⛩39)─1─マレビトは、南方海洋や揚子江流域から海流に乗り琉球を経て日本列島に漂着した来訪神である。〜No.81No.82No.83 *

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族日本人には、海外から来た外国人に対する偏見や差別はなく、嫌悪も憎悪もなく、迫害や弾圧もなかった。
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 まれびとや来訪神は、日本沿岸に流れ着く椰子の実に似ている。
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 南の海底(常世)から渡ってきた来訪神・まれびとは、揚子江文明の穏やかな神々として、平和と幸せ、相互補完共生による発展をもたらした。
 西な大陸から渡ってきた渡来神は、黄河文明の荒々しい神として、争いと不幸、独善略奪共生による発展をもたらした。
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 共生にも、いろんな共生が存在する。
 平等と公平に共生するのもあれば、上下関係で従属する共生もある。
 中華世界の共生とは、中華儒教による厳格で超えられない上下関係の共生である。
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 日本で信仰されている八百万の神々のルーツは、西方ではなく南方である。
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 日本にとっての死後の世界は、日本列島の地下にある黄泉の国、南や東の海底にある常世の国、西の彼方の西方浄土・極楽浄土である。
 朝鮮半島や中国大陸には、日本民族日本人の「やすらぎ」の地は存在しない。
   ・   ・   ・   
 2018年11月1日 読売新聞「文化
 来訪神 稲作の信仰共通
 男鹿 ナマハゲ  宮古島 パーントゥ
 国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の無形遺産に年中行事『来訪神(らいほうしん) 仮面・仮装の神々』(10件)の登録が勧告された。日本の神観念や民間信仰の祖型を今に伝えるこれらの行事の中から、『宮古島パーントゥ』(沖縄県)、『男鹿のナマハゲ』(秋田県)のふるさとを訪ねた。
 (文化部 池田和正、西部文化部 帆足英夫)
 10月8日の夕刻、宮古島北部の島尻集落に、3体の『パーントゥ』と称する神が現れた。顔を仮面で覆い、全身を泥で塗り、蔓草(つるくさ)をまとった異様な姿だ。
 いきなり子供の顔に体の泥をなすりつけた。女の子は恐怖で絶叫した。庭で宴会中の古老にも、交通整理に来たパトカーにも容赦なく塗る。記者も顔をつかまれ、異臭を放つ泥をべっとりつけられた。
 島尻自治会の宮良保会長(59)は、『パーントゥは、1年間の厄をはらい、幸せを呼び込む大切な行事』と語る。特に赤ちゃんや新築の家は、念入りに泥を塗るべきものと信じられている。
 行事は旧暦9月上旬の2日間行われる。伝承では、はるか昔、島に仮面が漂着し、厄払いに用いると効果があった。以来、行事は続けられているという。来訪神の故郷が、海のなかの異界『ニライカナイ』であり、記紀神話にいう常世(とこよ)であったことがうかがえる。
 宮古島から2,000キロ以上離れた秋田県男鹿半島。古民家を移築した男鹿真山伝承館では観光客向けに、本来大みそかしか見られないナマハゲを実演している。
 『ウォー』という野太い雄叫(おたけ)びで引き戸を勢いよく開き、藁簔(わらみの)に身を包んだ2体のナマハゲが入ってきた。牙をむいた赤黒い面が『泣く子はいねがー』と迫ると、見物客から悲鳴があがる。主人役がお膳を勧めると、ナマハゲも『怠け者が増えたり、悪い病気がはやったりすれば困るから、しっかり払っていくど』と落ち着いて話した。この神は決して鬼の類いではないのだ。
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 先島諸島から東北まで点在する来訪神行事はいずれも、年の節目に異形の神が、厄を払い福をもたらすものだ。奇祭のイメージで捉えられがちだが、お盆に迎える祖霊や、正月に鏡餅を飾って迎える年神など、日本列島に広く分布する民間信仰とも通底している。
 日本民俗学の祖・柳田国男は、祖霊─年神とみて、来訪神を〈これが本来我々の年の神の姿であったのだ〉とした。折口信夫は〈海のあなたから時あって来り臨んで、その村人どもの生活を幸福にして還る霊物て〉として〈まれびと〉と名付けた。
 新谷尚紀・国学院大教授(民俗伝承学)は、本土の来訪神が藁簔をまとい、また正月に行われることについて稲作との関連を指摘する。『生命の根源力である神が、種もみ再生の霊力を与えるタイミングとしては、秋の収穫祭の冬籠もりの間がいいわけです』
 正月以外に行われる南島の行事はどうだろうか。大城学・元琉球大教授(民俗芸能学)は、島尻でもかつて稲作が行われていたことに注目する。『沖縄では旧暦6月に収穫を終え、旧暦9月に田おこしを行っていた。農耕暦では新しい年の始まりになるのです』。異なる歴史をもつ本土と沖縄が、同じ生業に基づく有史以前からの信仰をともに受け継いできたのだ。
 一方、行事の保護・伝承では、人口減による担い手不足が深刻だ。島尻集落では青年会の年齢を10歳引き上げ40歳までとしたが、それでも10人ほどしかいない。男鹿では平成になって35町内でナマハゲが絶えた。
 男鹿真山伝承館を開設した武内信彦・真山神社宮司(67)は、最大の問題は信仰の希薄化だという。昔はよい年を迎えるため、ナマハゲが来なければいけないと信じられていた。『でも今はこなくても大差ない、と考える人が増えた』というのだ。無形文化遺産に登録されれば、この素朴な神を迎えたいと願う人々が増える契機になるはずだ」
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 縄文人の子孫である日本民族は、海をキーワードにしてアイヌ民族琉球人・揚子江流域の民・台湾人・東南アジアの島嶼民とつながり、陸をキーワードとする黄河流域の民(漢族系中国人)や朝鮮人とは別系統である。
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 まれびと、マレビト(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語。折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な鍵概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視される。

 概要
 外部からの来訪者(異人、まれびと)に宿舎や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられる。その理由は経済的、優生学的なものが含まれるが、この風習の根底に異人を異界からの神とする「まれびと信仰」が存在するといわれる。
 「まれびと」の称は1929年(昭和4年)、民俗学者折口信夫によって提示された。彼は「客人」を「まれびと」と訓じて、それが本来、神と同義語であり、その神は常世の国から来訪することなどを現存する民間伝承や記紀の記述から推定した。折口のまれびと論は「国文学の発生〈第三稿〉」(『古代研究』所収)によってそのかたちをととのえる。右論文によれば、沖縄におけるフィールド・ワークが、まれびと概念の発想の契機となったらしい。
 常世とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていたので、農村の住民達は、毎年定期的に常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至った。その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになったという。現在では仏教行事とされている盆行事も、このまれびと信仰との深い関係が推定されるという。
 まれびと神は祭場で歓待を受けたが、やがて外部から来訪する旅人達も「まれびと」として扱われることになった。『万葉集』東歌や『常陸国風土記』には祭の夜、外部からやってくる神に扮するのは、仮面をつけた村の若者か旅人であったことが記されている。さらに時代を降ると「ほかいびと(乞食)」や流しの芸能者までが「まれびと」として扱われるようになり、それに対して神様並の歓待がなされたことから、遊行者の存在を可能にし、貴種流離譚(尊貴な血筋の人が漂泊の旅に出て、辛苦を乗り越え試練に打ち克つという説話類型)を生む信仰母胎となった。
 来訪神のまれびとは神を迎える祭などの際に、立てられた柱状の物体(髯籠・山車など)の依り代に降臨するとされた。その来たる所は海の彼方(沖縄のニライカナイに当たる)、後に山岳信仰も影響し山の上・天から来る(天孫降臨)ものと移り変わったという。
 オーストリア民族学者であるアレクサンダー・スラヴィクは、友人の岡正雄により日本における「まれびと信仰」の実態を知り、ゲルマン民族ケルト民族における「神聖なる来訪者」の伝説や風習と比較研究した。
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 日本民族と、古代において琉球人・アイヌ民族は祖先を同じくする同根同種である。
 中世以降、琉球には数多くの漢族系中国人が移民として移住して来た。
 現代の沖縄で、中国共産党の支援を受けて日本からの分離独立を求めているのは、漢族系中国人移民の子孫と彼らと利益で繋がっている琉球人である。
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 揚子江流域の民は、独自の揚子江文明を生みだし、争う事なく平和に生きていた。
 好戦的な北方の黄河流域の民は、南下して、侵略し、揚子江流域の民を虐殺し、土地を奪い、揚子江文明を滅ぼし、奪った土地に移住して領土を拡大した。
 生き残った揚子江流域の民は、揚子江以南の険しい山岳地帯か海の外に逃げ出し、揚子江文明を伝えた。
 日本民族は、滅んだ揚子江文明を引き継ぎ、独自に作り変え進歩・発展させて日本文明を生みだした。
 日本と中国・朝鮮が違うのはこの為である。
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 領土拡大欲の強い黄河流域の民は、朝鮮半島から日本列島に侵略してきたが、朝鮮半島でとどまり、日本列島に移住して来なかった。
 それは、日本列島、日本民族にとって幸運であった。
 日本民族日本民族の平和と幸福そして進歩と発展の為には、黄河文明の優れたところを受け入れるが、殺戮と略奪を正当権利とする黄河流域の民(中国人・朝鮮人)の浸透を排除する事であった。
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 現代中国の揚子江流域など華南地帯に住む漢族系中国人は、古揚子江流域の民とは別人であり、日本民族日本人との関係性も全くない。
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 日本人と中国人・朝鮮人は、同根同種ではないし、一衣帯水の関係でもない。
 その証拠が、「暦」である。
 日本は、日本天皇が定めていた暦と和元号、幕府が鋳造した貨幣を使用していた。
 中国・朝鮮は、中華皇帝が定めた暦と中華元号中華帝国が鋳造した貨幣を使用していた。
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 日本民族は、揚子江流域の民・揚子江文明の遺伝子と黄河文明の二つの要素で中国や朝鮮を理解できる。
 中国・朝鮮は、黄河文明だけの為に、日本の半分しか理解できない。
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 朝鮮には朝鮮文化はあっても朝鮮文明がないのは、宗主国黄河文明を忠実に模倣し異質なものに変化・進歩・発展させなかったからである。
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 中国共産党は、沖縄・尖閣諸島奄美大島などを手に入れるべく琉球人は日本民族日本人とは別人種の琉球民族とし、むしろ黄河流域の民(漢族系中国人)に近いと主張している。
 沖縄の琉球独立派は、中国共産党の公式見解を根拠に日本からの分離独立を主張している。
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 人類史・世界史・大陸史において、外国人が移民して地元住民より人口が増えるとかなわず分離独立の運動・闘争・戦争が起きる。
 歴史的に最も繁殖能力と増殖能力が高く、適応能力が高く、広く各地に浸透力が強いのは漢族であった。
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 中国共産党は、さらに、沖ノ鳥島小笠原諸島、北海道も狙っている。
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 敗戦後。現代日本を支配したキリスト教価値観とマルクス主義共産主義)価値観が、日本古来の日本民族所縁を未開の野蛮として破壊し消滅させてきた。
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 少子高齢化による人口激減。
 日本民族日本人の激減で、古代から受け継がれてきた伝統的由緒ある民俗芸能・民俗神事が消え始めている。
 それを喜ぶ、反天皇反日的日本人達。
 将来、日本人は日本民族ではなくなる。


