☕6〉─3─日本人から日本の伝統的祭りは騒音として嫌われる。〜No.11No.12 *  

日本の祭り

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 外国人移民が増えれば、日本民族の伝統的宗教的祭りは廃れ消えて行く。
 外国人移民推進派は、移民が増えれば民族性が希薄になる事を十分理解した上で、伝統より生活が大事として、年金や医療・介護などの社会保障費を稼ぐ事こそが優先されると主張している。
 つまり、日本人が生きていく為には日本民族は重要ではなく、むしろ邪魔である、と。
 世界の良識も、外国人移民の拡大を推奨している。
 人口激減対策に最も有効な策は、外国人移民であると。 
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 人口激減で日本民族日本人は衰退していく。
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 2018年7月28日 msnニュース 秋田魁新報社「竿燈おはやし練習に騒音苦情 各団体、練習場所確保に苦慮
 秋田市秋田竿燈まつりの開幕が来月3日に迫る中、地元町内ではなく、同市の八橋陸上競技場前で練習している竿燈会がある。地元での練習に対し、騒音としての苦情が寄せられたため、練習場所を移したという。竿燈会の代表は「(住民の)理解が得られずもどかしいが、伝統を守るには時代に合わせた変化も必要だ」とする。
 25日午後7時ごろ、同市大町1丁目の二つの竿燈会が陸上競技場前に集まってきた。上亀之丁と上米町一丁目で、メンバーは3歳から70代まで総勢70人ほど。男衆は代わる代わる大若を持ち上げ、「額」や「腰」などの技を確認した。子どもは小若や幼若を上げ、女性陣は笛や太鼓のおはやしの練習に汗を流した。掛け声やおはやしの音は大きいが、周囲に住宅は少なく影響はなさそうだ。
 上亀之丁の代表富樫剛さん(41)によると、これまでは町内に近い駐車場の一角を借りて練習に取り組んでいたが、付近住民とみられる人から騒音としての苦情が、市竿燈会などを通じ寄せられるようになったという。このため4年ほど前から、陸上競技場前に場所を移し、練習に取り組んでいる。」



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一度は観たい 日本の祭り

一度は観たい 日本の祭り

⛩55)56)57)─1─潜伏キリシタンの神社。長崎市・枯松神社。〜No.127No.128No.129No.130No.131No.132 ⑫

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 長崎市
 枯松神社
 更新日:2013年3月1日 ページID:000609
 枯松神社(かれまつじんじゃ)
 市指定史跡
 指定年月日 平成17年1月4日
 所在地 長崎市下黒崎町枯松頭
 慶長19年(1614)の禁教令が出され、以降キリスト教信者への取り締まりはいっそう厳しさを増したが、その中にあって、外海地方の多くの信徒たちは潜伏して信仰を保ち続けた。黒崎地方の潜伏キリシタンたちは、枯松の山頂にひそかに集まってオラショを伝承してきた。明治時代に入ると、この地に神社を建立し、日本人指導者バスチャンの師であるサン・ジワンをここにまつった。
 また、神社周辺には、板石を伏せて置くキリシタン墓が残っている。このようにキリシタンをまつった神社は全国的に珍しく、長崎市内淵神社の桑姫(くわひめ)大明神、東京都伊豆大島のおたあね大明神が知られている。
 備考
 地図検索(新しいウィンドウで開きます)
 バス「黒崎教会前」下車徒歩20分
 お問い合わせ先
 文化観光部 文化財課 
 電話番号:095-829-1193
 ファックス番号:095-829-1219
 住所:長崎市魚の町5-1(市民会館2階)
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 2019年11月3日 産経新聞WEST「ローマ法王来日前に合同慰霊祭 「潜伏キリシタン」聖地の長崎・枯松神社
 カトリックかくれキリシタン曹洞宗の3者が参加した枯松神社祭=3日午後、長崎市(恵守乾撮影)
 江戸期の禁教下で信仰を守り続けた「潜伏キリシタン」の聖地として知られる長崎市下黒崎町の「枯松(かれまつ)神社」で3日、布教活動を行った外国人宣教師「サン・ジワン」らを慰霊する神社祭が開かれた。現在はカトリック仏教徒となった潜伏キリシタンの子孫ら約200人が一堂に会し、思い思いに祈りをささげた。
 地元・黒崎地区の潜伏キリシタンの多くは禁教令が出た江戸時代、曹洞宗天福寺(同市)の檀家として身を隠しながら、サン・ジワン神父らの下で信仰を続けた。明治になって禁教が解かれると、人々は当時の信仰を継ぐ「かくれキリシタン」とカトリックに復帰した人、仏教徒の3者に分かれた。
 同祭は平成12年、3者の「融和」を図る目的で始まった。過去2回は別々に開催したが20回目の今年、ローマ法王の38年ぶりの長崎訪問を控えていることもあり、3年ぶりの合同開催となった。
 この日、「カトリック黒崎教会」主任司祭の橋本勲さん(77)がミサを執り行い、かくれキリシタン帳方(ちょうかた、最高責任者)の村上茂則さん(69)が、禁教時代から口伝で受け継がれる「オラショ」(祈り)を奉納。会場は神秘的で厳かな雰囲気に包まれた。
 ローマ法王来日に合わせて作詞作曲した「ビバパパ」も合唱。村上さんは「信者の少ない日本には来ないと思っていた。今日は感謝も込めて臨んだ」。橋本さんは「ローマ法王と同じように、互いの違いを認め合う黒崎地区から平和を発信できれば」と話していた。」
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 日本人で、いい人は2割、悪い人は3割、何方ともいえない人は5割。
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 日本の宗教性や神秘性は、縄文時代から日本国土に根付き、それを儀式化祭祀化形式化したのが日本神道である。
 日本神道を象徴する最高祭祀が、特殊な血統・血筋に受け継がれた一子相伝宮中祭祀・皇室祭祀である。
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 日本神道は、男女の性、伝統・宗教・文化、人種・民族・部族、国民・市民、哲学・思想・主義主張、生物・無生物、自然・環境・自然現象、存在しようと存在しなくても、森羅万象、有りと有らゆる全てを神として受け入れ神社に祀った。
 神社に祀られる人間は、人徳者も犯罪者も、キリスト教徒もマルクス主義者も、日本人も朝鮮人でも台湾人でも、平等に・公平に分け隔てなく関係なく祀った。例・靖国神社。 
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 全てを分け隔てなく差別せず排除せず受け入れる根拠が、天皇の御威光、八紘一宇、皇道、天皇の御稜威・大御心、大家族主義である。
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 日本神道は、マルクス主義的反宗教無神論とは真逆の天孫降臨神話・日本中心神話的無宗教有神論である。
 マルクス主義共産主義は、日本神道・日本天皇を滅ぼそうとしている。
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 日本民族日本人は、反宗教ではなく無宗教であり、多神教というより有神教であった。
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 日本神道には、如何なる差別や迫害も存在しない。
 教祖はいないし信者・教徒もいない。教義・経典・聖書などもはなく、布教はしないし信仰もない。
 排他的、攻撃的、不寛容、強制は、ない。
 神社に集うのは、氏子(血縁・神の子孫)と地域住民(地縁)と崇敬者(繋がり・絆・縁)だけで、それ以外の人間は無視しては寄りつかない。
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 日本民族日本人と漢族系中国人・朝鮮人は、別種のアジア人であり、文明・文化・伝統・宗教も違う。
