🕯129)─1─日本人の心を癒やし豊かにする和風ヒールとしてのダークファンタジーの系譜。~No.276No.277 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本のアニメ・漫画が、中国や韓国根本的に違う所。
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 日本の宗教観では、人に害や禍をもたらす死神、疫病神、貧乏神であっても神は神として畏れ敬い、そして愛していた。
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 日本には、絶対善としての唯一無二の神がいないのと同時に絶対悪としての悪魔・魔物も存在しない。
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 日本民族を正気にし、日本社会を正常に保つ、死臭をまとった穢れた邪悪な百鬼夜行
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 日本民族は、生きる上で死・暗・邪・醜を懼れながらも愛おしく受け入れて来たが故に生命・明・正・美を実感として認識してきた。
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 2024年2月15日 YAHOO!JAPANニュース 電ファミニコゲーマー「『異能力者の日本美術ーダークファンタジーの系譜ー』が2月22日に発売。妖術使いや魔獣を操る武士など「異能力者」の原型ともいえる人物にフォーカスして解説した書籍
 江戸時代の怪異譚や伝奇小説に登場する「異能力者」からアニメや漫画の流行に隠された背景を解説する。フルカラーのスタイリッシュな印刷も魅力
 パイ インターナショナルは2月22日(木)、書籍 『異能力者の日本美術ーダークファンタジーの系譜ー』を発売する。
 『異能力者の日本美術ーダークファンタジーの系譜ー』画像・動画ギャラリー
 本書は、江戸東京博物館学芸員であり日本美術史を専門にしている春木晶子氏によるもの。ダークファンタジー作品の多くに登場する「異能力者」に焦点を当てている。
 妖術使いや魔獣を操る武士といった異能力者の原型ともいえる人物を描いた江戸時代の怪異譚や伝奇小説などを紹介し、現代のアニメや漫画の流行に隠された背景を解説しているとのことだ。
 大胆に配された作品と文字、カラーが鮮烈な印象を与える表紙や、フルカラーで作品を大きく印刷したページなど、スタイリッシュなビジュアルも魅力。日英バイリンガルでの記載となっているところもポイントだ。
 目次は以下のとおり。
第一章 異能力者の系譜
 羅漢、仙人、妖術士、日本神話の神々たち― 異能力者たちの競演 / 饗宴
第二章 驚異の人体
 変幻自在、規格外の運動― 人と人ならざるものの間(はざま)
第三章 自然の猛威
 火、水、風、雷、光― 天災的な破壊力
第四章 獣たちの協奏
 猛獣、幻獣、神獣、妖獣― 恐ろしくも心強い相棒たち
第五章 異能力 百花繚乱
 飛行、分身、呪詛、魅惑― 欲望の体現者たち
第六章 幻想の戦闘
 鬼退治、龍退治、妖術対決、大乱戦― 生命と想像力のほとばしり
 価格は税込2640円。通販でも購入可能だ。
■鬼退治・呪術使い・忍者……和風ダークヒーローの起源を日本美術史の観点から解説 『異能力者の日本美術ーダークファンタジーの系譜ー』2月22日発売
 株式会社パイ インターナショナル(豊島区) は2024年2月22日(木)に書籍 『異能力者の日本美術ーダークファンタジーの系譜ー』 を刊行いたします。
 昨今大ヒットしている「ダークファンタジー」と呼ばれる漫画やアニメの多くでは、登場人物たちが特殊な能力=「異能力」を駆使し、運命を切り拓いていきます。日本美術の中でも、妖術使いや魔獣を操る武士など、異能力者の原型とも言える人物が度々描かれてきました。本書では、主に江戸時代の怪異譚や伝奇小説に登場する「異能力者」に焦点を当て、現代のアニメや漫画の流行に隠された背景を解説します。
 日英バイリンガル
 著者:春木晶子
 1986年北海道生まれ。北海道博物館勤務後、2017年より江戸東京博物館学芸員。日本美術史専門。 
 『異能力者の日本美術ーダークファンタジーの系譜ー』
・コンテンツ
第一章 異能力者の系譜
 羅漢、仙人、妖術士、日本神話の神々たち― 異能力者たちの競演 / 饗宴
第二章 驚異の人体
 変幻自在、規格外の運動― 人と人ならざるものの間(はざま)
第三章 自然の猛威
 火、水、風、雷、光― 天災的な破壊力
第四章 獣たちの協奏
 猛獣、幻獣、神獣、妖獣― 恐ろしくも心強い相棒たち
第五章 異能力 百花繚乱
 飛行、分身、呪詛、魅惑― 欲望の体現者たち
第六章 幻想の戦闘
 鬼退治、龍退治、妖術対決、大乱戦― 生命と想像力のほとばしり
・イメージ
・書籍概要
 書名:『異能力者の日本美術ーダークファンタジーの系譜ー

 仕様:B5判(257×182mm)/ソフトカバー/208Pages(Full Color)
 定価:本体2,400円+税
 ISBN:978-4-7562-5789-5 C0071
 発売日:2024年2月22日
 著者:春木晶子 翻訳:鮫島圭代
 発行元:パイ インターナショナル
 書籍に関するお問い合わせ
 株式会社パイ インターナショナル
 〒170-0005 東京都豊島区南大塚2-32-4
 TEL:03-3944-3981
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🎑30)─1・B─万葉集は世界を代表する翻訳文学で、呪術的な世界の記録として極めて優れている。〜No.74No.75No.76 

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 2024年3月13日18:16 YAHOO!JAPANニュース ニューズウィーク日本版「万葉集は世界レベルの文学作品であり、呪術的な世界の記録として極めて優れている
 翻訳、国境、ジェンダー、身分、言語……を超える『万葉集』。上野誠國學院大學教授[特別専任]と
 翻訳家のピーター・J・マクミラン氏に本誌編集委員張競明治大学教授が聞く。『アステイオン』99号特集より「境界を往還する万葉集」を3回にわけて転載。
 【写真】清水浜臣(1776-1824)『万葉集
■漢字を使った万葉仮名の発明
 ●張 ところで、万葉仮名を発明した当時の人はすごいですね。本来は表意文字である漢字を表音文字にした。しかも、日本語全部をピタリと表現できている。
 これは大変難しいことですよ。なぜかといいますと、中国には方言が非常に多いですし、まだ共通語がない時代ですから、どこを標準にするかという問題もあったはずです。
 さらに言うと、僕は上海生まれですが、僕ですら上海語では書けません。何度も挑戦しましたが駄目。英語の表記で書くことも試しましたが失敗しました。読んで上海語になるようなものがあれば絶対に喜んでもらえると思うけれど、できないんですね。当時の万葉仮名を考えた人は天才ですよ。
 ●上野 天才と言ってもらって嬉しいのですが、実はあれも中国に基があります。仏教の陀羅尼(4)のサンスクリットパーリ語を漢文に訳すときのやり方を勉強していることは間違いないです。
 ●張 八鍬(やくわ)友広さんも『読み書きの日本史』(岩波新書)でそう言っていますね。ところで、万葉仮名は仏教が入る前にできているでしょう。
 ●上野 仏教教典の翻訳法に学んで、音を写す音写を行なったのが、万葉仮名です。例えば、サンスクリット語の「ストゥーパ」を漢文では「卒塔婆」と訳しています。日本では、それを「塔婆」や「塔」という。
 こういう音写や、自分の言葉に訓み下す訓読をするのは、中国の周辺地域です。ベトナムとか朝鮮半島とか日本。
 ●張 朝鮮ではものすごくもたつきました。
 ●上野 朝鮮の場合は、知識をいわゆる両班層が独占してしまいましたからね。日本は海を隔てているので、独自の漢字の使い方をしていきます。そして、10世紀には女性が文字を書けるようになり、子どもたちに教えます。
 そのため、文字人口の爆発が朝鮮半島より早く起こるんですね。朝鮮半島では、それが15世紀以降になります。ハングルは、すぐれた音写ですが、成立は15世紀。日本は、非常に早い。
 いずれにせよ、それは文化の中心ではなく外の人たちの発想です。万葉仮名の発明によって一字一音で書けるようになると、「東歌」のような方言が書き取れることにもなるので、それは非常に重要なのです。
 ●マクミラン また、平安時代にはあまり見られないような、万葉仮名を用いた視覚的な遊びも見られますね。『万葉集』はシンプルと評価されますが、実はレトリックにも優れていると思います。
 上野 確かに、見て面白いような視覚的な表現をしているところもありますし、あるいは、「何々しし」というときに、「四(し)×四(し)=十六」にかけて「何々十六」と書いたりしているものもありますね。
 ●張 『万葉集』は、漢字を利用した万葉仮名を使っている点でもトランスボーダーしていますし、英語や中国語などに訳されたという点でも、トランスボーダー的なテキストと言えるのですね。
■「歌」は言語の記号的性格を「超える」もの
 ●張 私には、『万葉集』は二重構造になっているように感じられます。1つは宮廷儀式のための歌、もう1つは民間の日常が見えてくるような歌。最初に「歌が大事」と主張した人たちはおそらく、儀式に使うことを考えた。そして実際に呪術的な場面で使われていたのではないか。
 折口信夫の言う呪言と寿詞、つまり、霊的存在を言葉で統御しようとする行為です。これは非常に権威を持ちますから、それによって歌という形式が定着したと思います。
 しかし同時に、民間に広がっている声も拾い上げ、両者を共存させました。それはなぜでしょうか。
 ●上野 ヨーロッパの大都市の教会では、フランス語でのミサは何時から、ドイツ語は何時、英語は何時、韓国語のミサ、中国語のミサというふうに一日中やっていますね。聖書の言語も、ギリシャ語そしてラテン語の時代があり、それが各国語に翻訳されて各国のキリスト教ができてきます。
 オペラだって、イタリア語で始まったものが、ドイツ語、フランス語、英語のオペラとできてくる。そうして各国の言語に訳していくのだけれど、それでも漏れてしまう人たちがいます。
 その人たちは、「言葉はわからないけれど雰囲気がいい。旋律がきれい」ということでミサに行き、オペラを観る。僕はそれが歌の役割だと思います。歌は、言語の記号的性格を超えていくものだと思います。
■『万葉集』と呪術的世界観
 マクミラン 今言われた呪術の話ですが、『万葉集』には「何とか何とか見ゆ」という歌がありますね。これは、ただ美しい幻想的な風景を詠んでいるのではなく、見ているものが現実になっていく過程を詠んでいる。
 お月様が実際に舟になっていくとか、他界した相手が上方にいて手が届かないとか、見えているものを現実であるように言葉に表している点がシャーマン的です。中国の文化の影響を受けながらも、本来、呪術的な精神性、世界観を持っていることがうかがえます。
 アイルランドにもそういう言霊世界観や文化があります。詩人の位が高いのは、言葉で現実にさせる力を持っているからです。古代ギリシャの文学に出てくる「ロゴス」は、言葉も現実もロジックも全部含む概念ですから、呪術的な世界観は同じようにあるわけです。
