⚔31)─3─朝鮮出兵で、日本に強制連行された朝鮮人の光と影。〜No.134・ 

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 朝鮮は、奪う物がないほど日本より貧しかった。
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 朝鮮の日本侵略。
 大化の新羅の賊、大化元(645)年。
 弘仁新羅の賊、弘仁2(811)年。
弘仁新羅の乱、弘仁11(820)年。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 貞観の入寇、貞観11(869)年。
 寛平の韓寇、寛平5(893)年および6(894)年。
 延喜の新羅の賊、延喜6(906)年。
 長徳の入寇、長徳3(997)年。
 刀伊の入寇、寛仁3(1019)年。
 元寇文永の役、文永11(1274)年。弘安の役、弘安4(1281)年。
 応永の外寇、応永26(1419)年。
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 日本の朝鮮侵略
 豊臣秀吉朝鮮出兵文禄の役、文禄元(1592)年。慶長の役、慶長元(1596)年。
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 西洋の日本侵略。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を人身売買して大金を稼いでいた。
 日本のキリスト教国家化、日本人のキリシタン化。
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 産経新聞IiRONNA
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 秀吉「朝鮮出兵」がもたらした光と影
 秀吉による「朝鮮出兵」では、多数の朝鮮人が生け捕りにされ、日本に連行された。女は性奴隷、男は過酷な労役など、多くは悲惨な人生を余儀なくされた。一方で、日本の伝統文化である伊万里焼の生みの親として名を残したほか、日本人との結婚で幸福な余生を送った者もいた。天と地ほど違った朝鮮人捕虜たちの記録を追う。
 陶工、文官、性奴隷…生け捕り朝鮮人たちの天国と地獄
 『渡邊大門』 2019/11/02
 渡邊大門(歴史学者
 前回に引き続き、日本に連行された朝鮮人の話である。おたあ・ジュリア以外にも、朝鮮人キリシタンは日本に存在した。朝鮮人キリシタンというよりも、日本に連行されてから入信したというのが正確である。
 その一人にコスモ竹屋という朝鮮人がいる。その生涯はほとんど分からないが、尾張国の武具師で宣教師の通訳を務めていたという(『日本基督教史』)。慶長19(1614)年に修道士やキリシタンが国外に追放されて以降、突如としてコスモ竹屋は史上に登場する。
 江戸時代になるとキリスト教信者は国外に追放されたが、元和4(1618)年の夏、彼らの中に密かに日本へ潜入する者があり、それは組織的なものであったという。同年10月、イエズス会のイタリア人宣教師、カルロ・スピノラが、ポルトガル人のドミンゴ・ジョルジの家で捕らえられた。同じ頃、朝鮮人のコスモ竹屋の家においても、日本に潜入していたオルスチとほか1人が捕縛された(『切支丹伝道の興廃』)。
 その後、スピノラは大村(長崎県大村市)に移送され、元和8(1622)年に西坂(長崎市)で殉教した。これが「元和の大殉教」といわれるものである。
 もう一人は、嘉兵衛つまりビセンテ嘉運である。嘉運は文禄・慶長の役の際、わずか13歳で朝鮮から日本に連行された、連行したのは、小西行長である。嘉運は行長のもとでキリスト教の教えを受け、慶長年間には北京や朝鮮にも滞在した。特に、北京での滞在期間は、4年にも及んでいる。その後、嘉運は日本に帰国し、イルマン(司祭職にあるパードレを補佐する役)として活動した。