 日本は天皇・皇室を中心に存在する為、多数派とは天皇・皇室を敬愛する人々で、少数派とは天皇を嫌い天皇制度の打倒を目指し人々である。
 故に、日本民族日本人は無条件に多数派で、少数派には原則的に日本民族日本人はいない。
 見た目が日本人でも、必ずしも日本民族とは限らず、ニセ日本民族、騙り日本民族が少なからず存在する。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売って金儲けをしていた。
 彼らにとって、日本人の命は金で買えたし、死ねば別の命を買って取り換え可能な命であった。
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 2018年10月31日 西日本新聞キリシタン聖地の祭り、存続危機 カトリック・かくれ・仏教徒、3者のゆらぐ一体感
 慰霊のミサやオラショの奉納が行われる枯松神社祭=2015年
 キリシタンの聖地の一つ、枯松神社(長崎市下黒崎町)で11月3日、潜伏期に苦難を強いられた先祖に祈りをささげる「枯松神社祭」が開かれる。禁教令が解かれたことで、皮肉にも分断されたこの地の関係者がそろう取り組み。今年19回目を迎えるが、それぞれの立場や考え方の違いが現れるようになり、一体感が揺らぎ、存続が危ぶまれる事態になっている。
 神社がある長崎市外海地区はキリスト教が禁じられた江戸時代にも、表向きは寺の檀家(だんか)となった潜伏信徒によって信仰が守られた。明治時代に入って禁教令が解かれると、信徒は主に(1)カトリックに復帰(2)禁教期の信仰形態を維持するかくれキリシタン(3)寺に移る仏教徒-に分裂した。
 かつて共同体をつくり長年の弾圧に耐えてきた信徒たちの間にも、考え方の違いからわだかまりが生まれ、戦後もしこりが根強く残った。事態を心配した野下千年神父(81)がカトリック黒崎教会在任中、3者に働きかけて2000年11月、初めて合同慰霊の神社祭を実現。後に3日の開催が定着した。
 積極的に関わってきたカトリック側だったが、高齢化などで事情が変わる。11月1~2日に執り行ってきたミサを、信徒が集まりやすい祝日の3日に変更。神社祭と日程が重なるため信徒の負担が重くなっているとして、ミサを優先するようにした。昨年に続いて今年も神社祭には参加しない。
 そうした背景を踏まえ、今年の神社祭も各宗教の「自主開催」とする。かくれキリシタンの信徒組織で責任者(帳方)を務める村上茂則さん(68)が先祖から受け継いだオラショ(祈り)を午前11時から奉納。野下神父による自由参加の「感謝と慰霊の集い」が午後1時から開かれる。地元の曹洞宗天福寺は住職が不在のため、寺院としての参加は見送る。
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 枯松神社は潜伏キリシタン関連遺産の資産ではないが、信徒がひそかに集まって祈った歴史を物語る重要な場所に建つ。国内3カ所しかないキリシタン神社の一つで、禁教期に外海で活動したと伝わる日本人伝道士バスチャンの師、サン・ジワン神父が祭られている。
 =2018/10/31付 西日本新聞朝刊=」
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 2018年11月4日 長崎新聞「先祖を思い 祈りささげる 枯松神社祭 潜伏キリシタンの「聖地」
 長崎市外海地区の潜伏キリシタンの「聖地」として知られる長崎市下黒崎町の枯松(かれまつ)神社で3日、「サン・ジワン枯松神社祭」があり、潜伏キリシタンを先祖に持つ人たちが、同神社に祭られるジワン神父の遺徳をしのび祈りをささげた。
 明治期に禁教が解かれた後、人々はカトリックのほか潜伏時代の信仰形態を受け継ぐかくれキリシタン仏教徒に分かれた。枯松神社祭はこの3者の融和を図ろうと開かれ、今年で19回目。地元カトリック黒崎教会は行事の重複などを理由に、昨年に次いで今年も不参加だった。
「かくれ信徒」の黒崎旧キリシタンは午前中に集い、帳方(指導者)の村上茂則さん(68)が社殿の前で両手を組み、先祖から受け継いだ「オラショ」(祈り)を約30分唱えて奉納。
 カトリック長崎大司教区の祭儀は午後に行われた。同教区の野下千年神父(81)は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が7月に世界文化遺産に登録されたことを受け「潜伏の時代に苦しんだ先祖たちに、あなた方のおかげと報告したい」などと語った。集いにはそれぞれ約60人が参列した。
 同神社は世界遺産の構成資産には含まれていないが、参道脇の「祈りの岩」では潜伏キリシタンオラショを練習していたと伝わる。」
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⚔31)─3─朝鮮出兵で、日本に強制連行された朝鮮人の光と影。〜No.134・ 

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 朝鮮は、奪う物がないほど日本より貧しかった。
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 朝鮮の日本侵略。
 大化の新羅の賊、大化元(645)年。
 弘仁新羅の賊、弘仁2(811)年。
弘仁新羅の乱、弘仁11(820)年。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 貞観の入寇、貞観11(869)年。
 寛平の韓寇、寛平5(893)年および6(894)年。
 延喜の新羅の賊、延喜6(906)年。
 長徳の入寇、長徳3(997)年。
 刀伊の入寇、寛仁3(1019)年。
 元寇文永の役、文永11(1274)年。弘安の役、弘安4(1281)年。
 応永の外寇、応永26(1419)年。
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 日本の朝鮮侵略
 豊臣秀吉朝鮮出兵文禄の役、文禄元(1592)年。慶長の役、慶長元(1596)年。
   ・   ・   ・   
 西洋の日本侵略。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を人身売買して大金を稼いでいた。
 日本のキリスト教国家化、日本人のキリシタン化。
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 産経新聞IiRONNA
 関連テーマ
 秀吉「朝鮮出兵」がもたらした光と影
 秀吉による「朝鮮出兵」では、多数の朝鮮人が生け捕りにされ、日本に連行された。女は性奴隷、男は過酷な労役など、多くは悲惨な人生を余儀なくされた。一方で、日本の伝統文化である伊万里焼の生みの親として名を残したほか、日本人との結婚で幸福な余生を送った者もいた。天と地ほど違った朝鮮人捕虜たちの記録を追う。
 陶工、文官、性奴隷…生け捕り朝鮮人たちの天国と地獄
 『渡邊大門』 2019/11/02
 渡邊大門(歴史学者
 前回に引き続き、日本に連行された朝鮮人の話である。おたあ・ジュリア以外にも、朝鮮人キリシタンは日本に存在した。朝鮮人キリシタンというよりも、日本に連行されてから入信したというのが正確である。
 その一人にコスモ竹屋という朝鮮人がいる。その生涯はほとんど分からないが、尾張国の武具師で宣教師の通訳を務めていたという(『日本基督教史』)。慶長19(1614)年に修道士やキリシタンが国外に追放されて以降、突如としてコスモ竹屋は史上に登場する。
 江戸時代になるとキリスト教信者は国外に追放されたが、元和4(1618)年の夏、彼らの中に密かに日本へ潜入する者があり、それは組織的なものであったという。同年10月、イエズス会のイタリア人宣教師、カルロ・スピノラが、ポルトガル人のドミンゴ・ジョルジの家で捕らえられた。同じ頃、朝鮮人のコスモ竹屋の家においても、日本に潜入していたオルスチとほか1人が捕縛された(『切支丹伝道の興廃』)。
 その後、スピノラは大村(長崎県大村市)に移送され、元和8(1622)年に西坂(長崎市)で殉教した。これが「元和の大殉教」といわれるものである。
