💖6)─2─日本外務省・日本大使館は、帰国したポーランド孤児をナチスから助けた。~No.26 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 栄光の君が代旭日旗
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 昔の軍国日本・日本陸軍・日本人兵士は、悪い事・戦争犯罪をしたが同時に良い事・人道貢献もおこなった。
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 ポーランドユダヤ人難民が、ナチス・ドイツの友好国である日本を頼り、着の身着のままでシベリア鉄道で日本に向かったのには理由があった。
 東条英機松岡洋右A級戦犯達、日本陸軍は、親ユダヤ派の昭和天皇の希望を叶える為に、ヒトラーから逃げて来た数万人のポーランドユダヤ人難民を助けた。
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 日本陸軍の主流派は、対ロシア・対ソ連・対共産主義戦略から親ポーランド派であって親ドイツ派ではなかった。
 日本陸軍の大半は、日本の恩人であるユダヤ人を迫害するヒトラーナチス・ドイツが嫌いであった。
 日本陸軍の大勢は、アメリカやイギリスとの戦争に関心はなかった。
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 親ドイツ派(隠れマルクス主義派)の革新官僚・軍人官僚エリート・右翼・国粋主義者軍国主義者らは、反ユダヤ主義者・人種差別主義者としてドイツとの同盟を推進し、日本を戦争へと暴走させた。
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 2019年11月号 正論「ポーランドの『シベリア孤児記念小学校』
 語り継がれる日本への愛  坂本龍太朗
 アウシュビッツワルシャワ蜂起、共産主義・・・。ポーランドと聞いて多くの日本人はそんな悲劇的なイメージを連想するかもしれない。もちろん、そういy歴史も忘れてはならないが、『悲劇の国ポーランド』というイメージを超えて『親日ポーランド』に塗り替えてくれるのがポーランドに昨年11月開校した『シベリア孤児記念小学校』だ。ポーランドとの国交が生まれて100年の節目に開校し、ポーランドと日本との心温める交流を未来へ語り継いでいこうという同校の取り組みを日本の多くの人に知ってほしいと願っている。
 シベリヤ出兵と孤児救出
 ……
 孤児たちのニュースは国内でも大きく取り上げられ、慣例を破って貞明皇后が慰問なさったこともある。その際、一人の少女の頭をなでながら『元気になるように』と励ましたそうだ。
 子供たちは大阪で手厚い医療支援を受けた。全国から服や靴、お菓子などの支援物資が届き、子供たちは少しずつ元気と笑顔を取り戻した。海路での帰国のために、神戸港から日本を出国する際、子供たちは涙を流しながら君が代を斉唱した。
 孤児たちのその後
 天国のような日本からポーランドに帰国を果たした孤児たち。しかし彼らを待っていたのは必ずしも思い描いていた祖国の姿ではなかった。独立後の混乱でポーランドは孤児たちを受け入れるだけの余裕を持ち合わせず、結局多くの孤児たちはポーランド北部のヴェイヘローヴォで集団生活を余儀なくされる。1923年から28年までの5年間、多い時、施設には300人を超える子供たちが暮らしていた。
 子供たちの教育に当たったのは救済委員副会長のユゼフ・ヤクブキェーヴィチ氏。社会復帰のための教育はもちろんのこと、日本の知識を伝えるための教育に特に力を入れた。子供たちに心の支えとして常に日本を感じてほしいという想いもあっただろう。
 しかしそれ以上に、ヤクブキェーヴィチにとっては日本を伝えることこそが日本への感謝を表す方法だった。そのため孤児たちはポーランド帰国後も、日本を常に身近に感じ続けることができた。ヴェイヘローヴォでの教育があったからこそ、孤児たちは自分たちの子供たちへ、そして孫たちへと日本を伝え続けたのだ。
 そしてここで教育を受けた孤児の一人、イェジ・ストゥシャウコフスキ氏(1911~91年)は18歳の頃、孤児たちを集め『極東青年会』を設立、ポーランド国内で日本を伝える活動をはじめた。雑誌『極東の叫び』の出版や、『日本の夕べ』という文化イベント、日本映画祭などを主催。孤児以外のポーランド人たちが日本を深く知る機会を提供し、第二次世界大戦勃発前の1938年には434人もの会員を抱えるまでに成長した。1933年、日本が国際連盟を脱退するにあたり松岡洋右ジュネーブに赴く途中、ポーランドに立ち寄った際にはワルシャワ駅に多くの極東青年会の会員が『日本万歳!』と叫んだ。
 その後も孤児を助けた日本
 1939年9月1日、ナチスドイツがポーランドを侵攻すると状況は一変する。当時、ポーランドはイギリスやフランスと同盟関係で、両国はポーランドに侵攻したドイツに宣戦布告するが、それは2日後だった。すでにポーランド軍はこのとき、壊滅状態で、ドイツ軍は14日にはワルシャワ包囲作戦を完了した。
