- 作者:片岡 弥吉
- メディア: 文庫
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
エタ・非人の賤民や貧民の下層民達は、天皇を守るべく幕府軍と戦った。
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日本社会構造は、三元論でできていた。
第一の政治権力を、藤原摂関家の公家や源氏・北条氏・足利氏・徳川家などの武士が「武力」で握っていた。
第二の宗教権威は、日本仏教界が「財力」と「教養」で握っていた。
第三の中庸は、日本天皇が「神話」(日本神話・天孫降臨神話)と「日本国語力」で握っていた。
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明治維新によって、身分制度は、士農工商と非人・エタの賤民から天皇と臣民に改められた。
が、人の身分差別の認識は直ぐには変わる事がなく、差別は残った。
唯一、消滅した身分は支配階級であった武士である。
武士は、自分が属していた特権階級の武士を廃止する為に戊辰戦争を戦った。
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西郷隆盛「国の凌辱せらるるに当たりては、たとひ国を以て斃るるとも、正道を踏み、義を尽くすは政府の本務なり」
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勝海舟「誰を味方にしようなどというから、間違えるのだ。みんな敵がいい。その方が分かりよくて、大事ができる」
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日本は、人が住める領土こそ狭いが、離島による領海を考えた時にその国土は広い。
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ロシア帝国は、極東での日本との緊張が緩和された事で、新たな南下政策としてインドへ向かう為に中央アジアを侵略しアフガニスタンを攻撃した。
イギリスは、ロシア軍の侵略が植民地インドを目指しているとして危機感を強め、対ロシア戦略から日本国内の内戦を早期に解決する事を望んだ。
弱肉強食の帝国主義時代に、日本の内戦を温かく見詰めてくれ白人キリスト教国は存在しない。
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明治維新は、ロシアに対する恐怖から始まり、如何にロシアの侵略から帝(天皇)・皇室(皇統)と祖国日本を守るかの方針をめぐる内戦であった。
アヘン戦争は、単なる参考事例にすぎなかった。
問題は、ロシアにあった。
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K・M・パニッカル「日本に進出していた外国人達は、当時日本国内に荒れ狂う内戦と、幕府の勢力が日に日に衰えて行くのを目にしながら、日本もアジア諸国の一般的なパターンに落ち込んで行くであろうと期待していた」
キリスト教西洋諸国は、宗教的白人至上主義から、日本を中国やインド同様に分割して植民地とし、日本人を奴隷にしようとしていた。
「しかし、1868年から1893年にかけての25年間で、日本の指導者達に追求された維新と政策は、日本に掛けられた鎖を完全に断ち切るという、予想しなかった結果を生み、ヨーロッパ世界から完全な独立を堅持する立場に日本を置いた」(『西洋の支配とアジア』)
日本は、強権的中央集権国家として、軍国主義的富国強兵策と殖産興業策を推し進めた。
軍国日本の誕生であり、悲劇の始まりであった。
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西郷隆盛「正道を踏み国を以て斃れるるの精神無くば、外国交渉は全かるべからず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽蔑を招き、好意却って破れ、終に彼の制を受ける至らん」
外国に媚びを売る様に相手に合わせる配慮外交は、有害で、国益を損ねる。
現代の日本外交は、その傾向が強く、中国や韓国に対して負け犬の様に、命じられるままに怯えて反論もせずに唯々諾々として従っている。
現代の日本人が、如何に西郷隆盛を尊敬し、西郷隆盛の様に行動しようとしても、所詮むだな事である。
現代日本人には、西郷隆盛の様な「志」や「気概」や「品格」が微塵もない。
西郷隆盛は、決して、信念なき配慮外交などはしない。
所詮。現代日本人は、サムライではない。