 でも、私の知る限り、それが記録として残されているのは『万葉集』だけです。もしそうであれば、『万葉集』は、世界レベルの文学作品であるだけでなく、呪術的な世界の記録としても極めて優れた価値を持つことになる。
 文学の枠組みを超える、人類にとって非常に大事な歌集だと思うのです。それが、私が『万葉集』を翻訳する動機でもあるのです。
 ●上野 そのとおりだと思います。
 春になると天皇やその地域の位の高い人が山に登って景色を見渡し、「こういう景色が見えた」と歌います。
 「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は……」。
 国原には煙が立っている。これは、炊煙です。海に鳥がたくさんいるのは、魚がいるということ。さぞかし豊漁なんでしょう。それが「見れば見ゆ」、つまり「見たら見えた」という型の国見歌(くにみうた)です。
 実際には、貧しくてご飯なんか食べられないかもしれない。豊漁でないかもしれない。でも、天皇が「そういうものが見えた」と歌うことで、「それが実現する」と思う。
 これは言葉に魂があるから、言霊があるからです。『万葉集』に「見れば見ゆ」型の国見歌がこれほど多数存在しているのは、そういう古い呪術が『万葉集』の歌の形式に引き継がれているからなのです。
 ●マクミラン 『万葉集』の翻訳文学という側面については、「型があるから破れる」という先ほどの説明にすごく納得しました。それでは、今お話しになった呪術的な面についても、中国に型があったのでしょうか。それともそれは日本独自の感性ですか。
 ●張 日本にはもともと呪術があり、例えば漢文を学んだ日本の文人たちが外交使節として中国に行き、呪術を見て似ていると感じた、ということはあると思います。
 ただ、中国の呪術は既に、天を祀る儀式、地を祀る儀式というふうに宮廷の中で儀礼化していましたから、比較すれば日本の呪術のほうが匂いは強かったと思うんです。
 ●マクミラン そうなると、「『万葉集』は中国の翻訳文学」という冒頭の話は実際はもう少し複雑で、翻訳文学であることに加えて、もともと日本にあった呪術的な世界を、中国の呪術的な型を借りてやまと言葉で表現し直している要素もある、と言えますね。
 上野誠 + ピーター・J・マクミラン張競(構成:置塩文)
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3月13日10時50分 WEBアスティオン 「アステイオン 座談会
 日本は翻訳大国でありトランスボーダー大国、『万葉集』は世界を代表する翻訳文学である
 上野誠 + ピーター・J・マクミラン張競(構成:置塩文)
 万葉集
 清水浜臣(1776-1824)『万葉集国立国会図書館デジタルコレクション
 翻訳、国境、ジェンダー、身分、言語......を超える『万葉集』。上野誠國學院大學教授[特別専任]と 翻訳家のピーター・J・マクミラン氏に本誌編集委員張競明治大学教授が聞く。『アステイオン』99号特集より「境界を往還する万葉集」を3回にわけて転載。本編は上編
 張 本号の特集テーマの「境界を往還する」とは、片仮名で言うと「トランスボーダー」、つまり「国境を越えた」という意味ですが、今は「様々な境域を超えた」という意味の「超域性」として広く捉えられることが多いように思います。
 今日は、上野誠先生とピーター・J・マクミラン先生にお越しいただきました。奈良時代後期に成立し、日本最古の歌集と言われる『万葉集』を「トランスボーダー」的側面から捉えると、どのようなことが見えてくるのか、存分にお話しいただきたいと思っております。
 型を破るトランスボーダー大国日本
 張 早速ですが、僕は、マクミラン先生の『英語で味わう万葉集(1)』を拝読して、なるほど、英語で読むと『万葉集』はこういうものなのかと、改めて驚きました。
 後に中国語訳についても触れたいと思いますが、僕の持っている『万葉集』のイメージとは全く違いましたし、「これは現代詩か?」とも感じました。「こういう意味にも読み取れるね」という発見もありました。
 同じテキストでも、異なる言語、異なる文化において多様な受け止め方がある。それが『万葉集』の魅力であり奥深さでもあると思います。
 はじめに上野先生にお伺いします。文芸の起源を考えると、日本には『万葉集』より随分前から農作業や漁業をしながら口ずさむ歌があった。メロディーはなくともリズムがあるその歌を、詩と思う人は誰もいなかった。
 では、いつ詩と思うようになったのかといえば、中国文学を知っている人がそれを聞き、「やまと言葉にも漢詩に劣らない美しい詩がある」と気づいて書き留め始めて定着したのではないか。というのも、『万葉集』の中の歌の詩形は完成度が高く、原始的ではありません。
 既にあった多くの歌が洗練され、宮廷の和歌として定着したものが後に『万葉集』の中に取り入れられたのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。
 上野 大筋でそうだと思います。世界中に言語と歌を持たない民族は存在しない。歌はさらに、言語の記号としての側面と音楽的側面の2つを持っていますね。
 張 それが詩になるには、知識層の介入が必要だったと思うのです。万葉仮名を作る前の知識層の教養は漢詩・漢文ですよね。
 次のページ 『万葉集』は翻訳文学
 上野 私は大学での4月の最初の授業で、「『文選(もんぜん)(2)』なくして『万葉集』なし」と黒板に書くことにしています。これで言いたいのは、「歌は日常の言語から切り離されたもの」という認識は中国の文学の影響を受けて発達した、ということです。
 『万葉集』はよく日本的な歌集と言われますが、中国文学を学ばなければ『万葉集』の表現は出てこないと思っています。
 いきなり今日の話の核心に踏み込んでしまいますが、日本は翻訳大国であると同時にトランスボーダー大国でもありますね。外から新しいものを持ってくることが非常に得意です。
 中国という大きな文明圏の周辺国家の1つ、辺境の国で、大きな文明の持つ型が壊れていく場所なんです。その壊し方にこそ「日本文化」があると僕は思う。
 典型的な例を1つ言うと、中国の古代文学では基本的に、女性が男性のもとに通って嫁入りする嫁入り婚で、七夕歌などもそうなっています。
 ところが日本の場合は、男性が女性を訪ねる通い婚です。『万葉集』は、中国文学を読んだうえで、それをいかに日本での生活に合うかたちにするか、ということを考えて作られたもので、私に言わせれば、中国文学の崩れたものの1つと見ることもできる。まさに国際性を持つ翻訳文学です。
 張 『万葉集』の編集は確かに『文選』に倣っているように見えます。その一方で、「防人歌(さきもりうた)」などを取り入れているのは、詩三百篇の『詩経』の集め方も念頭にあったとも思えます。
 中国には、文人顔負けの民間の良い歌、優れた民謡を集めた「楽府(がふ)」というジャンルがありました。『万葉集』は、天皇から身分の低い人々の歌まである点が大変特殊であると言われますが、それは横を意識する目があったからこそ生まれた豊かさなのではないかと感じるのです。
 上野 そのとおりだと思います。『文選』も『詩経』の影響を受けています。それは「民の声はその土地の民謡に表れる」という考え方で、日本でも、国司は「赴任したら必ずその土地の神様にお参りをしなさい。その土地の民謡をよく聞きなさい。そこから生活をよく見なさい」と言われました。
 ヤマト王権は東へ東へと行きますね。いわばフロンティアの歌である「東歌(あずまうた)」を、『万葉集』巻十四に集めていることには、1つの意味があると思います。
 マクミラン 上野先生は今、「『万葉集』は翻訳文学であり、中国文学の崩れたものだ」とおっしゃいました。
 例えば大伴家持(おおとものやかもち)は池主(いけぬし)にラブ・ポエムを送ったり、雨晴海岸(あまはらしかいがん)の風景を詠んだりします。あるいは、言祝(ほ)ぎの歌、過労死の歌、自殺の歌、子供の貧困の歌などがありますが、それらも中国文化にそれぞれ型があるのでしょうか。
 上野 型破りというのは型があるからこそできるものです。中国文学、文化には確固とした型がある。それをどういうふうに破っていくか。その破り方に日本の特徴があると思うのです。
 次のページ 自己発見と新しいものを生み出す動力
 マクミラン 私は、『万葉集』は日本の古典の中で最も伝承されていない歌集という印象を持っていて、原因はその読みにくさにあると思います。平安時代から千年ものあいだ真似され続けてきている『古今和歌集』や『源氏物語』と違って、真似されている印象もあまりありません。
 しかし、今、外国人である私が訳してみると、「日本人の原点」であるどころか「日本人のアイデンティティーの源」のようにも感じます。『万葉集』が翻訳文学であるというだけでは、そこまでにはならないと思うのですが。
 上野 それは、翻訳文学であることを踏まえて「自分たちのものにしている」から、「型を壊している」から、ということが1つあると思います。
 もう1つは、『万葉集』の時代には、漢字・漢文の教養がある人たちのグループがいるのですが、同じ席におそらく文字を書けない人たちもいる。
 知識層と文字を知らない人たちの両方を満足させるためには、「恋人と別れて寂しい」「子供がいとおしい」「過労死した人がかわいそう」というような普遍的なテーマの歌を詠む必要がある。
 平安時代の文学に比べて『万葉集』の翻訳が世界文学になりやすいのは、文字を獲得していない人たちがオーディエンスにいたからではないでしょうか。
 自己発見と新しいものを生み出す動力
 上野 ご出身のアイルランドの文化を象徴するもの、代表させたい文化というと何ですか。
 マクミラン 今世界的に知られているのは音楽かな。文学も盛んです。小さな国ですが、イェイツ、ヒーニーなどノーベル文学賞を受賞した詩人もいます。
 かつて古代アイルランドには王様がいて、その次に位の高いのが詩人でした。呪術的な力を持つシャーマンでもあって、詩人に呪われると不幸になり、言祝いでもらえれば幸せになる、という日本の言霊(ことだま)信仰のようなものがあります。『万葉集』に通ずるところがあるように思います。
 上野 言葉を「道具」と考えるか、「それ自身に生命が宿るもの」と考えるか。後者の考え方のほうが古いと思います。
 中国文化、中国文明の周辺にいる弱い立場の者は、中国に圧倒されながらも、「古いもの、素朴なものが良い」というふうに主張します。古いものを保存し、それを自分たちのアイデンティティーにする姿勢です。
 『万葉集』についても、8世紀の人たちは漢詩・漢文が書けるエリートではあるけれど、「これがなくなったら俺たちは日本人じゃなくなるよね」みたいな感覚があったのではないでしょうか。
 アイルランドで、言葉を大切にしたり、「ケルトの文化も残っている」と主張して古いものを自分たちのアイデンティティーにしたりする感覚と、近いところがありませんか。
 マクミラン ありますね。
 張 日本文学との相性も良いですよね。パウンドが翻訳した謡曲は、日本語がよくわからないから自由奔放な訳し方になっているけれど、英語で読むとそこがかえって面白い。イェイツが感動してそれを取り入れましたね。
 マクミラン イェイツばかりか、ジョイスも影響を受けています。「杜若(かきつばた)」という謡(うたい)のパウンド訳に見られる縁語の考え方がジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の基になっていると言われるほど、アイルランド文学には深く影響しています。
 次のページ まさにトランスボーダー