 ポーランドの悲劇はさらに続く。17日未明に今度は相互不可侵条約を結んでいたソ連が一方的に侵攻してきたのだ。ドイツ軍と同様、宣戦布告などなかった。
 極東青年会を率いるストゥシャウコフスキ氏は首都防衛戦に参加。同時に自分たちと同じような運命を歩む子供たちを少しでも減らそうと、ワルシャワで戦争孤児となって浮浪していた子供たちを集めて孤児院を運営した。
 孤児院には武器を隠され、ナチスに抵抗する活動拠点という裏の顔があった。ナチス憲兵は何度か孤児院に押し入ったが、そのたびに極東青年会と協力関係があった日本大使館のスタッフが駆け付け、『孤児院は日本国政府の庇護のもよにある』と伝え、子供たちに君が代などを歌わせ、引き取るよう説得したこともあった。ドイツ軍に抵抗する落書きをして捕まった子供たちを、日本大使館が働きかけて釈放させたり、大使館撤収時に食料などがある倉庫の鍵を預けたりして、そのお蔭で生きながらえた子供たちも多かったなど数々の秘話もある。孤児たちは日本によって、帰国後も救われ続けたのである。その後、極東青年会、そしてストゥシャウコフスキが世話をしていた孤児たちをを中心にポーランド国軍の傘下として特別蜂起部隊『イェジキ』が誕生。『イェジキ』とは『イェジキの子供たち』という意味だ。イェジ・ストゥシャウコフスキは現在ポーランドで『1,000人の子供たちのお父さん』と言われる存在だ。
 終戦までにイェジキ部隊は660名もの戦死者を出す。祖国を奪われればまた多くの孤児が生まれる。決してそんな歴史を繰り返さない。そんな強い意志で孤児たちは武器を取って戦った。ストゥシャウコフスキは逮捕や死刑宣告などを受けながらも奇跡的に生き延び、1981年、来日を果たし、日本赤十字などを訪問し謝辞を述べている。これは『ポーランドを第2の日本にしよう』と演説したワレサ議長の来日と同年の出来事であった。
 続く心ある交流
 シベリア孤児の歴史はこれで終わらない。1995年、阪神淡路大震災が発生。当時在京ポーランド大使館に商務参事官としてスタスワフ・フィリペック氏がいた。フィリペック氏はポーランドを代表する物理学者で外交官として日本赴任を決断した背景には祖母から聞いていたシベリア孤児の話があったと聞く。
 ……」
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 善い事しかししようとしない「お利口さん」の現代日本人は、悪い事をしないが人道貢献も行わない。
 軍備・軍隊を否定する護憲派反戦平和市民団体は、日本軍部が行った栄光ある人道貢献を認めず否定する。
 彼らは、悪人ではないが善人でもない。
 無味無臭。無色透明。
 実体があるようで実体がない。毒がなければ栄養もない。
 それが、平和憲法下の現代日本である。
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 他国・他人に助けられても他国・他人を助けない、それが現代日本人である。
 中身のない空っぽな現代教育、特に醜悪な歴史教育が、子供たちを人の心を持たない無価値で無意味な日本人へと育てている。
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 現代日本人は、人間の健康と命は金で買えると信じ始めている。
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 ウィキペディア 
 イェジ・アンジェイェフスキ(ポーランド語: Jerzy Andrzejewski, 1909年8月19日 - 1983年4月19日)は、ポーランドの小説家。
 生涯
 帝政ロシア支配下ワルシャワに生まれる。ワルシャワ大学で文献学を学ぶ。1936年に最初の短編集『避けられない道』を出版。1937年に『心の秩序』で文学院の新人作家賞を受賞した。ポーランド人民共和国成立後、下院議員となる。1950年に共産党に入党するが、56年に離党した。この年に労働者防衛委員会に参加し、反政府活動に身を投じた。ワルシャワ蜂起を描いた『灰とダイヤモンド』は、アンジェイ・ワイダ監督によって映画化(1958年に)されたことで広く知られる。
 創作活動以外にも、両戦間期は文芸週刊誌「プロスト・ズ・モウトゥ」の、戦後は「プシェグロントゥ・クルトゥラルヌイ(文化評論)」の編集長も務めた。
 没後にポーランド政府によってポローニア・レスティトゥータが授与されている(2006年)。
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 日本歴史旅行協会
 The Association for Japanese History and Travel
 日本とポーランドの意外な接点
 By admin on 2014年3月7日
 第二次世界大戦当時、ナチス・ドイツ兵の前でポーランドの首都ワルシャワの子供達が「君が代」「愛国行進曲」を日本語で大合唱!ドイツ軍は驚き、呆気にとられ、その場を退く事に。。。。。
 ドイツ兵?ワルシャワ君が代? ???