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⛩23)─1─伊勢神宮は、ローカルな民族的宗教・信仰を守る為に、政治色が強い世界遺産登録を拒否した。〜No.44No.45No.46 *

伊勢神宮と天皇の謎 (文春新書)

伊勢神宮と天皇の謎 (文春新書)

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 日本人の自然との付き合いは、戦前と戦後とでは大いに異なる。
 戦前は、自然崇拝的に信仰として畏れを持って接し、神域を冒さぬよう穢さぬよう心掛け、神罰を恐れて世俗のゴミは持ち帰り草木や石に至るまで持ち帰りはしなかった。
 現代は、単なる娯楽として入り込み、自然保護に無頓着で、傍若無人に振る舞い、ゴミを捨て、山野草を掘り起こして持ち帰り、自然を荒らしている。
 伊勢神宮が、世界遺産登録に対して、「世俗の事だから」と断ったのは正しい選択であった。
 世界が関心を持っているのは、人間が叡智を結集して作り出した人工物であって、自然遺産や非キリスト教的文化資産ではない。
 日本と世界の関心は異なっている。
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 儒教価値観の中国人や韓国人、共産主義者マルクス主義者の中国人や朝鮮人キリスト教徒との韓国人には、日本の心である伊勢神宮の神威は理解できない。
 何故ならば、日本人と中国人及び韓国人・朝鮮人とは考え方や思考法が根本的に違うし、そもそも全く異なる民族であるからである。
 日本民族は、南方系海洋人である。
 中国人と韓国人・朝鮮人は、大陸系草原人である。
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 中国共産党政府と韓国は、日本を国際社会で孤立させ追い込む為に捏造した歴史認識を政治利用し、中立であるはずの世界遺産登録などを反日に活用した。
 日本外交は、無策の為に敗北を重ね、日本の名誉を傷付けた。

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伊勢神宮: 悠久の歴史と祭り (別冊太陽 日本のこころ)

伊勢神宮: 悠久の歴史と祭り (別冊太陽 日本のこころ)

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  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2013/04/22
  • メディア: ムック
伊勢神宮めぐり歩き