 張 それは、トランスボーダーが動力になって新しいものを生み出している、1つの例に思えます。
 時代が少し後になりますが、『古今集』に、壬生忠岑(みぶのただみね)の「有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし」という歌がありますね。授業で学生に読ませると、今の子たちにはなぜ暁が悲しいのかわからないから、「通い婚で、暁には家を出ないといけないから悲しいんだ」と説明します。
 当時の人々は、漢詩を知ったからこそ「暁の悲しさを感じることに価値がある」と発見し、この歌を残したと思うのです。
 異質のものとの出会いが、自分の文化にもともとありながらそれまで何とも感じていなかった、そういうものの持つ光に気づくきっかけになる、ということです。上野先生がおっしゃったように、強いものに圧倒され、古いもの、素朴なものを保存するようになるばかりでなく、自己発見のきっかけになるというのも、トランスボーダーの持つ別の力ですね。
 マクミラン 私は今、『万葉集』の英訳を世界に発信していくため、さまざまな活動に取り組んでいます。例えば「万葉歌めぐりの旅プロジェクト」では、「万葉のふるさと」のひとつである富山県高岡市が解説板を作っています(3)。
 現在、日本全国にある約2300の歌碑のうち、妥当性のあるものは1500ぐらい。しかも、崩し字で書かれていて、日本人でもたいがい読めないし、読めても意味が伝わらない。
 そのプロジェクトで作る解説板には、原文と、現代の日本語での読み方と解説、さらには、英訳と外国人目線で書かれた解説を載せます。日本人にも外国人にも、富山なら富山の観光をして、お酒を飲み、おいしいものを食べ、そして『万葉集』文学の旅の情緒を堪能してもらおうというわけです。
 また先日、ポーランドルーマニアブルガリアジョージアで、JICAの文化講師として『万葉集』の英訳についての講義をしました。
 その折にこの万葉歌めぐりの旅の話をしたら、ジョージアの皆さんが感激してくださって、それが「自分たちの文化や文学をどのようにすれば観光資源として生かせるか」と考えるきっかけになったようなのです。『万葉集』や日本文化にはそういう力がある。まさにトランスボーダーだと思います。
 張 異質なものとの出会いにより、みずからを発見するときの合わせ鏡の役割ですね。
 ※第2回:万葉集は世界レベルの文学作品であり、呪術的な世界の記録として極めて優れている に続く
 上野誠(Makoto Ueno)
 國學院大學文学部日本文学科教授[特別専任]・奈良大学名誉教授。1960年生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。専門は万葉集、万葉文化論。著書に『折口信夫 魂の古代学』(角川ソフィア文庫)、『万葉文化論』(ミネルヴァ書房)、『日本人にとって聖なるものとは何か』(中公新書)、『万葉集から古代を読みとく』(ちくま新書)など多数。
 ピーター・J・マクミラン(Peter MacMillan)
 翻訳家・版画家・詩人。アイルランド生まれ。日本での著書に『日本の古典を英語で読む』『英語で味わう万葉集』『松尾芭蕉を旅する』など多数。相模女子大学客員教授東京大学非常勤講師をつとめるほか、朝日新聞で「星の林に」、京都新聞で「古典を楽しむ」を連載中。NHK WORLD「Magical Japanese」、KBS京都「さらピン!キョウト」に出演している。
 張競(Kyo Cho)
 1953年上海生まれ。華東師範大学卒業、同大学助手を経て1985年に来日。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。著書に『海を越える日本文学』(筑摩書房)、『異文化理解の落とし穴』(岩波書店)、『詩文往還』(日本経済新聞出版)など。
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 3月13日11時00分 WEBアスティオン 「アステイオン 座談会
 万葉集は英訳のほうが分かりやすいのはなぜか?...古代から現代、日本から世界に羽ばたく「世界文学としての和歌」
 上野誠 + ピーター・J・マクミラン張競(構成:置塩文)
 持統天皇の歌を即興で訳すマクミラン氏 すべて河内彩撮影
 翻訳、国境、ジェンダー、身分、言語......を超える『万葉集』。上野誠國學院大學教授[特別専任]と 翻訳家のピーター・J・マクミラン氏に本誌編集委員張競明治大学教授が聞く。『アステイオン』99号特集より「境界を往還する万葉集」を3回にわけて転載。本編は下編
 ※第2回:万葉集は世界レベルの文学作品であり、呪術的な世界の記録として極めて優れている から続く
 文化の受容と自国の文化
 上野 文化の受容というのは、受容する側の文化の問題でもあるわけです。森鷗外が、「あなたはよくこれだけのすばらしい翻訳ができますね」と言われて、「それは日本語についてよく知っているからだ」と答えたという話がありますね。
 マクミランさんは『万葉集』を英訳するとき、「これは英語の詩の伝統ではどういうふうに言うだろう」とか「ソネットの形式に近い形で訳そうかな」などと考えたりしますか。
 私は、『万葉集』の注釈を進める際、ドナルド・キーンさんに相談に行きました。キーン先生は「日本人が書いた『万葉集』の注釈書の訳は訳じゃない。説明文です。説明文は要らないです」と言うのです。
 そして、「詩は詩として訳さなきゃ駄目。読んだときに詩になっているかどうかが問題です」と厳しく言われました。ああ、そうかと思った。
 張先生は、中国で古典教育をする際、現代の中国語に訳す必要はありますか。
 張 書かれた時代によりますね。李白の「静夜思(せいやし)」のように、唐詩には訳さなくてもわかるものがあります。その美しさは現代人にも響いてくるのです。大半は現代中国語に訳さないと、わかりません。
 上野 唐詩の形式は、作品によってはその美しさが今でもわかるのですね。『万葉集』の場合は、訳がまったくなくて済むものは5%ぐらいじゃないでしょうか。
 マクミランさんも、いったん日本語の注釈を読んでから英訳するわけですよね。例えばオペラも、今のイタリアの人が聞いてわかるわけではなく、ちょうど歌舞伎のように、オペラ座で売っている台本を見ながら観劇していますね。
 マクミラン 先ほどのミサの話もそうです。私が子供の頃はまだラテン語が普通でした。バチカン公会議後にすべて英語や各国の現代語になりましたが、今はまたラテン語で聞きたいという声があります。意味がわからないとかえって厳かに聞こえるからでしょう。
 上野 マクミランさんが翻訳されている日本のさまざまな古典の英訳は、英語の文学関係者、英語の文学を勉強する人たちの財産になっていくだろうと思います。
 『万葉集』についても、それ自体は中国の影響を受けて作られたものですが、『古今和歌集』はその『万葉集』を財産にしてできたのですから。文化とは、そういうものだと思うんです。
 次のページ キーン先生の言う「説明文」
 マクミラン はい。でも、日本の歌の英訳は日本人の財産にもなっていくと思っています。現代の日本人は原文を読めませんから。もちろん日本語の現代語訳も読めますが、英語でも読めますね。
 そういう意味で比較すると、英訳するのはとても困難なことですが、現代日本語に訳すほうがはるかに大きな苦労があると思います。
 なぜなら現代日本語は根本的に詩的でないからです。『小倉百人一首』の現代語訳を読んでいると、それがたとえキーン先生の言う「説明文」でなくても、詩的に感じにくい面があります。
 私はかつて日本の古典を訳してキーン先生から褒めていただき、賞をいただきました(6)。それで翻訳の免許をもらった気分になり、「日本の古典を英訳すればこの素晴らしい国に恩返しができる」と感じました。
 ところが『万葉集』に出会ったら、「『万葉集』の英訳は日本への恩返しどころか世界のためになる」という気持ちになりました。それほどまでに『万葉集』のすごさを感じたんですね。
 『万葉集』には、私たちが持っている文学にない要素がたくさんありますし、その歌には生まれたての新鮮味を感じます。ですから、私も「今朝書かれた歌のように訳したい」と思っています。
 上野 ああ、「今朝書かれた歌のように」ね。すばらしい──。
 張 僕は『万葉集』の中国語訳を読むと、『万葉集』の精神はあるかもしれないけれど も、日本の『万葉集』とは別の『万葉集』になっていると感じます。中国の古典語に訳されているからでしょう。英語圏で『万葉集』を中世英語で翻訳しようとする人はいないですか。
 マクミラン それはないですね。明治時代に最初に英訳されたものは『百人一首』で、いわば文語体でした。当時流行していた例えばテニスンのような、それこそキーン先生が好きだったきれいな言葉になっています。
 上野 違和感がありますか。
 マクミラン ありますね。なぜ素直に書かないのかなと。中世の英語に訳したら現代のイギリス人は読めません。現代人はシェイクスピアの英語も18世紀の英語もほとんど読めませんから、読んでほしくないのであれば中世の英語に訳しなさい、ということになりますね。
 上野先生が現代語訳で目指しているのは、わかりやすさですか。
 上野 基本的には、耳で聞いてわかるように訳したい。そして、キーン先生に言われたように、詩になっているように訳したいとは、思っているのですが─。
 次のページ 吟じられる英語に訳して世界に
 マクミラン このあいだ、ある歌を「あなたが去年出会った桜、恋していた桜がまた咲きましたよ」というふうに訳そうとしたら、一緒に翻訳をしている茂野智大さんが「あなたが出会った桜じゃない。桜があなたに出会ったんだ。主語は桜。桜があなたに出会って、あなたに恋をして、あなたのためにまた咲いていますよ、という意味だ」と教えてくれました。
 それでは全然違うじゃないですか。自然を擬人化するということですね。英語でも擬人化しますよ。例えばワーズワースの「I Wandered Lonely as a Cloud.(私は雲のようにさまよった)」。
 この場合、ある人が外にある自然を見ています。でも、今言った『万葉集』の歌は「桜の木が人間に恋をしている」というのです。
 上野 擬人法とか擬人化と言うと特別に思いがちですが、それは「物は主語にならない」ことを前提としているからで、「物が主語になる」ところでは擬人化は普通です。
 面白い例があります。持統天皇の「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」(『万葉集』巻一の二八)。
 最近の研究では、この訳は「春が過ぎて夏がやってきたらしい。天の香具山には白妙の衣が干されている」ではなくて、「天の香具山が衣を干している」でいい、というんです(鉄野昌弘「万葉研究、読みの深まり(?)─持統天皇御製歌の解釈をめぐって─」『季刊 明日香風』第百二号所収、飛鳥保存財団、2007年)。
 「山が衣を干す」でいいと。
 マクミラン 先生はどう思われますか。
 上野 それでいいと思います。少なくとも中世にはそう解釈されていた。詩の言語というのは人間の歴史の古い思考法を伝えているものだから、「天の香具山が干している」でいいと。詩には確かに古いものを伝えるという側面がある。これもトランスボーダーですね。
 マクミラン 美しいですね。そのほうが絶対に素敵だと思う。ちょっとパフォーマンスをします。持統天皇の歌を「香具山自身が衣を干す」というふうに即興で訳し直しました。吟じます。

 Spring has passed
 and Summer has come.
