⛩95)─1─日本には病気を治す神仏が数多く存在する。~No.207No.208 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代、神社仏閣が売りだした霊験あらたかな「疫病神封じ」のお札が飛ぶように売れていた。
 疫病は、海外から長崎に上陸し、モノとヒトの移動にともなって大坂・京の関西から江戸の関東へと蔓延していた。
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 日本民族日本人の祈りは、崇拝・信奉であって信仰ではなかった。
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 2020年1月3/10日号 週刊ポスト「『足腰』に、『目』に、『耳』に、『のど』に〝効く〟ところに──
 健康長寿の神さま『無病息災』『健康長寿』などが定番だが、日本の各地には『身体の悩み』をピンポイントで助けてくれる神々がいる。
 ……
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 それにしても、なぜ日本には『病の神様』が多いのか。前出の坂原氏はこういう。
 『医学が発達していない時代、心身の病は魔物が起こすものと信じられ、神仏にすがるしか治す方法がなかった。そうした魔物を追い払う魔除けの1つとして、社寺へお参りする文化が脈々と受け継がれてきたのだと思います。現代医学で根治が難しい病気であれば、神様にお願いすることで気が休まるということもあるでしょう。「八百万の神々」と言われるように、日本では様々な神様が誕生することは不思議ではありません』
 念ずれば通ず、の精神だ」
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 日本列島では、激痛に苦しんだり寝るように息を引き取るなど死に方は色々あるが、人はアッサリとコロリと簡単に死んで行く。
 今日生きていても明日死ぬかも知れない。
 今生きていても、数分後に死んでいるかも知れない。
 日本とは、一寸先や闇、明日は我が身、死が取り合わせの不条理な社会であった。
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 日本の神々は、外来の仏同様に霊験を持っていたが奇跡や恩寵を与える神ではなかったがゆえに、幾ら信じて祈ったからと言って神力・神通力で病気を治してはくれないし病魔を退治してはくれない。
 医学が発達していなかった昔では、神仏に祈るしか手だてがなかったというだけである。
 その為に、病気を治したい一心で、大金を出して加持祈祷を頼んだり、自ら御百度参り・四国巡礼・湯治(とうじ)などに出かけた。
 医学が発達した現代で、神仏に奇跡や恩寵を期待して祈る事は愚かである。
 もし、病気を治す神の奇跡や恩寵を期待するのならが、天地創造の神・全知全能の神・不可能がない唯一の神を信仰するキリスト教しかない。
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 日本の賤民(非人・穢多)や部落民差別と西洋のユダヤ人差別は根本的に違う。
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 平安時代は、風葬が主流で、金がある者だけが大金を使って土葬にして墓を建てたが、埋葬する金がなければ公家であっても庶民や武士と同じに風葬として棄てられた。
 風葬では、鳥や獣が死体を食べ、肉片に蛆が湧き、腐乱し、最後は骨となって土に還っていった。
 ここに存在するのが「穢れ」である。
 それが、日本人の本当の死生観であった。
 それを扱う人々が、賤民(非人・穢多)や部落民達であった。
 現代に通じる賤民(非人・穢多)や部落民に対する差別はここから始まっている。
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 高温多湿の日本の気候風土では、棄てられた死体から疫病が発生していた。
 仏教は、疫病を封じ込める為に、死体を山野に棄てる風葬を土葬か火葬に切り替えていった。
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 日本の八百万の神々は、「敬虔な信仰を契約する者に恩寵を与え奇跡を起こして救済する」などはありえず、ただ、「参拝し祈願する者に対してのみ霊験を持って御利益を与える」だけの存在である。
 つまり、日本の神には奇跡はない。
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 日本民族日本人は、「困った時の神頼み」を信じ、御百度参りを欠かさなかった。
 つまり、病は気かからである。 
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 中世ヨーロッパで、生命と魂・霊魂を支配していたのは宗教権威のキリスト教会であった。
 中世キリスト教会は、唯一絶対神と救世主(メシア)の恩寵・恵み・奇跡を信仰の証しとしていた。
 中世キリスト教文化圏では、疫病は魔物や悪魔の仕業と信じ、病気を治すには体内に入り込んでいる魔物や悪魔を体外に排出する事が肝要であると考えられ、瀉血や嘔吐が用いられたが量が多いと貧血や脱水が悪化して死亡する事もあった。
 人々を癒やし、病人を治し、死者を甦らせるのは、天地創造の創り主である唯一絶対神の御業であった。
 中世キリスト教会は、病人を治療する行為や薬を調合する事を怖れ、教会の許可を受けていなく治療する者や薬を売る者を異端者や魔法使いとして弾圧した。
 中世キリスト教会世界におけるユダヤ人弾圧は、こうした医療行為から起きていたのであって、金貸しや金融業の生業として大金を稼いでいたからではない。
 中世キリスト教会が、古代ギリシャ古代エジプト古代ローマを否定し破壊したのもこの為である。
 反宗教無神論マルクス主義共産主義)は、科学至上主義からキリスト教会の「唯一絶対神と救世主(メシア)の恩寵・恵み・奇跡による治療・救済・癒やし」を否定し破壊した。
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🏞99)─1─大野藩(4万石)の藩政改革。財政赤字を解消して黒字化とした。~No.380No.381No.382 

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 幕藩体制とは、領地を持つ封建領主である徳川家と諸大名の連合政権であって、徳川家による世襲制独裁中央政権ではなかった。 
 領地を持つ江戸幕府や諸藩と旗本は、領地で独自の「国家再建」「経済再生」「地方復興」を行っていた。
 江戸時代とは、表面的には江戸・京・大坂の都市の時代に見えたが、実際は地方の時代であった。
 その意味でも、江戸時代は諸改革の実験場であった。
 諸改革のお陰で日本では、治安が崩壊せず、内戦・反乱は起きず、無法地帯化しなかった。
 徳川の平和は、領主の諸改革によって保たれていた。
 それは、人類史・世界史の奇跡であった。
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 2019年12月26日号  週刊文春「たった4万石の大野藩は、どのように莫大な借金を返済しながら黒字にしたのか?
 著者は語る 『わが殿』(畠中恵 著)
 「週刊文春」編集部
しゃばけ」「まんまこと」など数多くの人気時代小説シリーズを書いてきた畠中恵さん が、新刊『わが殿』を上梓した。意外にも、史実に基づく時代小説の執筆は初めてだという。
 「ずいぶん前から編集の方に『史実に基づいた小説を書いてみませんか』と提案をいただいていましたが、これというテーマになかなか出合えなくて。そんなある時、ふと資料を読んでいたら『江戸から明治への移行期に黒字だった藩はほとんどなかった』という旨の記述を目にしました。よい塩田に恵まれていた某藩は、理由がはっきりしていましたが、大野藩はたった4万石の小さな国。盆地ゆえに田畑をろくに切り拓けず、海も飛び地にしかありません。なぜ大野藩が黒字だったのか? 疑問に思い、強く興味を惹かれました」
 舞台は日本海側の越前にあった4万石の大野藩。幕末期、ほとんどの藩が深刻な財政赤字に苦しんでいた。大野藩も例外ではなく、藩主・土井利忠は藩政の立て直しに乗り出す。そこで“借金返済請負人”として登用されたのは、わずか80石というパッとしない家格の内山七郎右衛門だった。ふたりが出会ったのは、殿が15歳、七郎右衛門が19歳のとき。以後、殿は藩校設立、軍隊の西洋化など、次々と改革を断行する。一方で、七郎右衛門は9万両という莫大な借金を返済しながら、たぐいまれなる商才で殿の改革を下支えしていく。
 「土井利忠公は大野市では名君として有名で、資料がしっかり残っていたのは、ありがたかったですね。執筆にあたり、その年表を仕事場の壁に貼って、『殿はこういう人だな』とイメージしながら眺めました。すると、七郎右衛門に藩の借金返済を命じた後に、藩校建設のため、すぐにお金を使い始めてしまったことが分かって。天保の飢饉から逃れて真っ先に殿が着手したのが教育でした。第二次大戦後も然りですが、国をもう一度立て直そうとするときは、やはり教育に懸けるんですね。七郎右衛門が銅山の開掘に成功した直後でもありましたから、『殿様大胆!』と思いました」
 畠中さんは七郎右衛門に「わが殿は、やはり信長公を思い起こさせる」と語らせている。殿と信長の共通点とは?
