➰2)─1─裕仁皇太子の欧州訪問。大正天皇の関東大震災詔書。大正天皇崩御。日本児童文学の創成期。ジャポニズムの終焉。1912年 ~No.2No.3No.4No.5 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本にとって歴史とは「鏡」。中国にとって歴史とは「教訓」。
 日本を愛したアインシュタイン
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 ロシア共産党指導部が目指した世界革命とは、世界中の全ての国家を打倒し、貧富の格差の元凶たる階級を廃絶して、人民を国民という枠組みから解き放ち、共産主義に基づく絶対平等の新たな統合体を建設する事であった。
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 1910年1月23日 ボート転覆事故発生。逗子開成中学校の生徒ら12人は、休日に無断で学校所有のボートを海に出したが七里ヶ浜沖で遭難し、全員死亡する事故が発生した。
 「真白き富士の根 歌詞
 真白き富士の嶺、緑の江の島
 仰ぎ見るも、今は涙
 歸らぬ十二の雄々しきみたまに
 捧げまつる、胸と心
 
 ボートは沈みぬ、千尋ちひろ)の海原(うなばら)
 風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に
 力も尽き果て、呼ぶ名は父母
 恨みは深し、七里ヶ浜
 
 み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて
 月も星も、影を潜め
 みたまよ何処に迷いておわすか
 歸れ早く、母の胸に
 
 みそらにかがやく、朝日のみ光
 暗(やみ)に沈む、親の心
 黄金(こがね)も宝も、何にし集めん
 神よ早く、我も召せよ。
 
 雲間に昇りし、昨日の月影
 今は見えぬ、人の姿
 悲しさあまりて、寝られぬ枕に
 響く波の、音も高し
 
 帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に
 我も恋し、失(う)せし人よ
 尽きせぬ恨みに、泣くねは共々
 今日も明日も、かくてとわに」
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 1912年7月30日 明治45年に大正元年改元された。
 大正天皇は、明治維新日清戦争日露戦争日韓併合で日本帝国を築いた先帝・明治天皇の御代への反動から、軍事を嫌い、和歌や詩歌などの文芸に勤しんだ。
 日本軍部内部には、欧米列強の貪欲な植民地支配を続ける帝国主義時代に於いて、周辺敵国の侵略から祖国を守り、日本民族日本人を奴隷にしない為にも、先帝の遺訓を墨守しない大正天皇に忠誠を誓う事に戸惑う空気があった。
 一部の軍国主義者は、国家元首として政治・外交の大権を行使せず、大元帥として軍事の統帥を指揮せず、帝王学に関心を示さず文芸に現を抜かす文弱な大正天皇は「お身体が弱い」と見限った。
 狂信的国粋主義者は、大正天皇の「穏やか・健やか」を求める御心を無視して、「大正天皇は精神的に病んでいる」とその尊厳を踏みにじり、国民の間に皇室への不信感を広め、皇室と国民の間を引き裂いた。
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 1914年 大正天皇の実母・昭憲皇太后崩御された。
 臣民・日本国民は、明治天皇の偉業を記念行事として様々な提案や要望を行った。
 神道思想に基づき、明治天皇昭憲皇后両陛下を祀る神社の建立が発議された。
 現代の、明治神宮である。
 旧彦根藩主井伊家下屋敷の荒れ地に、計画的に植栽して人工的自然林を作る事となった。
 16年から工事が始まり、20年に完成した。
 全国から延べ11万人の青年団が奉仕し、全国から献木360余種、10万本以上が植林された。
 同時に。明治天皇の大葬が行われた青山練兵場跡地は、明治神宮の境内の一部として、明治天皇の偉業を後世に伝える為の外苑として整備され、
