🌏25)26)─1─庶民には愛国心がなかった為に納税と徴兵に反対して暴動を起こした。秩父事件と秩父困民党。1884年~No.77No.78No.79No/80 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 永世中立国スイスは、徴兵制を採用している、
 他の中立国も、国力にあった正規の軍隊を持っているが、徴兵制ではなく志願兵制を採用している。
 スイスの憲法は、「いずれのスイス人も防衛義務を負う」と謳っている。
 スイス国民に渡される『兵士読本』には、「(選挙権が与えられる)20歳で投票用紙と銃を受け取る」と書かれている。
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 永世中立国スイスは、国際金融センターとドイツ資産及び強奪ユダヤ人資産の管理を請け負う事でナチス・ドイツと密約を交わしていた。
 中立国スウェーデンは、戦争に必要な鉄鉱石をナチス・ドイツに輸出する事でドイツ軍の占領を免れ、同様の事を連合軍にも行い攻撃を免れていた。
 その他の中立国は、ドイツ軍に占領され、連合軍に攻撃された。
 世界史的に、戦争に於いて平和宣言、中立宣言、非武装宣言などは無意味であった。
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 国民は、国家を護る為に戦う義務があり、戦う義務を放棄する者は国家の一員ではない。
 国家は、国家の為に戦う国民を守る責任がある。
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 統帥権は庶民で埋め尽くされた無教養な軍部を政治から遠ざけた。 
 日本軍の鉄拳制裁の始まり。
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 2016年10月27日 週刊文春春日太一の木曜邦画劇場
 橋本忍の脚本は繰り返し『庶民』の残酷さを暴く!
 現在『午後10時の映画祭』で『7人の侍』が公開中だ。その高画質は圧倒的で、新作のような輝きを放っている。
 観直して、気づいたことがある。それは、野武士に襲われ、侍たちに守られる被害者側にいるはずの、農民たちの残酷さだ。当初の侍たちに対する疑心暗鬼の目もそうだが、驚いたのは野武士の一人を捕えた時の対応だった。よってたかって竹槍でメッタ刺しにするのである。これまで野武士から受けてきた暴虐を考えれば当然の感情の表れとも思えるが、それでも描写の執拗さに身震いした。気弱に見える農民たちが集団になり、相手が弱っていると分かるとこうも変貌するのか──と。
 脚本を書いた橋本忍の作品は、代表作『砂の器』での放浪の旅を続ける父子への冷酷な仕打ちが特にそうだが、『庶民が徒党を組んだ時に見せる、弱っている相手への残酷さ』が描かれていることが少なくない。そこからは、偏狭で排他的な『ムラ社会』の恐ろしさを感じ取ることができる。……」
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 2016年世論調査 日本人の庶民は、政党に対する不信が強く、期待感も薄い。
 政党に、期待できない51.7%、期待できる15.5%。
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 江戸時代の総人口約3,000万人に占める身分人口は、
 武士が5.3%、
 農民・漁民・漁師・諸産業従事者などの百姓が約87.3%、
 一般町方が2.7%、
 公家・僧侶・神官と旅芸人・河原者・非人・エタなどの賤民、その他が4.7%。
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 サムライは、滅私奉公としての集団主義
 百姓町人は、自分勝手な個人主義
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 国民皆兵は、身分制度を破壊して、武士・農民・町人・僧侶・神官さらに非人・エタに関係なく徴兵し、同じ一兵卒とした。
 軍隊内では、出身身分は一切考慮されなかった。
 年数により古参兵となった非人・エタ出身の兵士は、新兵として入隊してきた地主や豪商や元士分の子弟を地獄の様なシゴキで痛め付けていた。
 日本軍隊特有の私的鉄剣制裁は、こうして生まれた。
 軍功を上げて叙勲し、華族に叙任し、貴族議員に任命され、特権を獲得したのは庶民出身者であった。
 日本の軍隊は、保守的身分制度を破壊し、新たな身分制度を創設した。
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 ロシアの侵略から日本を守る為の徴兵制に暴動を起こして反対した庶民。
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 日本の民族主義及び国家主義は、軍事大国にして植民地帝国のロシアの侵略から弱小国の祖国日本・神国日本を守る為に生み出された。