伊勢神宮めぐり歩き

⛩59)─1─海洋民系縄文人と渡来系弥生人。アヅミの神道。志賀海神社。 道祖神の里。伊勢神宮。宗像神社。〜4No.135No.136 *

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 2016年1月16日・23日合併号「アースダイバー 古層Ⅱ 倭人系 中沢新一
 神社編 アヅミの神道 (1)
 さまざまな海人
 ひとくくりに『倭人』といっても、日本列島に渡ってきた倭人を構成していたグループは、多様である。伝統的に漁労を得意とする海人であっても、海岸伝い、島伝いに、北への移動を開始した頃には、揚子江下流域で開発された水田稲作を取り入れて、半農半漁の生活形態をとるようになっていた。そのために、倭人の生業のうちで、農と漁の占める割合は、グループごとにさまざまである。
 多くの倭人がしだいに、農に重きをおくようになったのにたいして、漁や航海を中心とする、海人的な生活形態を続けたグループもあった。彼らは時間がたつにつれて、独自のまとまりを見せるようになっていった。農のほうに重きをおいた倭人は、しだいに海人としての特徴を失っていったが、漁や航海で生きる道を選んだ倭人たちには、海洋民独得の心性が強く残った。
 アズミと呼ばれる人々
 この人たちは、自他ともに許す『海に住む(アマスミ)』の人々になっていった。そのうちもっぱら彼らだけが、『海人』と呼ばれるようになっていったのだが、もともとは倭人そのものが海人だったことを、忘れてはいけない。
 こうした海人に、大きく分けて3つのグループがあった。アヅミ(安曇)、スミヨシ(住吉)、ムナカタ(宗像)である。スミヨシとムナカタは、得意の航海技術を生かして、人や物資の運輸に携わる技能集団となっていった倭人である。これにたいしてアヅミは、漁にを重きをおく半農半漁スタイルを発展させて、列島の広い範囲に広がっていった生活集団である。
 アヅミは、もともとは、『海に住む』人々という、一般的な呼び名だったようである。古代語では、天も『アマ』であるし、海も『アマ』である。その『アマに住む=アマスミ』人々がなまって、アヅミになったと推測されている。しかしそれならば、アズミと発音されるはずであるが、なぜか熱海、渥美などのような、アヅミ関係の地名を見ても、いずれもアヅミと発音されている。
 これは思うに、彼らの祀っていた神に関係がある。アヅミ族は『穂積(ほづみ)』『穂高見(ほたかみ)』のような、『稲を高く積み上げた』という意味の名前をもつ、神さまを祀っていた。こうした神名はあきらかに稲作と関わりをもつ。海に生きるアヅミ漁民は、同時に稲作をおこない、庭に穂を積み上げることを願う農民でもある。アズミではなく、アヅミと呼ばれるところに、私は彼らの心の中の半農半漁性を、強く感じてしまう。
 このアヅミ族が、日本列島に広がっていった海人的倭人の、じつの姿である。紀元前数世紀以前から、彼らは潜水漁法を組み込んだ漁の技と、水田稲作の技を携えて、日本海側と太平洋側に別れて、沿岸伝いに日本列島をなめるように移動していった。
 大きな川の河口部からは、内陸にも深く入り込んでいった。日本人が伝統的に、たとえ内陸部に住む農民であっても、宴会には海の幸を欠かせないものと考え、祭りでは船をかたどった壇尻(だんじり)を引き回すといった、いちじるしい海洋性をしめすのは、そのためである。いまではアヅミとの関わりなどまったく感じさせない内陸部の日本人も、もとをただせば、『海に住む』人々の末裔なのだ。この列島の住民は、農民であっても、海人の本性を失わなかった。
 志賀海神社 (1)
 アヅミ族の初期の拠点が、福岡県糟屋郡の新宮である、と言われている。その近くには、同じ海人系ムナカタ族の拠点である、宗像神社もある。糟屋の海岸部には、倭人の中でも海人性の強い人々の住む漁村がいくつもあった。博多湾の西部では、大規模な水田開発が進んでいったが東部では、海人的な生活を続ける人々が、まだ多くいた。
 アヅミ族は海岸部にいくつもの漁村をつくり、少し離れた海の孤島・志賀島に、自分たちの聖所を設けた。そしてこの島にも、神官や巫女だけでなく、多くのアヅミ漁師の暮らす漁村ができていた。この島は、博多湾の東で海に突き出ている、中道(なかみち)という砂洲によって、陸地と結ばれている。昔は中道の先端部からさきは、ふだん海に沈んでいて、潮が引いた時だけ、志賀島とつながった。
 志賀島という地名は、動物の鹿と深い関係を持っている。もともと鹿がたくさんいたこの島では、『海の狩人』であるアヅミは、『山の狩り』である鹿の狩猟もおこなっていた。鹿は山の神の使いでもあるから、鹿を仕留めたあとは、厳重な『動物霊の送り』の儀式をおこなっていた模様で、そのさい聖所に殺した鹿の角を納めた。
 この鹿儀式のおこなわれた古代聖所に、のちに建てられたのが、志賀海神社であり、この地にはそののちも、鹿を狩猟したらその角を神社に奉納するという風習が、地域の伝統として残ることになった。そのため、社殿の脇には、奉納された何千本もの鹿の角が詰め込まれた庫(くら)が、建てられている。
 三位一体の磯良(いそら)
 志賀海神社宮司職は、大々安曇家の世襲によって守られてきた。氏子の多くも安曇の一族で構成され、祭祀のほとんどすべてが、安積氏によって取り仕切られてきた。注目すべきは、その御祭神である。底津少童命(そこつわたつみのみこと)、中津少童命(なかつわたつみのみこと)、表津少童命(うわつわたつみのみこと)の三神が、御祭神である。『少童』と書いて、『わたつみ』と読ませているが、アヅミ族の伝承を考えれば、あきらかにこれ渚の少年である磯良のことを指している。じっさい、中世には志賀明神というものが登場してくるが、この神はじつは安曇磯良のことである、と古伝には言われている。
 底、中、表と三分割された少童命は、そのまま統合されて磯良という神格に収まるのである。私たちはおなじむの、海人的三位一体論の再登場である」
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 日本民族の民族性は、大嵐で遭難すれば一緒に海の藻屑となる船で生きる定めに由来する。
 船乗りは、一蓮托生の船の運命からは逃げられない。
 日本丸の船長は能力によって時代によって代わる事があるが、仰ぎ見る旗頭はただ一つ、言葉多く発しないけれど有るべき姿・進むべき有り様を体現する神格性を帯びた祭祀王・天皇である。
 日本のリーダーとは大陸のリーダーとは異なり、船長と旗頭は一緒ではない。
 船の針路を決めるのは、船長であって旗頭ではない。
 旗頭は、船長が風を読み間違えて船を難破させないようにするする為に、天候と風向きを「はためき」ながら正しく指し示す存在に過ぎない。
 「はためき」は、詔であって命令ではない。
 実際に、航路を決めて舵を切るのは船長であり、船を進めるのは船員である。
 船員(日本民族日本人)は、船長の判断が誤って船を遭難させても、旗頭が不動の存在として風向きを正しく示していれば、旗頭の示す方向に有るべき方向に破損した船を引き戻し、難破した船の前例を教訓として修繕し別の船に改造して、新な時代に合った船長を定めて船の舵取りを委せて未来・将来に向けて航海を続けた。
 船は、未来・将来に向けて船出して未知の航路を暗中模索で航行する乗り物であって、良港に停泊して船出しない船は無用の長物として腐って朽ち果てるしかない。
 二度と同じ遭難を繰り返さない、それが船員の生き残りの知恵であった。
 船員は、船板一枚のその下は絶対に助からない地獄と知っていただけに、生き残れるように神仏の御利益を期待しつつも、大嵐という運命を受入れ、遭難したらいきなり陸地が現れて助かるような奇跡や救済を信用しなかった。
 海の上では、神仏の御利益はあっても、神仏の奇跡や救済はなかった。
 そもそも、船を遭難させるような大嵐は二つと同じものは存在せず、絶えず経験した事のない条件下の大嵐であった。
 日本の歴史には大嵐と同じように瓜二つは存在せず、よって日本の歴史は繰り返す事はない。
 旗頭である天皇は、俗世の外で神聖を帯びた存在として神聖不可侵であらねばならない。
 船長はその時々の能力者・実力者が個人欲でなればいいが、旗頭だけは誰でもいいからなればいいというものではなかった。
 船長と旗頭が一緒なのがアメリカであり、旗頭が船長を拘束したのが共産主義であった。
 一神教キリスト教も、旗頭が船長を支配し指導する構造であった。
 故に、アメリカも共産主義勢力もキリスト教も、風向きだけを指し示す曖昧な存在である旗頭である天皇制度を否定し廃絶しようとした。
 先進国、大陸国で、日本と同じ環境や性格を有している国家や国民は存在しない。
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 2016年3月5日号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
 古層Ⅱ 倭人系 神社編
 アズミの神道(8) 穂高神社(4)
 ……
 道祖神の里
 安曇野には、ときどき息を呑むほどに野性的な、性の文化が息づいてきたのである。それも海人族の原郷である、南方海洋的な性の文化である。安曇野は、みごとに彫刻された、男女2人立ちの道祖神(双体道祖神)の石像が名高い。この道祖神こそ、その南方的な性の文化の、最高の表現者なのである。
 道祖神はいまだに謎の多い、路傍の神さまである。神社には祀られない。Y字の形をなした地形を好んで、祀られることが多い。神社の神さまと鉢合わせしないように、旧正月の宵に祭りがおこなわれるが、そのとき道祖神を覆うようにして藁の小屋(オカリヤ)がかけられ、そこに藁でつくった巨大な男根形が、差し込まれる。
 夜になると、オカリヤに火が放たれる。オカリヤは仮屋と男根の隠語であるカリをかけたもの。雑穀からつくった餅を火であぶりながら、信州の人々は、夜空に向かって、底抜けに卑猥な伝承歌を大合唱したものである。
 この道祖神は、仲良く並んで立つ男女の姿で描かれる。とくに安曇野に残された双体道祖神の石像には、みごとな出来栄えのものが多く、いかにもほほえましい愛の像を写真に収めているカップルのなかには、『まるで私たちみたい』と思っている方々も多い。
 あいかし、ほんとうに『私たちみたい』だろうか。この道祖神に関して、信州や上州の人々は、つぎのような説話を語り継いできた。
 『昔あるところに2人の兄妹がいた。やがて年頃になったので兄は妻をさがしに、妹は亭主をさがしに、2人は別れて求縁の旅に出た。2人とも長い旅を続けたが、これはという相手に出合えなかい。ところがある所で2人が出合う。兄妹と知ることなく、お互いが相手のことを好きになり、2人は夫婦の契りを結ぶ。男は自分の故郷に女を誘い、何日も旅をして、男の故郷にたどり着いてみると、なんとそこは女の生家でもあった。2人はこのときはじめて兄と妹であったことを知り、驚愕する。嘆きのあまり、2人は抱き合って淵に身を投げて果てた。これを哀れんだ村人が、抱き合う2人の姿を像に刻んで、路傍に立てて道祖神とした』(『山村』第二号、昭和9年より)
 道祖神となった2人の兄妹は、じつに過激な行動者なのである。血縁においてもっとも近い2人が、空間においてもっとも遠い所へ行き、そこで結合する。この結合は社会的なショート(近親相姦)を引き起こしてしまう。心中してふたたび遠い所へ去ってしまった2人を記念して、村人は道祖神の像を刻んだ。その道祖神の像の前で、信州の人々は、あけすけなエロティシズムの祭儀をおこなってきた。
 海を越えたパンク
 石像の中でほほえましく立ち並んだ2人の姿からは、とても想像できないことだが、この兄妹はふつうの人たちのように、万事を適切な距離のところで折り合いをつけることを拒否して、過激な性の冒険に身をさらした、古代におけるパンクなのだ。極端に遠いか、極端に近いか、さもなければ死である。