 Mount Kagu
 is airing on her slopes
 her white summer robes.

 藤原俊成が言ったように、発声したときの音とリズム感でその良さが感じられるような歌に訳す、ということを私は心がけています。
 『百人一首』の歌は単純な自然の描写が多く、英訳してみると平凡な歌なのに、日本語で吟じると素晴らしく聞こえるものがありますね。
 次のページ 和歌や『万葉集』のトランスボーダーの可能性
 張 和歌を五・七・五のままに五音節・七音節・五音節という英語に訳すと、逆に美しくない、ということですか。
 マクミラン 美しくないことはないと思いますし、反対するわけでもありません。ただ、七五調では私たちの心地よいリズムにはなりません。
 明治時代に上田敏がブラウニングの詩を七五調で和訳しました。そして、それはすごく美しい。英語を日本語に訳すなら七五調がベストかもしれません。だから今でもカルタがあるのだと思います。
 でも、逆の場合もそうなのかということなんです。それで私は、どんな歌も「英語でも吟じられるように訳そう」と思っているのです。
 上野 マクミランさんは今、英訳『百人一首』のカルタ大会というイベントをやっていますね(7)。
 マクミラン はい。カルタも現代の国内・海外に『万葉集』や和歌を広めていく切り口の1つですから。
 上野 世界大会には、ファン・ロンパイ元欧州理事会議長を呼んでほしいですね(8)。彼は英俳をやっていて、きらっと光るものを俳句で詠んでいますから。
 張 日本の和歌や『万葉集』のトランスボーダーの可能性を感じますね。
 上野 日本語しかできず、一番トランスボーダーではない私は、「古い言葉とトランスボーダーしている」ことで呼んでいただいたということになるでしょうかねぇ(笑)。
 マクミラン いろいろ勉強になりました。
 張 本日は、『万葉集』の持つトランスボーダー的な要素についてさまざまな角度からお話しいただきました。たいへんありがとうございました。
 [注]
 (6)『One Hundred Poets, One Poem Each(小倉百人一首)』(英訳、コロンビア大学出版局、2008年)ドナルド・キーン日本文化センター日本文学翻訳特別賞、日本翻訳家協会第44回日本翻訳文化特別賞
 (7)英語版百人一首カルタ『WHACK A WAKA』を用いた『WHACK A WAKA百人イングリッシュ』の世界大会を目指している。
 (8)「ファン・ロンパイ元欧州理事会議長による林外務大臣表敬」外務省HP
 上野誠(Makoto Ueno)
 國學院大學文学部日本文学科教授[特別専任]・奈良大学名誉教授。1960年生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。専門は万葉集、万葉文化論。著書に『折口信夫 魂の古代学』(角川ソフィア文庫)、『万葉文化論』(ミネルヴァ書房)、『日本人にとって聖なるものとは何か』(中公新書)、『万葉集から古代を読みとく』(ちくま新書)など多数。
 ピーター・J・マクミラン(Peter MacMillan)
 翻訳家・版画家・詩人。アイルランド生まれ。日本での著書に『日本の古典を英語で読む』『英語で味わう万葉集』『松尾芭蕉を旅する』など多数。相模女子大学客員教授東京大学非常勤講師をつとめるほか、朝日新聞で「星の林に」、京都新聞で「古典を楽しむ」を連載中。NHK WORLD「Magical Japanese」、KBS京都「さらピン!キョウト」に出演している。
 張競(Kyo Cho)
 1953年上海生まれ。華東師範大学卒業、同大学助手を経て1985年に来日。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。著書に『海を越える日本文学』(筑摩書房)、『異文化理解の落とし穴』(岩波書店)、『詩文往還』(日本経済新聞出版)など。
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🌈12)─2─日本人なら知っておきたい日本の伝統文化。伝統的風習には意味がある。〜No.24 

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 日本の伝統文化とは、日本民族の固有文化である。
 日本の伝統的風習の多くは、世界では非常識に近い。
 日本の伝統文化も伝統的風習も、神話宗教や自然崇拝を起源とするものが多い。
 日本社会の基層にあるのは、民族宗教である。
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 令和6年2月号 正論「桑原聡 この本を見よ
 『日本人なら知っておきたい日本の伝統文化』 吉村均著 ちくま新書
 伝統文化は、その民族が暮らす自然環境のなかで発生し、宗教の影響を受けて生成されて変容を遂げていった。たとえば秋田のナマハゲ。なぜ日本人はこのような恐ろしい存在を迎え入れ、もてなし、再び送り返すということをやってきたのか。それは日本人が台風、地震、火山の噴火といった自然災害に絶えず襲われてきたからだと著者はいう。日本の美しい四季のイメージは、平安時代の『古今和歌集』において定まった。それはあくまでも理想化されたものであり、実際の自然は、日本人に甚大な被害をもたらしてきた。ただ、気紛れな自然なしには農業は成り立たない。それゆえ、《日本人は自然の力を人間の世界の外に排除して、その代償として、決まった日に来てくれたら、歓迎してもてなし、送り返すまつりをおこなう必要があった》のである。
 そもそもカミとは何か。著者は本居宣長の『古事記伝』から『世常(よのつね)ならず、すぐれたる徳(とく)のありて、可畏(かしこ)き物をカミとは云(いふ)なり』の一節を紹介する。『すぐれたる』というと、現代ではいい意味にしか使われないが、もともと『悪い・奇しい』という意味も含んでいる。すなわち『可畏き物』=『恐れかしこまるしかないもの』がカミの基準になっているのだ。ここで著者は重要な指摘をする。《これは客観的な基準ではなく、主観的な捉え方で、言い換えれば、何がカミであるかは人によって変わってくるもの》だったというのだ。
 『日本書紀』によると仏教の伝来は552年のこと。百済聖明王から日本の天皇に仏教を勧める手紙が送られてきて、それに仏像や経綸が添えられていた。当時の日本は豪族の連合体であり、それぞれがそれぞれのカミを祀っていた。聖徳太子は、仏教の持つ普遍性(哲学性)に着目し、仏教に基づく統一国家の建設を目指した。憲法十七条はその理想を端的に示したものだった。
 人間は自分の知覚が捉えていることが『現実』であると疑うことがない。仏教は、その捉え方から解放されない限り、一時的に満足することはできても、苦しみから解放されることはないと説く。他者に対して腹を立てることは、自分の捉えているものが『現実』だと疑っていないからだ。
 かくしてわが国においては仏教が土俗的なカミと混淆(こんこう)してゆく。そうしたなかで、仏教伝来以前からの伝統文化は変容し、さらに新たな伝統文化が発生する。ヒンドゥー教、仏教、道教神道など様々な背景を持った七福神の顔ぶれがそれを端的に表している。明治維新のさいの神仏分離まで、僧がカミのためにお経を唱えるのはごく普通のことだったのだ。
 本書は明治維新における神仏分離と教育制度で、伝統文化の本来の意味を見失ってしまった我々に貴重な示唆を与えてくれる。」
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 3月11日 YAHOO!JAPANニュース リアルサウンド「成人式はなぜ荒れる? 都市伝説が語られるのは? 身近なギモンを民俗学から紐解く『現代民俗学入門』
 『創元ビジュアル教養+α 現代民俗学入門 身近な風習の秘密を解き明かす』(創元社)が2024年3月11日に刊行された。「なぜトイレにはスリッパがあるの?」「福袋ってそもそも何?」そのヒントは、民俗学にある。民俗学の知識を使って、ネット上の美談からLGBTQIA+まで、現在の世の中の各所に潜むいろいろな疑問や話題を取り上げ、豊富な図解とともにわかりやすく紹介する。
 【写真】「火葬場で「箸渡し」をするのはなぜか?」『現代民俗学入門』試し読み
 民俗学現代社会でも使える、生きた学問。地鎮祭は何のためにするのか?お中元やお歳暮とは何か?成人式はなぜ荒れるのか?火葬場で「箸渡し」をするのはなぜか?ネットロアはなぜ生まれるのか?など、身近で興味深いテーマを民俗学の観点からわかりやすく、楽しく学ぶことができる一冊だ。
 編者の島村 恭則氏は、「この本は、みなさんに民俗学の面白さを伝えるために書かれました。ふだん何気なく行っている「ルーティン」(習慣的な行動)。他愛のない「うわさ話」。効果があるかどうかはわからないけれど、とりあえずやってみる「おまじない」。「仲間内にしか通じない言葉」。これらは、みんな〈俗〉です。この本では、そうした発見の中から、「これは!」と思うものを取り上げ、豊富な図版とわかりやすい文章で、みなさんに紹介していきます。」と語る(編者序文より抜粋)。
 伝統的な風習からネットミームまで、身近な文化を民俗学で理解する『現代民俗学入門』。ぜひチェックしてみよう。
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💍45)─1─女性母系天皇擁立の目的は男系父系皇統の断絶である。〜No.156 

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 血統重視の正統継承の男系父系擁護は、正統保守である。
 血統無視の正当継承の女系母系擁護は、エセ保守とリベラル左派である。
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 国民の8割以上が、正当な女系母系継承を支持している。
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 日本国憲法や皇室を取り巻く法律の多くは、GHQソ連の意図を汲んだ敗戦利得者が将来の日本人が天皇制度を廃止し皇室を消滅させる為に作った反天皇憲法と法律である。
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 人類史・世界史における王朝興亡で、女系継承で異民族の男性を国王に迎えて滅亡した物語が数多く存在する。
 例えば、ジンギス・カンに滅ぼされた多様性の多民族国家西遼もその一つである。
 多民族国家は、他国の侵略に対して脆く滅びやすい。
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 2024年2月23日 YAHOO!JAPANニュース 弁護士ドットコムニュース「「男系男子の継承は心配ない」論客・百地章氏が訴える「女性・女系天皇」の危険性
