🌏38)─1─明治の精神が目指したのは立派な人格。人神信仰としての靖国神社。1895年~No.111No.112 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 国学者儒教学者に敗北して社会の道徳から大学の学問に追い遣られた。
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 1895年 日清戦争後。全国で忠魂碑の建造が盛んになり、宗教宗派に関係なく戦没者の魂を慰霊した。
 国家神道は、無宗教であるとの建前から、宗教宗派に関係なく国民は全て拝礼する事が求められた。
 平安遷都1100年記念として、桓武天皇を祭神とする平安神宮が創建された。
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 1897年 内村鑑三は、1894年7月の夏期学校ど行った講演をまとめて『後世への最大遺産』という単行本として、京都便利堂から発行した。
 山田風太郎「人間にとって精神ほど偉大なものはありません。現代の眩惑するような科学の戦いの原動力は、実に人間の精神なのです。内村鑑三先生はこういっておられます。人類史上最大の遺物は、知識でもなければ事業でもない、ただ人格であると。私は立派な医者になりたいと思います。しかしそれは流行るとか技術がうまいとかいう点で立派なのではなく、人格的に立派な医者になりたいのです」(昭和19年6月27日)
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 1898(明治31)年 明治民法において、夫婦が別姓では「家」を単位とした戸籍が作りづらいとして、「家族は同じ家の姓を名乗る」ように規定した。
 世界的な主流は夫婦別姓か結合姓であって、夫婦同姓は日本だけの特殊な事例である。
 結合姓とは、夫の姓と妻の姓を並べて新しい姓を作る事である。
 つまり、鈴木・田中、鈴木・田中・佐々木、鈴木・田中・佐々木・佐藤、と言ったものである。
 欧米では長たらしい為に鈴木・T、鈴木・T・S、鈴木・T・S・Sとしている。
 清国の康有為や梁啓超ら変法派エリートは、中国を近代国家にする為に日本の明治維新に倣って戊戌変法維新を行った。
 康有為は、元勲・伊藤博文の人間的見識と政治的才能を見込んで、清国政府の首相あるいは最高政治顧問として招聘しようとした。
 伊藤博文は、「性急で表面的な改革を戒め、計画的に漸次進行するようにし、農・工・商の発展の為にはまず教育を整備すべし」と助言した。
 日本としては、ロシア帝国の侵略から祖国日本を守る為に、清国との対等関係での攻守同盟を切望していたが、中国国内の近代改革は難航が予想され、日清戦争での敗北から反日感情が根強く残っている事に憂慮した。
 西太后守旧派は、西欧的立憲君主制は祖法に反するとして戊戌変法維新を弾圧した。 反日派は、日本への復讐戦を仕掛けるためにロシア帝国と極秘に接触していた。
 2月 アメリカ・スペイン戦争。アメリカは、南北戦争とインディアン戦争という内戦で中国市場から後退していた。その遅れを挽回するべく、北半球の太平洋島嶼群を武力で占領する膨張戦略策を推し進めた。
 アメリカ軍は、謀略を持ってスペインに戦争を仕掛け、開戦と同時に香港に待機させてあった艦隊をフィリピンに急派し、スペイン東洋艦隊を全滅させ、マニラを占領した。
 フィリピン革命軍は、スペインからの独立の為に、アメリカ軍に協力してスペイン軍を攻撃した。
 フィリピンを占領したアメリカ軍は、独立派フィリピン人との約束を反故にして大弾圧を行う。
 独立派フィリピン人は、日本に支援を要請した。
 日本陸軍と右翼は、政府に内緒で武器弾薬を供与した。
 アメリカは、ハワイ併合に反対する孤立主義者に対して、仮想敵国日本からアメリカ本土を守る為に必要な防波堤であるとして賛成させた。
 東郷平八郎ら海軍首脳部は、アメリカのハワイ併合に隠された対日戦略を読み取って警戒した。
 後に。東郷平八郎は、艦隊派として、日本海軍の力を削ぐ軍縮条約はアメリカの陰謀であるとして反対し続けた。
 ドイツ帝国は、窮地に陥ったスペインから南洋諸島を金銭で購入して領有した。
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 1899年 皇国史観により、歴史教科書に天照大神三種の神器天孫降臨を加えた。
 信教の自由は、不平等条約の条約改正が実現するや、欧米列強の意向を顧慮する必要が薄れた。
 国務長官ジョン・ヘイは、中国市場に割り込む為に、門戸開放・領土保全・機会均等の三原則を発表した。
 アメリカは、自国の利益になるルールを勝手に決め、相手がどれだけ不利益になろうともお構いなしに押しつけてくる。自分で決めたルールでも、少しでも相手に有利になるや別の新しいルールを決めて外交交渉を行った。
