🏞72)─2─『宝暦治水』を小中学がミュージカルで再現。~No.292 

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 2024年3月6日 YAHOO!JAPANニュース 毎日新聞「江戸期の治水工事、ミュージカルで再現 小中学生、薩摩藩士ら演じる
 ミュージカルの稽古に励む子どもたち=2024年3月午後5時38分、鹿児島市内で宝満志郎撮影
 江戸時代に薩摩藩士らが尽力した木曽川などの治水工事を題材に子どもたちが演じるミュージカル「『宝暦治水』~語り継ぎたい名もなき薩摩の偉人たちとの初夏」が10日、鹿児島市の市立山下小学校で初公演される。
 【写真特集】梱包され、山道を慎重に下ろされる金剛力士
 薩摩藩岐阜県を流れる木曽川などの治水工事を幕府に命じられ、約1000人の藩士を派遣。難工事ゆえに従事した多くの藩士らが命を落とした。工事の総奉行、平田靱負(ゆきえ)は、工事が終わったあと責任をとって自害したとされる。
 2024年はその宝暦治水から270年。「鹿児島県薩摩義士顕彰会」と鹿児島市を中心に活動する「劇団上町クローズライン」が、藩士(義士)の功績を知ってもらおうと共催する。
 演じるのは県内の小中学生20人で、23年11月から毎週土日に稽古(けいこ)を重ねてきた。分かりやすく解説する講談を入れながら、洪水に苦しむ農民たち、藩主、平田の苦渋の決断と説得、藩士らの労苦を、歌や演舞を交え表現する。
 演出を手掛ける同劇団の宇都大作代表は「(宝暦治水を)もっと身近に感じてほしいという思いで、次世代に向けて子どもたちに演じてもらう」と語り、平田役の中学2年、夏迫瑛(あきら)さん(14)は「立派な人たちがいたということを分かってもらい興味を持ってもらえればうれしい。表情豊かに演じたい」と意気込んでいる。
 10日は午後4時開演し、約1時間上演。入場無料。問い合わせは宇都代表(090・1349・0986)。【宝満志郎】
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⚔5)─2・B─鉄砲は伝来の約40年前に関東の合戦で使用されていた。~No.24 

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 2024年月28日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【新説・戦国史】鉄砲が伝来したのは1543年・種子島ではなかった!? 
 「以(1)後(5)予(4)算(3)がかかる鉄砲伝来」の語呂合わせがよく知られる鉄砲伝来。従来は種子島に伝来したものとされていたが、それもまた近年の歴史研究によって新常識が明らかになっている。
 従来説:南蛮貿易によって種子島からもたらされた
 新説:中国、東南アジアなど複数のルートからも伝来した
■『鉄炮記』に綴られた種子島伝来の由来
 鉄砲は、火薬を爆発させることで弾丸を飛ばす武器である。現代では、一般的に「鉄砲」と表記されるが、戦国時代には「鉄炮」と書かれることもあった。
 火薬を用いた武器は、古代の中国で発明されたらしい。やがて、それがヨーロッパに伝わり、16世紀の初めに鉄砲として完成した。この鉄砲が、戦国時代の日本に伝えられたのである。そのときの様子は、江戸時代に書かれた『鉄炮記』によると、次のようなものであった。
 天文12年(1543)、シャム(タイ)から明(中国)に向かっていたポルトガル人が暴風雨により種子島に漂着する。この種子島の領主種子島時堯(ときたか)は、試射をさせてもらった鉄砲をいたく気に入って2挺を買い上げると、配下の職人に複製を命じるとともに、火薬の調合を学ばせた。こうして種子島では、鉄砲が製造されるようになったのである。その後、種子島を訪れた紀伊根来寺の僧徒や和泉堺の商人らによって、鉄砲は畿内にも伝えられた。以上が『鉄炮記』のあらましである。
 もっとも、ポルトガル側の史料によれば、ポルトガル人の種子島漂着は、『鉄炮記』が伝える天文12年の1年前にあたる天文11年(1542)であったとされる。年代にずれは生じているものの、種子島に伝来したという記述は変わらない。そのため、『鉄炮記』の記述には信憑性があるとされ、ポルトガル人によって鉄砲が種子島に伝えられたという通説が広まることとなった。これがいわゆる鉄砲伝来である。
■伝来の約40年前に関東の合戦で使用されていた⁉
 しかしながら、近年、それよりも早い時期に鉄砲が伝わっていたのではないかとの説が唱えられている。というのも、天文12年よりも早い時期に、日本国内に鉄砲が用いられていたとする史料が残されているためである。
 たとえば、『三河物語』では、永正3年(1506)、駿河守護今川氏親の命を受けた北条早雲(伊勢宗瑞)が三河に侵攻してきたとき、早雲の軍勢が松平氏の岩津城に対し、「四方鉄砲はなちかけ」たと記す。
 ちなみに、この早雲から始まる北条氏五代の興亡を記した軍記物語『北条五代記』にも、永正7年(1510)に明から鉄砲が伝来したとしており、その後、北条氏の領国内に普及したとしている。
 『三河物語』は徳川家康の家臣だった大久保彦左衛門が記したものであり、実際に戦いを見聞きしたわけではない。しかも、『北条五代記』の記述が正しいとすれば、明からの伝来よりも早い段階で北条早雲が鉄砲を装備していたことになってしまう。
 『北条五代記』は、江戸時代に編纂された軍記物語であり、事実とは断定できないのも確かである。ただし、史料からは確認できないものの、種子島ポルトガル人が漂着する以前から、日本に鉄砲が伝わっていた可能性は否定できない。というのも、天文12年に種子島に漂着したポルトガル人は、ポルトガル船に乗っていたのではなく、明人の五峰が仕立てたジャンク船に乗っていたのだった。
 この五峰こそが、倭寇頭目として知られる王直その人であると考えられている。つまり、ポルトガル人を種子島時堯に仲介したのは倭寇であり、すでに倭寇は鉄砲の存在を知っていたことになる。こうしたことから、最近の説では、種子島に伝来する以前からすでに倭寇の密貿易によって鉄砲が九州地方に伝えられていた可能性が指摘されているのである。
 倭寇による伝来が事実だとすれば、種子島に限らず、日本各地に鉄砲が同時期に伝来していたことも容易に考えられる。当然、北条氏の支配下にあった関東にも伝わっていたとしても不思議ではない。ポルトガル人を介したルートだけでなく、倭寇によって中国や東南アジアから伝来したルートも、新説として受け入れられつつある。
 ただ、当時の史料に鉄砲は「種島筒」や「鳥銃種島」などの名称ででてくる。種子島以外にも日本の各地に鉄砲が伝わっていたのだとしたら、なぜ「種子島」が鉄砲の代名詞になったのかとの疑問は残る。
 監修・文/小和田泰経
 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
