💖2)─1・B─皇室の国際赤十字・新月運動。世界最古の国際人道基金「昭憲皇太后基金」。~No.2 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 皇道とは「八紘一宇」の大家族主義である。
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 天皇・皇后の慈愛に満ちたお言葉にまさる「言霊」は存在しない。
 日本民族日本人の被災者を分け隔てなくいやせるのは、天皇・皇后・皇族のお言葉しかない。
 ましてや、天皇・皇后を呪い、皇族・皇室を罵倒する、反天皇反日的日本人の意味不明の御託などに心を癒やされる日本民族日本人は誰もいない。
 反天皇反日的日本人のくだらない理想論には、日本民族日本人を感動させる処は微塵もない。
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 民族の道徳や良心は、ある時期に人為的につくられた法律ではなく、その国が長い年月掛けて受け継いだ神話、歴史、習慣に基づくものである。
 法律は、権力者の一存で、あるいは外国の干渉で、破壊され書き換えられる。
 道徳や良心は、伝統文化を持った民族が存在する限り破壊する事はできない。
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 日本の男と女の神々は、清潔を好み、全ての神が総出で人の世の穢れや人の罪を力を合わせて水に流して祓い浄めた。
 日本の神々は、時としてちょっとした事で喧嘩をしたが、相手を否定し滅ぼす為の戦いをしたり、自分の霊験を誇示して信者を増やし寄付を集める事もしなかった。
 ヒンズー教のマヌ法典「女は淫乱で、どんなに監視しても夫を裏切る。だから幼い時は父に、若い時は夫に、老いては息子に従え」
 旧約聖書(コリントン記)「女は、黙って(男に)従いなさい」「女が教えたり男を支配したりしてはならない」
 (レビ記)「女は不浄。月経の頃はさらなり」
 普遍宗教の多くが、男尊女卑を正当化し、他の神を異端として地上から消滅させ、異教の神を拝む者を根絶やしにする事を命じていた。
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 北朝第一代光厳天皇「寒からむ民のわら屋を思ふにも 衾(ふすま)のうちの我もはづかし」
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 日本赤十字社
 今回で記念すべき"100回目" 世界最古の国際人道基金※1「昭憲皇太后基金」の配分決定
 2021年4月9日
 ~約5,591万円を16カ国に~
 赤十字国際委員会国際赤十字・赤新月社連盟で構成される昭憲皇太后基金合同管理委員会は、今年度の同基金の配分先を決定しました。
 記念すべき100回目となる今回は、16カ国の赤十字赤新月社に対して総額約5,591万円(475,997スイスフラン※2)が配分されます。
 同基金の配分額は1921年(大正10年)の第1回から今回(第100回)までで、累計17億円以上(15,100,641スイスフラン※2)配分先は171の国と地域にのぼります。
 昭憲皇太后基金(The Empress Shôken Fund)とは?
 昭憲皇太后明治天皇の皇后)が、1912年(明治45年)の赤十字国際会議に際し、各国赤十字社の平時事業にと、ご寄付された10万円(現在の3億5千万円相当)を基に創設されました。
 当時、戦時救護を主に行っていた赤十字において、自然災害や疾病予防等の平時活動を奨励するための基金設立は画期的なことであり、世界の国際開発援助の先駆けとなりました。また、100年以上継続している平時における人道活動を対象とした世界最古の国際人道基金※1として世界で広く知られています。
 同基金は、国際赤十字の中に設けられた合同管理委員会によって運営され、日本の皇室をはじめとする日本からの寄付金によって支えられており、原資を切り崩すことなく、そこから得られる利子が世界の赤十字社の活動に配分されます。
 毎年、昭憲皇太后のご命日にあたる4月11日頃に配分先が発表され、今年度は、記念すべき「100回目の配分」となります。
 ※1  昭憲皇太后基金は平時の国際支援を目的とした世界初の国際人道基金であり、現在も当時と同様の形で支援が継続している最古のものである(赤十字社調べ)     ※2  CHF=117.46円(4月5日レート)