 遅々として進まなかった安定的な皇位継承に関する議論だったが、昨年(2023年)秋ごろから動きがみられている。同年11月には自民党内で総裁直属機関として「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」が設置され、第1回懇談会を開催。12月には、額賀福志郎衆院議長が今通常国会で議論の場を持ちたいとの意向を示している。
 自民党皇位継承者は男系男子との立場を維持しているが、現在の皇室は次世代の男性皇族が悠仁さまお一人という状態であり、安定性には懸念もある。そのため、女性天皇女系天皇を容認するべきとの意見がある一方、男系維持派からは根強い反対がある。
 その一人、国士舘大学百地章客員教授は「不易流行という言葉があるとおり、時代とともに変わるものと時代が変わっても変わらないものがある。男系の皇統は変えてはならない」と主張する。(弁護士ドットコムニュース編集部・山口紗貴子)
 【インタビューでの百地教授の発言要旨】
・皇室のあり方を考える際によるべき基準は「皇室の伝統」と「憲法」であり、いずれも「男系」を重んじてきた。歴史と憲法を無視した「女性天皇女系天皇」論には反対
女系天皇は「万世一系の皇統」を否定する論であり、現在の皇室の廃絶につながる
旧皇族の男系男子孫を養子として迎えるための皇室典範特例法を制定するべき
●「ようやく旧宮家の男系男子という画期的な案が出てきた」
――直近では2021年12月に政府の有識者会議がまとめた報告書で、皇族数の確保について(1)皇族女子である内親王、女王が結婚後も皇族の身分を保持 (2)皇族の養子縁組を可能とし、皇統に属する男系男子を皇族に復帰させる、の2案を提示しました。この内容をどのように評価していますか
 秋篠宮殿下から悠仁親王へと続く男系男子による皇位継承を大前提にしたものであり、私はこの報告書を非常に高く評価しています。
 「男系男子を維持する」と明確に言ってはいませんが、男系維持の立場に立っているのは間違いありません。第2案では男系旧皇族の養子案をあげ、もしそれが難しい時には第3の案として直接旧皇族の男子をとまで提案しました。男系維持が一番の中心になっています。
 2005年(平成17年)、園部逸夫最高裁判事が座長代理となりまとめた有識者会議の報告書は「女系天皇、直系優先」との結論を示しました。本来であれば皇室の伝統や憲法をまず考えるべきところ、この報告書では「皇位継承の安定性を第一とする」として、結論ありきの提言でした。
 以来16年目にして、ようやく旧宮家の男系男子という画期的な案が出てきました。ですから高く評価しています。
――(1)の皇族女子である内親王、女王が結婚後も皇族の身分を保持する案についてはどう考えていますか。これは女性官家の創設と理解してよいのでしょうか
 女性宮家という捉え方は間違いだと思っています。
 報告書は「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持すること」とだけ表現しており、歴史上、存在したことのない「女性宮家」などという言葉は使っていません。これはあえて避けたのだと考えています。
 また報告書では、仮にこの制度を導入した場合でも「その子には皇位継承資格を持たせない」「配偶者と子には皇族の身分を与えない」との考えを示しています。つまり、女性皇族の身分は保持するが女系継承は避けるのが狙いでしょう。このことからも、報告書が男系継承を前提にしたことは明らかです。
――「皇室の伝統や憲法をまず考えるべき」とのことですが、皇室の今後を考える上でどのように議論を進めるべきなのでしょうか
 2000年近い歴史と伝統を有する皇室のあり方を考える際、まず拠るべき基準は皇室の伝統と憲法ではないでしょうか。
 天皇系図を見ると分かりますが、神武天皇から始まって126代の現在の天皇に至るまで、天皇は全て男系でした。また皇位世襲を定めた憲法も男系ないし男系重視と解するのが歴代内閣や有力な憲法学者たちの見方です。
 詳細は割愛しますが、男系男子につなげるための皇位継承の大きな危機は過去に何回もありました。8親等から10親等も離れた「傍系」の皇族・宮家によって皇位が継承されたこともあります。このような歴史を辿ると、先人たちが血のにじむような努力をして男系の伝統を守り続けてきたことがわかりますす。現代に生きる私たちもその重みを謙虚に理解するべきではないでしょうか。
 2000年にわたって男系で続いている、世界も羨むような日本の皇室です。今に生きる私達はまずこの伝統を大切に受け継ぎそれを後世に伝えていく義務があります。
 現在、女性天皇女系天皇を容認するべきと主張する人々は「直系の重視を」といいます。しかし、それも男系が前提であって、男系でも女系でもいいなどといった単純な議論は間違っています。歴史と伝統に謙虚に向き合う必要が現代人にはあります。
――「男系男子を」と定めた文書など明文化された資料はないのでしょうか
 明治以前は不文の憲法があり、天皇が我が国の統治者であり中心であることが認められてきました。日本ではそもそも最も大事なことは書かれないことが多い。一番の大事なところは口頭で伝えるという国柄なのかもしれません。
 明治以降はそれを整理し成文化して憲法に明確に示したわけです。
 日本国憲法2条には「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」としか書いてありません。明治憲法のように男系男子とは書いてないですが、男系を意味することは明らかです。
 なぜなら今の憲法明治憲法を前提にしてできたものだからです。ですから憲法制定以来、政府の見解も今日まで「男系」ないし「男系重視」と一貫しています。憲法制定時の内閣法制局は「皇統は男系により統一することが適当であり、少なくとも女系ということは皇位世襲の観念の中に含まれていない」との立場を示しています。
 集団的自衛権を巡る議論を思い出してください。「我が国は集団的自衛権保有するけれども行使しない」との従来の政府見解を変えるためにどれだけ苦労したのか。私は賛成の立場で議論しましたが、それだけ政府見解は重いものです。
 皇室についても「男系あるいは男系重視」という政府答弁が一貫して続けられてきたわけですから、それを踏まえて考えるべきです。
 また有力な憲法学者たちも憲法の「世襲」は男系だと明言しています。
 美濃部達吉教授は「皇統は男系に依る」と断言していますし、宮沢俊義教授も「わが国では皇族の身分を持たない者は皇位継承の資格はないが、皇族は必ず男系だ」といっています。また、一橋大学田上穣治教授、東北大学の小嶋和司教授、京都大学佐藤幸治教授なども男系説です。
 繰り返しになりますが、皇室の伝統は男系です。そして過去の政府見解も男系重視であり、有力な憲法学者たちも男系だと言っている。これを無視して良いのでしょうか。
●「女系天皇は絶対あってはならない」
――女性天皇についてはどう考えますか
 安易な女性天皇論への疑問もあります。
 歴史的には、10代の女性天皇がおられましたが、すべて未婚か未亡人で、ふさわしい男子が存在しない期間の一時期でした。なぜ未婚か未亡人という前提だったかといえば、女系の誕生を防ぐためです。このことは過去の歴史からわかります。
 元明天皇から元正天皇へと続いたことを女系だという人がいますが、それは誤りです。草壁皇子の妃である元明天皇が即位したときは未亡人でしたから、そのお子様が即位したわけではありません。あくまで草壁皇子の子、つまり男系の女子として元正天皇は即位されています。
 もし愛子さま天皇になられたとした場合、将来、女系皇族が誕生する恐れがあります。さらにその方が即位すれば女系天皇ですね。これは絶対にあってはなりません。従って安易な「女性天皇論」に、私は反対です。
 7年前(2017年)に全会一致で退位特例法が作られ、秋篠宮さまが皇嗣となられました。また令和2年(2020年)には「立皇嗣の礼」が行われ、今の天皇陛下が「次は秋篠宮さま」だと内外に宣言されました。これは非常に重いものです。ですから愛子天皇はあり得ません。それを無視して簡単に変える、つまり朝令暮改など法治国家として絶対にあってはなりません。
――ただ、それでも次世代が悠仁親王お一人というのはあまりに不安定ではないでしょうか
 男性皇族が少ないから女性、女系天皇を容認するべき、という議論の進め方はあまりにも短絡的でおかしいと思います。後で述べるように、旧宮家には沢山の男子がおられるからです。
 また、女系派の中には「男系継承は側室制度があったから維持できたが、側室制度のない現代では無理だ」との声もあるようです。確かに側室から誕生された方はたくさんいます。しかし、嫡出の天皇も73代いらっしゃいました。先帝陛下(平成の天皇)まで125代のうち約6割は皇后さまから誕生してるんですよ。
 また以前は医療技術も乏しく、夭逝や死産することも避けられませんでした。しかし、現代は医学の進歩によって十分解決できます。お1人でも男子が誕生すれば立派に育つ時代でしょう。不妊治療も発達しています。
 また養子制度も、明治以前では普通に行われていました。明治になって皇族が増えすぎ、財政上の理由もあって、養子制度は禁止されましたが、歴史的には、養子が当たり前に行われてきたわけです。ですから、医学の進歩もあり、養子制度を採用して傍系の宮家を常に確保しておけば、それによって安定した皇位継承は実現可能と言えます。
●直系を優先していたら現在の皇室はなかった
――直系による皇位継承は、帝王学や安定性の観点からもメリットが大きいようにも思われます
 現在の皇室は光格天皇以来8代、たまたま直系で続いています。初代・神武天皇から13代の成務天皇までは直系が続きましたが、それ以外は複雑な継承を繰り返してきました。7~8親等から10親等も離れた皇位継承も4回ありました。
 複雑になったのは男系を優先させたからです。もし直系を優先していたら、2000年近い伝統を有する皇室は存在しません。後桃園天皇がお子様の欣子(よしこ)内親王ではなく傍系の師仁(もろひと)親王(後の光格天皇)に皇位を譲られたからこそ、現在の皇室があるわけです。
 宮家は、皇統の危機に備え、男系男子の皇位継承権者を確保するために存在しました。4つの宮家(伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家)が支柱となり、皇統を支えてきた。そこから3人の天皇後花園天皇後西天皇光格天皇)が誕生しています。
 女性天皇女系天皇を主張する方は「いま現在、女性しかいない。男性は悠仁親王だけだ」といいます。しかし、皇室の歴史と伝統を見れば旧宮家の存在があり、現在も男系の男子孫が沢山いらっしゃることを忘れてはいけません。
旧宮家皇籍復帰、法的には?