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田中美知太郎「明治の国家意識を養う過程を見ても、パトリオティズム(郷土愛)がナショナリズム(国家意識)に発展する過程には、非常に強い力、地方的な意識をぶち壊すという強い意志が働かないと『国家』というのは出てこない、たとえば西南戦争、会津戦争、アメリカの南北戦争がそうですね。そういうものがないと『国家』は出てこない」
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菅子曰く
一年の計は穀を植ゆるにあり、
十年の計は樹を植ゆるにあり、
百年の計は人を養うにあり。
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イザベラ・バード「世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行ができる国はない」(『日本奥地紀行』)
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フランク・ギブニー「明治維新はアメリカ独立革命、フランス革命、ロシア革命、中国革命と並ぶ近代史上の五大革命」
「(明治維新は)近代史のなかで試みられた最初の全面革命であった」
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横井小楠「西洋文明の行き着く先は覇道であり、日本が目指すべきは徳に基づいた王道である。ただ富国強兵国家でなく、東洋の徳と西洋文明の科学文明を折衷させた理想国家を作り、世界に範を示すべきだ」(『国是三論』)
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1868(明治元・慶応3)年 王政復古の大号令。
近代的天皇制度の下で新政府が樹立した。
明治政府は、植民地化しようとして押し寄せてくるキリスト教欧米列強の軍事的外圧に対抗するべく、暴力を用いて国家に権力を集中させ、キリスト教に対抗する為に神の裔・天皇に天孫降臨神話(日本中心神話)で宗教的権威を与え、世界に通じる神聖君主に仕立て上げた。
政府高官の大半が低い身分出身者であった為に、強力な戦闘能力を持つ身分高い世襲階級のサムライを押さえ込むべく天皇を玉・道具としてその権威を利用し、そして1000年近く日本を支配してきたサムライ階級(人口の約5%)を瞬時に消滅させた。
現代日本で、平和に対する犯罪機構として世に嫌われる近代的天皇制度下の軍国主義国家の完成である。
世界の良識は、軍国日本の現人神・天皇を中心とした軍国主義化は、人類の平和と幸福を脅かす邪悪な犯罪行為と裁いた。
マルクス主義者は、虐げられる下層階級の味方として、国家元首天皇は人民を搾取する横暴なる専制君主であると糾弾し、人民の権利を回復し社会の幸福を実現する為に打倒すべき「敵」と宣言した。
ルース・ベネディクト「日本の政治評論家達はしょっちゅう天皇のその臣下に対する不朽の支配力を説いているが、あれは誇張した言であって、彼等があれほど力を入れて主張せねばならない事それ自体が、根拠の薄弱さを証明している」(『菊と刀』)
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1868年1月27日~30日(明治元年/慶応4年1月3日~6日) 鳥羽伏見の戦い。新政府軍の主力5,000人はは薩摩藩・長州藩・鳥取藩・岡山藩であった。
犠牲者。新政府軍・3,550人。旧幕府軍・4,690人。
戦死したのは、武士とその家族のみで、庶民は極々少数のみであった。
戦うのは、サムライ・武士であって、庶民ではない。
よって、庶民を殺すサムライは卑怯者と軽蔑され差別されたた。
フランスは、現実主義に基づく合理的思考から、日本国内に租借地を獲得し特権を得る為に、幕府を支援し、一部のフランス人軍人を幕府軍に参加させた。
幕府側の勝海舟ら民族主義者は、日本人同士が戦っていては、キリスト教欧米列強の植民地になる恐れがあるとして早期和平に動いた。
小栗上野介や榎本武揚らは、多少の犠牲を覚悟しても、フランスの軍事・財政支援を受けて徹底抗戦すべきである主張した。
一部の幕臣は、イギリスに対抗する為に、最も危険なロシア帝国の軍事介入による支援を期待した。その見返りとして、アイヌ人の土地である樺太や蝦夷地・北海道の一部をロシア領に割譲するもやむなしと考えていた。
日本は、アジア・アフリカ地域と同じ分割支配される危機に立たされていた。
徳川慶喜は、日本をキリスト教欧米列強の植民地化から救う為に、神の裔・天皇中心の軍事国家を建設するべきとして朝廷に帰順した。
日本の天皇制度軍国主義国家は、植民地化しようとする外国勢力から祖国を守るという命題を抱えていただけに誕生したときからの宿命であった。
イギリスは、新政府軍を支持したが、内政不干渉の原則から深入りはしなかった。「濡れ手に粟のぶったくり」的に、新政府軍が勝利し国家建設に伴い各種の特権を獲得する為に裏工作を進めていた。