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聖武天皇光明皇后の無心による「慈愛の精神」という天皇神話・皇后の物語
 慈愛の心とは、神道八百万の神々への崇敬と外来宗教・仏教の御仏への信仰である。
 昭憲皇后
 御歌「綾錦とりかさねておもふかな 寒さおほはむ袖もなき身を」
 (美しい衣を着るにつけても、寒さをしのぐ事のできない人々のことが思われる。
 寒さに震える国民を救うのが私の務めであるのに、それができないこの身の力のなさが悲しい)
 天皇は、国民を「大御宝」として慈しんだ。
 1871(明治4)年 明治天皇の后・昭憲皇后(22)は、日本の近代化に合わせ、近代国家に相応しい皇室にするべく内廷改革に乗り出した。
 内廷改革は皇室が自ら行うべきであるとして、西郷隆盛ら臣下の進言を厳として退け、広い視野で行うべく遣欧米使節団・岩倉具視に命じて諸外国の宮廷制度を観てくるように命じた。
 先ず手近な女官制度の改革に取り掛かり、旧来の女官を全て罷免し、身分ではなく人柄で採用し、結婚を許し、結婚後の奉職も認めた。
 罷免した女官には、此れまでの労を労い今後の生活費にあてるようにとお手許金を下賜し、今後の生活が成り立つようにきめ細やかな配慮をした。
 オットマール・フォン・モール「皇后はまことに美しく、しかも毅然として立ち振る舞いからしても、王侯の貴婦人の典型であった」
 「皇后はこよなき愛想のよさを高い知性と結びつけており、皇后すなわち女性の支配者の通り、宮中の魂となっている」
 「この気高い女性とお近づきになれた者が全く忘れられない事はその思い遣りのある人柄、自ずと滲み出る心の温かさ、それに気高い考え方である」
 皇室は、宮廷改革に協力してくれたモールに深い感謝を抱き、その家族と子孫の面倒をみ、ナチス・ドイツの迫害から助けた。
 1872年 大久保利通らは、近代国家の建設には殖産興業が、ロシア帝国の侵略から祖国日本を守るには軍国化が必要であると考えた。
 軍国主義国家建設は、弱小国日本が取り得る唯一の選択であった。
 群馬県の富岡に、フランスの機械と技術を導入した近代的熟練工を養成した明治前期の官営模範製糸工場を設立された。富岡市は、日本の洋式機械製糸の発祥地といわれている。
 昭憲皇后は、国家建設に貢献し産業を奨励する為に単独で地方行啓を行い、勧業博覧会や各種の共進会を見学され、富岡製糸場などの産業施設をご視察し、関係者から謙虚に説明を聞き、現場の従業員らに分け隔てなく優しい言葉で労いの言葉を掛けた。
 盲目的な西洋礼賛に陥る事なく、日本文化を疎かにせず能楽、美術、工芸などの伝統技能の伝承とさらなる発展にも心を配った。
 皇室所蔵の工芸品は、他国の王家の財宝が帝国主義時代に略奪して手に入れた私有財産とは違う。
 昭憲皇后は、女子教育の奨励と福祉医療の充実にも力を入れ、各地の学校や病院に行啓され、新たに設立する病院や学校に深く関与した。
 1875年2月 昭憲皇后は、女子最高学府・女子師範学校(現お茶の水女子大学)の開業式に出席し、お言葉を述べた。
 御歌「磨(みが)かずば玉も鏡もなにかせむ 学びの道もかくこそありけれ」
 (玉も鏡も磨かなければ何にもならない 勉強もそういうもの)
 下賜された「みがかずば」の和歌は、1878〈明治11〉年に譜が付けられて日本最初の校歌となった。
 奈良女子高等師範学校が1908年に設置された事に伴い、東京女子高等師範学校と改称された。
 1877(明治10)年 佐野常民や大給恒〈おぎゅうゆずる〉らは、戊辰戦争の経験から敵味方の兵士を区別なく傷病者救護を目的として博愛社を結成し、西南戦争で活動した。
 明治15年 昭憲皇后は、社会福祉と医療の推進の為に、貧しい人々の治療を目的として建てられた慈善病院に資金を提供した。
 1885年 宮内省は、昭憲皇后の「女子にも独自の教育を施す」との方針から、華族子女は国民の模範となり国際社会に出ても恥ずかしくない教養と礼節を付ける為に華族女学校を設立した。1906年に学習院に合併し、1918年に女子学習院として独立した。第2次大戦後は、学習院に統合されて私立学校となった。
 1886年 昭憲皇后は、東京慈恵病院総裁に就任し、翌20年に貧富に関係なく国民が差別されず治療を受けられる為の資金を確保するべく、国民に広く寄付を募る令旨を発した。