 植林を奨励するの神道は、世界的宗教の非常識である。
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 1916(大正5)年4月3日 神武天皇2500年式年祭
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 1918年 日本のキリスト教6教派は、キリスト教東京女子大学を創立した。
 大本教出口なおは、国常立尊の神懸かりによって祈祷や天変地異の予言を行って信者を増やした。
 娘婿の出口王仁三郎は、皇祖・天照大神の上に国常立尊を据え、終末論の予言と世の立て直しで信者を拡大した。
 貧困の格差を解決する為には社会改革しかないと確信する軍人や役人の間で、大本教が急速に蔓延した。
 日本政府と皇室関係者は、万世一系男系天皇制度(直系男系相続)という国體を破壊する危険な宗教として弾圧した。
 日本人は、古代から、宗教が社会の表舞台に出て政治を壟断する事を嫌った。
 4月 読売新聞投書「この頃市中の電車に乗っていて著しく目に付く事は、婦人や老人に席を譲る風が衰えたという事であります」
 日本人は、必ずしも外国人以上に公徳心があって、年長者に敬意を払い、婦女子を庇っていたわけではない。
 むしろ、自分勝手な面が多かく、キリスト教精神の白人や儒教価値観の中国人・朝鮮人よりも悪かったともいえる。
 7月 『赤い鳥』創刊。
 三大童話・童謡は、1919年『金の船』、1920年『童話』。
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 新渡戸稲造は、日本とアメリカ・外国をつなぐ「太平洋の橋」になるべく努力し、日本国内で軍人がのさばり軍国主義化する事を懸念した。
 「人々の思想が統一され、異説がないとしたら、社会の進歩はない」
 「慢心は亡国の最大原因である」
 「他国の領土をかすめ取り自分のみが優等とするは、憂国でも愛国でもない」
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 大正8(1919)年 東京帝国大学京都帝国大学に、経済学ではなく社会科学としての経済学部が新設され、経済原理はマルクス経済学であった。
 同年に、大原社会問題研究所が設立され、河上肇高野岩三郎等がここを拠点として活動した。
 マルクス・レーニン主義は、理想社会を実現できるとして知的エリート層に受け入れられた。
 マルクス経済学を教える経済学部は、他の帝国大学や国立・公立・私立の各大学に新設された。
 理想に燃える優秀な学生は、カール・マルクスの「資本論」を読み、レーニンの革命理論を学んだ。
 5月7日 皇太子裕仁親王の18歳の成年式。
 5月10日 霞ヶ関離宮で、裕仁皇太子の祝賀晩餐会が執り行われた。
 山県有朋は、多くの元老が鬼籍に入って既にこの世になく、自分も何時かはこの世を去る。
 元老がいなくなった後、日本を植民地化しようと虎視眈々と狙っている欧米露列強に抗して日本を守り、独立国を維持するには裕仁皇太子の教育は喫緊の重要課題と憂慮していた。
 昔の帝の様に詩歌に耽る様な平和な時代ではない以上、冷徹な現実的帝王学を施す必要があるととして、皇太子の教育改革に取り組んだ。
 1、人に接する機会を多くして談笑になれる事。
 2、学問の方針は開口を広くして奥行きの浅い方針を取る事。
 3、乗馬練習を励行する事。
 4、近衛兵を呼んで軍隊指揮を実習する事。
 5,語学学習に努める事。
 6,外遊については自身の立場を伯爵位のことにして手軽に少数の供奉員にて実行する事。
 7、兵器の操作に関心を持たしめて射撃訓練を試みる事。
 国家元首として国家を背負う重責を全うするには、多方面多分野の知識を身につける必要がある為、好き嫌いを言わずに国内外から優秀な者を積極的に召して謙虚にその説を聞く必要がある。
 国内教育として、政治家から政治・外交・経済の、学者から学問の、軍人から軍事の、外国大使からその国の内情の、多方面での講義を受け質疑応答する事。