 道祖神の2人は『私たちみたい』どころか、臆病な『私たち』とはおよそ似ていない。しかし2人のしたことは、人類の隠された欲望の具現化にほかならない。人類は社会をつくるために、多くの欲望や夢を、自分の無意識の底に埋葬せざるをえなかった。その無意識を、なにげない表現に託して、路傍にさしておくのが道祖神だ、信州に広く祀られている。双体道祖神の石像の背景には、海人族の大胆な欲望や夢が隠されている。
 双体道祖神をめぐる説話は、安曇野や松本平を中心とする海人系の人々の移住地であろうと推定されている地域に、濃厚に分布している。それどころか、何人もの民族学者や神話学者によって、その説話が、中国南西部に住むいわゆる少数民族のものとで伝えられている、『洪水のあとに生き残った兄妹』の神話の仲間であることが、確認されている。この説話も、アズミの人々とともに、海を渡ってきたことは、まちがいない」
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 4月30日号 週刊現代「アースダイバー 神社編
 アズミ神道 (14)
 太平洋岸を進む海人(4)
 ……
 落下する火龍
 ……
 アフリカ的火祭り」
 那智大社は、山頂の付近から落下する、お滝への素朴な信仰から発展した。中世の那智参詣曼荼羅図には、滝の脇に神鹿の姿が、くっきりと描かれている。この鹿はただちに北部九州のアズミ族の拠点、志賀島における神の鹿の信仰を思い起こされる。
 那智大社の火祭りは、夏至近くの7月14日におこなわれる。別名が『扇祭り』。大松明とともに、扇が取り付けられた独特な神輿が、祭りの主役となるからである。ここでは、火祭りなのに昼間に行われる。那智の滝に向かって下っていく石段を、12基の扇神輿がおごそかに下りてくる。それを迎えるべく、滝口からは12本の大松明が石段を登っていく。扇と松明は、石段の途中で出会うように仕組まれている。
 まだ学生だったとき、私は仲間とともに、アフリカの文化人類学者ヴィクター・ターナーを案内して、この那智の火祭りを訪れたことがある。ターナーはアフリカの部族の祭りの研究で著名である。部族の祭りに潜む、性的なシンボリズムを嗅ぎ分けることにおいては、天才的な能力の持ち主であった。
 那智の火祭りを前にして、人類学者は興奮した。祭りの進行に合わせて、彼は大声で吠えるように、私たちに『解説』をした。白い装束の男たちが手にする赤い松明の火は、白=精子、赤=経血のならいで、性交と受胎を象徴する。いや、こうも見える。上昇する松明の火(男)と、落下する滝の水(女)が、交わり結ばれて、受胎をおこすのだと。見よ、大きく開いた扇の形を。あれは女性性器そのものである。その扇神輿のてっぺんの造形がまたすごい。あれはまさしく太陽である。開かれた扇の先から、太陽の子供が生まれている。なんとも、アフリカ的な祭りではないか。日本人の想像力はアフリカ直系か!
 真夏のこの祭りでは、12個もの太陽の子供が産み落とされ、巨大な母胎ともいうべき山から、しずしずと出現してくる。たくさんの太陽という、環太平洋神話学における重要主題の再登場である。」
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 5月7・14日号 週刊現代中沢新一 アースダイバー 神社編
 古層Ⅱ 倭人
 アズミ神道 (15)
 海人の伊勢湾
 伊勢湾の入り口にあたる伊良湖(いらご)崎と大王崎は、日本の民俗学にとって、大いなる啓示の場所である。
 伊良湖崎に旅した若き日の柳田国男は、浜辺に打ち寄せられた椰子の実を見た。椰子の実は、黒潮にのって南方の島から流れ着いていた。柳田はそのとき啓示を受けて、日本人のルーツが南方海域の島々にあることを確信した。
 折口信夫もその若き日に、大王崎の突端に立っていた。まばゆい光に包まれた海を見ていた彼は、電撃に打たれたように、『マレビト』の思想を得た。南方海域からこの列島たどり着いた日本人の祖先は、自分たちの魂の原郷は遠い海の彼方にあると信じたにちがいない、という啓示である。
 柳田も折口も、日本人の出自を南方に求めた。この2人の直観は、いまもって正しい。その直観を2人に与えた場所が、期せずして伊勢湾口であったということが、まことに意味深長である。じっさい、伊勢湾そのものが、日本人にとって古代から重要な意味をもつ土地であったからである。
 その土地を発見したのは、南紀から海岸沿いに、紀伊半島をぐるりと回って、伊勢湾の入り口に達した、倭人系海人たちであったはずである。彼らは伊勢湾の自然の豊かさに驚いたに違いない。倭人系の海人は、潜水(かずき)漁法を得意とした。アワビやサザエやトコブシが、豊かに繁殖するこの湾は、まさに海人の生活にはうってつけの土地であった。
 潮騒の神島
 伊勢湾には、多くのアズミ(海に住む人)やアマ(海の民)が移住して村をつくった。この倭人たちは、海岸部に多くの原始的な聖所を設けた。そうした聖所は、ほかの土地に住んだ海人たちのものと、初めの頃はそう違うものではなかったが、のちになると独特の展開をとげて、伊勢は日本人の神道の中心地へと発展していく。
 リアス式に入り組んだ志摩の入り江を見つけた倭人集団は、さっそくそこに聖所を設け(いまの伊雑宮(いざわのみや)あたりである)、みずから『磯部(いそべ)』を名乗っていた、志摩地方の重要な海人となった。これにたいして、鳥羽から伊勢にかけての海岸部に上陸して拠点を築いたのは、『度会(わたらい)』の一族である。 
 度会一族の聖所は、宮川のほとりに設けられた。そこには数世紀のちに、天照大神という太陽女神の聖所である、伊勢神宮内宮が建てられることになるが、度会一族が設けていた聖所は、おそらく社殿もなく森だけのある、きわめて原始的な『杜(もり)』だったことが想像される。この磯部と度会という二つのイエ集団が、伊勢を最初に開発しだした、主要な倭人弥生人ということになる。
 しかし伊勢湾口には、もうひとつ重要な海人集団がいたことも、忘れてはならない。神島(かみしま)の海人である。彼らは歴史にはほとんど関与しなかったが、海人の文化伝統の律儀な保管者になるという、ことによると歴史よりも貴重な意味をもつ、大切な使命を果たしてきた人々である。
 ……
 ゲーター祭(1)
 志摩の伊雑宮や伊勢の度会氏の聖所は、3・4世紀頃から、ヤマト王権からの文化的・政治的影響によって、原型的な倭人神道からの変質をとげてしまった。ところが神島の神道は、伊勢神宮との結びつきを保ちながらみ、古い倭人の伝統を保ち続けてきた。伊勢神宮では、倭人的な太陽祭祀に、ラジカルな変形が加えられて、原型はほとんどわからなくなる。
 南紀から伊勢湾口に移動してくると、太陽祭祀の形は劇的な変化をおこす。古座や那智や新宮の太陽祭祀で表現されていた『太陽の子供』という考えが、神島ではまったく異なる、逆転した表現をあたえられるようになりのだ。それは、洗練された伊勢神宮祭祀の対極にあるような、『野性の思考』丸出しの自然児ぶりである。
 神島の太陽祭祀は、真冬の季節におこなわれる。大晦日から元旦にかけての『ゲーター祭』と、正月6日におこなわれる『弓祭』がその中心となる。準備は12月中頃からはじめられる。松明をつくるための松の伐(き)りだし、『アワ』と呼ばれる太陽模型の材料となるグミの枝伐り、このアワを突き立てるための3〜4メートルもある女竹の伐りだしなど、若者たちは連日のように、裏山に入っての作業に明け暮れる。
 アワづくりの作業がはじまる。集められたグミの枝をたわめて、大きな丸い輪をつくるのである。このアワを『日輪』という人もいるし、『蛇体』と推理する研究者もいる。ゲーター祭には、太陽、蛇神、海神というすべての倭人神道の要素が集合して、太陽祭祀の原始形が構成されている」
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 2017年5月7日 産経ニュース「【産経抄元寇日露戦争…日本に加護与えた「神宿る島」、世界文化遺産登録へ 5月7日
 洋上から望むこの島は、司馬遼太郎の目に「巨大な岩礁」と見えた。切り立つ崖は岩肌を真下の海に落とし、周囲にひらめく白い潮(うしお)は、島がよって立つ絶海を難所に変えた。九州本土からは約60キロ、玄界灘に浮かぶ沖ノ島(福岡県宗像市)である。
 ▼日本から遠く朝鮮半島や大陸を目指した先人にとり、島から先の無事は神頼みだったろう。福岡県出身の作家で写真家、藤原新也さんが書いている。「とりつく島もない、茫洋(ぼうよう)とした海の彼方に現れた“とりつく島”であり、すなわちそれは神そのものなのである」(小学館『神の島 沖ノ島』)。
 ▼またの名を「不言島(おいわずじま)」とも呼ぶ。島での見聞は口外無用、一木一草の持ち出しもならない。不浄の持ち込みもご法度で、上陸の際は裸体を海で清めるという。宗像大社の「沖津宮(おきつみや)」として島そのものが崇拝されてきた神体島である。
 ▼絶海と禁忌が守り続けたのは、神国思想の足跡かもしれない。昭和29年から46年にかけての調査で発掘された4〜9世紀の舶載品や遺構は、航路の安全を願う国家的祭祀(さいし)の変遷などを物語って、貴重だという。沖ノ島が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録される運びとなった。
 ▼島は海路の要衝であり防壁でもあった。元寇では神風が蒙古軍を本土から遠ざけ、司馬も描いた日露戦争では、連合艦隊がロシア艦隊を退けた日本海海戦も同島の近海を舞台とした。今日の繁栄は「神宿る島」のご加護でもあろう。
 ▼余談ながら宗像大社の手水(ちょうず)鉢には「洗心」と刻まれている。沖ノ島の調査を主導した出光興産創業者、出光佐三の揮毫(きごう)である。自らの足跡をたたえた記念碑建立の話を蹴り、ひそかに手跡を残したらしい。そんな先人の陰徳にも光が当たるといい。
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 倭人となった縄文人は、朝鮮半島や中国大陸の黄河流域から渡って来た渡来人ではなく、台湾や沖縄や揚子江流域から海を渡って来た人々である。
 漢族系中国人とは、黄河流域住民の事である。
 揚子江流域住民の人々は、漢族系中国人ではなく非漢族系少数民族である。
 日本人の祖先である倭人は、中国人でもなく朝鮮人でもない。
 倭人は、特定の優秀、有能な母親ミトコンドリア遺伝子を受け継いだのではなく、優秀・劣等、有能・無能に関係なく数多くの雑多な母親ミトコンドリア遺伝子を受け継いだ雑種・混血児であった。
 上下関係の弱い古代社会で生きていた人類は、動物のように子孫を残す主導権はオスではなくメスにあった。
 メスは、子供への愛情は強かったが、オスへの愛情は少なかった。
 オスは、自分の子供を産み育ててもらう為に、餌となる獲物を捕らえて届け、メスと子供を命に懸けて守った。
 オスが命を犠牲にしてメスを守るのは、愛情ではなく義務であり責任であった。
 倭人ミトコンドリア遺伝子には、そのメス優位の野性的生存本能が濃く残っている。
 倭人の特技は倭人のものであって、朝鮮人や中国人の渡来人が持ち込んだ特技でもなければ倭人に伝えた特技でもなかった。
 海人や海女は、海水温が低い朝鮮半島周辺海域や黄海及び渤海湾には存在しなかった。
 北方系草原民である黄河流域や朝鮮半島の住人にとって、海とは縁がなく、ないどころか地獄、死そのもので忌み嫌う場であった。
 この点で、南方系海洋民の子孫である日本人は北方系草原民の子孫である中国人や朝鮮人に感謝する必要なはい。
 が、草原的生活の知識と技術を伝えてくれた事は確かであるから、その点は感謝すべきである。
 朝鮮人と中国人の持ち込んだ母親ミトコンドリア遺伝子は、倭人母親ミトコンドリア遺伝子の中の1つに過ぎず、優位にある母親ミトコンドリア遺伝子ではなかった。
 日本人は、中国人や朝鮮人の100%の子孫ではなく、中国人と朝鮮人の一部を受け継いだに過ぎない。
 ただし、自分は中国人や朝鮮人の子孫だという日本人は、確かに倭人縄文人弥生人の子孫ではなく中国人や朝鮮人の子孫であろう。
 日本民族とは、人種・民族・宗教・文化・言語など全てに偏見を持たず、差別せず、排除せず、疎外せず、虐げず、平等と公平をもって内包した民族である。



