⚔47)─5─天草・島原の乱はキリスト教による宗教クーデターであった。~No.208 

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 1571年「日本人奴隷の買い付け禁止令」が出されたほどの悲惨な歴史
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 中世キリスト教会による日本に対する宗教侵略。
 中世キリスト教会・イエズス会修道士会群と白人キリスト教徒商人は、日本人を獣・家畜として世界に輸出していた。
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 日本人キリシタンは、天皇、日本国、日本民族ではなく唯一絶対神イエス・キリストキリスト教会、ローマ教皇への信仰と忠誠を誓い、神の福音に従って行動していた。
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 2024年3月20日 YAHOO!JAPANニュース WANI BOOKS NewsCrunch「単なる一揆ではなく戦争のプロによる宗教クーデターだった島原の乱
 単なる一揆ではなく戦争のプロによる宗教クーデターだった島原の乱
 1637年(寛永14年)に起きた島原の乱について、どのように学んできたでしょうか? 情報戦略アナリスト・山岡鉄秀氏によると、生活に困窮した農民一揆とは異なる側面が強いと言います。世界史的にいえば大航海時代というグローバリズム帝国主義の流れのなかで、当時の日本がどのように独立を守ったのか、現代にも通じることがあるようです。
 【参考写真】原城跡など
 ※本記事は、山岡鉄秀:著『シン・鎖国論 -日本の消滅を防ぎ、真の独立国となるための緊急提言-』(方丈社:刊)より一部を抜粋編集したものです。
 ◇島原の乱は生活者大衆の一揆ではなかった
 徳川家康に排除されたキリシタン大名とスペインの宣教師らは、家康の敵である豊臣秀頼に取入って起死回生の望みを懸けるため、大阪城入りした宣教師も多数いたそうです。しかし、大阪冬の陣、夏の陣を経て豊臣家が滅亡すると、その望みも潰えました。
 家康が没したあと、独り立ちした第二代将軍秀忠は、キリスト教布教による弊害を重視して、まずスペインの追放を決定しました。さらにヨーロッパ船の来航を、長崎と平戸の両港に限定する措置を採りました。
 それでも商人を装って密入国する宣教師や、それを支援した日本人もいたのですが、厳しく断罪して処刑しました。しかしなお、ポルトガルはしぶとく日本に残り続けました。
 第三代将軍家光は、さらにキリスト教に対する統制を強めます。日本近海でも繰り広げられている「オランダ・イギリス」と「スペイン・ポルトガル」の海上戦、すなわちプロテスタントカトリックの覇権争いに巻き込まれることを恐れたからでした。
 家光は祖父の家康を心から敬愛していましたが、ややもすれば経済優先主義だった家康の政策を改めて、安全保障最優先政策に切り替えたとも言えます。しかし、家光が鎖国体制を整えようとする最中に島原の乱が勃発します。
 島原は、もともとキリシタン大名有馬晴信が治めた地で、キリシタンは庇護されていました。その有馬晴信が死罪になったあと、この地は一時、天領(幕府直轄地)となりますが、のちに大阪夏の陣で軍功を上げた外様大名松倉重政に与えられます。
 松倉重政は、外様としてのハンデを乗り越えようと、幕府に望まれる以上の忠勤に励むあまり、領民を重税で苦しめました。その一方でキリスト教には寛大だったので、イエズス会の宣教師は領内で公然と布教活動をしていました。
 ところが一度、幕府から「キリスト教に甘い」と苦言を呈された重政は、改易を恐れるあまり、今度は掌を返してキリスト教をひどく弾圧し始めます。
 松倉重政の死後、嫡男の松倉勝家島原藩を継ぐのですが、キリシタンの家臣たちは誰も勝家に従わず、天草の教徒らと謀議を重ね、1637年末に、16歳の美少年・天草四郎を担いで島原・天草の乱を起こします。
 島原の乱は、生活に困窮した農民一揆とは全く性質の異なるものでした。キリスト教を棄教した証文である「転び証文」を取り返すために、集団で代官所を襲って代官を殺害し、併せて島原藩の御用蔵に押し入り、米や大量の武器弾薬を奪いました。
 それにとどまらず、村々の神社仏閣を焼き払い、僧侶や神官を殺害したうえ、城下町を焼き払います。
 4万人弱にまで膨れ上がった一揆勢は、廃城とていた原城に入り、奪った食料や武器弾薬を運び込んで籠城の態勢を整えました。これはもう百姓一揆の域を超えた本格的な内乱・クーデターであって、指揮していたのはキリシタン大名だった小西行長有馬晴信の元家臣で、キリシタンの国人衆や地侍でした。つまり、戦争のプロが組織した宗教クーデターだったのです。
 ◇ポルトガル商館前に晒された天草四郎の首
 当初、一揆勢を甘く見ていた幕府側は「応戦のみに留め、女、子どもは殺さないように」という方針で原城に近づきますが、大苦戦を強いられます。総大将の板倉重昌は顔面を鉄砲で打ち抜かれて即死し、4000人もの戦死者を出してしまいます。
 次に総大将として派遣されたのは、「知恵伊豆」の異名を持つ家光の寵臣だった松平信綱でした。信綱は原城を包囲し、兵糧攻めを開始します。さらに、原城に矢文を送り、「不満が正当であるなら和談し、年貢を免除、軽減する用意がある」と懐柔を試みますが、一揆勢からは「我々の宗教を認めよ」という返事のみが返ってきます。
 それでも、信綱は「無理やり城内に連れ込まれた非キリシタンや、城を出て改宗する者は赦免する。まだ子どもの天草四郎も、降伏するなら助命する」と寛容に投降を呼びかけますが、一揆勢からは逆に「近々、ポルトガルの軍船が応援に来る。幕府が和睦を望むなら、松倉勝家の首を刎ねて持ってこい」と極めて強硬な回答が戻ってきました。
 そこで信綱は一計を案じます。ポルトガルの援軍が来ないことを一揆勢に知らしめるため、長崎奉行を通じてオランダに依頼をし、ポルトガルと対立するオランダの軍船から原城に艦砲射撃と、地上からも砲撃をしてもらったのです。
 援軍の期待を失った反乱の士気は一気に低下し、兵糧攻めで食料が尽き始めた原城からは、夜陰に紛れてまず「非信者たち」が逃げ出し始めます。
 そして1638年2月28日、幕府軍の総攻撃によって原城は陥落し、籠城していた3万人強の一揆勢は、老若男女を問わずに皆殺しになりました。打ち取られた天草四郎の首は、無惨にも長崎出島のポルトガル商館前に晒されることになります。
 島原の乱を決定的要因として、以後、家光はポルトガル船の来航を禁止し、ポルトガル人を国外へと追放します。その結果、ヨーロッパ勢としては交易に専念したオランダのみが出島に移って、日本との関係を継続することを許されました。
 日本は、こうして家光が完成した鎖国体制の下、ヨーロッパでの絶え間ない戦乱や革命を尻目に、戦争のない平和な時代を220年あまりに渡って送り、国内産業発展の土台を築き、豊かな江戸文化が花開きました。
 日本が取った「鎖国」という安全保障政策、今日の苛烈な国際情勢に照らして見直した場合、何を学び取ることができるのでしょうか? まず私が指摘しておきたいのは、鎖国とは日本を植民地化させないための歴史的偉業だったということです。
 当時は、大航海時代というグローバリズム帝国主義の時代でした。軍事的に劣る文明は次々と破壊され、略奪され、植民地化され、住民は奴隷化されました。アフリカ、中南米、明やインド、東南アジア諸国……。
 その苛烈な弱肉強食の時代にあって、東洋の小さな島国でありながら、高度な軍事力をもって欧州列強の軍事侵攻を許さなかったことは、実に驚くべきことです。
 当時の日本人には、獰猛な外国の恫喝に屈しないだけの強さと胆力がありました。旧教を背景とするスペイン・ポルトガル勢を「グローバリズム」であると見抜き、安全保障重視へと舵を切った秀忠と家光は、極めて賢明だったと言えるでしょう。
 ◇現在も目に見えぬ侵略の危機にある日本
 最近、小・中学生用に漫画で描かれた歴史の教材を読む機会があったのですが、島原の乱は「厳しい年貢の取り立てで苦しんだ領民たちが、キリスト教を心の支えに立ち上がったものの、無慈悲な幕府軍に鎮圧された悲劇」という描き方がされていました。島原の乱はそんなに単純なものではありません。
 天草四郎の首をポルトガル商館前に晒すのは、今日の観点からはもちろん残虐な所業に思えますが、当時の日本人は世界覇権国家ポルトガルを真正面から威嚇する胆力を持っていたことに着目すべきです。どんなに侮辱され、浸透工作を受け、土地を買い荒らされても何もできない、今の日本人とは大違いだということです。
 それにしても、当時も危ういものがありました。秀吉も家康も交易を重視するあまり、キリスト教の危険性を甘く見ていたところがありました。この、経済を重視して安全保障を軽視する傾向は、今の日本人のほうがはるかに顕著だと言えるでしょう。
 敗戦後、日本人は自衛のための戦争すら忘れて、経済活動のみに専念して生きればいいといいう「吉田ドクトリン」を信じてきました。その結果、安全保障に対する意識が極めて低いものになってしまいました。
 しかし、独立国であるのなら、国対国の関係で防衛におけるフリーライドは絶対に存在しません。「私を守るために、あなたが命を懸けてください」という話は成立しないのです。
 当時のキリスト教の布教は、今でいえば、サイレント・インベージョン(目に見えぬ侵略)だと言えます。
 キリシタン大名売国ぶりは凄まじいものがありました。強力な兵器の供給を受けてライバルに勝つことを最優先し、宣教師の利益誘導に乗せられた挙句、領民を強制的に入信させ、神社仏閣を破壊し、僧侶や神官を殺害し、あろうことか領内の日本人を奴隷として売り飛ばしました。
 秀吉と徳川三代がもし愚かで、対応がもう少し遅れたり甘かったとすれば、九州はポルトガルやスペインに支配されてしまっていたかもしれません。
 山岡 鉄秀
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🕯168)─1─日本民族の「情けは人のためならず」は科学的にも正しかった。〜No.353No.354 

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 日本民族はお人好しである。損を押し付けられ、嘘を信じて何度でも騙される。
 日本では、くどいほど注意されてもオレオレ詐欺が絶えない。
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 2024年3月13日 YAHOO!JAPANニュース 集英社オンライン「「情けは人のためならず」は科学的にも正しかった! 優しい人は損をしない「返報性の法則」とは
 『なぜか人生がうまくいく「優しい人」の科学』#1
 「情けは人のためならず」ということわざが示すもの
 「“優しい人”は損をするのでは?」という疑問に精神科医の視点から応えた新刊『なぜか人生がうまくいく「優しい人」の科学』。実は「情けは人のためならず」は本当だった!?
 【画像】大正時代に「人に優しくする」ことの核心を記した偉人
 書籍より一部抜粋、再編集してお届けする。
 「情けは人の為ならず」 は、科学的にも正しい考え方
 私が好きな言葉の一つに、「情けは人の為ならず」というものがあります。
 シンプルに言い換えれば、人に対する情けは、相手のためではなく、巡りめぐって自分のためになる……という意味です。
 この言葉は、人に優しくすることの「核心」を教えてくれるものだと思います。
 旧5000円札肖像画で知られる教育者で思想家の新渡戸稲造は、1915年(大正4年)に著した『一日一言』の中で、次のように記しています。
 施せし情けは人の為ならず
 己 おのがこころの慰めと知れ
 我れ人にかけし恵は忘れども
 人の恩をば長く忘るな

 これを現代語に訳すと、次のようになります。
 情けをかけるのは、人のためではない。
 ただ自分が満足できれば、それだけでいいと知っておこう。
 人にかけた情けは忘れても、
 自分がかけられた情けは、ずっと忘れないようにしよう。
 要するに、人に優しくすることは、相手のためだけでなく、後で自分にも還ってくるのだから、人に見返りなど求めず、自分が満足するだけにしておこう……ということですから、この考え方に私も同感です。
 精神科医として補足するならば、新渡戸稲造の考え方は、単なる人としての教訓ではなく、科学的にも正しい視点だと思います。
 人間の心理には、 「返報性の法則」と呼ばれる原理があるからです。
 返報性の法則とは、相手から優しくされたり、親切にされると、その好意に対して「お返しをしたい」と感じる人間の心理のことです。
 友人や同僚にピンチを救ってもらったら、 「次は自分が相手を助けてあげたい」と思うのではないでしょうか?
 相手に何かしてもらったら、その好意に報いるために、今度は相手にも何かしてあげないと気がすまない……という心理が人間には備わっているのです。
 その一方で、返報性の法則には、マイナスの要素もあります。
 相手に嫌なことをされた場合には、それに対して「仕返し」をしたい、復讐したいという気持ちが生まれてしまうことです。
 周囲の人に優しく接している人と、冷たい態度を取っている人では、人に優しくしている方が、結果的にいいことがある……というのは、こうした人間の心理が働いていることに理由があります。
 普段から人に優しくしていると、たくさんの「チャンス」 が生まれます
多くの人が、自分の経験知として「優しい人の方がいいことがあるだろう」と知っているでしょうが、「情けは人の為ならず」や「返報性の法則」の意味をきちんと理解しておけば、漠然とした感覚ではなく、合理的に判断できると思います。
 人に優しくできる人は、周囲の人から信頼されるため、一緒にいて気持ちのいい人たちが自然に集まってきます。
 相手の幸せを喜べる人は、周りの人から慕われるため、親切にしてもらえることが多くなります。
 会社でも同じで、部下の面倒見が良かったり、成長を喜べる上司は、信頼されるだけでなく、部下の成長を促すことにつながります。
 部下思いのリーダーがいるチームには、成果を出しやすい環境が生まれますから、打算的にならなくても、結果的には自分のメリットになるのです。
 私たちはたくさんの人に囲まれて生活していますから、別に見返りなど求めなくても、日ごろから人に優しくして接していれば、たくさんのチャンスが生まれます。人に対して意地悪をしたり、威張ったり、冷たくしていると、自分の周囲から次々に人が離れていきますが、優しい人や親切な人のところには人が寄ってきます。
 チャンスというのは、人によって「もたらされる」ものなのです。
 一人寂しく晩年を迎えないためにも……
 これは精神科医というより、個人的な人生観になりますが、私は人に優しく接したり、できるだけ親切にしよう……と思っています。
 毎日、さまざまなことが起こりますから、必ずしも思い通りにいかないこともありますが、基本的には「優しい人」でありたいと考えています。
 これまでを振り返ってみても、人に対して偉そうにしたり、冷たい態度を取っている人で、ずっと幸せそうな人には会ったことがありません。
 どんなに社会的な地位が高かったり、大金持ちの人でも、偉そうな態度を取ったり、人に対して冷たい人のところには、誰も寄りつこうとしなくなるのです。
 高齢者専門の精神科医として、寂しい最期を迎えた年配の方々をたくさん診てきた経験から、自然とそう考えるようになったのだと思います。
 私は、たくさんの本を出すことを含めて、数多くの「打席」に立ちたいと思っていますから、できるだけ打席を減らしたくありません。
 根底にあるのは、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的な考え方で、どんなことでも、やってみなければわからない」と思っています。
 こちらから積極的に人との出会いを求めるようなことはしませんが、来るものは拒まず、できる限り穏やかに人と関わりたいと考えているのです。
 現在は出版社からの執筆依頼が相次いでいますが、この先はどうなるかわからず、落ち目になることだってあると思います。
 すべての依頼を受けることはできませんが、偉そうな態度で断るのではなく、「今はとても忙しくて、お受けできないんです。もう少し暇になれば、その仕事を受けられるかもしれません。そのときに、ぜひやらせてください」みたいな対応を心がけています。
 偉そうな断り方をしていたのでは、二度と依頼が来なくなって、自分で打席を減らすことになってしまうのです。
 文/和田秀樹 画像/shutterstock