伝統的イギリス外交は、「自国の被害を抑えて相手に多くの被害を与え、相手以上の利益を獲得する」事を最重要目的として、情報を操作し、権謀術数に長けた外交手法を駆使した。
ロシア帝国も、日本の内戦が長期化すれば領土拡大の好機として、内政介入の機会を窺っていた。
明治政府は、自主独立国家の主権を守る為に、キリスト教欧米列強の内政干渉を避けるべく、幕府が諸外国から借り受けた借款を全て返済した。
ハロルド・ニコルソン「外交とは、正直で嘘をつかない事が一番効果を発揮すると、イギリス人は考えている。外交において嘘をつけば、一時的に有利になる事が多い。しかし有利になるからといって、いつも嘘をついていれば信用が無くなる。長期的には信用を失う事によって喪失する利益のほうが、嘘をついて得る利益よりもはるかに大きい。それが外交というもので、だから外交において嘘をついてはいけない」
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官軍は、最新鋭の銃と大砲を持った下士や郷士(百相・町人)であった。
賊軍は、旧式の銃や大砲を持った上士や下士であった。
官軍には、武士道は存在せず、賊軍を殲滅し、賊軍兵士の死体を放置し、族軍兵士の家族を襲って暴行や強姦を繰り返していた。
官軍に攻められた賊軍の土地は、悲惨の一言であった。
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日本がキリスト教欧米列強の植民地にならず、日本人が白人キリスト教徒の奴隷にならずに済んだのは、勤皇の志士(靖国神社)が自己犠牲的に神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)を守ろうとしたからである。
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江戸城無血開城の、歴史の記録として残る表の主役は西郷隆盛と勝海舟であったが、裏では第13代家定夫人の天璋院篤姫(敬子、すみこ)と第14代家茂夫人の静𥶡院宮親子(せいかんいんのみや)内親王(和宮)と輪王寺宮(後の北白川宮能久親王)の三名が活躍していた。
安藤優一觔「実際にパークの抗議があったことは史料に残っています。しかし西郷は、パークスの抗議を『攻撃中止』の大義名分として利用したにすぎません。中止を決断した最大の理由は西郷の『武士の情け』です。西郷の残した功績をみれば、その本質は政治力であり、交渉の巧みさだと言える。江戸城総攻撃計画は旧幕府側から最大限の妥協を引き出す切り札だったと考えられます。しかし、この独断により新政府内に西郷不信の種を蒔くことになってしまいます」
1月21日 和宮は、京都の実兄・橋本実麗(さねあきら)に女使いを出し、朝廷に宛てた手紙と徳川慶喜が書いた嘆願書を託した。
さらに、東征軍の橋本実梁(さねやな)、岩倉具定(ともさだ)両先鋒総督にも手紙を送った。
天璋院篤姫は、薩摩藩邸で病気で床に伏している幾島を見舞うという名目で年寄(大奥の役職名)を送り、誰にも見られないように西郷への手紙を渡した。
3月11日 幾島は、西郷に天璋院の手紙を手渡した。
西郷は、自分の命を犠牲にしても徳川宗家を存続させる事を願う天璋院の手紙を涙しながら読んだ。
朝廷は、イギリスからの圧力もあって江戸城総攻撃中止と徳川宗家存続を決定していた。
3月13日・14日。西郷隆盛と勝海舟の会談。
日光を警護していた八王子千人同心(約45名)は、日光の東照宮や輪王寺を戦火から守る為に、進撃してきた新政府軍に恭順の意を表した。
4月4日 東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷らが兵を率いて江戸城へ入城した。
内戦を長期化させて混乱させると、アヘン戦争で清国が衰退した様に日本も西洋列強の侵略を受けて、植民地化されて消滅する恐れがあるとうい認識を共有していた。
4月11日 幕府討伐軍は、江戸城に入城した。
徳川慶喜は、水戸で謹慎するべく、蟄居していた上野寛永寺を出立した。
5月15日 上野戦争。大村益次郎率いる新政府軍は、1日の戦闘で上野・寛永寺を占領した。
明治新政府は、天皇中心の御維新に従わぬ逆賊への見せしめとして、上野山でも彰義隊の死体を野晒しとし、上野の山への立ち入りを規制した。
規制は、約5年半にもおよんだ。
寛永寺の僧侶は、政府に隠れて戦死した彰義隊士の小さな墓石をを建てて、霊魂を弔った。
「あはれとて尋ぬる人もなきたまのあとをし忍ぶ岡の辺の塚」
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戊辰戦争。南部藩と津軽藩は、一早く朝廷に帰順し、蝦夷地に派遣していた藩兵を引き上げて佐幕派の秋田藩を攻撃した。
ロシア帝国は、極東での日本との緊張が緩和された事で、新たな南下政策としてインドへ向かう為に中央アジアを侵略しアフガニスタンを攻撃した。