 「病は万の苦しみを生ずる元にして、その不幸は富貴なる人も同じ事ながら、わけて貧しきは病に罹りても医師の治療を受くる事を得ざるによりて、いゆべき病も終にいえず、その身はもとより妻子までも不幸に陥るにいたる。誠に哀むべこものなり」
 皇室は、率先垂範として、医療の充実と病院の拡張の為に定期的または臨時の下賜金を続けた。
 昭憲皇后は、国民に医療の充実を啓蒙するべく、春と秋に慈恵病院を行啓され、入院患者をお見舞いし、看護現場をご覧になった。
 日本は、赤十字条約に加盟した。
 日本政府は、児童教育の義務を徹底するべく、小学校令で満6歳以上の児童に初等普通教育を施す尋常小学校を全国に設置した。
 御歌「みがかずば」は、唱歌としても広く歌われた。
 1887(明治20)年 博愛社は、日本赤十字社と改称した。
 昭憲皇后は、皇室伝統の「慈愛の精神」で日本赤十字社の庇護と発展に力を貸した。
 日本赤十字社の正式紋章「赤十字桐竹鳳凰〈きりたけほうおう〉章」は、紋章制定の相談を受けた際、昭憲皇后がたまたま被っていた冠が桐と竹の組み合わせで出来ていた事に由来する。
 女子の為の道徳教科書にする為に、東西の伝記に残る女性の物語を集めた『婦女鑑』が編纂された。
 1888年7月15日 昭憲皇后は、日本赤十字社に対して会津磐梯山噴火で甚大な被害がでた福島での被災者救護に当たるように命じた。
 これ以降、日本赤十字社は天災救護活動を本格化させた。
 1891年5月 大津事件。昭憲皇后は、皇室外交として、素早く、ロシア帝国のマリー皇后に事件の概要とニコライ皇太子の容体を伝える親書を送った。
 さらに、その後の容体を毎日、隠す事なく伝えた。 
 1894年7月 日清戦争日本赤十字社は、多くの医師や看護婦を戦場に派遣した。
 従軍看護婦は、献身的に日本兵士も清国(中国)兵士も手当てし看病した。
 だが。清国軍は、負傷した自国兵士の治療を放棄して戦場に捨て、捕らえた日本人兵士を陰惨な方法で惨殺していた。
 中国大陸には、儒教価値観で人権も人道も存在せず、儒教身分制度で貧しい者は単ある生きた道具として酷使され虐げられ虫けらのように殺されていた。
 昭憲皇后は、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え慰問使を送り、各地に設けられた敵味方関係なく収容され治療を受けている軍病院への各種支援を続けた。
 1899年 華族女学校に下賜された御歌「金剛石の歌」は、譜が付けられて校歌の代わりとさた。
 御歌の元となったのが、アメリカ建国父・フランクリンの12の徳目を和歌にした「弗蘭克林(フランクリン)の十二徳の歌」であった。
 1900〈明治30〉年 アメリカから帰国した津田梅子は、私立の女子高等教育機関女子英学塾を創設した。
 昭憲皇后は、社会における女子の地位を上げ社会に貢献させる為には、女子にさらなる高等教育を受ける機会を与えるべきとして、欧米諸国への女子留学生派遣に関わった。
 日本は、男尊女卑の儒教国家ではなく、男女同権あるいは女尊男卑の神道国家であった。
 日本神道最高神は、女性神か、性別なき神であった。
 1901(明治34)年 奥村五百子(おくむらいおこ)らは、戦死者の遺族や傷痍軍人の救護を主な目的としてに愛国婦人会を創設した。
 昭憲皇后は、愛国婦人会を援助し、社会事業の振興に力を入れた。
 足尾銅山鉱毒事件。
 1904年2月 日露戦争。日本軍は、捕虜としたロシア軍兵士を収容した。
 日本赤十字社は、敵味方関係なく負傷した兵士を治療した。
 日本軍は、皇室と関係がある日本赤十字社の救護活動を支援した。
 敵軍兵士捕虜を虐待する事は、昭憲皇后の活動を妨害する事であった。
 1908年 大逆事件
 1912(明治45)年 昭憲皇后は、国際貢献の一環として、アメリカの首都ワシントンで開催された第9回赤十字国際会議に、平時救護事業奨励金として10万円(現在の3億5,000万円)を下賜した。
 赤十字国際委員会は、この資金を基にして昭憲皇太后基金を創設し、利子を活動資金にあて、現在に置いても皇后の命日に利子を世界各国の赤十字社に配分している。
 2013(平成25)年迄に、配分金は総計約13億4,100万円で、配当を受けた国と地域は158にも上る。
 日本の天皇制度を支えているのは、こうした日本古来の「慈愛の精神」に基ずく皇道である。