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 和田秀樹(わだ ひでき)
 精神科医
 1960年大阪府生まれ。東京大学医学部卒。精神科医東京大学医学部附属病院精神神経科助手、浴風会病院精神科、米国カール・メニンガー精神医学校国際フェローを経て、立命館大学生命科学部特任教授、和田秀樹こころと体のクリニック院長。老年精神科医として、30年以上にわたり高齢者医療の現場に携わっている。『80歳の壁』など著書多数。

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🌈8)─3─SDGsは平安時代から日本に存在していた。宗教都市「高野山」。〜No.17 

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 弘仁7(816)年 空海弘法大師)は、高野山嵯峨天皇からが下賜され、密教の道場として開いた。日本仏教における聖地の1つである。
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 日本の神道と仏教は、他の宗教とは違い、自然崇拝として「自然と共生する」教義を中心核として持っている。
 日本民族にとって、自然そのものが神話であり宗教であった。
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 2024年3月15日 YAHOO!JAPANニュース 講談社FRaU「日本最古の宗教都市「高野山」には、1200年前からSDGsがあった!
 平安時代から1200年、日本の聖地として今も多くの人々の信仰を集める和歌山県高野山。「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコ世界遺産にも認定されている場所です。弘法大師空海によって開かれた山頂の修行の場には、117もの寺院が密集。そのうち51ヵ所が宿坊として国内外からの旅人を迎え、疲れを癒し、同時に地域を存続させるための重要な観光ツールになっています。今回、聖なる山で花開いた仏教文化と山びとたちの暮らしを、旅ライターの仁田ときこさんが訪ねました。
 いまも昔も、森とともにある暮らし
 標高約1000m級の山に囲まれた山上盆地の高野山。1200年前に空海が修行の場所に開山した真言密教の聖地だ。約2kmにわたる「奥の院」の参道を歩くと、樹齢数百年の大杉が頭上を覆う。江戸時代に全国の大名から苗木を寄進され、いまに至る信仰林だ。その下には、歴史に名を連ねた戦国武将の供養塔(墓石)が、なんと20万基も連なっている。
 感慨深いのは、戦国時代は敵対していた武将たちが、死後には墓石となって仲よく並んでいること。参道を歩きながらこの風景を見ると、この世のすべては「諸行無常」なのだと思わずにいられない。
 奥の院には1200年間受け継がれている儀式がある。朝6時と10時半に、お堂で世界平和を祈るとされる弘法大師空海)に食事を運ぶ「生身供(しょうじんぐ)」だ。
 あの世とこの世の境目と呼ばれる「御廟橋(ごびょうばし)」を渡って、灯籠堂へ食事が運ばれる。風の日も大雨の日も、さらには戦時中も、それは欠かされることがなかった。
 そんな高野山には、古くより「一山境内地(いっさんけいだいち)」という言葉がある。「山のいたるところが境内」という意味だ。平安時代の初頭、弘法大師によって高野山が開かれたときから、ここは深い森林とともにあった。山の上をあえて修行場所に選んだのは、俗世と離れる場所が必要だったからだそう。華やかな京都や奈良といった都のそばではなく、人里離れた聖域を彼は求めたのだ。
 「自然と共生できる場所だからこそ、仏と対峙できる」。そんな大師の思いは、ここで暮らす人々に深く根づき、森を育てていくことに重きを置く。
 その答えとして、高野山の「金剛峯寺」には「山林部」がある。寺院に山の森林を守る部署がある寺は、日本では高野山だけ。「高野山SDGs」をテーマに森林と向き合い、豊かな自然を未来へ継承する部署だという。植林を行い、山をつくる活動を続けている。
 さらに、山林部の他にも「寺領森林組合」があり、ここに所属する森のエキスパートたちが、職人として高野山の2000ヘクタールにおよぶ森林を管理している。寺院の修復が必要なときは、これらの木々を建築用材として使うのだ。
 昔からたびたび落雷があった高野山では、修繕のための材木が何より重要。1本の木を育てるには途方もない時間がかかるため、森を守ることは寺院が継続するための「共生の道」なのだ。
 杉、檜(ヒノキ)、高野槙コウヤマキ)、赤松、モミ、ツガを「高野六木」に制定し、寺院や伽藍(がらん)の修繕用途以外の伐採を禁止しているのもその貴重さを物語っている。
 そんな高野山の森のことを深く知ってもらうため、寺領森林組合では「森林セラピー体験ツアー」を実施している。森の音を聴き、木に触れ、自然の色を見て、森林の匂いを嗅ぎ、最後に野山の幸を味わう。まさに、五感で高野山の自然を捉える森林浴は、高野山の歴史深い寺院とはひと味違う側面から心身がリフレッシュでき、癒やしを得られると人気だ。
 寺院のひとつ、「西室院」では霊木の御廟杉を御神体にしてお守りがつくれるサービスも。約30 種ある金襴(きんらん)の袋と吉祥結びを組み合わせて、自分だけの1体が制作できる。地産地消の愛らしい贈り物として話題を呼んでいるのだ。
 墓前に備える仏花にもサステナブルな試みがある。高野山の仏花は、古くから常緑針葉樹の高野槙のみ。境内には仏花の無人販売所が点在するものの、花はひと束も置かれておらず、高野槙しか並んでいない。冬には雪が積もるエリアなだけに、そもそも仏花の栽培には適さない。そこで、水に強い高野槙が選ばれたというわけだ。高野山という土地の特徴を活かした持続可能な風習が見てとれる。
 そういう土地だから、米の栽培もできない。つまり稲藁が手に入らないから、高野山では正月にしめ縄を飾らない。その代わりに干支や縁起物をかたどった切り絵が飾られる。これは「宝来」と呼ばれるもので、神棚や床の間、玄関などに掛けてある。毎年、正月に掛け替え、そこから1年じゅう掛け続けられる。高野山を歩きながら、いろいろな形の宝来を見つけるのはとても楽しい。
 見どころは寺院そのものだけではない高野山。1200年前から自然と共生するサステナブルな場所──。次はそんな視点で、この日本最古の宗教都市を巡ってみるのも新しい。
 森林セラピー高野山寺領森林組合https://www.forest-koya.com/
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⚔18)─4・B─戦国時代の日本人の価値は20~30銭(2〜3千円)であった。1571年。~No.74 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
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 2024年3月18日 YAHOO!JAPANニュース WANI BOOKS NewsCrunch「1571年「日本人奴隷の買い付け禁止令」が出されたほどの悲惨な歴史
 1571年「日本人奴隷の買い付け禁止令」が出されたほどの悲惨な歴史
 15~16世紀、当時の日本がアフリカや中南米諸国のように国を滅ぼされず、今日まで独自の文化・伝統を保持できた背景には軍事力、そして徳川家康の外交方針の転換があった。しかし、その期間に奴隷として売り飛ばされた日本人は5万人ほどにもなる。情報戦略アナリスト・山岡鉄秀氏が、当時の状況を解説します。
 ※本記事は、山岡鉄秀:著『シン・鎖国論 -日本の消滅を防ぎ、真の独立国となるための緊急提言-』(方丈社:刊)より一部を抜粋編集したものです。
 ◇世界中に植民地を拡げたスペインとポルトガル
 2021年に実施された中学校の新学習指導要領で復活するまでの数年間、中学教科書では「鎖国」という言葉が使われていなかったことをご存じでしょうか。
 「鎖国」という言葉は、江戸末期の蘭学者・志筑忠雄(しづきただお)が、オランダ商館医だったケンペルの『日本誌』を翻訳したとき(1801年)に造語したのが始まりなので、徳川家光が「鎖国令」を発したと教えるのは正しくないということから、2017年の学習指導要領改定案で「鎖国」ではなく、「幕府の対外政策」という用語に変えられていたそうです。
 また鎖国といっても、外国との貿易は、長崎を基軸としながら、松前対馬・薩摩の各藩に対外関係の「口」を担わせる形で行われていたのだから、鎖国と呼ぶのはふさわしくないというのが、1980年ごろからの歴史学の流れだったようですが、教育現場から、「開国」を教えるのに「鎖国」という前段がないと指導しにくいという声が上がり、復活したそうです。
 なぜ、当時の日本は鎖国を実施できたのでしょう? 大航海時代に日本が対峙していたのは、アフリカ・中南米、そして当時のアジアを次々に侵略蹂躙し、植民地に変えていったスペインとポルトガル。そして、オランダやイギリスも、アジアに東インド会社を作って支配を進める強力な軍事覇権国家でした。
 当時、世界を二分していたカトリック国であるスペインとポルトガルは、世界中に植民地を拡げましたが、そのやり方は悪逆非道の極みと言えるものでした。彼らが異教徒をどう扱うべきかバチカンに問い合わせたところ、「異教徒は人間と見なさずともよい」とのお墨付きを得ていたことが、その背景にあります。
 1452年、ローマ教皇ニコラウス5世が、ポルトガル人に対して「異教徒を奴隷にする許可」を与えたことで、奴隷貿易は正当化され、相手は人間でないと思えたからこそ、倫理的な罪悪感を全く持つことなく、徹底的に残酷になれたのです。
 ポルトガルは、13世紀ごろには人口も少ない小国でしたが、モロッコからアフリカ西岸を回って次々と侵略を始めます。部族抗争を繰り返すアフリカの一方の部族にだけ武器を与え、敗れた部族を奴隷としてたたき売るという行為を繰り返しました。
 ポルトガルはアフリカ南端を回り、14世紀にはインド、東南アジアを経て、1543年には種子島に鉄砲が、その6年後にザビエルが鹿児島に上陸するに至ります。
 ポルトガルに後れを取って焦っていたスペインに取り入ったのが、イタリア人のコロンブスでした。スペイン女王イサベル1世の支援を得たコロンブスは、ポルトガルとは反対に大西洋を渡り、1492年に西インド諸島サンサルバドル島に上陸します。
 水や食料を提供してくれた原住民の純朴さと均整の取れた体を見て、コロンブスは「これは素晴らしい奴隷になる」と考えました。そして翌年、軍隊と軍用犬を満載して再びこの島を訪れると、原住民の村々を徹底的に破壊し、略奪・殺人・放火・拷問・強姦の限りを尽くしたのです。
 近年、過激な左翼リベラリズムの影響で、キャンセルカルチャーの嵐が吹き荒れているアメリカでは、コロンブス銅像が引き倒され、破壊されています。行き過ぎたキャンセルカルチャーは全く肯定できませんが、その背景に恥ずべき歴史への嫌悪があるのは事実でしょう。
 中南米には古代から高度な文明が栄えていましたが、スペイン人によって無残にも滅ぼされてしまいました。1521年、メキシコ中央部に栄えていたアステカ王国は、スペイン人コルテスによって滅ぼされ、現在のペルー・ボリビアエクアドルにまたがって栄華を誇っていたインカ帝国は、1533年にピサロによって滅亡させられたのです。
 スペイン人は、これらの国々から莫大な金銀財宝を略奪し、本国に運び込みました。さらに、原住民を銀鉱脈の採掘に駆り出して強制労働を課し、大量の銀をヨーロッパに持ち帰りました。酷使され虐待された原住民の人口が激減すると、今度はアフリカ人が代替労働力として用いられることになり、奴隷貿易はさらに拡大したのです。
 ◇武力制圧の企図を挫かせた日本の軍事力
 世界中でこうした悪逆な支配を拡大していたポルトガル人やスペイン人であるのに、なぜ日本では同様の支配ができなかったのか? 布教活動によって一部の大名をキリシタン大名にし、権益を得ることまではできたものの、どうして最終的に排除されてしまったのでしょうか?
 それは、日本の軍事力が優れていたからです。火砲に関して言うと、1543年に中国商船に乗って種子島に漂着したポルトガル商人から買った2丁の火縄銃は、すぐに刀鍛冶の手で複製され改良されつつ、堺や近江などで瞬く間に大量生産されるようになりました。
 日本には鉄も少なく、火薬の原料となる硝石は輸入に頼るしかなかったのですが、安土桃山時代から江戸初期にかけての日本の鉄砲所有数は、世界有数だったことは確かであるとされています。
 もし、日本が軍事的に弱かったなら、アステカ王国インカ帝国のようにいとも簡単に支配を許し、滅ぼされるか、それ以外の「非白人」と同様に植民地化されていたことは間違いありません。今の中南米諸国のようになっていたはずです。強い軍事力が、武力制圧を企図させない抑止力として間違いなく働いていました。
 ◇領民を奴隷として売ったキリシタン大名たち
 しかし、いつの世にも売国奴はいるもので、九州のキリシタン大名がそれです。たとえば、長崎港を開港した肥前国大村純忠は、ポルトガル人から鉄砲や火薬など最新兵器の供与を受ける見返りとして、イエズス会の神父から洗礼を受け、日本で最初のキリシタン大名となったのですが、武器弾薬を求めた動機は、お家騒動に勝利するためでした。
 その信仰は過激で、領民たちに改宗を強要し、拒否する仏教の僧侶や神官は殺害しました。さらに神社仏閣も破壊すると、その廃材をポルトガル船の建材用に提供したのです。先祖の墓も壊し、改宗に従わない領民を奴隷として海外に売り飛ばしました。武器購入の代価にされたのです。
 豊後の国の大友宗麟は、宿敵・毛利元就を撃退するために、火薬の原料である硝石の供給をイエズス会から受け、鉄砲戦によって毛利を破ると洗礼を受けてキリスト教徒となり、今度は十字架を掲げて日向国に攻め入りました。
 大友宗麟の野望は、日向国の全領民をキリスト教徒に改宗させ、ポルトガルの法律と制度を導入してキリスト教の理想郷を建設することで、宣教師たちの言いなりになって現地の神社仏閣を焼き尽くしました。
 島原半島南部を支配していた小領主の有馬晴信大村純忠の甥)は、龍造寺隆信に圧迫されると、イエズス会からの支援を得るために洗礼を受け、キリスト教徒となりました。
 軍事力を強化して和睦に成功すると、宣教師の求めるままに、家臣・領民の入信に加えて、40か所以上の神社仏閣を破壊したばかりか、領内の未婚の少年少女を捉えて奴隷として献上し、さらに浦上の地まで差し出してしまいました。
 これらキリシタン大名によって、世界中に奴隷として売り飛ばされた日本人は5万人ほどになると言われています。それを目撃したのが、大村純忠キリシタン大名の名代としてローマに派遣した天正遣欧使節の少年たちでした。
 彼らは航海の途中、海外のさまざまな土地で、子どもまで含めた日本人男女が奴隷として使役されているのを見て、大きな衝撃を受けます。
 ちなみに、日本にいたポルトガル宣教師が奴隷売買の酷さを見かねて、当時のポルトガル王のドン・セバスチャンに進言した結果、1571年に「日本人奴隷の買い付け禁止令」も出されたのですが、奴隷売買はなくなりません。
 ポルトガルの奴隷商によって買われ、ブラジル・アルゼンチン・ペルーなどに売られた日本人奴隷の記録は、多くの公文書に残されています。
 ◇徳川家康が変えた日本の外交方針
 秀吉の死後、五大老による合議制が敷かれていた時期、筆頭大老だった徳川家康がもっていた外交観は、貿易と布教は分離できるというものだったようです。
 ポルトガルとの貿易によって大きな利益を得ている長崎や九州を見て、貿易を優先すべきと考えていた家康は、当初、キリスト教に対して寛大な姿勢で臨んでいたのですが、やがて「スペイン・ポルトガルキリスト教布教と同時に日本を武力により支配しようとしている」との情報を得て、外交方針を変えていきます。
 スペインは、信者を増やして日本を支配したあとは、日本を拠点として明に攻め入り、いずれは明も征服しようという長期計画を持っていました。
 家康は、1612年には天領(幕府直轄地)に、翌1613年には全国に「禁教令(キリスト教禁止令)」を将軍秀忠の名で交付させます。「キリスト教は侵略的植民政策の手先であり、人倫の常道を損ない、日本の法秩序を守らない」と激しく糾弾する内容でした。
 ここに鎖国体制が始まり、キリスト教禁止令はその後、じつに1873年明治6年)まで続いたのです。
 山岡 鉄秀
   ・   ・   ・   
 戦後民主主義教育は、学校で嘘の歴史を子供達に教えてきた。
 そうしたウソの歴史をエセ保守やリベラル左派の教師・学者に教えられ、メディアや知の巨人と称される知識人・教養人の薫陶を受けたのが、日本を動かしている上級国民と呼ばれる超難関校出の高学歴な政治的エリートや進歩的インテリ達である。 
   ・   ・   ・    
© WANI BOOKS News Crunch「16世紀スペインがフィリピンで実行した「植民地にしていく3つの方法」
 藤井 聡
 グローバリズム植民地 ニッポン 
 16世紀大航海時代に始まった植民地支配。スペインに征服されたフィリピンでの植民地政策がどんなものだったのか? グローバリズムに詳しい藤井聡氏に解説してもらった。
トップ ビジネス・社会 16世紀スペインがフィリピンで実行した「植民地にしていく3つの方法」
 大航海時代に発見された大陸の多くで、欧州各国の活性化のための植民地支配が始まりました。植民地となった「属国」は、支配者である「宗主国」のいわゆる奴隷となり、宗主国の利益のための政策が展開されました。京都大学大学院工学研究科教授でグローバリズムに詳しい藤井聡氏が、16世紀のスペインに征服されたフィリピンの植民地政策について解説します。