 「非常に才覚があり、理想に向かって猛進する殿に付いていく周囲の人々は、さぞ大変だったでしょう。そこが信長のイメージと重なりました。ただ、殿は人たらしで、お手紙魔な一面もあって、そこは秀吉似。七郎右衛門に『お前のことはすごく気にかけているよ。子々孫々まで必ず見守るよ』と優しい手紙を書いておきながら、次々と難題をふっかけていくんですよ」
 殿と七郎右衛門の尽力により、大野藩の懐事情は好転していくが、黒船来航により、時代は新たな局面を迎える――。ぜひ財政難に直面する自治体の長にも読んでほしい一冊だ。
「七郎右衛門のように“お金に強い”武士は珍しかったのではないでしょうか。殿と七郎右衛門の努力により、大野藩は、幕末には大国並みの利益を得るようになります。でも、七郎右衛門は、いかに商才があろうとも、最後まで“武士”だったと思うのです」
 大野藩は、七郎右衛門の発案で始めた藩直営の商店・大野屋に藩の支出を払わせている。
 「ふつうなら独立採算制にして、大野屋がどれほど儲かっているかをはっきりさせますよね。あくまで藩のためのお金儲けだったのだという感覚が、最後までありました」
はたけなかめぐみ/高知県生まれ。漫画家を経て、2001年『しゃばけ』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞しデビュー。同シリーズで16年、吉川英治文庫賞を受賞。「まんまこと」シリーズ、「若様組」シリーズなど著書多数。」
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 2019年11月27日 「オール讀物」編集部 「激動の時代を乗り越えろ! 「国家再建」「経済再生」「地方復興」を成し遂げた奇跡の主従の物語。
 『わが殿』(畠中 恵・著)
 幕末に国の経営が黒字だった藩はたった二つ!?
 『わが殿 上』(畠中恵 著)
――畠中恵さんはデビュー以来「しゃばけ」「まんまこと」など江戸の町を舞台にした人気シリーズはもちろん、明治期の「若様組」シリーズや現代ものまで幅広い作品を書かれていますが、最新刊『わが殿』は、初めての幕末歴史小説にチャレンジされています。
 畠中 以前に「実在の人物を書いてみませんか」という提案を、編集さんからされたことがあって、そこで色んな新しいことをやっていきたいし、いつか史実に基づいたものも書いてみたいですね、とお答えしたんです。
 なかなか「この人を書けたら!」という方に出会えないまま、別の資料を読んでいたところ、江戸から明治への移行期に黒字だった藩が二つしかなかった? という記述に目が留まりました。気になって調べてみると、一つは塩田を持っていたことが黒字の理由で、もう片方が大野藩でした。たった四万石の小さな国にもかかわらず、いったいどんな人物がいて、どんな藩だったのだろうとすごく興味が湧いてきたのが『わが殿』の執筆のきっかけですね。
――大野藩を最初からよくご存じだったわけではなく、幕末に黒字だった藩、ということで興味を持たれたわけですね。
 畠中 はい、その時に初めて大野の名前を知った、みたいな(笑)。そこからどういう人で、どういう藩だったんだろう、と……そこから資料を調べはじめて、莫大な赤字を抱えた幕末の大野藩の財政を立て直すため藩政改革を断行しようとする藩主・土井利忠と、その殿に登用されて財政改革の実務を担った内山七郎右衛門という名臣に辿り着き、この二人の関係性にもどんどん惹かれていきました。そこで地方紙の新聞連載の依頼をいただいた時に、前からやろうとしていた新しいことを、きちんと調べて書いてみようと、『わが殿』がスタートしたんです。
 借金を返す家臣vs. 金を遣う殿の関係性
――実際の歴史をベースに新聞連載をはじめるにあたっては、ずいぶん沢山の資料を読まれたのでは?
 畠中 以前に江戸の留守居役を主人公にした『ちょちょら』(新潮文庫)を書いていたので、その時も資料から実在のエピソードを拾いましたし、たぶん出来るだろうと思ったんです……が、その苦労をすっかり忘れていただけでした(笑)。武家と町人というだけで、お金のやりとりひとつでも全然ルールが違って、たとえば奉行所に付け届けを送ったりするのは、賄賂でも何でもなく、ちゃんと領収書も出していますし、当時の法律的にはOKなんですよ。資料を読めば読むほど知らなかったことが出てきて、すごく後悔したんです。
 今回はさらに自分がお話を作るわけではなく、史実を基に創作するということがいかに違うのかも身に沁みました。ただ有り難かったのは、土井利忠公は名君として地元では非常に有名な方で、きっちりとした年表が整っていました。それを仕事部屋の後ろ一面に貼り、年代ごとに追って書いておこうと決めたので、『わが殿』の各章のタイトルは利忠公と七郎右衛門の年齢になったわけです。
――江戸の上屋敷で、藩主の利忠と、もう一人の主人公の内山七郎右衛門は初めて出会いますが、15歳と19歳という若さでした。長年に渡る主従関係がそこからはじまったわけですが……。
 畠中 利忠公は名君として大野の神社にも祀られているような方で、片や七郎右衛門も殿に見出され、やがて莫大な借金返済に活躍をした人物です。ふたりが力を合わせて藩を改革していく感動のストーリーになるかと思っていたら、七郎右衛門がちょっとお金を返しはじめると、利忠公はすぐお金を遣ってしまう。「え? ここでもう」というくらい早くから、七郎右衛門の弟の隆佐までが殿に加勢し、稼いだお金を藩校開設や軍備の増強、医師を招いての種痘など、どんどん別の事業に注ぎ込んじゃうんです。
 そんな無茶なお殿様ですが非常に才覚があって、時代がもし幕末でなく、戦国だったら面白いことをしたはずです。そんな印象から「信長」というイメージが浮かんできました。最初に思い描いたくそ真面目なペアではなかったですが、ふたりの関係性はずっとこの小説の読みどころだったと思います。
 弟の隆佐とはもっと仲が悪くて丁々発止のやりとりをしてくれれば、書きやすかったんですけれど、資料にもまったくそれは書かれていない(笑)。まあ、小さな藩でいくら優秀とはいえ、長男、次男に続き末っ子の介輔まで三人も仕官が認められたとなれば、相当、周りからのやっかみもあったはずで、その分、身内の結束は固くなったんじゃないかと納得はしています。
 江戸時代の通貨は変動相場が常識だった
――ふたりの共通&最大の敵は、藩の九万両の借財です。しかも借金の利息は年に一万両。国を動かす金が尽きれば所領は幕府に返上するしかにという危機を、どのように脱出していったのでしょう?
 畠中 結果的には利忠公と七郎右衛門の採った作戦は、いろいろと成功しています。しかし何といっても、最初は幕府から三万両の借金をして廃坑寸前だった面谷(おもだに)銅山に新しい鉱脈を発見したことが大きかった。まさに伸るか反るか大博打で、あれだけお金を注ぎこんで銅が出なかったら、本当に藩ごと返上するしかなくて、殿だけでは済まされずに、銅山役人として責任者の七郎右衛門だってハラキリでしたよね。
――利忠公は稼いだお金をどんどん遣ってしまうわけですが、七郎右衛門もどんどん新しことを試みます。そのひとつが大野藩の特産物を藩札で買い上げ、大坂で直営で販売する「大野屋」を開店したことです。
 畠中 幕末に藩の借金を返した人は、有名な上杉鷹山をはじめ、何人かいるみたいなんですけど、返してもその人がいなくなるとまた借金が重なっていくんですよ。七郎右衛門の偉かったのは、やはり大野屋を作って、さらに全国展開したこと。これをきちんとしたシステムにすれば、七郎右衛門がいなくなっても、ある程度、大野の経済は回っていくようにしていった。それもすごいことですね。
 お金のことでいえば、現代とすごく似ているところもあって、七郎右衛門が大坂に藩直営の「大野屋」を開く時、資料にたびたび出てくるのが銭と金と銀のことなんです。当時の日本では、銭高、金高、銀高とそれぞれの貨幣が変動相場になっていて、どのお金で払うのがいちばん有利かを必死になって計算している。これはドル高や円安、ユーロ高などといった国際的な相場とそっくりで、武士の世の中であっても、お金に強くなければ競争に勝てないのは当たり前ですね。堂島の米会議所でも相場取引がはじまっていたし、『けさくしゃ』(新潮文庫)で江戸の出版事情を書きましたが、江戸の半ばで出版のためのファンドが作られていたり、あの時代の日本にも面白い経済活動がたくさんあったことに気づかされましたね。
 組織の中で一生ついていく誰かを見つけられるか?