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🕯156)─1─日本人の死体観は中華や西洋とは違う。〜No.327No.328 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 気の弱い日本民族日本人は、死体を見る事を生理的に嫌う。
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 大陸世界では、人を殺す処刑は娯楽であり、公開処刑には大勢の見物人が集まり、処刑場の周囲に多くの露店が建ち並びさながら賑やかな市場のようであった。
 中華世界では、処刑は全て公開処刑で、処刑方法は時間を掛けてゆっくりいたぶるように猟奇的な陰惨な方法で実行される。
 西洋の中世キリスト世界では、異端審問や魔女狩りなどの宗教裁判が行われ、異端者・魔女とされた人間は「神の御名」により公開処刑として生きたまま焼き殺された。
 フランス革命では、元国王ルイ16世・元国王妃マリー・アントワネット国民公会により大勢の国民が見物する中で、ギロチン刑によって首を切断された。
 イスラム教世界では、不倫をした人間は公開処刑として、集まった群衆の石礫で殺された。
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 2019年6月21日号 週刊朝日「週刊図書館 
 『死体は誰のものか 比較文化史の視点から』 上田信 ちくま新書
 日本の死体観を相対化
 〝地球の中心〟は一つではない
 『居眠りしている学生にボーンと放り投げるんです』
 上田さんが勤める大学の研究室に、地球がプリントされた大きなビーチボールが置かれている。これを講義で投げて、『地球の中心はどこか?』と学生たちに聞くと、『ええっー』と盛り上がるそうだ。
 専門は明清時代の中国史
 『死体』に興味をもつようになったのは35年ほど前。南京大学に留学中、公道で死体を幾度か目にした体験がきっかけだ。
 『死亡事故があると、日本ではすぐにブルーシートで覆いますが、中国では交通事故防止用の写真に壊れた車だけでなく死体も写っています』
 徹底して死体を隠そうとする日本の過剰さはどこから来たのか。本書ではホラー映画のキョンシーから、鳥に遺体を食べさせるチベットの『天葬』、キリスト教の遺体に対する観念などをたどり、タイトルにもなった疑問へと読者をいざなっている。
 第一章『武器としての死体──中国』では、2008年6月に中国で起きた事件を紹介される。公安当局が女子中学生の水死体を『自殺』として扱ったところ、遺族が埋葬を拒否。溺死とした検視にも納得せず、遺体を冷凍棺に納めて事件現場に安置し、再検視を求めて抗議したため、大騒動に発展したという。奇異に思えるが、歴史をたどると、中国では死体を権力者への抗議に用いたり、恐喝やゆすりのために使ってきた事実が窺い知れる。
 日本ではどうか。第五章では、古典落語の『らくだ』(長屋の住人らくだが突然死したところ、訪れてきた兄貴分が遺体を踊らせ、大家に弔いの酒や料理をださせる話)が紹介される。
 同章後半の現代日本の法制度について考察した部分も興味深い。遺体は『物』か否か。相続に関する解釈は民法学者の間でも確定していない。『臓器移植』では故人がドナー表明をしていても、遺族が反対すれば行えないのが現状だ。葬儀は不要と遺言しても、『そうもいかない』とされて営まれることも多い。
 『日本では、遺族の判断が最優先されます。本書を書いているうちにわかってきましたが、日本人には呪術的な恐怖感に対してあり、弔いはそれを浄化するためのものなんですね』
 『らくだ』の話に戻ると、親族でもない男が弔いを買って出たことで揉め事が起きるが、俯瞰すると、『共同体の一員』として至極まっとうな行いをしているように思えてくる。
 『酒と料理を出せと談判するけれど、それ以上は要求しない。行為そのものは世間への責任を果たそうという意識に則っています』
 このように説明されると認識が反転してしまう。冒頭のボールの質問も、『自分がいる場所ですか』と正解を聞くと、『そこも地球の真ん中』という。『も』ということは、中心は一つではないということなのだ。
 『だから相互理解を深めるには、それぞれが〝地球の中心〟だと考えているところからスタートしないといけません』
 朝山実」
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 中華世界・中華文明圏では、政敵の墓を暴き、死者の尊厳を踏みにじり、魂・霊魂を冒瀆し、死体を墓穴から引きずり出して毀損し打ち捨て、埋葬品を戦利品として強奪する。
 最も憎む相手は、未来永劫まで侮辱する為に石像や石碑を建て、石を投げ、棒で叩き、唾を吐きかけ、糞尿をかけた。
 水に落ちた犬は、助ける事なく、棒で殴り石を投げて殺し、殺した後は料理して食べた。
   ・   ・   ・   
 中国の戦争では、勝者は敗者の死体で幾つもの山を築き、それを見ながら宴会を開き勝利を祝った。
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 死者の写真は、日本では少なく社会から隠されていたが、中国や朝鮮では多く公然と売られ子供でも買えていた。
 中国人や朝鮮人は、死体の前で勝ち誇った様に記念写真を撮る。
   ・   ・   ・  
 中国共産党政権下で、生きたウイグル人や法輪巧信者などから取り出した臓器を売買する「臓器移植」ビジネスが行われている。
 臓器移植を希望する人間が、諸外国から中国に訪れている。
 中国では、臓器はおろか命さえも金で買える。
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 戦国時代。武士達の合戦を山の上から酒を飲みながら見物していた庶民(百姓や町人)は、合戦が終わるや戦場に駆け下り、死んだ武士から身ぐるみを剥がし裸にして穴に埋め、供養塔を建てた。
 死体から奪った物は、町の市場で売って金に換えた。
 百姓達は落ち見者狩りを行い、逃げ遅れた武士を寄って集って殺し、切り取った首を勝った武将に届けて報奨金を得た。
 武士は、金の亡者のような庶民、とくに百姓を嫌い信用していなかった。
 この相互不信関係は、明治維新後も日本の暗部として残り、日本は一枚岩ではなく政府と庶民との間には深い溝が存在していた。
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 戊辰戦争の時。官軍は、殺した朝敵の死体を弔い埋葬する事を禁止し、見せしめの為に野晒しにして放置した。
 僧侶は、仏教の教えを説く為に、老若男女に、鬼の惨い責め苦を受けてもがき苦しむ死者・亡者の地獄絵を見せる。
 日本の年端もいかない子供達は、怖ろしい地獄絵を見せられ、筆舌に尽くしがたい鬼の責め苦を聞かされ、トラウマを背負って成長した。
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 昔の日本社会は、死が普通に隣り合わせにあった。
 日本民族日本人は、死を見詰めて生き、死と共に生活していた。
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 日本民族は、血と死を穢れと嫌い、死体を目の前から速やかに取り除いた。
 高温多湿の日本では、死体を放置すると疫病・伝染病の発生源になる為に、速やかに埋葬するか火葬・水葬、或いは町から遠く離れた谷間や野原に捨てた。
 そして、怨霊信仰によって死者の魂を供養した。
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 関東大震災阪神淡路大震災東日本大震災など死体の写真や太平洋戦争におけるヒロシマナガサキ・東京などでの死体の写真は、例外なく全て公表されていない。
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🕯114)─1─日本を支配するのは宗教的な自然の荒魂と人の怨霊・鬼・悪霊である。〜No.246 

