⛩55)56)57)─1─潜伏キリシタンの神社。長崎市・枯松神社。〜No.127No.128No.129No.130No.131No.132 ⑫

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 長崎市
 枯松神社
 更新日:2013年3月1日 ページID:000609
 枯松神社(かれまつじんじゃ)
 市指定史跡
 指定年月日 平成17年1月4日
 所在地 長崎市下黒崎町枯松頭
 慶長19年(1614)の禁教令が出され、以降キリスト教信者への取り締まりはいっそう厳しさを増したが、その中にあって、外海地方の多くの信徒たちは潜伏して信仰を保ち続けた。黒崎地方の潜伏キリシタンたちは、枯松の山頂にひそかに集まってオラショを伝承してきた。明治時代に入ると、この地に神社を建立し、日本人指導者バスチャンの師であるサン・ジワンをここにまつった。
 また、神社周辺には、板石を伏せて置くキリシタン墓が残っている。このようにキリシタンをまつった神社は全国的に珍しく、長崎市内淵神社の桑姫(くわひめ)大明神、東京都伊豆大島のおたあね大明神が知られている。
 備考
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 バス「黒崎教会前」下車徒歩20分
 お問い合わせ先
 文化観光部 文化財課 
 電話番号:095-829-1193
 ファックス番号:095-829-1219
 住所:長崎市魚の町5-1(市民会館2階)
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 2019年11月3日 産経新聞WEST「ローマ法王来日前に合同慰霊祭 「潜伏キリシタン」聖地の長崎・枯松神社
 カトリックかくれキリシタン曹洞宗の3者が参加した枯松神社祭=3日午後、長崎市(恵守乾撮影)
 江戸期の禁教下で信仰を守り続けた「潜伏キリシタン」の聖地として知られる長崎市下黒崎町の「枯松(かれまつ)神社」で3日、布教活動を行った外国人宣教師「サン・ジワン」らを慰霊する神社祭が開かれた。現在はカトリック仏教徒となった潜伏キリシタンの子孫ら約200人が一堂に会し、思い思いに祈りをささげた。
 地元・黒崎地区の潜伏キリシタンの多くは禁教令が出た江戸時代、曹洞宗天福寺(同市)の檀家として身を隠しながら、サン・ジワン神父らの下で信仰を続けた。明治になって禁教が解かれると、人々は当時の信仰を継ぐ「かくれキリシタン」とカトリックに復帰した人、仏教徒の3者に分かれた。
 同祭は平成12年、3者の「融和」を図る目的で始まった。過去2回は別々に開催したが20回目の今年、ローマ法王の38年ぶりの長崎訪問を控えていることもあり、3年ぶりの合同開催となった。
 この日、「カトリック黒崎教会」主任司祭の橋本勲さん(77)がミサを執り行い、かくれキリシタン帳方(ちょうかた、最高責任者)の村上茂則さん(69)が、禁教時代から口伝で受け継がれる「オラショ」(祈り)を奉納。会場は神秘的で厳かな雰囲気に包まれた。
 ローマ法王来日に合わせて作詞作曲した「ビバパパ」も合唱。村上さんは「信者の少ない日本には来ないと思っていた。今日は感謝も込めて臨んだ」。橋本さんは「ローマ法王と同じように、互いの違いを認め合う黒崎地区から平和を発信できれば」と話していた。」
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 日本人で、いい人は2割、悪い人は3割、何方ともいえない人は5割。
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 日本の宗教性や神秘性は、縄文時代から日本国土に根付き、それを儀式化祭祀化形式化したのが日本神道である。
 日本神道を象徴する最高祭祀が、特殊な血統・血筋に受け継がれた一子相伝宮中祭祀・皇室祭祀である。
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 日本神道は、男女の性、伝統・宗教・文化、人種・民族・部族、国民・市民、哲学・思想・主義主張、生物・無生物、自然・環境・自然現象、存在しようと存在しなくても、森羅万象、有りと有らゆる全てを神として受け入れ神社に祀った。
 神社に祀られる人間は、人徳者も犯罪者も、キリスト教徒もマルクス主義者も、日本人も朝鮮人でも台湾人でも、平等に・公平に分け隔てなく関係なく祀った。例・靖国神社。 
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 全てを分け隔てなく差別せず排除せず受け入れる根拠が、天皇の御威光、八紘一宇、皇道、天皇の御稜威・大御心、大家族主義である。
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 日本神道は、マルクス主義的反宗教無神論とは真逆の天孫降臨神話・日本中心神話的無宗教有神論である。
 マルクス主義共産主義は、日本神道・日本天皇を滅ぼそうとしている。
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 日本民族日本人は、反宗教ではなく無宗教であり、多神教というより有神教であった。
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 日本神道には、如何なる差別や迫害も存在しない。