 天皇制度の廃止を主張する日本人は、昭憲皇后の活動を知った上で、皇室の人道的活動を否定している。
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 2014年4月6日 昭憲皇太后百年祭記念国際シンポジウム。
 『日本発。100年続く国際人道支援〜明治の皇后「昭憲皇太后基金」と赤十字〜』
 近衞忠莩日本赤十字社社長、国際赤十字・赤新月社連盟会長)「日本の皇后の発意によって、政府開発援助(ODA)といった概念が生まれる半世紀も前に基金が設立された事実を広く国民にも知っていただきたい」
 昭憲皇太后基金には、貞明皇后香淳皇后美智子皇后からも日本赤十字社に資金協力として下賜金が贈られ、基金が増額されている。
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 日本人の心の中心にあるのは、日本民族が約2000年守り伝えてきた大家族主義の「皇道」である。
 明治天皇の皇后美子は、災害の被災者や難病患者や身体障害者の為に、福祉の充実に力を尽くした。
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 神道とは、惟神(かんながら)の道である。 
 神道の真髄は、「惟神の愛」である。
 惟神の愛とは、森羅万象への感謝を込めた、生きとし生きるモノ全てに向けられた見返りを求めない無償の愛である。
 八百万の神々の下で、他人とはもちろん、自然とも一体となり、心と心の絆でつながり合う愛。
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 申命記「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なる貴方の神を愛せよ」
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 1894年 日清戦争。賊軍・会津藩出身の新島八重キリスト教徒)は、日本赤十字社の正社員として広島の陸軍予備病院で4か月間篤志看護婦として従軍し、負傷した日本人兵士も中国人兵士も分け隔てなく看護した。
 日本政府と日本軍は、有利に不平等条約改正交渉に入るべく、世界に対して日本は近代国家であると宣伝する為に中国人兵士捕虜を粗略には扱わなかった。
 1896年 新島八重は、時の功績が認められて勲七等宝冠章が授与された。
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 投降した敵軍兵士を捕虜収容所に収容して保護し、戦傷者の傷は癒やし、戦病人の病気は治療し、心身ともに健康にして、戦争が終わったら全員を本国に送り届ける。
 それは、明治天皇と命令であり、昭憲皇后の希望であった。
 政府も軍部も、日本天皇の御稜威・大御心に忠実に従った。
 後の昭和天皇は、明治天皇を威徳を手本として行動した。
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 1904年 日露戦争赤十字看護婦の新島八重は、大阪の陸軍予備病院で2か月間篤志看護婦として従軍し、負傷した日本人兵士もロシア人兵士も共に看護した。
 日本軍は、国際法学者を帯同しハーグ条約に則って、ロシア人捕虜を日本国内の捕虜収容所に収容して食事を与えて大切に扱った。
 「捕虜は罪人ではない。祖国の為に奮闘して敗れた真情を汲みとり、一時の敵愾心にかられて侮辱を与える様な行動は慎む事」
 日本で死亡したロシア兵は松山市の墓地で手厚く葬り、身許が分かつている者に対してはその遺族に対して死亡通知と遺品を送った。
 新島八重は、旧賊軍の会津出身者ではあったが、日露戦争時の功績によって勲六等宝冠章が授与された。
 それらに先頭に立っていたのは、皇族であった。
 当時、皇后であった昭憲皇太后は、手足を失ったロシア人兵士捕虜に対し、その勇気ある戦闘行為を讃えて最新の義手や義足を贈った。
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 ロシア軍兵士は、日本軍が戦時国際法に従って捕虜を危害を加える事なく収容する事を知っていた為に、進んで日本軍に投降した。
 特に、四国松山の捕虜収容所は快適である事が知られていた為に、「マツヤマ」「マツヤマ」と叫んで投降した。
 松山の捕虜収容所は、ロシア人捕虜の戦傷を癒やし心を慰める為に松山の温泉に招待した。