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 関連ブログを6つ上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 現代日本では、反宗教無神論による政教分離の原則と信教の自由で日本古来の神々が殺されている。
 氏子のいない神社には神はいない。
 現代日本人は、事実としての歴史より架空の時代劇が好きであり、神秘に惹かれるが宗教には興味がない。
   ・   ・   ・   
 神社と祭神を守るのは、神と血で繋がる子孫の氏子、神と神社の領域に住む地元住民、神を崇拝し神社に参拝する崇敬者の三者であり、そこに信仰者・信者・教徒はいない。
 神社には、やってはいけない定めや掟はあるが、神の教えを伝える経典や聖典、教義や教理はない。
 本来、神社の祭りは人を集めて金を儲けるイベントではないが、現代の祭りは欲得のイベント化している。
   ・   ・   ・   
 儒教キリスト教は、日本の怨霊信仰を否定し、迷信、怨霊による祟り、亡霊・幽霊・悪霊の呪いを認めなかった。
 儒教は天命と徳で、キリスト教は愛と奇跡で、邪悪すべてを消し去った。
   ・   ・   ・   
 世界で、日本は愛され、日本人は信用されているとは、嘘である。
   ・   ・   ・   
 不幸に死んだ彷徨う魂・霊魂を、怨霊・亡霊・幽霊・悪霊、荒魂・鬼に変わらないに封じ込め、怨念や恨み辛みを鎮静させ鎮魂する最大の宗教施設が、靖国神社である。
   ・   ・   ・   
 2019年6月21日号 週刊ポスト「逆説の日本史  井沢元彦
 近現代編 第六話 明治の文明大変革 Ⅱ
 演劇そして芸術一般の変革 その⑩
 冷酷非情な大久保の心のなかにも生きていた『怨霊の祟り』への恐怖
 要するに、西南戦争の翌年1878年(明治11)2月に『西条高盛(さいじょうたかもり)』を主人公とした『西南雲晴朝東風(おきげのくもはろうあさごち)』が上演され大成功を収めたばかりか、大久保利通が最高権力者であった政府から何の『お咎(とが)め』も無かったことは、世界の常識では到底考えられないことであり、この異常な事態を説明するには『日本の非常識』、この場合は『宗教』についての知見が必要だということだ。
 それは怨霊信仰である。日本人は偉大な人物が『無実の罪』で不幸な死を遂げた場合、それが怨霊になる可能性が高いと考える。菅原道真が典型的な例だが、それを防ぐためには何らかの形で鎮魂しなければならないと考える。その鎮魂の手段が日本の芸術や芸能を発展させてきた。『源氏物語』が『平家物語』がそうであり、能楽もそうだ。その伝統を、この場合は明治という新しい時代に直面して方向性を模索していた歌舞伎が復活させたということだろう。能楽はすでに遠い昔に、現実の事件を舞台の上に取り入れるという手法を捨てていた。しかし歌舞伎は違う。幕府という政府の干渉があった時代も、現実の赤穂事件を換骨奪胎(かんこつだったい)した『忠臣蔵』で大当たりをとった。あれも主君の無念を家臣が晴らすという、怨霊信仰に沿(そ)ったものであることを思い出していただきたい。
 ……
 ここはしつこいようで申しわけないが、もし同時代の朝鮮国で洪秀全({こうしゅうぜん}太平天国の乱の首魁)や金玉均({きんぎょくきん}甲申事変のリーダー)を主人公にした芝居など上演したら、関係者全員が死刑になってもおかしくない。なぜなら、彼らは皇帝や国王に反逆した『賊徒』であるからだ。西郷隆盛もこの点ではまったく同じである。このとき伊藤博文松田道之は彼らに、『西洋の演劇は殺人も無く、男女の恋愛も淫(みだ)らではない』などという半可通(はんかつ)の説教はしたが、今回の芝居は朝敵を賞揚するものでケシカランとか、直ちに上演中止せよなどとは決して言っていない。そしてこれも繰り返しになるが、このとき大久保利通は病気でも無く健在であった。殺されたのは翌5月の14日である。そして明治政治史を知る者には常識だが、このときの伊藤は大久保の『子分』だ。大久保の意向には絶対に逆らえない。もちろん内務卿の大久保がこの芝居のことをしらなかったということもあり得ない。帝都で大評判をとっていたのだから。維新の志士時代から大久保は希に見る情報通であり、江藤新平の評判を下落させることでもわかるように情報操作の達人でもある。つまり、その大久保が『西南雲晴朝東風』上演については黙認したということだ。それ以外には考えられない。ここにまず注目しなければならない。
 ではなぜ大久保が、清国や朝鮮国では関係者が全員死刑になるほどの芝居の上演を黙認したのか?『賊徒の汚名』を着せられながら天皇に至誠(しせい)を貫いた西郷隆盛という偉人を、明治の日本人の理想像にしようとしたのだ。だから政府も黙認した。このような見解もあるが、それは結果論というものだろう。確かに、そののち西郷という人間はそういう形で尊敬の対象となっていくのだが、この時点の国家の判断ではあくまで西郷は『朝敵』であり『賊徒』であった。これも繰り返しになって恐縮だが、この時点では墓を建てることはおろか法要を営むことすら不可能だったのである。
 むしろ、こう考えるべきだ。西郷という明治維新を成し遂げた偉大な英雄が、『朝敵』という形でもって不幸な死を遂げた。これは何とか鎮魂しなければいけない。そうしないと西郷は怨霊になり新生国家にあらゆる不幸をもたらす存在になってしまう。しかし新しい法治国家の仕組みでは、藤原氏菅原道真を生前の右大臣から太政大臣に『昇進』させるような『法的措置』を取ることは不可能だ。唯一残された鎮魂手段が芸能である。古くは藤原氏が『源氏物語』で自ら追い落とした源氏一族を鎮魂し、怨霊を恐れない武家の源氏が平氏を滅ぼしたときは、朝廷勢力の一員である天台座主慈円がプロデュースとなって『平家物語』を作成し平氏の鎮魂に努めた(『逆説の日本史 第五巻 中世動乱編』参照)。その伝統が、この時代にも受け継がれたのだ。
 誰もが天皇に憚(はばか)り公式には西郷への鎮魂の言葉を口にできなかった時代に、いち早くその慰霊碑を建立した西郷の盟友勝海舟が、それ以前に最初にしたことは何だったか?『城山』という琵琶(びわ)歌つまり鎮魂歌を作ることだったではないか。歌と言えば、『朝敵西郷軍』と戦った政府軍を讃える『抜刀隊(ばっとうたい)』を作詞した外山正一は、西郷と西郷軍兵士のことを何と呼んでいたのか。思い出していただきたい。一番の出だしはこうだ。

