🌏15)─1─インド飢饉。東京遷都。東京招魂社創建。神聖不可侵を証明する教皇無謬説。ペルシャ飢饉。1869年~No.48No.49 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 天皇中心の近代的国家を建設しなければ、日本は欧米列強の植民地となり、日本人は白人キリスト教徒の奴隷にされた。
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 非宗教=国家神道対仏教・儒教キリスト教の国際的宗教戦争
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 B・H・チェンバレン「(日本には)貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」(『逝きし世の面影』)
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 日本の民族主義ナショナリズムは、民族存亡の危機から生まれた。
 民族主義ナショナリズムが「団結」を呼び掛けたのは、キリスト教価値観で侵略して来る西洋列強から祖国と民族を守る事であった。
 日本の愛国心の源泉は反西洋であが、中国や朝鮮の様な儒教価値観による偏狭的排斥の尊皇攘夷ではなく、神道価値観で相手を受け入れ研究する柔軟的なものであった。
 「和魂洋才」である。 
 歴史的事実として、多神教一神教には勝てず、絶対的価値観は相対的価値観を消滅させていた。
 日本が生き残るには、相対的価値観の多神教を絶対的価値観の一神教に変容させる「宗教改革」が不可欠であった。
 国家神道は、日本が西洋化の波にのみ込められず存続する為には、避けて通れなかった宗教的大決断であった。
 ゆえに、キリスト教国家神道を消滅させた。
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 アヘン戦争で敗北した清国は、西洋列強が「布教の自由」と「信仰の自由」を武力を持って強要した為に、キリスト教会に治外法権を与え、宣教師を官吏待遇で保護した。
 西洋列強は、植民地を拡大する為にキリスト教会を利用し、宣教師への不法行為や信者への迫害を約束違反として懲罰戦争を起こしていた。
 ユダヤ系国際金融資本は、植民地戦争で莫大な利益をえ、世界的な金融・経済を支配する為に各国に戦費を融資して戦争を煽っていた。
 植民地化が進む中国で。すべての宣教師が、絶対神との契約による戒律・律法に従って人間の欲を抑圧して完全禁欲な宗教生活をし、隣人愛の信仰から自己犠牲精神で慈善活動をし、死後に於いて永遠の命を得て天国に召されるという絶対神の奇跡で布教活動をしていたわけではない。
 宣教師は、迷える子羊として生まれた運命として、人としの「原罪」を背負って生まれた罪人であるという自責の念を植え付け、善人として生まれ変わる為に「悔い改めよ」と、自虐的な悔悟の念を植え付けた。
 そして、絶対神の信仰を広める為に異教や民族神話を全て破壊した。神の裔・天皇と日本中心民族神話も、破壊すべき悪魔的邪教であった。
 一部の教条主義的宣教師は、絶対神は自分に似た白人を創造されたという宗教的選民思想で、中国人や日本人などの有色人種は悪魔が造った薄汚いサルと嫌悪していた。
 別のごく少数の宣教師は、金銭欲から欧米の商人と結託して、中国人から寄進と偽って法外な金銭を要求して不正蓄財をし、贅沢三昧のゴージャスな生活を満喫していた。
 さらに数少ない宣教師は、厳格な戒律による禁欲生活の反動から、性衝動に勝てず、信仰の証と偽って信者の少女を強姦した。出来た子供は強制的に堕胎させて遺棄し、宣教師を告発する少女は悪魔に魅入られた狂女として修道院に強制隔離した。
 キリスト教会は、逃げ込んできたすべての犯罪者を、殺人や強奪や強姦などの罪を問わず迷える子羊として保護し匿った。
 犯罪者は、治外法権の教会を利用し、教会を拠点に犯罪を繰り返した。そして、反キリスト教の中国人暴徒の襲撃から武器を使って教会を守り、キリスト教に反感を持つ宗教団体に対してその信者とあれば女子供でも容赦せず見せしめに虐殺した。