――現代の言葉でいえば、「国家再建」「経済再生」「地方復興」といった、さまざまなキーワードが『わが殿』には登場します。読者も何か今の時代を生き抜くヒントをもらえるのではないでしょうか?
 畠中 七郎右衛門の時代は、藩という仕組みの中では生きなければならず、殿さまの言うことは絶対で逃げだすところがなかった、ともいえなくもないんですが、ただ七郎右衛門のように行動できれば、どこの会社でもどこの組織でも生きのびていけるんじゃないか……会社というのは中の人のことは、実際に入るまで全然分からないものだし、そこで出会った人は必ずしも好きなひとばかりではないでしょう。でも、七郎右衛門のように上司の惚れどころを見つけて、一生ついていける人を見つけることができたら、それだけで幸せとはいいませんが、自分もちゃんと出世していけるんだったら羨ましいですよね。
 七郎右衛門は弟の隆左は、若いうちから天才ぶりを周囲に認められ、末弟の介輔にいたっては180センチもある猛者としてやはり若い頃から評価されました。それに対してお金を扱うことに長けていた、七郎右衛門は決して周囲に最初から重んじられていた立場でなかったのにもかかわらず、最終的には家老にまでなって、福井藩松平春嶽公からも一目置かれたそうです。対外的な評価としては小さな藩ですし、あの時期は春嶽公をはじめ、全国で有名な方がたくさん出ているので、大野藩ことはこれまであまり知られていませんでしたけど、ただお金を生み出すシステムを作ったことはすごかった。特に廃藩置県となって、武士の身分が保証されなくなった明治になってからも、七郎右衛門は最後まで土井家を支え続けたそうです。
 これまで日本は明治になってから、西欧を見習った富国強兵制度で一気に発展したというようなイメージがあったんですが、その下地として大野のように面白い藩は昔から日本各地にあったんじゃないか。参勤交代は幕府による藩の弱体化を狙ったものだと言われてきましたけど、各藩が江戸に集められたおかげで情報の交流や技術の交換もできた。明治以降の時代のうねりというのは、江戸時代のことが好きでずっと読んできた私が考えているより、ずっと早くはじまっていたことにも、『わが殿』を書いていて気がつきました。そういう視点でいずれまた歴史ものを書いてみたい気がしています。
 はたけなかめぐみ 高知生まれ、名古屋育ち。名古屋造形芸術短期大学卒業。2001年『しゃばけ』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞してデビュー。16年「しゃばけ」シリーズで吉川英治文庫賞。著書多数。」
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 土井 利忠(どい としただ)は、江戸時代後期の大名。越前国大野藩7代藩主。号は欽斉。官位は従五位下能登守。贈従三位。利房系土井家7代。
 藩政改革、教育制度整備、軍制改革などで大きな実績を挙げ、樺太開拓を目指すなどスケールの大きい名君といわれる。
 出生・相続
 5代藩主・土井利義が隠居して養子・利器に家督を譲った後に利義の長男として江戸藩邸にて誕生。母は岡部長備の娘。幼名は錦橘。
 文政元年(1818年)、8歳で元服して利忠を名乗った直後、利器が病に伏したため急遽、養子となり、利器の没後に家督を相続した。ただし、幼少ということで、19歳まで江戸藩邸で育った。
 藩政改革
 利忠が始めて大野へ入部したのは文政12年(1829年)7月9日であった。幕末はいずれの藩も同じであったが、大野藩も莫大な財政赤字を抱え、減知減給が恒常的に行われていた。利忠は早速翌年に「寅年御国産之御仕法」と後年呼ばれる倹約及び地場産品奨励の命令を出し、現在で言う保護貿易政策をとった。続いて天保3年(1832年)5月に領内の面谷(おもだに)鉱山を藩直営に切り替えた。ただし、これらの政策はすぐには効果が発揮されず、藩財政のみならず藩士一般の窮迫も改善のめどが立たなかった。
 天保13年(1842年)4月27日、利忠は自筆をもって「更始の令」を発布した。その内容は、藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である、今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい、家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない。
 というもので、城内書院に集められてこの令の読み上げを聞いた家臣一同は感涙に咽んだという。その後、利忠は国許にいるときも江戸に参勤しているときも、自筆の命令により改革を進めていくこととなる。
 続いて利忠は人材の登用を行い、内山七郎右衛門良休と内山隆佐良隆の兄弟を抜擢した。兄の良休は勝手方一向奉行となって財政の総責任者となり、弟の隆佐は教育や軍制の方面で大いに活躍することとなる。財政再建で威力を発揮したのは、直営となった面谷鉱山であった。年間10万貫の銅を産出したといわれている。
 藩校明倫館・洋学館
 天保14年(1843年)7月、利忠は学問所創設を命じ、明倫館と名づけられて弘化元年(1844年)4月に開校した。学問は朱子学を柱としたが、他の学派の議論も認め、また医学の修行も取り入れるなど工夫を凝らした。のちには蘭学も取り入れて洋学館を設立し、大坂の適塾塾頭を務めた伊藤慎蔵を招いた講義も行うなど力を入れたため、全国から生徒が集まるようになった。
 軍制改革
 利忠は藩の軍制に高島流砲術を導入し、弘化2年(1845年)3月に大砲1門を鋳造させ、早打ち調練などを盛んにやらせたためこれも評判となり、他藩からの入門希望が多数寄せられるようになった。嘉永6年(1853年)のペリー来航後は、内山隆佐を軍師に任命し、弓槍から銃砲へと、洋式軍隊への転換を図った。また、内山隆佐に大砲の鋳造を命じ完成させた。安政元年(1854年)3月に大がかりな洋式訓練を行い、諸藩の評判となった。
 大野屋
 勝手方一向奉行の内山良休は、大野藩の地場産品を藩直営商店を通じて売り出すことを考案し、安政2年(1855年)5月に大坂大野屋を開業した。以降、箱館、岐阜、名古屋、越前各地などに大野屋を開いた。商品取引のほかに金融業もこなしていたという。
 北蝦夷地開拓と大野丸
 安政2年(1855年)、幕府はロシアの南下政策に危機感を強め、全国の藩に北方警備のため蝦夷地開拓の募集を行った。内山隆佐は利忠以下藩論をまとめて応募し、自ら探検調査団を率いて渡島半島を調査した。蝦夷地開拓は結局大野藩へは下命されなかったが、大野藩は諦めずに今度は北蝦夷地(樺太)開拓の許可を求めた。安政5年(1858年)、幕府は利忠に北蝦夷地西浦の警固と開拓を命じた。大野藩準領ウショロ場所である。これには船が必要ということで、建造したのが藩船大野丸であった。大野丸は長さ23m、幅7m、2本マストの帆船で、この年7月に進水し、敦賀湾を拠点として北方貿易及び警備兵運送に従事した。
 ただし、北蝦夷地開拓は北緯50度まで行ったものの、予想に反して利益が出ず、開拓は行き詰まった。幕府は利忠に対し、北蝦夷地を大野藩領に準ずるものとし、大野藩江戸城内御用を免じるなどの方策を講じて援助した。幕府は北蝦夷地の警固をそれほど重視していたのである。しかし、元治元年(1864年)内山隆佐の死と大野丸の遭難沈没が重なって開拓は頓挫し、明治元年(1868年)に大野藩明治新政府樺太を返上し、開拓に終止符を打った。
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 土井 利器(どい としかた)は、越前大野藩の第6代藩主。利房系土井家6代。
天明3年(1783年)6月4日、下総関宿藩主・久世広誉の十一男として江戸西の丸下の藩邸で生まれる。初めは奥原秀五郎を名乗ったが、天明5年(1785年)に久世姓に復姓した。広誉の祖父・久世広明は旗本土井家(土井左門家、土井利直の家系)出身で、土井家の縁者を養子にと考えた上での縁組と思われる。
 寛政5年(1793年)12月、雄之丞と名乗る。文化6年(1809年)8月、越前大野藩主・土井利義の養子となり、土居利器と名乗った。同年12月、従五位下、甲斐守に叙任する。文化7年(1810年)3月10日、利義の隠居により家督を継いだ。
 文化9年(1812年)8月、大坂加番となる。藩財政が苦しく、倹約に務めたが、財政は好転せず、家臣に給料を支払うことさえできない有様だったという。文政元年(1818年)5月17日、大野城二の丸で死去した。享年36。
 自身には男子がなく、先代藩主・利義の長男の利忠を養子として跡を継がせた。
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🏞74)─3─『解体新書』に刻まれたキリスト教の影響。日本語由来の和製漢字・日本国語漢字。1774年〜No.301No.302No.303 

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 当時の知識人・教養人は、現代の高学歴出身知的エリートに比べて縦・横・奥行きの時間軸はもちろん周辺の空間軸においても多次元的に桁違いの拡がりを持ついた。
 日本民族日本人や日本を歴史を評価せず軽蔑する現代の高学歴出身知的エリートは、時間軸も空間軸もない芥子粒的な点に過ぎなく、伝統も文化もなにもない。
