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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・
2016年1月16日・23日合併号「アースダイバー 古層Ⅱ 倭人系 中沢新一
神社編 アヅミの神道 (1)
さまざまな海人
ひとくくりに『倭人』といっても、日本列島に渡ってきた倭人を構成していたグループは、多様である。伝統的に漁労を得意とする海人であっても、海岸伝い、島伝いに、北への移動を開始した頃には、揚子江下流域で開発された水田稲作を取り入れて、半農半漁の生活形態をとるようになっていた。そのために、倭人の生業のうちで、農と漁の占める割合は、グループごとにさまざまである。
多くの倭人がしだいに、農に重きをおくようになったのにたいして、漁や航海を中心とする、海人的な生活形態を続けたグループもあった。彼らは時間がたつにつれて、独自のまとまりを見せるようになっていった。農のほうに重きをおいた倭人は、しだいに海人としての特徴を失っていったが、漁や航海で生きる道を選んだ倭人たちには、海洋民独得の心性が強く残った。
アズミと呼ばれる人々
この人たちは、自他ともに許す『海に住む(アマスミ)』の人々になっていった。そのうちもっぱら彼らだけが、『海人』と呼ばれるようになっていったのだが、もともとは倭人そのものが海人だったことを、忘れてはいけない。
こうした海人に、大きく分けて3つのグループがあった。アヅミ(安曇)、スミヨシ(住吉)、ムナカタ(宗像)である。スミヨシとムナカタは、得意の航海技術を生かして、人や物資の運輸に携わる技能集団となっていった倭人である。これにたいしてアヅミは、漁にを重きをおく半農半漁スタイルを発展させて、列島の広い範囲に広がっていった生活集団である。
アヅミは、もともとは、『海に住む』人々という、一般的な呼び名だったようである。古代語では、天も『アマ』であるし、海も『アマ』である。その『アマに住む=アマスミ』人々がなまって、アヅミになったと推測されている。しかしそれならば、アズミと発音されるはずであるが、なぜか熱海、渥美などのような、アヅミ関係の地名を見ても、いずれもアヅミと発音されている。
これは思うに、彼らの祀っていた神に関係がある。アヅミ族は『穂積(ほづみ)』『穂高見(ほたかみ)』のような、『稲を高く積み上げた』という意味の名前をもつ、神さまを祀っていた。こうした神名はあきらかに稲作と関わりをもつ。海に生きるアヅミ漁民は、同時に稲作をおこない、庭に穂を積み上げることを願う農民でもある。アズミではなく、アヅミと呼ばれるところに、私は彼らの心の中の半農半漁性を、強く感じてしまう。
このアヅミ族が、日本列島に広がっていった海人的倭人の、じつの姿である。紀元前数世紀以前から、彼らは潜水漁法を組み込んだ漁の技と、水田稲作の技を携えて、日本海側と太平洋側に別れて、沿岸伝いに日本列島をなめるように移動していった。
大きな川の河口部からは、内陸にも深く入り込んでいった。日本人が伝統的に、たとえ内陸部に住む農民であっても、宴会には海の幸を欠かせないものと考え、祭りでは船をかたどった壇尻(だんじり)を引き回すといった、いちじるしい海洋性をしめすのは、そのためである。いまではアヅミとの関わりなどまったく感じさせない内陸部の日本人も、もとをただせば、『海に住む』人々の末裔なのだ。この列島の住民は、農民であっても、海人の本性を失わなかった。
志賀海神社 (1)
アヅミ族の初期の拠点が、福岡県糟屋郡の新宮である、と言われている。その近くには、同じ海人系ムナカタ族の拠点である、宗像神社もある。糟屋の海岸部には、倭人の中でも海人性の強い人々の住む漁村がいくつもあった。博多湾の西部では、大規模な水田開発が進んでいったが東部では、海人的な生活を続ける人々が、まだ多くいた。
アヅミ族は海岸部にいくつもの漁村をつくり、少し離れた海の孤島・志賀島に、自分たちの聖所を設けた。そしてこの島にも、神官や巫女だけでなく、多くのアヅミ漁師の暮らす漁村ができていた。この島は、博多湾の東で海に突き出ている、中道(なかみち)という砂洲によって、陸地と結ばれている。昔は中道の先端部からさきは、ふだん海に沈んでいて、潮が引いた時だけ、志賀島とつながった。
