💖16)─2─渋沢栄一とアルメニア孤児・難民義援金。世界最古の国際人道基金「昭憲皇太后基金」。大正11(1922)年。〜No.63 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 昔の金持ち・お大尽さんと現代の富裕層・資産家とは別人のうように違い、金の貯め方や使い方も全然違う。
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 日本は、現代日本とは違い、古代奈良・ヤマト王権時代から極東アジアにおける唯一の難民救済・避難民保護を行った人道貢献大国であった。
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 東北大学機関リポジトリ TOUR
 ダイアナ・アプカーの日本における人道的活動 : アルメニア人大虐殺(1915-23)を逃れた避難民の救済
 ダイアナ・アプカーの日本における人道的活動
 ―アルメニア人大虐殺(1915-23)を逃れた避難民の救済―
    メスロピャン メリネ
 要 旨
 ダイアナ・アプカー(1859-1937)はアルメニア第一共和国(1918-20)の時代にオスマン帝国によるアルメニア人大虐殺(1915-23)を逃れて日本に渡航したアルメニア人難民救済に努めた。その活動は、彼女の人道的活動の中で重要な一部を占める。これまで彼女は女性初の外交官と考えられてきたが、本稿では、日本政府には正式に承認されていなかった事実及びその詳細を解明した。また、ダイアナが行ったアルメニア人避難民の救済方法は、これまでビザ発給手続きの補助や経済的援助などの事実が述べられるに留まっていたが、本稿では、宿泊、経済的、輸送の問題の解決方法及び救済方法の詳細を解明した。同時に、日本とアルメニアの国際関係の一端も明らかになった。
 【キーワード:ダイアナ・アプカー/世界初女性外交官/アルメニア人虐殺/駐日アルメニア名誉領事/難民救済】
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 戦前の近代的天皇制度国家日本・近代国家日本・軍国日本は、アジアで唯一の人道支援・人道貢献を実行した稀有な国家であり、その自己犠牲的利他行為は西洋をはじめとする全ての世界でも類例がないほどであった。
 日本民族が行った歴史的な人道支援・人道貢献は、民族宗教と伝統文化である皇室の「八紘一宇の志」と天皇の「御稜威・大御心・御意思」によるものである。
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 皇国史観が理想とした陰徳天皇は、第16代仁徳天皇、第45代聖武天皇光明皇后、第119代光格天皇、第122代明治天皇昭憲皇太后大正天皇貞明皇后昭和天皇香淳皇后
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 世界最古の国際人道基金昭憲皇太后基金」:大正10(1921)年。
 天皇家・皇室は、私有財産を自分の私欲で浪費せず、無私無欲として、日本国、日本民族・日本国民だけではなく世界・他国・他国民の為にも有効に使っていた。
 日本赤十字社
 100年以上の歴史を持つ「昭憲皇太后基金」の配分決定 ~約4,400万円を14カ国に~
 2019年4月11日
 ~世界で最も古い開発協力基金~ 世界170カ国、累計額約15億8,400万円
 赤十字国際委員会国際赤十字・赤新月社連盟で構成される昭憲皇太后基金合同管理委員会は、今年度の同基金の配分先を決定しました。14カ国の赤十字赤新月社に対し、総額約4,400万円(39万5,782スイスフラン)が配分されます。これまでの配分は大正10年の第1回から今回(第98回)までで、累計約15億8,400万円、配分先は170カ国の国と地域にのぼります。
◆今日の開発援助の先駆けとなった昭憲皇太后基金
 「昭憲皇太后基金」は1912年(明治45年)の赤十字国際会議において、赤十字の平時活動の奨励のために昭憲皇太后明治天皇の皇后)が国際赤十字にご寄付された10万円(現在の3億5千万円相当)を基に創設されました。