――報告書では、旧皇族を養子に迎えるとの案も示しました。旧皇族から養子を取るのは門地による差別に当たるのではないか、平等を定めた憲法に違反するのではないかとの指摘もありますが、この点についてはどう考えますか
 その点は憲法違反にあたらないと考えています。
 憲法14条は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」としています。これは国民を国が差別してはいけないという意味です。
 一方、憲法2条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と定められています。世襲の原理は平等原則とは別です。皇族の数を増やすために、皇室が旧宮家の方を迎えるのであれば、平等原則は適用されないと考えられます。
 法制局は昨年(2023年)11月15日と17日、衆院内閣委員会で明確に「憲法の許容するところだ」との見解を示しています。皇室には平等原則が適用されないというのは政府見解でもあるし、憲法学者の学説の通説でもあります。
――旧皇族を復帰させることは現実的なのでしょうか
 その点は心配ないと考えています。
 旧皇族の方々は昭和22年10月4日、GHQの圧力によって臣籍降下させられました。そのことに昭和天皇は反対されていたことが、資料によってわかっています。
 離れた11宮家には、26人男子がおられたんですよね。既に男子が絶えた家もありますが、賀陽家、久邇家、東久邇宮、竹田家の4家には若い男性方がいらっしゃいます。その男系男子孫の悠仁親王を支える世代の中から、たとえば4宮家に倣って4人、少なくとも3人位の方に養子になっていただくと。そうすれば悠仁親王を支える体制ができるわけです。
 今の皇室典範は養子を禁止していますが、私は退位特例法と同じように皇室典範本文に手を加えるのではなく、特例法を作ることが好ましいと考えています。
 今回、男子がいないために養子を迎えることになりますが、いつまでも旧宮家の方だからということで入ってくるのは不自然です。例えば10年など期間を限って、あくまでも特例的に進めることが考えられます
――ただ、すでに数十年を民間で過ごして来たご本人たちのご意向は得られるのでしょうか
 「いざとなれば」と男系維持の決意をもっておられる方々はいらっしゃいます。もちろんご当人、あるいはお若い方だったらご両親など、当事者の了解を得ることが前提です。
 養子を進めるのであれば、まず旧宮家養子特例法を作らなければいけません。おそらくそれに基づいて動くのは皇室会議だと思いますが、現宮家と旧宮家の色々な内情を調べてお声をかけることになるでしょう。
――旧宮家の方々を例えば男子を迎えるとか国民は理解できるのでしょうか
 これまでも男子皇族は民間の方とご結婚されてきました。結婚して妃殿下になられた方々は皆さん民間出身でしたが、立派な皇族になられています。
 養子となる方々は、由緒正しい旧宮家の方々です。その方々が皇族になれば、立派な皇族となられることでしょう。そう思いますよ。
 歴史的にも宇多天皇醍醐天皇のように一旦臣籍降下した方が後に皇族、天皇になった方もおられます。今の旧宮家の男子と立場としては同じではないでしょうか。
 一方、民間から男子を迎えたことは一度もありません。女性宮家をつくり、民間の方と結婚した場合、どんな方がくるかわからない。これは危険でしょう。
 そんな制度を採用するのか、それとも皇室の歴史伝統を踏まえて旧宮家の男系男子を養子としてお迎えするのか。どちらが正しいのか、望ましいのかは、おのずから結論が出ると思います。
●「皇室の伝統と憲法は男系」
――女性天皇女系天皇を容認する世論もふまえて検討するべきではないのでしょうか
 世論と言いますけれども、確かに皇室が存続するためには国民の支持が必要です。しかし皇位継承はあくまで皇室典範に基づくものですから、世論によって変更することはできません。かつては雅子さま愛子さまに対するバッシングがあった時代もありました。その時々の移りやすい世論でもって皇室のあり方を決めていいのでしょうか。
 確かに憲法天皇の地位を「日本国民の総意に基づく」(第1条)と定めていますが、国民の総意で決まるのは天皇制度そのものであって、個々の天皇のことではありません。その天皇を時々の国民の意見で決めてしまっても良いのでしょうか。
 また、憲法にいう「日本国民の総意」についてはさまざまな考え方がありますが、少なくともその時々の世論とは異なります。したがって、世論だけで皇室の伝統であり憲法が想定している男系の皇統を変更することなどできません。
 「不易流行」という言葉もあります。不易という変わらないものがあって、しかし変わるものもあると。皇室は2000年も守り伝えられてきたかけがえのない伝統ですよね。こういったものは変えてはならない。男系男子は不易の部分だということなのではないでしょうか。
――国民がなぜ女性天皇女系天皇を容認するのかも検討するべきではありませんか
 女性、女系天皇の支持者たちはその意味を十分に理解しないまま「男系が良いか、女系が良いか」と二者択一で議論を進めているのではないでしょうか。男女平等などの視点でもって「男系がいいか、それとも女系がいいか」と、議論をしていると私には思えます。
 男女平等の立場から女性天皇を支持する人が多いのではないでしょうか。しかし皇室には平等原則は直接適用されません。また、皇室は女性を受け入れますが、男性を排除してきたんですよ。つまり男性差別とも言えなくもありません。
 なぜ男性を排除したかと言えば、男系を守るためでした。古代は皇族同士しか結婚しませんでした。それが聖武天皇の頃から民間の皇后がどんどん入ってくるようになります。その間に生まれた子すべてに皇位継承権を認め、女系も容認していったら、日本の皇室は藤原家の家系になっていたかもしれないし、バラバラになっていたでしょう。そうならないよう男子は排除してきたと考えられます。
 男系の皇統は一度断絶したら二度と繋がらない。取り返しがつきません。
 【プロフィール】 国士舘大学客員教授日本大学名誉教授。法学博士。 昭和21年、静岡県生まれ。昭和46年、京都大学大学院修了。愛媛大学教授を経て、平成6年より日本大学教授。平成29年、日本大学名誉教授、国士舘大学特任教授。専門は憲法学。比較憲法学会・元理事長、憲法学会理事、産経新聞「正論」執筆メンバー。産経新聞正論大賞」受賞(平成31年)。著書に『憲法における天皇と国家』(成文堂、3月刊)『憲法の常識 常識の憲法』(文春新書)『憲法と日本の再生』『靖國と憲法』『政教分離とは何か』『憲法政教分離』(成文堂)など多数。
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🕯142)─1─日本人はなぜ桜が好きなのか。~No.301 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 今年の桜は散るが、来年の桜は春になるとまた咲く。
 日本の桜は、お花見のどんちゃん騒ぎの宴会ではなく、日本の文化・宗教・芸能、死生観・人生観の源流の一つである。
 つまり、桜に対する認識は日本人と中国人・韓国人・朝鮮人とは全然違う。
 桜は、天皇靖国神社に通じている。
 その意味で、反宗教無神論を語る現代の日本人と昔の日本人とでは桜の見方、接し方が違う。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、西行(隠遁僧侶)・在原業平都落ち歌人)・松尾芭蕉(俳聖)・葛飾北斎(絵師)など一途に我が道を極める為に全国を流浪する偉人や旅をする賢人が好きで、彼等が愛したモノに憧れを抱く。
 その意味で、日本民族は定住者ではなかった。
 日本民族は、海の民・舟の民であった数万年前のヤポネシア人(旧石器人)や縄文人(日本土人)の遺伝子を受け継いでいる。
   ・   ・   ・   
 2024年2月21日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「日本人はなぜ桜が好きなのか――「世捨て人」西行も執着を捨てられなかった「桜への熱愛」
 桜はもともと日本列島に自生していた
 日本人が桜を愛好するようになったのは平安時代に入ってからといわれている。そして、その人気に拍車をかけたのが、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した歌人西行(1118-1190)である。
 【写真を見る】“自分が死ぬ日”を歌で予言 願い通りの死を遂げた「伝説の歌人
 西行歌集研究の第一人者・寺澤行忠さんの新刊『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)には、西行の桜への熱愛ぶりが紹介されている。同書から一部を再編集してお届けしよう。
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 桜の名所として知られる奈良県吉野山
 桜はもともと日本列島に自生していたものであるが、特に吉野山には、他の山より多く山桜が自生していた。
 7世紀の末に活動し、後に修験道(しゅげんどう)の祖と言われた役小角(えんのしょうかく)は、仏教を好み、呪術をよくして、葛城山(かつらぎさん)に入って苦行を積み、吉野の金峯山(きんぶせん)、大峰などを開いた。そして金峯山寺をつくり、桜の木に蔵王権現(ざおうごんげん)の像を刻んで奉ったという。以来桜は神木として吉野に寄進されることも多くなり、そのこともあずかって、吉野は今日のような桜の名所となっていったのである。
 春の花といえば、『万葉集』では多くの場合梅の花であるが、平安朝になると、桜の花を指すようになった。平安朝の貴族たちは桜の花を愛し、桜の季節には花見もしばしば行われた。勅撰集の春の部には、桜を詠む歌が多く採られている。ただこの時代の桜に対する愛好や花見の習慣は、あくまで上流階級、貴族の世界のものであった。一般の民衆が桜を愛好する風習は、まだなかったのである。
 西行も若いころから桜をとりわけ愛し、殊に桜の名所である吉野にはしばしば花見に訪れ、庵を結んではしばし滞在し、桜を愛(め)でた。
 「おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかゝる白雲」(世はすべて桜の花盛りになったことだ。山の端ごとに白雲がかかっている)
 「なべてならぬ四方の山辺の花はみな 吉野よりこそ種はとりけめ」(並々でなく美しく咲いている四方の山辺の花は皆、吉野から種をとったのであろうか)
 「たぐひなき花をし枝に咲かすれば 桜に並ぶ木ぞなかりける」(比類のない美しい花を枝に咲かせるので、桜に比べられる木はないことだ)
 桜の花の季節の到来を心からよろこび、あらゆる花の中でも桜に並ぶものはなく、吉野こそその根源の地だとする。「おしなべて」の詠では、桜の花を「白雲」に見立てている。山々を遠望し、その山々に桜が咲き競っていることを詠むいわゆる「丈の高い」歌で、「御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)」に自選し、『千載集』にも採られているが、勅撰集の中にあっても、少しの違和感もない秀歌である。
桜への執着心を捨てられなかった西行
 「花に染む心のいかで残りけむ 捨て果ててきと思ふわが身に」(この俗世をすっかり捨てきってきたと思うわが身に、どうして桜の花に執着する心が、残っていたのであろうか)
 出家は、すべての現世的欲望を断ち切ることである。だから桜の花に執着する心も放擲(ほうてき)したはずなのに、花を愛でる心は、依然として強く残っている。「花に染む」の歌は、さてどうしたものか、という自問である。花に対する執着心に困惑しながらも、そのような自分をどこかで肯定するのである。この歌は『千載集』入集歌でもある。
 「身を分けて見ぬ梢なく尽くさばや よろづの山の花の盛りを」(この身をいくつにでも分けて、あらゆる山の桜の花盛りを、見つくしたいものだ)
 「ながむとて花にもいたく馴れぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ」(桜を眺めて、たいそう慣れ親しんできたので、いよいよ散って別れるとなると、まことに悲しいことだ)
 身を分けてでも、花という花を見つくしたいと願い、いよいよ散るとなると、その別れがつらいという。これらの歌にみられる花に対する熱愛ぶりは、尋常一様ではない。このことは、同時代の他の歌人たちの歌と比較してみれば、ただちに了解しうることであろう。ここまでくると、花も人格を持った人間と同じである。というより、西行においては桜の花はほとんど恋人にも等しい存在であった。
 このような性向は、天性の資質と言ってもよいものであろう。すなわちひたすら美を憧憬(しょうけい)し、遥か遠くに思いを馳せる、いわば浪漫的精神とでも呼んでよいものは、生涯を貫く西行の重要な性格の一部をなしている。