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 蘭方医杉田玄白前野良沢中川淳庵らは、オランダ語を話せず、ただお互いにオランダ語の単語を幾つか知っているだけで、近くにオランダ語に詳しい語学の専門家もいなかったのに、無謀にも、高度な西洋の医学書・人体解剖書を翻訳した。
 不可能に近いから挑戦したのである。
 それが、世のため人のため、医学のために必要だから翻訳したのである。
 特に、翻訳した前野良沢はそうと言える。
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 2020年1月号 Voice「歴史論争
 『解体新書』扉絵の謎
 渡辺惣樹
 著者は、歴史にわかりきったことなどないと思っている。頭の中にはいつもなにがしかの疑問があり、『確からしい』答えを探している。その1つに『解体新書』扉絵がある。
 喉仏の訳語
 『解体新書』はオランダの解剖医学書『ターヘルアナトミア』を、杉田玄白前野良沢らが翻訳し、1774年に出版したものである。解剖図は秋田藩士小田野直武が描いた。玄白らはこの3年前に、小塚原(こづかはら)で刑死した罪人の遺体を腑分(ふわ)けし、同書の記述が正確であることを確認していた。出版までに3年を要したのは、人体部位を表す用語が日本語の語彙(ごい)に欠けていて、的確な訳語を創作する必要があったからだった。
 玄白も良沢も、訳語の正確性には自信がなかったようだ。訳しきれず音訳だけで済ませたものもあった。彼らから請(こ)われた大槻玄沢が、より的確な意訳で改訂(かいてい)版(『重訂解体新書』)を書き上げたのは1798年のことである。その出版はさらに遅れ、1826年まで待たなくてはならなかった。
 玄沢の修正は要したものの玄白の創造した多くの新語は漢人まで唸(うな)らせた。『特に「ゼニュウ」という蘭語を、中国養生思想の「神気」の「神」および蘭方医学の「経脈」の「経」を組み合わせて、神経と義訳(注:意訳)したのは「義訳のうちでも傑作中の傑作」』であった。辛亥革命後の中国政府は、医学名詞審査会を発足させ、日本で使われている医学用語を検討させた(1916~18年)。その上で、日本の術語を取り入れることを決めた。いかに玄白らが的確な訳語を考えたかがわかる。
 中には意訳ではなく漢方用語をそのまま利用したものもあった。玄白は、喉の一部について、『其正中突起処、謂之結喉』(『解体新書』)と書き、今でいう『喉仏』に『結喉』という漢方の伝統的用語を当(あ)てた。英語では『Adam’s Apple』、蘭語では『adamsappel』である。
 『旧約聖書』(創世記)には神はアダムとイブに、ある木(智慧の樹)の実を食べることを禁じたと書かれている。2人は神の命に反してその実を食べた。聖書には木の実としか書かれていないが、なぜかリンゴとされている。リンゴはアダムの喉とイブの胸に閊(つか)えて膨らんだ。それが喉仏と乳房になった。玄白もさすがに聖書に関わりをもつ『アダムの林檎(りんご)』ではそのまま音訳するわけにはいかなかったのであろう。漢語に当てたのは、『キリスト教禁令に対する配慮』だったらしい。
 アダムとイブの描かれた扉絵
 玄白が幕府に気遣ったとすると解せないことがある。小野田直武の描いた人体イラスト部分の扉絵にアダムとイブが使われていることである。誰もが知っているこの扉絵には右手に林檎を持つ男とそれを見つめる女が対で描かれている。アダムとイブであることは間違いない。原書の『ターヘルアナトミア』にはこの図はない。この絵は、研究者によれば『ワルエルダの解剖書』(1566年)をアレンジしたものらしい。
 当時『ワルエルダの解剖書』は江戸城内の紅葉山文庫にあった。ここに出入りでき、また『解体新書』翻訳・出版関係者との接点があった人物は平賀源内である。源内は秋田藩に招聘(しょうへい)され銅採掘の技術アドバイザーを務めたことがあった。その時に、小田野の画才を見出し、蘭画の手法を伝授した。その後、鉱山吟味役に任じられた小田野は江戸の源内邸に寄寓(きぐう)した。本草学者でもあった源内は1762年頃に杉田玄白と知り合っていたことから、小田野と玄白に接点が出来た。それが、小田野が『解体新書』の図版作成に関わった経緯だった。
 アダムとイブは、キリスト教義の根幹をなす『原罪』を象徴する。考えようによっては、キリスト像よりもキリスト教的である。玄白は、友人の奧医師桂川甫三を通じて本格出版前に大奥に献上したり、時の老中全てに進呈してもいる。反発のないことを確認して出版にこぎつけた。それほどの気遣いをしたのであっれば、なぜ原書にない図を使ったのか。
 彼らに何らかの悪意をもつものに、キリスト教のシンボルを『わざわざ』挿入(そうにゅう)したと告げ口された時、玄白らはいかなつ弁明を用意していたのだろうか。喉にささって抜けない小骨のような疑問である。」
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 『解体新書』(旧字体表記:解體新書)は、日本語で書かれた解剖学書。ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの医学書 "Anatomische Tabellen "(1722年初版。日本語通称は無し)の蘭訳本(オランダ語訳書)である "Ontleedkundige Tafelen "(1734年刊行。日本語での訛称[5]および通称は『ターヘル・アナトミア』)を主な底本として、江戸時代の日本人が西洋医学書を日本語に翻訳した書物である。
 ヨーロッパ諸語からの本格的な翻訳書としては日本初の試みであったともいうが、ほかにも、「日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書」「日本最初の、西洋医学書の翻訳書」「西洋科学書の日本最初の本格的な翻訳書」「日本最初の西洋解剖学訳述書」など、個々の辞事典の解説は対象範囲にかなりの差異がある。
 著者は前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)。江戸時代中期にあたる安永3年(1774年)、江戸・日本橋の板元・須原屋市兵衛の下で刊行された。本文4巻、付図1巻。内容は漢文で書かれている。
 経緯
 『ターヘル・アナトミア』(複製)/国立科学博物館の展示物。
 明和8年(1771年)3月4日、蘭方医杉田玄白前野良沢中川淳庵らは、小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を見学した(この場に桂川甫周がいたとする説もあるが、『蘭学事始』の記述からは考えにくい[要出典])。玄白と良沢の2人はオランダ渡りの解剖学書『ターヘル・アナトミア』こと "Ontleedkundige Tafelen " をそれぞれ所持していた。玄白は実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆し、これを翻訳しようと良沢に提案する。かねてから蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同し、淳庵も加えて翌日3月5日から良沢邸に集まって翻訳を開始した。
 当初、玄白と淳庵はオランダ語を読めず、オランダ語の知識のある良沢も翻訳を行うには語彙が乏しかった。オランダ語の通詞は長崎にいるので質問することも難しく、当然ながら辞書も無かったため、翻訳作業は暗号解読に近かった(この様子については玄白晩年の著書『蘭学事始』に詳しい)。玄白は、この厳しい翻訳の状況を「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と表した。安永2年(1773年)、翻訳の目処がついたため、世間の反応を確かめるために『解体約図』を刊行している。
 安永3年(1774年)、4年を経て『解体新書』が刊行された。玄白の友人で奥医師桂川甫三(甫周の父)が『解体新書』を将軍に献上した。
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 幕府や諸大名はおろか裕福な豪商や豪農は、大金を出して、中国の漢書・古典はもちろん西洋の書物を内容が分からないのに手当たり次第に大金を出し、競うようにして購入していた。
 日本は鎖国をしていても、オランダを通じて西洋や世界の、清国を通じてアジアに関心を持ち続けていた。
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 日本の優れたところは語学力で、外国語能力ではなく、日本国語の豊かな語彙である。
 特に、日本語由来の和製漢字・日本国語漢字である。
 現代風に言えば、世界で通用しないジャパニーズ・イングリッシュ(和製英語)である。
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 西洋医学を勉強する時、中国も韓国も漢字を由来とする文字・言語を使用する国は、日本語訳による和製漢字(日本語漢字)を学ばなければならない。
 その中でも、韓国は和製漢字(日本語漢字)を否定し、ハングルの専門用語に置き換えようとしている。