 元和5年に禁教令が発布されると、状況は大きく変化した。日本に帰国した嘉運は、寛永2(1625)年に宣教師のゾラとともに捕らえられた。そして、火炙りの刑に処せられたという(『切支丹伝道の興廃』)。元和年間以降、キリシタンの処刑がたびたび行われていたが、その流れを受けるものであろう。
 最後に、カイなる人物を取り上げておこう。その来歴は、『日本西教史』に記載されているので、次に掲出しておく。
 「カイは文禄・慶長の役で捕虜となって、日本にやって来た。仏門に入ったが、精神の安定を得られなかった。のちに教会の師父に奉仕し、第一の祈念としてライ病を患っている者の完治とした。宣教師が日本を追われると、ジュード右近(高山右近)にしたがってフィリピンに行ったものの、右近の死後は日本に潜入し、長崎に居住した。子供をキリスト教に導き、異教徒をキリスト教の信者となし、貧しい人を救ったが捕らえられ、1625年に処刑された。」
 もちろん日本に連行された朝鮮人の中には、ほかにもキリスト教に入信した者が存在したであろう。したがって、ここに挙げた3人は、記録に残った幸運な部類に属するといえるのかもしれない。
 日本に連行された朝鮮人のうち、技術者として尊重されたのが陶工たちである。とりわけ九州各地には、朝鮮人陶工が足跡を残している。以下、そうした陶工たちのルーツをたどることにしよう。
 日本を代表する陶磁器の一つとして、伊万里焼がある。有田焼とも称されている通り、佐賀県有田市の特産品である。伊万里港から輸出されたので、伊万里焼と呼ばれることもある。寛永15(1638)年に松江重頼が著した『毛吹草』という俳諧論書の中で、「今利(伊万里)ノ焼物」と記されている。初期の伊万里染付や古伊万里錦手などの色絵の中には、優れた作品が多く、現在も高値で取引がなされている。この伊万里焼に一役買ったのが、日本に連行された朝鮮人であった。
 その朝鮮人の名は李参平といい、朝鮮の忠清道金江の出身だった。文禄の役の際、参平は出陣していた鍋島直茂の家臣・多久長門守安順に生け捕りにされた。多久氏は小城郡多久(佐賀県多久市)を本拠としているので、参平は同地に居住させられた。やがて、参平は磁器を製作できる場所を探し、鍋島領内を探し求めたという。そして、白磁鉱を発見した地が、有田町の東北部に位置する松浦郡泉山であった。
 時期的には1610年代のことといわれており、それは考古学的な発掘調査によっても裏付けられる。参平は上白川山に移り、天狗谷窯を開いた。そして、日本で初めて白磁を焼いたのである。この功績は鍋島氏によって評価され、参平の子孫には陶器を製造する際の税が免除されたという。こうして参平のもとには、伊万里焼の製造を希望する者が集まり、やがて一大集落になったというのである。
 参平は出身が忠清道金江であったので、地名にちなんで姓を「金江」と称した。亡くなったのは、明暦元(1655)年であるが、その墓は長らく行方知れずになっていた。しかし、現在では発見され、有田町の指定史跡となっている。また、現地で参平は「陶祖」として崇められ、陶山神社では鍋島直茂とともに祭神として祀られている。日本に連行されたのは不本意であったかもしれないが、伊万里焼の発展に貢献した人物として知られている。
 隣の長崎県では平戸焼(三川内焼)が有名であるが、こちらも日本に連行された朝鮮人の貢献があったという。平戸焼は佐世保市三川内で生産されたので、三川内焼というが、もとは平戸島中野村(平戸市)の窯で製作されていた。白磁の染付けや色焼が美しく、今も人気の高い陶磁器の一つである。
 平戸に本拠を置く松浦鎮信慶長の役に出陣した際、やはり多くの朝鮮人を日本に連行した。その中の一人に巨関なる人物がいた。巨関は1556年の生まれで、慶尚道熊川の出身であるという。巨関は松浦氏の命により、平戸島中野村に窯を開き、陶器を焼いていたという。やがて、巨関は日本人女性と結ばれ、今村氏を姓として、今村弥次兵衛と名乗ったのである(以下、巨関で統一)。