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🏞92)─4─与力の収入の半分以上は「賄賂」だった。同心が得ていた「袖の下」。~No.382 

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 現代日本人は愛読する時代小説に洗脳されて、異常なまでに武士道を美化しすぎている。
 日本民族の歴史とは、名誉を重んずる武士・サムライの歴史ではなく名もなき身分が低い庶民の歴史であった。
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 2024年3月3日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「与力の収入の半分以上は「賄賂」だった!?  江戸時代に行われた「不正」知られざる驚愕の実態
 江戸時代で行われていた隠蔽工作とは(写真:かたつむり/PIXTA
 歴史上、最も平和だったと言われることも多い江戸時代。しかし、内情を詳しく掘り下げてみると、賄賂や隠蔽工作など、現代にも通ずる悪事を行う者もいました。その実態はどのようなものだったのか、歴史家の安藤優一郎氏が解説します。
 ※本稿は安藤氏の新著『江戸時代はアンダーグラウンド』より、一部抜粋・再構成のうえお届けします。
 【表で理解】町奉行与力・同心の主な仕事
■都市行政のエキスパートだった与力・同心
 江戸町奉行と並んで、時代劇の主役となることも多い町奉行所の与力と同心。実は、担当部署によってはかなりの役徳があった。南北両町奉行所にはおのおの、与力が25騎、同心が100人ずつ付属していた(延享2年(1745)に同心が20人ずつ増員)。
 与力の家禄は、150~200石。同心は30俵2人扶持である。その組屋敷は八丁堀に置かれたため、八丁堀の旦那という異称もあった。合わせて300人近くいた与力・同心は、他の幕府役人とは違って、事実上世襲である。
 親子代々にわたって与力・同心を務めたため、奉行所の職務に精通するエキスパートだった。かたや彼らのトップにあたる町奉行は、お裁きだけでなく都市行政全般、そして三奉行として寺社・勘定奉行とともに国政を担う立場であった。激務のあまり、在職中に死去する例も少なくない。
 そのため、都市行政に練達している与力・同心をうまく使いこなせないと、町奉行としての職責は果たせなかった。町奉行の代名詞となっている捕り物や吟味にしても、実際には配下の吟味方(ぎんみかた)与力があたった。
 奉行は訴状を読んで、どの与力に担当させるかを決めるだけで、お白洲でも与力が作成した判決文を申し渡すだけだった。町奉行所を動かしていたのは与力・同心なのである。
■「賄賂」が収入の半分以上を占めた与力も
 そんな町奉行所の実情を踏まえ、諸大名がとりわけ与力への付け届けを欠かさなかったことは、あまり知られていないかもしれない。
 一見、大名と町奉行所与力は何の関係もないようにみえるが、大勢の家臣を江戸藩邸に常駐させた大名側としては、家臣が江戸市中で何か問題を起こすことを非常に危惧していた。
 市中の評判となり表沙汰になると、大名の名前に傷が付くからだ。その時には、江戸市中の治安にあたる与力・同心の世話になる。大名の名前が表に出ず、一件が穏便に済むよう奔走してもらうため、前もって特定の与力に付け届けしておく必要があった。金品や国元の名産などを贈った。
 幕末の頃に与力を務めた佐久間長敬(おさひろ)によると、与力には、老中や若年寄からの付け届けまであったという(佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』人物往来社)。幕閣を構成する老中・若年寄にしても大名である。家臣たちの不始末により、その名前が表に出ることを懸念したのだろう。
 南町奉行所の与力を務めた原家の天保11年(1840)の家計記録によれば、総収入121両余のうち諸大名などから得る収入は63両にも達し、収入の過半を占めた。
 この数字には付け届けの品を金銭に換算した分も含まれるが、原家は100家もの大名家から付け届けを受け取ったという(南和男『江戸の町奉行吉川弘文館)。
 要するに、大名たちは保険を掛けたのであり、それはいわば必要経費だった。かたや、市中の見廻りにあたる与力や同心からすると、まさに役得であった。
■訴訟の約7割は金銭をめぐる問題
 江戸時代は訴訟の多い時代であり、欧米顔負けの訴訟社会だった。大岡忠相(ただすけ)が町奉行を務めていた時代の訴訟件数は、なんと4万7731件にも達している(享保3年(1718)に町奉行所が取り扱った訴訟数)。
 その約7割を占めたのが、金公事(かねくじ)と呼ばれた金銭をめぐる訴訟である。4万件もの訴訟を、お白洲で一々裁いたわけではない。和解するよう当事者を勧奨するのが原則だ。その任にあたったのが、吟味方の与力だった。
 刑事にせよ、民事にせよ、町奉行所が取り扱った案件は、吟味方与力が対応した。その時与力は、貸金トラブルが訴訟に発展しないよう、調停役を担うことも多々あった。先の佐久間によれば、持ち込まれた訴訟には、徳川御三家や宮門跡(みやもんぜき)が貸主の案件もあった。
 宮門跡とは、皇族である法親王(ほっしんのう)が住職を務めた、最上級の格を誇った寺院のことである。御三家は言わずもがな、将軍職を継ぐ資格を持つ徳川家の親族で、大名のなかでは最上級の格を誇っていた。
 御三家や宮門跡が貸主の場合、幕府は債権を強力に保護していた。そのため、御三家や宮門跡の寺院からの要請を受けると、町奉行所は借り主に対して返済を強く督促している。御三家や宮門跡としては、町奉行所の威光をちらつかせることができたのは、きわめて有利だった。
 もちろん、与力はタダで動いたわけではない。貸金が無事に回収できると、貸主から手数料として、その1割を贈られた。ただし、その直後ではなく、時期を外した上で、それも時候見舞いという名目で贈られている。回収直後に謝礼として金銭を受け取ることは、さすがに与力も気が引けたのだろう。
 そのほか、大名が借財の返済を商人から迫られていた時には、双方の間を取り持って証文を書き替えさせることもみられた。返済期限の延期など、大名に有利な内容に改めさせたのだ。その際も謝礼を受け取ったのは、想像に難くない。
■同心が得ていた「袖の下」の中身
 大名が付け届けを送ったのは、何も与力だけではない。吟味方与力の配下であった同心も同様だ。しかも佐久間によれば、同心については袖の下を得る方法が、他にもあった。もっともそれは、以下の違法行為や問題行動を見逃す見返りとして、得られるものであった。
 ・犯罪者から袖の下を受け取って、その罪を見逃す
 ・遊廓で放蕩する者を取り調べることで、放免を願う親や主人から袖の下を受け取る
 ・外には知られたくない家庭内のトラブルに介入、解決のための周旋料を受け取る
 ・酒でトラブルを起こした武士から、内分に済ませるための謝礼を受け取る
