党に対して日本人暗殺や日本系企業への襲撃を命じていた。
日本にとって、満州はロシア・ソ連から祖国日本を守る最前線として死守しようとしていた。
満州在住の日本人居留民は、反日中国人の嫌がらせや暴力を受けていた。
10月 中国共産党の張太雷は、コミンテルンの指示で日本に渡り、山川均や堺利彦らに接触し、来年1月にモスクワで開催される極東諸民族大会に日本代表を派遣する事を要請し、その旅費を提供する事を申し出た。
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1922年 中国共産党は、コミンテルンに加入し、一支部としてアジア地区の共産主義革命達成の任務を担当する事となった。
コミンテルンは、日本を共産主義化する為に中国を拠点とし、中国共産党を手先に使い始めた。
全国水平社を中心に、部落解放運動が始まった。
1月 極東諸民族大会に、日本代表として、アメリカ在住の片山潜・鈴木茂三郎、日本国内から徳田球一らが参加した。
スターリンは、徳田球一らに日本で共産主義運動を行うように指示した。
7月 徳田球一らは、コミンテルン日本支部として日本共産党を結成し、中国共産党を通じてコミンテルンからの指令と活動資金を受け取っていた。
アジアに於ける共産主義組織の指揮命令系統は、ソ連・コミンテルン→中国共産党→日本共産党で、日本共産党は中国共産党の下部組織で、人件費や運動資金はコミンテルンから出ていた。
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1923年1月26日 窮地に追い込まれていた孫文は、日本軍の全面支援を得られない為に、ソ連に軍事支援を要請した。
レーニンは、未だに弱体で基盤を持たない中国共産党を救う為に、中国国民党と中国共産党との連携を条件とした。
孫文は、共産主義の侵攻から天皇制度と祖国日本を守ろうとしていた日本の右翼と軍部の努力を踏みにじるがごとく、軍事支援を受ける為にソ連と手を組んだ。
いわゆる、孫文・ヨッフェ共同宣言である。
コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となり、国民党の中に共産主義者を増やし、有望な者をモスクワに留学させた。
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9月1日 関東大震災。社会主義者や朝鮮人独立派が暴動を企てているとの噂が、10万人が犠牲となった東京に流れた。
ソ連政府は、日本支援の為に救援物資を積んだ輸送船を日本に送った。
レーニンの真の目的は、混乱した日本に革命工作員を送り込む事であった。
日本は、ソ連への感謝から共産主義に傾倒する日本人が増えると天皇制度を中心とした国體が危なくなる戸危惧して、ソ連の輸送船の入港を拒否して追い返した。
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日本国内には、朝鮮人テロリストが多数潜入していた。
震災現場では。朝鮮人による、暴動が起き、火事場泥棒が横行しているという、噂が流れていた。
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12月 虎ノ門事件。摂政宮裕仁親王が狙撃された。
日本人共産主義者と朝鮮人テロリストは、天皇制度廃絶の為に裕仁皇太子を暗殺しようとしていた。
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1924年1月20日 第一次国共合作。中国共産党は、国民党の中に浸透して赤化と反日を広めた。
日本との提携を求める親日派は、政権中枢の官職から左遷された。
日本に留学した中国人学生達や在日華僑達の中にも共産主義者が増え、日本共産党や反日派在日朝鮮人と連携を深めていった。
内務省警保局保安課外事係、特高、憲兵隊は、国内での共産主義者の活動を厳しく監視し、共産主義弾圧の機会を窺っていた。
東京大学や京都大学などの最高学府学生や知識人階級は、社会変革の為にマルクス主義に傾倒していった。
農村部などの庶民は、伝統的に皇室への崇敬の念が強く、愛国心に燃え、共産主義を嫌悪していた。
マルクス主義者は、国民への啓蒙活動の為に新聞社や出版社に就職して、社会を批判する記事を書き、書籍を出版していた。
東大新人会は、左翼学生による全国的学生運動の組織として「社会科学連合会」(学連)を設立した。
日本共産党は、解党を宣言した。
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1925年 日本政府は、共産主義勢力の攻勢から天皇制度と祖国日本を守るべく治安維持法を制定し、28年には凶悪はに対して死刑を課す改正を行った。
1月 日本は、ソ連と国交を樹立した。
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1926年 日本共産党は、中国共産党の手助けを得て再建した。
ソ連・コミンテルンは、中国共産党を通じて日本共産党に指示を出していた。
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1928年 中国共産党は、対日工作を担当する日本特別支部を東京・雑司ヶ谷に設置し、日本に留学している中国人学生や会社員、華僑を工作員として利用した。