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 江戸時代の高度な教養とは、外国語を日本国語に翻訳・意訳し、外国語専門用語を和製漢字で造語・新語にして子供でも読めて分かるようにした事である。
 つまり、外国語を外国語として頭に入れたのではなく、外国語を日本国語にして身に付けた事である。
 子供に読み聞かせて理解させられない事は、如何に高尚であっても無意味であると。
 子供に分かりやすく教えたのは、現役・仕事から隠居した暇人・老人達であった。
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 教養や学問は、中国や朝鮮では特別な家系・身分・階級が権利として独占し門外不出的に世間に広めないようにしていた。
 江戸時代の日本は、中国や朝鮮とは正反対に世間に広め、知りたいという人間に家系・身分・階級・階層に関係なく知る自由が与えられていた。
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 江戸時代の日本人は、海外に行った事はなかったし、外国語の教育をえていたわけではく、まして公費による公的な義務教育も受けてはいなかった。
 それでも、現代の高学歴出身知的エリートに引けを取らなかったどころか、意欲・気力・体力、想像力・発想力・創造力など多方面で優れていた。
 当時の日本人は、現代の日本人とは違うし、ましてや中国人や朝鮮人とは似通ったところがない。
 日本人が特別・特殊で賢く優れていたという日本人とは、当時の日本人であって現代の日本人ではない。
 その中でも、反天皇反日的日本人達は論外で評価するに値しない日本人である。
 そして、捏造・改竄・歪曲・偏向・曲解されたいかがわしい中国の歴史や朝鮮の歴史を真実と盲信して、日本中心・天皇中心の民族史を正しく理解できない日本人も同様である。
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 現代日本の高学歴出身知的エリートが、当時の知識人・教養人・専門家と同じ事ができるかといえば、多くの面で不可能かもしれない。
 特に、盲目的な日本否定西洋礼賛主義の日本人にはそれが言える。
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🕯169)170)171)─1─宗教の「しきたり」の幾つかは昭和期の企業が金儲け目的で作った。〜No.355No.356No.357No.358No.359No.360 ㉜ 

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 日本人とは誰か?
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 宗教やしきたりは、神や仏が人に授けたものではなく、特定の人間がつくった俗物にすぎない。
 宗教とは、作り話、嘘の話、与太話、世迷い言、戯言(たわごと)に過ぎない。
 人間は宗教やしきたりがなくとも、神や仏がなくても、人間として立派に生きていける。
 人は、神や仏が何もなくても生きていける。
 人には、宗教やはいらない。
 福沢諭吉は、理性的に神の正体を突き止めていた。
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 2019年12月27日号 週刊朝日「週刊図書館 今週の名言奇言
 あくまで人間が定めたしきたりである。
 島田裕己『神社で柏手を打つな!』
 斎藤美奈子
 今年もまた宗教に対する日本人の無節操ぶりが発揮される時期がやってくる。クリスマスで騒いだ一週間後には寺が鳴らす大晦日の除夜の鐘を聞き、その数時間後には神社に初詣に出かける・・・。
 まあでも、嘆くには及ばない。現代人が信じて疑わない『しきたり』には、そもそもマヤカシが多いらしい。島田裕己『神社で柏手を打つな!』は世の『常識』を根底からひっくり返す快著である。
 まず神社ね。最近の神社にはよく『二礼二拍手一礼』の礼が出ている。でもこんな作法、昔ありましたっけ。手を合わせるだけじゃありませんでした?著者によれば二礼二拍手一礼が広まったのは平成以降のこと。もともと神職らが玉串を捧げる際の作法であって、根拠も薄い。参拝者にまで強制されるいわれはないのだ。
 108の煩悩を払うというわれる除夜の鐘も、さほど古い風習ではないようだ。定着したのは昭和、広めたのはラジオ放送だった。『ゆく年くる年』に先行する『除夜の鐘』というラジオ番組が戦前からあり、各地のリレー中継がはじまる前に寺から借りた鐘をスタジオでたたいていたらしい。
 初詣が定着したのも昭和で、背景には鉄道会社の経営戦略があった。東京から鉄道で行ける川崎大師や成田山新勝寺への初詣を鉄道会社が宣伝し、昭和になると大晦日終夜運転がはじまってますますそれに拍車がかかる。交通網やメディアの発達によって『いきたり』は簡単に変わるのだ。
 しきたり重視派は〈昔から受け継がれてきた伝統だから、それに従うべきだ〉というが、近年は〈商業資本によって導入された新たなしきたり〉が多い。
 二礼二拍手一礼の欠点は、神を『崇める』だけで静かに『祈る』時間がないことだ。大切なのはその『しきたり』を誰が決め、どんな意味があるか考えること。思えばあの大嘗祭だって、どんな根拠があるのやら。〈しきたりは栄枯盛衰をくり返す〉、それは〈あくまで人間が定めたしきたりである〉と思えば気持ちも軽くなる。よし、来春は柏手をやめよう。」
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 日本民族日本人の一年の計は元旦にあり。
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 日本民族日本人とは、氏神の神社・神棚・お札にお参りをし、祖先仏のお寺・仏壇・位牌に祈る、そうした人崇拝人間である。
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 日本民族らしい濃い日本人が2割、日本民族らしからぬ薄い日本人が3割、どっち付かずの曖昧で影が分からない日本人が5割。
 日本から、日本民族日本人らしい日本民族日本人が消えていく。
 それは、残念でもないし惜しい事でもない。
 国家・民族には、寿命がある。
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 日本の宗教は、平和で落ち着いた時代、先々に幾分かの不安や恐怖心がある時に発生する。
 世界の宗教は、戦乱で不安定な時代、襲い来る悲惨や救いない絶望から逃れたい時に発生する。
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 日本民族日本人の信仰心とは、平和な時代の「困った時の神頼み」であって、戦乱で不安定な時代には神仏には関心もなく見向きもしない。
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 動乱時代。日本の宗教、神社仏閣は荒れ果てて廃れ、世界の宗教、教会・モスク・礼拝所などの宗教施設は豪華に繁栄する。
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 日本は、中華(中国・朝鮮)はもちろん西洋(欧米)に比べても数百年続く老舗が数多く残っている。
 何故か、時代に合わせて生き方・しきたりを自由に換えてきたからである。
 硬直しない、偏屈にならない、一箇所に留まらない、伝統的な古いモノを大事にしながら新しいモノを積極的に取り入れ、変化を恐れない、多様な柔軟性があったからである。
 つまり、解釈は個人銘々勝手自由である。
 それが、伝統芸能における「基本・形から入って基本・形を破る事」が上達の秘訣である。
 日本の伝統芸能民族宗教は、イノベーションそのものであった。
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 江戸時代。各地の有名な神社仏閣への参拝・参詣は、庶民の物見遊山の娯楽・遊びであって信仰ではなかった。
 主君を持つ武士には、移動の自由や居住選択の自由はなく、領内の神社仏閣を参拝・参詣しても、領外の神社仏閣を自由に参拝・参詣する事はかなわず許可なく領外に出かければ厳罰に処せられ、最悪切腹を命じられ、家族は家禄と家屋敷を没収され領外へ追放された。
 庶民には移動の自由があった為に、周期的に御伊勢詣の大ブームが起きていた。
 日本の神社仏閣への参拝・参詣は、「験(げん)担ぎ」に過ぎない。
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 信仰心が薄い日本民族日本人が神社仏閣に行くのは、お参りの為であってお祈りの為ではない。
 お参りとは、神仏に頭を垂れても信仰する事ではなく、頭を垂れる事で神仏から報酬を得る為でもない。
 お祈りとは、神仏に傅いて信仰し、信仰する事で神仏から報酬を得る為である。
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 皇室神道を宿す民族中心神話・天孫降臨神話・高天原神話・神社神道を譬えれば、地球に降り注ぐ有害な紫外線や放射線を弱める目に見えない地球を取り巻くオゾン層やバン゠アレン帯(放射線帯)である。