 いったい何が起きたのか?これだけではさっぱり分かりませんよね。そこに至る迄の背景を辿ってみましょう。
 18世紀末(1700年後半)、ポーランドは消滅。地図上から姿を消しロシア帝国に組み込まれます。独立を求めたポーランド人は何度も蜂起しますが失敗、流刑の地であるシベリアに送られました。
 特に1863年から翌年にかけて行われた「一月蜂起」では、約8万人ものポーランド人が流刑囚としてシベリアに送り込まれたそうです。
 日本が地図から消されてしまったらどう思いますか?当時のポーランド人にとっては筆舌し難い事だったのではないでしょうか。
 その後100年以上の時を経て第一次世界大戦後の1918年、ポーランドは独立を果たします。ところが1917年に起きたロシア革命による内乱はシベリア全土に拡がり当時10万人以上いたポーランド人達を巻き込んで行く事になります。その戦火を逃れる為に東へ東へと向かったそうです。
 混乱のさなか親とはぐれたり失ったりした子供達が続出しました。
 このような惨状の中にいたウラジオストック在住のポーランド人達は「ポーランド孤児救済委員会」を組織し祖国ポーランドへ帰そうとしますがロシア革命後に樹立したソビエト連邦ポーランドの間でポーランドソビエト戦争が勃発し、孤児たちの帰還は困難な状態となります。
 救済委員会はヨーロッパ諸国やアメリカに輸送援助を求めましたが要請が受け入れられる事は有りませんでした。そこで当時はまだ小国だった日本へ救援の依頼をします。
 これを受けた外務省は即座に日本赤十字社に掛け合い、わずか17日後にその要請を受理。この決定を下した1920年ポーランドが独立してから2年しかたっておらず、更に言えば要請は一民間組織からのものです。
 当時の混沌とした国際情勢の中、日本政府の取った迅速な対応とその英断に驚かされるのは私だけでしょうか?