 言うまでもなく、どれも職権を乱用した行為である。袖の下を受け取ることで、生活の足にしていた同心もいたわけだ。似たような仕事をしていた与力にしても、大差はなかったかもしれない。もちろん、不正が露見すれば処罰されるのは必至である。
 時候見舞いにかこつけて謝礼を受け取るなどして、与力・同心側も細心の注意を払っていた。依頼主の方も、与力に何事かを頼む場合は、相応の配慮をしていた。
■謝礼を送るのにも一工夫を施す
 八丁堀にあった与力の自宅を訪ねるのは人目もあるため、別の場所を設けて密かに面会している。恐らく料亭などが使われたのだろう。
 その際、飲食などの接待が付随したのは言うまでもない。謝礼を贈るのにも、一工夫を施している。
 現金ならば、「お菓子」などと箱書きした上で贈っていた。時代劇でよくみられるように、お菓子の下には山吹色が敷き詰められていたのだろう。
 「切手」を贈る場合もみられた。これは料理茶屋が発行する料理切手のことで、現在で言えば食事券のようなものだった。
 あるいは、1000両の価値がある土地の沽券(こけん)証文を500両に書き替え、その土地を購入してもらう方法もあった。差し引き500両の贈与に相当したことになる。
 このように、与力に依頼した事柄が吟味の対象になったとしても、賄賂とは認定されないよう細心の注意を払っていたのである。
 安藤 優一郎 :歴史家
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2024-01-28
⚔21)─3─戦国時代、人口の9割は“農民”!乱世に翻弄される「影の主役」の生活とは。乱取り。~No.92 
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 🌈19)─1─日本の道徳・規律・規範は天道様崇拝であって武士道精神ではない。〜No.37No.38 ② 
 日本の「お天道様」は、キリスト教の全知全能の神ではなく、儒教の天・天帝でもなく、ユダヤ教イスラム教の絶対神でもない。
 お天道様は、何となくの崇拝宗教であって律法・戒律の啓示宗教ではないので、信仰を契約して入信した信者・教徒はいない。
 日本民族は、お天道様崇拝者である。
 お天道様とは、天皇家の祖先神である女性神天照大神である。
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 トライイット
 ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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 江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
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 現代日本人が憧れ持て囃す武士道は、江戸時代後期、ロシアの軍事侵略危機までは存在しなかった。
 武士道は、明治時代の近代化によって、外敵の侵略から天皇・国・民族、宗教・文化を守る為に民族主義愛国心の中から生まれた。
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💄7)─2・B─藤原道長の「権力」の源泉は、彼を取り巻く女性たちの力にあった。~No.16 

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 日本神話における最高神は、天皇家の祖先神である天照大神つまり女性神である。
 日本の男性神は、女性神である天照大神の臣下として跪いていた。
 日本は、太陽神である女性神である天照大神の恩恵を受けていた。
 それが、古事記日本書紀に基づく日本神話であった。
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 日本の権力構造は、血筋・血統と世襲にあった。
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 2024年3月2日 MicrosoftStartニュース ニューズウィーク日本版「藤原道長の「権力」の源泉は、彼を取り巻く女性たちの力にあった...「後ろ盾」「身分」「生まれ年」の意味とは?
 藤原道長の「権力」の源泉は、彼を取り巻く女性たちの力にあった...「後ろ盾」「身分」「生まれ年」の意味とは?
 © ニューズウィーク日本版
 背を向けている女性が中宮彰子。画面下の男性は彰子の父である藤原道長紫式部日記絵巻断簡』 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
 <男性が女性のもとに通う招婿婚(しょうせいこん)という家族形態においては、適齢の女性たちの存在が摂関政治の中では重要な意味を持った...>
 天皇と姻戚関係を保つことで絶大な影響力を得てきた藤原道長。その権力の源泉は、道長を取り巻く女性たちによってもたらされたと言っても過言ではない。
 平安最強の権力を支えた女性たちとは。本郷和人著『平安最強の貴族・藤原道長源氏物語の謎』(宝島社)より「藤原道長と女性たち」を抜粋。
 女性の力が物を言う平安時代の貴族社会
 【編集部注:男性が女性のもとに通う】招婿婚(しょうせいこん)における家族形態を基礎に置く藤原氏摂関政治は、天皇に入内する適齢の女性の存在が不可欠であった。
 藤原道長の絶大な権力の背景には、こうした女性たちの存在があったと言える。特に若き道長を支えたのは、彼の同母姉である詮子(せんし)の存在だった。
 当時は婿取婚であるので、結婚した男子は家を出て、妻の邸に移り居住する。道長の兄・道隆も道兼も早い時期に兼家一家の住まいである東三条第を出ていた。
 末子の道長は、当時としては晩婚であったため、かなり長い期間、この東三条第で、姉の詮子と同居していたのである。道長と詮子の親密さは、兄の道隆・道兼とは比べようもないほどのものだったと想像できる。
 道長が、道隆の系統である中関白家(道隆流)らとの政争に勝利し、内覧になることができたのも、詮子の後押しがあったからこそとされている。
 藤原道長が愛した女性たち
 道長が正式な婚姻関係を結んだ妻は、左大臣源雅信の娘・倫子(りんし)と、左大臣源高明の娘・明子(めいし)の2人である。
 永延元(987)年12月に道長と倫子は結婚。道長は当初、倫子の住まいである土御門第に通ったが、義父の雅信らが本宅を一条殿に移す。
 その後、この土御門第が、道長夫妻の本宅となった。結婚の翌年にはすぐに長女・彰子が誕生している。のちに入内する一条天皇は当時9歳であったことから、すぐに彰子が生まれたのは大変な幸運だったと言えるだろう。
 藤原道長の「権力」の源泉は、彼を取り巻く女性たちの力にあった...「後ろ盾」「身分」「生まれ年」の意味とは?