 人類は、オゾン層やバン゠アレン帯(放射線帯)に護られているに、その有り難さを知ろうとしないし感謝しようともしない、それどころか科学の力で弱めそして破壊している。
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 日本民族日本人が、宗教で最も恐れたのは、神の御名によって日本人を奴隷として売って金儲けした中世キリスト教会であった。
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 日本民族日本人は、無宗教汎神論で、無節操に、御利益があれば如何なる神仏でもあるがたく拝み、幸運をもたらすという縁起物・御守り・お札をあれもこれもと数多く買い込むが、神の奇跡や救済、恩寵、啓示や秘跡などは胡散臭くて信じる気にはならなかった。
 日本民族日本人は、ユダヤ教キリスト教イスラム教などの絶対一神教儒教マルクス主義共産主義のような排他的絶対思想とは反対側で生きる人間である。
 然りとて、相対的な宗教や思想にも馴染めない所がある掴み所のない人間でもある。
 ゆえに、宗教対立や思想・主義主張対立が起きにくく、たとえ起きても深刻化せず有耶無耶に終わる。
 宗教や思想・主義主張を狂暴な原理主義に変貌させず無力化・無毒化してきたのが、万世一系男系天皇の家系・皇室であった。
 それができるのは、女性神天照大神の血筋・皇統を正統とする神の裔・祭祀王の天皇だけであった。
 皇室神道・民族中心神話とは、「何でもあり」という事であり、「敬して遠ざける」であった。
 それが、日本民族日本人は「底なしの泥沼のような、本性が分からない、得体の知れない人間」と貶まれる由縁である。
 だが、日本民族日本人の本音は、「他人が信じている神仏が本物で信仰しないのを怒って祟りをするのではないか」と怖れる、という臆病・弱虫なだけである。
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💄64)─1─日本の男女格差が年々悪化している。先進7カ国(G7)中最下位。〜No.129No.1302 ⑭ 

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 日本人男性は、男女格差は当然の事と考えて改める気は微塵もない。
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 2019年12月17日 産経新聞「男女格差、日本が世界で121位 スイスのシンクタンク調べ 過去最低の記録
 【ロンドン=板東和正】スイスのシンクタンク世界経済フォーラム(WEF)は17日、世界153カ国を対象に男女格差を測る「ジェンダー・ギャップ指数」(2019年版)を発表した。日本は昨年の110位から121位に後退し、過去最低となった。女性の政治進出が遅れていることなどが原因という。
 ダボス会議で知られるWEFは06年から毎年、政治、経済、健康、教育の4分野から各国の男女格差の状況を分析し、順位を発表している。
 WEFは19年時点の日本について、政治の分野で女性が一度も首相に就任していないと指摘。国会議員に占める女性の割合が日本は約10%と世界で最も低いと分析した。また、経済の分野でも、管理職や経営者の女性が少ないとした。
 日本は先進7カ国(G7)中、ドイツ(10位)、フランス(15位)、英国(21位)、米国(53位)などから引き離され、最下位となった。
 アジア首位は、企業管理職などの女性登用が進むフィリピン(16位)で、日本は中国(106位)や韓国(108位)よりも下位だった。
 全体の首位は11年連続でアイスランド。北欧のノルウェーフィンランドスウェーデンが続いた。
 一方、世界全体では、女性の政治参加が進んでいることから、男女間格差の解消に99年半かかると予測。108年かかると分析していた昨年の予測から改善傾向を見せた。
・・・

⛩7)─1─国際的動物愛護団体は、伝統的民族宗教の神事・祭祀・儀式を潰そうとしている。~No.12・ *  

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 普遍宗教・絶対正義・一般常識が、ローカルな民族宗教を破壊し、地域の伝統的宗教行事を消滅させていく。
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 現代日本では、反宗教無神論信奉者であるリベラル左派のマイノリティ・ファシズムエコ・テロリストヒューマニズム原理主義。環境過激派による「神殺し」が静かに行われている。
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 天皇心神話・天孫降臨神話の日本神道には、敵はいても味方はいない。
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 2015年10月1日 週刊新潮「過激化する『動物愛護』のバカ一覧 三品純
 諏訪大社『カエル神事』に猛烈抗議
 見世物小屋『蛇女』は中止
 犬様、蛇様、カエル様──。『生類憐れみの令』の時代から300余年、昨今の日本では、『人権』ならぬ『獣権』が幅を利かせ、各地でバカげたトラブルを頻発させているという。……
 まず初めに、ごく最近起こったこんな『事件』について紹介しよう。
 9月14日午前2時過ぎ、千葉県松戸市で、逃走していた紀州犬が通りかがりの女性に噛みつき、捜していた飼い主の70代男性も襲いかかった。犬の体長は120センチ。現場に急行して3人の警官は危険を感じ、飼い主の許可を取った上で13発発砲。大型犬を射殺したのである。
 問題はこの後、だ。松戸署の副署長が説明する。
 『14日の午前中にニュースが流されてから、非難が殺到。翌日までに約400件に上り、電話はパンクしました。〝残酷だ。犬がかわいそうじゃないか!〟〝13発も撃つ必要があったのか!〟というのが大半でしたが、中には〝〝素手でなんとかならなかったのか!〟という意見もありました』
 そういうお前が捕まえてみろ!と電話の向こうに毒づきたくもなるだろうが、副署長は冷静に続ける。
 『万一、犬を逃がした場合、時間を考えれば、朝小学生たちが通学する時間になると、さらに被害が拡大する恐れがある。適性な処置だったと考えています。しかし、抗議の数はすさまじく、通常業務が成り立たないレベル。チームを作って応対したほどでした』
 ちなみに、射殺された犬は、日常的に飼い主家族にも噛みつくなど、凶暴性には歯止めがかからなくなっていたという。
 9月20日から1週間は『動物愛護週間』。全国各地で、動物とのふれあいイベントが数多く開かれている。しかし、近年の動物愛護運動は、膝に犬猫を乗っけて頭を撫でているような牧歌的なものに留まらない。冒頭のように、『動物愛』は、時にバランスを失い、暴走し、各地で人々を困惑させるトラブルが続出しているのだ。
 例えば──
 〈動物が虐待されて殺されていても平気なんですか〉
 〈人はみな小さな命をも慈しむ心を育むべし!〉
 『御柱(おんばしら)』で知られる長野県の『諏訪大社』。この正月、そんな無粋なプラカードや横断幕を掲げた10名ほどの団体が門前に現れた。
 彼らの矛先は、毎年元旦に行われる『蛙狩(かわずがり)神事』だ。これは社の前に流れる御手洗川で蛙を捕まえ、矢で射ぬき、神前に捧げるというもの。供えられる蛙は2匹のみで、弓矢で刺すのは拝殿で行うため、外からは見えないという。1000年前から続く伝統行事だが、彼らはこれが『虐待だ!』と訴えているである。
 『動物を大切に、という気持ちは否定しませんが──』
 と、憤りを隠さないのは、同社の氏子・笠原雅男氏である。
 『何より許しがたかったのは、1人の女性が御手洗川に踏み込み、氏子が蛙を捕まえるのを阻止しようとしたことです。神社にとって、神事の際に蛙のいる場所は〝聖域〟で、宮司でも入らない。しかし、彼女はそこを踏み越えて〝やめろ!〟〝蛙を殺すな!〟と叫びながら捕獲をとめようとした挙句、勢い余って滑って川に転がった。神様に対して失礼極まりない行動です』
 仮にイスラム過激派のモスクで同じようなことをしたら、彼らは一体、どんな結末が待っているだろうか。
 笠原氏が続ける。
 『私は子どもの頃から蛙狩を見てきましたが、地元からは〝虐待だ〟なんて批判を聞いたことがありません。もちろん神事は今後も続けていきますよ』
 抗議を行った『全国動物ネットワーク』の代表者の女性に聞くと、
 『世界の動物愛護の潮流を潰すような記事を書くんですね? 蛙狩りは違法行為だから、国民が違法と声を上げて、何がおかしいんですか? 来年も抗議しますよ』
 と気勢を上げるが、そもそも最低限の礼儀や常識を持ち合わせていない人々が〝法〟を語っても、そこにはちっとも説得力が感じられないもである。
 警官が告げた『逮捕』
 こうした『愛護運動』は、他の伝統文化にも牙をむいている。
 次に紹介するのは、江戸時代から続く『見世物小屋』のケースだ。『人間ポンプ』や『火吹き女』など奇芸で縁日を賑わせた祭りの風物詩である。最盛期に300もあった小屋は次々と幕を閉じ、現在興行を打つのは『大寅興行社』1軒のみとなっているが──今やこれも危機に瀕しているのをご存じだろうか?