 それが、アメリカの掲げる「正義」である。
 アメリカの正義とは、「自由と民主主義」の原理を世界中に輸出し、すべての国が清く正しく身を律するというピューリタン的価値観を共有し、すべての人がキリスト教世界の一員として隣人愛の信仰で生まれ変わる事あった。
 アメリカは、自己犠牲を払って「正義」を広めようとした。
 キリスト教会は、未開の民族宗教を滅ぼすべく、宣教師を送り込み、各地にミッション・スクールを開校して近代的文化事業を行った。特に、中国のキリスト教教育機関は民族の独立と日本の影響力の排除に力を入れた。卒業した中国人や朝鮮人は、抗日戦士となって戦った。
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 義和団事件。ドイツ人宣教師は、山東省などで清国から許された特権に行使して、仏教寺院を破壊してキリスト教会を建て、布教活動を行って信者を増やした。
 仏教徒は、宣教師の横暴に激怒して抗議運動を行った。
 宣教師と中国人キリスト教徒は、神聖なる「隣人愛の信仰」を守る為に暴力で対抗した。
 地元の仏教徒や土着信仰者とキリスト教徒の対立は激化し、各地で暴力紛争が起きていたが、西洋列強の威を借りるキリスト教徒側が優位にあった。
 義和団は、反キリスト教を掲げて参加者を増やし、山西省太原で宣教師とその家族、尼僧と中国人キリスト教徒ら230人を虐殺し、更なる参加者を加えて北京を目指して移動し始めた。
 中国人暴徒は、各地のキリスト教会は襲撃して略奪と放火を行い、中国人キリスト教徒の家の他に地主や資産家の屋敷も襲って略奪と放火を行った。
 キリスト教徒は見付けしだい陰惨な方法で惨殺され、女性は少女から老婆まで強姦された後に酷たらしい方法で殺害された。
 中国人は、同胞であろうが外国人であろうが敵とみなした者を、驚喜して、世にも恐ろしい猟奇的な方法で人を殺す。
 駐清国ドイツ公使フォン・ケトラーは、敬虔なキリスト教徒にして宗教的人種差別主義者として、ドイツ人宣教師や中国人キリスト教徒が虐殺されてている事に激怒して、怪しいと見なした中国人を自己防衛として殺害し、お付きの中国人ボーイも射殺した。
 義和団と外国人排斥派は、殺害すべき各国外交官リストを作成し、最初の血祭りとして、日清戦争の報復として日本人外交官・杉山彬を地獄の苦しみの如くゆっくりと嬲り殺しにした。
 中国人は、儒教的価値観から、日本人への対等関係での親近感は皆無であった。
 中国人と心の内をさらけ出してトコトン話し合えば、固い信頼関係が築いて親友になれると確信する日本人がいたら、その日本人は本当の中国を知らない証拠である。
 明治から大正にかけて、大アジア主義を掲げて孫文等の民族解放運動を全面支援した日本右翼の失敗は、真の中国を理解できなかったからである。
 義和団と外国人排斥派は、清国外務省に向かう途中のケトラーを捕らえ、鼻と耳を切り取り、生皮を剥ぎ出血多量で絶命するまで放置した。そして、心臓をえぐり出して食べた。
 人の肉を食うという食文化は、中華料理や漢方の中に存在する。
 平安時代から明治まで、日本が中華世界と正式な国交を結ぶ事を拒否し両国民の往来を禁止しにはそれなりの理由があった事で、中国の事を正確に詳しく知っていた国際的教養人の英断であった。
 日本と中国は水と油の如く、どう考えても理解し合えないし、どう努力しても交わる事はあり得ない。
 日本の不幸は、如何なる分野でも中国との関係を持った時に起きていた。
 ドイツ軍司令官アルフレッド・ワルデルゼー将軍は、北京に入城するや、報復としてケトラー殺害犯を探し出して酷たらしく惨殺した。
 ドイツ軍兵士に対して、ドイツ皇帝の名による略奪を3日間許し、その後に、自分の為の略奪を3日間許した。
 ドイツ軍兵士は、戦勝国の当然の権利として、ドイツ軍占領地で略奪と強姦と殺害を行った。
 清国政府は、儒教専制君主体制を維持する為に、外国人兵士によって自国民が襲われ殺されようとも助けようとしなかった。
 中国人は、ドイツ軍やロシア軍などの外国軍の略奪と殺戮から逃れる為に、唯一の安全地帯であった日本軍占領地区に逃げ込んだ。
 日本軍だけが、中国人を守っていた。
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 1900年 津田梅子は、アメリカ・フィラデルフィア委員会からの寄附金と伊藤博文らの支援で女子英語塾(後の津田塾大学)を設立した。
 1901(明治34)年 広岡浅子は、女性の社会的地位を高める為に日本女子大学開校に協力した。
 モルガン家当主の甥ジュージ・D・モルガンは、京都の刀剣商の4女で祇園の芸妓をしていたお雪と、周囲の猛反対を押し切って結婚した。