 © ニューズウィーク日本版
 『平安最強の貴族・藤原道長源氏物語の謎』(宝島社)31頁より
 彰子の存在が、道長がのちに絶大な権力を手にするために重要な役割を果たしたことは、述べた通りである。
 倫子はその後、長男でのちの関白である頼通、三条天皇の皇后となる姸子(けんし)、次男・教通、後一条天皇の皇后となる威子(いし)、敦良親王(のちの後朱雀天皇)に入内する嬉子(きし)を、相次いで産んだ。
 このように倫子の娘たちは、いずれも天皇・皇太子に入内し、また彼女の産んだ男子が、道長の後継者となった。
 対して、明子もまた道長との間に6人の子をもうけている。ただ、男子の初叙の位からその後の昇進、女子の結婚相手の身分においては、倫子との間に生まれた子供たちと明確な差があった。それゆえ、あくまでも倫子が正妻であり、明子はその次に位置する二番目の妻と考えられる。
 さて、正式な婚姻関係にあった倫子・明子の他に、道長は平安貴族のご多分に漏れず、多くの愛人がいたとされる。藤原為光の娘である儼子(たけこ)と穠子(じょうし)は、姉妹で道長の愛人であったと考えられる。
 儼子は花山上皇の寵愛を受けた女性で、上皇崩御後には、道長の娘・姸子の女房となった。『大鏡』では道長の子を懐妊したとされているが、それが事実かどうか、また実際に出産にまで至ったのかどうかは定かではない。
 また、妹の穠子については、『小右記』に道長の子を懐妊していることが記されている。妊娠18カ月を過ぎても出産に至らなかったことを考えると、想像妊娠の類であったと見られる。
 また『尊卑分脈』からは、道長との間に男子を産んだ源重光娘との関係が窺い知れる。
 本郷和人(Kazuto Hongo)
 1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。東京大学・同大学院で石井進氏、五味文彦氏に師事し日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。
 藤原道長の「権力」の源泉は、彼を取り巻く女性たちの力にあった...「後ろ盾」「身分」「生まれ年」の意味とは?
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 『平安最強の貴族・藤原道長源氏物語の謎』
 本郷和人[著]
 宝島社[刊]
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 『紫式部日記絵巻断簡』
 藤原道長の「権力」の源泉は、彼を取り巻く女性たちの力にあった...「後ろ盾」「身分」「生まれ年」の意味とは?
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 『紫式部日記絵巻断簡』 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
 藤原道長の「権力」の源泉は、彼を取り巻く女性たちの力にあった...「後ろ盾」「身分」「生まれ年」の意味とは?
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 『紫式部日記絵巻断簡』 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
 敦成親王の誕生50日を祝う儀式の場面を切り取って、掛け軸にしたもの。右側、背を向けている女性が中宮彰子。画面下の男性は彰子の父で、当時宮廷で大きな権勢を振るっていた藤原道長
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💍44)─1─リベラル左派とエセ保守は日本を大改造する為に教育勅語を否定している。〜No.154No.155 

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2023-06-01
🏞81)─6・B─後期水戸学と日本は神の国教育勅語の世界観。~No.337 ㉗ 
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 2024年月1日 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ「国家守るために闘うことは常識だ 朝日新聞が憎悪する教育勅語の〝本質〟とは 子孫が亡国の民に…侵略者排撃は誤りではない
 朝日新聞東京本社=東京・築地
 【岩田温「日本の選択」】
 広島市の新人研修の中で、教育勅語の一部が使われている。この事実を朝日新聞は憎悪している。社説で「研修に教育勅語 広島市長は認識改めよ」(2023年12月20日)と批判する。
 教育勅語の一部分の利用は、広島市松井一実(かずみ)市長の判断によるものだという。松井市長は「教育勅語を再評価すべきとは考えていないが、評価してもよい部分があったという事実を知っておくことは大切。今後も使用を続ける」と述べているとのことだ。
 冷静に分析してみて、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」などという箇所を否定するのは異常である。仮にこれを否定するのならば、両親に反逆し、兄弟で憎み合い、夫婦で憎悪し合い、友達を裏切り合う人間関係が正当ということになる。
 教育勅語の一部を評価するというのは、端的に言って、常識を重んずると言っていることと変わらない。
 だが、朝日新聞が本当に主張したいのは、そこにない。こうした常識を説いている部分は教育勅語の本質ではないと彼らは考えている。だからこそ、松井市長が教育勅語の一部を研修に利用していることを「教育勅語の本質から目をそらす、危うい考えと言うほかない」と説くわけである。
 では、教育勅語の本質とは何なのか。
 朝日新聞は「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」の文言に注目し、「戦争へ動員する思想統制に利用された」と説く。「天壌無窮の皇運」との表現はいかにも明治時代の大時代的な表現である。
 だが、「ことが起こったときに国家のために尽くせ」とする思想を誤りとは言えない。他国が侵略してきた際、「抵抗せよ」「侵略者を排撃せよ」との教えは誤っていると断言すべきではない。われわれの国民国家は国民が守ってこそ、成立するのだ。その気概を養うことを誤りとするならば、国民国家は成立しえない。
 英哲学者、トマス・ホッブズの名著『リヴァイアサン』に始まる社会契約論の最大の弱点は、なぜ国民が命を懸けて国家を守るべきなのかを説明できなかった点にある。
 自らの命を守るために国家を成立させるのが、社会契約論の最重要点だ。国家のために生命をかけて闘う思想は社会契約論からは出てこない。「われわれの愛する者を守るために闘う」という常識を抽象的な理屈では説明できなかった。
 祖国がなければ、われわれの子孫は亡国の民となる。国家を守るために闘うという常識は誤っていない。朝日新聞は嫌がるだろうが、あえて言う。一旦緩急あれば、義勇公に奉ずるべきなのだ。 (政治学者)
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 教育勅語は、江戸時代後期に起きたロシアの軍事的日本侵略とキリスト教の宗教的日本侵略から現人神天皇と神国日本を護る為に国民が一丸となって戦う覚悟を教えた。