イギリスは、ロシア軍の侵略が植民地インドを目指しているとして危機感を強め、対ロシア戦略から日本国内の内戦を早期に解決する事を望んだ。
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戊辰戦争は、世界史上、最も少ない犠牲による体制改革であった。
・戊辰戦争の兵力。
幕府側、2万人以上。
薩長軍側、約5,000人。
・死者数。約8,200人。
新政府軍・約3,550人。
旧幕府軍・約4,690人。内会津藩・2,557人。女子 194人。
一説に、1万2,213人。
新政府軍、3,588名。
旧幕府軍、8,625名。
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新政府軍の戦死者は、天皇と日本国を守って死んだ英雄として靖国神社の祭神として祀られた。
靖国神社とは、天皇と祖国を守って戦死した者を祀る神社であった。
全国には、出身者を祀る護国神社があった。
護国神社の中には、賊軍として戦死した旧幕府軍兵士を祀る神社があった。
神として祀られなかった賊軍兵士は、出身地で仏として弔われた。
祀るにせよ弔うにせよ、重要なのは、目に見える屍体や遺骨や遺品ではなく、目に見えない霊魂であった。
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倒幕を行った勤皇の志士達は、下級武士や百姓・町人出身の浪人達で冨と権力を持たず、失うモノは何もなかった。
中級以上の武士達は、先祖からの領地と地位を持っていた為に、柔軟性を持たず倒幕には消極的であった。
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新政府は、時代が変わった証しとしての犠牲者を必要としたが、徳川慶喜が政治力を使って逃げてしまった為に、標的を会津藩に定めた。
会津藩は、戦争を避ける為に恭順を表明していた。
だが。戦争を望んでいた新政府は、武士としての誇りを捨て土下座をして謝罪する事を求めた。
当然、会津藩が受け入れず抵抗してくる事は承知の理不尽な要求であった。
朝敵への見せしめとして、街道筋以外で戦死した白虎隊の少年や女性長刀隊やその他多くの屍体の埋葬を許さず、野晒しとした。
敵味方区別なく葬るのが日本人というのは、正しくはない。
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新政府は、新しい国家の建設と欧米列強の内政干渉による内戦拡大を防ぐべく、条約締結国の支持を得る為に開国和親の継続を宣言した。
貿易競争力の脆弱な日本は、対外貿易が本格化するや、物価高となって極度のインフレとなり国内経済は大混乱に陥った。
開国で、生活苦に陥った武士や町人の間に攘夷運動が再燃し始めた。
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1月24日 幕府が消滅した為に、浦上キリシタン問題は解決しないまま河津伊豆守は長崎奉行職を免ぜられた。
明治政府は、欧米列強とキリスト教会の目を気にして、長崎奉行所を廃止して長崎に藩邸を置く諸藩に治安維持を命じた。
2月 攘夷派は、イギリス公使を襲撃した。
2月12日 明治政府は、幕府が締結した条約を順守すると通告した。
2月14日 明治政府は、神道国教主義に基づく祭政一致の政体への復古を発布した。
キリシタンに対しては、幕府同様に邪教として禁制するという国法を踏襲し、天皇の神性を否定するキリシタンを取り締まる宗教政策を打ち出した。
キリスト教を信仰する欧米列強は、キリスト教を邪教と決めつけた事に反発し、個人の思想・信仰を貶める事は文明国にあるまじき非人道行為であるとして激しく抗議した。
新政府は、妥協案として、今後は「邪」という表現は使用しないと約束した。
沢宣嘉九州鎮撫総督兼外国事務総督兼長崎裁判所総督と、井上馨(聞多)九州鎮撫総督参謀兼長崎裁判所参謀は、浦上キリシタン問題を解決する為に長崎に着任した。
諸藩から選抜された佐々木高行、野村宗七、松方正義、大隈重信、楊井謙蔵らは、長崎裁判所の九州鎮撫使として補佐した。
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2月15日 堺集団腹切り事件。
堺港にフランス軍艦が入港し、フランス人水兵達は上陸した。
フランス人水兵達は、宗教的人種差別主義から、日本人を人間以下の猿と見下して堺市民に暴力を振るった。
堺を警備していた土佐藩士等は、日本人を守る為にフランス人水兵達を制止した。
両者の間で衝突が起き、フランス側に11人の死傷者が出た。
フランス公使は、新政府に対して激しく抗議し、事件に関係した土佐藩士全員の処刑を要求した。
日本側は、屈辱と知りながら、フランス側の強圧な要求を受け入れて20名全員の切腹を決定した。