 国外教育としては、各国王室や各国の元首と自由に歓談できる様に外国語を学ぶ事。
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 日本皇室の人道貢献。
 日本軍は、子供を、共産主義者銃口から身を犠牲にして助けた。
 日本神道・日本仏教は、弱者を労り、数多くの難民を共産主義者から助けた。
 軍国日本は、世界が見捨てた難民を率先して救助した。
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 1920年 諸外国は、シベリアに取り残されていた哀れなポーランド人孤児427人を見捨てた。
 日本政府は、天皇の大御心・御稜威に従い、日本軍に命じてポーランド人孤児を救出し、日本国内に保護して、全員を母国のポーランドに送り届けた。
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 白人至上主義の差別が正義とされていた西洋社会は、突然、現れた非白人非キリスト教徒日本人をキリスト教秩序を破壊する脅威として警戒した。 
 黄禍論は根強く残っていた。
 「外国人にわかるような日本史を」
 日本の政財界や学界や小説家など多方面の有識者が結成していた大和会は、宗教的人種差別を奉じている白人が支配する世界で、非白人非キリスト教の日本人が5大国の一国として国際的地位を得る事は反感や敵意を招くと危惧した。
 そこで、日本という国を正しく理解して貰う為の手引き書として歴史書を出版する事にした。
 京都大学の原勝郎博士は、ニューヨークとロンドンにあるG・P・アーッナム社のニッカー・ボッカー・プレスから英文の通史『日本史入門』を出版した。
 そこで、日本民族の祖先を南方説で説明した。
 日本は、世界に理解して貰う為にあらゆる手段をつくし、たえず話しかけていた。
 だが、1860年代に浮世絵によって起こったジャポニズム・「日本趣味」ブームは、未開趣味・エスニックによるものであった。
 だが、西洋諸国は、日本が近代化し西洋化する事を歓迎せず、発展途上国から先進国の仲間入りすると危険な競争相手として警戒し始めた。
 日本の孤独はこの時から始まった。
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 新渡戸稲造は、国際連盟事務次長に就任し、連盟の規約に「人種的差別撤廃」を提案したが、アメリカなどによって否決された。
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 夏 山県有朋松方正義西園寺公望の3元老は、貞明皇后に対して、裕仁皇太子を国際人として通用する天皇に育てる為に長期間の外遊をさせるべきだと提案した。
 貞明皇后など宮中は、病床にある大正天皇の健康状態を考えると、長期間、裕仁皇太子が日本を離れる事は好ましくないと反対してきていた。
 貞明皇后「皇太子はまだ若く、外遊させる事には気が進まない」
 10月7日 原敬首相は、裕仁皇太子への実際に関する教育が必要と考え、午餐の陪食に与った機会に、食後のコーヒーの席で世界情勢を説明した。
 裕仁皇太子も、次期天皇の自覚から、この後も原首相や大隈重信らから政治や外交などについての説明を受けた。
 10月28日 貞明皇后は、裕仁皇太子が天皇に即位して日本国家を背負って立つ為には洋行も必要かもしれないと考え、中村宮相を通じて原敬首相に「結局政上必要あれば、政上の事は干渉しない」と伝えた。
 原敬首相は、裕仁皇太子の洋行準備を始め、予定訪問国、滞在日程、随伴者のなどの決定作業に取り掛かった。
 11月 ヒロヒト皇太子(陸海軍少佐)は、大正天皇の名代として陸軍大演習を統監した。
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 ウィキペディア 1921年(大正10年)には大正天皇皇太子(後の昭和天皇)渡欧に際し戦艦2隻(香取《艦長漢那憲和大佐、海兵27期。沖縄出身》、鹿島《艦長小山武大佐、海兵26期》)は遣欧艦隊を編成し、皇太子は「香取」を御召艦とする。