 戦後のリベラル左派のメディアや教育は、反宗教無神論・反天皇反民族反日イデオロギーを広め、伝統的家族制度を破壊し、家族・親子を繋ぎ止めていた絆を断絶させ、命を犠牲にしてまで天皇や国を護る必要はないと洗脳してきた。
   ・   ・   ・   
 教育勅語の説く「天壌無窮の皇運」とは、数千年前の弥生時代古墳時代から受け継がれてきた志・覚悟であり、数万年前の旧石器時代縄文時代を源流とする民族の心・精神、絆・繋がりの事である
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2024-0205-
⏱20:ー3・Aー日本のエリート学生が「まるで中国政府のスポークスパーソン」~No.61
2024-02-26
⏱20:ー3・Bー中国共産党学習院内にチャイナスクールを創設しようとしていた。~No.61 
   ・   ・   ・   
 超エリート層と言われる超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達に、マルクス主義共産主義の反宗教無神論・反天皇反民族反日主義者が増えている。
   ・   ・   ・   
 中国共産党は、親中派媚中派学生を利用し、「日中友好」を絶対正義として日本の学校での反中国・中国批判・少数民族擁護を言論弾圧し、歴史修正主義者・差別主義者、右翼・右派と威圧的人間性攻撃をしている。
   ・   ・   ・   
 中国共産党は、結党以来変わる事のない敵日勢力で、日本人の共産主義者無政府主義者テロリストを使って昭和天皇と皇族を惨殺しようとしてきた、それは現代でも変わりない。
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 東京大学法学部学生「憲法九条を盾に日本は『戦争をしません』といって白旗をあげればよい。そうした方が物理的な被害も少ない。国をうしなう事になるが、それでも構わない」
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 中国共産党は、日本に対して「孫子の兵法」を仕掛け、日本を親中派媚中派、反米派・反安保派を増やし利用して内部から崩壊させようとしている。
   ・   ・   ・   
 日本を動かしているのは、超難関校を優秀な成績で卒業した高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達である。
 彼等が、エセ保守やリベラル左派で、メディアや教育で活動している。
   ・   ・   ・   
 護憲派、反自衛隊派、反戦平和市民団体。
   ・   ・   ・   
 左傾化した日本の大学では言論弾圧が行われ、リベラル左派学生は中国・北朝鮮・韓国に対する批判討論会を威圧で潰している。
 日本人青年の間で、反宗教無神論・反天皇反民族反日が浸透している。
 戦後民主主義教育で生み出されたメディアと教育は、リベラルを利用して日本を左傾化させようとしている。
   ・   ・   ・   
 問い、日本がウクライナと同じ状況になったら戦いますか、戦いませんか。
 約500人の大学生の回答、88.9%が「戦わない」と回答。
 「戦わない、なぜなら自分の命が惜しいから。もしそんな事が起きたら他国に逃げると思う。安全な場所に行こうと思う」
   ・   ・   ・  
 日本国民の間に、民族の歴史・神話宗教・血筋・世襲制など日本伝統を否定した正当性女系母系天皇擁立賛成者が急増している。
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⚔30)─6・E─豊臣秀吉とイエズス会宣教師が人身売買についての口論。天正14年(1583)~No.125 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 親鸞が嘆いたように、日本人の心の闇は救いようがないほどに罪深い。
 日本人は心優しは、ウソである。
 現代日本人は、歴史が理解できない。
 日本人は歴史が好きは、ウソである。
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   ・   ・   ・   
 1579年 豊臣秀吉は、キリスト教弾圧として、宣教師や信徒ら26人を長崎西坂の丘で十字架に処せられた。最年少は12才だった。
 キリスト教徒は、豊臣秀吉をサタン・悪魔として呪った。
 当時の総人口1,200万人の内22万人の日本人がキリスト教に改宗していた。
 数多くの戦国大名キリシタン大名となり、領地をローマ教皇に寄進して教皇領にする動きが出ていた。
 キリスト教は確実に日本で信者を増やし、日本人権力者よりもローマ教皇に忠誠を誓うキリスト教勢力が軍事力を増し始めていた。
 日本人は、民族的武士ではなく世界的騎士になろうとしていた。
 それが、中世キリスト教会による日本への宗教侵略であった。
   ・   ・   ・   
 2024年2月29日 YAHOO!JAPANニュース「豊臣秀吉イエズス会宣教師が日本人奴隷の人身売買について口論となった真相
 豊臣秀吉。(提供:アフロ)
 映画祭授賞式で、フランス人女優のジュディット・ゴドレーシュさんがフランス映画界における「女性の不法人身売買」の隠ぺいを批判したという。こちら。かつて、我が国でも人身売買が行われていたが、豊臣秀吉の時代はそれが国際問題となった。その辺りを取り上げることにしよう。
 天正14年(1583)から翌年にかけて九州征伐が行われ、秀吉は島津氏を屈服させた。戦場となった豊後国では農民らが捕らえられ、九州の諸大名(あるいは従軍した将兵)が連れ去った。
 捕らえられた農民らは労働に使役させられるか、奴隷として売買されたのである。これを「乱取り」といい、出陣した将兵はモノや人を略奪することが軍事慣行となっていた。
 秀吉は人が捉えられることによって田畑を耕す農民がいなくなり、そのことが戦後の復興を難しくすることを危惧し、諸大名に農民らの連行や売買を禁止した。
 そこでは、奴隷商人が連行や売買に関与していた可能性が高く、日本人の奴隷商人だけでなく、ポルトガル商人も深くかかわっていたのである。
 翌年4月、秀吉は島津氏を降参に追い込んだこともあり、意気揚々と博多(福岡市博多区)に凱旋した。そこで、秀吉が目撃したのは、次々と日本人奴隷がポルトガルの商船に詰め込まれ、運ばれていく様子だった。
 先述のとおり、農民らがいなくなると、戦後復興は困難になる。そのような理由もあり、秀吉は強い決意を持って、日本人奴隷の人身売買の問題に取り組んだ。
 同年6月、秀吉はポルトガル商人が日本人奴隷を売買、連行することについて、、ガスパール・コエリョイエズス会日本支部準管区長)と激しい口論になった(『イエズス会日本報告集』)。
 次に、お互いの主張を挙げておこう。まず、秀吉がコエリョに尋ねたのは、ポルトガル商人が多数の日本人(主に農民)を買い求め、本国に連行する理由だった。
 秀吉の問いに対してコエリョは、その理由として「日本人が売るから、ポルトガル人が買うのだ」と回答した。そして、「パードレ(司祭職にある者)たちは日本人が売買されることを大いに悲しみ、これを防止するために尽力したが、力が及ばなかった」と述べた。