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 ドイツ探検隊フォン・コックは、火焔山の麓にある10世紀頃の仏教石窟ベゼクリクを調査し、細密な仏教壁画が剥ぎ取り、持ち帰れない貴重な壁画を全て破壊した。
 文化遺産が価値を持つのは、その稀少さゆえであって、遺品が数多く存在しては高額で売買できない。
 短い文化史しか持たない欧米諸国の資産家が行った学術的古代遺跡発掘調査への資金提供の真の目的は、出土品を高く売って大儲けであった。
 つまり、費用対効果という利益追求に過ぎなかったが、世間体が悪く、夢も希望もない為に探検家のロマンで誤魔化していた。
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 日本は国家・国民の統合原理として、「有徳な臣下は天命に従い悪徳の君主を弑逆して天子となる」という大虐殺を伴う中国の易姓革命を拒否する為に、流血を避ける神々の国産み神話を創作して日本の心柱とした。
 日本書紀古事記は、日本とは、強大な軍事力で大量殺戮の末に建国された国家ではなく、自然発生的に産まれた国である事を証言する為に意図的に編纂された。
 天孫降臨以来途絶える事なく受け継がれた万世一系の男系を正統とする、天皇中心主義を国柄としてきた。
 国體という思想は、中国の思想が入ってくる遙か以前から、古代の日本に存在していた。
 それは、祖先神・氏神の人神信仰である。
 国産みという国體思想ゆえに、日本は、「主君弑逆」を正当化する中国や朝鮮と国交を断絶する運命にあった。
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 日本人は、災害の多い過酷な自然環境の中で、いつ死が訪れ家族と別れる事になるかもしれないという漠然とした恐怖の中で生きていた。
 救世主が訪れ、その奇跡で死や苦難から逃れられるという有りもしない起きもしない幻想を抱く事がなかった。
 日本人心理の根底には、はかない命と限られた時間を自覚して諦めるという「無常観」が存在する。
 不幸・不運をしっかりと受けとめて、生きる苦しみから逃れず立ち止まり、前を向いて進まねばならない。
 日本人の性善説も、悲哀な人生を如何に納得して生きるかと言う事から生まれた心情である。
 日本人の死生観は、永遠に生きられない有限な命ゆえに、どう「ケジメ」を付けて別れるかの一点にある。
 武士道も、此処に神髄がある。
 日本に無常の思想をもたらしたのは、仏教特に禅宗である。
 死への恐怖を和らげたのは、人は神となって生まれ変わって家族のもと帰ってくるという「神産み信仰」の日本神道である。
 それが、祖先神・氏神の人神信仰である。
 死とは生との別れではなく生きていた事のケジメであったがゆえに、死ぬ事で生きてきた事にケジメを付けて人は神となった。
 心は、その時々の感情に支配され流され、移る変わって行く。
 心の弱い日本人は、かって苦しみを耐え生き抜いた祖先を思い、その生き様にすがり、依存しながら生きようとした。
 霊魂の不滅を信じるがゆえに、祖先を挫けそうな心の支えとした。
 絶える事のない自然災害の中で、明日の命が分からないはかなさゆえに、生きることは命懸けであった。
 祖先の苦労を思い、自分の物語を綴りながら、不幸を背負って自分の人生を生きた。
 日本の宗教観では、死は絶望ではなく、思い出を残し、思い出の中に生きるという新たな希望であった。
 靖国神社は、その為に存在する。
 戦争による死や災害による死であれ、人は何時かは死を迎えて別れなければならぬ定めゆえに、気持ちよく、爽やかに、その時を迎え、その瞬間を受け入れようとした。
 その思いが、死者の霊魂を神社の祭神として祀り永遠の存在とした。
 日本の神道は、死を別れではなく再会であるとし、祖先から自分、自分から子孫へのつながり・絆を祈りという儀式で伝えた。
 其処にあるのは、別れた者への思い出である。
 思い出をつなぐために、人は出会い繰り返す。
 日本人の「お人好し」や「おもてなし」や「已むに已まれぬ思い」は、良い思い出作りにある。
 この日本的無常観を表したのが、万葉集で有り、平家物語であり、方丈記で有り、曽根崎心中である。
 日本人は、生きている事を無上の喜びと噛み締め、悲運に悲嘆に暮れるのではなく明日に向かって新たに踏み出す為に、滅びて行くもの悲しさに哀愁を感じる。
 日本人の人生観は、「生まれと別れ」「生と死」を逃げる事なく真っ正面か対峙する事にある。
 ゆえに、何事にも「躾け」と「ケジメ」を付けたがる。
 哀しみがあるから、喜びがある。
 不幸があるから、幸福がある。
 絶望があるから、希望がある。
 別れがあるから、出会いがあり、再会がある。
 貧しさがあるから、豊かさがある。
 捨てることによって、得るものがある。
 日本人は、嘆き悲しみながら立ち上がって、手を使い、歩き出した。