2月18日 イギリス・フランス・プロシア・イタリア・アメリカ・オランダの6ヵ国は、徳川慶喜追討問題で局外中立を宣言。
2月23日 切腹場は堺の妙国寺と定められ、フランス公使とフランス軍艦船長か立ち会う事になった。
フランス側は、噂の「ハラキリ」が見物できるとして興奮したが、その余りにも凄惨な光景に恐怖して11人目で中止を求めた。
フランス人も、死刑方法として首を切断するギロチン刑を行っていた。
ギロチン刑が犯罪者に対する処刑方法なら、切腹は武士の名誉であった。
フランス側は、ハラキリが不名誉な死刑ではなく、武士の名誉であると知るや興醒めした。
国際社会の常識は、白人至上主義であり、日本を含む有色人種は人間以下の下等生物と見なされていた。
欧米列強は、隙あらば日本を植民地化し、日本人を奴隷にしようとした。
それが、明治維新の新の動機である。
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神戸事件。
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3月14日 江戸城無血開城が決定した。
五箇条の誓文を公布。
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4月25日 浦上キリシタン問題について。御前会議の場で、国法を犯した重罪人として全村民3,000人以上を、処刑するのではなく流罪に処す事に決定した。
明治政府に影響力を持つイギリス公使パークスは、信仰の自由は人に認められた自然的人権である以上、如何に国内法に違反しようとも取り締まり禁止すべきでないと抗議した。
明治政府は、国内法を犯した者は犯罪者である以上、その処断に外国の干渉を受けるゆわれはなく、内政干渉に従っては国権が成り立たないとして拒否した。
だが。欧米列強は、個人の信仰より国内法を優先するという日本側の回答は、人道上許されない暴挙であるとして反発した。
5月11日 明治政府は、個人の自由な信仰を保証するという国際通念の遵守を求める外圧を無視して、意固地となって国内法に基ずく処罰を断行した。
木戸孝允は、長崎に到着し、太政官達しに従って6月1日からキリシタンの移送を始めた。
名古屋以西の10万石以上の諸藩は、不満はあっても、天皇の命令とあっては拒否できず、割り当てられたキリシタンを罪人として受け入れた。
大浦天主堂は、秘かに、10名の少年を異教徒の弾圧から救うべく上海の教会に送り、日本の禁令を破り本人の希望として宣教師になる為の勉強をさせた。
キリスト教会は、表向きには日本との俗世的約束を守りながらも、内では絶対神との契約を最優先して異教国日本との約束を破っていた。
全国には、実数がわからないが数十万人の隠れキリシタンが存在し、幕府・諸藩や仏教寺院の探索を逃れて見つからない様に密かに「隣人愛の信仰」を守っていた。
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5月3日 仙台、米沢の両藩は、新政府軍と戦う為に東北諸藩と奥羽列藩同盟を結んだ。
会津藩と同盟関係にあった新発田藩や長岡藩など北越諸藩も加わり、30藩が参加して奥羽越列藩同盟が結成された。
会津藩と庄内藩は、東北を中心として共和国を作り新政府軍と戦うべく、プロイセンからの援軍を要請した。
プロイセンとの軍事同盟を結ぶにあたって、蝦夷地(北海道)の割譲を提案した。
新政府軍の本格的な攻撃が始まり、秋田藩や三春藩などが奥羽越列藩から脱退した為に共和国独立とプロイセンとの軍事同盟構想は潰えた。
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9月 明治維新。
9月11日 幕府の軍艦・咸臨丸は修理で遅れて出港した為に、三保本村沖合で、旧幕府艦隊を追いかけて来た新政府軍艦隊の攻撃を受けた。
旧幕臣は、艦上の戦いで戦死するか捕虜となり、一部は上陸して逃げた。
駿河の領主となった徳川家は、旧家臣が逃亡した事を知るや、新政府を恐れて領内に「一夜之宿も貸申間敷候」との触れを出して匿う事を厳しく禁じた。
清水市史「徳川家は家系存続のため、旧幕臣が頼るのを断ち切ったのである」
新政府軍艦隊は、戦死した敵を逆賊として海に投げ棄てた。
沿岸の人々は、遺体を埋葬すると咎められると恐れて、見て見ぬ振りをして腐敗するに任せた。
博打打ち(ヤクザ)である清水の次郎長は、義侠心から、湾内に浮かぶ屍を集め、一体ずつ供養し、清水市築地町に「壮士の墓」として手厚く葬った丁寧に埋葬した。
新政府は、旧幕府に肩入れする不届き者として罰する為に出頭を命じた。
次郎長は、「死ねば皆、仏。官軍も徳川もない。仏を供養する事が悪いというのならこの次郎長はどんな罰でもお受けいたしましょう」と返答した。
山岡鉄舟は、ヤクザである次郎長の気風の良さ・潔さに惚れ込んだ。