志賀島という地名は、動物の鹿と深い関係を持っている。もともと鹿がたくさんいたこの島では、『海の狩人』であるアヅミは、『山の狩り』である鹿の狩猟もおこなっていた。鹿は山の神の使いでもあるから、鹿を仕留めたあとは、厳重な『動物霊の送り』の儀式をおこなっていた模様で、そのさい聖所に殺した鹿の角を納めた。
この鹿儀式のおこなわれた古代聖所に、のちに建てられたのが、志賀海神社であり、この地にはそののちも、鹿を狩猟したらその角を神社に奉納するという風習が、地域の伝統として残ることになった。そのため、社殿の脇には、奉納された何千本もの鹿の角が詰め込まれた庫(くら)が、建てられている。
三位一体の磯良(いそら)
志賀海神社の宮司職は、大々安曇家の世襲によって守られてきた。氏子の多くも安曇の一族で構成され、祭祀のほとんどすべてが、安積氏によって取り仕切られてきた。注目すべきは、その御祭神である。底津少童命(そこつわたつみのみこと)、中津少童命(なかつわたつみのみこと)、表津少童命(うわつわたつみのみこと)の三神が、御祭神である。『少童』と書いて、『わたつみ』と読ませているが、アヅミ族の伝承を考えれば、あきらかにこれ渚の少年である磯良のことを指している。じっさい、中世には志賀明神というものが登場してくるが、この神はじつは安曇磯良のことである、と古伝には言われている。
底、中、表と三分割された少童命は、そのまま統合されて磯良という神格に収まるのである。私たちはおなじむの、海人的三位一体論の再登場である」
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日本民族の民族性は、大嵐で遭難すれば一緒に海の藻屑となる船で生きる定めに由来する。
船乗りは、一蓮托生の船の運命からは逃げられない。
日本丸の船長は能力によって時代によって代わる事があるが、仰ぎ見る旗頭はただ一つ、言葉多く発しないけれど有るべき姿・進むべき有り様を体現する神格性を帯びた祭祀王・天皇である。
日本のリーダーとは大陸のリーダーとは異なり、船長と旗頭は一緒ではない。
船の針路を決めるのは、船長であって旗頭ではない。
旗頭は、船長が風を読み間違えて船を難破させないようにするする為に、天候と風向きを「はためき」ながら正しく指し示す存在に過ぎない。
「はためき」は、詔であって命令ではない。
実際に、航路を決めて舵を切るのは船長であり、船を進めるのは船員である。
船員(日本民族日本人)は、船長の判断が誤って船を遭難させても、旗頭が不動の存在として風向きを正しく示していれば、旗頭の示す方向に有るべき方向に破損した船を引き戻し、難破した船の前例を教訓として修繕し別の船に改造して、新な時代に合った船長を定めて船の舵取りを委せて未来・将来に向けて航海を続けた。
船は、未来・将来に向けて船出して未知の航路を暗中模索で航行する乗り物であって、良港に停泊して船出しない船は無用の長物として腐って朽ち果てるしかない。
二度と同じ遭難を繰り返さない、それが船員の生き残りの知恵であった。
船員は、船板一枚のその下は絶対に助からない地獄と知っていただけに、生き残れるように神仏の御利益を期待しつつも、大嵐という運命を受入れ、遭難したらいきなり陸地が現れて助かるような奇跡や救済を信用しなかった。
海の上では、神仏の御利益はあっても、神仏の奇跡や救済はなかった。
そもそも、船を遭難させるような大嵐は二つと同じものは存在せず、絶えず経験した事のない条件下の大嵐であった。
日本の歴史には大嵐と同じように瓜二つは存在せず、よって日本の歴史は繰り返す事はない。
旗頭である天皇は、俗世の外で神聖を帯びた存在として神聖不可侵であらねばならない。
船長はその時々の能力者・実力者が個人欲でなればいいが、旗頭だけは誰でもいいからなればいいというものではなかった。
船長と旗頭が一緒なのがアメリカであり、旗頭が船長を拘束したのが共産主義であった。
一神教のキリスト教も、旗頭が船長を支配し指導する構造であった。
故に、アメリカも共産主義勢力もキリスト教も、風向きだけを指し示す曖昧な存在である旗頭である天皇制度を否定し廃絶しようとした。
先進国、大陸国で、日本と同じ環境や性格を有している国家や国民は存在しない。