 救済活動はシベリア出兵中の陸軍の支援を得て2年近く実施され800名近くの孤児が保護され日本に招き入れられました。そして日本に滞在中の孤児達には治療、療育が施され2年間を過ごします。
 やがて日本を離れる時が来ます。孤児達は乗船を拒み、泣きながら見送りに来ていた日本人の医師、看護婦など御世話になった人々にしがみつき離れようとしなかったそうです。そして波止場に並んで、「アリガトウ」「アリガトウ」を繰り返し、滞在中に覚えた「君が代」を精一杯歌ったと言う事です。
 孤児たちは後に「日本は天国のような場所であった」と回想しているそうです。
 いかに当時の日本人が子供達に暖かく親身になって接したのか、この事実を知れば想像に難くありません。日本人として誇りに思います。
 イエジ・ストシャウコフスキ。。。祖国に戻った孤児の1人です。17歳になったこの青年は日本との親睦を目的とし1928年にシベリア孤児達で組織される「極東青年会」を立上げ、その活動の一つとして日本の文化をポーランドに紹介していったそうです。
 その後、世の中の情勢は第二次世界大戦へと突入し、ポーランドの首都ワルシャワナチス・ドイツ軍の占領下に置かれます。そんな中、イエジ氏は極東青年会の幹部達を招集しレジスタンス運動への参加を決定します。イエジ氏の部隊は、イエジキ部隊と呼ばれるようになりました。
 イエジキ部隊には戦禍で親を失った孤児達も参加し、その人数は最大1万5000人、ワルシャワ地区だけで3000人が正規戦闘員として登録される巨大組織へと膨れ上がります。
 ワルシャワでの地下活動は激化、イエジキ部隊はナチス当局から目を付けられる事になります。
 当時、イエジキ部隊は孤児院を隠れみのとしていました。そこへ、ある日突然ナチス・ドイツ兵が強制捜査の為に押しかけます。この急報を受けて駆けつけたのが日本帝国大使館の書記官でした。
 孤児院の院長を勤めていたイエジ氏はこの書記官からドイツ兵の前で孤児達に日本の歌を歌わせる事を依頼されます。
 これが冒頭での日本語の大合唱の話へとつながります。
 イエジキ部隊は何度も日本帝国大使館に庇護されたそうです。つまり、ドイツと同盟関係にあった日本がポーランドレジスタンス活動を守っていた事になります。
 憶測になりますが、例え同盟関係に有ろうとも、ナチス・ドイツ軍のやり方に疑問を持っていた日本人の正義感がレジスタンス活動を庇護するに至ったのではないでしょうか?
 1944年8月に起きた「ワルシャワ蜂起」での死者は20万人にも及びワルシャワの街は壊滅の状態に陥ったまま第二次世界大戦終戦を迎える事となります。
 この時、破壊されたワルシャワの街は現在「ワルシャワ歴史地区(旧市街)」として完全に復元され世界文化遺産に登録されています。
 復元は厳密に行われました。もともとの建物に使用された煉瓦はできるだけ再利用され、破片は再利用できる装飾的な要素に変えられ、それらはもともとあった場所に再度挿入されたそうです。壁のひび割れ一つについても当時の写真などから出来る限り復元したそうです。
 復興を強く願ったワルシャワ市民達の熱意が街を完全復活させたのでしょう。現在はレストランやカフェ、土産物店が軒を連ね、大勢の観光客で賑わいを見せています。
 実際に行ってみると、その完璧なまでに綺麗に復元された町並に驚かされます!
 さて、この話には続きがあります。もう少しだけお付き合い下さい。
 ワルシャワ蜂起から約50年後の1995年(平成7年)。日本は阪神淡路大震災に見舞われます。
 この時にいち早く救援活動をしてくれた国の一つがポーランドでした。そしてこの地震で孤児となった子供達をポーランドへ招待してくれたのです。震災孤児が帰国するお別れパーティーには、4名のシベリア孤児の方が出席され自分たちが日本に親切にしてもらったことを切々と語り、涙を流してこれで恩返しができたと語ったそうです。
 人種や国が変わっても、あるいは年月が経っても真摯な行動には真摯な対応で答えてくれるという好事例ではないでしょうか。
 かつての日本人の取った行動、ポーランド人の恩返し、おそらくこの事実を知っている人は多くはいないと思います。
 今回の話を含め、このような事実はまだまだ多く残されています。しかし残念な事にあまり多くの方に知れ渡ってはいません。現在、グローバル化が激化する中でこれらを知る事の重要性は高まっていると感じます。日本人としての誇りを持って頂くためにも、今後も情報を発信し続けたいと思います。
 近代では苦難の歴史を辿ったポーランドですが、その歴史の結果からなのかポーランド人は真面目で勤勉です。個人的には日本人とも波長が合うように思います。
最後に少し余談です。
 ポーランドの3大偉人をご存じでしょうか?コペルミクス、ショパン、キューリー夫人です。ポーランド人が勤勉な事を証明していますね。ちなみにショパンの心臓が埋められた柱のある教会がワルシャワ市内にあります(下記の写真を参照して下さい)。
 ワルシャワの中心には文化科学宮殿と言う高層ビルがあります(下記の写真を参照して下さい)。このビルは共産時代にスターリンから贈られた建物です。ワルシャワ子たちはこの建物からの眺めが好きだそうです。なぜならばこの建物を見ずにすむからだそうです(^^)
 ポーランドに訪問する機会に恵まれた方は親日ポーランドの人達と接し、ポーランドを楽しんで来て下さい!
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