 ※本記事は、藤井聡:著『グローバリズム植民地 ニッポン -あなたの知らない「反成長」と「平和主義」の恐怖-』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。
 「植民地」という“かりそめの国”
 植民地とは、主として欧州各国が16世紀から20世紀にかけて、アジア・アフリカ・南アメリカの国々を軍事的に征服したうえで実行していた支配形態です。植民地支配がもっとも激しく進められたのが、第一次大戦前後の時期で、20世紀初頭の頃には、ヨーロッパ系白人が地球上の土地の84%を支配するに至ります。
 こうした植民地支配は、大航海時代に遡ります。15世紀、欧州の海洋航海技術の進展で、地球上のあらゆる地域への「大航海」が可能となりました。当時の大国であったスペインやポルトガルが、この大航海を積極的に行い、コロンブスアメリカ大陸を「発見」しています。その後、両国は大航海を繰り返し、訪れた地の原住民たちを圧倒的に強い軍事力にものをいわせて、植民地として支配するようになっていきました。
 その典型的な植民地の一つが、フィリピンです。フィリピンは16世紀にスペインに征服されて植民地化され、スペインにいいように使われ、搾取されていきます。そして、19世紀末から20世紀中盤に「独立」するまで、今度はアメリカの植民地として同じように搾取されていました。
 ▲地図:pytyczech / PIXTA
 もともと複数の島から構成される現在のフィリピンには、それぞれの島を統治する複数の王国がありました。しかし、強大な軍隊を持つスペインが、フィリピンのそれら複数の王国を軍事的に制圧し、それらをまとめてスペインの植民地としたのでした。植民地にも、一応は「国」が存在してはいるのですが、その国は、支配者である「宗主国」の「属国」なのです。
 というより、このフィリピンの例では、宗主国が原住民から効率的に富・利益を吸い上げる(搾取する)ことを目的として“でっち上げられた国”が、植民地の国ということになります。つまり、植民地となった国とは、主人=宗主国の奴隷なわけです。奴隷ですから、主人のいいように使われます。自分で何かを決める自由などなく、主人の道具という存在意義しか与えられません。
 欧州で価値の高い「香料」が欲しかったスペイン
 では、宗主国がどのように属国である植民地を利用し、搾取していくのかと言えば、それには主に以下の三つの方法があります。
 原料供給地(香料や金、銀などの原材料・資源を供給させる=奪い取る)
 資本輸出地(資本輸出の輸出先にする。つまり鉄道・港等のインフラ投資や工場投資などを行い、自国のものとして利用する)
 商品輸出地(貨幣経済を導入させたうえで、宗主国でつくったものを買わせる)
つまり、宗主国はまず、属国のなかにある価値あるもの(香料や金、銀など)を奪い去ります。もちろん、その採掘や生産については原住民たちに強制させます。すなわち、原住民の「労働力」を活用するわけです。これが「原料供給地」としての活用です。
 もともとスペインは、フィリピンに欧州で価値の高い「香料」があると見込んで植民地としたのですが、この狙いは外れ、あまり香料が取れないということがわかります。
 続いてスペインは、このフィリピンの地を交易の中継基地として活用していきます。当時、アジアとの交易は、欧州の国々に巨万の富を与えたからです。そして、19世紀にはマニラに大規模な港をつくり、さらに交易を加速していきます。さらにスペインは「プランテーション農場」をフィリピンの地につくり、欧米で高く売れるタバコやマニラ麻や砂糖などを原住民を使って生産させていきます。
 こうしてスペインは、港や農場という「資本」をフィリピンの地につくっていき、それを使ってビジネスを展開し、カネ儲けをするようになっていったわけです。すなわち、スペインはフィリピンを「資本輸出地」として活用していき、自国ではできないビジネスを、フィリピンという植民地の土地と原住民の労働力を使って、低コストで展開していったのです。
 以上が「原料供給地」と「資本輸出地」としての植民地活用のあらましですが、宗主国はこの二つに加えて、もう一つ、重要な搾取アプローチを展開します。
 それが、「商品輸出地」としての活用です。
 「カネ儲けマシーン」に変えられた原住民たち
 以上に述べたのは、宗主国による植民地の「土地」「資源」「労働力」の搾取・収奪という話しでした。
 ですが、この商品輸出地としての活用するのは植民地の「需要」なのです。この植民地の「需要」というものは、16世紀や17世紀の頃はさして重視されませんでしたが、19世紀以降の帝国主義の時代には、欧米列強から植民地政策における最も重要な政策として位置づけられるものとなっていきます。
 そのように植民地政策の方針が転換されたのは、19世紀からの帝国主義の時代、宗主国となった欧州各国は皆、デフレ不況に苦しんでいたからです。
 つまり、生産能力が過剰になり、自国の需要だけでは、生産したもの全てがさばききれない状況になってしまっていたのです。ですので、欧州各国は過剰生産を消費してくれる「需要」を渇望する状況にあり、これが帝国主義=植民地による支配が地球上で横行した主な原因だったのです。
 つまり欧州各国は、当時、需要不足を解消する方法として、その国の人々に自国の売れ残った品物を無理矢理売りつけたわけです。こうして宗主国は植民地の人々の需要を収奪し、自国民の産業を活性化させ、賃金水準を維持し高めていくという格好で、植民地を自国のために都合良く利用した経済成長を図ったわけです。
 ただし、そうして無理矢理に自国製品を売りつけ、原住民たちの人々の需要を奪い去るためには、彼らが「貨幣」というものを使っていなくてはなりません。ついては、宗主国側は、属国に対して「貨幣」というものを持ち込んで、それを軸とした「貨幣経済」を作り上げることとしたのです。
 宗主国はそのために、まず「徴税」という概念を持ち込みます。つまり、原住民はそこで生きているだけで、それまで見たことも無い「オカネ」なるものを手に入れて、それをお上(宗主国)に毎月毎月支払わないといけない、という状況を宗主国側が作り上げるわけです。
 そうすると、住民たちは必死になってオカネを稼ごうとして、同じく宗主国が経営する農場なり工場なりで働くようになります。こうして徴税という仕組みを使って、原住民たちを「カネ儲けマシーン」に仕立て上げることを通して、資本主義における「労働者」にするわけです。
そして、それと同時にモノやサービスを買うときにはオカネを使うように仕向け、「消費者」に仕立て上げていきます。そしてそういう制度設計アプローチを通して、その国のなかに「貨幣経済」を作り上げていくのです。
 そのうえで宗主国は、自分の国でつくった多くの商品を植民地の原住民に売り飛ばし、原住民の需要を収奪していったわけです。それと同時に、先に述べた「資本輸出」で、現地に工場や鉄道などをつくることでも、植民地に新たな需要を発生させることができるのです。
 ▲マニラ大聖堂 写真:Richie Chan / PIXTA
 宗主国スペインは、こうして「徴税システムの導入」「貨幣経済の導入」という壮大な改革を敢行したうえで、フィリピン人たちの「需要」を収奪すると同時に、新たな「投資需要」を産み出すことに成功したわけです。
 なお、このフィリピン人たちの需要収奪は、19世紀末にスペインのあとにフィリピンの宗主国となったアメリカが、特に強力に展開していった収奪方法でした。
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 2022年8月28日 WANI BOOKS News Crunch「二束三文で売買されていた戦国時代の日本人奴隷たち
 濱田 浩一郎濱田 浩一郎
 戦国の「こわい」話 第3回
 学校などで歴史を学ぶ際に出てくる「奴隷」という単語は、どこか海の向こうの話と感じている人も多いのではないでしょうか? 日本人も奴隷売買に関わってきているのです。
 トップ 暮らし・教養 二束三文で売買されていた戦国時代の日本人奴隷たち
 夏といえば怖い話。ここでは怪談話とはちょっと違う、現実にあった戦国時代の「こわい」話を紹介します。学校などで歴史を学ぶ際に出てくる「奴隷」という単語は、どこか海の向こうの話と感じている人も多いのではないでしょうか? しかし日本人も奴隷売買に関わってきているのです。教科書にはあまり載らない「こわい」話を、歴史作家の濱田浩一郎氏に聞きました。
 「奴隷ビジネス」に手を染めていた人たち
 織田信長の一代記『信長公記』(著者は信長の家臣・太田牛一)のなかには「人売り女の話」が載っています。京都下京の木戸番〔町ごとに区分けされていた際の出入り口となった木戸の番人〕をしている男の女房がいたのですが、彼女は、長い年月にわたって、多くの女性をかどわかして、和泉国堺に売り飛ばしていたというのです。
 織田政権で京都所司代を務めた村井貞勝は、この話を聞きつけ、木戸番の女房を捕らえ、尋問します。すると、その女の口からは、自分一人で「80人の女性を売った」との言葉が。
 この女は「成敗」されますが、木戸番の女房というある意味、普通の女性がそのような悪事を働いていたことに慄然とします。人を売る、人を買う、いわゆる人身売買は、他にも行われていました。
 信長死後、豊臣秀吉の時代、秀吉は伴天連追放令を出します(1587年)。追放令の前日(6月18日)には「明国や東南アジア、朝鮮に日本人を売り渡していることは悪事である。日本において、人の売買は禁止する」との 秀吉の命令が出ています。
 これは、在日の宣教師に向けて出されたものです。つまり、秀吉は、日本人の売買に、宣教師が関与していると考えていたのでした。いや、秀吉は宣教師のみならず、商売のために来日するポルトガル人やシャム人、カンボジア人が多くの日本人を連れ去り、奴隷として連行していると考えていました。
 よって、秀吉は「遠方に売り飛ばされた日本人を日本に連れ戻すように計らえ。それが難しければ、ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。自分がその代金を払おう」と、宣教師に詰め寄っています。その宣教師は「自分たちも、人身売買を止めさせようと努力してきました。しかし、重要なことは、海外の船が来航する港の領主らが、それを禁止することでしょう」と弁解します。
 つまり、自分たち宣教師は、日本人の売買に関係していない。先ずは、日本人を売っている「日本人」を何とかして取り締まるべきだと主張したのです。
 しかし、来日したポルトガル人による「奴隷ビジネス」は盛行を極めていました。 特に女奴隷が価値があったようですが、多くの日本人男女の奴隷が、ポルトガルに連行されたことから、ポルトガル国王のドン・セバスティアンは、日本人奴隷の取引を禁止する命令を出しています(1571年)。
 ▲セバスティアン1世  所蔵:プラド美術館(ウィキメディア・コモンズ)
 この禁止令は、在日宣教師の要望により、出されたとされます。宣教師たちは、広範な日本人奴隷連行が、布教活動の障害になると考えたのでしょう。
 しかし、秀吉の時代にも、未だ奴隷ビジネスが盛んだったことを考えると、国王の命令も意味をなしたようには思えません。
 天正遣欧少年使節が見た日本人奴隷
 さて、天正10年(1582)、本能寺の変が起きた年に、4名の少年が九州のキリシタン大名の名代として、ローマに派遣されます。有名な天正遣欧少年使節です。
 その少年たちは、旅の途中で多くの日本人奴隷の姿を目撃します。しかし、彼らの怒りの矛先は、買ったポルトガル人ではなく、売った日本人に向けられています。正使の千々石ミゲルなどは「同国人をさながら家畜か駄獣のように、安値で手放す我が民族への激しい怒りに燃えた」と語ったと言います 。
 少年たちは、マカオ・マラッカ・ゴアを経て、アフリカ南端の喜望峰を周り、ポルトガルに入っています。その旅の途中で「多数の男女やら、童男・童女」――つまり日本人奴隷が惨めな境遇にあるのを見たというのですから、アジアや東南アジアにも多数の日本人奴隷が存在していたことがわかります。しかも成人男女のみならず、少年・少女も奴隷として売買されていたのです。
 ▲天正遣欧使節肖像画 所蔵:京都大学図書館(ウィキメディア・コモンズ)
 前述の宣教師は、我々は日本人売買に関与していないと弁解していたが、宣教師が「奴隷交易許可状」を出しており、無関係とは到底言えませんでした。
 イエズス会宣教師も奴隷貿易に関与していたのです。さて、秀吉による伴天連追放令が出たあとも、イエズス会の要請により、日本人の奴隷取引を禁止する旨(1591年)が出されていますが、厳格に守られたようには見えません。
 1603年にも、ポルトガル国王から同内容の禁令が出されているからです。しかも、国王はインド・ゴア市から抗議を受けると「正当な理由があれば、日本人奴隷の取引を禁じるものではない」との意向を示しています。これは、日本人の奴隷取引がどれだけ儲かるものであったかを示しているでしょう。
 戦国時代の奴隷になった人々は、ごく普通の人々でした。他国の大名(武将)に攻め込まれ、そのときに捕らえられた男女・子どもが奴隷として売られたりもしていたのです。少しの金欲しさに自分の親や妻、子を売る例もあったようです。
 奴隷の値段は二束三文、20~30銭(2〜3千円)で売買されることもありました。現代のアフガニスタンにおいても、人身売買や臓器売買が横行しているようですが、幼い娘を売ることによって得られるお金は16万円ほどだそうです(臓器は約30万円)。安易な比較は慎むべきかもしれませんが、戦国日本の奴隷(人身)売買の酷さ、凄まじさがわかろうというものです。
 冒頭に記した木戸番の女房にかどわかされた女性80人も、全員ではないにしても、海外(東南アジアやポルトガル)に売り飛ばされ、悲惨な境遇に落ちた可能性があります。
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⚔29)─4─何故、戦国大名は百姓を助ける為に善政をおこなっていたのか。乱取り。〜No.113 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 昔の日本人と現代の日本人は違う。
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 2024年3月17日 YAHOO!JAPANニュース ABEMA「戦乱が続く戦国時代。なぜ戦国大名はに善政を行ったのか?その裏事情を考えてみる
 世間は株価が急激に上昇して大騒ぎだが、わたしたち庶民には景気が上向いたという実感が感じられない。相変わらずの困窮生活である。戦国時代は飢饉などがあると、戦国大名は善政を施し、農民を窮地から救おうとした。しかし、そこに裏がったのか改めて考えてみよう。
 戦国時代は戦乱が打ち続き、ときに農民は苦しい生活を強いられた。農民が苦しんだのは戦争だけではなく、悪天候に伴う災害で飢饉が発生し、生活がままならなくなったこともあった。
 そうなると、農民は領主に納める年貢が確保できず、生活苦に喘ぎ、挙句の果ては耕作地を放棄し逃亡したのである。しかし、戦国大名は決して指を咥えて見ていたわけではない。事態の解決を図るべく、対策に動いたのである。
 たとえば、明智光秀は困窮した農民を救うべく、年貢を減免したり、免除したりした。これは、たしかな事実であり、今も丹波地方では光秀が明君であると称えられている。
 では、年貢の減免や免除が光秀の専売特許化といえば、決してそうではなく、多くの大名が行ったのである。われわれのイメージは、戦国大名が年貢の減免や免除を懇望する農民を足蹴にし、何が何でも年貢を納入せよと激しく迫るのは、もはや古い考えにすぎない。
 では、なぜ戦国大名は農民の要求を受け入れ、年貢の減免や免除を認めたのだろうか。そもそも戦国大名は、年貢を納める農民がいなければ、とても領国の経営を維持できなかった。それゆえ、農民との良好な関係を維持することが肝要で、激しい収奪をするだけではまずかった。
 たとえ平時であっても、過酷なまでに年貢の負担を求めると、農民は耕作地を放棄して逃げ出すからである。そうなると、年貢が収められなくなるので、戦国大名は大いに困るのである。
 ましてや、農民が飢饉により農作物がほとんど収穫できず困っているのに、年貢の減免や免除をしなければ、残された手段は逃げることだけだった。そうなると先述のとおり、困るのは戦国大名のほうである。
 つまり、戦国大名が非常時に年貢の減免や免除をするのは、最終的に自分たちが困るという事情があったからだった。むろん、領民思いの心優しい戦国大名がいたかもしれないが、あくまでそれらの政策を行った理由は、政治判断ということになろう。
 そうなると、洪水が頻発するため、川に堤防を築いた戦国大名に関しても、同じことがいえる。洪水により耕作地が大被害を受け、農作物が収穫できないと、最終的に困るのは年貢を徴収できなくなる戦国大名のほうだった。そのような事情があったので、戦国大名は勧農の一環として、堤防の工事を行ったのである。
 近世以降、そうした戦国大名の行いが善政と評価され、人々が敬ったというのが実情だろう。実は現在でも同じことで、災害などで国民が窮地に陥ったとき、税の減免や免除をしたり、助成金を支給したりするのは、ときの政権を担う政治家があとで困るからである。困るというのは、困窮した国民を助けなかった場合、政策が悪かったと評価され、次の選挙で落選するということになろう。
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
   ・   ・   ・   