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2016年3月5日号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
古層Ⅱ 倭人系 神社編
アズミの神道(8) 穂高神社(4)
……
道祖神の里
安曇野には、ときどき息を呑むほどに野性的な、性の文化が息づいてきたのである。それも海人族の原郷である、南方海洋的な性の文化である。安曇野は、みごとに彫刻された、男女2人立ちの道祖神(双体道祖神)の石像が名高い。この道祖神こそ、その南方的な性の文化の、最高の表現者なのである。
道祖神はいまだに謎の多い、路傍の神さまである。神社には祀られない。Y字の形をなした地形を好んで、祀られることが多い。神社の神さまと鉢合わせしないように、旧正月の宵に祭りがおこなわれるが、そのとき道祖神を覆うようにして藁の小屋(オカリヤ)がかけられ、そこに藁でつくった巨大な男根形が、差し込まれる。
夜になると、オカリヤに火が放たれる。オカリヤは仮屋と男根の隠語であるカリをかけたもの。雑穀からつくった餅を火であぶりながら、信州の人々は、夜空に向かって、底抜けに卑猥な伝承歌を大合唱したものである。
この道祖神は、仲良く並んで立つ男女の姿で描かれる。とくに安曇野に残された双体道祖神の石像には、みごとな出来栄えのものが多く、いかにもほほえましい愛の像を写真に収めているカップルのなかには、『まるで私たちみたい』と思っている方々も多い。
あいかし、ほんとうに『私たちみたい』だろうか。この道祖神に関して、信州や上州の人々は、つぎのような説話を語り継いできた。
『昔あるところに2人の兄妹がいた。やがて年頃になったので兄は妻をさがしに、妹は亭主をさがしに、2人は別れて求縁の旅に出た。2人とも長い旅を続けたが、これはという相手に出合えなかい。ところがある所で2人が出合う。兄妹と知ることなく、お互いが相手のことを好きになり、2人は夫婦の契りを結ぶ。男は自分の故郷に女を誘い、何日も旅をして、男の故郷にたどり着いてみると、なんとそこは女の生家でもあった。2人はこのときはじめて兄と妹であったことを知り、驚愕する。嘆きのあまり、2人は抱き合って淵に身を投げて果てた。これを哀れんだ村人が、抱き合う2人の姿を像に刻んで、路傍に立てて道祖神とした』(『山村』第二号、昭和9年より)
道祖神となった2人の兄妹は、じつに過激な行動者なのである。血縁においてもっとも近い2人が、空間においてもっとも遠い所へ行き、そこで結合する。この結合は社会的なショート(近親相姦)を引き起こしてしまう。心中してふたたび遠い所へ去ってしまった2人を記念して、村人は道祖神の像を刻んだ。その道祖神の像の前で、信州の人々は、あけすけなエロティシズムの祭儀をおこなってきた。
海を越えたパンク
石像の中でほほえましく立ち並んだ2人の姿からは、とても想像できないことだが、この兄妹はふつうの人たちのように、万事を適切な距離のところで折り合いをつけることを拒否して、過激な性の冒険に身をさらした、古代におけるパンクなのだ。極端に遠いか、極端に近いか、さもなければ死である。
道祖神の2人は『私たちみたい』どころか、臆病な『私たち』とはおよそ似ていない。しかし2人のしたことは、人類の隠された欲望の具現化にほかならない。人類は社会をつくるために、多くの欲望や夢を、自分の無意識の底に埋葬せざるをえなかった。その無意識を、なにげない表現に託して、路傍にさしておくのが道祖神だ、信州に広く祀られている。双体道祖神の石像の背景には、海人族の大胆な欲望や夢が隠されている。
双体道祖神をめぐる説話は、安曇野や松本平を中心とする海人系の人々の移住地であろうと推定されている地域に、濃厚に分布している。それどころか、何人もの民族学者や神話学者によって、その説話が、中国南西部に住むいわゆる少数民族のものとで伝えられている、『洪水のあとに生き残った兄妹』の神話の仲間であることが、確認されている。この説話も、アズミの人々とともに、海を渡ってきたことは、まちがいない」
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4月30日号 週刊現代「アースダイバー 神社編
アズミ神道 (14)
太平洋岸を進む海人(4)