 吾(われ)は官軍我が敵は
 天地容(い)れざる朝敵ぞ
 敵に大将たる者は
 古今無雙(むそう)の英雄で
 これに従うつわものは
 共に剽悍(ひょうかん)決死の士
 (以下略)

 確かに『天地容れざる(絶対に許されぬ)朝敵』という前置きがあるものの、西郷のことは『古今無雙(双)の英雄』であり、彼に従う兵士は『剽悍決死の士』と讃えている。これも外国と比べればよくわかると思うが、金玉均のことを『反逆の徒には違いないが、真に国を思う忠臣であった』などと讃える詩や歌を作れば、間違いなく閔妃(みんぴ)や取り巻きの官僚によって極刑に処せられただろう。そもそも、頭のなかに朱子学しかない朝鮮の官僚や学者にはそんな歌を作ろうとする発想すら無かったどろう。国王に反逆した人間は極悪人と決まっており、それ以外に考えようが無いからである。それが朱子学体制というものだ。日本は再三言うようにそうでは無かった。ではどこが違うのかと言えば、『志を貫けず不幸に死んだ人間の魂は、それが丁重に鎮魂されなければ祟る』という怨霊信仰が日本人の心のなかに生きているからである。だからこそ冷酷非情な大久保利通ですが、『西南雲晴朝東風』の上演を黙認したのである。
 『英霊』は『怨霊』の近代的表現
 じつは鎮魂手段、いや死者に対する措置が鎮魂だから正確には鎮魂手段と言えないかもしれないが、怨霊の出現を防ぐための『手段』がもう一つある。それは『本人が生きていることにする』ことである。死ぬから怨霊になるので、死ななければ怨霊になりようが無い。だから『あの人はじつは死んでいない。いまもどこかで生きている』と『信仰』すれば、怨霊の祟りへの恐怖を逃れることができる。だから怨霊信仰という信仰がある世界、つまり日本では民衆のなかからこういう『英雄不死伝説』が生まれやすい。
 このことは、すでに20年以上前にこの連載で指摘している(『逆説の日本史 第五巻 中世動乱編』に収録)。源義経のことである。非業の最期を遂げた源義経に対し、日本人は『義経は死んでいない。無事に蝦夷地に逃れた』という北行伝説を生み出した。『死ななければ怨霊にならない』という、もっとも簡便で安上がりの怨霊『対策』である。そして、江戸時代には中国の金王朝の武将として義経が活躍したという話が劇作家沢田源内によって創作された。そこまでは前出の第五巻で述べたところだが、そのあと私は『この(後の)過程については幕末から近代にかけての編取り上げたい』と予告している。今、その予告を果たそう。
 明治になると、義経はじつは元王朝の祖チンギス・ハーンだったという『説』が生まれた。この『伝説』を英文にして世界に広めた人物をご存じだろうか?政治家にして文筆家だった末松謙澄であり、彼はじつは伊藤博文の娘婿であり前出の外山正一とともに演劇改良運動の同志でもあった。『義経ジンギスカン説』(当時はそう呼ばれた)を世界に広めた目的はとりあえず中国への対抗意識で、国民の中国に対する対等意識を育てるためであっただろう。しかし、それを国民が信じるためには、そもそも『義経は死んでいない(あるいは不幸な死を遂げたとは思いたくない)』という民衆の強い思いがなければ不可能であり、末松も義父の伊藤もそうした日本民族の嗜好やその対策の効果については政治的におおいに利用できる、と認識していたということだろう。
 それゆえ、明治の日本では『西郷不死伝説』が根強く語られるようになる。日本初の本格的なSFシリーズ『海底軍艦』の作家でもあり、今年のNHK大河ドラマ『いだてん』に登場した『天狗倶楽部』の創設者でもある作家押川春浪は、ロシアに潜伏していた西郷が日本に帰ってきて大歓迎されるというストーリーの作品を発表しており大人気を博したが、注意すべきはこの作品も決して政府によって発禁処分にされていないということだ。また1891年(明治24)の大津事件の際、来日中のロシア皇太子(後の皇帝ニコライ2世)に斬りつけるという凶行に及んだ巡査津田三蔵は西南戦争に政府軍兵士として参加したが、ロシアとかつての敵西郷がつるんでいたと考えており、それが犯行の動機だったという説を唱える者まで現われた。またすでに紹介したように、芥川龍之介は『西郷は現在も生きているかもしれない』という内容の短編小説『西郷隆盛』を1918年(大正7)に発表している。これは鎮魂行為とはいえないが、西郷不死伝説が後々まで語り継がれていたことの証拠にはなるだろう。
 怨霊信仰の原則をもう一度確認して置こう。『怨念を抱いたまま死んだ人間は鎮魂しなけば怨霊になる』が、『丁重に鎮魂しお祀りすれば善なる霊的存在になる』。それを『御霊(ごりょう)』と呼ぶ。御霊は基本的に神であり『天神(てんじん)』となった菅原道真がその典型だが、大日本帝国は国のために戦って死んだ兵士を『英霊(えいれい)』と讃えた。戦死したのだから基本的に不幸な死であり、それを国家が丁重に祀ることによって怨霊化を防ぐ、という考え方である。当然丁重に祀るのだから彼らの霊は『善なる霊的存在』になる。つまり『英霊』とは『御霊』の近代的表現なのである。
 それを認識していれば、1941年(昭和16)に昭和天皇ですら難色を示していた日米開戦に踏み切った内閣総理大臣東條英機が言ったという『英霊に申し訳ないから撤兵できない』という言葉の恐ろしいほどの重みがわかるだろう。日本が日清戦争日露戦争を勝ち抜き中国大陸に利権を獲得するまでどれほど多くの兵士が死んでいるのか。いまアメリカの要求に従って中国から撤兵すれば、これらの英霊がすべて怨霊と化してしまう。いくら天皇の意向とは言えそれはできない、というのが怨霊信仰の信者でもある日本人東條英機の信条である。
 そして結局戦争は実行され、何百万人の日本人が死んだ。すると日本人は不幸に死んだそれら犠牲者が怨霊と化さないように、『彼らは平和の礎となったのだ』と考える。実際には『鬼畜米英』を倒そうとして志を果たさず死んだ人もいるのだが、それを無視してすべて『平和の礎』つまり『新しい英霊』と考える。
 だからその力によって実現された日本国憲法を変えることは、彼らを御霊化させることだから何が何でも反対する。東條英機に『アメリカと戦争なんてしたら何百万の犠牲が出るかもしれないよ』と言っても聞く耳を持たなかったように、戦後の護憲派は『北朝鮮がミサイルを撃ってきたら何百万人の犠牲が出るかもしれないよ』と言ってもまったく受けつけない。これが日本人の信仰であり、そうした信仰を理解しない限り日本史は決して理解できないのである」
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 日本の宗教風土には、人が死んだら行く死後の世界。俗に言う天国、極楽、浄土や地獄、煉獄などはない。
 黄泉国は、人ならざる者、悪鬼、邪鬼、妖怪、物の怪など魑魅魍魎が住む世界である。
 神の世界と言われる「高天原」は、最高神である女性神天照大神など天つ神が重労働・仕事をしながら生活する神聖な場所であって、人が死んで魂となって行く場所ではない。
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  日本人は、明らかに作り話とわかる占い・神秘談・幽霊話・怨霊話・不死身物語を容易に信じて恐怖する性質を持っている。
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 自然の荒魂は、日本列島の空・大地・川・海を駆け巡って天災を引き起こす。
 人の怨霊は、日本民族日本人の間を駆け巡って人災をもたらす。
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 昔から、怨霊・亡霊・幽霊・悪霊が日本列島・日本国土・日本民族に呪いを掛けている。
 日本の怨霊・亡霊・幽霊・悪霊は、虐げられた、哀れな敗者や弱者達であるがゆえに、その怨み骨髄で相手とその家族を呪い祟って殺した。
 幽霊や亡霊になるのは女性が多い。
 怨霊や悪霊になるのは男性が多い。
 怨霊・亡霊・幽霊・悪霊が成仏できるのは、殺したいほど憎い相手とその家族を全員殺すか不幸のドン底に突き落とした時だけである。
 日本を支配している空気・空気圧とは、怨霊・亡霊・幽霊・悪霊の呪いである。
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 日本の文学・芸能は、怨霊・亡霊・幽霊・悪霊・鬼を反権力・反権威の題材として取り上げ勝利者や強者を懲らしめていた。
 つまり、怨霊・亡霊・幽霊・悪霊・鬼らは敗者や弱者の味方とも言えた。
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 日本の怨霊・亡霊・幽霊・悪霊・鬼は、西洋や中華のモンスターのように誰彼容赦なく虐殺する殺人鬼ではなく、取り憑いて殺す相手は決まっていた。
 ただし、自然の荒魂は違う。
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 日本に於ける2大怨霊は、政争に敗れた菅原道真天満宮祭神)と戦争に敗れた平将門神田明神祭神)である。
 公家・菅原道真は、学識・知識・教養に優れ、天皇に対する忠誠心が人一倍篤かった。
 武士・平将門は、人望があり、戦上手であり、関東の人心の支持を受け、天皇に弓を引き、新皇を自称した朝敵であった。
 怨霊・亡霊・幽霊・悪霊・鬼は、反権力・反権威であり、勝利者・強者に対する宗教的武器であり、敗者・弱者の守護神であった。
 怨霊・亡霊・幽霊・悪霊・鬼を鎮められるのは、天皇の権威のみであった。
 それ以外で鬼に変じた人間は、武将であれば源為朝明智光秀、百姓であれば佐倉惣五郎、奇人であれば平賀源内、盗賊であれば石川五右衛門鼠小僧次郎吉などである。。
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 言霊の真の力とは、言葉で怨霊・亡霊・幽霊・悪霊・鬼を鎮める宗教的威力である。
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 日本国内で死んだと信じられていた英雄豪傑が、実は、中国・朝鮮など大陸で生きていて活躍したという生存説は、根拠のない作り話である。
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 怨霊・亡霊・幽霊・悪霊・鬼を生み出さない方法に、悲運の英雄生存説と涙を誘う歌舞伎などの演劇の題目にする方法である。
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 怨霊・亡霊・幽霊・悪霊・鬼には、百姓一揆の首謀者として武士によって処刑された身分低い百姓もいた。
 百姓の神。
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 怨霊の先にあるのが、天皇・皇室である。
 最強の怨霊は、崩御された天皇の死穢である。
 天皇の死穢を封じ込めたのが天皇陵への土葬であり、仏教伝来後は火葬による仏式葬儀であった。
 血筋・血統に基ずく万世一系男系天皇が行い秘儀とは、天皇の死穢を鎮めて浄化し、天皇の魂・霊魂を日本を守る天皇霊・神霊・御霊に昇天させ、その天皇霊を我が身に取り込む事であった。
 この血筋・血統に基ずく一子相伝的秘儀は、男系でこそ効力があり、女系では不可能であった。
 血筋・血統の大元は、日本の最高神である女性神天照大神である。
 女性神天照大神は、伊勢神宮の祭神であり、現天皇・現皇室の祖先神である。
 天皇・皇室における特殊な血筋・血統、特別な家系・家族とは、そういう意味である。
 それが、民族中心神話と天孫降臨神話である。
 それゆえに、万世一系男系天皇家・皇室における高貴な血筋・血統は神聖不可侵なのである。
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 戊辰戦争のおり、官軍は朝敵の戦死者の弔い、埋葬を禁止し、死体を野晒し見せしめとした。
 明治維新政府は、キリスト教価値観による近代化を推し進める為に、廃仏毀釈で仏教に、神社合祀令で神道国学に、宗教弾圧を行った。
 国家神道は、民族固有の既存宗教を弾圧してつくられた。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、無宗教無神者でありながら占いや験(げん)を担ぐのが好きだが、科学的でない迷信、怨霊の祟り、幽霊の呪い、亡霊や悪霊が取り憑くなどを信じてはいない。
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 忠臣蔵は、現代日本では人気がなく、現代日本人は関心も興味もない。
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 現代日本では、乳幼児の我が子を平然と殺す親や自分より弱い女性や子供を殺す通り魔という陰惨な殺人事件が増え始めている。
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 真っ当な事を語り、口で同情するというが、いざとなったら見捨てて何もしてくれない、それが日本の世間であるからである。
 所詮、他人、分かち合えないのが日本人である。
 日本人とは、御上、権力者や権威者、勝利者や強者に、卑屈なまでに媚び諂い、愛想笑いを浮かべてごまをすり、賢さを認めてもらう為に忖度する、心がねじ曲がった卑しい人間である。
 当然、日本社会は薄情で褒められたものではない。
 日本は、冷たく、誰も助けてはくれない。
 そうした傾向は、高学歴出身知的エリートに多い。
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🌈8)─1─自然破壊の大陸文明と自然保護の島国文明。日本文明は7つの世界主要文明の1つ。〜No.15 * ① 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 サミュエル・ハンチントン文明の衝突
 (世界のおける六つ或いは七つの主要文明)
 西欧キリスト教文明
 ロシア正教文明
 イスラム文明
 ヒンズー文明
 中華文明(黄河文明長江文明・朝鮮文化)
 日本文明(一つの国で一つの大文明を形成している世界で唯一の独立した文明)
 中南米ラテン・アメリカ文明
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 日本文明は、揚子江流域民=現・少数民族による長江文明の後継文明であって、黄河流域民=漢族=現・中国人による黄河文明の亜流文明ではない。
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 文明は、人種・民族・宗教と一体であるが、反宗教無神論マルクス主義共産主義)とは相容れない。
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 西洋諸国は、江戸時代の日本を清国(中国)と同等の世界帝国の一つと認めていた。
 西洋人は、日本天皇の存在を知らないだけに、徳川将軍を大君、皇帝と尊称で呼んでいた。
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*自然破壊の大陸文明と自然保護の島国文明 
 日本文明は、島国特有の補完共生の精神で、森林や河川などの恵みを得て、自然に負担をかけない様に、貧相に近い、慎ましやかな生活を送っていた。
 日本文明とは、島国という閉鎖された空間で生まれた、逃げ出せない文明であった。
 対して。
 世界文明は、大陸気質として、森林を乱伐し河川を征服し、自然を破壊し略奪する事で、贅沢でゴージャスな生活を、誰はばかる事なく自由気ままに満喫していた。
 世界文明とは、大陸という開放された空間に生まれた、逃げ出す事が出来る文明である。
 ヨーロッパ文明や中国文明は、紛れもなき大陸の世界文明である。朝鮮も、また大陸文明に属している。
 安田喜憲「今日のヨーロッパの都市の森は、激しい自然破壊の結果生まれた苦しい体験と反省の産物なのである」(『森林の荒廃と文明の盛衰─ユーラシア大陸東西のフィールドから』)
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 欧州の王族や封建領主は、狩りを行う為に公園としての森林を保護し、公園内への一般人の立ち入りを禁止した。狩猟を行う時は、獲物を追ってどこまでも追跡し、公園を出て農地を踏み荒らすことさえあった。農民が農地と作物を守る為に行く手を遮れば、反逆罪で公開処刑した。
 高貴な上流階級にとって、身分の低い領民は権利を持った人ではなく、牛馬と同等の価値にしか見ていなかった。
 ヨーロッパ諸王国の宮廷は、外敵の侵略以前に、王位を巡って身内での隠謀や暗殺が横行していた。国王や貴族の家長は、身内の反逆者から命を守る為に、外出する時は馬車を走らせていた。
 馬車は、王侯貴族など支配階級の象徴という以前に、暗殺から身を守る為の乗り物である。
 御者は、日頃から馬車を疾駆して走らせていた。時たま通行中の下層民をはねる事があったが、王侯貴族は下層民が重傷を負おうと死のうと歯牙にもかけなかった。
 乗り物に関して、欧州は馬車の文化で有り、日本は牛車の文化である。
 荷物を運ぶのも、大量に荷物を運ぶ為という以前に、盗賊から荷物を守る為に高速で逃げられる馬車が普及した。荷主の荷物を守る為には、通行人を跳ねようと農作物を踏み荒らそうとも走り続けた。
 日本は、全てに非効率の人が押す荷車が主流であった。
 各地の司教や司祭も、特権階級の一員として君臨し、貧困層が虐待を受け、殺害されようとも、餓死しようとも見捨てた。
 農民や市民の生殺与奪の権は、領主や僧侶が持っていた。
 キリスト教圏の欧州諸王国では、絶対神に愛された人とは王侯貴族のみであった。彼等のゴージャスな生活とは、そういう優雅な生活である。
 ミシェル・ドヴェーズ「16世紀前半の歴代の王、すなわちフランソワ1世(在位1515ー47年)とアンリ2世(在位1547ー59年)は、ルイ14世(在位1643ー1715年)以前の諸王のなかで最も精力的にフランスの森林資源を守ったという事ができる。これらの主権者はいずれも狩猟に熱心で、その点で、諸侯と配慮をともにした。換言すれば、広大な林野の防衛に執着していた」
 アシル・リュシェール「ボルドー大司教エリー1世(1187〜1206年)は、ヘンリー2世やリチャード獅子心王がよく使用したガスコーニュ傭兵隊長の弟で兵士達に囲まれて彼の司教区から金を搾り取っていた。……下層階級は単に犠牲者であるばかりではなく、嘲笑の対象でもあった。貴族達にとっては、下層民は劣等な人種で、一切が取るに足らない存在で、その生命もまた何ら考慮を払う必要のない生き物なのである」(『フランス中世の社会─フィリップ=オーギュストの時代』)
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 森林破壊は、ギリシャの昔から行われていた。
 ギリシャ都市国家は、オリーブとブドウの樹を植える為に森林を切り開き、下草を刈る手間を省く為に大量の山羊を狩った。痩せた土地は、さらに栄養をなくして岩だらけの大地となって、穀物や野菜の生産が不可能となって食糧自給率を下げた。
 ギリシャ人は、贅沢品であるオリーブ・オイルと高級ワインを輸出して、穀物などの食糧を大量に輸入した。
 ギリシャの自由民は、特権階級として、同数の奴隷に生産活動を押し付け、政治談義や哲学や演劇やスポーツを満喫していた。古代ギリシャの民主主義は、奴隷の犠牲の上で維持されていた。
   ・   ・   ・   
 大陸文明は、例外なく大量の奴隷を所有していた。
 ローマ帝国は、銀の精錬と鋳造そして公開大浴場の燃料の為に大量の木材を必要とした。イタリア半島の森林が枯渇するや、材木を求めてガリアやイベリア半島遠征繰り返した。
 中世ヨーロッパは、外洋航路の巨大帆船と、金銀財宝をちりばめた豪華な宮殿と、ステンドグラスで埋め尽くされた壮麗な教会の建材にする為に、広大な森林を乱伐した。
 近世ヨーロッパは、建築用レンガを生産する為に森林資源を消費した。
 森林資源が乏しくなったヨーロッパは、石炭を利用して産業革命を起こし、新たな資源を求めてアジアやアフリカに略奪するだけの植民地を、武力を使って獲得した。
 森林破壊に恐怖したヨーロッパ人は、燃料を化石資源に依存して、自然保護を訴えて植林事業を本格化させた。自然破壊の元凶を、開墾して農地を広げ、放牧して下草を食い尽くす家畜を飼う農家に押し付けた。
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 2016年10月号 Voice「永遠の杜(もり) 養老孟司
 ……『永遠の杜』について書く。これは明治神宮の森である。『永遠の杜』とは、この森を計画実施した本多静六の表現である。大正年間に明治天皇を記念して神宮の建設が行われた。同時にこの森が創られた。当時この地はほとんど木の生えていない、草原のような状況だったらしい。
 創建当時、全国から10万本の樹木が献木された。現在は3万6,000本に減っている。それは当然で、木が大きくなって、その分滅びる木が出てくるからである。自然に間引かれてしまう。神宮の創建には政府の意向も大きく関与したであろうが、森はまさに草莽(そうもう)の民の志による。この森の特徴の第一はここにあると思う。戦後風にいえば『民主的』な森である。しかもその後の推移は、まったくの自然に任せている。木々の自然競争といってもいい。東京に森ができるとしたら、こんな森ですよ。現在の神宮の森はそれを如実に示している。
 もう一つの特徴は、この森がまったくの人工林だということである。人工でも100年経てばここまでになる。世界自然遺産に代表されるように、自然というば、いまはまず『人手が入っていない』ことが注目される。しかし人跡未踏ということは、人間には無関係だということでもある。世界がここまで都市化してしまった現在、人工林の育成という課題はきわめて重い。たとえば中国の未来をお考えいただきたい。黄砂は日本にも大量に降ってくる。余計なお世話といわれるに違いないが、中国は尖閣より神宮の森に注目すべきであろう。広い中国に空き地がないはずがなく、そこに植樹する力が北京政府にないはずがない。あとは100年を待てばいい。日本人のヴォランティアが中国に植樹していると聞いているが、根本的にはご本人が本気にならなきゃ、埒が明かない。
 神宮に行ってみると、とにかく人の多いこと。それも日本人だけではない。欧米人から中国人まで、なにを思っているのか知らないが、ブラブラと散歩している。……
 『自然守る』という標語は世界中に広がっている。しかしいったい『なにを守っているのか』。それを意識する人はほとんどいない。『虫を捕るな』などというだけである。神宮の森に科学の調査が入り、その生態系について基礎的な事実が分かったのは、都民が誇るべきことであろう。仮に外国人から森についての質問があれば、詳細な説明が可能となっている。胸を張って答えていいい。猪瀬─桝添─小池と、都知事を野球の投手みたいに途中交代させ、選挙に毎回50億円をかける。でも動植物の各分野の専門家は、ほとんど無報酬で黙々と働く。仕事が好きですから。
 ところで、なぜ神宮に森まであるのか。進士氏はいわれる。『ドイツにも森はあるけれど、神社はないよ』。そのとおり。いわば神社と寺院のおかげで、多くの森が維持されてきた。社叢林(しゃそうりん)という成語があるくらいである。聞く耳さえあれば、森は人になにか大切なことを語りかける。その一端に触れたければ、伊藤弥寿彦・佐藤岳彦『生命の森 明治神宮』を見ていただくといい。」