 世界で武力衝突が起こり、のちに第一次世界大戦が起こるこの時代において、多くの国の赤十字社が戦時救護の対応に追われている中、地震や台風、火災、噴火等の大きな災害等に備えるための国際基金の設立は画期的なことであったと言われています。
 同基金は、皇室をはじめとする日本からの寄付金によって成り立っています。国際赤十字の中に設けられた合同管理委員会によって運営され、原資を切り崩すことなく、そこから得られる利子が世界の赤十字社の活動に配分されます。毎年、昭憲皇太后のご命日にあたる4月11日に配分されています。
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 2019年10月5日 東京新聞渋沢栄一、難民救済の祖 アルメニア孤児に義援金
 迫害を受けシリア・アレッポの難民施設に保護された孤児たち=アルメニア・ジェノサイド博物館のホームページから
 二〇二四年度から新一万円札の「顔」となる実業家渋沢栄一は、日本で国際難民保護に取り組んだ最初の人物だった-。百年前、オスマン帝国(現在のトルコ)から迫害された中近東のアルメニア人孤児を救おうと義援金を市民から募り、九千ドル(現在の価値で約一千万円)を送金したという。近年、こうした史実が発掘され、日本に先駆け現地で顕彰が始まった。 (小柳悠志)
 「私の家系は海外の篤志家によって救われた。その一人が渋沢だ」。駐日アルメニア大使のグラント・ポゴシャン氏(66)は祖父らが受けた恩義を明かした。
 祖父が十二歳だった一九一五年、イスラム教のオスマン帝国第一次大戦の混乱の中、領内でキリスト教徒であるアルメニア人の排斥を始めた。祖父は母に手を引かれ、弟らと着の身着のまま逃げ出す。東へ歩くこと六百キロ余。オスマンの手が及ばないロシア領に着くと、母は力尽きた。
 親を失った祖父は働き始め、弟は孤児院に預けられた。飢餓と社会の混乱から孤児を救ったのは日米などからの義援金だった。
 ソ連から独立する九一年まで東側陣営に属し、日本とは縁が薄かったアルメニア。ここ数年、両国の関係の研究が進み、渋沢の難民救済の全容が分かってきた。昨年には現地で「渋沢栄一記念財団」の理事が講演、日本でも来年、渋沢の支援を描いた書籍が出版される見通し。ポゴシャン大使は「新一万円札発行は渋沢の人道的行為が世界に知られる好機」と語る。
 執筆者のメスロピャン・メリネ東北大大学院研究員によると、渋沢は二二年、米政財界でつくる慈善団体「米国近東救済委」の呼び掛けに応じ、自らを委員長とする「アルメニア難民救済委」を立ち上げた。外務省によると、難民問題は第一次大戦後に初めて国際的課題として認識されるようになり、メリネ氏も渋沢を日本人による難民保護の最も早い実践例と結論づけた。
 「可哀想(かわいそう)ぢやありませんか、四十万人の孤児が餓死しますよ」。当時の新聞に渋沢の委員会発言が残る。東京都荒川区浄閑寺を通し子どもたちがお金を届けると「これぞ貧者の一灯」(貧者の真心のささげ物は金持ちの寄進に勝るの意)と喜んだとの記述も。
 渋沢は独力で多額を寄付する資力があったが、人道支援の意義を社会で考えてもらおうと、草の根の募金活動にこだわった。
 難民救済で米国に協力した動機も注目される。当時、米国では日系移民を排斥する動きが強まっており、渋沢が在留邦人への差別をアルメニア人の苦境に重ねていた可能性が高い。渋沢史料館(東京都北区)の清水裕学芸員は「アルメニア支援の裏には日米親善の願いもあった」とみる。
 <渋沢栄一> 1840年、現在の埼玉県深谷市生まれ。第一国立銀行(現みずほ銀行)、東京ガス東京証券取引所など500社以上の設立に関わり、「日本の資本主義の父」と呼ばれる。1931年に91歳で死去。
 <近代のアルメニア人迫害> アルメニアは301年、世界で初めて国家としてキリスト教を公認した。現在の人口は約300万人。1915年から数年間、大規模な迫害を受けて世界各地に離散した。この際の犠牲者は数十万人から100万人超と諸説ある。欧州連合(EU)などが「ジェノサイド(民族大量虐殺)」と指摘する一方、トルコ政府は組織的な殺りくを否定している。」
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 2021年7月23日 産経新聞渋沢栄一の難民救済にメダル アルメニア大統領
 渋沢栄一のひ孫雅英さん(左)にメダルを贈るアルメニアのサルキシャン大統領=23日、東京都北区