 沖縄県民にとって名誉な事であった。
 心卑しい日本人・大和人は、沖縄県民・琉球人を差別していた。
 が、日本天皇・皇族は、大和人も琉球人もアイヌ人も、そして台湾人も朝鮮人も等しく日本国民であるとして、分け隔てる事なく接していた。
 そこには民族主義は存在しない。
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 1921年  原敬首相と西園寺公望等は、裕仁皇太子には広い世界を見て良き天皇になってもらうべく、貞明皇后や宮中を説得して半ば強引に欧州訪問を実現した。
 2月14日 裕仁皇太子の外遊勅許が下され、随伴者・閑院宮戴仁親王、供奉(ぐぶ)長・珍田捨巳と供奉員が決定した。
 右翼は、裕仁皇太子の洋行を阻止するべく、供奉員の式部官・西園寺八郎邸を襲撃して西園寺八郎に手傷を負わせた。
 原敬首相は、右翼の再襲撃を警戒して、供奉員1人に7〜8人の警官を護衛につけて警護に当たらせた。
 2月18日 駐日イギリス大使チャールズ・エリオットからロンドンのカーズン外相への報告電「日本の外務大臣は殿下の身の安全についての深刻な懸念を私に表明し、英国当局があらゆる警戒措置をとるよう希望しています。宮内大臣は朝鮮不満分子が英国の東洋植民地の何処かで殿下に対し襲うかもしれないと心配しています」
 3月3日 日本海軍は、御召艦が立ち寄る予定の停泊地に先行させて警備するべく、クライト号に海軍軍人を乗船させ出港させた。
 裕仁皇太子一行は、横浜港で御召艦・香取に乗艦し、随艦・鹿島を従えて洋行に出発した。
 横浜港に停泊していた全ての軍艦や船舶は、航海の無事を祈って一斉に警笛を鳴らした。
 裕仁皇太子・昭和天皇の波乱な人生の始まりである。
 3月3日 御召艦「香取」と供奉する「鹿島」。
 3月10日 御召艦は、イギリス植民地の香港に入港した。
 3月11日 イギリス外務省は、駐英日本大使館に「朝鮮人不満分子による脅威の可能性について特に注意を払うよう」にとの警告を発した。
 イギリス政府は、陸海軍省内務省、植民地省に対して、裕仁皇太子を守る為に不逞朝鮮人を厳しく取り締まる様に命じた。
 朝鮮人テロリストは、裕仁皇太子を暗殺するべく付け狙っていた。
 3月28日 御召艦は、シンガポールに立ち寄ってイギリスの植民地であるセイロン島コロンボに入港した。
 これまでは非公式寄港であった。
 ここからは公式寄港となり、寄港の際は現地の総督官邸で開かれる晩餐会に出席しなければならず、裕仁皇太子の西洋式礼儀作法が試される事となった。
 イギリス総督官邸では、裕仁皇太子の来訪を歓迎し、敬意を持って玄関に国旗「日の丸」を掲げ、イギリス海軍軍楽隊は国歌「君が代」を吹奏した。
 4月30日 御召艦は、カイロ、マルタ島を経てイギリス直轄植民地ジブラルタルに到着した。
 国際連盟海軍会議に出席していた竹下勇中将と駐英大使館の吉田茂一等書記官が、裕仁皇太子一行に合流した。
 5月7日 東宮職御用掛の山本信次郎大佐は、イギリスのポーツマス軍港に入国する迄の間、フランス語の猛勉強、晩餐会や宴席でのマナーを教えた。
 海軍将校達は、体力作りの為に相撲を興じ、手加減せず、皇太子を投げ飛ばしていた。
 勝負に、負ける悔しさと情けなさを感じ、勝つ為に諦めず全力でぶつかっていく精神力を養った。
 裕仁皇太子は、特別扱いされない環境に置かれ、本気でぶつかる事で精神力と体力を養って成長された。
 「それまでの籠の鳥のような生活から自由を経験し、それが今も役立っている」(昭和45年9月16日)
 5月9日 御召艦・香取は、イギリスのポーツマス軍港に入港した。
 イギリス皇太子プリンス・オブ・ウェールズが、裕仁皇太子を出迎えた。
 裕仁皇太子とイギリス皇太子は、宮廷列車でロンドンのビクトリア駅に向かった。
 ビクトリア駅では、ホームに敷かれた赤絨毯の上で国王ジョージ5世が立って出迎えた。
 裕仁皇太子とジョージ5世は、握手を交わし、宮廷馬車に乗って多くのイギリス国民が歓声を上げる中をバッキンガム宮殿に向かった。