 キリスト教会は、地上を絶対神の「隣人愛信仰」で埋め尽くす為に、キリスト教ユダヤ教以外の全ての宗教を消滅させることを「神聖な使命」と信じて行動していた。
 儒教的中国人は、人を人と思わない病的な人間不信者であるだけに、外国人だろうが同胞の中国人だろうが、自分に従属しない者は全て敵と見なして暴力をふるい、時には陰惨な手段で惨殺した。
 中国化した朝鮮人も、中国人同様に同じ価値を持たない者を信用せず、相手との対等・平等・公平を嫌い、病的なまでに儒教的上下関係を決めたがる。
 後に。清朝打倒の革命派漢族は、キリスト教会に逃げ込み、保護と支援を条件に洗礼を受けた。
 中国の歴史に於いて、宗教は勢力を拡大するにつれて例外なく反体制派の中心となって社会を混乱させ、社会改革を掲げて内戦を引き起こしていた。
 いくつかの中国王朝は、反体制派宗教勢力の反乱で滅亡し、大虐殺のなかで一族が絶えた。
 歴代王朝は、歴史を教訓として、天命による世俗的皇帝の恵みではなく絶対神の恩寵と教会の救済を説く普遍宗教を反逆宗教として弾圧し、数百万人の信者を謀反人として大虐殺した。
 白人から奴隷の如く虐げられていた中国人民の間で、異教を認めない独善的なキリスト教会に対する憎悪が盛り上がり、排他的な宣教師への怒りが爆発して、秘密宗教結社義和団の乱が起きた。
 日本を含む8カ国は、居留民保護と約束違反を理由にして救援部隊を派兵した。
 義和団事件では、日本軍以外の諸外国軍は占領地で略奪と強姦と虐殺を行った。
 アメリカのプロテスタント系宣教師は、ロシア兵やドイツ人と組んで、絶対神からの恩寵とばかりに略奪行為を行い、奪った物の一部を搾取されていた貧民に分け与えた。
 一部の報道機関は、宣教師の目に余る略奪行為を伝えるとともに、「右の頬を打たれたら、左の頬も出せ」の教義に違反すると批判した。
 リード宣教師「戦争の恐ろしい記憶を通じて事実をよく知っている人々にとって、略奪は高度の倫理である」
 キリスト教会が、無宗教国中国をキリスト教化する為に異教国日本を悪用した。
 現代のキリスト教会や修道院でも、一部の神父・牧師による少女強姦事件が絶えない。
 日本国内でも、宗教団体を名乗る者の神を騙った犯罪が続発している。 
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 エドワード・モース「鍵のない部屋に金品を置いておいて絶対に盗まれない」
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 1869年 ラージプーターナー飢饉。インドで飢饉が発生し、150万人が餓死した。
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 1869年3月28日 第二回目の東京遷都。 明治天皇は東京に入り、東京が事実上の日本の首都になった。
 西国大名は、王政復古を受け容れ恭順した。
 東国には徳川恩顧の大名が多く、大政奉還に従って恭順を表明しても、足利尊氏の先例が示す通り旗色次第で徳川幕府復活で挙兵する恐れがあった。
 大久保利通らは、大坂に遷都としたかったが、東国を鎮撫する為には明治天皇の江戸下向が必要であった。
 明治政府は、国近代国家には国民を束ねる為と外交儀礼上に於いて国歌は必要不可欠ディアという、イギリスの軍楽隊長フェントンの進言に従い、「君が代」を国歌とした。
 諸外国の国歌は、愛国心を喚起し、武器を持って祖国を守るという、歌詞は好戦的で、旋律は行進的であった。
 日本の国歌は、世界的には考えられないような非常識なものであった。
 第一バチカン公会議は、教皇の宗教権威を高めると共に全ての責任から解放する「教皇無謬説」を正式な教義として採択した。
 明治政府は、オーストリアとの間で、領事裁判権を認める条約を締結した。
 日本が、欧米諸国と結んだ条約は、明治新政府誕生間際で弱体化していた為になし崩し的に不平等条件を強要された。