 その憧憬の対象となる美の中でも、桜は最も象徴的なものである。あまりにも強い執着ぶりに、それは若き日に遂げ得なかった恋の、無意識の代償行為なのかとさえ思われるほどである。がしかし、出家後の単調な山里での修行生活の中で、長くつらい冬を過ごして、春を迎え、匂うばかりの色鮮やかな桜花を待ち迎える喜びが、生来の桜の花に対する偏愛の傾向をさらに助長したであろうことは、想像に難くない。そうした出家後の生活様式も、花に対する熱愛と無関係ではないであろう。
 「花の下にて春死なむ」の影響
 「願はくは花の下にて春死なむ」――どうすれば西行のように清々しく生きられるのか。出家の背景、秀歌の創作秘話、漂泊の旅の意味、桜への熱愛、無常を乗り越えた「道」の思想、定家との意外な関係、芭蕉への影響……偉才の知られざる素顔に迫る。西行一筋60年、西行歌集研究の第一人者がその魅力を語り尽くす決定版 『西行 歌と旅と人生』
 西行は「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」(出来ることなら、生涯愛してやまなかった桜花舞い落ちる木の下で、2月15日の釈迦入寂〈にゅうじゃく〉の日に、この世の生を終えたい)という歌を詠み、実際に、その願い通りの死を遂げた。
 そのことに人々はいたく感動し、その事実が西行を主人公とするいくつかの説話文学を生むことにもなった。そうした説話類が広く読まれ、西行の桜を詠む歌が人々に広く愛唱されたことも大いにあずかって、日本人の中に桜を愛好する気風が次第に広く形成されていくことになったのである。
 桜を愛好する風は、平安朝以来貴族文学の世界では認められることであり、その後の風潮も、ひとり西行の力によるものではむろんない。けれどもそれが武士の世界にまで及び、さらに広く、日本人全体の国民性にまで定着する上で、西行の与えた影響は少なからざるものがあった。
 ※本記事は、寺澤行忠『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。
 デイリー新潮編集部
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 日本民族文化における自然観とは、縄文時代以来、自然と人間が対立しない、自然との繋がりを大切に文化である。
 それを体現しているのが、自然物をご神体とする神社である。
 日本民族の美意識は、「わび、さび、簡素」だけではなく、濃くて派手な縄文系、シンプルで慎(つつ)ましい弥生系、統一された形式としての古墳系が複雑に絡んでいる。
 それを、体現しているのが神社のしめ縄である。
 それは、「全てが、控えめにして微妙に混じり合っている」という事である。
 谷崎潤一郎「言い難いところ」(『陰翳礼讃{いんえいらいさん}』)
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 日本文化とは、唯一人の生き方を理想として孤独・孤立・無縁、わび・さび、捨てて所有しないを求める、「何も無い所」に時間と空間を超越し無限の広がりを潜ませる文化である。
 それが、日本人が好む「色即是空、空即是色」である。
 日本文化は、中国文化や朝鮮文化とは異質な独立した特殊な民族的伝統文化である。
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 日本の宗教とは、虚空・虚無という理想の境地に入る為に自己や自我など自分の存在を肯定も否定もせず、ただただ「はかなく無にして消し去る=漠として死を見詰める」事である。
 それ故に、日本文化や日本の宗教は男が独占していた。
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 日本民族の伝統的精神文化は宮仕えする男性の悲哀として、行基西行、一休、鴨長明兼好法師芭蕉葛飾北斎など世捨て人・遁走者、隠者・隠遁者・遁世者、隠居、孤独人・孤立人・無縁人への、求道者として一人になりたい、極める為に一人で生きたいという憧れである。
 如何なる時も、オンリーワンとしてナンバーワンとして我一人である。
 そして日本で女人禁制や女性立ち入り禁止が多いのは、宗教的社会的人類的民族的な理由によるジェンダー差別・女性差別・性差別ではなく、精神力が弱い日本人男性による煩わしい女性の拘束・束縛からの逃避願望である。
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 女性は、子供を産み、子供を育て、末代まで子孫を増やしていく、つまり「命を喜びを持って育み、有を生みだす」存在である。
 日本における女性差別は、「死を見詰めて無を求める男」と「命を生み有りに生き甲斐を感じる女」、ここから生まれた。
 つまり、男尊女卑と一口で言っても現代と昔とは全然違う。
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 日本民族心神話において、最高神天皇の祖先神である女性神天照大神で、主要な神の多くも女子神である。
 日本民族は、あまた多くの女性神に抱かれながら日本列島で生きてきた。
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 日本民族は、旧石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
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 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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⚔50)─2・E─260年のパクス徳川は鎖国とキリシタン追放で得られた。〜No.214 

   ・   ・   ・   
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 戦国時代最大の危機は、中世キリスト教会・イエズス会修道士会による日本に対する宗教侵略であった。
   ・   ・   ・   
2020-05-10
⚔37)─1─徳川幕府は世界の三流国化で貧しくとも平和と安定を達成した。~No.159
2020-08-13
⚔37)─2・A─徳川家康の田舎的国防策は現代の国際的国防戦略とは違う。~No.160
2023-12-19
⚔37)─2・B─徳川家康は正統皇室と伝統祭祀が永く存続する事を願っていた。~No.160 2023-12-21
⚔38)─2・B─開明的な徳川家康の対外政策と自由貿易。三浦按針。~No.164 
2018-09-07
⚔45)─2─中世キリスト教会とキリスト教原理主義者の日本国・日本天皇を滅ぼす陰謀。~No.184No.185No.186No.187・ @ 
2018-09-25
⚔46)─3─バチカンの日本キリスト教化計画は、徳川家康策に敗北した。太平の世の伊賀と甲賀。1639年/~No.197No.198No.199・ @ 
2020-03-24
⚔50)─1─鎖国策は日本を破壊するキリスト教排除が目的であった。〜No.213・ * 
2023-04-10
⚔50)─2・A─鎖国策とは軍事力で宗教侵略から日本を守る為の最強の防衛策であった。岡本大八事件。〜No.214  
2020-06-02
⚔51)─1─鎖国令は疫病水際対策で、賤民や部落民は疫病死・変死の死体処理専門業者であった。〜No.215No.216 
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 中世キリスト教会・イエズス会修道士会群と白人キリスト教徒商人は、日本人商人と手を組んで日本人交易で莫大な金儲けをしていた。
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 2024年1月7日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「結局、『どうする家康』とは何だったのか…コラムニストが1年間見続けたワケ
 「何か新しい家康」を求めて
 NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイトより
 2023年の大河ドラマ『どうする家康』は徳川家康が主人公であった。
 家康が登場する大河ドラマはいままで多数あり、だいたい20作ある。新たに作るかぎりは何か新しい家康を見せねばならず、つまり家康の上に家康を重ねなければならないわけで、なかなか大変だ。
 【一覧】「現場で好感度の高い女優ランキング30」最下位は、まさかの…
 2023年の家康は「平和をめざす家康」でいった。
 まあたしかに、家康のところで戦いの世は終わったので、家康はもとから平和をめざしていた、と言うことは可能である。
 いまどきの家康はそういう方向で描かれることもけっこうある。
 『どうする家康』で珍しかったのはそれに最初の妻をからめたところである。
 彼女との約定を大切にすることによって、家康は天下を平定した。と、2023年家康はそういうことになっていた。
 家康の正室・瀬名は築山殿とも呼ばれ、武田方と内通した疑いによって殺されている。歴史上は(これまでの大河でも)だいたいそう解釈されている。
 2023年でも彼女は武田方と連絡は取り合っていた。
 でもそれは内通でもないし、織田への反攻のためでもない。
 徳川と武田を中心として、上杉、北条、伊達らが戦わず仲良くなって慈愛の国の連盟を作るための謀略であったのだ。東日本「慈愛による連合」を作ろうと、瀬名が動いていた。
 彼女は張儀蘇秦に比するべき歴史的な策謀家であったのだ。
 まるで「歴史を使った大喜利
 『どうする家康』の24話でその説明を聞いたとき、衝撃的でちょっと感動した。
 同時に腰がくだけそうでもあった。まるで、大人に誉めてもらうためだけに書かれた中学生の作文を聞かされているようだ。
 歴史を使って「大喜利」をやっているとも見える。大喜利のお題に文句を言ったってしかたがない。笑って見守るしかない。
 慈愛の同盟はうまくいかず、瀬名は殺される。ただ家康は、その亡き妻との約束を守るため、戦なき世を実現させようと邁進する。
 家臣団も一体となってそれを支えていた。
 それが2023年『どうする家康』であった。
 ちょっとおもしろかった。
 同時にちょっとおもしろすぎた。真剣に見るものではないなとおもいつつ、でも、次、どんな変なことを言い出すかとおもって、ずっと目を離せなかった。どうやら不評だった(というか相手にされなかった感じ)であるが、私はけっこう好きだった。
 あらためて徳川時代250年の平和(大坂の陣から戊辰戦争までとすると251年)をもたらしたのは、家康と三河家臣団、その子孫たちだったのかとおもうと、しばし感心してしまう。
 そして、250年の平和をもたらした政策としてその後の「国を鎖す」という決定は大きかった。
 島原の乱のあと、鎖国が徹底される。家康の孫、家光の時代だ。
 鎖国だから、日本人であるかぎりは海外の国に行くことはなく、また海外から人がくることもない。そういう世の中である。
 わりとこの方策は日本人のメンタリティと合っていたとおもうのだが、でも国民の心情を慮っての政策ではない。
 宗教侵略に対する対抗策である。
 言い方を換えれば、宗教戦争の前哨戦として、国を鎖ることが徹底されたのだ。
「ものめずらしさ」から「危機感」へ
 歴史の授業で習ったはずなのに、鎖国という現象だけが強く印象に残り、なぜ、という部分はわりとスルーされている。
 「以後よく広まるキリスト教」は1549年、ザビエル一行の決死の上陸以後、国内での信者数を増やしていった。大名でも、大友宗麟高山右近小西行長など著名な大名が洗礼を受けていた。『どうする家康』でも十字架の陣羽織を羽織った大名(行長)も登場していた。
 べつだんキリスト教徒が日本国内で増えてもいいじゃないか、というのは、宗教信仰熱が科学信仰熱に取って代わった現代だからこその感想で、こと16世紀においては、そんなのんきなことを言っていられない。
 ルターによる宗教改革があり、新教(プロテスタント)の勢力に押され始めて、旧教(カソリック)も必死だった。波頭を越えて世界の東の果て・日本までやってきた。彼らも命懸けである。
 最初はものめずらしさもあって、何となく受け入れていた支配者たちも、やがて、危機感を抱く。
 三英傑でいえば、信長は中世秩序の破壊者として、キリスト教はどんどん受け入れていた。中世のしきたりを破る道具として有効、と考えていたところがある。
 秀吉も最初は信長の方針を受け継いでいたが、全国統一して国全体の支配者になる道筋がついたころ、バテレン追放令を出す。1587年、キリスト教禁止の始まりである。
 すでに2年前に関白になっていた秀吉は、「日本」のおおもとである天皇家と密接に関わっており(なにしろ関白だから)、日本国に天皇家のあるかぎり、キリスト教の教えが国の中心にきてもらっては困る、という行動に出る。
 もともと宣教師たちは本気である。
 ローマ教皇のための土地と人民を獲得しようとして、日本国に乗り込んでいる。
 教皇、というのは神の代理人であり、つまり「神のもの」として日本の土地や人民を捧げようとしていたのだ。
 当時の資料を読んでいると、その実情がよくわかる。
 神社への参詣は「悪魔の所業」!?