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 裕仁皇太子は、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・イタリアのヨーロッパ5ヵ国を歴訪し、先の大戦の激戦地を訪れて戦争の悲惨さに悲痛な思い出を抱いた。
 ローマ教皇キリスト教徒に対する影響力を痛感して、バチカンを訪れた。
 キリスト教朝鮮人テロリストは、ヒロヒト皇太子を暗殺する為に付け狙っていた。
 裕仁皇太子は、イギリス政府の計らいで、スコットランドのパースにあるブレア城に2日間滞在し、城主アソール公爵夫妻の持て成しを受けた。
 別れの晩餐会後。アソ−ル公夫妻と共に、下男下女や領民らとワルツを踊り、スコットランドの別離の歌を合唱した。
 裕仁皇太子は、身分を気にせず領民に屈託なく接するアソール公に模範とすべき貴族を、国家と国民の窮状から眼を逸らさない国王ジョージ5世に理想とすべき君主を見た。
 庶民と一緒になって踊り歌って楽しい一時を過ごす事によって、現人神でも特別な存在でもなく、一個の人間である事を実感した。
 この「自分も同じ人である」という自己発見が、庶民感覚を持った常識人とし、戦争終結における聖断と戦後の全国巡幸へとつながっていく。
 7月15日 裕仁皇太子は、バチカンを訪れ教皇ベネディクゥス15世と面会した。
 9月3日 裕仁皇太子は、帰国した。
 11月25日 ヒロヒト皇太子は、20歳で摂政に就任し、摂政宮と称した。
 共産主義テロリストは、天皇制度を廃絶する為に、摂政となった裕仁皇太子を暗殺するべく付け狙った。
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 朝鮮人テロリストも、植民地支配からの解放の為に裕仁皇太子を暗殺しようとした。
 一般の日本人の間では口に出さなくても朝鮮人テロリストの事は広く知られ、朝鮮人は何を考えているのか分からない得たい知れない恐怖の対象であった。
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 日本人は、家族が平穏に暮らす為には国が平らかである事が大事と考え、国に感謝し、国を穏やかに保つ事に腐心した。
 「歴史は美しい鏡」として、この土地で暮らして来た先祖代々の生の物語を嘘偽りなく残す事に努力した。
 今生きている者は、明日生きる者の為に、昨日生きていた者の事を正しく語り継ぐ役目がある。
 日本の歴史は、教訓ではなく鏡である。
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 1922年 アルバート・アインシュタイン(ドイツ系ユダヤ人)「私は地球上にこの様に謙虚にして品位ある国民が存在する事に深い感銘を受けた。私は世界各地を旅行してきたが、いまだかって、この様な気持ちの良い国民に出会った事がない。日本の自然や芸術は美しく、深い親しみを覚える」
 6月9日 裕仁皇太子は、ピウス11世の即位を祝って、大正天皇との連名で書簡を送った。
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 1923年 関東大震災
 9月12日 大正天皇関東大震災直後ノ詔書「帝都復興に関する詔書
 朕、神聖なる祖宗の洪範を紹ぎ、光輝ある国史の成跡に鑑み、皇考中興の宏謨を継承して、あえて愆(あやま)らざらむことを庶幾し、夙夜兢業として治を図り、幸に祖宗の神佐と国民の協力とにより世界空前の大戦に処しなおよく小康を保つを得たり。
 いずくんぞ図らん、九月一日の激震は事咄嗟に起り、その震動極めて峻烈にして、家屋の潰倒・男女の惨死幾万なるを知らず。あまつさえ火災四方に起りて炎焔天に冲(のぼ)り、京浜その他の市邑一夜にして焦土と化す。この間、交通機関杜絶し、ために流言蜚語盛んに伝わり、人心洶々(きょうきょう)としてますますその惨害を大ならしむ。これを安政当時の震災に較ぶれは、むしろ凄愴なるを想知せしむ。
