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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
1925年=大正14年。
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日本人マルクス主義者は、大正11(1922)年にソ連・コミンテルン支部として非合法に日本共産党を結成し、天皇制度打倒の活動を開始した。
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2022年3月3日00:00 MicrosoftNews 朝日新聞デジタル「いまも差別や偏見、人間の尊厳とは 水平社宣言の現代語訳
© 朝日新聞社 1925年5月7、8両日、大阪で開かれた第4回水平社全国大会の様子
部落差別の根絶をめざし、当事者たちが立ち上がった全国水平社の創立から3月3日で100年を迎えた。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と結ばれる「水平社宣言」は日本初の人権宣言と言われ、社会のあらゆる人権問題の克服に向けた原点となってきた。しかし、今なお差別や偏見に苦しみ、憎悪や分断に心を痛める人々がいる。差別のない新しい時代への一歩を刻むために、人間の尊厳を尊重する水平社宣言の精神を改めて見つめたい。
■水平社宣言の原文と現代語訳
宣言
全国に散在する吾(わ)が特殊部落民よ団結せよ。
長い間虐(いじ)められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによつてなされた吾等(われら)の為(た)めの運動が、何等(なんら)の有難(ありがた)い効果を齎(もた)らさなかつた事実は、夫等(それら)のすべてが吾々(われわれ)によつて、又(また)他の人々によつて毎(つね)に人間を冒涜(ぼうとく)されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦(いたわ)るかの如(ごと)き運動は、かえつて多くの兄弟を堕落させた事を想(おも)へば、此際(このさい)吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起(おこ)せるは、寧(むし)ろ必然である。
兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であつた。陋劣(ろうれつ)なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剥(は)ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥(はぎ)取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖(あたたか)い人間の心臓を引(ひき)裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾(つば)まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸(か)れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享(う)けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印(らくいん)を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠(けいかん)を祝福される時が来たのだ。
吾々がエタであることを誇り得る時が来たのだ。
吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ)なる行為によつて、祖先を辱(はずか)しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦(いた)はる事が何(な)んであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃(がんぐらいさん)するものである。
水平社は、かくして生(うま)れた。
人の世に熱あれ、人間に光あれ。
大正十一年三月
水平社
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全国各地で、歯を食いしばって生きている被差別部落のみなさん、今こそ手を取り合って進みましょう。
長い間いじめられ差別を受けてきた被差別部落のみなさん。1871年の解放令から約50年、私たちのためといって、多くの人々によって差別をなくすための運動が行われてきました。しかし、それらの運動はあまり役に立ちませんでした。人間は平等であり、尊敬すべきものなのです。しかし、人をあわれんだり、同情したりする考え方しかもたない人々は、私たちを気の毒な人たちだと思って運動してきたのです。
私たちを救ってあげようという運動は、かえって多くの私たちの仲間をだめにしてしまいました。だから、今、差別を受けている私たち自らが立ち上がったのです。人間だれをも尊敬し、大切にすることによって差別のない社会をつくろうという運動を自主的にはじめたのです。私たちは、私たちの手で部落差別をなくしていくのです。
被差別部落のみなさん、私たちの祖先は差別を受けながらも、自由で平等な社会を願い、闘ってきました。私たちは政府の身勝手な政治によってつくられた身分制度の犠牲者であったが、世の中に欠かすことのできない仕事に携わり、社会を支える存在でもあったのです。その中でさまざまな差別を受けてきたのです。しかし、そのような悪夢のような差別の中でも、私たちの祖先の体の中には、誇り高く生き抜こうとする人間のあたたかい血が残っていました。そして、その血を受けついだ私たちは「民衆が世の中の主人公になる時代」にたどりついたのです。私たちのしてきた人に嫌われる仕事を誇れる、そして人に嫌われる仕事をしてきた私たち自身を誇れる時がきたのです。
私たちが被差別部落の人間であることを誇りうる時代がやってきたのです。
私たちは、この世の中が、私たちを差別することのみにくさに気づかない人々や、差別されることのつらさに気づかない人々が多くいる冷たい世の中だということを知っています。だから私たちは、心から人間の尊さやあたたかさが大切にされる、差別のない世の中を心から願うのです。
水平社はこうして生まれました。
人の世に熱あれ、人間に光あれ。