 日本軍は、世界でも、戦時国際法を忠実に遵守する模範的な軍隊であり、不利な状況でも逃げ出す事なく勇猛果敢に戦う理想的な軍隊と認められた。
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 戦う者は勇者として名誉と敬意が与えられるが、戦わない者は卑怯者として軽蔑され信用されなかった。
 日本と朝鮮の評価は、戦争をしたかどうかで別れた。
 平和を愛し戦争を嫌い、自己犠牲ではなく他国の若者を戦場で戦死させても恥じない朝鮮は、国際社会から信用されなかった。
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 日本は人の功績を評価する時は、女子供、出身、身分・階級・階層に関わりなく正しく行った。
 口先だけで正論を叫んでも、行いで正しい事をしない者を心卑しい者として軽蔑した。
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 明治天皇と日本政府は、サンフランシスコ地震への見舞金50万円(現在の数十億円)を贈った。
 カリフォルニアは、日本からの義捐金を受け取りながら、人種差別政策で日本人児童を隔離した。
 日本の善意は、アメリカには通用しなかった所か踏みにじられた。
 アメリカに於ける日本敵視政策が本格化して、日本の悲劇の始まりである。
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 1911年 明治天皇は、「生活苦で医療を受ける事ができずに困っている人達を施薬救療によって救おう」と思召され、桂太郎首相に皇室資金の一部を下賜した。
 日本政府は、下賜金を資金として恩賜財団済生会を創設した。
 多くの資産家は、明治天皇に倣って貧民医療の為の寄附を行い、全国に済生会病院が建てられた。
 1912(明治45)年7月30日 明治天皇崩御された。
 明治天皇の業績は、清国との戦争、ロシア帝国との戦争、朝鮮合邦などである。
 明治天皇は、軍国主義への道を開いた偉業によって明治神宮の祭神として祀られた。
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 1912年 昭憲皇后(明治神宮祭神)は、ワシントンで開催された第9回赤十字国際会議で、人道支援として平時救護事業の為に10万円(現在の約3億5,000万円)を下賜した。
 ジュネーブにある赤十字本部は、寄附金を元に「昭憲皇太后基金」を設立し、昭憲皇太后崩御の日である4月11日に人道支援として配当金を世界中に送った。
 国境を超え、敵味方に関係なく、皇室の善意として自然災害や疫病等の平時救済の為に基金が利用されている。
 2012年までの100年間に、国と地域で、92回600ヶ所に基金から生じた利子約13億4,500万円が支援金として送られた。
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 1914(大正3)年4月9日 昭憲皇后は、沼津御用邸にて崩御された。
 5月9日 宮内省告示第9号により「昭憲皇太后」と追号された。
 1915年5月1日 明治天皇と共に明治神宮の祭神とされた。
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 昭憲皇太后基金第一回の配分先は、アルザス・ロレーヌ地方で救援活動を行っているフランス赤十字社であった。
 ポー(フランス赤十字中央委員会委員長)「フランスの子供達の為に活用させてください」
 「1917年3月、ドイツ軍の第一次撤退後、フランス婦人連合は直ぐに敵軍解放地域における支援センターを整備しました。……しかし、結核で衰弱した解放地域の子供達を保護する結核予防診療所を設立する為に、年間最低20万フランが必要です。昭憲皇太后基金の配分を心よりお願い申し上げます」
 昭憲皇太后基金の配当金は、当初は戦禍で荒廃した西洋諸国の被災民救済に支給され、その後の救護範囲を世界中の被災地に拡大された。
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 1941年12月に軍国日本が世界を相手に戦争を始めても、昭憲皇太后基金は敵味方に関係なく、戦時においても平時救護として被災民の為に利用されていた。