 もう一人は、嘉兵衛つまりビセンテ嘉運である。嘉運は文禄・慶長の役の際、わずか13歳で朝鮮から日本に連行された、連行したのは、小西行長である。嘉運は行長のもとでキリスト教の教えを受け、慶長年間には北京や朝鮮にも滞在した。特に、北京での滞在期間は、4年にも及んでいる。その後、嘉運は日本に帰国し、イルマン(司祭職にあるパードレを補佐する役)として活動した。
 元和5年に禁教令が発布されると、状況は大きく変化した。日本に帰国した嘉運は、寛永2(1625)年に宣教師のゾラとともに捕らえられた。そして、火炙りの刑に処せられたという(『切支丹伝道の興廃』)。元和年間以降、キリシタンの処刑がたびたび行われていたが、その流れを受けるものであろう。
 最後に、カイなる人物を取り上げておこう。その来歴は、『日本西教史』に記載されているので、次に掲出しておく。
 「カイは文禄・慶長の役で捕虜となって、日本にやって来た。仏門に入ったが、精神の安定を得られなかった。のちに教会の師父に奉仕し、第一の祈念としてライ病を患っている者の完治とした。宣教師が日本を追われると、ジュード右近(高山右近)にしたがってフィリピンに行ったものの、右近の死後は日本に潜入し、長崎に居住した。子供をキリスト教に導き、異教徒をキリスト教の信者となし、貧しい人を救ったが捕らえられ、1625年に処刑された。」
 もちろん日本に連行された朝鮮人の中には、ほかにもキリスト教に入信した者が存在したであろう。したがって、ここに挙げた3人は、記録に残った幸運な部類に属するといえるのかもしれない。
 日本に連行された朝鮮人のうち、技術者として尊重されたのが陶工たちである。とりわけ九州各地には、朝鮮人陶工が足跡を残している。以下、そうした陶工たちのルーツをたどることにしよう。
 日本を代表する陶磁器の一つとして、伊万里焼がある。有田焼とも称されている通り、佐賀県有田市の特産品である。伊万里港から輸出されたので、伊万里焼と呼ばれることもある。寛永15(1638)年に松江重頼が著した『毛吹草』という俳諧論書の中で、「今利(伊万里)ノ焼物」と記されている。初期の伊万里染付や古伊万里錦手などの色絵の中には、優れた作品が多く、現在も高値で取引がなされている。この伊万里焼に一役買ったのが、日本に連行された朝鮮人であった。
 その朝鮮人の名は李参平といい、朝鮮の忠清道金江の出身だった。文禄の役の際、参平は出陣していた鍋島直茂の家臣・多久長門守安順に生け捕りにされた。多久氏は小城郡多久(佐賀県多久市)を本拠としているので、参平は同地に居住させられた。やがて、参平は磁器を製作できる場所を探し、鍋島領内を探し求めたという。そして、白磁鉱を発見した地が、有田町の東北部に位置する松浦郡泉山であった。
 時期的には1610年代のことといわれており、それは考古学的な発掘調査によっても裏付けられる。参平は上白川山に移り、天狗谷窯を開いた。そして、日本で初めて白磁を焼いたのである。この功績は鍋島氏によって評価され、参平の子孫には陶器を製造する際の税が免除されたという。こうして参平のもとには、伊万里焼の製造を希望する者が集まり、やがて一大集落になったというのである。
 参平は出身が忠清道金江であったので、地名にちなんで姓を「金江」と称した。亡くなったのは、明暦元(1655)年であるが、その墓は長らく行方知れずになっていた。しかし、現在では発見され、有田町の指定史跡となっている。また、現地で参平は「陶祖」として崇められ、陶山神社では鍋島直茂とともに祭神として祀られている。日本に連行されたのは不本意であったかもしれないが、伊万里焼の発展に貢献した人物として知られている。
 隣の長崎県では平戸焼(三川内焼)が有名であるが、こちらも日本に連行された朝鮮人の貢献があったという。平戸焼は佐世保市三川内で生産されたので、三川内焼というが、もとは平戸島中野村(平戸市)の窯で製作されていた。白磁の染付けや色焼が美しく、今も人気の高い陶磁器の一つである。
 平戸に本拠を置く松浦鎮信慶長の役に出陣した際、やはり多くの朝鮮人を日本に連行した。その中の一人に巨関なる人物がいた。巨関は1556年の生まれで、慶尚道熊川の出身であるという。巨関は松浦氏の命により、平戸島中野村に窯を開き、陶器を焼いていたという。やがて、巨関は日本人女性と結ばれ、今村氏を姓として、今村弥次兵衛と名乗ったのである(以下、巨関で統一)。
 その後、巨関は子に恵まれ、その子は今村三ノ丞と名乗った。父子は良質の土を求めて、平戸の領内を探し求めた。そこで出会ったのが、三川内の白磁鉱(網代陶石)であった。寛永10(1633)年のことである。三ノ丞は窯場の棟梁に任じられ、慶安3(1650)年には中野村から三川内に陶工たちは移住させられた。こうして平戸焼は御用窯として庇護され、朝廷や諸大名への献上品など高級な器を焼いた。しかし、その間は苦労が絶えず、何度も失敗することがあったと伝える。
 以後、今村家は平戸焼の生産で多大な貢献をした。巨関は寛永20(1643)年に亡くなった。巨関もまた、日本の陶磁器産業の発展に尽くしたのである。
 朝鮮から連行した陶工によって発展した窯は、以上のものだけではない。たとえば、筑前高取焼は黒田氏が朝鮮から連行した陶工により始まったが、製作者の具体的な人名は分かっていない。また、長門萩焼は、毛利氏が朝鮮から連行した陶工・李敬が創始者であった。このように、今も脈々と受け継がれる伝統的な日本の窯業は、朝鮮から連れて来られた陶工たちによって、その礎が築かれたといえよう。
 日本に連行された朝鮮人の中には、近世以降、藩体制の中で重要な役職に登用される者もあった。金如鉄(のちの脇田直賢)がその人である。如鉄については、鶴園裕氏らの研究グループによりすでに多くの事実が掘り起こされているので、以下、それらの成果から紹介することにしよう(『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究―加賀藩を中心に―』)。
 万暦14(1686)年、如鉄は翰林(かんりん)学士・金時省の子として、朝鮮帝都(漢城)で誕生した。翰林学士とは天子の秘書的な役割を果たし、また政治顧問の性格を有していた。如鉄がいかに恵まれた環境に誕生したかが分かるであろう。しかし、そんな如鉄を悲劇が襲う。文禄元(1592)年から始まった文禄の役によって、父・時省が戦死してしまうのである。悲劇はそれだけに止まらなかった。
 同年5月、如鉄自身は戦いの最中に宇喜多秀家の兵に捕らえられ、捕虜となったのである。秀家は朝鮮で多くの子供を生け捕りにしたといわれ、如鉄もその一人であり、まだわずか7歳の少年だった。同年12月、如鉄は日本の岡山へと連れて来られた。父を失い孤児になった如鉄は、いかなる心境だったのであろうか。
 翌年、如鉄は金沢の前田利家の妻・芳春院のもとに送られた。秀家の妻・豪姫は利家の娘だったが、いったん豊臣秀吉の養女となり、そして秀家の妻になった。やがて如鉄は、利家の長男・利長のもとに預けられ、名も日本風に九兵衛と改められると、慶長10(1605)年頃には230石の俸禄で近習奉公するようになった。
 前田家に仕えた如鉄にも、やがて転機が訪れる。同年、脇田重之(重俊)の姪と結婚し、脇田姓を名乗るようになった。そして、脇田直賢として一家を構えたのである(以下、如鉄で統一)。ところが、この頃讒言(ざんげん)によって、1年もの間、閉居を命じられた。ようやく許されたのは翌年のことである。芳春院の口添えによるものであった。
 以降、如鉄は子供にも恵まれ、一見して幸せそうに見えたが、正当な評価がなされなかった感もあり、悶々とした日々を送っていた。慶長19年に長年仕えた利長が亡くなると、引き続き養子の利常に仕えた。その直後、大坂の陣に参陣し大いに武功を挙げるが、その評価は必ずしも正しいものではなかった。
 その後、何度も藩に対して、武功を書き連ねた書上げを提出するが、わずかな恩賞が下付されるに過ぎなかった。ところが、寛永8(1631)年に大坂の陣における戦功について再検討が開始されると、如鉄の評価は大きく修正された。結果、如鉄は1000石を与えられ(570石の加増)、御鉄砲頭、御使番に命じられた。さらに、その後は算用場奉行などを経て、ついに金沢町奉行に任じられたのである。正保2(1645)年のことで、如鉄はすでに60歳という高齢に達していた。
 万治2(1659)年、如鉄は74歳で家督を嫡男・平丞に譲ると、直後に出家し、翌年に75歳で亡くなった。