外事係、特高、憲兵隊は、中国共産党のスパイが利用している特別支部が全国に計11ヶ所あり、活動資金が中国共産党から出ている事も突き止めた。
日本政府は、両国の友好を深化させる為には民間交流を拡大すべきであるとして、日本留学を希望する中国人学生達に留学費を出し特別待遇をしていた。
だが。中国人留学生は、中国共産党の工作員として反日活動を行っていた。
日本陸軍の士官学校にも、中国共産党のスパイである中国人留学生が潜り込んでいた。
外事係、特高、憲兵隊は、政府が中国への融和策として中国人留学生の受け入れを積極的に行っていた為に、スパイ防止法である治安維持法があっても動かない物証が手に入らない限り日本特別支部への一斉手入れが出来なかった。
中国共産党の謀略は巧みで、日本の官憲は反日工作の尻尾を捕まえきれずにいた。
2月 第一回普通選挙で、無産政党各派から8名の衆議院代議士候補者が当選した。
3月15日 3・15事件。警察当局は、治安維持法違反容疑で日本共産党幹部を一斉検挙して、日本共産党に大打撃を与えた。
世に悪名高い、共産主義弾圧が始まった。
中国共産党は、コミンテルンの指示を受け、日本特別支部を総動員して日本共産党再建を支援した。
日本特別支部は、日本を混乱させ破壊する為に、社会主義運動を支援し、労働運動や小作争議を煽った。
内務省警保局保安課外事係は、日本国内にある日本特別支部の検挙に乗り出した。
そして、中国共産党日本特別支部検挙事件を起こし、中国人の反日組織を潰した。
日本人知識人は、中国人差別の不当逮捕であるとして非難して、反日派中国人工作員を匿った。
中国共産党は、日本人を反天皇反日の活動家にすべく意欲のある学生に共産主義教育を施していた。
この日本人再教育プログラムは、戦後まで続けられ、その資金はコミンテルン、その後継組織極東コミンフォルムから出ていた。
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1929年 共産主義弾圧は成功しかけたが、世界大恐慌で、失業者が街に溢れて頓挫した。
進歩的知識人達は、「資本主義の限界と終焉。社会主義の可能性と到来」を唱えて、ソ連の計画経済を絶賛した。
ティム・ワーナー(ニューヨーク・タイムズ紙記者)「大恐慌のもたらした荒廃が共産主義運動に礎石を提供した」
4月16日 4・16事件。日本共産党取り締まりによって、社会主義運動は内部対立が激化して、労働者や農民の組織化が遅れた。
10月 世界大恐慌で、大学生は卒業しても働き口はなかった。
大学生の多くは、就職難となったのは社会体制が悪いからである以上、人民の幸福の為には改革が必要であるとしてマルクス主義を学んだ。
大学は、マルクス主義者に占領された。
マルクス主義を信奉する大学生達は、エリート官僚となり政権中枢に浸透して行った。
彼らが、革新官僚となった。
さらに過激思想である共産主義に走るエリート官僚は、人民の為に天皇制度を廃絶すべきであると確信した。
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1930年代 国家改造運動。
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1931年9月16日 満州事変。
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1932年 扇谷正造「昭和7年の春の東大は、一時的な左翼運動のかたまりを見せていた時期であった。満州事変は前年の夏勃発し、国内は軍国主義に塗り込められつつあったが東大はリベラリズムの牙城として厳としており、……学内では毎日のようにデモが行われた。31番教室から、そのたび3本の垂れ幕がさげられた。
1,天皇制を打倒せよ。
1,帝国主義的戦争絶対反対。
1,授業料を値下げせよ」
帝国大学出身者は、官公庁の高等文官試験に合格して任官し、政府の中枢に入り込んだ。
軍隊でも同様に、有能な士官候補生達がトップの成績で高級将校の階段を登り始めていた。
日本国家社会党結成。
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朝鮮人テロリストによる、昭和天皇暗殺未遂事件。
昭和天皇に対する暗殺テロ事件が幾度も起きていた。
皇族も、暗殺の対象として狙われていた。
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第一次上海事変。
朝鮮人テロリストによる、上海天長節(昭和天皇誕生日記念)行事会場爆破事件。
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現代韓国は、昭和天皇を暗殺しようとしたテロリストを国民的英雄として称えている。
そして、昭和天皇を暗殺しようとした朝鮮人テロリストを処刑した事に対し、その家族である今上天皇に韓国を訪問し、墓前て土下座をして謝罪せよと要求している。
中国共産党は、韓国の謝罪要求は植民地支配した犯罪行為に対する当然の要求と支持している。
国際社会で、昭和天皇の自己防衛の権利を支持する者はいない。
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血盟団事件。