 弱小国を大国から守ってくれる奇特な国などは、何処にもなかった。
 大国から、弱小国が不平等条約を押し付けられるのは当たり前の事である。
 それが嫌なら、大国と戦争をするしかなかった。
 日本は、話し合いで不平等条約を改正して貰おうとしたが相手にされなかった為に、自力で戦って改定を迫った。
 大国は、自力でロシア帝国の侵略を跳ね返した日本を普通の国と認めて、不平等条約改正を要求を受け入れた。
 朝鮮は、話し合いはもちろん、戦争をしてまでも日本との不平等条約改正をせず、大国の間を彷徨った為に、一人前の国家とは認められなかった。
 朝鮮の不幸は、大国の軍事力を当てにして自力で問題を解決しよとしなかった「だらしなさ」にあって、自分の「みじめさ」や「みっともなさ」に目を向けず日本に責任を押し付けるのはお門違いである。
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 3月 伊勢神宮参拝 全国神社の総元締めと言うべき神社は、京都の吉田神社から伊勢神宮に代わり、吉田神社は地方の一神社に格下げとなった。
 江戸幕府は、天皇の神徳の権威を封じる為に、吉田神道唯一神道)を皇室神道の上に置き、全国の神社神職の任命権を吉田家に与えていた。
 伊勢神宮は、全国神社の第一位となり、皇室の祖先神・天照大神を祀る国家の宗廟とされた。
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 長州や薩摩など官軍として戦った各藩では、天皇の命令で戦死した者の霊魂を神式で祀る官祭招魂場を各地に建てていた。
 長州藩が、安政の大獄で刑死した吉田松陰禁門の変自裁した久坂玄瑞や長州征伐で病死した高杉晋作らを、1865年に復古神道で祀った桜山招魂社が始まりであった。
 木戸孝允は、全国の招魂場でバラバラに祀られている御霊を、天皇と国の為に尽くした神霊として一つにまとめる為に東京招魂社設立を発案した。
 国家神道の本となった復古神道は、江戸時代の賀茂真淵本居宣長平田篤胤国学者が、仏教などの外来宗教や儒教などの外来学問が渡来する以前の原始的神道を目指した、純民族宗教である。
 木戸達は、招魂社の縁起として、天皇と神国日本を外敵から守る国防思想に神道思想と尊皇思想である後期水戸学を加えたが、開国近代化の為に排他・閉鎖・狂信・偏狭といった偏った攘夷思想は排除した。
 近代化ができた日本と近代化ができなかった中国や朝鮮とは、自己正当性の立脚地が正反対であった。
 それは、神道儒教の違いである。
 大村益次郎は、東京招魂社の土地選定を行い九段坂上に定めたが、兵制改革に不満を持つ薩摩系浪人に暗殺された。
 東京招魂社の初期は、長州閥色が強く、鳥羽伏見の役から箱館の役までに戦死した官軍兵士が祭神として祀られた。
 各地の招魂場は、護国神社となった。
 天皇の官軍と戦って戦死した賊軍兵士は、地元住民によって弔われた。
 政府は、朝敵の賊軍兵士を祀る事を禁止しなかった。
 復古神道とは、敵味方に関係なく死者の魂は等しく尊いとして弔う民族宗教であった。
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 江戸改め東京が首都になり政治経済の中心と定められるや、京と大阪は地方として取り残された。
 中央となった東京は、性急な西洋化とうい文明開化によって激変し、古き良き伝統・文化・風情は急速に消滅していった。
 全国共通の標準語を作り、その手本として関東言葉・江戸弁は下町言葉と軽蔑され公の場から消えた。
 政府高官達は、江戸の大名屋敷に収蔵されていた貴重な文化財を、遊興費欲しさで西洋商人達に二束三文で売り払っていた。
 政府高官の多くが、野卑で教養の無い下級武士や偽サムライ(百姓町人)からの成り上がり者で、芸術の鑑定眼がなかった。
 地方となった京や大坂は近代化に乗り遅れ衰退したが、政治権力の完全支配を避けたいと考えた薩摩藩士・五代友厚ら一部の政商は大阪に留まって関西の独自性を守った。