現代語訳の出典「部落問題学習の授業ネタ2 社会科日本史でやってみよう」(部落問題学習ネタつくろう会編、解放出版社)」
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3月3日06:10 MicrosoftNews 西日本新聞「水平社創立100年 「反差別」さらに深く広く
後に日本の人権運動の原点ともなる大会への参加を、そのチラシはこう呼び掛ける。
<男女何(だんじよいづ)れを問(と)はず奮(ふる)って参集(さんしう)せられたし 関東(かんとう)、東海(とうかい)、近畿(きんき)、中国(ちうごく)、四国(しこく)、九州(きうしゆ)の人士(じんし)を網羅(もうら)す 水平社同人>
1922年3月3日、京都市岡崎公会堂で開かれる全国水平社創立大会への結集を促している。中世以降、職業の貴賤(きせん)感やけがれ意識から固定化された被差別部落は全国数千カ所に散在し、多くの人がいわれなき社会的差別に苦しんでいた。
チラシは漢字に原則ルビを振っていることに注目したい。貧困から教育を受ける機会を奪われ、文字の読み書きに不自由する人々への配慮だろう。今日の識字学級の源流に当たる。
100年前に男女両性に参加を呼び掛けていることも、現在につながる問題提起だ。
■将来まで読み継ぎたい
全国水平社は現在の部落解放同盟などの前身である。
<人の世に熱あれ、人間に光あれ>
そう締めくくる有名な水平社宣言は日本初の人権宣言と呼ばれる。中心人物の西光(さいこう)万吉が起草した。「人はみな水平であるべきだ」との悲痛な叫びだ。いつまでも教育現場などで読み継がれるべき内容だろう。
西光たちは、同情的な差別反対運動を排し被差別民の自覚と民衆の反省を促す、と訴えた。
水平社運動はしかし、先例がないものだけに暗中模索を迫られた。「糾弾闘争の時代」と振り返られる第1期は、個々の差別者をただしていけば差別はやがてなくなる、と考えられた。残念ながらそれは違った。
次は、劣悪な住宅事情や貧困といった周囲に差別意識を抱かせる環境を改善すればいいと考えられた。国の同和対策事業が69年に始まり、第2期「行政闘争の時代」へと移った。
国と自治体は初めて差別と正面から向き合うことを求められた。その無理解ぶりは失望と怒りを招き、行政相手の糾弾学習会は時に激しさをはらんだ。
解放同盟が、過去の糾弾闘争に「行き過ぎもあった」と認めたのは90年代に入ってからのことだ。同和事業の利権を巡る不祥事も相次いだ。
運動に国民から厳しい視線を注がれている事実を自覚した。その反省などにより2000年代には、女性、障害者といったほかの差別を受ける人々との「共生・共闘」を目指す第3期を迎えることになる。
実はこの「共闘」が、水平社運動の初期に始まっていたことに注目したい。1920年代、朝鮮の被差別民「白丁(ペクチョン)」の解放組織「衡平社(ヒョンピョンサ)」と連携を深め、人的交流も芽生えていた。
部落解放運動は在日コリアンの意識も覚醒させる。80年代の外国人登録証指紋押なつ拒否運動などに強い影響を与えた。
詰まるところ反差別運動は、あらゆる人の尊厳を守る運動であることに、解放同盟自らも、多くの国民も気付いていく。
■私は私であるとの思想
私は私であり、あなたはあなたである。障害があることは私そのものであり、ないことはあなたそのものである。心と体の性が一致しないのは私であり、一致するのはあなたである-。
近年さまざまな分野で世界に広がる問いである。かつて同性愛者への偏見は今以上に強かった。苦しむ性的少数者(LGBTQなど)が叫びを上げ、社会の認識は徐々に変化している。
インターネット上の差別言動も後を絶たない。他人をさげすむことでしか自己肯定ができない。そんな不健全さに社会がむしばまれているとしたら、それこそ、ただされていくべきだ。
一つの差別は全ての差別につながる。反差別の運動は質を高め、他の運動とも連携を広げており、人権の同心円を描いていかなければならない。
さらに深く、より広く。」
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天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少ない。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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日本の総人口は、江戸開府の1600年頃では約1,200万人~1,800万人で明治5(1872)年には約3,295万人(琉球人とアイヌ人を除く)に増加していた。
人口増加は、慢性的な乳幼児死亡率が高い中で起きていた。
江戸時代の人口増加を支えていたのは、伝承としての継続的変革と一新する破壊的イノベーションであった。
江戸時代は人口が微増して、人生50年といわれ、年齢的人口構成は若者が多く老人が少なかった。
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明治の近代的軍国主義政策に基ずく殖産興業により、貧しい地方で遺産相続を受けられない若者達は働き口求めて都市に集まり、家賃の安い貧困地区に住み着き、低賃金肉体労働に職を得た。
日韓併合(明治43年・1910年)によって朝鮮半島の貧困層は、出稼ぎ労働者として日本に合法・非合法で日本に入国して貧民窟に潜り込んだ。
彼らによって日本では人口爆発が起きたが、日本国内で仕事を見つけられない若者達はハワイ王国や中南米へ移民として渡っていった。
ハワイ王国では、日本人移民が住民の半分を占めた時期もあった。
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縄文人であるヤポネシア人・石器人、日本土人、は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土、南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部まで、西は朝鮮半島南部、日本海を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と軽蔑していた。
日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明の揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
数万年続いた日本列島の石器時代・縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