 ……
 当の福岡市東部動物愛護管理センターは、『強制的に興行を中止させようとしたわけではありません』と回答。
 見世物は、『動物愛護法』のできるはるか昔から連綿と続けらえてきた。福祉の概念が希薄な時代、障害者や孤児を受け入れるなど、今風に言えば、〝弱者のセーフティーネット〟として機能してきた経緯がある。
 しかし、『動物愛護』のかけ声の前に、彼らは生活の糧を失い、その灯は存亡の秋を迎えているのだ。
 〝テメェらで殺しあえ〟
 今回取材していて気が付いたのは、愛護団体は、東日本大震災後に活動が活発化しているケースが多いということだ。震災では、原発事故の立ち入り禁止区域内に数多くの犬や猫、家畜が残され、それを救うために、多くの団体が何度も現地に向かった。こうした活動を通して、彼らの『愛護熱』はより燃え盛っていったということだろう。
 また、抗議をするのは、子育てがひと段落した30〜40代の女性が中心だ。
 そして何より特徴的なのは、ここ数年、世を席巻するSNSが彼らの炎に油を注いでいるという現状だ。どこかで動物虐待と思われる事例があったとする。すると、その〝情報〟は、フェイスブックツイッター、ラインを通じ、瞬く間に拡散していく。
 ……
 こうした匿名の抗議に比べれば、先の諏訪大社見世物小屋へのそれは、顔が見えるだけ〝健全〟と言えるかもしれない。姿を見せない、対話の成り立たない抗議は、誤解は誤解、憎しみは憎しみのまま増幅し、誰にも制御不可能な『運動』を生んでしまうのである。
 匿名の抗議と『動物愛護』と言えば、『マタギの里』として知られる山形県小国町で起きた事例にもビックリさせられる。
 昨年9月、同町で60代の男性がキノコ狩りの際、体長1.8メートルのツキノワグマに襲われた。しかし、男性は勇敢にも、スパイク付の地下足袋で熊を蹴り、見事撃退してしまったのだ。この『事件』は、地元紙だけでなく、在京スポーツ紙でも報じられた。
 普通の読み手なら〝武勇伝〟に拍手喝采となるのだが、この『蹴り』がよほど癪に障ったのか、『動物愛護』派の皆様はまるで異なる受け止め方をしたという。
 小国町の農林振興室の担当者は言う。
 『本件が報じられた直後から電話やメールで抗議が相次ぎました。中には〝熊が殺されるかと思うと夜も眠れない〟〝かわいそうな熊のことを考えると精神状態がおかしくなる〟〝そもそもキノコは熊の食べ物。山の中に入らなければいい〟というものもありました』
 欺瞞的な自己愛
 こんな話も聞いた。同じくマタギの里である秋田県北秋田市で猟を営む男性は、苦笑して言う。
 『ある時、県の狩猟免許の講義のために会場に向かったら、そこに愛護活動家が待ち受けていた。〝熊のプロなら殺さないで山に追い返せ!〟と言ってきたんです。言いがかりだな、と思って、逆に〝じゃあアナタがたも動物保護のプロなんでしょ。熊を説得してみてください〟と言ったら、〝それは屁理屈だ〟とブツブツ言うだけでしたよ』
 いかがだろうか?
 以上に上げた事例は、全国津々浦々でトラブルを巻き起こす『愛護運動』のごくごく一部に過ぎない。
 『そもそも人間は殺生をして生きている。食用から、蛙の神事も含めて、我々の生活は動物の犠牲の上に成り立っているのです』
 と言うのは、呉智英氏だ。
 『昔は、鶏肉を食べたければ、家庭で鶏を解体するのが当たり前でした。しかし、豊かになると共に、そういう場面が日常から消えていった。代わりに、あえて人間の〝業(ごう)〟に目を向けず、純真で、ぶりっこ的な動物愛を押し付けてくる事例が目立つようになったのでしょう。本来、不必要に残酷、残虐なものは、人間の営みの中で自然に淘汰されていく。ヒステリックな言動で、無理やり人々の生活を押さえつけようとするのは、欺瞞的な自己愛が根底にあるものと言ってよいでしょう』
 『動物愛護』という誰にも否定できない言葉を錦の御旗に、伝統や文化、人々の生活に土足で踏み込む──。
 そんな愚かしい『運動』のあり方では、彼らが謳う『人間と動物との共生』の日など、いつになっても訪れそうにないのである」
   ・   ・   ・   
 イギリスに於いて、躾けられない犬は駄目犬として射殺され、躾けられる犬は賢い犬として死ぬまで大事に飼育する。
 ゆえに、イギリスの犬は行儀が良く、飼い主の良きパートナーである。
 ペットの飼い方は、イギリスは日本より合理的であり賢明である。
 イギリスは、飼うにあたって大人として責任をとっている。
   ・   ・   ・   
 人間を含めた全ての生物は、他の生物を襲って殺し、命を奪い、その肉体を貪り食う事で生きている。
 絶対神が動植物を創ったのは、人が生きる為の糧にする為であって、人生のパートナーにする為ではない。
 動物を助ける為に人を犠牲にするのは、絶対神の恩寵に叛する。
 人間の為に動物を絶滅させる事は、絶対神の恩寵を踏みにじる事である。
 生きる為に必要な数の動物を殺す事は許されるが、趣味や興味など自己満足で殺す事は許されない。
 ライオンなど肉食動物は、腹が一杯であれば獲物を襲い殺す事はない。
 それが、食うか食われるかという自然界に於ける「弱肉強食の絶対原則」である。
   ・   ・   ・   
 多くの宗教には、生きた動物を生け贄として殺し絶対神に捧げる神聖な儀式が今も存在する。
 生け贄を捧げる神事は、人類が数千万年受け継いできた宗教文化である。
   ・   ・   ・   
 崩壊し始めている日本。
 宗教心・信仰心を捨て始めた日本人。
 自分だけの価値観で自己満足的な考えと行動をとり他人を干渉し排除しようとする日本人は、外国人移民が増えて多様化する多民族多文化多宗教多価値観国家では生きてはいけない。
   ・   ・   ・   
 少数派外国人移民の宗教・信仰・精神性では、多数派日本民族日本人の宗教・信仰・精神性は理解できない。
 狂信的な外国人移民は、日本民族日本人の宗教・信仰・精神性を「悪」として排斥する可能性がある。
 少数者を尊重するとき、多数派は譲歩する必要がある。
 まして、世界で理解されない民族性は改造する必要がある。
 さもなければ、世界に受け入れられない。
 宗教・信仰・精神性のグローバル化
 文化のグローバル化
 世界で理解されないモノは、世界で理解されるモノに改善されなければならない。
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🕯105)─2─少数派は昼に除夜の鐘を鐘を突くように変更させた。~No.228 

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 弱者や少数派を支援する反天皇反日的日本人。
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 2016年12月24日 産経ニュース「【ニュースの深層】「除夜」ならぬ「除夕」の鐘 騒音クレームに配慮も…日本の風物詩どう残せばよいのか
 新しい年への祈りを込めて国宝の洪鐘(おおがね)がつかれた=平成26年12月31日、神奈川県鎌倉市円覚寺(渡辺照明撮影)