5月15日 5・15事件。
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32年テーゼ。コミンテルンは、日本が共産主義化できない最大の障害は天皇制にあるとし、日本共産党にロシア革命を成功に導いた二段階革命を命じた。
二段革命論とは、資本家や大地主らと穏健派マルクス主義者によるブルジョア革命を起こして天皇制を倒し、その後に共産主義者が指導する人民によるプロレタリア革命を目指せというものである。
日本共産党は、第一段革命を起こす先兵を養成する為に各大学の文系内に工作員を送り込み、将来エリート官僚になりそうな優秀な学生達に統制経済による社会変革の必要性を説いて、隠れマルクス主義者に仕立てた。
第二段革命を起こす為の人民革命闘士育成は、都市部の貧困下層労働者では上手くいっていたが、地方の農村部で手こずりついには失敗した。
皇室支持層の多数派は庶民と言われる地方の山村漁民であり、その庶民の皇室に対する崇敬心は思った以上に堅固で打ち砕く事ができなかった。
なぜなら、日本天皇は、大陸の専制君主のように人民を支配し虐げ搾取する支配者ではなく、権力も権威も持たない、別次元の中空に浮いた実体があるようでない存在であった。
庶民は、解決不能な問題は敢えて解決せず、手の届かない中空の穴に放り込んみ忘れ去り、社会の柔軟性と多様性を維持した。
庶民の多数を占めているのが、中小規模農民や零細農民であった。
天皇制度とは、日本民族日本人の理想像であり、日本民族の伝統、文化、宗教、歴史、習慣、風習であった。
突き詰めれば、天皇制度は実体があるようで実体がない日本風土、日本の空気であった。
日本文明イコール日本天皇である。
共産主義革命、国際的人民革命を成功させる為には、日本文明を完全否定して、地方の安定を破壊し、庶民を社会的弱者に追い込んで共産主義に救いを求めるように誘導する事であった。
最終勝利の為には手段を選ばず、如何なる嘘もつき、信用を得る為にはわざと敵に味方をして協力した。
共産主義革命が成功するには、天皇制度の守護者である、地方の安定を崩壊させ、日本民族日本人の理想像を粉砕し、日本風土を荒廃させ、日本の空気を消滅させる事であった。
日本民族を抹殺して日本人を民族意識から解放する事が、国際的人民革命の最終目的である。
日本人マルクス主義者は、岩波書店から『日本資本主義発展史講座』を出版した。
世に言う講座派である。
講座派は、大学に浸透し、多くの文化系学生を勧誘した。
戦後の大学のマルクス主義関連の法律や経済学などを教える文化系学部は、彼ら反天皇反日的マルクス主義者の影響下に組み込まれ、反政府反米闘争へと暴走した。
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1932年 社会大衆党が結成される。
軍部内でも、資本主義体制への批判から変革を求める声がで始めた。
共産主義者は、軍隊内で社会改革を求める若手将校達に接近し、味方に引き込もうとした。
陸軍部内は、皇道派と統制派を中心に分裂して激しい派閥的対立が起きていた。
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1933年 獄中に収監されている日本共産党最高幹部の佐野学や鍋山貞親等は、転向を声明し、天皇を中心とした一国社会主義からコミンテルンを批判した。
共産党関係者は、大量に転向した。
お人好しの日本人は、転向を宣言をしたマルクス主義者を信用して公務員に採用した。
共産主義者は、結果優先として手段を選ばず、平気で嘘を付き、転向宣言も偽りであった。
滝川事件。
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1935年 コミンテルンは第7回大会で「平和の為の闘争」決議を行い、世界各国の共産党に対して共産主義活動を「平和」と説明した。
この時から、共産主義勢力は平和勢力とされ、共産主義活動に抵抗する勢力や拒否する者は好戦的な犯罪者とされた。
「共産党は……戦争準備の目的でブルジョア民主主義的自由を制限する非常立法に反対し、軍需工場の労働者の権力の制限に反対し、軍需産業への補助金の交付に反対し、兵器貿易と兵器の輸送に反対して、戦わなければならない。
ソ連が社会主義の防衛の為に労農赤軍を出動させる事を余儀なくされた場合には、共産主義者は、あらゆる手段を用い、どんな犠牲を払ってでも赤軍が帝国主義者の軍隊に勝利するのを助けるように、全ての勤労者に呼び掛けるであろう」
日本共産党は、軍国日本をアメリカとの戦争で敗戦に追い込んで共産主義革命を成功させるべく策謀を巡らし、官公庁や軍隊に支持者を拡大するべく活動を積極化させた。
35テーゼ。コミンテルンは、日本人共産主義者に天皇制度を打倒し、日本を共産主義化する事を命じた。
民族国家日本は、天皇統治を中心とした国體を守る為に、外国の支援や援助を受けられず国際的共産主義と孤独な戦いを続けていた。
これは、日本のイデオロギー的自衛戦争であった。
東京裁判は、日本の天皇制度と祖国を国際的共産主義勢力から守る自衛戦争を否定している。
天皇機関説。
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1936年2月26日 2・26事件。