 戦国大名乱取りを禁止したが、戦闘に参加しない人足や小者達は役得として乱取りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会・イエズス会ら修道士会と白人キリスト教徒商人は、乱取りを行った日本人から捕獲した日本人を奴隷として購入て世界中に輸出して大金を稼いでいた。
   ・   ・   ・   
 日本とくに日本民族では、マルクス主義共産主義無政府主義による人民革命は起きない。
 もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
 何故なら、マルクス主義共産主義無政府主義とは反宗教無神論・反天皇反民族反日本だからである。
   ・   ・   
 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
   ・   ・   ・   
 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
   ・   ・   ・   
 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などに陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
   ・   ・   ・   
 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、日本人奴隷として輸出した人数は、ポルトガル商人が5万人以上で、スペイン商人は不明である。
 これが、南蛮貿易に隠された暗黒史である。
   ・   ・   ・   
 反権力・反権威・反体制的な庶民は、社会秩序に反逆する野伏せりや悪党であり、そして天皇を命を捨ててでも守ろうとした勤王派・尊皇派であった。
 その代表的人物が、楠木正成であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
   ・   ・   ・   
 日本人は、悪人、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

2024-01-28
⚔21)─3─戦国時代、人口の9割は“農民”!乱世に翻弄される「影の主役」の生活とは。乱取り。~No.92 
   ・   ・   ・   
 🌈19)─1─日本の道徳・規律・規範は天道様崇拝であって武士道精神ではない。〜No.37No.38 ② 
 日本の「お天道様」は、キリスト教の全知全能の神ではなく、儒教の天・天帝でもなく、ユダヤ教イスラム教の絶対神でもない。
 お天道様は、何となくの崇拝宗教であって律法・戒律の啓示宗教ではないので、信仰を契約して入信した信者・教徒はいない。
 日本民族は、お天道様崇拝者である。
 お天道様とは、天皇家の祖先神である女性神天照大神である。
   ・   ・   ・   
 トライイット
 ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
   ・   ・   ・   
 江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本人が憧れ持て囃す武士道は、江戸時代後期、ロシアの軍事侵略危機までは存在しなかった。
 武士道は、明治時代の近代化によって、外敵の侵略から天皇・国・民族、宗教・文化を守る為に民族主義愛国心の中から生まれた。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 儒教易姓革命禅譲放伐)と天命思想(受命思想)を、中国と朝鮮は無条件で受け入れ、日本は換骨奪胎して受け入れた。
   ・   ・   ・   
 天皇易姓革命と天命思想から守ったのは、伝統文化である、天孫降臨記紀神話古事記日本書紀)、民族の神話物語と庶民物語であった。
 天皇は天命思想を引き受け、庶民は易姓革命を拒否した。
   ・   ・   ・   
 天命思想とは有徳、徳治の事で、人徳と陰徳を体現したのは第45代聖武天皇光明皇后であった。
 日本風天命思想は、天皇の御威光、皇道主義である。

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 2023年7月7日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「日本とは、日本人とは」なんだろう…全国すみずみまで歩いて見えた「日本人の本当の姿」
 『忘れられた日本人』で知られる民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは? 
 「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が2刷重版出来、話題となっている。
 【写真】女性の「エロ話」は何を意味しているか? 日本人が知らない真実
 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 「心」の民俗学と「もの」の民俗学
 人文科学の諸領域は「私たちはどこから来たのか」「私たちはなにものか」「私たちはどこへ行くのか」という命題を追究するものだと私は理解している。歴史学社会学も、人類学も民俗学も、究極の目的は、こうした命題を明らかにしていくことに間違いないだろう。
 またそれは、人文科学にとどまらず、社会科学でも、自然科学でも目的とされていることなのではないか。そしてその目的に至る方法や対象の違いによって、学問の性格が異なってくる。
 民俗学もまた「私たちはどこから来たのか」「私たちはなにものか」「私たちはどこへ行くのか」を追究してきた学問である。ほかの学問でもそうだが、追究しようとする「私たち」がどこまでを含むのかも大きな問題になる。学問領域によっては「人間」「人類」、あるいは「生物全般」を含む場合もあるかもしれない。
 柳田国男(1875~1962)は20世紀の日本列島に住む日本人を「私たち」とあらかじめ措定して民俗学をはじめた。
 そして「私たち」の起原(どこから)、定義(なにもの)、未来(どこへ)を追究・探求する際、柳田は「心」を手がかりにし、「心」の解明によって明らかにできると考えたのだ。
 そのとき「心」を構成する資料は、民間伝承、民間信仰から得られるものだと考えたのである。この柳田の直観、あるいは思想が「日本民俗学」の発端となり、「日本民俗学」の性格を決定づけたのである。
 これに対して宮本常一(1907~1981)は「もの」を民俗学の入り口にした。たとえば生産活動などに用いてきた「民具」を調べることで、私たちの生活史をたどることができると考えた。そして民俗学における伝承調査を、「もの」への注目に寄せていくことで、私たちの「心」にも到達できると考えたのだった。
 フィールドワークから実践へ
 日本の民俗学は柳田によって開かれ、同世代の折口信夫(1887~1953)、南方熊楠(1867~1941)らによって発展していった。
 彼らのあと有力な財界人でもある渋沢敬三(1896~1963)が独自の立場から後進を支援、指導し、そのなかで最も精力的な活動を展開したのが宮本常一である。
 宮本は日本列島をすみずみまで歩き、多くの人びとから夥しい数の話を聞いた。民俗学はもちろん、人類学や社会学でもフィールドワークは調査研究の重要な手法だが、宮本のそれはほかの調査者たちとどのように違うのか。宮本は自身のフィールドワークをふまえてこんなふうに記している(「あるいて来た道」『民俗学への道』著作集版より要約)。
 さまざまな差が見られる村の風物には、それぞれの歴史と理由をもち、私たちの生活意識の表現でないものはない。このような村里の風物に接することにより、私たちはそのなかに含まれた意味を汲みとらなければいけない。自分の知っている世界だけが世界のすべてではない。知らない世界、考えのおよばない世界が、そのかなたに無限にかくれている。村に入り、民家の人たちと言葉を交わすことによって、表現せられる物象の底に潜む生活意識と文化を知ることができる――。
 ここで宮本は、「世界」という言葉を使っているが、「世間」という言葉を用いることも多い。「世間」は宮本が、その民俗学の対象とした人びとが暮らす社会を指し示すのにふさわしい言葉であり、そこから読み取れることは少なくない。
 宮本は、見て、歩き、聞くことにより、列島各地の歴史や事情に精通し、農業、漁業、林業等の実状を把握するとともに問題点を明らかにしていった。そしてそれは、個別の共同体がどのような産業によって潤っていくかを、共同体の成員とともに具体的に考えていくことだった。またいっぽうで、調査される側の「迷惑」についてもきわめて意識的だった。
 宮本の民俗学がほかの民俗学者民俗学と際立って違うのは、フィールドワークの成果が実践に結びついていったことである。
 戦中・戦後の大阪府下での農村指導をはじめ、新潟県山古志村(現・長岡市)、同県佐渡の宿根木などでは、民俗文化財をどのように生かしていくのかを考えて、いわゆる「地域おこし」(町おこし、村おこし)の先駆的な活動をおこなった。
 また、瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島で生まれた宮本は、「離島」が抱える本土との格差を埋めるために尽力し、民俗学者としての説得力と粘り強い活動により離島振興法を成立に導いている。
 畑中 章宏(作家)
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〖目次〗貼り付ける記事。:皇位継承と人口激減の原因はアメリカ大統領の道徳エゴであった。令和6年版。

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 当ブログは、歴史の定説を恣意的に書き替える為に作成している歴史修正主義民族主義のブログである。

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2024-03-02
🎷64:─2─戦後レジームとは日本の人口を減らす為の人口抑制計画の事であった。~No.287 
   ・   ・   ・   
 日本の人口激減は、アメリカ・ソ連そして国連が仕組んだ罠であった。
 戦後レジームとは、日本の九条憲法と国連の敵国条項である。

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 ルーズベルトが日本人の上に原爆を落とす事にこだわったのには理由があった。
   ・   ・   ・   
2024-03-10
🎺40:─3・B─1944年9月 ハイドパーク協定。原爆を「日本人に対して使う」秘密合意。~No.179No.180No.181 
   ・   ・   ・   
 (ハイドパーク覚書原文より)
 The matter should continue to be regarded as of the utmost secrecy; but when a "bomb" is finally available, it might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender.
 (日本語訳)
 この問題は、極秘にし続けるべきものである。しかし「爆弾」が最終的に使用可能になったときには、おそらく、熟慮の後にだが、日本人に対して使用していいだろう。日本人には、この爆撃は降伏するまで繰り返し行われる旨、警告しなければならない。
   ・   ・   ・   
 ルーズベルトチャーチル - 確認の際によく指摘される項目
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 ... 人の愛人を持った。真珠湾攻撃で失った3000人の若者の命など気にも留めなかった。簡単に洗脳され「ドイツ人、日本人を絶滅させ、民族浄化させる」と本気で考えた。議会 ...
    ・   ・   ・   
 裏切られた自由 - 確認の際によく指摘される項目
 https://www.amazon.co.jp>reviews-render>lighthouse
 簡単に洗脳され「ドイツ人、日本人を絶滅させ、民族浄化させる」と本気で考えた。 ... 渡辺惣樹氏は、フランクリン・デラノ・ルーズベルト( FDR)大統領の前の大統領で ...
   ・   ・    ・   
 ヒトラーは戦争を欲したか?--1939年9月1日の「開戦 ...
 http://www.asyura2.com>reki02>msg
 2013/9/1 -... させ、空白になった土地にドイツ人を入植させる。こういうものだった ... 日本人を狙った民族浄化は、かなり露骨になっているのに、何故か気付い ...
   ・   ・   ・   
 日本の人口激減は、ルーズベルトの対日強硬策を実行したGHQと敗戦利得者であるエセ保守・リベラル左派が計画的に起こした悪質な現象であった。
 戦後民主主義教育で生み出されたメディアと教育は、日本人を無能化するべく子供を洗脳した。