会津戦争後。政府軍は、戦死者に対して官軍・賊軍に関係なく埋葬する様に指示していたが、会津側の死者が多かった為に会津人の屍体は野晒しの様に放置された。
南部藩と津軽藩は、一早く朝廷に帰順し、蝦夷地に派遣していた藩兵を引き上げて佐幕派の秋田藩を攻撃した。
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那須、三斗小屋の惨劇。
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司馬遼太郎「日本人を知ろうと思えば我々は嵯峨野の大沢の池のさざなみよりも、会津の雪のなかの歴史と人の営みを知る必要がある」
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10月6日 会津戦争。会津藩約9,400人。藩兵約3,500人。その他約6,000人(少年兵、女性兵、含む)
政府軍約75,000人。
会津側は、兵力や武器に於いて絶対不利と分かっていたが、サムライの意地として戦わずにはいられなかった。
女子供も武器を持って共に戦い、傷付き、そして戦死した。
中野竹子の辞世の句「武士の猛きこころにくらふれは 数にも入らぬ我が身なからも」
家老・西郷頼母邸では、篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃した。
西郷千重子の辞世の句「なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそ聞け」
他にも、自決した女子供の家族がいた。
会津に攻め込んだ官軍の兵士や人夫達は、城下で略奪や強姦を行った。
11月6日 会津は、新政府軍に降伏した。
会津側の被害、2,977人。
「斗南」移ってから柴伍郎は父に厳しく戒められた。「生き抜け、生き残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」
「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあれば、いつかは春も来たるものぞ。堪え抜け、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」
旧幕府軍の残存兵力は、仙台で榎本武揚と合流して、蝦夷地(北海道)へ向かい箱館・五稜郭に立て籠もった。
12月4日(69年6月27日) 箱館戦争。旧幕府軍、3,500人。戦死、1,000人。
政府軍、9,500人。戦死、300人。
旧幕府軍は、負けると分かっていた戦いを、勝つという信念で戦って敗北した。
無駄と分かっていても命を賭けて戦うのが、サムライであった。
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慶応4年8月26日(1868年10月12日) 明治天皇は、大納言源道富を勅使として讃岐に使わし、崇徳院の命日にその墓所で宣命を読み上げさせた。
8月27日 明治天皇は、京都御所に即位の礼を執り行い、即位した事を内外に宣下した。
9月6日 勅使一行は、崇徳院の神霊を輿(神輿)に乗せ京に運び、京都の今出川にある飛鳥井家の守護神・毬大明神を祀る神社に遷座し、名を白峯神宮と改め、鎮魂の儀を行った。
朝廷は、朝廷を呪い世に祟る崇徳院の怨霊を朝廷を護る御霊に変えた。
9月8日 明治天皇は、新しい世が怨霊に呪われる事がなくなったとして、安心して元号を明治と改元した。
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明治元年10月13日 東京奠都(とうきょうてんと)、第一回目の東京行幸。明治天皇は、江戸城に入城してこれを東京城と改称した。
一旦、12月に京都に還幸した。、翌明治2年(1869年)に再び東京に遷った。
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江戸時代から明治にかけて、日本人は外来語を漢字に転換して大量の和製漢字や和製漢語を創作し、中国や朝鮮に輸出した。
近代における、社会科学や人文科学などの用語の7割が、日本人が作った和製であった。
だが。現代日本ではカタカナ語が氾濫して、昔の様な和製漢字・和製漢語が創作される事はなかった。
現代日本人は、昔の日本人に比べて漢字・漢語の素養は低下し、語彙レベルも劣化していると言われている。
将来。日本の国際化によって正しい日本語は消滅するかもしれないと言われている。
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近代西洋キリスト教白人文明は、「人間のみが、地球を支配する」を絶対正義として世界に進出した。
ラドヤード・キプリング(インド生まれのイギリス人詩人)『白人の重荷を背負って立つ』「君達の子弟を異国の彼方に向かわしめよ/乱れさざめく野蛮な民どもの世話をするのだ/君たちが新しく捕らえた、仏頂面の/なかば悪魔、なかば子供ような民どもの」