 如鉄は朝鮮の上流階級の家柄に誕生したことから、官僚としての能力も高く、また文芸に秀でていたという。慶長19年、江戸にあった芳春院は、山田如見を伴って金沢に帰ってきた。その際、如鉄は如見から、「源氏物語切紙伝授」と「古今伝授」を授けられたという。これは日本人でもなかなか叶わないことであった。また、発句をたびたび詠んだことが知られている。いかに如鉄が聡明に人物であったかを示していよう。
 如鉄のように技術者としてではなく、文官として如何なく能力を発揮した人物も記憶に留めておく必要がある。
 ここまでは、朝鮮人の男性を取り上げてきた。男性の方が、その履歴などが判明しているからである。以下、目を転じて女性に注目することとしたい。この分野では、金文子氏の研究を参照しながら、その実態を取り上げることにしよう(「文禄・慶長の役における朝鮮被虜人の帰還」「秀吉の朝鮮侵略と女性被虜」)。
 ここまで述べてきたように、捕らわれの身になった朝鮮人の身分は、実にさまざまである。官僚や学者もいれば、陶工などの技術者なども存在した。しかし、圧倒的に多かったのは、老若男女・子供を含めた農民ということになろう。彼らは戦闘員でないにもかかわらず、見境なく捕らえられ、日本に連行された。彼らのその後の生涯については、次のように分類されている。
 A奴隷に売られ、もっとも悲惨な生涯を送った人
 B幸いに生き長らえて、朝鮮に帰還を果たした人
 C帰還のチャンスを逃し、日本社会に適応しながら、生活をせざるを得なかった人
 Cが最も多かったのではないかと考えられるが、Aも多かったと推測され、Bは最後に触れるが、必ずしも幸いとはいえなかったようである。
 強制連行された朝鮮人女性は、いかなる運命をたどったのか。その特徴については、次の5つのケースに分類されている。
 ①容貌や才能が優れていたため連行された女性
 ②戦争中に日本人と結婚したため来日した女性
 ③日本兵の性的欲求を満たすために連行された女性
 ④日本国内で労働に従事させるために連行された女性
 ⑤奴隷売買のため連行された女性」
 ①については、豊臣秀吉が縫工などを要求していたという事実がある。才能に加えて美しい容貌であれば、高値で取引されたという。いずれにしても、売買の対象であったのには変わりがない。④は、男性ともども農作業などに従事させられた。①と④は、⑤との関連性が強いであろう。③については、可能性は否定できないが、史料的な裏付けが困難である。あるいは②との関係性があるかもしれない。
 Bについては、いくつかの例が知られているので挙げることにしよう。平戸の松浦鎮信は、朝鮮出兵時に釜山の京城を攻撃した。その際、小麦畑に美しい姫が潜んでおり、彼女らを捕らえて平戸に連れ帰ったという。彼女の本名は廟清姫といったが、のちに小麦姫と称された。そして、帰国後に鎮信と小麦姫との間に誕生したのが、のちに壱岐島主になった松浦信政である。
 同じような例は、ほかにもある。対馬・宗氏の家臣の一人に橘智正なる者があった。智正は、のちに文禄・慶長の役で朝鮮から連行した人々を送還する役割を担ったことで知られる。そもそも宗氏は朝鮮との関係が深く、橘氏もその配下にあって、朝鮮との親和性が強かったのかもしれない。彼の妻もまた、朝鮮の女性だった。
 朝鮮に出兵した吉川広家は、朴佑の娘を連れ帰り、侍女にしたという。こうした例は、ほかにもたくさんあるであろう。
 では、どのくらいの女性が日本へ連行されたのであろうか。朝鮮から連行された人々の数は実にさまざまであり、2、3万人から10万人以上まで開きが大きい。概して、日本側の見積もりは低く、朝鮮側は高い。『月峯海上録』という史料によると、日本に連行された男性は3、4万人とされ、女性はその倍になるという。フロイスの『日本史』を参考にすると、5万人程度になると推測されている。
※主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房
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💍3)─5─海外メディアは「即位礼正殿の儀(即位の礼)」で天皇を改めて評価する。~No.12No.13 

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 世界は、約2000年の伝統文化である万世一系男系天皇を認めるか、認めず女系天皇女性天皇を強要するのか。
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 2019年10月28日11:00 msnニュース NEWSポストセブン「即位の礼は世界的なイベントに 海外ではどう伝えられたか
 © SHOGAKUKAN Inc. 提供 天皇の前で万歳する安倍首相(写真/dpa=時事)
 天皇の即位は日本国民だけの行事、という時代は終わった。今回の即位の礼には世界各国のメディアから取材が殺到し、インターネットで生中継されるなど、世界的な一大イベントへと様変わりしたのだ。では、海外ではどのように伝えられたのか──。
 10月22日に執り行なわれた「即位礼正殿の儀(即位の礼)」には、イギリスのチャールズ皇太子ミャンマーアウン・サン・スー・チー国家最高顧問をはじめ、191の国と国際機関などの代表らが参列した。
 その様子は、世界中のメディアで一斉に報じられた。英BBCは「日本の天皇が古式ゆかしく即位を宣言」と電子版のトップニュースで伝え、米CNNも「各国からの賓客が参列」と特集した。
 仏紙フィガロは、天皇を前に安倍首相の音頭で行なわれた万歳三唱について、「“万歳”とは1万年を意味し、天皇の健康長寿を願うものだ」と説明。英紙ガーディアンは「徳仁天皇の即位は、令和(美しい調和)という彼の治世が皇室を穏やかな近代化の時代に導くものとして期待されている。オックスフォード大学で2年間過ごし、テムズ川の古代海上輸送を研究した君主は、皇室を一般の人々に近づけるために尽力した明仁天皇の努力を継続すると示唆していた」とした。欧米メディアは、天皇即位について歓迎ムード一色だった。
 ドイツ出身のコラムニスト、サンドラ・ヘフェリン氏は、即位の礼についてこう感想を述べた。
 「今は王族のいないドイツでも、国民は長い歴史を持つ王室に憧れがあり、日本の皇室にも敬意を抱いています。今回の儀式は、日本国内だけではなく、世界各国にも日本の伝統文化が長い歴史に支えられているものだと印象付けた。
 一方で、昭和、平成、令和と時代を経るごとに絵天皇のお言葉がだんだんと国民の言葉遣いに近いものに変わってきているのは、ヨーロッパでもスペインやオランダの王室が国民との距離を近づけようとさまざまな取り組みをしているのに似たものを感じます」
 ◆退位で伝わった平和主義
 この4月30日に上皇上皇后が退位して以降、海外メディアで改めてその長年の取り組みを評価する記事が相次いだ。英BBC(4月30日)はこう伝えている。
 「戦後日本の国際社会における評価を再度高めることに努めてきたのが明仁天皇である。それまでの天皇は大衆と触れ合うことは稀であった。しかし、明仁天皇天皇の役割を再定義し、国民への同情や慈しみの心で知られるようになった。皇位継承から2年後の1991年には、それまでの規範を破り、長崎の噴火被災者たちに跪いて話しかけられた。また明仁天皇は非公式の大使として海外へも幅広く訪問し続けた」
 米NBC(4月30日)も以下のように伝えた。
 「30年にわたる明仁天皇の在位中、日本の戦後の発展は継続し、2020年の五輪開催国にも選ばれた。しかし、1990年代には金融危機や重大な自然災害など苦難にも見舞われた。明仁天皇は皇室と国民の距離を縮め、日本が抱える戦後の傷を癒すことに尽力したことで尊敬を集めている。今年1月に皇居で行なわれた新年一般参賀に平成最多の参賀者が集まったことも、人気の表われだ」
 オーストラリアのテレビ局・ABC(4月30日)は、「明仁天皇は、民間から初めて天皇家に嫁ぎ、60年共に歩んだ美智子皇后と共に、和解と平和、民主主義の象徴として積極的な役割を果たした」と功績を称えている。
 アメリカにおける近現代天皇制研究の第一人者で、『国民の天皇』『天皇論「日米激突」』(共著)などの著書がある米ポートランド州立大学教授のケネス・ルオフ氏は、今回の退位によって、世界の天皇に対する見方が変化したと指摘する。