 朕深く自ら戒慎してやまざるも、惟(おも)うに天災地変は人力をもって予防し難く、ただ速やかに人事を尽して民心を安定するの一途あるのみ。およそ非常の秋(とき)に際しては非常の果断なかるべからず。もしそれ平時の条規に膠柱して活用することを悟らず、緩急その宜(よろしき)を失して前後を誤り、あるいは個人もしくは一会社の利益保障のために多衆災民の安固を脅すか如きあらば、人心動揺して抵止するところを知らず。朕深くこれを憂綃(ゆうてき)し、すでに在朝有司に命じ臨機救済の道を講ぜしめ、まず焦眉の急を拯(すく)いてもって恵撫慈養の実を挙げんと欲す。
 そもそも東京は帝国の首都にして、政治経済の枢軸となり国民文化の源泉となりて、民衆一般の瞻仰するところなり。一朝不慮の災害に罹(かか)り今やその旧形を留めずといえども、依然としてわが国都たる地位を失わず。これをもって其の善後策はひとり旧態を回復するに止まらず、進んで将来の発展を図り、もって巷衢(こうく)の面目を新たにせざるべからず。惟(おも)うにわが忠良なる国民は、義勇奉公、朕と共にその慶に頼(よ)らんことを切望すべし。これを慮りて朕は宰臣に命じ、速やかに特殊の機関を設定して、帝都復興の事を審議調査せしめ、その成案はあるいはこれを至高顧問の府に諮(と)い、あるいはこれを立法の府に謀り、籌画(ちゅうが)経営遺算なきを期せんとす。
在朝有司、よく朕が心を心とし、迅(すみやか)に災民の救護に従事し、厳に流言を禁遏し、民心を安定し、一般国民またよく政府の施設を翼(たす)けて奉公の誠悃(せいこん)を致し、もって興国の基を固むべし。朕、前古無比の天殃に際会して?民(じゅうみん)の心いよいよ切に、寝食ために安からず。なんじ臣民、それよく朕が意を体せよ。
(大正十二年九月十二日)
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 関東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日)
 朕神聖ナル祖宗ノ洪範ヲ紹キ光輝アル国史ノ成跡ニ鑑ミ皇考中興ノ宏謨ヲ継承シテ肯テ愆ラサラムコトヲ庶幾シ夙夜兢業トシテ治ヲ図リ幸ニ祖宗ノ神祐ト国民ノ協力トニ頼リ世界空前ノ大戦ニ処シ尚克ク小康ヲ保ツヲ得タリ
 奚ソ図ラム九月一日ノ激震ハ事咄嗟ニ起リ其ノ震動極メテ峻烈ニシテ家屋ノ潰倒男女ノ惨死幾万ナルヲ知ラス剰ヘ火災四方ニ起リテ火焔天ニ冲リ京浜其ノ他ノ市邑一夜ニシテ焦土ト化ス此ノ間交通機関杜絶シ為ニ流言蜚語盛ニ伝ハリ人心洶々トシテ倍々其ノ惨害ヲ大ナラシム之ヲ安政当時ノ震災ニ較フレハ寧ロ凄愴ナルヲ想知セシム
 朕深ク自ラ戒慎シテ已マサルモ惟フニ天災地変ハ人力ヲ以テ予防シ難ク只速ニ人事ヲ尽シテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ非常ノ果断ナカルヘカラス若シ夫レ平時ノ条規ニ膠柱シテ活用スルコトヲ悟ラス緩急其ノ宜ヲ失シテ前後ヲ誤リ或ハ個人若ハ一会社ノ利益保障ノ為ニ多衆災民ノ安固ヲ脅スカ如キアラハ人心動揺シテ抵止スル所ヲ知ラス朕深ク之ヲ憂綃シ既ニ在朝有司ニ命シ臨機救済ノ道ヲ講セシメ先ツ焦眉ノ急ヲ拯フテ以テ恵撫慈養ノ実ヲ挙ケムト欲ス
 抑モ東京ハ帝国ノ首都ニシテ政治経済ノ枢軸トナリ国民文化ノ源泉トナリテ民衆一般ノ瞻仰スル所ナリ一朝不慮ノ災害ニ罹リテ今ヤ其ノ旧形ヲ留メスト雖依然トシテ我国都タル地位ヲ失ハス是ヲ以テ其ノ善後策ハ独リ旧態ヲ回復スルニ止マラス進ンテ将来ノ発展ヲ図リ以テ巷衢ノ面目ヲ新ニセサルヘカラス惟フニ我忠良ナル国民ハ義勇奉公朕ト共ニ其ノ慶ニ頼ラムコトヲ切望スヘシ之ヲ慮リテ朕ハ宰臣ニ命シ速ニ特殊ノ機関ヲ設定シテ帝都復興ノ事ヲ審議調査セシメ其ノ成案ハ或ハ之ヲ至高顧問ノ府ニ諮ヒ或ハ之ヲ立法ノ府ニ謀リ籌画経営万遺算ナキヲ期セムトス在朝有司能ク朕カ心ヲ心トシ迅ニ災民ノ救護ニ従事シ厳ニ流言ヲ禁遏シ民心ヲ安定シ一般国民亦能ク政府ノ施設ヲ翼ケテ奉公ノ誠悃ヲ致シ以テ興国ノ基ヲ固ムヘシ朕前古無比ノ天殃ニ際会シテ*民ノ心愈々切ニ寝食為ニ安カラス爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