 来日中のアルメニアのサルキシャン大統領が23日、東京都北区の渋沢史料館を訪れ、実業家の渋沢栄一が1922(大正11)年にアルメニア人救済基金を設立し、アルメニア難民救済に尽力したことへの感謝を示す「ヘンリー・モーゲンソー大使メダル」を、同館を運営する渋沢栄一記念財団に授与した。
 渋沢はオスマン帝国(現在のトルコ)から迫害されたアルメニア難民を救うために、日本でのアルメニア難民救済委員会のトップに就任し、民間などに広く寄付を呼び掛けた。日本人がかかわった最初の国際難民救済事業とされている。
 この日はサルキシャン大統領が同財団の樺山紘一理事長、渋沢のひ孫の渋沢雅英相談役に謝意を述べ、メダルを雅英さんに手渡した。96歳になる雅英さんは報道陣に「渋沢栄一は何か問題があるとすぐ飛び出していって、解決する糸口を探す人だった。わざわざアルメニアから来てくれたことは非常に光栄で、ありがたいことです」と話した。」
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 独立行政法人 国際協力機構
 ホーム国際協力・ODAについてODAジャーナリストのつぶやき2009年度バックナンバーやっぱり渋沢栄一は偉い人だった!
 やっぱり渋沢栄一は偉い人だった!
 注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。
 vol.229 23 Mar 2010
 JICA国際協力専門員 杉下恒夫
 日本が“引篭もり国家”などと揶揄されるようになってもう数年たった。確かに最近の日本人を見ていると、国外のことにはあまり関心を持たない内向きの国民なのだろうかと思うことが度々ある。
 日本人気質を表す言葉としてしばしば「島国根性」が使われる。海の向こうの事象には関心が薄く、自分たちが住むコミュニティの尺度だけで物事を考える島国の住民の偏狭な気質だ。もうひとつ日本人の閉鎖性の象徴とされるのは、300年に亘って人の海外交流を管理した江戸時代の鎖国だ。オランダなどとの風穴は開いていたとはいえ、あれほど長く鎖国を維持できたのは、日本人があまり海外に関心を持たない国民だったからだ、と言われればそうかなとも思える。
 しかし、鎖国前の日本人の行動を見ると、閉鎖的というより海外を目指す開放的な国民性が伺える。南北朝から戦国時代に東・東南アジアの海を駆け回った倭寇徳川家康インドシナ半島に盛んに派遣した朱印船など、日本人の目は海の向こうにもあった。明治維新後、結果は反省すべきことが多いが、脱亜入欧征韓論、満蒙開拓などの掛け声のもと、国家はつねに世界を視野に入れて動いていた。戦後、経済活動を軸に日本人が海外に雄飛したことは言うまでもない。
 今回、本欄で取り上げたいのは、日本人の国際性有無論と切っても切れない関係にある国際協力の足跡だ。日本社会にはボランティア精神が存在しないなどの理由で、国際協力に不向きな国民という意見が囁かれた時期もあった。だが、戦後に細々と始まったODAなどの日本の国際貢献策は、多くの国民の支持を得て拡大、世界最大の援助国の座も長期間経験した。NGOの活動も年々、規模と質を向上させており、日本人に国際協力の心があるということは、今では誰もが認めるところとなっている。
 では、いつ頃から日本人の国際協力精神が醸成されたのか。推論する資料は乏しい。15年ほど前、日本の人道支援に詳しいNGOのリーダーに日本の国際人道支援活動の歴史について話を聞いたことがあるが、この人でも「日中戦争(1938−1945年)当時、日本の医学生たちが戦傷者の救援に大陸に向かったという記録があるぐらい。おそらくそれ以前に日本人による大規模な国際協力活動は行われたことはないのではないか」と話していたほどだ。
 記録に残る戦前の日本の国際人道支援活動として有名な事例は、1890年のオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号の救援活動と、1920−22年に日本赤十字社が行なった大規模なポーランド孤児救援活動だが、2つとも舞台は日本にあり、現在の国際協力活動とは異なる部分がある。日本人の国際協力精神の原点を探る資料としてはいささか物足りない。