 「海外の人々は常に日本に興味をもっているわけではなく、たまに報じられる日本のニュースを見て、情報をアップデートする程度です。そのため海外では依然として“第二次大戦中の天皇”だった昭和天皇にまつわる負のイメージが根強かった。
 しかし、今回の代替わりのニュースが世界中で報じられたことで、平成の天皇が平和主義者であり、日本は戦前とは異なる国になったということが世界中に伝わり、アメリカでも“天皇アレルギー”が払拭されました。上皇上皇后が幾度となく海外への慰霊の旅に出かけ、平和が大事だとする発言を繰り返してきたのは、イメージを変えるためにはそれだけの時間がかかるということを理解されていたからではないかと思います」
 即位の礼で新天皇は、「国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」と述べた。令和の時代も平和への訴えを引き継いでいくという表明だろう。
 ルオフ氏は令和の天皇の新たな取り組みについてこう推察する。
 「平成の天皇が示した天皇像を引き継ぐと同時に、新天皇は独自のテーマをお持ちと見受けられます。1つは『多様性』と『寛容』です。即位前には、日本が多様化していることを何度も話されていました。今後は日本国籍を取得する外国人を含めた“国民の天皇”を目指すという意味と私は捉えています。人種も宗教も異なる人々を、寛容の心をもって共同体に受け入れられるように活動をされるのではないでしょうか。
 もう1つは『水問題』への取り組みです。世界にはきれいな水を飲めない貧しい国がまだ多く残っています。日本人は新天皇がなぜ水問題に関心を持つのか、ピンとこないかもしれませんが、世界では水不足が原因で戦争も起きますし、また水不足は地球環境の問題でもあります。その解決に取り組めば日本の評価を高めることにつながるはずです」
 新皇后に関しても、「ハーバード大学東京大学で学んだ元外交官の雅子妃は、日本の男性中心の社会のイメージを変えることだろう」(インドネシアの『ジャカルタ・ポスト』4月25日付)といった期待が寄せられている。
   ※週刊ポスト2019年11月8・15日号」
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 10月28日05:00 産経新聞「【主張】「男系男子」復帰案 安定策議論のたたき台に
 皇位継承にとり最も大切な原則である男系(父系)継承を守り、皇統を盤石にするよう求めた提言を歓迎したい。
 自民党の有志国会議員44人でつくる「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」が発表した「皇位継承の安定への提言」である。
 天皇陛下秋篠宮皇嗣殿下の次の世代で皇位継承権を持つ男性皇族は、秋篠宮家のご長男、悠仁さまお一方だ。安定的な皇位継承の維持が国家の基本に関わる重要事となっている。天皇陛下が即位に伴う大嘗祭(だいじょうさい)を11月に執り行われた後、政府は安定継承策の本格検討に入る。
 自民有志の提言は、「男系による皇位継承を、いかなる例外もなく、126代一貫して続けてきたのが日本の伝統である。これは、性差による優劣を論じるものでは全くない」として、男系による継承の堅持を求めている。父方を遡(さかのぼ)れば必ず天皇を持つのが男系継承をとる日本の皇統の特徴だ。
 提言は今の皇位継承順位を守った上で、(1)男系である旧宮家の男子が現皇族の養子か女性皇族の婿養子になる(2)本人に了承の意思があれば皇族に復帰できる-の2案を挙げた。立法措置が必要となる。2案の同時実施もあり得るとした。女性皇族との結婚は、「自由意志に基づく自然なものでなければならない」とした。
提言は、旧宮家には「10代5人、20代前半2人」の男子が存在するとしている。
 「女性天皇」や女性皇族が、旧宮家出身でない民間人男性と結婚して生まれる子が皇位に即(つ)く「女系天皇」案には反対した。歴史上、一度も存在しなかった「女系天皇」を認めれば、日本に「異質の王朝」「天皇ならざる天皇」を生み出してしまうと指摘した。
 今回の具体的提言は、日本と皇室の歴史、伝統を踏まえ、実現可能性のある内容といえる。
 君主にとって継承の歴史、伝統の尊重は極めて重要だ。女系継承の容認は大きな混乱を招き、天皇の正統性を失わせ、象徴性を打ち砕く禁じ手である。
 護る会は大嘗祭の後、安倍晋三首相へ提言を提出する。首相は今年6月、皇統について「例外なく男系が継承されてきた。長い歴史を十分踏まえなければいけない」と語った。男系継承という皇統の大原則を国民に伝える努力を重ねつつ、今回の提言を議論の有力なたたき台にしてもらいたい。
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💖6)─2─日本外務省・日本大使館は、帰国したポーランド孤児をナチスから助けた。~No.26 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 栄光の君が代旭日旗
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 昔の軍国日本・日本陸軍・日本人兵士は、悪い事・戦争犯罪をしたが同時に良い事・人道貢献もおこなった。
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 ポーランドユダヤ人難民が、ナチス・ドイツの友好国である日本を頼り、着の身着のままでシベリア鉄道で日本に向かったのには理由があった。
 東条英機松岡洋右A級戦犯達、日本陸軍は、親ユダヤ派の昭和天皇の希望を叶える為に、ヒトラーから逃げて来た数万人のポーランドユダヤ人難民を助けた。
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 日本陸軍の主流派は、対ロシア・対ソ連・対共産主義戦略から親ポーランド派であって親ドイツ派ではなかった。
 日本陸軍の大半は、日本の恩人であるユダヤ人を迫害するヒトラーナチス・ドイツが嫌いであった。
 日本陸軍の大勢は、アメリカやイギリスとの戦争に関心はなかった。
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 親ドイツ派(隠れマルクス主義派)の革新官僚・軍人官僚エリート・右翼・国粋主義者軍国主義者らは、反ユダヤ主義者・人種差別主義者としてドイツとの同盟を推進し、日本を戦争へと暴走させた。
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 2019年11月号 正論「ポーランドの『シベリア孤児記念小学校』
 語り継がれる日本への愛  坂本龍太朗
 アウシュビッツワルシャワ蜂起、共産主義・・・。ポーランドと聞いて多くの日本人はそんな悲劇的なイメージを連想するかもしれない。もちろん、そういy歴史も忘れてはならないが、『悲劇の国ポーランド』というイメージを超えて『親日ポーランド』に塗り替えてくれるのがポーランドに昨年11月開校した『シベリア孤児記念小学校』だ。ポーランドとの国交が生まれて100年の節目に開校し、ポーランドと日本との心温める交流を未来へ語り継いでいこうという同校の取り組みを日本の多くの人に知ってほしいと願っている。
 シベリヤ出兵と孤児救出
 ……
 孤児たちのニュースは国内でも大きく取り上げられ、慣例を破って貞明皇后が慰問なさったこともある。その際、一人の少女の頭をなでながら『元気になるように』と励ましたそうだ。
 子供たちは大阪で手厚い医療支援を受けた。全国から服や靴、お菓子などの支援物資が届き、子供たちは少しずつ元気と笑顔を取り戻した。海路での帰国のために、神戸港から日本を出国する際、子供たちは涙を流しながら君が代を斉唱した。
 孤児たちのその後
 天国のような日本からポーランドに帰国を果たした孤児たち。しかし彼らを待っていたのは必ずしも思い描いていた祖国の姿ではなかった。独立後の混乱でポーランドは孤児たちを受け入れるだけの余裕を持ち合わせず、結局多くの孤児たちはポーランド北部のヴェイヘローヴォで集団生活を余儀なくされる。1923年から28年までの5年間、多い時、施設には300人を超える子供たちが暮らしていた。
 子供たちの教育に当たったのは救済委員副会長のユゼフ・ヤクブキェーヴィチ氏。社会復帰のための教育はもちろんのこと、日本の知識を伝えるための教育に特に力を入れた。子供たちに心の支えとして常に日本を感じてほしいという想いもあっただろう。