 百八つの煩悩を払い、新年を迎える年末の風物詩「除夜の鐘」。近年では「除夕(じょせき)の鐘」として日中に鳴らしたり、中止にしたりする寺院があるという。背景には、近隣住民による“騒音”クレームへの配慮や、高齢者、子供ら幅広い年代が参加可能なイベントにするという今どきの寺院ならではの事情があった。(社会部 高橋裕子
 正午から鳴る鐘
 「うるさいバカヤロー! いつまで鳴らしているんだ」
 十数年前の静岡県牧之原市の大沢(だいたく)寺。大みそかから元旦にかけて除夜の鐘を鳴らしていると、怒鳴り声をあげてすぐに切れる匿名電話が数件、毎年のようにかかってきていたという。
 「お叱りを受けるなら止める」。先代住職の決断で除夜の鐘は中止に。それからの大みそかは、いたずらでも鳴らされないようにと撞木はロープで鐘楼に縛りつけられてきた。
 大沢寺の鐘は戦時中に金属類回収令で供出したが、昭和30年に檀家(だんか)と協力し苦労して再び鋳造したものだ。内側には寄進した檀家の名前がびっしりと刻まれている。現住職の今井一光さん(58)は、「先代の父が中止を決断したが、せっかくの鐘がもったいない。寄進していただいた方にも申し訳ないと思っていた」といい、平成26年秋に檀家の世話人会に再開を提案した。
 その結果、大みそかの午後2時から「除夕の鐘」として復活することが決定。翌27年には、「大みそかは忙しい主婦も参加しやすい時間に」とさらに早め、正午から始めた。27年は檀家の婦人部らの協力で豚汁や焼きイモなどが振る舞われ、約130人の家族連れや高齢者らでにぎわった。「この年になって初めて鳴らした」と感激している高齢者もいたという。今年も名前は「除夕」のまま正午から開催する。
 今井さんは「伝統文化にかたくなにこだわっていては、文化そのものがなくなってしまう。騒音問題になるより形を変えて存続する方がいい」と説明する。
たかが3軒、されど3軒
 一方、騒音の苦情により、「除夜の鐘」中止を続けている寺院もある。東京都小金井市の千手院だ。
 かつては同院の土地だった一帯は多摩地区の開発とともに住宅街に。現在、同院は幅約3メートルの道路を挟んで戸建て住宅に囲まれている。
 除夜の鐘は昭和40年代後半から続いていたが、平成25年、寺院と敷地内に併設する保育園の建て替えに伴い鐘の位置を変更したところ、近隣住民3軒から「除夜の鐘を鳴らされては困る」と苦情が寄せられた。それ以来、試し打ちも含め一度も鳴らしていない。
 26年に住民側が民事調停を申し立て、除夜の鐘を鳴らす際には住民側が指定する防音パネルを設置することや、除夜の鐘以外は鳴らさないことなどで合意。これらを守れば大みそかの実施は可能だ。だが、足利正尊住職(41)は、「防音パネルの設置と撤去に毎年少なくない費用がかかる上、音を完全には防げず再び苦情がくる懸念がある。たかが3軒というかもしれないが、されど3軒。宗教活動としてやるからには、一緒に楽しめる地域交流でなければ」と語り、今年も中止を決めた。師走になると、「今年も除夜の鐘をやらないのか?」と数件の問い合わせの電話があるという。
 明治以来の風習?
 除夜の鐘の由来は諸説ある。寺院住職向けの情報誌「月刊住職」の編集長で安楽寺横浜市保土ケ谷区)の住職、矢沢澄道(ちょうどう)さん(68)によると、1日を24時間とする西洋式の時報が明治8年に導入され、それまで夜明けだった1日の始まりが夜中になって以降の風習とみられるという。
 矢沢さんは除夜の鐘について、「皆に仏教が大事なことを知ってもらい、寺院に来てほしいという思いから、時代に応じてつくられた仏教行事の一つ。訪れる人の1年の罪や科(とが)を清め、初心に帰って新しい1年を始めたいという心持ちに応えている」と説明。「真夜中でなくても幅広い年代の人が参加できる地域のつながりの行事として、除夜の鐘を続けてほしい」と話す。
 1人の裏に多数の人たち
 ただ、苦情を言わないまでも、近隣住民の心中は複雑だ。千手院の近くに住む女性(49)は、「除夜の鐘に反対しているわけではないが、鐘の周りにはフェンスしかなく、隣接する住宅が音の防波堤になっている。それなりの環境を整える配慮がもう少しほしかった」と話す。
 女性は以前の配置では鐘と自宅との間に保育園舎があったためか除夜の鐘の音は全く気にならなかったというが、配置変更後は聞こえ方が一変。数年前の大みそかの夜、千手院に何者かが侵入し突然鐘を鳴らした際には、「窓とシャッターを閉めた室内に車のクラクションより大きく聞こえ、見ていた歌番組が断ち切られた感じがした」と話す。
 騒音問題に詳しい八戸工業大の橋本典久教授(音環境工学)は、「寺院の音の問題では個人の苦情に重きを置いて対応する場合が多いが、1人の苦情の裏には多数の何も言わない人たちがいる」と指摘。「寺院が地域との良好な関係を確保していくことも大事だが、除夜の鐘は年に一度、短時間のこと。伝統や歴史、残すべき文化であることなど除夜の鐘の音に対する社会的な評価を考えた上で、寺院が適切に判断すべきだ」と話している。」
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 自称弱者という少数派の暴走が、日本民族の宗教や文化を崩壊させていく。
 少数派が多数派を駆逐する。
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 伝統的民族宗教の風物詩がまた一つ消されようとしている。
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 少数派には、日本的な「郷に入っては郷に従う」は通用しない。
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 弱者を名乗って傲慢になる少数派。
 多数派は、少数派の正義を怖れ、穏便に済まそうという同調圧力で少数派に従う。
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 外国人移民が増えれば、同時に少数派の数も増える。
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 異なった宗教や文化を持った外国人移民が増えるや、日本民族の宗教や文化は少数派に配慮して徐々に行事を減らしていく。
 宗教・文化の多様化では、少数派が主導権を握って社会変革を行い、多数派は少数派の圧力に屈して民族的伝統を「悪」として捨てて行く。
 グローバルは、民族的宗教や文化を消し去る。
 日本神道や日本仏教は、ローカルな民族宗教である。
 キリスト教イスラム教は、グローバルな普遍宗教である。
 地球規模、人類の総人口約70億人からすれば、日本神道や日本仏教は約1億2,000万人の少数派である。
 キリスト教イスラム教は人種・民族に関係なく信者を増やして増加するが、日本神道や日本仏教は人口激減で信者を減らし始めている。
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 除夜の鐘が騒音なら、キリスト教会の鐘も騒音であり、イスラム教の祈りの声も騒音であり、如何なる音も無関係・無関心な他人からすればうるさい騒音である。
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