 ところが2月末、JICA本部広報室にオーストラリアのニューサウスウエルズ大学で人道問題を研究するヴィッケン・バブケニアン氏から、一般にはあまり知られていない戦前の日本の人道支援活動の記録が添付されたメールが送られてきた。同氏のメールの要約は次のようなものだった。
 日本の国際的な人道救済活動は1953年のパレスチナ難民に対する支援から始まったとされているようだが、1915年のオスマン帝国による大量虐殺から逃れたアルメニア人の救援活動に日本が参加した1922年に遡って考えてもよいのではないか。アメリカは事件直後、シベリアなどに逃れたアルメニア窮民を救うために「近東救済委員会」を設立したが、活動の幅を広げるためウイルト牧師を日本など世界各地に派遣した。
 来日したウイルト牧師が当時の日本最大の実業家渋沢栄一子爵に会い、支援を要請したところ、渋沢子爵は「あなたは、なぜもっと早く私のところに来なかったのだ。われわれが仏教徒だからクリスチャンが苦しんでいても助けないとでも思っていたのか。私はずっと前からこの事件ついて知っており、要請がなくとも救済に協力するつもりだった」と話したという。さらに渋沢子爵は「あなた方の活動は、すでに日本の新聞でも報じられている。その成果がこれです」と、その場で11,000ドルの小切手をウイルト牧師に手渡した。
 その後、渋沢子爵は各界の指導者に協力を求める手紙を書き、「アルメニア人救済日本委員会」を設立した。渋沢子爵は自ら委員長となって救援活動を指導、多大な支援金が集まり、多くのアルメニア人の命と生活が救われたという。
 メールは「現在、日本は世界の人道支援活動のリーダー国の一つだが、最近の活動だけでなく、過去に行なった意義ある人道支援活動についても、もっと調査をされ、広く知られるべきではないのだろうか」という言葉で結ばれている。
 バブケニアン氏には貴重な情報をお知らせ頂き感謝したい。このメールを読んで最近の日本の現状にいささか自信を失くしていた私も大いに勇気付けられた。この情報のおかげで日本人は生来、国際協力の精神を持ち、世界は不二と考えるDNAが存在する篤い民族なのだと今は信じている。
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 渋沢栄一は、尊王攘夷派、愛国者日露戦争賛成派であった。
 現代の日本人で、渋沢栄一論語資本主義的経営思想を学ぶ者(体得するとは限らない)はいても、人間として渋沢栄一の心・志・精神を受け継ぐ者はいない。
 その証拠が、中国共産党が行っている人権犯罪のジェノサイドから目を逸らし、国会での中国非難決議を不成立に追い込んだ事である。
 それに比べて、明治政府と日本国民は、世界的大帝国であるロシアとの絶望的戦争を覚悟して、ロシア人が行った清国人(中国人)へのアムール川大虐殺に対して激しく抗議した。
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 現代日本歴史教育は、日露戦争を「軍国日本の大陸に領土を広める侵略戦争」であったと子どもに教えている。
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 ウィキペディア
 江東六十四屯(こうとうろくじゅうしとん)は、かつてアムール川黒竜江)の左岸(東側)に広がっていた広さ3,600平方キロメートルに及ぶ中国人居留区である。中国・黒竜江省黒河市の対岸にあるロシアの都市ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南側(ゼヤ川より東)の一帯に64箇所の村落があったためこう呼ばれる。清朝ロシア帝国の間で1858年に締結されたアイグン条約では、清の領土だったアムール川左岸の外満州はロシアに割譲されたが、黒河の対岸の「江東六十四屯」と呼ばれる地域には大勢の中国人居留民がいたため、アムール川左岸でもこの部分だけはロシア領ながら清の管理下に置かれることになった。
 アムール川黒龍江)事件
 1900年(明治33年)、義和団の乱(中国側の呼称:庚子拳乱)が発生した際、義和団員の一部が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)(現ロシア・アムール州州都)を占領した。かねてから満洲全域への進出を計画していたロシアは、義和団と列強とを相手にしている清国側は満洲情勢に関わる余裕がないと考えた。