 しかしそれ以上に、ヤクブキェーヴィチにとっては日本を伝えることこそが日本への感謝を表す方法だった。そのため孤児たちはポーランド帰国後も、日本を常に身近に感じ続けることができた。ヴェイヘローヴォでの教育があったからこそ、孤児たちは自分たちの子供たちへ、そして孫たちへと日本を伝え続けたのだ。
 そしてここで教育を受けた孤児の一人、イェジ・ストゥシャウコフスキ氏(1911~91年)は18歳の頃、孤児たちを集め『極東青年会』を設立、ポーランド国内で日本を伝える活動をはじめた。雑誌『極東の叫び』の出版や、『日本の夕べ』という文化イベント、日本映画祭などを主催。孤児以外のポーランド人たちが日本を深く知る機会を提供し、第二次世界大戦勃発前の1938年には434人もの会員を抱えるまでに成長した。1933年、日本が国際連盟を脱退するにあたり松岡洋右ジュネーブに赴く途中、ポーランドに立ち寄った際にはワルシャワ駅に多くの極東青年会の会員が『日本万歳!』と叫んだ。
 その後も孤児を助けた日本
 1939年9月1日、ナチスドイツがポーランドを侵攻すると状況は一変する。当時、ポーランドはイギリスやフランスと同盟関係で、両国はポーランドに侵攻したドイツに宣戦布告するが、それは2日後だった。すでにポーランド軍はこのとき、壊滅状態で、ドイツ軍は14日にはワルシャワ包囲作戦を完了した。
 ポーランドの悲劇はさらに続く。17日未明に今度は相互不可侵条約を結んでいたソ連が一方的に侵攻してきたのだ。ドイツ軍と同様、宣戦布告などなかった。
 極東青年会を率いるストゥシャウコフスキ氏は首都防衛戦に参加。同時に自分たちと同じような運命を歩む子供たちを少しでも減らそうと、ワルシャワで戦争孤児となって浮浪していた子供たちを集めて孤児院を運営した。
 孤児院には武器を隠され、ナチスに抵抗する活動拠点という裏の顔があった。ナチス憲兵は何度か孤児院に押し入ったが、そのたびに極東青年会と協力関係があった日本大使館のスタッフが駆け付け、『孤児院は日本国政府の庇護のもよにある』と伝え、子供たちに君が代などを歌わせ、引き取るよう説得したこともあった。ドイツ軍に抵抗する落書きをして捕まった子供たちを、日本大使館が働きかけて釈放させたり、大使館撤収時に食料などがある倉庫の鍵を預けたりして、そのお蔭で生きながらえた子供たちも多かったなど数々の秘話もある。孤児たちは日本によって、帰国後も救われ続けたのである。その後、極東青年会、そしてストゥシャウコフスキが世話をしていた孤児たちをを中心にポーランド国軍の傘下として特別蜂起部隊『イェジキ』が誕生。『イェジキ』とは『イェジキの子供たち』という意味だ。イェジ・ストゥシャウコフスキは現在ポーランドで『1,000人の子供たちのお父さん』と言われる存在だ。
 終戦までにイェジキ部隊は660名もの戦死者を出す。祖国を奪われればまた多くの孤児が生まれる。決してそんな歴史を繰り返さない。そんな強い意志で孤児たちは武器を取って戦った。ストゥシャウコフスキは逮捕や死刑宣告などを受けながらも奇跡的に生き延び、1981年、来日を果たし、日本赤十字などを訪問し謝辞を述べている。これは『ポーランドを第2の日本にしよう』と演説したワレサ議長の来日と同年の出来事であった。
 続く心ある交流
 シベリア孤児の歴史はこれで終わらない。1995年、阪神淡路大震災が発生。当時在京ポーランド大使館に商務参事官としてスタスワフ・フィリペック氏がいた。フィリペック氏はポーランドを代表する物理学者で外交官として日本赴任を決断した背景には祖母から聞いていたシベリア孤児の話があったと聞く。
 ……」
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 善い事しかししようとしない「お利口さん」の現代日本人は、悪い事をしないが人道貢献も行わない。
 軍備・軍隊を否定する護憲派反戦平和市民団体は、日本軍部が行った栄光ある人道貢献を認めず否定する。
 彼らは、悪人ではないが善人でもない。
 無味無臭。無色透明。
 実体があるようで実体がない。毒がなければ栄養もない。
 それが、平和憲法下の現代日本である。
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 他国・他人に助けられても他国・他人を助けない、それが現代日本人である。
 中身のない空っぽな現代教育、特に醜悪な歴史教育が、子供たちを人の心を持たない無価値で無意味な日本人へと育てている。
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 現代日本人は、人間の健康と命は金で買えると信じ始めている。
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 ウィキペディア 
 イェジ・アンジェイェフスキ(ポーランド語: Jerzy Andrzejewski, 1909年8月19日 - 1983年4月19日)は、ポーランドの小説家。
 生涯
 帝政ロシア支配下ワルシャワに生まれる。ワルシャワ大学で文献学を学ぶ。1936年に最初の短編集『避けられない道』を出版。1937年に『心の秩序』で文学院の新人作家賞を受賞した。ポーランド人民共和国成立後、下院議員となる。1950年に共産党に入党するが、56年に離党した。この年に労働者防衛委員会に参加し、反政府活動に身を投じた。ワルシャワ蜂起を描いた『灰とダイヤモンド』は、アンジェイ・ワイダ監督によって映画化(1958年に)されたことで広く知られる。
 創作活動以外にも、両戦間期は文芸週刊誌「プロスト・ズ・モウトゥ」の、戦後は「プシェグロントゥ・クルトゥラルヌイ(文化評論)」の編集長も務めた。
 没後にポーランド政府によってポローニア・レスティトゥータが授与されている(2006年)。
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 日本歴史旅行協会
 The Association for Japanese History and Travel
 日本とポーランドの意外な接点
 By admin on 2014年3月7日
 第二次世界大戦当時、ナチス・ドイツ兵の前でポーランドの首都ワルシャワの子供達が「君が代」「愛国行進曲」を日本語で大合唱!ドイツ軍は驚き、呆気にとられ、その場を退く事に。。。。。
 ドイツ兵?ワルシャワ君が代? ???
 いったい何が起きたのか?これだけではさっぱり分かりませんよね。そこに至る迄の背景を辿ってみましょう。
 18世紀末(1700年後半)、ポーランドは消滅。地図上から姿を消しロシア帝国に組み込まれます。独立を求めたポーランド人は何度も蜂起しますが失敗、流刑の地であるシベリアに送られました。
 特に1863年から翌年にかけて行われた「一月蜂起」では、約8万人ものポーランド人が流刑囚としてシベリアに送り込まれたそうです。
 日本が地図から消されてしまったらどう思いますか?当時のポーランド人にとっては筆舌し難い事だったのではないでしょうか。
 その後100年以上の時を経て第一次世界大戦後の1918年、ポーランドは独立を果たします。ところが1917年に起きたロシア革命による内乱はシベリア全土に拡がり当時10万人以上いたポーランド人達を巻き込んで行く事になります。その戦火を逃れる為に東へ東へと向かったそうです。
 混乱のさなか親とはぐれたり失ったりした子供達が続出しました。
 このような惨状の中にいたウラジオストック在住のポーランド人達は「ポーランド孤児救済委員会」を組織し祖国ポーランドへ帰そうとしますがロシア革命後に樹立したソビエト連邦ポーランドの間でポーランドソビエト戦争が勃発し、孤児たちの帰還は困難な状態となります。
 救済委員会はヨーロッパ諸国やアメリカに輸送援助を求めましたが要請が受け入れられる事は有りませんでした。そこで当時はまだ小国だった日本へ救援の依頼をします。
 これを受けた外務省は即座に日本赤十字社に掛け合い、わずか17日後にその要請を受理。この決定を下した1920年ポーランドが独立してから2年しかたっておらず、更に言えば要請は一民間組織からのものです。
 当時の混沌とした国際情勢の中、日本政府の取った迅速な対応とその英断に驚かされるのは私だけでしょうか?