 教祖はいないし信者・教徒もいない。教義・経典・聖書などもはなく、布教はしないし信仰もない。
 排他的、攻撃的、不寛容、強制は、ない。
 神社に集うのは、氏子(血縁・神の子孫)と地域住民(地縁)と崇敬者(繋がり・絆・縁)だけで、それ以外の人間は無視しては寄りつかない。
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 日本民族日本人と漢族系中国人・朝鮮人は、別種のアジア人であり、文明・文化・伝統・宗教も違う。
 日本は天皇・皇室を中心に存在する為、多数派とは天皇・皇室を敬愛する人々で、少数派とは天皇を嫌い天皇制度の打倒を目指し人々である。
 故に、日本民族日本人は無条件に多数派で、少数派には原則的に日本民族日本人はいない。
 見た目が日本人でも、必ずしも日本民族とは限らず、ニセ日本民族、騙り日本民族が少なからず存在する。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売って金儲けをしていた。
 彼らにとって、日本人の命は金で買えたし、死ねば別の命を買って取り換え可能な命であった。
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 2018年10月31日 西日本新聞キリシタン聖地の祭り、存続危機 カトリック・かくれ・仏教徒、3者のゆらぐ一体感
 慰霊のミサやオラショの奉納が行われる枯松神社祭=2015年
 キリシタンの聖地の一つ、枯松神社(長崎市下黒崎町)で11月3日、潜伏期に苦難を強いられた先祖に祈りをささげる「枯松神社祭」が開かれる。禁教令が解かれたことで、皮肉にも分断されたこの地の関係者がそろう取り組み。今年19回目を迎えるが、それぞれの立場や考え方の違いが現れるようになり、一体感が揺らぎ、存続が危ぶまれる事態になっている。
 神社がある長崎市外海地区はキリスト教が禁じられた江戸時代にも、表向きは寺の檀家(だんか)となった潜伏信徒によって信仰が守られた。明治時代に入って禁教令が解かれると、信徒は主に(1)カトリックに復帰(2)禁教期の信仰形態を維持するかくれキリシタン(3)寺に移る仏教徒-に分裂した。
 かつて共同体をつくり長年の弾圧に耐えてきた信徒たちの間にも、考え方の違いからわだかまりが生まれ、戦後もしこりが根強く残った。事態を心配した野下千年神父(81)がカトリック黒崎教会在任中、3者に働きかけて2000年11月、初めて合同慰霊の神社祭を実現。後に3日の開催が定着した。
 積極的に関わってきたカトリック側だったが、高齢化などで事情が変わる。11月1~2日に執り行ってきたミサを、信徒が集まりやすい祝日の3日に変更。神社祭と日程が重なるため信徒の負担が重くなっているとして、ミサを優先するようにした。昨年に続いて今年も神社祭には参加しない。
 そうした背景を踏まえ、今年の神社祭も各宗教の「自主開催」とする。かくれキリシタンの信徒組織で責任者(帳方)を務める村上茂則さん(68)が先祖から受け継いだオラショ(祈り)を午前11時から奉納。野下神父による自由参加の「感謝と慰霊の集い」が午後1時から開かれる。地元の曹洞宗天福寺は住職が不在のため、寺院としての参加は見送る。
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 枯松神社は潜伏キリシタン関連遺産の資産ではないが、信徒がひそかに集まって祈った歴史を物語る重要な場所に建つ。国内3カ所しかないキリシタン神社の一つで、禁教期に外海で活動したと伝わる日本人伝道士バスチャンの師、サン・ジワン神父が祭られている。
 =2018/10/31付 西日本新聞朝刊=」
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 2018年11月4日 長崎新聞「先祖を思い 祈りささげる 枯松神社祭 潜伏キリシタンの「聖地」
 長崎市外海地区の潜伏キリシタンの「聖地」として知られる長崎市下黒崎町の枯松(かれまつ)神社で3日、「サン・ジワン枯松神社祭」があり、潜伏キリシタンを先祖に持つ人たちが、同神社に祭られるジワン神父の遺徳をしのび祈りをささげた。
 明治期に禁教が解かれた後、人々はカトリックのほか潜伏時代の信仰形態を受け継ぐかくれキリシタン仏教徒に分かれた。枯松神社祭はこの3者の融和を図ろうと開かれ、今年で19回目。地元カトリック黒崎教会は行事の重複などを理由に、昨年に次いで今年も不参加だった。
「かくれ信徒」の黒崎旧キリシタンは午前中に集い、帳方(指導者)の村上茂則さん(68)が社殿の前で両手を組み、先祖から受け継いだ「オラショ」(祈り)を約30分唱えて奉納。
 カトリック長崎大司教区の祭儀は午後に行われた。同教区の野下千年神父(81)は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が7月に世界文化遺産に登録されたことを受け「潜伏の時代に苦しんだ先祖たちに、あなた方のおかげと報告したい」などと語った。集いにはそれぞれ約60人が参列した。
 同神社は世界遺産の構成資産には含まれていないが、参道脇の「祈りの岩」では潜伏キリシタンオラショを練習していたと伝わる。」
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