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天皇制度国家日本は、日本を植民化しようと虎視眈々と狙っているキリスト教西洋列強から祖国を防衛し、日本民族を中国人の様に白人キリスト教徒の奴隷にしない為に、富国強兵しかないと判断して、国を開き、文明開化で欧化政策を採用した。
排他的国粋主義による尊皇攘夷を断行する為に、庶民生活を犠牲にしても軍国主義諸政策を強行し、秩父騒動など国策に楯突く不満庶民勢力を暴力で容赦なく弾圧した。
伝統的保守派は、外敵であるキリスト教諸勢力の侵略から神国日本を守る為には神の裔・天皇を中心とした強権的中央集権国家しかないとし、万世一系の男系天皇(直系長子相続)は民族国家の心柱であると美化する国體論を唱え、祖国礼讃の皇国史観よる宗教教育を学校現場に押しつけた。
これが、犯罪的教育とされた戦前の愛国主義教育である。
国家元首・明治天皇は、軍国日本の唯一の主権者として、増税で生活が窮乏する庶民が軍国主義諸政策に不満を抱く事は国家崩壊の危機につながると懸念して、軍備強化の為にやむを得ず耐乏生活を強いる事を諭して理解を求めた。
それでも不満を抱くマルクス主義的知識層は、明治天皇を庶民から血税を吸い取り搾取する圧制者の親玉と憎み、哀れな庶民を救う為にはかかる暴君的専制君主を倒し、恐怖体制の天皇制度は廃止すべきであるとして、天皇暗殺の陰謀を巡らした。
マルクス主義者は、反宗教無神論者として、神の裔・天皇の神性を無価値であるとして完全否定し、他人の信仰を無視して神社仏閣は宗教的搾取装置と見なして廃止を求めた。
キリスト教会は、軍国主義諸政策で貧困に追い込まれた下層階級の間に信者を増やし、神の裔・天皇の神性を否定し廃止するように訴えた。
キリスト教徒日本人は、平和こそが唯一絶対神の御心であるとして、人殺しの軍事費を恵まれない庶民の生活改善にまわすべきであると確信して、慈善活動を行った。
大陸に於いて、宗教が不寛容な絶対価値観で政治化するのは自然の事である。
天皇制度国家日本は、神の裔・天皇の宗教権威による強権的軍国主義政治で国内外に数多くの敵を作った。
時代は、キリスト教による宗教的白人選民主義の差別時代であった。
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廃仏毀釈。
江戸時代まで、外来宗教である仏教は、仏(本地)が神(垂迹)の姿で現れたという「本地垂迹説」を唱えて、神道を取り込んで神社を支配していた。
仏教界は、幕藩体制の権力と結びついて特権を与えられ、檀家制で葬儀を執り行い墓地を管理する事で檀家から多額のお布施を取り、城下町や宿場町の中心に近い一等地に大伽藍を建立した。
寺院は、キリスト教の大聖堂と同じ様に、町の中心に広大な敷地を持ち本堂や宿坊など多くの建物を建て信徒を集めていた。
「地獄の沙汰も金次第」
生臭坊主は、魂の救済や死についての説教をせず葬式ばかりして、檀家からお布施と称し大金をせしめていた。
日本人は、宗教を本心から信仰せず、嫌々ながら義理で寺院と付き合い、ウンザリしながら僧侶等におべっかを使って機嫌をとっていた。
貧しい生活を続けていた庶民は、豪華絢爛とした仏教寺院の大伽藍に圧倒されて仏の偉大さを肌身で感じて仏像を拝んだが、酒を飲み女遊びする俗物化した生臭僧侶を嫌悪していた。
庶民は、宗教権威で威張り散らす傲慢な仏教寺院にひたすら頭を下げ、理不尽と思いながらも要求されるままにお布施を出していた。
神社は、僅かな賽銭以外に収入がない為に護符や御守りを売って生計を立て、町外れの辺鄙な土地に質素の社殿を建てた。時節で、時折、訪れる氏子等とともに、祖先神・氏神と自然神に五穀豊穣と無病息災と家内安全のムラ社会と家族の祈りを捧げていた。
神道の根本に流れるのは、ムラという共同体の宗教として、人と自然と祖先神を中心とした八百万の神々との目に見えないあやふやで曖昧な「絆」であった。
その象徴が、神代から途切れる事なく継承されてきた神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)制度である。
この神話から途絶える事なく受け継いだ皇統の血筋は、世界広しとは言っても、多くの王家や皇室があると言っても、大地の外れにある日本にしか存在しない。
この奇跡は、日本人が直系長子相続男系天皇のみを尊いとして護り、出身不明の他人が皇位に即位する危険のある非皇室女系天皇を排除したがゆえに残り得た。
江戸幕府は、天皇の権威を弱め、公家・朝廷の政治力を無力化する為に、仏教に宗教界支配と庶民の過去帳などの庶務一切の管理を任せた。
寺院は、宗教権威を振りかざして莫大な蓄財をし、政治に口だして影響力を付ける事で腐敗堕落して庶民の怒りを買った。
「坊主憎ければ、袈裟まで憎い」
仏教は、日本の霊世界や日本人の心・精神を支配していた。