ソ連の革命工作員が、蹶起した若手将校と接触しているとの噂が流れていた。
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1937年 矢内原事件。
日本の主要な大学には、共産主義者が入り込んでいた。
共産主義者は、日本を共産主義化する為に有能な学生を日本共産党に勧誘し、洗脳教育を施してエリート官僚に仕立てて中央官庁に送り込んでいた。
皇室内や軍部内にも、共産主義シンパを広げていった。
共産主義勢力は、日本改造の為に教育を重視していた。
7月 中国共産党の周恩来は、スパイ部門の最高幹部として新たな対日諜報団を設立し、中国人工作員を日本や朝鮮及び台湾に送り込んだ。
王学文は、京都帝国大学に留学して日本人を仲間に引き入れ、朝日新聞の尾崎秀実や満鉄調査部の中西功らと接触し国家機密情報を入手した。
日本人は、情報を守るという意識が薄く、親しくなった者に聞かれると包み隠さず話し、それどころか聞かれていない事も自慢げに話していた。
中国共産党にとって、日本は活動しやすい国であり、日本人は騙しやすい人間であった。。
日本は、スパイ天国であった。
尾崎秀実は、翌年1月に第一次近衛文麿内閣が総辞職するまで内閣嘱託として支那事変処理の助言を行ってい、政界・官界・軍部に広い人脈を築いていた。
コミンテルンは、レーニンが提唱した「軍国日本をアメリカとの戦争に追い込み、敗北させ、敗戦で共産主義革命を起こす」を実現するように、中国共産党と日本共産党と尾崎秀実に命じていた。
警察当局と憲兵隊は、日本無産党などを弾圧し、共産主義者を検挙した。
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7月7日 盧溝橋事件。中国共産党は、日本軍と国民党軍(ファシスト中国軍)を戦わせるべく、日本軍を挑発する為に発砲した。
8月 第二次上海事変。スターリンの密命を受けた国民党軍の将軍が、日本海軍陸戦隊に対して奇襲攻撃を行った。
ソ連軍は、正規兵を国際義勇隊として抗日戦争に参戦させた。
ナチス・ドイツも、抗日戦争の為に軍事顧問団を派遣していた。
アメリカも、正規兵と武器弾薬を蒋介石に渡していた。
日中戦争の勃発で或る。
中国共産党の、軍国日本を戦争に引き込むという陰謀は成功し、後はアメリカと戦わせるだけであった。
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1938年 人民戦線事件。
4月 中国共産党は、日本の傀儡政権である北京の中華民国臨時政府に潜入していたスパイを警官として日本の警察講習所に留学させ、中国人留学生や華僑等を使って日本国内で抗日共産主義運動を展開するように命じた。
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1939年1月 中国共産党は、地下謀略組織として東京支部(支部長は汪淑子)を設立させ、日本人支援者、中国人留学生、在日朝鮮人等を使って破壊活動を計画していた。
東京支部の極秘実行部隊として鉄血青年団と破壊隊が組織され、破壊工作員になっていたのは各大学に留学していた中国人学生であった。
左翼化した大学の進歩的学生達は、「平和」の為に、天皇制度打倒や帝国主義戦争反対やソヴィエト政権樹立を叫んでいた。
2月19日 日本の警察当局は、中国共産党東京支部を強襲し、汪淑子支部長ラ幹部36名を検挙して地下謀略組織を潰した。
だが、中国共産党の息のかかった中国人留学生と華僑、日本人協力者、在日朝鮮人らは全国に散り、反天皇反日活動の時機を窺いつつ息を潜めた。
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張鼓峰事件。
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ノモンハン事件。
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ゾルゲ。
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転向組の中には虚偽の者がいて、大学卒業という高学歴を利用して官公庁に入省している者がいた。
彼らは、エリート官僚となり革新官僚として、軍部内のエリート軍人官僚の統制派に協力し、国家政策に深く食い込み、戦争が出来る統制体制を作り上げた。
革新官僚とエリート軍人官僚達は、日本が戦争できるという財政や物流の偽の統計数値を提出していた。
軍部の対米英強硬派は、革新官僚が提出してくる数値を基にして日米英開戦や戦争継続、そして本土決戦や一億総玉砕を主張して、日本を破滅へと引き摺っていった。
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昭和天皇と東条英機らA級戦犯達は、人道的貢献としてユダヤ人難民を保護し、ヒッラー、ナチス・ドイツから守った。
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毛沢東と周恩来―中国共産党をめぐる権力闘争 1930年~1945年
- 作者:トーマス キャンペン
- 発売日: 2004/01/01
- メディア: 単行本