 だが。国際社会は、日本の民族主義及び国家主義は犯罪的思想であるとして否定している。
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 百姓にとって、おらが国とは国家ではなく今住んで田畑があるこの土地であり、おら達とは日本民族でも日本人でもなく今生活している近所の住人の事である。
 田畑にひく水をめぐり、「水争い」を繰り返して乱闘騒ぎを起こしていた。
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 町人は手に職を持って奉公先・作業場を変え絶えず引っ越しをしていた為に、国への愛着はなく、地域との絆もなく、自分が日本民族・日本人という自覚も皆無であった。
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 ムラや地域は、自分勝手でまとまりを欠く百姓や町人の心を一つにまとめる為に、春のサクラ見物、夏の盆踊り、秋の紅葉狩り、神社仏閣の大小様々な祭りなど、数多くの年中行事を行い裸の付き合いで親睦を図っていた。
 集団行動は、個性を殺した集団主義からではなく、暴走しやすい個人主義を抑制し制御する為であった。
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 サムライは俸禄をくれる主君に対して忠誠を誓い滅私奉公ほ本分としていたが、幕府に国替えを命じられて領地を絶えず変えていた為に、土地への愛着も住人への親近感もなかった。
 主君の依怙贔屓を得る出世する為に、同僚の出世を邪魔するべく意地悪をして仕事上で失敗するように嫌がらせをし、評判を落とす為に同僚の悪口を言い触らした。
 組織内の不和を抑え家臣間の融和を深める為に、剣道などの武芸鍛錬や茶の湯のような文芸稽古を奨励し、巻狩や鷹狩りなどの準軍事演習を行った。
 これも、陰湿・陰険に走りやすい個人主義を抑え込む為であった。
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 三者三様、無責任なほどに身勝手で、地域意識も仲間意識も薄く、公徳心も公共心も弱く、「自分は自分、他人は他人」銘々勝手として助け合いの精神もなかった。
 「ごうつくばり」として、他人よりも多くの利益・収穫を得る事に狂奔していた。
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 日本は、集団主義ではなく個人主義であるがゆえに、個性を抑えなければ社会分裂を起こす危険性がった。
 暴走しやすい個性を抑え込む為に、世間体あるいはムラ意識という、社会の空気圧力、その場の同調圧力を創り出した。
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 合戦で殺し合うのは、職業軍人であるサムライだけであった。
 百姓や町人は、合戦が始まれば、持てるだけの荷物を持って一目散に逃げ、安全地帯で合戦の模様を楽しみ、合戦が終われば戦場に駆けつけて死んだサムライの身ぐるみを剥いで金儲けしていた。
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 明治新政府高官は、戊辰戦争を戦った経験から百姓や町人を信用せず、利益や金儲けの為なら外国人に味方するかも知れないという恐怖心をもっていた。
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 長州閥日本陸軍は、薩摩閥の日本海軍に対抗心を持っていた。
 明治政府は、国家を創設する為に、政治・経済から生活文化までイギリス王国を手本とした。
 軍事力は、海軍で大帝国を築いたイギリス王国ではなく、農業国から大帝国を築いたドイツ帝国を手本とする事に決めた。
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 百姓や町人は、国家や民族を意識する事なく、無縁に生活して来た。
 戊辰戦争の時。幕府方にせよ官軍にせよ、魅力な恩賞を約束する方に味方した。
 官軍が多額の褒美をくれれば、昔ながらの御領主様・大名でも裏切り、官軍が勝てるように道案内して攻撃の手伝いをした。
 庶民にとって、支配者が誰の替わろうとも自分の生活に影響しなければ気にはしなかった。
 それが、日本人であろうが、ロシア人であろうが、中国人であろうが、自分達に実害を与えない限り、支配者が誰になろうともどうでもよい事であった。
 親日派王国百済救援戦争であった白村江の戦いは、大和朝廷の戦いであって庶民には関係なかった。
 中国や朝鮮の侵略から日本を守る為に北九州に赴いた防人は、祖国を防衛したいという意思は希薄で、朝廷の命令で無理矢理に行かされたのであって、本心からではなくイヤイヤであった。
 だから防人の歌は、勇ましいどころかもの悲しいのである。