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 賊軍として官軍と戦って敗れたサムライは、身内が殺されてもその怨みを私情として忘れ、敗れた事を運命・定めとして逃げずに受け入れ、国の為に軍人や官僚となり、天皇に忠誠を誓い果敢に戦った。
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 王維「ただ去って、復(ま)た問うなかれ 白雲は尽くる時なからん」
 リルケ「その様に我々は生き、常に別れをもつ」
 ミシュル・フーコー「おそらく、その終焉は間近いのだ」
 モンテーニュ「人生は、それ自体、幸福でも不幸でもない。それらは用い方一つで、幸福の場所にも不幸の場所にもなる」
 エミール・シオラン最後の審判のとき、人は吟味されながらただ涙だけであろう」
 ヴィルヘルム・ミュラー「余所者として訪れ、余所者として去って行く」
 松尾芭蕉「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」
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 ベートーベン「勇気を出せ。たとえ肉体が、如何なる欠陥(耳が聞こえない)があろうとも、我が魂は、これに打ち勝たねばならなぬ。25歳。そうだ、もう25歳になったのだ。今年こそ決定的に男一人。本物になる覚悟をせねばならぬ」
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 祖先神・氏神の人神の神道を信じる日本人は、涙を流して死という別れを経て、涙を流しながら永遠につながる命を手に入れた。
 死んで行った者達の、哀しみや、苦しみや、痛みや、切なさ、辛さを、愚痴を言わず、不平を漏らさず、歯を食いしばって生き残った者は引き受けなければならない。
 生きている者の務めとして、無為、無関心、無責任そして忘れる事を心の穢れとして忌避すべきである。
 ゆえに。日本民族日本人であるのであれば、靖国神社の祭神を忘れることは許されないし、祀る事を放棄してはならない。
 たとえ、他国から憎まれ、世界中を敵に回しても、一歩も引いてはならいのである。
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 2011年3月11日の霊魂は、ある意味に於いて靖国神社とつながっている。
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 故人との思い出や絆に思いを致し声を殺して哀切の涙を流して祈る靖国神社
 限られた命に関心を抱き、直向きに生き抜き、不条理な死で無常の別れを迎える。
 命の悲哀を見つめ、不幸を噛み締め、辛酸を耐え忍び、哀切の涙を流して人の物語を語り継ぐ場、それが靖国神社である。
 静寂と共に思いを寄せる祈りの場には、
 ナショナリズムのもとで街宣車を並べ大音響で意味不明で訳の分からぬ言葉をがなり立てる右翼・右派も、
 インターナショナルのもとで先人の生きてきた尊厳を無意味と切り捨て故人への思い出に咽び泣く人の心を踏みにじる反宗教無神論の左翼・左派・マルクス主義者も、
 相応しくはない。
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 2013年 靖国神社春季例大祭で、麻生太郎副総理、古屋拉致担当相、新藤総務相(祖父が靖国神社に祀られている)と168人の国会議員が、参拝した。
 多くの政治家が、自分の実父や祖父や曾祖父或いは叔父や大叔父などの親族、さらには妻の実家の親族が、靖国神社の祭神として祀られている。
 韓国の政府及びメディアは、一斉に政治家の集団参拝を批判した。
 中国の政府及びメディアは、激しい口調で非難した。
 アメリカは、日本と中国・韓国の関係悪化につながるとして、政治家の参拝に不快感を表明した。
 シーファー元駐日大使は、日本とアメリカの関係に害になるとして、政治家の参拝に警告した。
 ドイツなど幾つかの国も、日本の政治家の軽率な宗教行動が平和と安定を危機に陥れると忠告した。
 政治家の靖国神社参拝は、日本の政教分離が未熟である事を証明するものであると。
 国連の事務総長も、個人の談話として、日本政府に政治家の参拝を自粛する様に求めた。
 中国・韓国は、国連事務総長による日本批判の談話を支持した。
 地球上で、靖国神社を弁護・擁護する声は少数派で、批判・反対する声が多数派である。
 靖国神社問題は、日本と中国・韓国の限定された問題ではなく、世界規模としての宗教問題で有り、人類史及び宗教史の一つである。

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