 さらに、「もし秀吉が日本人の売買の禁止を希望するならば、諸大名らに命令するべきだ」とし、「秀吉の命に背く者を重刑に処すならば、容易に人身売買を停止することができる」だろうと発言したのである。
 コエリョは、宣教師が人身売買の問題を解決できないこと、また無関係であると主張したのである。コエリョの本心は不明であるが、苦し紛れの答えだった。
 秀吉はイエズス会の事情がどうであれ、日本人奴隷を海外に連行することを決して許さなかった。こうしたことから、イエズス会にとって日本人奴隷の売買を黙認することは、キリスト教を伝えるうえでマイナス要因となった。秀吉の詰問によって、イエズス会は苦境に立たされたのである。
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
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2018-08-01
⚔18)─1─中世キリスト教会は、日本を絶対神に献上する為に、天皇を滅ぼし、異教の神を消滅させしようとした。1553年~No.69No.70No.71・ @ 
2018-08-08
⚔18)─2─ローマ教皇は、日本を分割してポルトガルとスペインの植民地とし、日本人の生殺与奪の権を与えた。1560年~No.72・ @ 
2018-08-29
⚔36)─1・A─キリスト教原理主義者は、天皇を殺害すべく聖戦を謀議した。1600年~No.146No.147No.148 @ 

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 2022年7月9日 PRESIDENT Online「日本人女性は「奴隷」として海外に売りさばかれていた…豊臣秀吉が「キリスト教」を禁止した本当の理由
 天正遣欧少年使節がみた「日本人奴隷」の悲惨な姿
 藤田 達生 三重大学教育学部教授
 戦国時代の日本では人身売買が横行していた。三重大学教育学部藤田達生教授は「中世の戦争は人盗り・物盗りが当たり前だった。戦場では、逃げ惑う女性や子供が連れ去られ、ポルトガル商人らを通じて、奴隷として海外に売りさばかれていた」という――。
「旅行の先々で、奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見た」
 天正十年(一五八二)二月、天正遣欧少年使節イエズス会巡察使ヴァリニャーノに率いられてローマへと旅立った。使節の内訳は、主席正使伊藤マンショ、正使千々石ミゲル、副使中浦ジュリアン、副使原マルチノである。彼らは、九州のキリシタン大名・大友義鎮(宗麟)・大村純忠有馬晴信の名代として派遣された十代の少年だった。
 1586年、ドイツで印刷された天正遣欧使節肖像画(図版=京都大学貴重資料デジタルアーカイブ/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)1586年、ドイツで印刷された天正遣欧使節肖像画(図版=京都大学貴重資料デジタルアーカイブ/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
 そのヨーロッパ旅行記は、『天正遣欧使節記』として編纂へんさんされている。ここでは、ヴァリニャーノの著作をデ・サンデがラテン語に訳した同書(一五九〇年にマカオで刊行)から、少年たちが旅路において見聞した日本人奴隷についての思いが記されている部分を参考までに紹介しよう。なお、本書にはヴァリニャーノによる創作とする評価もあることを断っておきたい。
 {「このたびの旅行の先々で、売られて奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語とを同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった」
 「実際わが民族のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫さらって行かれて売り捌さばかれ、みじめな賤役に身を屈しているのを見て、憐憫れんびんの情を催さない者があろうか」}
 情報通の豊臣秀吉は、このような日本人奴隷の海外への大量流失について問題視していた。最下層からはい上がった秀吉は、大名出身者にはない危機感があったのだろう。
 
 PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
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 2021年6月8日 東洋経済ONLINE「「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断
 海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる
 新 晴正 : 作家
 なぜ豊臣秀吉は「バテレン追放令」によって、キリスト教布教を禁じたのか?(写真:Universal History Archive/Getty)
 当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。
 日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。
 このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。
 この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。
 秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。
 最初は布教を許していたが…
 秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。
 この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。
 九州平定といっても実質的には九州統一を目論んだ薩摩の島津氏と秀吉との争いだった。この合戦では島津軍は九州各地でよく善戦したが、いかんせん20万ともいわれる秀吉軍の前に次第に薩摩一国に追い詰められ、翌15年4月21日、ついに島津家当主義久は秀吉に和睦を申し入れている。
 その後、秀吉は薩摩にしばらく滞在して戦後処理をすませると、帰国の途につき、途中、博多に立ち寄った。史上有名な「伴天連追放令」はこの地で発令されたものだ。
 それは6月19日のことで、この日秀吉は、九州遠征に勝手に秀吉軍に同行していたポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったガスパール・コエリョを引見すると、次のような四カ条からなる詰問を行っている。
 一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。
 一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。