 そこで、1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル (Михаил) 号は河上より銃撃を開始し戦端が開かれた。7月16日のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)事件でコサック兵が混住する清国人約3,000名を同地から排除するために虐殺して奪還。さらに8月2日から3日にかけての黒龍江・璦琿事件では、義和団に対する報復として派兵されたロシア兵約2,000名が黒河鎮に渡河上陸し、清国人を虐殺。その結果、この時期に清国人約二万五千名がロシア兵に虐殺されてアムール川に投げ捨てられ、遺体が筏のように川を下って行ったという。
 これらの事件によって江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、清の支配は失われることとなる。
 これらの事件と、これに続くロシアの東三省占領は、三国干渉以来高まっていた日本での対ロシア警戒感を一層高めることとなった。アムール川から南下の機会を狙うのは、世界最大のロシア陸軍。日本の世論は緊張し、反ロシア大集会が日本各地で開かれるに至った。ロシアは次に朝鮮を蹂躙して日本へ侵略してくるに違いない、というのが世論の見方であった。江東六十四屯の崩壊は『アムール川の流血や』という題名の旧制第一高等学校の寮歌にも歌われることとなった。
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 日本民族は、恥ずかしがり屋の為に善行を自慢しない、そして罪から逃れ処刑から助かりたいからといって善行を自己弁護に利用しなかった。
 軍国日本、日本軍人は、ナチス・ドイツ、ナチ党幹部とは違っていた。
 欧米の人権派は、人助けをしたドイツ人幹部達を助けたが日本人は助けなかった。
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 同じ日本人といっても、昔の日本民族と現代の日本国民とは違う。
 昔の日本民族は、情に於いて忍びずで、損得勘定抜きで、命の危険を覚悟し、大火傷を承知で「火中の栗を拾った」。
 日本国民は、世界常識と費用対効果を優先し、合理的論理的科学的に思案して無駄な事はしない。
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 昔の日本民族の言葉には言霊として力があり、武士に二言はないで有言実行、言葉少なくてもお互いに分かり合える為に無言実行であった。
 現代の日本国民の言葉には言い訳・詭弁・ウソが多くそして誠意も誠実もなく、信用をなくし信頼を裏切っても恥じる事なく建前で話すだけの有言不実行、関わりたくないし責任を取りたくないから無言不実行である。
 昔の日本民族は、理があり、道理があれば関わる人であった。
 現代の日本人は、必要があっても傍観者に徹している。
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 世界は、国際世論は、国際法は、戦前の日本の全ての努力・行為は戦争犯罪であるとして完全否定している。
 それは、過去の歴史の事実を知っている現代の日本国と日本人でも同様である。
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 明治新政府は、近代的天皇制度国家日本を建設するにあたり2つの国家目標を掲げた。
 1つ目はロシアの侵略から日本を武力で守る軍国主義国家で、2つ目は国際的地位と世界の称賛を得る文化的人道国家である。
 が、現代日本マルクス主義史観的歴史教育では、1つ目は大陸侵略を行う為の戦争準備でり、2つ目は日本民族が中国・朝鮮などを征服しアジアに植民地を持つに相応しい事を認めさせようとしただけ、として否定している。
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 渋沢栄一らが行った善意に基ずく人道貢献は、日本人排斥という宗教的人種差別主義で全て裏切られ踏み躙られた。
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 昭和天皇は、日中戦争・日米英蘭戦争(太平洋戦争)の原因はアメリカなどの白人による日本人蔑視の人種差別であったと語った。