 有名なのは、1942年11月から始まった、ドイツ軍占領下にあるセルビア首都ベオグラード結核児童救護活動への支援である。
 戦後は、アイルランドポルトガルなど西欧諸国の赤十字社に、結核対策として配当金が配られた。
 1950年代以降は、インドネシアスリランカなど植民地支配から独立した国々に対して。
 さらに、ヨルダンやシリアなどのイスラム教圏諸国。
 1960年代からは、アフリカなど第三世界にも。
 1970年代には、赤十字赤新月運動として、赤十字に加盟した110ヵ国にまで配当対象を拡大した。
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 2009年11月 アフリカ西岸のシエラレオネは、4,000人以上の子供が兵士として消耗品の如く戦場に送られた内戦が終結したが、荒んだ青少年の心のケアとして青年ブラスバンドポロジェクトを始める資金に配当金の支給を求める申請書を、スイスの基金合同管理委員会に提出した。
 キーワード「ギャングよりもバンドへ」
 「2002年、シエラレオネは再興しました。この11年間の内戦中、被害者としてのみならず加害者として、恐ろしい犯罪に加担していたのが若者達でした。この国は今だ戦争の後遺症を負っています。ここにきて明らかなのは、シエラレオネ内戦の様な凄惨な悲劇の後、インフラは復興する事が出来ても心の復興は容易には行かないという事実です」
 昭憲皇太后基金は、シエラレオネ赤十字社に対して、楽器と楽譜を購入費と音楽学校から指導者を雇う為に配当金を送った。
 日本が世界中で信用されているのは、理想的平和憲法を持ち、外国で一度も銃を撃っていないからではなく、人種差別する事なく弱者に寄り添い励ます日本皇室の飾らず驕らず偉ぶらない謙虚にして真摯な姿勢による。
 全ての人間は同じ星で生きる家族であるという、日本天皇の御稜威や大御心が、諸外国の人々に愛されているのである。
 天皇と皇室を敬愛する日本人は、100年以上続けられている人道支援基金昭憲皇太后基金」の配分発表日である4月11日を祝うべきである。
 皇室を否定し天皇制度を廃止しようとする日本人は、人道支援である平時救護の日を怨嗟の声を持って唾棄すべきである。
 左翼・左派のマルクス主義者や一部のキリスト教会が告発する天皇戦争犯罪において、近代的天皇制度下で始まった昭憲皇太后基金による人道的救護事業は完全否定されている。
 戦後平和教育においても、この人道的事実は、天皇中心の皇国教育として軍国主義の復活につながる恐れがあるとして教えない。
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 大正天皇の后節子(貞明皇后)も、ハンセン病の予防や救済に金銭的支援を行い、施設の充実に力を尽くされた。
 1914年 日本赤十字社は、日本軍と協力してフランス・パリに日本病院を開設し、フランス人兵士を中心として約1万人の重傷患者の治療にあたった。
 当時の日本の治療技術は、世界トップクラスにあった。
 1919年 シベリア出兵。日本軍は、シベリアの奥地まで侵略して、血に飢えたソ連赤軍からポーランド人孤児達765人とユダヤ人難民達を救い出した。
 靖国神社は、ポーランド人孤児やユダヤ人難民を救出しようとして戦死した日本兵を祭神として祀った。
 日本は、パリ講和会議で、国際連盟規約に人種差別禁止の条項を盛り込む事を提案したが、11対5の賛成多数であったが全会一致の原則で否決された。
 アメリカ、イギリス、オーストリアが、猛反対した。
 1920年 戦争成金の勝田銀次郎は、アメリ赤十字社の依頼を受け、無報酬でロシア人児童約800人を残虐なる共産主義者の魔の手から救出した。
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 軍国日本は、人道の見地から子供達を救出するという良い事をしていた。
 軍国主義者は、殺人鬼と化した共産主義者から子供達を救う為に戦い、戦死して靖国神社に祀られた。
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 昭和天皇香淳皇后両陛下も、国民の幸せを願うという皇室の宗教的使命から、差別や偏見に苦しめられる身体障害者などの社会的弱者の支援に心を砕いた。
 皇室による国際赤十字への善意の寄附は、世界有数を誇る皇室財産・菊資金を隠す為の陰謀であると非難された。