日本民族・琉球民族・アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州・樺太、北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいた人々が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
琉球民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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良い日本人は2割、悪い日本人は3割、良くも悪くもなく信念を持たず同調圧力で付和雷同的に流される日本人は5割。
右翼・右派・ネットウハと左翼・左派・ネットサハは、悪い日本人である。
戦後民主主義教育で、そうした日本人が急増した。
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日本人は、惻隠の情を持ち心優しく親切である、はウソである。
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日本人は、いい事もしたが悪い事もした。
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日本は世界で信用されている、日本人は世界で愛されている、はウソである。
日本は世界で信用されていない、日本人は世界で嫌われている、は本当である。
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日本人は賢く優れいている、はウソである。
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自慢して自惚れる日本人は、醜悪なほどに愚かである。
日本人は、しょせん、猿マネである。
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日本人は、過度に褒めるとバカになり、おだて持ち上げると調子に乗って図々しくなる。
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日本人の本性は、論より証拠、百聞は一見にしかず、現代日本人を見ていればわかる。
その代表的な現代日本人とは、高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、親中国派・媚中派である。
現代の日本人と昔の日本人とは別人のような日本人である。
現代の日本人は、武士や庶民でもなければ、武士や庶民の子孫でもない。
現代日本には、民族的な武士や庶民は存在しない。
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日本とくに日本民族では、マルクス主義・共産主義・無政府主義による人民革命は起きない。
もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
何故なら、マルクス主義・共産主義・無政府主義とは反天皇反民族反日本だからである。
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庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上。
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現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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日本人は、悪人、悪党、罪人である。
故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏(阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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1847(弘化4)年 マルクスとエンゲルスは、プロレタリア革命を広める為に共産主義者同盟の綱領を起草して、共産党宣言を行った。
マルクス主義、社会主義、共産主義は歴史の浅い、反宗教無神論の新しいイデオロギーである。
1917(大正6)年 レーニンは共産主義暴力革命を成功させ、皇帝派・保守派を反革命派として虐殺した。
ケレンスキーの社会革命党は多数派(ボリシェヴィキ)で、レーニンのボリシェヴィキ党は少数派(メンシェビキ)であった。
ロシア社会民主労働党内で、レーニンの人民独裁制を主張する左派は多数のボリシェヴィキであり、対立した大衆政党としてブルジョア革命を主張した一派は少数のメンシェビキであった。
1921年 日本留学組の李大釗らを中心とした中国人共産主義者らは、共産主義を日本国語飜訳本で学び、レーニンの協力を得て中国共産党を結成した。
日本がアメリカに恐怖したのは、アメリカによるハワイ王国侵略とハワイ王家滅亡、そして自由・民主主義の大義とキリスト教の正義によってと民族の宗教・言語・文化・風習・その他がハワイ諸島から根刮ぎ消滅させられたことである。 1912年(明治45年) 孫文は、日本の右翼や国粋主義者らの資金援助を得て辛亥革命を成功させて中華民国を樹立した。
1924(大正13)年 孫文は、中国武力統一の為にソ連からの軍事支援を得る為に中国共産党と手を組んだ。第一回国共合作である。
日本政府と日本陸軍は、広大な中国を幾つかの政権が分割統治した方が安定し平和を維持できるとして、孫文への軍事支援を控えていたが、孫文がソ連と組み中国共産党を認め共産主義者を引き込んだ事を裏切り行為とみなして切り捨てた。
日本軍の大陸戦略は、天皇・日本国・日本民族を共産主義勢力から軍事力で守るという対ソ満州戦略であって中国ではなかった。
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2017-09-26
☭18」─1・A─レーニンが起こしたウクライナ飢饉。餓死者800万人~1,450万人。ホロドモール。1921年。~No.53・ @
2021-09-02
☭18」─1・B─ロシア革命の成功で歴史から抹消されたボルガ川流域での餓死者約500万人。1921年。~No.53
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マルクス主義、共産主義は、人類史上もっとも血に飢えた凶悪・凶暴なイデオロギーである。