 大阪府は、東京府に対抗する為に、船場の商いの町から工業都市に変貌し、伝統技術と近代技術を融合させて新たな産業を生み出して多くの企業を創業させた。
 京都府も、東京の後追いをせず、地方として地元の芸術文化と伝統技術を生かして独自性を生かす町作りを目指し、新たな分野に挑戦して斬新な企業を生み出していた。
 京・大坂の上方文化は、地方の文化として、古き伝統と新たな近代を柔軟に取り入れ、関西人らしく強かに生き残っていった。
 京や大阪の関西弁は、東京の標準語に毒される事なく、さりとて嫌って閉鎖的地方言語に成り下がる事もなく、融通無碍的に、取り入れる所は取り入れ、拒否する所は拒否して付き合った。
 織田作之助「秀吉以降の、いや、すくなくとも明治の大阪の指導者として、開発者として、友厚の右に出る人はひとりもいないはずだ」(『大阪の指導者』)
 東京府は、盲目的西洋礼賛から、世界の中央である西洋を手本として近代国家を目指すべきであるとして、西洋をひたすら真似・模倣する事で硬直した国造りを行った。
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 スエズ運河開通。イギリスは、スエズ運河を手に入れて地球上の海上交易を支配し、アジアへの侵略を加速させた。
 フランスは、イギリスに出遅れまいとして植民地拡大の為に軍隊をアジアに送った。
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 明治政府は、ロシア帝国の侵略から日本を守る為に、先住民アイヌ人の人権を制限若しくは無視してまで北方の防衛体制整備を急いだ。
 地政学における、安全保障の脅威であった。
 8月15日 蝦夷地を北海道と改称し、北方開拓の為に「開拓使」を置いた。
 北方領土を郡制の中に組み入れ、国後島択捉島をあわせて「千島国」として五郡を置いた。
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 1870年・71年 ペルシアで200万人が餓死した。
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 1870(明治3)年 明治天皇は、政府の決定に従って大教宣布の詔を発した。
 明治天皇の命によって、京都市北区船岡山織田信長を祀り、長子信忠を配祀る建勲神社が建立され、別格官幣社に認定された。
 明治新政府は、武士や公家以外の豪商、豪農、学者、医者など一部の庶民に認められていた姓を、全ての国民が持つ事を許した。
 創氏改名が一大ブームとなり、新しい姓が数多く生まれた。
 女性は、結婚後も実家の姓を名乗る事が許されていた。
 武士や公家の間では、夫婦別姓として妻は生家の姓で呼ばれていた。
 元福井藩主・松平春嶽は、新政府の公職を辞して下野する。
 薩長土肥は新政府を支配する為に、坂本龍馬が日本の将来を託そうとした福井藩出身者を数年かけて新政府内から一掃した。
 1月11日 イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ4ヵ国の公使は、日本政府に対して、キリシタンの移送は人倫にもとる行為であると激しく抗議した。
 沢外務卿と寺島外務大輔は、キリシタン処罰は国内法に従った正当性なものであると説明した。
 キリシタンは、自分の信仰を妄信して、他宗との妥協を拒否し、村中不和をもたらしている。国教と定めた復古神道を拒絶し、ムラ人が信仰する氏神・祖先神を祀る神社への敬意を払わず侮辱し、神話から続いている神の裔・天皇の神性を否定している。
 公使団は、近代的法理において個人における「信仰の自由」は、国内法の罰則の規定を超えた基本的人権であるとして、日本側のキリシタン禁制は国内法であるとの説明を容認しなかった。
 高輪会談と横浜会談と話し合いが持たれたが、何れも紛糾した。
 日本側は、妥協案として、宣教師が秘かに居留地を出て布教活動をする事を取り締まる様に要請した。