 その後、巨関は子に恵まれ、その子は今村三ノ丞と名乗った。父子は良質の土を求めて、平戸の領内を探し求めた。そこで出会ったのが、三川内の白磁鉱(網代陶石)であった。寛永10(1633)年のことである。三ノ丞は窯場の棟梁に任じられ、慶安3(1650)年には中野村から三川内に陶工たちは移住させられた。こうして平戸焼は御用窯として庇護され、朝廷や諸大名への献上品など高級な器を焼いた。しかし、その間は苦労が絶えず、何度も失敗することがあったと伝える。
 以後、今村家は平戸焼の生産で多大な貢献をした。巨関は寛永20(1643)年に亡くなった。巨関もまた、日本の陶磁器産業の発展に尽くしたのである。
 朝鮮から連行した陶工によって発展した窯は、以上のものだけではない。たとえば、筑前高取焼は黒田氏が朝鮮から連行した陶工により始まったが、製作者の具体的な人名は分かっていない。また、長門萩焼は、毛利氏が朝鮮から連行した陶工・李敬が創始者であった。このように、今も脈々と受け継がれる伝統的な日本の窯業は、朝鮮から連れて来られた陶工たちによって、その礎が築かれたといえよう。
 日本に連行された朝鮮人の中には、近世以降、藩体制の中で重要な役職に登用される者もあった。金如鉄(のちの脇田直賢)がその人である。如鉄については、鶴園裕氏らの研究グループによりすでに多くの事実が掘り起こされているので、以下、それらの成果から紹介することにしよう(『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究―加賀藩を中心に―』)。
 万暦14(1686)年、如鉄は翰林(かんりん)学士・金時省の子として、朝鮮帝都(漢城)で誕生した。翰林学士とは天子の秘書的な役割を果たし、また政治顧問の性格を有していた。如鉄がいかに恵まれた環境に誕生したかが分かるであろう。しかし、そんな如鉄を悲劇が襲う。文禄元(1592)年から始まった文禄の役によって、父・時省が戦死してしまうのである。悲劇はそれだけに止まらなかった。
 同年5月、如鉄自身は戦いの最中に宇喜多秀家の兵に捕らえられ、捕虜となったのである。秀家は朝鮮で多くの子供を生け捕りにしたといわれ、如鉄もその一人であり、まだわずか7歳の少年だった。同年12月、如鉄は日本の岡山へと連れて来られた。父を失い孤児になった如鉄は、いかなる心境だったのであろうか。
 翌年、如鉄は金沢の前田利家の妻・芳春院のもとに送られた。秀家の妻・豪姫は利家の娘だったが、いったん豊臣秀吉の養女となり、そして秀家の妻になった。やがて如鉄は、利家の長男・利長のもとに預けられ、名も日本風に九兵衛と改められると、慶長10(1605)年頃には230石の俸禄で近習奉公するようになった。
 前田家に仕えた如鉄にも、やがて転機が訪れる。同年、脇田重之(重俊)の姪と結婚し、脇田姓を名乗るようになった。そして、脇田直賢として一家を構えたのである(以下、如鉄で統一)。ところが、この頃讒言(ざんげん)によって、1年もの間、閉居を命じられた。ようやく許されたのは翌年のことである。芳春院の口添えによるものであった。
 以降、如鉄は子供にも恵まれ、一見して幸せそうに見えたが、正当な評価がなされなかった感もあり、悶々とした日々を送っていた。慶長19年に長年仕えた利長が亡くなると、引き続き養子の利常に仕えた。その直後、大坂の陣に参陣し大いに武功を挙げるが、その評価は必ずしも正しいものではなかった。
 その後、何度も藩に対して、武功を書き連ねた書上げを提出するが、わずかな恩賞が下付されるに過ぎなかった。ところが、寛永8(1631)年に大坂の陣における戦功について再検討が開始されると、如鉄の評価は大きく修正された。結果、如鉄は1000石を与えられ(570石の加増)、御鉄砲頭、御使番に命じられた。さらに、その後は算用場奉行などを経て、ついに金沢町奉行に任じられたのである。正保2(1645)年のことで、如鉄はすでに60歳という高齢に達していた。
 万治2(1659)年、如鉄は74歳で家督を嫡男・平丞に譲ると、直後に出家し、翌年に75歳で亡くなった。