 満州族刀伊の入寇で北九州の住民が虐殺され、反日高麗に強制連行されても、庶民には無関係であった。
 蒙古襲来で、元・高麗連合軍の侵略と戦ったのは鎌倉武士であって、庶民ではなかった。
 李氏朝鮮が侵略してきた応永の入寇でも、庶民には関係なかった。
 ロシア海軍が海賊として暴れた文化露寇でも、北方領土と北海道の蝦夷地を失い、アイヌ人がロシア人にどんな虐待を受けようとも、庶民には関係なかった。
 ロシア海軍対馬を占領して租借を要求しても、庶民にはどうでもよかった。
 庶民は、命の危険を冒してまで戦う気はサラサラなく、命を助けてくれて金をくれるのであれば誰にでも従った。
 日中戦争でも、アメリカとの太平洋戦争でも、捕虜となると敵の味方をして日本軍と戦った庶民兵士がいた。
 個人主義の庶民兵士は、集団主義のサムライとは異なり洗脳されやすかった。
 中国共産党軍・八路軍に参加し、日本軍と戦った日本人兵士がいた。
 「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けす」という「戦陣訓」は、自分が生きる為、自分が大金を得る為に、平気で裏切る可能性のある庶民を精神的に縛り付ける為に発表された。
 戦後。日本を軍事占領したアメリカやGHQに抵抗闘争もせず従順に従い、命令された事は正しいと信じて奴隷の如く受け入れ日本を改造した。
 日本共産党や左翼・左派も、ソ連中国共産党の忠実な部下として盲目的に従った。
 それが、庶民気質である。
 故に。福沢諭吉は、日本を独立国として武器を取ってロシアなどの侵略を撃退する為に、「自己の独立」を訴えた。
 日本は、武士・サムライの国ではなく、百姓・町人の庶民の国であった。
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 日本人の本質は、薄情である。
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 鎌倉時代や室町は、一所懸命の時代であった。
 サムライも百姓も、自分達が自力で切り開き開墾した土地に対する愛着と生活の糧である土地への執着から、その土地を奪われない為に命を賭けて戦った。
 江戸は、一生懸命の時代であった。
 大名は、出世や加増、左遷や減俸などよって、幕府の命令一つで領地替えや領地没収が命じられた。
 先祖代々の領地にとどまって守り通した大名は、ごく少数であった。
 百姓も、自然災害で家や田畑を捨てたり、借金の方で没収されたり、その他の理由で生まれ育った土地を離れた。
 江戸時代は、借地・借家が大半で土地神話など存在しなかった。
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 ロシアの侵略から国を守る為には、日本人を民族・国民として意識を統合する必要があった。
 その為に、宗教的天皇制度を近代的天皇制度に改造し強化して、神聖不可侵の「不動の心柱」にする必要があった。
 如何なる宗教・宗派をも超越した無宗教無信仰の国家神道が創られ、霊魂崇拝・英霊崇拝という拝礼儀式を広めた。
 国家と国民が一致して侵略軍を撃退する為には、戦友として共に戦い裏切らない仲間意識としての団結力が欠かせなかった。
 命大事の個人主義で戦おうとしない百姓町人を、命を惜しまない兵士としなければロシアの侵略から国を守れないのも事実であった。
 そこで、百姓町人の個人主義やムラ的地域的集団主義を国家的集団主義に改変する必要があった。
 国民皆兵として、百姓や町人を嫌がるのを強引に徴兵して軍隊に入れ、一糸乱れない戦闘ができるように軍事訓練を施し、乱取りなどの犯罪行為を起こさないように規律・軍律を暴力を用いて徹底的に叩き込んだ。
 戦争と無縁に生きてきた百姓や町人は、戦争を強要する御上・国家権力に反感を抱き、自己利益優先の個人主義を組織利益優先の集団主義を押し付けて来ることに反発した。
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 個人主義で行動する庶民に対し、民族・国家・国民という運命共同体意識と外敵に侵略されたら皆殺しにされるという一蓮托生の切迫感を、急いで教える必要があった。
 同じ価値観と道徳規範を普及させる為に、大人達に教育勅語を発し、子供達に非現実的非合理的神話物語と現実的合理的近代科学の相反する矛盾した修身教育を行った。
 目指した理想的国家とは、日本列島における歴史と伝統と文化を同じくする日本国語共同体であった。
 明治政府が目指したのは、アメリカのような歴史の浅い人為的契約国家ではなく、歴史の長い自然発生的国家であった。
 庶民にそれを自覚させる為に、日本神話による皇国史観に基づいた教育勅語と修身教育による躾けが必要不可欠であった。
 躾ける為に、大人は周囲を気にせず我が儘行動に走りやすい子供の手本となり、サムライ上司はおべっかを使って自分の利益を追い求める庶民部下の手本となった。