国学者及び神社側は、永年続いた外来宗教・仏教の宗教・精神支配を排除するべく、明治政府に圧力をかけて神祇省を創設した。そして、古代の律令制に習って祭政一致の制度を復活させるべく諸神社神主等を神祇官とした。
「神仏分離令」が発布され、祭政一致の制度が復活し、諸神社神主等を神祇官に附属するものとれた。
新政府は、資金難を補う為に広大な寺社領を没収使用とした。
多額のお布施を強要する葬式仏教に不満を持っていた貧しい庶民は、廃仏毀釈暴動を起こした。
庶民は、これまでの信仰を忘れたかの様に、利益優先で金儲けに狂奔する強欲な寺院を襲撃し、仏像や仏具や仏典などを破壊し、そして仏教施設を放火した。
日本的な放火や強奪やけが人を出さない自制的な打ち壊しではなく、大陸的な放火と強奪と殺傷をともなう破壊的な暴動が発生した。
日本でこうした無法的暴動が起きたのは、南北朝の戦乱や応仁の乱など社会秩序と宗教権威が崩壊した、弱肉強食の動乱期のみであった。
新政府は、押さえに押さえてきた仏教寺院への怒り庶民の凄まじさ恐怖して沈静化を図った。
中国や欧米など大陸では、体制が崩壊するたびに王宮や宗教施設や美術館・博物館などでの略奪や放火や殺人が発生した。
搾取され虐げれ抑圧された人民の当然の権利として、略奪した宗教遺物や美術品を転売して大金を手に入れた。
宗教的略奪は、一元的な絶対的価値観しか認めない一神教世界で起きやすく、多元的な相対的価値観を持つ多神教世界では起きずらい。
欧米の美術商は、奪い去られた仏像や仏画などの美術品を安く買い叩いて国外に持ち出した。
キリスト教徒商人にとって、異教の仏像は信仰の対象ではなく、単なる金儲けの為の美術品に過ぎなかった。
庶民による廃仏毀釈暴動は、政府がそそのかさなくても起きるべくして起きた宗教的社会現象であった。
日本のごく一般的庶民は、民族中心神話(天皇家の天孫神話)に基づく多元的で多種多様な価値観を持つがゆえに、特定の宗教が持つ、庶民の実生活から乖離した意味不明の信仰を胡散臭さく敬遠して容易くとは信用しなかった。
日本人の宗教観は、ムラ社会共同体を基調とした、自己犠牲による相互補完共生の隣保扶助精神である。
つまり。閉塞した閉鎖ムラ社会ゆえに、「ムラの為・世間の為・家族の為」を掟として、自分と家族が生活する為の稼ぎと、地域と他者とのつながりとしての働きを、立派に両立することで一人前とした。
自分ひとりの暮らしをよくする仕事のみをして隣人やムラの事を考えない協調性のない強欲者を、半端者、片側者、半人前と嫌い、場合によっては火事と葬儀以外は関わらない「村八分」とした。
いずれにせよ。仏教は、宗教権威で政治権力を利用して庶民の宗教観を強欲に支配したがゆえに破壊を受けた。
神道的日本人の宗教的平衡感覚は、特定の宗教が政治権力と経済力を持つて社会にしゃしゃり出る事を生理的に嫌い、古代からの「大らかで浄らかで澄んだ直な清明心」という天皇中心神話に基ずく民族精神に立ち返った。
国学者・神官対儒学者・僧侶の宗教戦争。
神武創業の始めに戻るという王政復古から祭政一致の方針を貫く為に、国学者や神道関係者を多く登用して神祀官(後の神祀省)に任命した。
政府は、神社神道を普及させる為に、全国の全ての神社を神社制度に組み込み祭式を統一させるべく官弊社・国弊社などの社務を定めた。
国学者及び神社側は、永年続いた外来宗教・仏教の精神支配を排除する為に、王政復古の大号令で下級武士階級が樹立した明治新政府に圧力をかけて神祇省を創設した。
寺院勢力は、広大な境内と莫大な収入減の寺領を失い檀家からのお布施頼みとなった事で、政治に影響力を与える宗教権威を失った。
1945年の敗戦による農地改革で、葬式が重要な収入減となり衰退した。
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キリスト教は、世界各地で、同じ信仰心を持つ者に対してのみ「隣人愛」を示し、異教徒・異端者に対しては絶対的価値観に基ずく不寛容の「裁き」を行って来た。
唯一絶対価値観は、一元的に、いかなる些細な事でも従わないものは決して見逃さず許さず、情状酌量の余地なく聖なる審判を下して消滅させた。
一神教の歴史とは、不磨の絶対真理による、完全なる排他で不寛容なる裁きの歴史であるがゆえに、民族宗教や土着信仰を全て死滅させた。
それが、地球文明の成立の為の苦難の歴史である。
この時。日本国内は、神道対仏教対キリスト教による三つ巴の宗教戦争が起きていた。
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明治新政府は、キリスト教倫理で近代化する為に、男女の淫らな行為を助長させるとして男女混浴と盆踊りや夜祭りをも禁止した。
一部の庶民は、禁令に不服を抱いて暴動を起こした。
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