 ルイス・フロイスの『日本史』がもっとも入手しやすく、読みやすい一次資料である。
 まず仏教徒や、神道の行事などを指して「悪魔の所業」と断じている。
 それに従事している者たちは、全員「悪魔」およびその手先と呼んでいる。
 本当に正しいのはキリストの教えだけであって、迷える愚かな者たちは、真の教えを知らないために「ホトケ」やら「カミサマ」という悪魔の考え出した教えを間違って信じ、悪魔の道を進んでいると糾弾しているのだ。
 日本人のキリスト教信者となると、悪魔の所業に従事する人たちから隔離される。
 悪魔の所業というのは「お正月には家族で集まって新年を祝う」「神社に参詣する」「墓参りをする」という21世紀にも続く(しかも無意識に行うような)行為のことも指している。
 正月だけは家族のもとに帰らせてくれないかと頼む信者を、隔離して、キリスト教施設へと軟禁した事例も見られる。
 やがて、キリシタン大名の領地内では、過激な信者たちが、神社仏閣を毀ち始める。
 この先にもっとキリスト勢力の力が強くなっていたら、多くの神社もお寺も潰されていた可能性が高い。それがキリスト教徒が増えていく、という現実である。
 あきらかにそれはまずい。
 統治者として、それを見過ごすわけにはいかない。
 秀吉から家康、さらに秀忠、家光の時代にかけて、徐々に鎖国=キリスト教信者の排除が完成されていく。
 キリスト教の力があまりに強く、徹底した暴力集団であることを察知した彼らは、とにかく日本国内から「キリスト教」というものを完全に除外することにした。
 日本国内では徹底してキリスト教を認めない。
 日本の秩序を破壊するものとして、認めなかった。
 国内に住む日本人であるかぎり、キリスト教信者であるわけがない。それを徹底した。
 信者であることが露顕すれば死刑になるのが17世紀から19世紀半ばすぎにかけての日本の状況である。
 それが鎖国である。
 言語化されていないこと
 例外的な存在として隠れキリシタンと、漂流民がいる。
 隠れキリシタンは、でも先導者がおらずに信仰をつづけており、もはや潜行した時点で本来のキリスト教とはかけ離れたものになっていった。しかもしっかり潜行していたので、その勢力が周囲に何かしらの影響を与えたことはなかった。
 漂流民も、生きて日本国に帰るのが望みであったから、流された先の(たとえばロシアなりアメリカなりの)キリスト教行事は旅人として見物はしていたが、けっして入信しようとしなかった。ときに土地の女性と一緒になって信者になってしまう漂流民もいて、彼らはその土地で生きていくと決心して、のちに帰国する漂流者の手記からは消えていく。
 やがて暴力的に開国させられ、キリスト教徒が国内に現れるが、もはや16世紀的宗教の熱情は帯びていなかった。布教ではなく通商をしたがっていた。
 17世紀から19世紀の鎖国によって、日本国は多くのものを守ることができた。
 もちろん失ったものもあるが、それは、いっとき盛んに言われたことなので(和辻哲郎の『鎖国 日本の悲劇』とか)いまさら言うまでもないだろう。
 『どうする家康』を見ながら、瀬名(有村架純)の強いおもいが、やがて国を鎖すことにつながり、それが長き平和へとつながるのか、と感慨深かった。
 日本はキリスト教信者がほとんどいない国なのに(信者数は国民のだいたい1%)、なぜクリスマスを祝うのか、というのは明治以来150年、常に問いかけられている。
 先だっての高島屋ケーキ崩れのイギリスでの報道でも触れられていた。
 それは、信者がほとんどいない国であるからこそ、ということになる。
 キリスト教そのものを国を挙げて信じていないので(秀吉―家康ラインのおかげである)でもキリスト教国と喧嘩するのも面倒だから、表面上仲良くするためにはクリスマスを祝うあたりでの手打ちがいいんじゃないか、ということだろう。誰一人として言語化していないが、国民の総意はそのあたりだとおもわれる。
 (詳しくは『愛と狂瀾のメリークリスマス』)
 さらに関連記事『「つまらなかった大河ドラマ」ランキング…4位『平清盛』、3位『江』、2位『おんな城主 直虎』…納得の1位は? 』では、2000年以降の大河ドラマの「本当の人気」について考察しています。 
 堀井 憲一郎(コラムニスト)
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💄21)─1─300年続いた“ナゾの歓楽街”「吉原」が日本から消滅した歴史背景。~No.44No.45 

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 現代日本人には、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がない為に本当の歴史が理解できない。
 戦後民主主義教育における歴史教育の多くがウソである。
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 2024年2月10日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「遊女たちは奴隷と同じ」300年続いた“ナゾの歓楽街”「吉原」が日本から消滅した歴史背景
 ナゾの街「吉原」とはいったいどんなところだったのか? ©getty
 〈「日本はこれを誇るべきだ」外国人旅行者が激増、子連れで来る観光客も…日本一有名な歓楽街「飛田新地」に起きた異変〉 から続く
 《写真多数》セーラー服姿で誘う“妖しい美女”も…ナゾの街「飛田新地」を覗いてみる
 時代劇や落語の世界で見聞きする「吉原」。かつては江戸幕府も公認の遊郭だった同地がある日を境に勢いを弱め、ついにはその町名も消滅した理由とは? 風来堂編著『 ルポ 日本異界地図 』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/ 後編 を読む)
 ◆◆◆
 江戸時代に隆盛を極めたナゾの街「吉原」
 高下駄を履いた遊女が練り歩く花魁道中などでよく知られるのが遊廓・吉原だ。
 吉原遊廓が誕生したのは1618(元和4)年のことだ。江戸の地に男性たちを相手にする遊女屋がいくつもでき始め、そのうちのひとつを営む庄司甚右衛門が幕府に願い出て市中に点在していた遊女屋を1ヵ所に集めて遊廓を開いた。吉原は京の島原(京都市下京区)、大坂の新町(大阪市西区)と並んで三大遊廓と呼ばれ、幕府公認の遊廓となっていた。
 もともと吉原は現在の中央区日本橋人形町のあたりにあった。葭や茅が生い茂る湿地帯で、それらを刈り取って盛り土をして地盤を形成した。そこから「葭原(よしわら)」と呼ばれ、やがて「吉原」になったといわれている。その後、江戸の開発が進み、浅草寺の裏手にあたる日本堤に移転することになった。現在、色街としてよく知られている吉原は移転後の吉原だ。周囲には黒板塀がめぐらされ、お歯黒どぶに囲まれていた。出入りは大門の1ヵ所のみだ。
 遊女屋では表通りに面した格子がはめられた「張見世」という部屋に遊女たちが座って道行く男たちを誘い、男たちは気に入った遊女を選んで遊んだ。また大見世と呼ばれる規模が大きく格式の高い店で遊びたいと思ったら、男性は引手茶屋を通して茶屋の2階で宴を開き、その後に遊女屋へと移動して遊女と床に入るという手順が必要だった。
 しかし、隆盛をきわめた吉原も明治維新とともに状況は大きく変わる。
 吉原は徳川幕府のときと同様に遊女と遊ぶ代金である揚代の一部を新政府に上納することで営業が認められていた。一方、遊廓の遊女たちは奴隷と同じだという諸外国からの批判が高まり、新政府は1872(明治5)年10月に「芸娼妓解放令」を発布した。けれども、遊女屋は貸座敷と名前を変えて存続し、娼妓、つまり遊女たちは場所を借りて自らの意思で営業しているという体裁を取ることになり、その実態は、ほぼ変わらなかった。
 吉原の女たちは貧しい農村や没落した商家などから身売りされて来た者がほとんどだった。しかし、日本に欧米のキリスト教的な倫理観が入ってくると、遊女たちが差別の対象となってくる。1900(明治33)年に「娼妓取締規則」が制定され、遊女の自由廃業が可能となったが、一方で、身売りされる女性はなくならず、吉原も存続し続けた。
 「吉原」という名の町名は消滅
 太平洋戦争末期、東京大空襲によって吉原も焼け野原になった。
 しかし、すぐに東京都と警視庁から吉原再建の命令が下り、1945(昭和20)年8月には焼け跡のビルを改修して営業を再開した。間もなく終戦を迎えると、今度は日本政府が進駐軍向けのRAAを東京の大森海岸など全国に設けた。
 1946(昭和21)年にはGHQに従って公娼は廃止されることになり、兵士たちの間で性病が蔓延したこともあって、RAAも閉鎖。吉原は翌年には「特殊飲食店街」と名称を変え、借金の証文を破棄。遊女たちは借金に縛られているのではなく、飲食店で働きなが自由恋愛で性行為をしているという建前が取られた。
 1956(昭和31)年5月に「売春防止法」が成立。2年の猶予をもって吉原の特殊飲食店も営業を終了した。代わりに吉原にはトルコ風呂が増えていく。トルコ風呂とは、当時は男性客に対して女性が垢すりを行う個室つき浴場。やがて性的サービスも行われるようになっていったのだ。
 現在では町名も変更され、住所としての「吉原」は存在しない。こうして形を変えながらも400年近く続く色街では、いまも多くの女性が働き、男たちの欲望を満たし続けているのだ。
 「ちょっとエッチな大人のディズニーランド」滋賀県の“ナゾの歓楽街”「雄琴」には何がある?【これぞ男の夢の世界】 へ続く
 風来堂,加藤 桐子/Webオリジナル(外部転載)
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