 如鉄は朝鮮の上流階級の家柄に誕生したことから、官僚としての能力も高く、また文芸に秀でていたという。慶長19年、江戸にあった芳春院は、山田如見を伴って金沢に帰ってきた。その際、如鉄は如見から、「源氏物語切紙伝授」と「古今伝授」を授けられたという。これは日本人でもなかなか叶わないことであった。また、発句をたびたび詠んだことが知られている。いかに如鉄が聡明に人物であったかを示していよう。
 如鉄のように技術者としてではなく、文官として如何なく能力を発揮した人物も記憶に留めておく必要がある。
 ここまでは、朝鮮人の男性を取り上げてきた。男性の方が、その履歴などが判明しているからである。以下、目を転じて女性に注目することとしたい。この分野では、金文子氏の研究を参照しながら、その実態を取り上げることにしよう(「文禄・慶長の役における朝鮮被虜人の帰還」「秀吉の朝鮮侵略と女性被虜」)。
 ここまで述べてきたように、捕らわれの身になった朝鮮人の身分は、実にさまざまである。官僚や学者もいれば、陶工などの技術者なども存在した。しかし、圧倒的に多かったのは、老若男女・子供を含めた農民ということになろう。彼らは戦闘員でないにもかかわらず、見境なく捕らえられ、日本に連行された。彼らのその後の生涯については、次のように分類されている。
 A奴隷に売られ、もっとも悲惨な生涯を送った人
 B幸いに生き長らえて、朝鮮に帰還を果たした人
 C帰還のチャンスを逃し、日本社会に適応しながら、生活をせざるを得なかった人
 Cが最も多かったのではないかと考えられるが、Aも多かったと推測され、Bは最後に触れるが、必ずしも幸いとはいえなかったようである。
 強制連行された朝鮮人女性は、いかなる運命をたどったのか。その特徴については、次の5つのケースに分類されている。
 ①容貌や才能が優れていたため連行された女性
 ②戦争中に日本人と結婚したため来日した女性
 ③日本兵の性的欲求を満たすために連行された女性
 ④日本国内で労働に従事させるために連行された女性
 ⑤奴隷売買のため連行された女性」
 ①については、豊臣秀吉が縫工などを要求していたという事実がある。才能に加えて美しい容貌であれば、高値で取引されたという。いずれにしても、売買の対象であったのには変わりがない。④は、男性ともども農作業などに従事させられた。①と④は、⑤との関連性が強いであろう。③については、可能性は否定できないが、史料的な裏付けが困難である。あるいは②との関係性があるかもしれない。
 Bについては、いくつかの例が知られているので挙げることにしよう。平戸の松浦鎮信は、朝鮮出兵時に釜山の京城を攻撃した。その際、小麦畑に美しい姫が潜んでおり、彼女らを捕らえて平戸に連れ帰ったという。彼女の本名は廟清姫といったが、のちに小麦姫と称された。そして、帰国後に鎮信と小麦姫との間に誕生したのが、のちに壱岐島主になった松浦信政である。
 同じような例は、ほかにもある。対馬・宗氏の家臣の一人に橘智正なる者があった。智正は、のちに文禄・慶長の役で朝鮮から連行した人々を送還する役割を担ったことで知られる。そもそも宗氏は朝鮮との関係が深く、橘氏もその配下にあって、朝鮮との親和性が強かったのかもしれない。彼の妻もまた、朝鮮の女性だった。
 朝鮮に出兵した吉川広家は、朴佑の娘を連れ帰り、侍女にしたという。こうした例は、ほかにもたくさんあるであろう。
 では、どのくらいの女性が日本へ連行されたのであろうか。朝鮮から連行された人々の数は実にさまざまであり、2、3万人から10万人以上まで開きが大きい。概して、日本側の見積もりは低く、朝鮮側は高い。『月峯海上録』という史料によると、日本に連行された男性は3、4万人とされ、女性はその倍になるという。フロイスの『日本史』を参考にすると、5万人程度になると推測されている。
※主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房
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