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 軍国日本・軍部は、国家の決定として戦争を始めるという平和に対する罪を犯したが、同時に、天皇の御稜威・大御心・御意思に従って困った人々を助けるという人道貢献も行っていた。
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 平和を求める現代の日本と戦争を辞さなかった昔の日本は、見た目は同じ日本でも相反するまったく別の日本である。
 現代の日本と昔の日本とが全然違う証拠は、人種差別反対と戦争回避・平和志向の昭和天皇、人道貢献と平和貢献の靖国神社に対する認識である。
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 軍国日本の日本民族は、昭和天皇・皇族の命と天皇制度という国體を、日本人共産主義テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストの攻勢に対して暴力・武力・軍事力で守っただけである。
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 国家・国民を支配するのに51%以上の多数派になる必要はなく、3%~5%の少数派で充分である。
 つまり、同調圧力・空気圧に影響されて動く日本(人口約1億2,000万人)を支配するなら3%(約360万人)の同志がいればこと足りる。
 長野中国人騒動事件。在日中国大使館は、中国共産党の命令に従って在日中国人数千人を長野市に動員して、北京オリンピック聖火リレーチベット弾圧に抗議する日本在住チベット人や日本の人権・人道市民団体を襲わせた。
 保守派自民党政権は、中国共産党の御機嫌を損ねる事を怖れ、襲撃する中国人ではなく抵抗するチベット人や日本人を逮捕した。
 親中国派・媚中派のメディア報道機関は、報道しない自由・国民に知らせない権利から、中国のイメージ悪化を恐れて中国人暴動事件を詳しく報道せず闇に消した。
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 少子高齢化による人口激減を解消する為に、1,000万人外国人移民計画(主に中国人移民)を実行さている。
 現実問題として、移民大国となった日本では中国人移民が増え始めている。
 中国共産党は、中国人移民が多く住み地域に支部が開設し、日本国への忠誠より共産党への忠誠を求め、共産党の支配を強化している。
 中国人移民に日本国籍を取らせ、参政権投票権・立候補権)と地方公務員(役人)・国家公務員(官僚)登用権を獲得する事で、日本国内部に深く根を張らせる。
 それは中国式陣地取り、つまり「碁」である。
 中国人移民を日本に送り込むのは「トロイの木馬」で、日本人支援者の協力を得て日本を中国人が住みやすい環境に内部から改造しようとしている。
 それは、ウイルス感染とウイルス増殖に似ている。
 では、誰が中国共産党と中国人移民・中国人留学生を引き入れたかと言えば、反天皇反日本人のリベラル派戦後民主主義教育世代とその薫陶を受けた有能・優秀な次世代、高学歴な知的インテリや進歩的インテリである。
 中国共産党の影響は、日本の最難関優秀大学・教育機関とメディア報道機関に深く根付いている。
 敵の敵は味方、というわけである。
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 ロシア革命は、少数派であるボルシェビキのさらに少数派であるレーニン率いるロシア共産党が勝利して成功した。
 レーニンは、ソ連ロシア共産党を支配する為に少数精兵として党内のレーニン派以外の多数派・反主流派を粛清した。
 スターリンも、独裁支配を完成させる為にライバルのトロッキーレーニン派など1,000万人以上を粛清して独自の少数派を維持した。
 共産主義とは、人民多数派ではなく党少数派、少数派の中の少数精兵のイデオロギーである。
 それは、中国共産党も同様である。
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