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 ハイドパーク協定
 1944(昭和19)年9月18日
 フランクリン・ルーズベルト米大統領ウィンストン・チャーチル英首相が米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆投下と将来の核管理について申し合わせた秘密協定
 1972(昭和47)年に初めて公開された
 ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸でルーズベルトと会談した英国のロナルド・キャンベル大使がルーズベルトから「劣等アジア人種」の品種改良というとんでもない提案を受けたと本国に宛てた書簡に書き残している。
 「インド系、あるいはユーラシア系とアジア系を、さらにはヨーロッパ人とアジア人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる」

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2018-12-26
🎺54:─1・A─アメリカは、二種類の原爆投下実験と稲作地帯への枯葉剤散布を計画していた。1945年8月~No.259No.260No.261 @ 
2024-03-15
🎺54:─1・B─幻の日本に対する枯葉剤散布作戦。全国各地の国有林に埋められた化学兵器。~No.259No.260No.261 

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 減少する日本人は、日本民族であって日本国民ではない。
 外国人移民に日本国籍を与えれば、日本人は減る事なくむしろ日本人は増える。
 現代日本人は、民族主義を嫌い、日本民族への愛着はない。

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人口爆発。多産少死。
2018-03-14
🍙3〗4〗─1─国際連盟は、人口爆発を続ける日本で飢饉が発生する恐れがあると警告を発した。昭和元(1926)年。~No.8No.9No.10No.11No.12No.13・ @ 
2018-03-08
🍙7〗─2─太平洋戦争の原因は昭和5年~16年までの人口爆発と食糧緊急輸入に対するアメリカの経済制裁であった。~No.23No.24No.25・ @ ③
2018-04-11
🍙21〗─4─昭和16年6月 戦争回避を目的とした幻の「ニューギニア島日本売却」提案。~No.101No.102No.103・ @
2018-04-15
🍙21〗─8─ルーズベルトは、軍国日本に戦死か、餓死か、奴隷の如く土下座するかの選択肢を突き付けた。昭和16年11月~No.112No.113No.114・ @ 
2018-05-13
🍙29〗─1─アメリカは、極東委員会の対日食糧輸出不要論に従い飢餓状態にある日本への食糧輸出禁止を回答した。・昭和21年~No.187No.188No.189・ @ 
2018-05-02
🍙33〗─2─日本の自由・民主化改革や平和憲法制定はルーズベルトの遺志であった。日本難民救済会とララ物資。~No.211・ @ 
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2018-12-31
🎺55:─1─日本民族は、「国體」を死守する為に一億総玉砕を誓った。~No.272No.273・ @ 
2019-01-01
🎺57:─1─アメリカ軍は、3発目の原爆は10月中旬頃と報告した。昭和天皇の「聖断」。 関東軍最後の戦い。1945年8月10日~No.277No.278No.279・ @ 
2019-01-04
🎺58:─1─涙の聖断。昭和天皇は戦争を嫌う平和主義者であり、数多くの人道貢献を行った。~No.286No.287No.288・ @ 
2019-01-05
🎺59:─1─昭和天皇の聖断が、日本人を共産主義者の虐殺から救った。1945年8月16日~No.289No.290No.291・ @ ㊳
2019-01-07
🎺64:─1─ソ連は、日本領北方領土を占領し、北海道の強奪する事を決定した。1945年8月19日~No.303No.304No.305・ @ 
2022-06-10
🎺65:─1─日本陸軍の抵抗がなければ日本は分断国家になっていた。~No.306No.307No.308 ㊶ 
2019-01-09
🎺68:─2─アメリカの国民とユダヤ人は、懲罰として、昭和天皇の極刑(死刑)と天皇制度の廃絶を望んだ。1945年9月16日~No.317No.318No.319No.320・ @
2019-01-10
🎺69:─1─GHQは日本人洗脳ラジオ放送を始める。キリスト教史観とマルクス主義史観による日本犯罪教育。1945年11月~No.321No.322No.323・ @ 
2023-09-14
🎺70:─1─GHQWGIPで日本人に戦争贖罪意識を植え付け戦犯国の汚名を刻み込んだ。~No.324 
2019-05-16
🎺74:─1─アメリカの対日政策は、昭和天皇天皇制度を利用するが皇室は消滅させる事でった。〜No.335No.336No.337・ ㊺
2019-09-27
🎺77:─1─敗戦後の日本人は、反抗も抵抗もせず占領軍・GHQに媚び諂った。〜No.344No.345No.346
2021-02-12
🎺78:─1─1945年12月、GHQによるに教員組合の結成を指令。日本教職員組合日教組)。〜No.347No.348No.349 ㊼ 
2019-01-19
🎺81:─3─日本国憲法占領政策基本法)制定。憲法の主権は、日本国民ではなく実はアメリカ政府とアメリカ企業であった。1946年7月~No.362No.363・ @ 
2019-01-23
🎺87:─1─戦勝国の特権。日本占領軍兵士による強姦・殺人・強奪などの犯罪は無罪。~No.384No.385No.386・ @ (55)
   ・   ・   ・ 
人口激減。少産多死。
 2018-05-03
🍙34〗─1─静かな有事。人口激減は、GHQが押しつけた占領政策日本国憲法産児制限優生保護法が原因であった。~No.214No.215No.216・ @ 
2018-05-06
🍙34〗─2─GHQの人口抑制策は反天皇反日ユダヤ人と日本人共産主義者の仕掛けた罠であった。~No.217No.218No.219・ @ 
2018-05-08
🍙34〗─3─ルーズベルト日本民族絶滅方針とGHQの日本人口減少政策。加藤シズエと優生保護法。サンガー。~No.220No.221No.222・ @ 
2018-05-10
🍙34〗─4─アメリカ・GHQの対日占領政策の置き土産。母体保護法優生保護法。~No.223No.224No.225・ 
2018-05-24
🍙34〗─5─人口抑制と優生保護法成立に資金を提供した米富豪クラレンス・ギャンブル。優生保護法が日本人女性を救った。~No226No.227No.228・ @ 
2021-03-13
🍙34〗─6─GHQは優生思想で日本民族を減少させる人口政策を行った。~No.229No.230No.231・ 
2021-06-13
🍙34〗─7─GHQ対日占領政策における経済民主化とは、日本経済の弱体化・無力化である。~No.232・ 
2022-06-22
🍙34〗─8─日本の少子化と人口激減はGHQと加藤シヅエが原因の人災。~No.233 
2023-04-25
🍙34〗─9─「子供は二人まで」宣言。国・政府、メディア、教育が少子化を推進した。~No.234
2018-06-24
🍙50〗─1─人口爆発で食糧危機を進化して回避する。~No.277No,278No.279・ @ 
2021-02-01
🍙51〗─1─人口減少の出生抑制は正しい選択であった。人口激減の始まり。昭和49年。~No.283・ 
   ・   ・   ・   
2024-03-06
🍘48〗ー1ー人口戦略会議「2100年に人口8000万人維持」。2023年の出生数75万人で減少加速。~No.145 

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 日本を襲う陰謀論、文化マルクス主義者(リベラル左派)の陰謀、中国共産党媚中派)の陰謀、レーニンの亡霊(レーニン崇拝者)。
   ・   ・   ・   
 ソ連コミンテルンの27年テーズ、32年テーゼ。
 日本国内に潜む、反宗教無神論・反天皇反民族反日マルクス主義エセ保守。
   ・   ・   ・   
 レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、中国共産党日本共産党ディレクションした。
 スターリンは、屈辱的日露戦争敗北の復讐としてレーニンの対日陰謀を実行し、ピョートル1世(大帝)の日本征服の夢を叶えるべく北海道と北方領土4島を武力で強奪しようとした。
 中国共産党は、レーニンスターリンの指示に従って軍国日本を対米戦争に追い込むべく、中国在住の日本人を虐殺していた。
 当時の日本人は、戦争を嫌い争う事を避ける現代の日本人とは違い、中国人の非人道的残虐行為に激怒し、惨殺された日本人の復讐・報復を政府や軍部に求めた。
   ・   ・   ・   
 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。

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 現代日本の人口激減は作られた人為的現象で、自然現象ではなく、明らかなエビデンス、科学的根拠が存在している。
   ・   ・   ・   
 明治の近代化によって人口爆発期に突入し、明治元(1868年)年の3,455万人が昭和20年(1945年)の7,281万人に増加した。77年間で3,826万人、1年間で約50万人と増えた。
 63年後の平成20(2008)年には総人口が1億2,808万人に達した。63年間で5,527万人、1年間で88万人と増えた。
 日本の総人口は、140年間で9,353万人増加した。1年間で約67万人。
 人口爆発は多産少死で、若者が多く老人が少ない時代である。
   ・   ・   ・   
 日本の国内食糧生産で養える人口は約6,000万人で、昭和15年には約1,000万人が潜在的飢餓民となっていたが、仏印(現ベトナム)から外米を輸入して食糧危機を回避していた。
 外米を購入するに必要だったのは、在米日本資産・米ドルであり、食糧輸送船を動かす為に石油であった。
 日本を追い詰める最善の方法が、資産凍結と石油禁輸であった。
 異常気象で凶作が発生し外米を輸入できなくなれば、飢餓は顕在化して、国内で餓死者が出る怖れがあった。
 敗戦で東南アジアから外米を輸入できなると、東京・名古屋・大阪などの消費都市部で数千人の戦災孤児が餓死していた。
   ・   ・   ・   
 人口爆発期とは、老人が少なく若者が多い時代で、未来は明るく、子供達は夢や希望を抱い生きていた。
   ・   ・   ・   
 日本政府は、人口爆発で増えた余剰人口を解消する為に貧困層を海外移住で解消しようとした。
 アメリカは、国内に日本人移民が急増した為に人種差別的日本人排斥運動を始めた。
 中国や朝鮮では、アメリカの日本人排斥運動やソ連の敵日行動に連動して抗日運動が燎原の火のように広がっていった。
 そして、日本人の共産主義者無政府主義者テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
   ・   ・   ・   
 親中国反日ルーズベルトは、日本の総人口を減らす為に軍国日本を戦争へと追い込む為に、嫌日派スチムソンの対日強硬策を採用して実行した。
 アメリカ政府は、正規兵をボランティア部隊としてファシスト中国(国民党)軍に派遣して日中戦争に参戦した。
 アメリカ軍による日本の女性や子供を生きたまま焼き殺す無差別絨毯爆撃や原爆投下実験は、科学的人口削減の為に行われた。
 ルーズベルト日本民族消滅計画は、戦争で減少した人口を回復させる為に劣等的外国人を大量に日本に移住させ人工交配で生み出され混血児を新たな日本人とする事であった。
   ・   ・   ・   
 スターリンは、天皇制度国家日本を滅ぼして新たに共産主義国家日本を建設するべく、ソ連軍と国際的人民義勇軍日中戦争に派遣して日本軍を攻撃した。
   ・   ・   ・   
 反天皇反民族反日ユダヤ系国際金融資本と欧米の軍需産業は、抗日軍を支援していた。
 戦後日本を混乱させていた左派系イデオロギー闘争は、大正時代から高学歴な政治的エリートや進歩的インテリの間に浸透していた反宗教無神論マルクス主義共産主義が原因であった。
 反天皇反民族反日的日本人達は、ソ連コミンテルンからの指示を受け、中国共産党からの協力・支援を得、国際的共産主義勢力と連携して人民革命を起こして天皇制度を廃絶し皇室を根絶やしにするべく策動していた。
 彼等にとって、数万年前からの民族的な歴史・文化・伝統・宗教・神話には興味がなくむしろ唾棄すべき「諸悪の根源」に過ぎなかった。
 彼等のイデオロギーDNAは、現代日本現代日本人の中、特に左派リベラル系の教育界とメディア業界に根強く残っていて、一部の保守系の中にも存在する。
   ・   ・   ・   
 昭和27(1957)年4月28日に日本が独立し、自由諸国の一員として国際社会に復帰する前後、国内でも荒々しい風が吹いていた。一つは日本共産党武装闘争である。暴風とすらいえるものだった。もう一つの左翼政党、日本社会党は共産思想をめぐる距離の違いから左派と右派に分裂した。共産主義は排するとした左派だったが、距離は近かった。土台にあるのはマルクス主義階級闘争なのである。左派は労働組合の全国組織、日本労働組合総合評議会(総評)と連動した。国会外での闘争も活発になる。1960年安保闘争に至る流れはこのころにできている。
 ……。
 武装闘争
 ソ連の独裁者スターリンが筆を入れ、共産党第5回全国協議会(5全協)で採択された『綱領─日本共産党の当面の要求』については、前回触れた。こう書かれていた。『日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しようと考えるのはまちがいである』(『日本共産党綱領集』昭和32年)。
 ……。
(令和4年11月号 正論「産経新聞の軌跡 昭和20年代編  河村直哉」)

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 戦後日本における人口爆発
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2018-07-20
🌁28〉─1─安定した年金老後は人口爆発期に作った夢のような成功モデルであった。~No.117・ @ 