 高坂正堯京都大学政治学教授)。国家を形成するもの、権力の体系、利益の体系、価値の体系。
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 庶民には、公に対する公徳心も愛国心もなく、君主や国家に対する忠誠心もなく、個として保身に走り、私として出世欲ではなく色欲と金銭欲で生きていた。
 庶民の我欲による暴走を制御していたのは、仲間外れにされ村八分にされご近所からそっぽを向かれ住めなくなると困るという、世間への恐怖心である。
 隣近所あるいは地域共同体の同調圧力という目に見えない「場の空気」が、庶民の自由を縛っていた。
 戦争に参加する事を嫌う庶民は、「卑怯者」と呼ばれ、「弱虫」と軽蔑され、「裏切り者」と誹りを受けようとも、生きる事を最優先として、敵が侵略してきたら一目散に逃げ、敵に征服されたら柔順な領民になる為に土下座して忠誠を誓った。
 それが、日本の庶民の実体であった。
 武士・サムライは暴力であり。庶民は非暴力であった。
 庶民は、戦って守るよりも、戦場から我先に一目散と逃げ出す。
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 中世・鎌倉初期において、庶民が持っていた「ひとり」を再発見しのが親鸞である。
 人はしょせん「ひとり」で生き「ひとり」で死を迎えるの孤独な存在であるが故に、阿弥陀如来はその「ひとり」を救済する事を誓願されていると説いた。
 近代・明治に入って、ロシア帝国の日本侵略や欧米社会の宗教的差別から祖国日本を守るには、御上に面従腹背する庶民の「ひとり」を捨て日本天皇への敬愛を忘れない「ひとり」に目覚め、個々人が国を背負って立つという気概を持つべきであると説いたのが福沢諭吉であった。
 「一身独り立ちして一家独り立ちし、一家独り立ちして一国独り立ちす」
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 2017年6月号 新潮45「昭和史の人間学  保阪正康
 14 善の善なる者
 ……
 自我を貫く
 宮本常一の『忘れられた日本人』の中に、『世間師』が紹介されている。江戸期の村落社会では、青年時代に奔放な旅を試みた者が少なくなかったという。自ら見聞を志すのである。こうした人たちは老いても『世間師』といわれたそうだ。言葉よりも行動が尊び、自我を貫くタイプである。この世間師は戦争が始まると人夫(労務者)になったりもする。そしてこのような連中は、『戦争にいくのが面白くてたまらなかった』と宮本は書いている。
 幕末の騎兵隊や振武軍には、こういう世間師が『フラフラと入隊』したのだという。奇兵隊に入った世間師の中には文字を読めなかった者もいるが、隊の布告などすべて丸暗記していたという。この世間師のもとに司令書を持ってきた男がいたが、いかにも字を読める風を装っていると、その男が『それはさかさまです』と教えた。世間師は『おまえに見せているのだ』と平然と答えたそうだ。
 とにかく時代がある方向に流れると、それに合致する性格や人間性が尊ばれるのだ……」
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 長洲の大村益次郎山県有朋と薩摩の西郷従道は、新政府に反対する勢力を排除しロシアの侵略から日本を守る為には、サムライだけではなく国民の大半を占めている百姓町人=庶民を兵士として徴兵する必要がある、と主張した。
 国内の反乱勢力を鎮圧するには、これまでの同様な武士団で十分であった。
 だが、ロシアなどの侵略から国を守る為には、少数精鋭としたサムライの個人的武芸では不可能で、近代的な最新装備と軍事訓練を受けた国民軍が求められた。
 その為には、武士とい支配階級を廃止し、江戸時代までの伝統的身分・家格を廃して四民平等を導入する必要であった。
 長洲の前原一誠ら保守派は、武士階級の没落と庶民を苦しめる元凶になるとして徴兵制に猛反発した。
 薩摩の西郷隆盛は、国防の為には国民皆兵は避けては通れないと考えたが、職業軍人としてのサムライに配慮して、庶民を主力兵士とする徴兵制はなく補助兵士とする志願兵制を考えていた。
 1869年 大村益次郎は、不満士族に暗殺され、徴兵制による近代的国民軍隊構想は頓挫した。
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 グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベッキは、オランダ生れでアメリカに移住した。
 アメリカ・オランダ改革派教会は、フェルベッキを宣教師として日本に派遣した。
 フェルベッキは、長崎で布教活動を行っていたが開成学校の教師に招かれ、1869(明治2)年3月30日に横浜に到着した。
 開成学校は、1869年に大学南校と改称され、77年に東京帝国大学の一部となる。
 フェルベッキは、日本の教育を高める為に、アメリカから諸学の専門家を招いた。