 救済活動はシベリア出兵中の陸軍の支援を得て2年近く実施され800名近くの孤児が保護され日本に招き入れられました。そして日本に滞在中の孤児達には治療、療育が施され2年間を過ごします。
 やがて日本を離れる時が来ます。孤児達は乗船を拒み、泣きながら見送りに来ていた日本人の医師、看護婦など御世話になった人々にしがみつき離れようとしなかったそうです。そして波止場に並んで、「アリガトウ」「アリガトウ」を繰り返し、滞在中に覚えた「君が代」を精一杯歌ったと言う事です。
 孤児たちは後に「日本は天国のような場所であった」と回想しているそうです。
 いかに当時の日本人が子供達に暖かく親身になって接したのか、この事実を知れば想像に難くありません。日本人として誇りに思います。
 イエジ・ストシャウコフスキ。。。祖国に戻った孤児の1人です。17歳になったこの青年は日本との親睦を目的とし1928年にシベリア孤児達で組織される「極東青年会」を立上げ、その活動の一つとして日本の文化をポーランドに紹介していったそうです。
 その後、世の中の情勢は第二次世界大戦へと突入し、ポーランドの首都ワルシャワナチス・ドイツ軍の占領下に置かれます。そんな中、イエジ氏は極東青年会の幹部達を招集しレジスタンス運動への参加を決定します。イエジ氏の部隊は、イエジキ部隊と呼ばれるようになりました。
 イエジキ部隊には戦禍で親を失った孤児達も参加し、その人数は最大1万5000人、ワルシャワ地区だけで3000人が正規戦闘員として登録される巨大組織へと膨れ上がります。
 ワルシャワでの地下活動は激化、イエジキ部隊はナチス当局から目を付けられる事になります。
 当時、イエジキ部隊は孤児院を隠れみのとしていました。そこへ、ある日突然ナチス・ドイツ兵が強制捜査の為に押しかけます。この急報を受けて駆けつけたのが日本帝国大使館の書記官でした。
 孤児院の院長を勤めていたイエジ氏はこの書記官からドイツ兵の前で孤児達に日本の歌を歌わせる事を依頼されます。
 これが冒頭での日本語の大合唱の話へとつながります。
 イエジキ部隊は何度も日本帝国大使館に庇護されたそうです。つまり、ドイツと同盟関係にあった日本がポーランドレジスタンス活動を守っていた事になります。
 憶測になりますが、例え同盟関係に有ろうとも、ナチス・ドイツ軍のやり方に疑問を持っていた日本人の正義感がレジスタンス活動を庇護するに至ったのではないでしょうか?
 1944年8月に起きた「ワルシャワ蜂起」での死者は20万人にも及びワルシャワの街は壊滅の状態に陥ったまま第二次世界大戦終戦を迎える事となります。
 この時、破壊されたワルシャワの街は現在「ワルシャワ歴史地区(旧市街)」として完全に復元され世界文化遺産に登録されています。
 復元は厳密に行われました。もともとの建物に使用された煉瓦はできるだけ再利用され、破片は再利用できる装飾的な要素に変えられ、それらはもともとあった場所に再度挿入されたそうです。壁のひび割れ一つについても当時の写真などから出来る限り復元したそうです。
 復興を強く願ったワルシャワ市民達の熱意が街を完全復活させたのでしょう。現在はレストランやカフェ、土産物店が軒を連ね、大勢の観光客で賑わいを見せています。
 実際に行ってみると、その完璧なまでに綺麗に復元された町並に驚かされます!
 さて、この話には続きがあります。もう少しだけお付き合い下さい。
 ワルシャワ蜂起から約50年後の1995年(平成7年)。日本は阪神淡路大震災に見舞われます。
 この時にいち早く救援活動をしてくれた国の一つがポーランドでした。そしてこの地震で孤児となった子供達をポーランドへ招待してくれたのです。震災孤児が帰国するお別れパーティーには、4名のシベリア孤児の方が出席され自分たちが日本に親切にしてもらったことを切々と語り、涙を流してこれで恩返しができたと語ったそうです。
 人種や国が変わっても、あるいは年月が経っても真摯な行動には真摯な対応で答えてくれるという好事例ではないでしょうか。
 かつての日本人の取った行動、ポーランド人の恩返し、おそらくこの事実を知っている人は多くはいないと思います。
 今回の話を含め、このような事実はまだまだ多く残されています。しかし残念な事にあまり多くの方に知れ渡ってはいません。現在、グローバル化が激化する中でこれらを知る事の重要性は高まっていると感じます。日本人としての誇りを持って頂くためにも、今後も情報を発信し続けたいと思います。
 近代では苦難の歴史を辿ったポーランドですが、その歴史の結果からなのかポーランド人は真面目で勤勉です。個人的には日本人とも波長が合うように思います。
最後に少し余談です。
 ポーランドの3大偉人をご存じでしょうか?コペルミクス、ショパン、キューリー夫人です。ポーランド人が勤勉な事を証明していますね。ちなみにショパンの心臓が埋められた柱のある教会がワルシャワ市内にあります(下記の写真を参照して下さい)。
 ワルシャワの中心には文化科学宮殿と言う高層ビルがあります(下記の写真を参照して下さい)。このビルは共産時代にスターリンから贈られた建物です。ワルシャワ子たちはこの建物からの眺めが好きだそうです。なぜならばこの建物を見ずにすむからだそうです(^^)
 ポーランドに訪問する機会に恵まれた方は親日ポーランドの人達と接し、ポーランドを楽しんで来て下さい!