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 ウィキペディア
 日本
 日本の合計特殊出生率(TFR)と出生数(1000人単位)の推移。
 第一次ベビーブーム
 日本では1947年から1949年にベビーブームが起きた。この3年間は出生数が250万人を超えており、合計すると約800万人程度の出生数となる。1949年の出生数269万6638人は戦後の統計において過去最多であり、この出生数は2019年の出生数86万5239人の約3.1倍である。なお、この期間に生まれた世代は団塊の世代と呼ばれる。
 第二次ベビーブーム
 1971年から1974年までの出生数200万人を超える時期を指すことが多く、1973年の出生数209万1983人がピークとなった。ただし、この出生数の増加は第一次ベビーブームと違い、合計特殊出生率の増加が伴われない出生数の増加である。なお、この期間に生まれた世代は団塊ジュニアと呼ばれることが多い。
 しかし、日本においては、第二次ベビーブーム以降少子化の一途をたどり、未だに2020年代に入っても第三次ベビーブームは発生していない。詳しくは「団塊ジュニア#消えた第三次ベビーブーム」や「少子化#日本」などを参照のこと。
   ・   ・   ・   
 2020年10月24日・31日号 週刊現代少子化政策で『子供は2人まで』を決議していた
 1974年7月5日付 朝日新聞産児制限で人口増に歯止めに
 日本人口会議宣言「子供は2人まで」
 国民的合意で実現を』
 1974年7月5日付 読売新聞『〝子供は2人までに〟
 年130万人増は危険 日本人口会議が宣言
 高齢者社会に備え 専門家200人を集めて 政府、今秋シンポジウム』
 1974(昭和49)年 国を挙げて『産み控え』を推奨
 74年に厚生省(当時)人口問題審議会は、『出生抑制に一層の努力を注ぐべき』と提言している。
 1976(昭和51)年 国民は『子供を作らない』ことを選択
 11月19日付 朝日新聞出生率、49年末から急減 不況で産み控え?
 50年後に静止人口 予想より500万人減』
 73年のオイルショック後の不況も響き、74年を頂点に日本の出生数は減少局面に入った。」
   ・   ・   ・   
 2024年2月27日 東京新聞「出生数は第2次ベビーブームのピークだった1973年(約209万人)以降、減少傾向に入り、16年に100万人を割った。2022年の速報値は79万9728人で初めて80万人を下回り、23年はさらに4万1097人減った。減少は8年連続。
 厚労省の国立社会保障・人口問題研究所は将来推計人口で、76万人を割るのは35年と見込んでいたが、実際は12年早まった形だ。」
   ・   ・   ・   
 大来佐武郎の人口問題審議会。
 人口爆発で歯止めがきかず人口が急増する事に危機感を抱いた日本政府は、適正人口を8,000万人と定めて人口増加を緩やかにして人口抑制策を採り始めた。
 1974(昭和49)年 国を挙げて『産み控え』を推奨。
 1976(昭和51)年 国民は『子供を作らない』ことを選択。
 その為に、メディアと教育は子供は国の宝と子供は愛の結晶という子供神話を壊し、「子供は親の人としての権利を奪う存在である」という新しい認識を広めた。
 重要な課題は、「女性は結婚して子供を産み育てる」という良妻賢母を理想とする家の呪縛からの解放、つまり女性の社会進出を推し進める事であった。
 その為には、日本は男尊女卑の「女性差別社会=ブラック社会」である事を認識させる必要があった。 
   ・   ・   ・   
 第三次ベビーブームは起きなかった。
2018-06-29
🦋6〗─3─誰が団塊ジュニアの第三次ベビーブームを潰し少子高齢化と人口激減をもたらしたのか。~N0.20・ 
2023-02-07
🦋6〗─4─経済大国日本を衰退させたのは「おじさん・シニア文化」であった。~No.21No.22No.23No.24No.25 
2024-03-07
🦋6〗─7─第3次ベビーブームはなぜ起きなかったのか。平成4年国民生活白書「少子社会」~No.24No.25 
   ・   ・   ・   
 マルクス主義者であるエセ保守とリベラル左派は、天皇信奉の日本民族を消滅させる為に暗躍していた。
 彼らの最終目的は、天皇制度の廃絶と天皇家・皇室の断絶であり、日本固有の伝統的神話物語の消滅、つまりは日本を科学万能の反宗教無神論国家に作り替える事であった。

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 メディアは人口を減らす目的で、第3次ベビーブームを起こさないようにする為に独身貴族とパラサイト・シングルを煽り、今だけ・自分だけ・金だけの価値観で若者達を洗脳した。
   ・   ・   ・  
2024-03-08
🦋6〗─8─メディアは若者の新しい生き方としてパラサイト・シングルを美化した。~No.25 
2024-03-09
🦋6〗─9─メディアが称賛した独身貴族の孤独な老後。1977年。~No.26
2024-03-10
🦋6〗─10─核家族孤独死老老介護が発生しやすい原因。~No.27 

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 平成年間。政府・官僚、国会・政治家、メディア、教育・学者、企業・経営者などのエリートやインテリ達は、日本で人口激減が始まり、その結果、将来にどんな深刻な事態が起きるかを知りながら、それを食い止める方策を考えず放置してきた。
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2024-03-13
🚷7〉─11・I─「人口崩落」が止まらない日本。出生数75.8万人過去最少。~No.50
2024-03-14
🚷7〉─11・J─日本人がいよいよ「絶滅危惧種」になる。人口減少は2段階で進む。~No.50 
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 厚生労働省が発表した、2023年の出生数速報値によると75万8631人と前年に比べて5.1%も減少、8年連続でのマイナスとなり、1899年の統計開始以来、最低となった。
 対して、死亡数は159万503人と過去最多となり過去最大の人口減少を記録し、社会機能が軋み始めている。

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 昭和の人口爆発期における8,000万人とは、若者が多く老人が少なかった。
 令和の人口激減期における8,000万人とは、老人が多く若者が少ない。

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 2024年3月27日 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞「孤立と孤独 進む「人間関係の貧困」 薄くなる「つながり」
 元連合会長の古賀伸明氏は毎日新聞政治プレミアに寄稿した。
 孤立や孤独の問題について、「社会の変化や構造的な問題と深く関わっている」と指摘した。
 【写真と図解】「同居の孤独死」538人 認知症で発見遅れ3割
 古賀氏は、「地域の中に、助けてくれる人が周りにいないとか、自分からSOSを出せないなどの悩みがある人が、思いのほか多くいた。当初は他人の話と考える人が多かったが、新型コロナウイルス禍で人とのつながりが失われることを経験して、多くの人が自分のこととして考えはじめた」と言う。
 「高度経済成長に伴い、工業地帯に人口が集中し、地方では過疎、都市部では過密の問題が生じた。大規模な人口移動とともに、地域の人間関係は小さくなった。人々は核家族や会社につながりを見いだすようになった。しかし、1990年代末から家族と安定的な会社に揺らぎが生じ始めた。結婚しない人の数が増え、単身世帯が増加した。また、バブル崩壊を契機とする長期不況により、集団的と言われた企業体質も崩れていく。家族や会社を通じてつながりを自動的に継続することが難しくなってきた」と分析した。

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 エセ保守とリベラル左派の文化マルクス主義者は、メディア業界や教育界での自己満足的「権威」を維持する為に、自分の業績を書き換え自分を乗り越えようとする有能な助手や優秀な学生を学界中央から地方や閑職に追放し、自分よりレベルが低く言いなりになる腰巾着やヒラメのような助手を後継者に指名し、薫陶して育てた従順な学生達を集めて派閥を作って院政を敷いた。
 彼等は絶対的「権威」を振りかざし、自分より優れた人材を認めず育てず、悪意の●○神話を作り広め、日本を衰退し崩壊させるガラパゴス化と蛸壺化へと追い込み、バブル崩壊からの復興や回復を潰した。
 彼等とは、北朝鮮日本人拉致事件を否定し、日本を批判・非難する関東大震災朝鮮人・中国人虐殺事件、従軍慰安婦問題、歴史教育問題、靖国神社問題などを世界に広めた教育界・メディア業界・法曹界(弁護士)で活躍していた権威者である。
 1980年代後半以降の高学歴出身企業家・経営者にも言え、彼等は視野が狭く思考力・発想力・決断力などの総合力が乏しい故に改善的リノベーションに固執して経済発展をもたらす最先端の科学技術を潰し、横並びと前例主義による「出る杭は打たれる」で時代を動かすベンチャー企業や世界を驚かす破壊的イノベーションを徹底的に潰し、将来有望な若者から夢や希望を奪った。
 1980年代頃の日本は、自然に優しい再生可能エネルギーの最先端技術を持ったトップランナーであったが、2000年代に気付けば何時の間にか後進国並みの低レベルに後退していた。
 文化マルクス主義者は、バブル経済期で権威あるカリスマと呼ばれ、2010年頃から勝ち組で逃げ切り組の若者を踏み台にしている「老害」と言われるようになった。
 2020年代から深刻な問題となる、農業衰退と食糧自給率低下、老人が多く若者が少ない人口激減(日本民族消滅の危機)、外国人移民(主に中国人移民)増加、外国資本(中国資本)による国土と企業の爆買い、その他の諸原因は、この時代を動かしていた高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達の反天皇反民族反日的日本人が原因であった。
 彼等が目指したマルクス主義的人材教育とは、金太郎飴的人材を大量生産して世に送り出し、日本民族(純日本人)の古臭い根本的本質的価値観(懐の広い寛容さ)を消滅させ日本人を根無し草状態(無関心・無責任)に追い込む事であった。
 彼等の口癖が、「天皇・皇室はそれほど古い家族・一族ではない」であった。
 彼等は、人権派護憲派・反自衛隊派・反戦平和派、反米派・反安保派、反核派・反原発派、親中派媚中派として日本学術会議など権威ある機構・組織・団体の中枢を占めている。
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 文化マルクス主義者によって、2010年頃のノーベル受賞ラッシュは今後は望めない。
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 文化マルクス主義者とは、国境を低く無力化し、国家を無価値化して乗り越え、民族を無意味化して消し去るボーダーレスを目指す反宗教無神論のグローバリストであった。
 グローバリゼーションを日本に持ち込み、マイナス面を広め、負のグローバル化で神話的な公徳や民族的な家制度を潰した。
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 ビズクロ
 しらけ世代とは?一般的な定義や年齢・特徴・背景について解説
 最終更新日時:2023/06/14
 しらけ世代とは
 しらけ世代とは、団塊世代とバブル世代の間の世代のことを指します。現在日本の多くの組織で中枢を担っている人が多い世代です。本記事では、そんなしらけ世代について、しらけ世代の年齢から特徴まで詳しく解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
 しらけ世代とは?
 しらけ世代とは、団塊の世代とバブル世代の間にある世代のことです。管理職が多い世代でもあるため、上司がしらけ世代に当てはまる場合も多いことでしょう。
 まず、しらけ世代とは何かを理解するために、定義・年齢・由来など、基本的な部分からみていきましょう。
 しらけ世代の年齢
 しらけ世代は、1950年〜1964年生まれで2023年現在59歳〜72歳の定年前後である世代です。団塊世代に次ぐ世代であることから、ポスト団塊世代とも呼ばれています。しらけ世代が過ごした時代は、団塊世代で活発だった学生運動も沈静化を迎えた時期でした。
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 文化マルクス主義者は、2020年代でも日本国内で隠然たる勢力として影響力を持っている。その事実は、天皇家・皇族は税金泥棒という誹謗中傷、そして日本国の衰退、日本民族の激減、食糧自給率の低迷である。
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 平成20(2008)年6月12日 自民党外国人材交流推進議員連盟は、今後50年間で約1,000万人の移民受け入れを目指す提言案をまとめた。
 エセ保守派は、安価な外国人人材(労働者)を求める経済界の強い要請に従い、大量の移民を受け入れるという世界的風潮に乗り遅れない為に、民族国家を移民国家に転換する事を提言し、日本を多民族共生社会・多文化多宗教多言語社会に改造する為に日本民族を少数派におとして日本文化・日本神道・日本天皇を消滅させる事を決断した。
 多数派のエセ保守はリベラル左派同様に「移民国家論」者で、少数派の正統保守・真正保守天皇主義者は「移民反対論」者である。
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 令和5(2023)年6月23日 YAHOO!JAPANニュース 共同通信「中国、米抜き科学貢献度首位 研究論文、日本は5位
 自然科学研究貢献度の国別順位
 【北京共同】英科学誌ネイチャーの出版元シュプリンガー・ネイチャーは23日までに、世界の有力科学誌が2022年に掲載した論文に対する国別貢献度を分析した結果、中国が初めて米国を抜きトップになったと発表した。日本は21年と同じ5位だった。中国は国を挙げて技術向上を進めている。
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 6月27日 MicrosoftStartニュース SmartFLASH「国際競争力、日本は35位で過去最低「異次元の凋落」「悲しいけどこれが現実」SNSにあふれる無念の声
 © SmartFLASH
 スイスの「国際経営開発研究所(IMD)」が発表した2023年版「世界競争力ランキング」で、日本は前年より順位を1つ下げ、世界35位だった。順位は2年連続で低下し、過去最低を更新した。6月26日、共同通信が報じた。
 IMDは世界の主要な64カ国・地域を対象に、「経済実績」「政府の効率性」「ビジネスの効率性」「インフラ」の4項目で、競争力を評価している。日本は「ビジネスの効率性」を除く3項目が前年より順位を落とした。
 アジアでは世界4位のシンガポールが最高。6位の台湾、7位の香港とともに世界のトップ10に入った。中国は21位、マレーシアが27位、韓国が28位、タイが30位、インドネシアが34位となっており、日本を上回った。
 日本はランキングの発表が始まった1989年から4年間は、競争力が世界首位だった。しかし、今回はアジア太平洋地域で14カ国中11位となり、凋落ぶりが顕著になっている。
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 6月27日 MicrosoftStartニュース 日刊SPA!「「日本を飛び出して本当によかった」年収360万円だった43歳男性、アメリカに渡り年収2000万円に
 バブル経済が崩壊した1990年代以降、日本人の平均年収は「400万円台」から30年間ほぼ変わっていない。しかし、自身の“市場価値”を把握し、世界を相手に適正年収で働く日本人も存在する。果たして、我々日本人の値段とは――。
 ……
 取材・文/週刊SPA!編集部
 ※6月27日発売の週刊SPA!特集「日本人の値段」より
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 6月27日 MicrosoftStartニュース zakzak「ニュース裏表 田中秀臣 日本経済の大敵 不況を放置する「緊縮主義」のゾンビ理論 学者たちの関心は自分たちのムラ社会の話題だけ
 経済財政諮問会議の様子
 © zakzak 提供
 日本経済の大敵は緊縮主義である。緊縮主義は、景気が悪い時や、あるいは十分に経済が回復していない段階で、増税社会保障の負担などを増やす政策を行うことだ。当たり前だが、そうなると不況を深めてしまう。失業や倒産が再び増加することは明白だ。
 経済が失速すれば税収が悪化する。そうなると緊縮主義者は、「財政再建が必要だ」とまた不況の中で増税しようとするだろう。不況と増税の悪循環がいつまでも続くことになる。緊縮政策にはいいところは一切ない。
 だが緊縮主義は、日本の経済学者やエコノミストたちには大人気である。日本には少なくとも1万人以上の経済の専門家たちがいる。だが、率直にいって、日本の経済学者たちの大半は、テレビのワイドショーなどを見て「岸田さんはダメだねえ」と愚痴を言っているレベルである。彼らの念頭には日本経済や国民の生活のことはない。
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 6月28日 YAHOO!JAPANニュース 幻冬舎ゴールドオンライン「韓国を下回る「日本人の平均年収」…アジアで「一番年収の高い国」からも陥落、日本の没落はいつまで続くのか?
 一時期、賃上げ、賃上げとニュースを賑わせていましたが、聞こえてくるのは「なかなか給与が上がらない」の声。「日本のどこで給与が上がっているんだか」と、会社員のボヤキが止まりません。世界でみたとき、ここまで給与が上がらない国も珍しいようです。みていきましょう。
 【ランキング】世界主要国「平均年収」…世界の中の日本の順位
 主要国「平均年収」ランキング…日本は38ヵ国中21位
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 6月28日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「英語論文や国際共同研究で劣勢、日本の大学「世界ランク」苦戦続く…知名度向上へ動画配信も
 各国の大学を教育や研究の指標で順位付けする世界大学ランキングで、日本の苦戦が続く。政府は2013年に「今後10年でトップ100に10校以上」との目標を定めたが、主な指標である英教育誌の23年版ランキングで100位以内は東京大(39位)、京都大(68位)の2校だけ。教育のランク付けには疑問の声もあるが、学生の留学先選びや海外の大学との交流連携で参考にされており、巻き返しを図る動きもある。(新井清美)
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 6月29日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「仲間を平気で裏切り、国民を見下す…「木っ端集団」が乱立する立憲民主党の「正体」《共産党選挙協力して自爆》《ついに連合も分裂危機》
 選挙で自民党をコテンパンにしたのも今は昔。この国の最大野党は、空理空論を弄し、足の引っ張り合いに明け暮れるばかり。独りよがりの正義に酔うだけの政治家を、国民は「大人」とはみなさない。
 前編記事『国民に見放された弱小政党・立憲民主党のヤバすぎる末路《選挙で党名を名乗らぬことを幹事長が推奨》《参院選で大敗しても誰も責任を取らない》』より続く。
 欠けている党の道徳規範
 まず、多くの議員や党職員、民主党OBらがそろって口にするのが「立憲の政治家は、義理と人情を知らない」という愚痴である。仲間であっても平気で裏切り、陥れようとして憚らない。
 ……
 ある議員は「そうした体質が党の根幹を蝕んでいることが国民にも周知されたのが、'21年7月、党内の『性犯罪刑法改正ワーキングチーム』で不適切発言をしたとして、衆院議員の本多平直が離党・議員辞職に追い込まれた一件だ」と語る。
 「この会合では(衆院議員で元総理大臣補佐官の)寺田学さんを座長として、刑法が定める『性交同意年齢』引き上げの是非を議論していました。そこで本多さんは、『刑罰の範囲を拡げることには常に慎重であるべきだ』という文脈で『極端な話、50代の自分と14歳の女子の恋愛は罰せられるのか』とたとえ話をした。
 © 現代ビジネス
 その場では引き上げ慎重派の本多さんが積極派の寺田さんらを論破する形になったが、寺田さんは悔しかったのか、その後の本多さんとの二人きりの会話の内容をもとにして、『本多議員は小児性犯罪を許容する価値観の持ち主だ』とする報告書をまとめたのです」
 本多は大炎上して党を追われたが、その後「発言を寺田に捏造された」と反論。枝野ら一部の幹部が正規の党内手続きを経ずに処分を下そうとしたことに対しても、別の議員や支持者から「ガバナンスがおかしい」と批判が集まり、やがて党全体に延焼していった。
 ……
 「木っ端集団」の乱立
 先の議員が続ける。
 ……
 国民を見下す政治家たち
 党勢が衰えてゆく中、立憲は政党としての命綱である「有権者との意思疎通」をも軽んじるようになってしまった。以前は旧民主党系の野党に期待していたという、哲学者の東浩紀氏が指摘する。
 ……
 「週刊現代」2023年6月24日号より
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 6月30日 MicrosoftStartニュース 東スポWEB「大前研一文科省はおおきながん」 日本の教育方針に懸念
 大前研一
 © 東スポWEB
 経営コンサルタントで起業家の大前研一氏(80)が29日、上場企業である株式会社ビジネスブレイクスルーの会長を退くにあたり記者会見を開催した。
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 政権与党の自民党がエセ保守の巣窟なら、共産党・旧社会党以外の野党の弱小政党はリベラル左派の根城である。
 霞ヶ関の諸官庁中枢の中のキャリア官僚にも、エセ保守とリベラル左派が含まれている。