 1869年に、岩倉具視ら政府高官は神田駿河台のフェルベッキ邸に集まって秘密会議を開いた。
 政府顧問を兼務していたフェルベッキは、国民軍隊を建設する為に徴兵制を強く主張した。
 「平和は哲学者達の夢であり、キリスト教徒の希望である、人類の歴史は戦争である。日本は目下国家的統一がなく弱体であり、しかもロシア、フランス、イギリスなどのヨーロッパ帝国主義の脅威にさらされている」 
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 1871(明治3)年 被差別部落の解放令。穢多非人の解放令反対一揆。ムラの近くに、田畑を持たず動物を殺し血に塗れて生活する不浄な民が生活する元被差別部落があった。
 血にまつわる仕事をする者、犯罪に関わる仕事をする者は、庶民であれ武士であれ嫌われた。
 犯罪を取り締まり処刑執行を行う町奉行所や火付け盗賊改めの与力や同心、代官所の役人は、不浄役人と軽蔑され、そして差別されていた。
 ゆえに、部落民への差別も存在していた。
 ムラ人、特に中小規模農家や零細農家は、被差別民が解放され田畑を持つと、生業が部落民に奪われてしまうのではないかという恐怖感から一揆をお起こして、解放令に猛反対した。
 百姓達は、披差別部落解放は一種の農地解放につながり、先祖伝来の農作物生産で利益を得るという既得権が侵害されると危機感を抱いた。
 事実。地方農村で、農地を相続できなかった若者達は、仕事を求めて都市に出て、工場の低賃金労働者となった。
 若者の国内移動で、日本は急速に産業が興り豊かになって近代国家に発展していった。
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 1871年11月13日(新暦1月3日) 山県有朋は、政府軍の必要性を主張して徴兵規則を制定し、各府藩県に1万石につき5名の徴兵する事を定めた。
 1872年 明治政府は、全国的な徴税を行う為に戸籍法を制定した。
 山県有朋は、徴兵制を敷く為に戸籍法を利用しようとした。
 2月13日(新暦4月2日) 明治政府は、廃藩置県を断行する為に、西郷構想から薩摩・長州・土佐の藩兵を親兵として政府軍を編成した。
 1872(明治5)年12月28日(新暦11月28日) 徴兵告諭が発布された。
 徴兵告諭。「凡そ天地の間一事一物として税あらざるはなし以て国用に充つ然らば則ち人たるもの固(もと)より心力を尽し国に報ひざるべからず。西人(西洋人)之を称して血税と云ふ。其生血を以て国に報するの謂なり」
 先祖伝来の田畑を耕し年貢を納めて貧しいながらも家族で生活していた百姓は、「国に報いる為といいながら、西洋人が人の生き血をほ絞り政府を仲介して手に入れようとしていると」勘違いした。
 当時、「徴兵、懲役、一字の違い、腰にサーベル鉄鎖」という反抗句が流行った。
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 1873(明治6)年1月10日 太政官布告により「徴兵令」が発せられ、以後、この日を以て毎年徴兵による新兵の入営日となった。
 男子は満20歳で徴兵検査を受け、体格が基準に達しない者や病気の者などは除かれ、検査合格者の中から抽選で3年間の兵役(常備軍)に服する事になった。
 常備軍服役後は、4年間は後備軍として戦時召集の対象とされた。
 その他として、満17歳から40歳までの男子に、国民軍の兵籍に登録する事が定められた。
 徴兵令は、国民皆兵が原則であったが、官省府県の役人、兵学寮生徒、官公立学校生徒、医術等修行中の者、一家の主人及び跡取り(長男)、養家に住む養子、270円の代人料を収めた者などを徴兵免除者とした。
 兵役に取られたのは、長男ではなく次男や三男であった。
 徴兵免除対象がハッキリするや、兵役忌避者は徴兵免除手引き本を参考にして徴兵逃れを行った。
 その結果、20歳以上の男子の3%〜4%くらいしか徴兵できなかった。
 兵員割れの陸軍省は、ロシアと戦う為には兵員確保は国家存亡に関わる重大事として訴えた。
 政府は、太政官布告によって何度か徴兵令を改定した。
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 庶民は、外国の侵略から国を守るのは馬鹿な誰かがする事で、自分には関係ないと割り切っていた。
 戦争が嫌いな庶民は、国を守る為に自分が戦死する事など真っ平ご免であった。
 日本には、イギリスや中国のように庶民が立ち上がって支配者を武力で倒し、人民の正義で処刑した歴史はない。
 庶民は、幾ら卑怯者、弱虫と罵倒され軽蔑され名誉を傷付けられようとも、プライドを捨て、命大事として逃げ回っていた。
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 明治新政府は、面従腹背として本心から「お上」の威光に従おうとしない庶民を躾ける為に、武家社会の礼儀作法であった小笠原流を学校教育や軍隊教育で厳しく教えた。