 一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。
 一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか――という四カ条で、同時に秀吉はコエリョに対し追放令を突き付けている。
 この追放令が出されたことで九州各地や京・大坂にあったイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊された。しかし秀吉が、交易やキリスト教の信仰自体を禁止したわけではなかったため、ほとんどの宣教師たちは九州などにとどまり、非公認ながら布教活動を細々と続けたことがわかっている。
 西洋人が胸に秘めた「日本侵略」の意図
 さて、秀吉がなぜこの追放令を出したかだが、その理由の一つに、西欧人たちが胸に秘めた日本侵略の意図を読み取ったからだと言われている。宣教師コエリョが秀吉を博多で出迎えた際、自分が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉を乗船させて、自分ならいつでも世界に冠たるスペイン艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に語ったという。このとき秀吉は彼らの植民地化計画を瞬時に看破したのであった。
 もう一つ許せないのが、日本の大事な国土が西欧人たちによって蚕食され始めていることだった。
 たとえば、キリシタン大名大村純忠は自分の領地だった長崎と茂木を、同じくキリシタン大名有馬晴信は浦上の地をすでにイエズス会に寄進していたのだ。
 日本国の支配者たる秀吉にとって、いかに信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土の一部を勝手に譲渡するなど言語道断の出来事だった。西欧人たちがそれを足掛かりとして領地を広げていくことは火を見るよりも明らかだったからだ。
 最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画が今まさに実行されようとしていたのだ。
秀吉はそれを防ぐためには、キリシタン大名や宣教師たちの勝手な振る舞いに一日でも早く歯止めをかける必要があると考えたのである。
 さらに、秀吉がこの伴天連追放令を出した理由として、実はこれが最も大きかったのではないかと研究者たちの間でささやかれている理由がもう一つある。それこそが、先の四カ条の詰問にもあった、日本人の奴隷問題だった。
 日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然の安さで西欧人に奴隷として売られていることを秀吉はこのたびの九州遠征で初めて知ったのだった。
 九州遠征に同行した秀吉の御伽衆の一人、大村由己は著書『九州御動座記』の中で日本人奴隷が長崎港で連行される様子を大要、次のように記録している。
 『九州御動座記』の記録
 「日本人が数百人、男女問わず南蛮船に買い取られ、獣のごとく手足に鎖を付けられたまま船底に追いやられた。地獄の呵責よりひどい。──中略──その上、牛馬を買い取り、生きながら皮を剝ぎ、坊主(宣教師を指す)も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼下に広がっている……」
 同胞の若者たちが鎖につながれて次々と南蛮船に押し込まれていく光景は大村由己にとってはこれ以上ないカルチャーショックだったに違いない。
 何とも酷たらしい場面だが、当時の海外に出た西欧の商人にとって有色人種の奴隷交易はなんら恥じることのない商取引だった。これはそもそも、1452年にローマ教皇ポルトガル人に対し異教徒を奴隷にしてもよい、という許可を与えたことが根底にあるという。
 なお、牛馬の肉を手づかみで食べるというのは、西欧ではこの当時、食事にフォークやスプーンを使う習慣がまだ定着していなかったからだ。ルイス・フロイスも日本人が器用に箸を使って食事する様子を驚きをもって本国に伝えている。
 大村由己は自分が目撃したことを秀吉に報告したところ、秀吉は激怒し、さっそく宣教師コエリョを呼びつけ、なぜそんなひどいことをするのかと詰問した。するとコエリョは、「売る人がいるから仕様が無い」そうケロッとして言い放ったという。
 この言葉からも、こうした日本人奴隷の交易にキリシタン大名たちが直接的にしろ間接的にしろ何らかの形でかかわっていたことは間違いないだろう。
海外に連行されていった日本人奴隷は、ポルトガル商人が主導したケースがほとんどで、その被害者はざっと5万人にのぼるという。彼ら日本人奴隷たちは、マカオなどに駐在していた白人の富裕層の下で使役されたほか、遠くインドやアフリカ、欧州、ときには南米アルゼンチンやペルーにまで売られた例もあったという。
 この5万人という数字に関してだが、天正10年にローマに派遣された有名な少年使節団の一行が、世界各地の行く先々で日本の若い女性が奴隷として使役されているのを目撃しており、実際にはこの何倍もいたのではないかと言われている。
 こうした実情を憂慮した秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。そして、こうも付け加えた。
 「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す」といった主旨のことを伝えている。
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 その一方で、日本国内に向けてもただちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発している。こうして秀吉の強硬な態度がポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易はやがて終息に向かうのであった。
 もしも秀吉が天下を統一するために九州を訪れていなかったら、こうした当時のキリスト教徒が持つ独善性や宣教師たちの野望に気づかず、日本の国土は西欧列強によって侵略が進んでいたことだろう。秀吉はその危機を瀬戸際のところで食い止めたわけである。
 日本史の新視点
 慶長元年12月19日(1597年2月5日)、スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。これはポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくるスペインに対する秀吉一流の見せしめであった。
 ともすれば現代のわれわれは秀吉に対しキリシタンを弾圧した非道な君主というイメージを抱きがちだが、実際はこのときの集団処刑が、秀吉が行った唯一のキリシタンへの直接的迫害であった。それもこのときはスペイン系のフランシスコ会に対する迫害で、ポルトガル系のイエズス会に対しては特に迫害というものを加えたことはなかった。
 ここまで見てくると、当時の秀吉は日本の為政者として領土や国民の安全を守るために最善の選択をしたように思えてくるのだが……。
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⚔3)─2─16~19世紀の小氷期。残酷な寒さは地球規模の飢饉と世界的な黄金時代を切り開いた。~No.6No.7 