 外交団は、宣教師の自由な行動は国際常識として認められている以上、「信教の自由」を守る為にそれを止める事はできないと拒否した。そして、流罪にした浦上キリシタンを全員帰村させれば、宣教師の取り締まりの件は努力すると返答した。
 強制移住させられた浦上キリシタン3,000人以上の内662人が、各藩の棄教を迫る拷問で死亡した。10名ほどのキリシタンが、監視の目をかい潜って命からがら逃亡して教会に逃げ込み、実情を訴えた。
 新政府は、脱走者を出しては不都合であるとして、キリシタンを預かる各藩に脱走しない様に監視を強化させ、脱走者の連れ戻しの為に人相書きを全国に出して指名手配する様に厳命した。
 外人居住地の外字新聞は、脱走者からの情報として、キリシタンへの残虐行為を報道して日本側を激しく非難した。
 一部の敬虔なキリスト教徒は、十字軍を派遣して、囚われの身となっている哀れなキリシタンを救出し、絶対神の怒りの鉄槌を異教徒の上に振り下ろすべきであると訴えた。
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 1871年 中村正直は、スコットランドの思想家、サミュエル・スマイルズの『西国立志編』(『自助論』)を翻訳して出版した。
 「天は自らを助くる者を助く」や「青年よ、大志を抱け」というプロテスタンティズムが、学生や知識人の間で一大ブームとなり、それが「明治の精神」となっていった。
  日本人には西洋かぶれ西洋礼賛が強く、定期的に舶来ブームが起きていた。
 日本人は、読んで理解しようがしまいが関係なく、とにかく購入して手元に置いておかないと不安になる性格を持っていた。
 それは知識欲ではなく、教養人として見て貰いたいという上っ面の虚栄心にすぎなかった。
 日本には定期的に舶来の思想や哲学が爆発的に広がる事があっても、長い目で見ると根付く事はなく消え去っていた。


 明治政府は、身分・出身に関係なく日本人全員に平等に苗字を持たせる事にして、差別を生みやすい姓を廃止して苗字に一本化する事を決定した。
 宗教行政として、神祇官を廃止して神祇省を新たに設置した。
 伊勢神宮以下、全ての神官社家の世襲を廃して、神祇官および地方庁に神職の任免権を与えた。
 明治新政府は、官軍の戦死者を葬る墓地として、大阪・天王寺に「真田山陸軍墓地」を、全国に同様の陸軍墓地を80ヶ所以上を開設した。
 1月27日 イギリス代理公使アダムスは、日本政府に対して、実態調査とキリシタンの待遇改善を申し込んだ。
 日本側は、調査の結果、拷問等の虐待行為はないと釈明した。
 アダムスは、日本側の説明に納得せず、イギリス人外交官による実地調査を要求した。 日本側は、同問題解決の遅延がイギリス以外の公使の介入を招くとして、イギリス外交官の立ち入り調査を受け入れた。
 諸藩は、外交問題に発展する事を恐れて、改宗を強要する拷問を控えた。
 5月14日 政府は、官社以下定額及神官職員規則等を布告した。
 「官社以下定額及神官職員規則等」伊勢神宮を頂点として官国幣社、府藩県社、郷社の位階を定め、官国幣社長官は華族・士族から選任、国幣社長官は府藩県の参事の兼任とし、世襲神職の全てを「改補新任」する事とした。
 7月4日 郷社定則により、全ての神社と神職を序列化した。
 「郷社定則」。全国の神社と神職を序列化し、1戸籍区に1郷社を置き、他の氏神は村社として郷社に付属するものとした。
 12月17日 佐賀の伊万里で、キリシタン67名が禁制違反として逮捕された。
 同事件は、上海や欧米の各新聞がセンセーショナルに取り上げ、各国でキリスト教を弾圧する異教国日本への激しい非難の声が巻き起こった。
 12月23日 岩倉具視を団長とする使節団が、横浜港を出帆した。
 長崎の外字新聞(12月30日付け)「日本の使節団がすでに出帆したが、各締盟国に到着の上は、各国から苦い抗議を込めた飾り言葉で、よくおいでなさったと挨拶されるであろう」
 12月28日(明治4月11月17日) 明治天皇は、大嘗祭を東京で執り行った。


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