 日本人の精神的大改造が、鉄拳制裁を伴って叩き込まれた。
 江戸時代。庶民が、行列に対して平伏して土下座するのは天皇と将軍のみであり、大名行列や皇族・公家の行列にはしなかった。
 大名行列にぶつかれば、道を空け、経ち膝をしてしゃがむか、和式ウンチング・スタイルでやり過ごす、さものければ街道であれば横道に逸れるか街中であれば路地に逃げればよかった。
 庶民は、武士はおろか大名という身分をバカにしていた。
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 徴兵令の適用年代には地域差があった。
 1873年の適応地区は、本州と四国と九州であった。
 小笠原諸島・北海道は1887(明治20)年、沖縄本島は1989(明治31)年、先島諸島は1902(明治35)年、までは徴兵から除外されていた。
 その為、兵役忌避者は徴兵逃れの為にその対象地に住所を変更した。
 日清戦争時、沖縄は対象外であった為に、沖縄人が軍隊に入る時は志願した。
 つまり、沖縄は阻害され特別視されていた。
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 1884(明治17)年11月1月 秩父事件。埼玉県秩父地方の秩父困民党農民3,000人は、明治政府のデフレ政策に苦しめられ武装蜂起した。
 菅原文太秩父事件をみると、かつての日本では、1人1人の力は弱くても、権力の理不尽な事には団結して抵抗する底力があった」
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 1889(明治22)年 国民皆兵制として徴兵令は大改正された。
 特例として、中等学校以上の卒業後に志願した者は現役期間を1年とし、師範学校を出て教員になったものは現役6週間とした。
 陸軍は、ロシアとの祖国防衛戦争の為に優秀な兵員を確保する必要があった為に、殴り蹴るの非人道的軍事訓練を強要したが、兵舎での食生活には十分配慮し、賃金も確実に支給した。
 戦争がない時代には、「軍隊に行くとなまけ者になる」という悪評が立っていた。
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 1927(昭和2年)年 徴兵令は全部改正され、名称も兵役法に変更された。
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 嫌がるのを強制的に徴兵された庶民を待っていたのは、古参兵等による殴る蹴るなどの鉄拳制裁であった。
 度重なる暴行で、精神異常となって自殺する者もいた。
 徴兵拒否する庶民は、日本国籍を捨てて中南米満州へ逃げるように移住するか、体の一部(手足の指)を欠損させて身体障害者証明を貰った。
 軍部は、健康な若者で兵役忌避者の増加で兵員割れになる事を恐れた。
 だが、子供達は戦争ごっこをして遊んで軍隊に慣れ親しみ、兵隊を指揮して勝利する軍人に憧れた。
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 サムライは、百姓・町人など庶民が心の奥深くに隠し持つ、陰険で陰湿な性分を恐れていた。
 それは、庶民が乱戦で見せる「乱取り」である。
 乱取りを行うのは味方の士分足軽ではなく、臨時お抱えの侍や雑兵であった。
 さらには、戦場に集まった不届きな庶民であった。
 それは、戊辰戦争でも起きていた。
 サムライは「義」の為に戦ったが、庶民は「利」の為に戦場を走り回って賊軍として戦死した者から金品を奪った。
 官軍は、戦死した賊軍兵士の遺体を埋葬する事禁止して放置し、地元住民の略奪に任せた。
 サムライは、「利」に走りやすい強欲な庶民を信用していなかった。
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 強制的に戦場に送り出された庶民兵士は、戦う事を転職としたサムライ兵士に比べて軍紀や軍律を守ろうという意識は薄く、上官の監視がとどかない所で強奪や暴行や強姦という犯罪行為を行っていた。
 戦場における戦争犯罪は、日本軍の組織的犯罪というより、私利私欲に暴走しやすい強欲な庶民兵士等の徒党を組んだ蛮行であった。
 庶民兵士は、サムライ兵士とは違って品行方正ではなかった。
 日本軍に庶民兵士の性格を秘めていた為に、日本軍は残虐行為を行った。
 南京虐殺や捕虜虐待も。従軍慰安婦問題も、全てが庶民兵士気質が引き起こした事である。
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ある徴兵拒否者の歩み

ある徴兵拒否者の歩み

兵役拒否の思想

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兵役拒否 (青弓社ライブラリー)

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