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🌈7)─1─日本文明と世界文明の違い。~No.12No.14 *

和の文明の源郷 縄文

和の文明の源郷 縄文

  • 作者:木原 秀成
  • 発売日: 2016/09/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本文明と世界文明は、水と油の異質な文明である。
 日本文明は、海洋民の文明である。
 世界文明は、大陸民の文明である。
 日本文明は、三元論である。 
 世界文明は、二元論である。
 日本文明は、森林の中にある、草木の緑と湧き出る水と風に揺れる木漏れ日である。
 世界文明は、砂漠の中にある、オアシスの周囲に自生する緑と清涼の乾いた空気と照りつける灼熱の日差しである。
 日本文明は、自然災害多発地帯で自然発生的に積み上げられて生まれた。
 世界文明は、自然災害の少ない地帯で理論的に設計され建設された。
 日本文明は、自然対応である。
 世界文明は、人間対応である。 
   ・   ・   ・    
 日本民族の日本神道における最高神は、女性神であり、母神である。
 人類の普遍宗教における最高神は、男性神であり、父神である。
    ・   ・   ・  
 人間の理想像は、日本では浮世絵の美人画であり、世界ではギリシャ・ローマの男性大理石像であった。
 文化における芸術的肉体美は、日本では女性の肉体であり、世界では男性の肉体であった。
   ・   ・   ・    
 日本とは、発育途中にある未熟で幼い少年少女である。
 世界とは、成長し成熟し完成された大人である。
   ・   ・   ・    
 物語の主人公は、日本では少年少女や女性であり、世界は大人や男であった。
   ・   ・   ・    
 生きるのは、世界では個の一人であり、日本では集団の複数だある。



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日本文明とは何か (角川ソフィア文庫)

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皇室の本義 日本文明の核心とは何か

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