 天皇と皇族の活動を評価する者は、国際社会では少数派であった。
 国際社会は、ボランティア活動として高く評価するのはキリスト教的隣人愛の精神のみである。
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 A級戦犯達と日本軍は、中国に侵略してファシスト中国軍や中国共産党軍と戦いながら、ナチス・ドイツホロコーストから逃げてきたユダヤ難民達を救助した。
 リンチ的絞首刑。東條英機板垣征四郎松井石根木村兵太郎武藤章土肥原賢二広田弘毅
 病死。松岡洋右
 靖国神社は、厳しい国際批判に晒され、中国人や韓国人の放火未遂にあっても、ユダヤ人難民達をヒトラーの魔の手から救ったA級戦犯達を祭神として合祀した。、
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 2011年 東日本大震災。平成の今上天皇美智子皇后両陛下と皇室の方々は、「あるがまま」の等身大の姿として、 各地の避難所を慰問され、被災者を見舞い、心からの励ましの言葉をかけ、苦しみの言葉に耳を傾けて切なさを癒やした。被災者の所に出向き、寄り添い、慰め、癒やし、勇気を与えられる事ができるのは、「神の裔」である天皇とその家族のみである。
 慰問を受けた被災者達は、姿を拝するだけで感激し涙を流し、砕けそうになっている心・精神の支えとし、必ず復興する事を誓った。俗っぽい政治家や売名目的の似非宗教家に対しての様に、「ああしてくれ」、「こうしてくれ」、などとはけっして要求しなかった。
 それが、神の血を引く皇室と日本民族日本人の堅い家族的「心の絆」である。
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 反宗教無神論の左翼・左派のマルクス主義者は、皇室の福祉への取り組みを、陰湿な売名行為として攻撃した。彼等は、キリスト教徒同様に、日本人でありながら生粋の反天皇天皇制度廃止論者である。
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 当然の事ながら、光明皇后から受け継がれてきた皇室の「慈愛の精神」を、キリスト教的ではないとして評価しない。
 日本が世界で愛され、日本人が信用されているのは、世界最古の王家である天皇家が行ってきた「他者を思い遣る」という慈愛の心である。
 反天皇派日本人が主張する、平和憲法ではない。
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 天皇制度を憎み、天皇制度を廃止しようとする日本人には、天皇の御稜威・大御心が理解できないし、他者を労るという「慈愛の精神」がない。
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 2017年1月5日 産経ニュース「【平成30年史 第1部皇室(4)】悲痛な訴えに絶句…辛苦をともにされる被災地訪問 「陛下以外の言葉では心動かなかった」
 宮城県南三陸町の避難所で、被災者に声をかけられる天皇、皇后両陛下=平成23年4月27日(代表撮影)
 テレビで見ていたのと同じ、穏やかな天皇陛下の顔がみるみる曇っていった。
 「そのご表情は、見たことのない険しいものでした」
 平成23年の東日本大震災から1カ月あまり。津波で娘の家族4人を失った千葉みよ子さん(70)は、宮城県南三陸町の体育館に身を寄せ、行方の分からない初孫、ゆうちゃん(3)の捜索に明け暮れていた。声をかけるのをはばかる周囲からも孤立。娘を失った三女は「死んだ方がまし」と思い詰めていた。4月27日、両陛下が体育館を訪問されたのは、そんなときだった。
 千葉さんの横で膝をついた陛下は、シートの上のゆうちゃんの写真に気がつかれた。
 「かわいいお孫さんですね」
 その言葉に、千葉さんはせきを切ったように、思いをぶつけた。「娘の家族4人が犠牲になり、孫だけ見つかっていないんです」
 陛下はその瞬間、黙って写真を見つめ続けた。「お時間になりました…」。随行者の声にも身動きをされない。皇后さまも別の被災者に声をかけ終わり、陛下を待たれていた。4月とはいえ冷たい床。1分や2分の間ではなかった、千葉さんにはそう思えた。」」


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