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 2024年2月28日 YAHOO!JAPANニュース ナショナル ジオグラフィック日本版「16~19世紀の「小氷期」、残酷な寒さは世界をどう変えたのか、飢饉の一方「黄金時代」も
 戦争や迫害にも影響、凍った川では祭りや新たな商売も、温暖化の今学べること
ベルギー、アントワープ近郊の凍り付いたスヘルデ川。1593年、ルーカス・ファン・ファルケンボルフ作。(PHOTOGRAPH BY INCAMERASTOCK, ALAMY STOCK PHOTO)
 16世紀から19世紀まで、北半球は長く続く厳しい寒さに見舞われた。この期間は「小氷期」と呼ばれているが、その原因は何だったのだろうか。また、どのような影響があり、人々は寒さにどう適応したのか。そして、新たな気候変動の時代に入っている現代の私たちは、そこから何を学ぶことができるのだろうか。
 ギャラリー:この世の果て? 地獄のような絶景写真12点
 小氷期とは何か、その原因は
 小氷期は、本物の氷河期とは違う。平均気温はおそらく0.5℃低下しただけで、寒さがずっと続いていたわけでもない。米ジョージタウン大学の環境歴史学准教授であるダゴマール・デグルート氏は、「小さな小氷河期」が繰り返し起こっていた時代だったと説明する。
 米航空宇宙局(NASA)の定義によると、小氷期は1550年前後に始まり(一部の研究者はもっと早かったと主張している)、温暖な時期を挟んで寒さのピークが3回、1650年と1770年、1850年に訪れたとされている。
 小氷期がなぜ起こったのかはまだ解明されていないが、太陽活動の低下や火山噴火の増加のほかに、ヨーロッパ人による北米先住民の大量虐殺が原因だという説がある。大量虐殺によって人口が減り、耕作されなくなった農地に代わって森林が拡大し、大気中から約70億トンの炭素を吸収したという。
 2021年12月15日付けで学術誌「Science Advances」に発表された論文は、逆説的なようだが、1300年代末頃に非常に暖かい海水が熱帯から北に移動したことで、北極圏の氷が北大西洋に流出したことが寒冷化の引き金になったのではないかと推測している。
 歴史のいたるところに影響
 小氷期の影響は歴史のいたるところに見ることができるが、どこまでがその影響によるものなのかは専門家の間で意見が異なる。
 1658年にスウェーデン国王カール10世グスタフの軍隊が、凍り付いた海峡を渡ってデンマークのフュン島に侵攻したことや、1795年にフランス軍が海氷にはまって動けなくなったオランダ艦隊を捕獲したことなどは、確かに寒冷化がなければ起こりえなかっただろう。馬に乗った軍隊が艦隊を捕らえたのは、後にも先にもこれきりだ。
 農作物の不作が続くことによる恐れと不安から、ヨーロッパでは魔女裁判ユダヤ人への迫害が急増した。
 さらに中国でも、食料不足によって農民の反乱が増えたことが明王朝崩壊の一因になったという見方がある。グリーンランドでスカンディナビア人の植民地が消滅したのも、気温低下に伴って海と陸の両方で氷が増加したためだろうと推測されている。
 ストラディバリウスのバイオリンが持つ独特の音は、寒さのためにアントニオ・ストラディバリが使用した木材の密度が高くなっていたためであるという説さえある。
 歴史的な出来事だけでなく、小氷期はそれ以上に普通の農民や都市に住む貧困者を苦しめた。人類学者のブライアン・フェイガン氏は、自著『歴史を変えた気候大変動:中世ヨーロッパを襲った小氷河期』(河出書房新社)のなかで、「アルプスの人々は、木の実の殻をひいたものを大麦とオーツ麦の粉に混ぜ合わせてパンを焼いていた」と書いている。
 英ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジのアリエル・ヘッサヨン氏によると、17世紀と18世紀初めに食料危機が深刻化し、1600年代末にはいくつかのヨーロッパの国で大飢饉が起こったという。あまりの厳しさに、1684年の冬、イングランド国王チャールズ2世は国民を助けるための寄付を募り、自らもそれに貢献した。おかげでイングランドは、近隣諸国よりはましな冬を乗り切ることができた。
 それでも、「全国で人が次々に死んでいった。動物、鳥、魚も同様だ。地面が硬くて穴が掘れず、埋葬もできなかった。樹木は割れ、植物は枯れた」と、ヘッサヨン氏はブログに書いている。
 寒さに適応して生まれた商売や戦略
 それほど厳しい寒さにあっても、適応した人々がいた。ロンドンでは凍り付いたテムズ川で「氷祭り」が開催された。ホットチョコレートやパイを売る屋台が立ち並び、人々は氷上サッカーをしたり、イヌにクマを攻撃させる「クマいじめ」を見物したり、アーチェリーの腕を競ったりした。
 水上タクシーなど、川が凍り付いて商売ができなくなった人々もいたが、氷祭りで屋台を出すなど別の収入源を確保することで変化に適応していたと、ヘッサヨン氏は言う。「川の上なら賃料を払う必要がありませんから」
 米大陸では、現在のカリフォルニア州に住んでいた先住民モハベ族が、やはり気候の変動を受けて「高度に分散された交易文化を発達させました」と、デグルート氏は言う。また、丈夫な籠や陶器を作ってその中に物資を入れ、長距離を運んだ。「ある地域で食料が不足しても、別の地域との交易でその分を補っていました」
 ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダとベルギーの一部)も同じようにして、気候変動に強く多様な交易インフラを構築し、小氷期の最も困難な時期に「黄金時代」を過ごしていた。
 北米ニューイングランドの先住民からなるワバナキ連邦は、寒さと雪を味方につけ、雪靴を履いてイングランド植民地を襲撃した。しかし18世紀前半になると、今度は入植者たちが先住民の技術と知識を取り入れ、雪靴を履いた兵士らがワバナキの狩猟場をパトロールするようになった。
 現代人が学べること
 デグルート氏によると、意外にも小氷期に商業が栄え、紛争が減った地域もあったという。それが、北極圏の捕鯨場だ。「寒くなって氷が増えたことでクジラが狭い場所に集中し、捕鯨がしやすくなったのです」。その結果、北極圏の捕鯨をめぐる武力紛争はなくなったという。
 そこには、現代の気候変動に直面する私たちが学ぶべきことがあるかもしれないと氏は続ける。「現代の国家安全保障をめぐる議論では、北極圏で正反対のことが起きると予想されています。北極の氷が解ければ競争が激しくなり、この地域での紛争が増えるというのです」
 各地に甚大な影響をもたらした小氷期だが、その気温の低下の幅は、現在の地球が直面している気温の上昇幅ほど大きくはなかった点を、デグルート氏は強調する。だからこそなおさら、当時のことや、人々がどのように適応していったかを理解することは重要だと、ヘッサヨン氏も言う。
 「研究できそうな材料は山のようにあります。そこから、現在の危機にどう立ち向かうかを学べることを期待しています」
 文=KIERAN MULVANEY/訳=荒井ハンナ
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