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 エセ保守とリベラル左派は、現在の正統皇室を廃絶しようとしている。
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2024-03-11
💍45)─1─女性母系天皇擁立の目的は男系父系皇統の断絶である。〜No.156 
2024-03-15
💍45)─2─日本国民の75%が女系女性天皇即位に賛成している。〜No.157 

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 昔の人はなぜ寿命が短いのか?
 2022年2月10日 中央公論jp編集部「ヒトの最大寿命は115歳!? 私たち人間の「死ぬ理由」について新書大賞2位『生物はなぜ死ぬのか』著者が解き明かす
老化の始まりは徐々に“遅く”なっている
 小林武彦
 2500年前まではヒトの寿命は15歳だった
 まず、日本人の寿命の変遷を見てみましょう。
 大昔は戸籍のようなデータはないので骨や歯などからの推定ですが、旧石器〜縄文時代(2500年前以前)には、日本人の平均寿命は13〜15歳だったと考えられています。この時代は狩猟が主で、ヒトは小さな集団で暮らしていました。
 旧石器時代はマンモスなど大型の哺乳類を狩っていましたが、氷河期以降は、海産物や木の実、シカ、イノシシといった動物などを食べていました。この時代のヒトの平均寿命が他の霊長類(サル)よりも短いのは驚きです。
 環境に左右され生活が安定していなかったこと、狩猟での事故死、そして何より病気や栄養不足による乳幼児の死亡率が非常に高かったために、平均の寿命は短くなります。アクシデント的な死に方がメインでした。人口も10万〜30万人と変動が大きかったようです。
 つまり20万年ほど前にアフリカで誕生し、その後新天地を求めて世界中に広がっていった"裸のサル"であるヒトは、まだ悩める存在だったのです。
 もちろん全員が13〜15歳で死ぬわけではなく、幼少期を生き延びられたヒトは出産・子育てをして30代、40代までは生きました。
 現在よりも多産で多死のこの状態が、結果的に多様性を生み出し、のちの人類の大躍進につながった可能性もあります。ちなみに身長は、現在より10センチメートルほど小柄だったようです。
 弥生時代に入ると、日本人は稲作を始めました。これは大陸から来た技術です。稲作で収穫量を上げるには人々が協力する必要があるため、生活集団が大きくなって組織化された村(ムラ)が誕生し、指導者的な人物も現れました。
 食生活は狩猟中心の生活から定住型となり、安定はしてきましたが、やはり技術が低いため天候に収穫量が左右されることも多くあったと思われます。
 乳幼児の死亡率も多少は改善されてきました。平均寿命は20歳、人口は急激に増加して60万人とも推定されています。それから寿命はしばらく横ばいで、奈良時代以降は少しずつ延びていきました。

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 日本人の平均寿命
 『寿命図鑑 生き物から宇宙まで万物の寿命をあつめた図鑑』
 やまぐちかおり (イラスト) いろは出版 (編著)より引用
 縄文時代 15 歳
 弥生時代 18 歳から 28 歳
 古墳時代 25 歳未満
 飛鳥・奈良時代 20 歳未満
 平安時代 30 歳から 40 歳
 鎌倉時代 24 歳
 室町時代 16 歳
 安土桃山時代 34、35 歳
 江戸時代 31.7 歳
 明治時代 44 歳(明治 24~31 年の平均)
 大正時代 43 歳(大正 10~14 年の平均)
 昭和時代 ※31 歳
 平成時代 83 歳
 ※昭和時代は、戦時中、31 歳まで下がったといわれて
 います。戦後、平均寿命は延び、昭和 22 年に 50 代、昭和 46 年に 70 代を超えるようになりました。

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 日本民族の和食とは、コメ魚介食文化で、菜食・雑食である。草食動物。
 欧米人の洋食とは、パン酪農食文化で、肉食である。捕食動物。
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2018-01-04
🐟3〗─1─日本は、アメリカの「食の植民地」であるがゆえに日米同盟下での対米従属から脱する事はできない。~No.5No.6No.7・ @ 
日本農業不要論
2018-02-06
🐟13〗─1─賢い消費者と日本経済界の日本農業不要論。~No.53No.54No.55・ @
   ・   ・   ・   
食糧
2018-05-22
🍙33〗─1・A─食糧植民地化の小麦戦略。肉・パン食への大改造計画。ロックフェラー財団の報告書。日本人の本性はえげつないほどに醜い。昭和22年~昭和30年~No.208・ @ 
2023-10-29
🍙33〗─1・B─アメリカの対日食糧支配として日本の農業や酪農を潰した。~No.209No.210 
2018-05-02
🍙33〗─2─日本の自由・民主化改革や平和憲法制定はルーズベルトの遺志であった。日本難民救済会とララ物資。~No.211・ @ 
2021-08-16
🍙33〗─3─給食が作った日本のパン文化…アメリカの小麦が食生活を変えた。昭和25年。~No.212 
2021-10-17
🍙33〗─4・A─「和食にもたっぷり」日本人がいつの間にかアメリカに押しつけられた"デブ穀物"の正体。~No.213 
2022-12-26
🍙33〗─4・B─「米を食うとバカになる」という左派系洗脳の悪巧みの意図は「民族神話殺し」であった。~No.213 
 
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 米穀機構米ネット
 公益社団法人米穀安定供給確保支援機構
 2-2 米の生産量が増えて日本の人口も増えた
 弥生時代の人口は日本全体で約60万人、この数字は縄文時代の最大人口27万人の約3倍弱です。
 古墳時代には、日本全体の人口が約540万と、弥生時代の9倍にも達します。
数も大幅に増加したのです。ちなみに、奈良時代(8世紀中頃)の人口は600~700万人で、
 奈良時代(8世紀中頃)の人口は600~700万人で、当時の米の生産量は707万石といわれていますから、1人あたり1年間に1石、約150キログラムの米を消費していたことになります。
 水田稲作における耕地拡大や収量の増加は、中世・近世を通じて伸び、江戸時代の人口資料をみると、なんと人口は縄文時代のそれと比較して、約100倍にも達しているのです。縄文時代からの稲作を中心とする歴史をひもといてみると、米を主とする食料生産が、いかに多くの人々を扶養するかを左右する重要なポイントであったかがわかります。
   ・   ・   ・   
 日本の人口。
 縄文早期は約2万人。
 縄文中期は約26万1千人。
 縄文後期は約16万人。
 縄文晩期は約7万6千人。
 *日本列島には、多種多様な人種・民族、文化・宗教・言語の人々が流れ着いていた。
 奈良時代は約550万人(公地公民で農地が急増)
 平安時代は約644万人
 鎌倉時代は757万人
 室町時代は約818万人
 戦国から江戸時代(1600年代)は約1,227万人(農地を増やして年貢米取り立てた)
 明治元(1868年)年の3,455万人。
 昭和20年(1945年)の7,281万人。
   ・   ・   ・   
 未来の日本の総人口予測。
 2010年:1億2,806万人。
 2030年:1億1,662万人。
 2048年:  9,913万人。
 2060年:  8,674万人。
 2110年:  4,286万人。

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 日本の家制度とは。
   ・   ・   ・  
 人は、二人の両親から産まれてくる。
 日本民族の祖先な数は?
 日本人の命が尊いわけ。 
   ・   ・   ・   
 祖先神・氏神の人神信仰とは、純血の血縁ではなく、混血の地縁である。
 一人の日本人には、二人の両親がいた。二人の親には、四人の祖父母がいた。四人の祖父母には、八人の曾父母がいた。
 14世代前では、8,192人。
 23世代前には、419万4,304人。
 25世代前では、1,677万人。
 27世代前では、1億3,422万人。
 だいたい約700年前の鎌倉時代で、当時の日本の総人口は700万人から1,000万人。 
 30世代前には、5億3,687万912人。
 40世代前には、5,497億5,581万3,888人。
 50世代前には、562兆9,499億5,342万1,312人。
 100世代前の、祖先の人数は?
 指数関数的な増加。
   ・   ・   ・   
 祖先のうち一人でも欠ければ、今の命は存在しない。
 今の命が断たれれば、この後の命は存在しない。
 それが、命の重みである。
 そして、日本の家である。
 昔の日本人は、「命の継続性」という家の枠で、自分と家族の幸せの為に命を守りながら努力して生きていた。
 ゆえに、「命の絆」が断ち切られる「死」を穢れとして恐れた。
 この世は、生きるに値する。
 命は、等しく尊い

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 3万5000年から3万年前以後 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)=旧石器人(ヤポネシア人)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 縄文時代 1万2000年~2000年前。縄文人(日本土人)。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
 この時点では、まだ日本民族(和人)・琉球民族アイヌ民族は生まれていない。
 何れにせよ、日本民族は数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた先住民・日本土人であった。
   ・   ・   ・   
 帰化人と渡来人は違う。
 現代で言われる日本人とは、日本列島に住む全ての人間の事で日本民族の事ではない。
 帰化人は日本民族の一員とされたが、渡来人は日本人と呼ばれても日本民族から排除された。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は昔の日本民族とは同一とは限らない。

  ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 日本民族文化における自然観とは、縄文時代以来、自然と人間が対立しない、自然との繋がりを大切に文化である。
 それを体現しているのが、自然物をご神体とする神社である。
   ・   ・   ・   
 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、旧石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。

 日本土人である縄文人(日本土人)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
   ・   ・   ・   
 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の旧石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
   ・   ・   ・   
 旧石器人(ヤポネシア人)は、南方系海の民であった。
 縄文人(日本土人)は、森の民であった。
   ・   ・   ・ 
 日本民族琉球民族アイヌ民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、旧石器人(南方東南アジア系ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(南方揚子江系渡来人)、古墳人(北方満州帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。

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 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
   ・   ・   ・   
 日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇の神性である。
 つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
 近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
 当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
 日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那岐命イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
 八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた超エリート層の高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にリベラル左派のマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
 現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズムジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
   ・   ・   ・   
 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。