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🕯110)─1─中絶と水子供養。〜No.237 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の宗教・信仰には、世界の宗教観念では理解不能に陥る異常・異端ともいうべき「水子供養」がごく自然の存在する。
 日本全国に水子・子供霊を模るキャラクターが溢れている。
 ゆるキャラも妖怪・物の怪も、その大半が大人ではなく子供である。
 何故子供なのか、それは国の宝ではなく、大人とは違って神仏に近い存在で生命力に溢れた存在と考えられていたからである。
 子供を特別な存在と考えていたと同時に、中絶も盛んに行われていた。
 日本人は、不運にも生まれず流れた胎児やどうにもならない分けがあって中絶してしまつた胎児に対する申し訳なさと、一度、一寸でも血と肉体そして魂と情で親子の絆を結んだ縁に対して、命尽きるまで決して忘れはしないという覚悟で「水子供養」を続けている。
 それは、罪の償いではなく生きる者の務めであった。 



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🎃7)8)─1─中国人による神社仏閣に対する宗教事件。~No.15No.16No.17No.18  * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 国際社会及び全ての宗教団体は、日本に対する宗教テロを沈黙を持って承認している。
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 中国共産党は、マルクス主義に従って反宗教無神論を教えている。
   ・   ・   ・   
 2013年 日本共産党系「新日本婦人の会」は、全国大会を開き、慰安婦意見書採択を地方の43議会で勝ち取った事を報告し、各地の市民団体と提携して草の根運動を広げて更なる議決を勝つ取る活動方針を採択した。 
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 2019年3月7日 産経新聞靖国神社建造物侵入、2被告が無罪主張 昨年のぼや騒ぎ
 ぼやがあった靖国神社の神門前付近を調べる東京消防庁の職員ら=2018年12月12日、東京都千代田区
 靖国神社(東京都千代田区)で昨年12月に起きたぼや騒ぎで、敷地に正当な理由なく入ったとして建造物侵入罪に問われた郭紹傑被告(55)=中国籍=と厳敏華被告(26)=同=の初公判が7日、東京地裁(白石篤史裁判官)で開かれた。2人はいずれも無罪を主張した。
 罪状認否で、郭被告は「戦争責任を認めないことへの抗議行動で、表現の自由の範囲内だ」と主張。厳被告は「香港のラジオ局から頼まれて郭被告の抗議を撮影したが、取材の自由に当たる行為だ」と述べた。
 起訴状などによると、2人は昨年12月13日、正当な理由なく靖国神社に立ち入ったとしている。郭被告が段ボールを燃やしたり、南京事件に抗議する内容の横断幕を掲げたりする様子を厳被告が撮影したという。
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 8月19日10:51 産経新聞尖閣周辺に中国船 8日連続
 尖閣諸島を含む東シナ海上空。手前から南小島、北小島、魚釣島海上自衛隊の哨戒機P-3Cから=沖縄・尖閣諸島、2011年10月13日(鈴木健児撮影) 
 沖縄県尖閣諸島周辺の領海外側にある接続水域で19日、中国海警局の船3隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは8日連続。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
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 8月19日16:08 産経新聞靖国神社の幕に墨汁?関与疑いの人物に事情聴く 警視庁
 靖国神社の拝殿に揚げられている幕に黒い墨汁のようなしみがみつかり、警察関係者らによる現場検証が行われた=19日午後、東京都千代田区(三尾郁恵撮影)
 警視庁によると、東京都千代田区靖国神社で19日午後、敷地内の拝殿に掲げられている幕に墨汁のような液体がかけられているのが見つかった。麹町署が、関与したとみられる人物から事情を聴いている。」
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 8月19日19:20 産経新聞靖国神社の幕に墨汁 器物損壊容疑で自称中国籍の男逮捕
 靖国神社の拝殿に揚げられている幕に黒い墨汁のようなしみがみつかった。警察関係者らによる現場検証が行われた後、幕はかけかえられた=19日午後、東京都千代田区(三尾郁恵撮影)
 19日午後2時半ごろ、東京都千代田区靖国神社で、拝殿につるされた幕に墨汁のような黒い液体をかけられているのが見つかり、警視庁麹町署が器物損壊容疑で、近くにいた住居不定、職業不詳、自称中国籍、胡大平容疑者(53)を現行犯逮捕した。調べに対して「墨汁をかけたのは間違いない」と容疑を認めており、同署が詳しい動機などを調べている。
 同署によると、胡容疑者がペットボトルに入った黒い液体を幕などにまき散らし、騒ぎになっているのを神社の警備員が発見。その場で身柄を取り押さえた。当時、中国語とみられる文章が書かれた紙を掲げようとしていたといい、警視庁は解読を進めている。
 胡容疑者は今月17日、家族とともに日本に入国したとみられる。靖国神社によると、20日以降は以前使用していた同種の幕に掛け替えることを検討しているという。」
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 8月20日 産経新聞靖国神社器物損壊 逮捕の男「A級戦犯祀っていることに抗議」
 靖国神社の拝殿に揚げられている幕に黒い墨汁のようなしみがみつかり、警察関係者らによる現場検証が行われた=19日午後、東京都千代田区(三尾郁恵撮影)
 靖国神社(東京都千代田区)で19日、拝殿につるされた幕に墨汁のような液体がかけられた事件で、器物損壊容疑で逮捕された住居不定、職業不詳、自称中国籍の胡大平容疑者(53)が「神社がA級戦犯を祀っていることへの抗議だった」などと供述していることが20日、警視庁麹町署への取材で分かった。
 同署によると、胡容疑者は17日に妻と子供とともに来日。拝殿には1人で訪れていた。神社の警備員に取り押さえられた際、中国語で書かれた文章を掲げようとしていたが、これについては「神社への抗議を表現した詩だ」などと説明しているという。」
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 日本と中国・韓国・北朝鮮の三ヶ国とは、如何に話しあっても分かりあう事はない。
 事実。歴史的に和解あった事は一度もない。
 むしろ、友情を持たず疎遠となっていた時代が長く、近寄らず交流を避けていた方がお互いに幸せであった。
 無理して交流を深めた時の方が、お互いに不幸であった。
 近付くと不幸、遠ざかると幸せ。
 それが、歴史的事実であった。
 隣国ほど交流を深めず近付かないのが、歴史的鉄則であった。
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 人道的貢献しても浮かばれない霊魂。
 靖国神社には、「信教の自由」という普遍的原則から排除されている。
 世界で最も嫌われている宗教施設が、靖国神社である。
 世界の宗教関係者は、靖国神社をなきものとして無視し、その信仰を否定している。
 靖国神社をよく言う人間は、世界に誰もいない。
 靖国神社は、誰からも理解されない孤独な宗教施設である。
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 アメリカのアジアに於けるパートナーは、日本から中国に移りつつある。
 アメリカの国民世論は、日本人には厳しく、中国人には寛大である。
 その構図は、戦前のルーズベルト蒋介石の関係に似ている。
 当時のアメリカ世論は、昭和天皇を憎悪し、戦後は死刑などの厳罰を望んでいた。
 アメリカ人は、儒教に興味を持つが、神道には関心がなかった。
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 国際社会における、靖国神社への憎悪が燃えさかる。
 日本人以外で、靖国神社を守ってくれる人間は一人もいない。
 日本の祖先を神として祀る人神信仰という宗教観は、世界では理解されない、非常識である。
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 信仰・宗教に対する反宗教テロを容認する、宗教界と国際世論。
 それは、1対数万の絶望的孤独な宗教戦争である。
 神道は、世界の非常識の宗教で、理解されない信仰である。
 日本の民族宗教における慰霊方式対普遍宗教における慰霊方式の戦い。
 世界宗教は、死者の霊魂を祖先神・氏神の人神として慰霊する事に猛反対している。
 日本における神とは、血のつながった祖先であって、病気を治し死者を蘇らせる事のできる絶対神ではないし、奇跡を行う事ができる救世主でもない。
 日本の宗教風土には、絶対神も救世主もいない。
 存在するのは、平々凡々と日常生活を生きて、業績らしい業績もなく死んだ、自分の祖先である。
 その象徴の一つが、日本の総氏神である靖国神社である。
 伊勢神宮は、天皇家の祖先神・氏神神社である。
 靖国神社を否定する事は、日本独自の祖先神・氏神の人神信仰を否定する事である。
 日本民族が生み出し守り、祖先から受け継いできた民族宗教が否定されようとしている。
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狂信的反日派中国人や韓国人は、靖国神社を焼き払う為に隙をうかがっていた。
 彼らは、日本の政治家が参拝できないようにする為に靖国神社に放火しようとしているが、其れは詭弁で真の目的は日本人の宗教活動の全廃にある。
 自己主張ができない口べたな日本人に比べて、中国人や韓国人は言葉巧みに議論の話題をかわして言いくるめるのが巧みである。
 話術に於いて、日本人は中国人や朝鮮人には敵わない。 
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 中国や韓国・北朝鮮がなぜ人間軽視になるか、それは正統派儒教が関係している。
 正統派儒教は、歴史的に、表面的に聖人君主の人徳・仁義・孝徳を掲げていたが、実態は血筋や縁戚の排他的縁故を利用し贈収賄と収奪・搾取などの不正腐敗で社会を支配していた。
 日本は、そうした儒教支配を嫌い、儒教を社会から排除していた。
 中国や日本には独自の確固たる文化を持っていたが、朝鮮には独自の自慢できる文化が少なかった。
 その為に、韓国は、他国の文化を盗んで来て自国の独自文化と空しく声を上げるウリジナル運動を始めている。
 日本の文化で、朝鮮由来のモノは殆ど無いほどほんの僅かでしかない。
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