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 国民精神作興ノ詔書(大正12年11月100日)
 朕惟フニ国家興隆ノ本ハ国民精神ノ剛健ニ在リ之ヲ涵養シ之ヲ振作シテ以テ国本ヲ固クサセルヘカラス是ヲ以テ先帝意ヲ教育ニ留メサセラレ国体ニ基キ淵源ニ遡リ皇祖皇宗ノ遺訓ヲ掲ケテ其ノ大綱ヲ昭示シタマヒ後又臣民ニ詔シテ忠実勤倹ヲ勧メ信義ノ訓ヲ申ネテ荒怠ノ誡ヲ垂レタマヘリ是レ皆道徳ヲ尊重シテ国民精神ヲ涵養振作スル所以ノ洪謨ニ非サルナシ爾来趨向一定シテ効果大ニ著レ以テ国家ノ興隆ヲ致セリ朕即位以來夙夜兢兢トシテ常ニ紹述ヲ思ヒシニ俄ニ災変ニ遭ヒテ憂悚交々至レリ
 輓近学術益々開ケ人智日ニ進ム然レトモ浮華放縦ノ習漸ク萌シ軽佻詭激ノ風モ亦生ス今ニ及ヒテ時弊ヲ革メスムハ或ハ前緒ヲ失墜セムコトヲ恐ル況ヤ今次ノ災禍甚大ニシテ文化ノ紹復国力ノ振興ハ皆国民ノ精神ニ待ツヲヤ是レ実ニ上下協戮振作更張ノ時ナリ振作更張ノ道ハ他ナシ先帝ノ聖訓ニ恪遵シテ其ノ実効ヲ挙クルニ在ルノミ宜ク教育ノ淵源ヲ祟ヒテ智徳ノ並進ヲ努メ綱紀ヲ粛正シ風俗ヲ匡励シ浮華放縦ヲ斥ケテ質実剛健ニ趨キ軽佻詭激ヲ矯メテ醇厚中正ニ帰シ人倫ヲ明ニシテ親和ヲ致シ公徳ヲ守リテ秩序ヲ保チ責任ヲ重シ節制ヲ尚ヒ忠孝義勇ノ美ヲ揚ケ博愛共存ノ誼ヲ篤クシ入リテハ恭倹勤敏業ニ服シ産ヲ治メ出テテハ一己ノ利害ニ偏セスシテ力ヲ公益世務ニ竭シ以テ国家ノ興隆ト民族ノ安栄社会ノ福祉トヲ図ルヘシ朕ハ臣民ノ協翼ニ頼リテ彌々国本ヲ固クシ以テ大業ヲ恢弘セムコトヲ冀フ爾臣民其レ之ヲ勉メヨ
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 1924年 加藤玄知(陸軍士官学校教授・東京帝国大学神道講座助教授)は「神道」を「宗派的神道」と「国家的神道」とに分け、さらに「国家的神道」を「神社神道」と「国体神道」とに区分する説を立てた。
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 1925(大正14)年 東京帝国大学某教授「我が日本の道徳上の現象を観察して見ると、……世界大戦(第一次世界大戦)以後は余程ひどくなって来ていたのである。あの時に比べて見ると十倍もそれ以上も悪化した形勢に見える」
 年寄りが、今の若者は昔の若者に比べてだらしなく道徳心がないと嘆き、昔は良かったと懐かしむのは古今東西変わりがない。
 古代エジプトでも、同じ事がいわれていたとされている。
 ウェストン「明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かな事だろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔の様に素朴で絵の様に美しい国になる事はけっしてあるまい」(『知られざる日本を旅して』)
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 1926年 天皇機関説美濃部達吉は、『憲法撮要』で、「天皇神聖にして侵すべからず」について、「天皇はその全ての行為につき、自らその責めに任ぜざる事これなり」と説明していた。
 当時の全ての王国では、王権を守る為に、「君臨すれど統治しない」という立憲君主制を採用し、主権者である国王に政治的責任を負わせず、輔弼である政府と輔翼である軍部が責任を負った。
 明治憲法は、「神聖不可侵の権利」を、近代的憲法精神から国家元首天皇の政治的無答責を定めていのであって、建国神話に基づく宗教的な「神の裔で、現人神」を根拠とはしなかった。
 12月25日 年号が、大正から昭和に改元された。
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 1928年5月14日 台中事件。皇族暗殺失敗テロ。




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