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 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話・神話物語、2,人類の文明発展・進化・進歩の物語、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・野伏せり・悪党、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海人、海女})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・   
 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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💍45)─2─日本国民の75%が女系女性天皇即位に賛成している。〜No.157 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 マルクス主義者であるエセ保守とリベラル左派が目指す天皇とは、反宗教無神論に基づいた非民族神話、非崇拝宗教、非自然保護、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇で、憲法・法律の規定と国民の人気で即位する天皇は神話の神々が認めない天皇で、国家と国民の為に祈る祭祀王としての神力を持っていない。
 民族的な伝統・文化・歴史・宗教・言語・習慣・風習・その他あらゆる土着的要素を全て持っていない天皇、根無し草的天皇、つまりは天皇という称号を持った取り替え自由な人民的大統領にすぎない。
 国民の多数派は、そうした天皇を望んでいる。
   ・   ・   ・   
 2024年3月14日 YAHOO!JAPANニュース 弁護士ドットコムニュース
愛子さま天皇に」「波風立てずに見守れ」皇位継承議論、弁護士たちの声 「女性天皇」賛成が75%、「いま結論を」57%
 愛子さまが4月より日本赤十字社の嘱託職員として勤務することが内定し、公務でお姿を拝見する機会も増えることになりそうです。しかし現在、皇位継承順位は1位が秋篠宮さま、2位が悠仁さま、3位が常陸宮さまとなり、若い世代での男性皇族は悠仁さましかいません。皇位継承の安定性には不安が残されています。
 【画像】悲しげな表情を浮かべる眞子さん
 2021年12月には、皇位の安定的継承に関する有識者会議が報告書をまとめ、皇族数を確保するため(1)女性皇族(内親王・女王)が婚姻後も皇族の身分を保持する、(2)皇族として認められていない養子縁組を可能にし、旧11宮家の男系男子を皇族とする、の2案を提示しました。
 安定的に皇室制度を維持していくために、皇位継承のあり方、議論はどうあるべきなのでしょうか。弁護士ドットコムでは、会員弁護士にアンケートを実施し、258人から回答が寄せられました(実施期間:2月14日~2月20日)。
 女性天皇については「賛成」が53.1%、「どちらかといえば賛成」が21.7%。続いて「どちらともいえない」が12.4%。「どちらかといえば反対」(6.6%)「反対」(6.2%)となりました。
 一方で、「男系男子による継承」ではなくなる「女系天皇」については「賛成」が43%、「どちらかといえば賛成」が16.3%となる一方で、「反対」とした人は15.9%にのぼります。
 「皇室のあり方をめぐる議論のタイミングについて、どう考えますか?」との質問については「もはや手遅れ」(20.2%)、「いま結論を出すべき」(56.6%)となり、「悠仁さまが即位するまで先送りすべき」の11.6%を大きく離しました。
 以下、詳しくみていきます。
天皇制に「賛成」「どちらかといえば賛成」が60.8%
 「そもそも現行憲法下での天皇制に賛成ですか、反対ですか」と質問したところ、「賛成」が36.0%、「どちらかといえば賛成」が24.8%で、60.8%が賛成であることがわかりました。
 「どちらともいえない」は20.5%。「どちらかといえば反対」(9.3%)「反対」(9.3%)で、18.6%が反対の立場でした。
 なぜ天皇制度に賛成・反対なのか。次のような声があがりました。
 「象徴として、国民に親しまれている。外交上も重要な役目を担っている」(賛成)
 「天皇の存在は憲法が制定される前よりも我が国に定着したものであり、天皇制云々を憲法の下で論ずるべきではない。天皇の存在を前提とした憲法づくりをすべき」(賛成)
 「日本の文化であり、歴史であって、世界に誇るべき存在であるから」(賛成)
 「皇室の方々のニュースを見るのが楽しいから」(賛成)
 「法の下の平等に関する例外として意味があるのかは不明だが、諸外国の要人を国賓としてもてなすことに一定の外交メリットはあると思われる」(どちらともいえない)
 「あまり考えたことはない」(どちらともいえない)
 「皇族に自由がなくて気の毒」(どちらともいえない)
 「第二次世界大戦天皇が果たした役割につき、責任を取っていない。また、皇室の維持に費用が掛かりすぎる」(どちらかといえば反対)
 「法の下の平等、個人の尊厳の理念に反する。天皇崇拝の非合理的な思想や行動をはびこらせる」(反対)
 「天皇制は直ちに廃止すべき。その起源からして嘘で塗り固めた天皇制は民主主義制とは相容れない」(反対)
 「日本国憲法が依拠する近代人権思想の理念に反する。天皇制こそ民営化すべき」(反対)
女性天皇に「賛成」「どちらかといえば賛成」が74.8%
 女性天皇については「賛成」が53.1%、「どちらかといえば賛成」が21.7%。「どちらともいえない」が12.4%。「どちらかといえば反対」が6.6%、「反対」が6.2%でした。
 理由としては、次のような声が並びました。
 「ジェンダーで分けることは現代社会の倫理からかけ離れている。天皇が象徴ならなおのこと恥ずかしい」(賛成)
 「歴史上、女性天皇もいた」(賛成)
 「憲法上禁止されていないし、男性・男系に限る合理的理由もない」(賛成)
 「別に男性でも女性でも資質に差はないし、年長の者がいるのに、男子だからといって幼少の者に天皇を継がせることに合理性がない」(賛成)
 「世界の趨勢。男系などと力んでも神話の時代からの話のこじつけ」(賛成)
 「なぜダメなのか皆目わからない。当然良い。性別でわける意味は全く見出せず、むしろ不自然不可解」(賛成)
 「象徴としての機能や各種行事を遂行できれば足りる。健康かつ一定の品位を備えていれば男女間に特段の優劣はなく、女性であっても問題が生じるとは思われないから」(賛成)
 「やむを得ない」(どちらかといえば賛成)
 「男性天皇以上に結婚相手探しに苦労することが目に見えているので、安定的な皇位継承にさほど有益ではないし、ご本人も気の毒だから。眞子様の結婚であれだけ世間から色々いわれて可哀想だったのに、女性天皇となるとあれ以上に色々言われるのは間違いない」(どちらかといえば反対)
 「皇位継承の継続性に繋がらない」(どちらかといえば反対)
 「男系男子の次期天皇への中継ぎとしてなら認めてもよいと思うが、それ以外は反対」(どちらかといえば反対)
 「血統が途切れるから」(反対)
女系天皇に「反対」は15.9%、「女性天皇反対」の2倍以上に
 女系天皇については「賛成」が43.0%、「どちらかといえば賛成」が16.3%。「どちらともいえない」が17.4%。「どちらかといえば反対」が7.4%、「反対」が15.9%でした。反対の声は女性天皇に反対とする人(6.2%)の数を倍以上上回りました。
 理由は様々です。
 「男系、女系を理解している国民はほとんどいない」(賛成)
 「男女平等の要請から女系天皇を排除する合理的根拠もないように思うから」(賛成)
 「憲法上禁止されていないし、男性・男系に限る合理的理由もない」(賛成)
 「男系でも女系でも遺伝子的には変わらない。不合理な制度である」(賛成)
 「逆に、女系天皇を反対する理由がないのでは」(賛成)
 「天皇という存在に血筋を厳格にする必要はない」(どちらかといえば賛成)
 「何をもって女系天皇と定義するかについての知見を持ち合わせていないから」(どちらともいえない)
 「1代限りの女系天皇では意味がないし、恒久的な女系承継を想定するには議論が不足している」(どちらかといえば反対)
 「万世一系の血筋は守るべき」(反対)
 「我が国の血統として家制度と男児血統が伝統的に認められ、女系は傍流の認識であるから」(反対)
 「天皇制は廃止すべきであり、天皇制の存続につながる制度改革には反対」(反対)
 「今まで男系だったから」(反対)
 「神武以来というつもりはないが、ある程度長期間にわたって男系の系譜を維持していたのであるから、一時代の価値観で変更するべきではない」(反対)
女性宮家の設立、「賛成」「どちらかといえば賛成」が過半数
 女性宮家の設立については「賛成」が34.1%、「どちらかといえば賛成」が16.7%。「どちらともいえない」が26.7%。「どちらかといえば反対」が10.5%、「反対」が12%でした。
 その理由について、次のような声が並びました。
 「男女平等の原則から女性宮家を排除する合理的根拠もないと思うから」(賛成)
 「反対する理由がないし、女系天皇制度であれば、女性宮家は自然な流れなのではないか。ただし男性・女性関係なく宮家が増えすぎないようにする方策は必要」(賛成)
 「皇族の絶対数が増えなければ、安定的な皇位継承などできるはずがないから」(賛成)
 「皇室外交の必要性」(どちらかといえば賛成)
 「皇統男子と婚姻した場合のみ女性宮家賛成」(どちらともいえない)
 「天皇制の継続には必要だが、対象となる個人の負担は重いと思うから」(どちらともいえない)
 「皇位継承権を持たない以上、必要性に乏しい。旧皇族の方々を養子あるいは婿に迎えるなら別」(どちらかといえば反対)
 「歴史上女性宮家はほとんど存在していないから」(どちらかといえば反対)
 「皇族の公務の担い手が少ないという理由であれば、公務を減らせばよい」(反対)
 「そこまでして天皇制を維持する理由がない」(反対)
 「配偶者問題で皇室の権威が損なわれる」(反対)
 「皇室の維持に費用が掛かりすぎるので、これ以上宮家を設けるべきでない」(反対)
●「女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持する」案、賛成が26.4%
 「女性皇族(内親王・女王)が婚姻後も皇族の身分を保持する」との案については「賛成」が26.4%、「どちらかといえば賛成」が17.8%。「どちらともいえない」が27.9%。「どちらかといえば反対」が11.2%、「反対」が16.7%でした。
 理由について質問しました。
 「女性天皇を認めるのであれば認めざるを得ないから」(賛成)
 「女性のみ皇室を出ることに違和感があるから」(賛成)
 「男女分けない結果の必然」(賛成)
 「女性のみ婚姻によって身分が大きく変わる合理的理由がないから」(どちらかといえば賛成)
 「婚姻後も皇族から自由意思で離脱できるようにするのであれば良いと思います」(どちらともいえない)
 「本人に選択肢が与えられるようにする方が良いと思う」(どちらともいえない)
 「当該女性皇族に皇位継承権を認めないのであれば賛成」(どちらともいえない)
 「皇位継承権を持たない子供が生まれることになり、不安定な地位におくことになる」(どちらかといえば反対)
 「皇室の血を持たない皇配に一定の権威を認めうる可能性があるから」(どちらかといえば反対)
●「旧宮家の男系男子を皇族に」→「どちらかといえば反対」「反対」が43%
 「皇族として認められていない養子縁組を可能にし、旧11宮家の男系男子を皇族とする」との案については「賛成」が14.3%、「どちらかといえば賛成」が17.1%。「どちらともいえない」が25.6%。「どちらかといえば反対」(14.3%)「反対」(28.7%)でした。
 その理由を詳しくみていきます。
 「最も現実的な皇室を維持する方法」(賛成)
 「男系男子を軸とする皇位の安定的継承に資するから。旧11宮家の廃止がGHQによる占領下での特殊な経緯によるものであることも考慮すべき」(賛成)
 「実現可能であればよいが、当事者の意向を無視した議論が多すぎる」(賛成)
 「男系を維持するためには必要だと思う」(どちらかといえば賛成)
 「状況としてやむを得ない場合にはそれも選択肢。それでも、養子選定には血統の重みを最優先の判断基準にすべき」(どちらかといえば賛成)
 「旧宮家の男系男子を皇族にして、男系男子の維持することが重要と考えるから」(どちらかといえば賛成)
 「どうしようもない場合に皇室廃止となるよりはマシ」(どちらかといえば賛成)
 「過去にはあったかもしれないが、養子縁組までくると天皇制そのものを一度リセットしたほうがよい」(どちらともいえない)
 「議論の内容を知らない」(どちらともいえない)
 「養子縁組を可能とする制度には賛成だが、皇族を男系男子に限定することへの合理的理由がない」(どちらかといえば反対)
 「そこまでしてやる必要がない」(どちらかといえば反対)
 「愛子内親王の配偶者としてとかならともかく、いきなり養子で天皇と言われても象徴としての機能は果たせないのでは」(どちらかといえば反対)
 「旧宮家も既に皇籍離れて久しく、皇別摂家と区別する理由が乏しい。悠仁さまの次代と考えると、皇籍離脱から平気で1世紀経つことになる。むしろ男系にこだわるならば、旧宮家よりもよっぽど一部の皇別摂家の方が近い」(反対)
 「遺伝学的な経緯から女系天皇を排除するなら、男系旧宮家の方が血が薄いと思う」(反対)
 「旧宮家は遠すぎる。国民意識に合致しない。国民意識に合致する女性天皇を認めればよいだけ」(反対)
 「女性天皇女系天皇で十分と思われる。旧宮家の方は既に一般人として長く生活しており、今さら皇室に戻してどうにかなると思われない」(反対)
●議論のタイミング「いま結論を出すべき」が56.6%
 「皇室のあり方をめぐる議論のタイミングについて、どう考えますか?」との質問については「もはや手遅れ」(20.2%)、となり、「悠仁さまが即位するまで先送りすべき」の11.6%を大きく離しました。
 また「そのほか」の意見としては、「引き続き議論を続ければよい」「手遅れだが、それでも結論を直ちに出すべき」と議論を続けるべきだとする声も目立ちました。
●「早急に法改正を」「波風立てずに見守るのがよい」など様々な声
 最後に「現在の皇室について考えることをできる限り具体的にお答えください」と質問したところ、次のような声が並びました。
 「イギリス王室のような広報活動をすべきと考える」
 「愛子さま天皇となれるように早急に法改正を行うべき」
 「国民としては波風立てずに見守るのがよいと思っている」
 「できるだけ現状を変えないまま制度を維持して欲しい」
 「皇族が減る前に減ることを想定した議論をしておく必要があるとは思う」
 「なぜ、ここまで皇位継承の結論を先送りにして、問題解決を先延ばしにしたのか」
 「その立場からいろいろな義務や制約があると思う。それでも国民を想い国民の精神的支柱となる活動をされていることには感謝です」
 「現天皇家の長女愛子様に次の天皇になってほしいという意見はかなり強いのではないか。長子優先女性も可とする制度に変更されることを期待」
 「学生時代に皇室について論文を書いた私としては、その時から皇位継承の議論が進展していないことに強い危機感を覚えます。左派には基礎的理解のレベルを上げていただきたいですし、右派には理想論だけではなく現実的に実現可能な形を模索するようにしていただきたいです」
 「承継者を嫡子のみを想定した皇室制度は配偶者の精神的負担が大き過ぎる(これは女系天皇を認めても同様である)。現状を前提とした弥縫策だけでなく側室制度の復活など大胆な見直しも検討すべき。諸外国に目を向ければ、イスラム諸国のように、当然のように側室を維持している国は多数あるのであって、キリスト教国でないのにいきなり側室制度を廃止した我が国がむしろ異例であり、復活を議論することは本来何らおかしくない」
 「天皇制は維持すべきだと思いますが、女系天皇の容認を含め、少しずつ時代に合わせた変化は受け入れても良いと思いますし、活動の範囲や内容についてはもっと皇室や天皇家に裁量を与え、宮内庁を通さずとも皇室の生の声が聞こえるような「開かれた皇室」を目指しても良いのではないかと思います」
 弁護士ドットコムニュース編集部
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 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
   ・   ・   ・   
 日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇の神性である。
 つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
 近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
 当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
 日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那岐命イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
 八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた超エリート層の高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にリベラル左派のマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
 現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズムジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
   ・   ・   ・   
 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
   ・   ・   ・    
 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話・神話物語、2,人類の文明発展・進化・進歩の物語、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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 神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
 つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
   ・   ・   ・   
 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・野伏せり・悪党、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海人、海女})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・   
 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
   ・   ・   ・   
 少数の高学歴出身の裕福資産家・AI強者 vs. 多数の低学歴出身の貧困労働者・AI弱者。
   ・   ・   ・