共産主義、ファシズム、ナチズムは、マルクス主義から生まれた悪の三つ子である。
共産主義から、レーニン主義、スターリン主義、毛沢東主義などが発生した。
日本の高学歴な知的エリートや進歩的インテリにはレーニン信奉者が存在する。
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天下の悪法である治安維持法は、大正14(1925)年に公布され、昭和3(1928)年に改正され、昭和16(1941)年に全面改正され、反宗教無神論と天皇制度打倒の共産主義運動を抑圧し、反天皇反民族反日本の共産主義者を弾圧した。
が、天皇暗殺に失敗した不忠者は大逆罪・不敬罪で処刑されたが、それ以外の者は禁固刑として処刑されなかった。
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明治後期・大正・昭和初期のテロには3種類あって、右派系日蓮宗原理主義者、左派系共産主義勢力・無政府主義者、宗教系キリスト教原理主義者(主に朝鮮人)であった。
テロリストになる日本人は、高学歴者が多かった。
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昭和7(1932)年 ソ連・コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を殺すべく活動を本格化させた。
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三十二年テーゼ
1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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マルクス主義・共産主義とは、経済成長否定と反宗教無神論で、富のある所から奪って貧しい者達に平等に分け合う事であって、貧しい者にも富が行き渡るように富みを作り出す事ではない。
座れ者が集められた富を平等に分け合い、座れなかった者は分け前をもらえずに排除され、残った者は減った富を賭けて減らされた椅子を巡ってゲームを再開し、その結果として座れなかった者は排除され、そして減った富と減らされた椅子を巡って椅子取りゲームが繰り返される。
運良く、椅子に座れた者はその時だけ一瞬は得をするが、ゲームを繰り返していくなかで全てをなくしていく。
つまり、永遠ループの様に、分配できる富がゼロになるまで繰り返される椅子取りゲームである。
その結果、共産主義体制であったソ連や東側諸国は自滅した。
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石平「敵の内部に入り込み、次第に乗っ取る浸透工作は中国のお家芸です。周恩来がやったことを思い出してください。
1924年、コミンテルンは共産党の活躍が期待外れあったため、孫文率いる国民党の乗っ取りに乗り出します。コミンテルンは国民党の支援や武器を提供する見返りとして、共産党幹部が共産党員のまま国民党幹部に参画することを受け入れるよう要求。かなり無理な要求ですが、どいしてもコミンテルンの支援が欲しかった孫文はこれを承諾したのです。国民党はコミンテルンの全面支援を受けて、革命本拠地で黄埔(こうほ)軍官学校を創設し、その重要ポストである政治部主任に周恩来が就任しました。
周恩来はそのポストを利用し、国民党の軍官を共産党の信奉者に転向させ、暴動を起こさせました。これが、1927年のいわつる南昌蜂起(なんしょうほうき)で、この日、8月1日は人民解放軍建軍記念日とされています。
共産党の浸透工作は、国共内戦の趨勢を決した三大戦役(遼瀋{りょうしん}戦役、淮海(わいかい)戦役、平津{へいしん}戦役)でも活かされています。
淮海戦役は徐州で2カ月もの間、国共双方が何十万人もの兵士を投入して戦った、いわば天下分け目の関ヶ原の戦い。なぜ、ここで共産党が勝てたかと言えば、国民党軍の最高司令部に周恩来の放ったスパイが十数年前から潜入していたからです。このスパイによって、国民党軍の作戦はすべて共産党に筒抜けでした。
国民党の最高司令部が立てた作戦計画が、戦地の国民党軍の司令官に伝わる前に、毛沢東は情報を摑んでいたなんて伝説もあるくらいです。
敵のなかに深く入り込んで徹底的に情報を盗み、策動し、潰すのは中国共産党のお家芸なのです。永田町にもそういう人物がいるのではないか、……」
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親中国派・媚中派は、現代でも周恩来が日本に仕掛けた巧妙な陰謀・謀略の罠にはまり、毛沢東よりも周恩来を偉大な指導者と崇めている。
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独立王国時代のチベットで、政権中枢にいた親中国派・媚中派は中国共産党政府との友好関係を築く為に、条約を結び、中国人移民を受け入れた。
中国共産党は、中国人移民を保護する名目でチベットを侵略し、法王派、反中国派、民族主義、親英派、新インド派、宗教勢力を武力で排除して占領してチベット王国を滅亡させ、チベット宗教を弾圧し、死と暴力の恐怖支配を続けた。
中国軍は、共産主義による人民解放を大義として200万人以上のチベット人を虐殺した。
中国人の微笑みには、血に飢えた残忍な真顔が隠れている。
親中国派・媚中派は、自国の国益や自国民の権利よりも中国共産党の利益を優先している。
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一般中国人と中国共産党員・中国軍人・武装警察官・民兵・海民兵・秘密結社構成員・中国人犯罪者・その他は別人である。
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ロシア革命は、少数派であるボルシェビキのさらに少数派であるレーニン率いるロシア共産党が勝利して成功した。
レーニンは、ソ連とロシア共産党を支配する為に少数精兵として党内のレーニン派以外の多数派・反主流派を粛清した。
スターリンも、独裁支配を完成させる為にライバルのトロッキーやレーニン派など1,000万人以上を粛清して独自の少数派を維持した。
共産主義とは、人民多数派ではなく党少数派、少数派の中の少数精兵のイデオロギーである。
それは、中国共産党も同様である。
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