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落下する火龍
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アフリカ的火祭り」
那智大社は、山頂の付近から落下する、お滝への素朴な信仰から発展した。中世の那智参詣曼荼羅図には、滝の脇に神鹿の姿が、くっきりと描かれている。この鹿はただちに北部九州のアズミ族の拠点、志賀島における神の鹿の信仰を思い起こされる。
那智大社の火祭りは、夏至近くの7月14日におこなわれる。別名が『扇祭り』。大松明とともに、扇が取り付けられた独特な神輿が、祭りの主役となるからである。ここでは、火祭りなのに昼間に行われる。那智の滝に向かって下っていく石段を、12基の扇神輿がおごそかに下りてくる。それを迎えるべく、滝口からは12本の大松明が石段を登っていく。扇と松明は、石段の途中で出会うように仕組まれている。
まだ学生だったとき、私は仲間とともに、アフリカの文化人類学者ヴィクター・ターナーを案内して、この那智の火祭りを訪れたことがある。ターナーはアフリカの部族の祭りの研究で著名である。部族の祭りに潜む、性的なシンボリズムを嗅ぎ分けることにおいては、天才的な能力の持ち主であった。
那智の火祭りを前にして、人類学者は興奮した。祭りの進行に合わせて、彼は大声で吠えるように、私たちに『解説』をした。白い装束の男たちが手にする赤い松明の火は、白=精子、赤=経血のならいで、性交と受胎を象徴する。いや、こうも見える。上昇する松明の火(男)と、落下する滝の水(女)が、交わり結ばれて、受胎をおこすのだと。見よ、大きく開いた扇の形を。あれは女性性器そのものである。その扇神輿のてっぺんの造形がまたすごい。あれはまさしく太陽である。開かれた扇の先から、太陽の子供が生まれている。なんとも、アフリカ的な祭りではないか。日本人の想像力はアフリカ直系か!
真夏のこの祭りでは、12個もの太陽の子供が産み落とされ、巨大な母胎ともいうべき山から、しずしずと出現してくる。たくさんの太陽という、環太平洋神話学における重要主題の再登場である。」
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5月7・14日号 週刊現代「中沢新一 アースダイバー 神社編
古層Ⅱ 倭人系
アズミ神道 (15)
海人の伊勢湾
伊勢湾の入り口にあたる伊良湖(いらご)崎と大王崎は、日本の民俗学にとって、大いなる啓示の場所である。
伊良湖崎に旅した若き日の柳田国男は、浜辺に打ち寄せられた椰子の実を見た。椰子の実は、黒潮にのって南方の島から流れ着いていた。柳田はそのとき啓示を受けて、日本人のルーツが南方海域の島々にあることを確信した。
折口信夫もその若き日に、大王崎の突端に立っていた。まばゆい光に包まれた海を見ていた彼は、電撃に打たれたように、『マレビト』の思想を得た。南方海域からこの列島たどり着いた日本人の祖先は、自分たちの魂の原郷は遠い海の彼方にあると信じたにちがいない、という啓示である。
柳田も折口も、日本人の出自を南方に求めた。この2人の直観は、いまもって正しい。その直観を2人に与えた場所が、期せずして伊勢湾口であったということが、まことに意味深長である。じっさい、伊勢湾そのものが、日本人にとって古代から重要な意味をもつ土地であったからである。
その土地を発見したのは、南紀から海岸沿いに、紀伊半島をぐるりと回って、伊勢湾の入り口に達した、倭人系海人たちであったはずである。彼らは伊勢湾の自然の豊かさに驚いたに違いない。倭人系の海人は、潜水(かずき)漁法を得意とした。アワビやサザエやトコブシが、豊かに繁殖するこの湾は、まさに海人の生活にはうってつけの土地であった。
潮騒の神島
伊勢湾には、多くのアズミ(海に住む人)やアマ(海の民)が移住して村をつくった。この倭人たちは、海岸部に多くの原始的な聖所を設けた。そうした聖所は、ほかの土地に住んだ海人たちのものと、初めの頃はそう違うものではなかったが、のちになると独特の展開をとげて、伊勢は日本人の神道の中心地へと発展していく。
リアス式に入り組んだ志摩の入り江を見つけた倭人集団は、さっそくそこに聖所を設け(いまの伊雑宮(いざわのみや)あたりである)、みずから『磯部(いそべ)』を名乗っていた、志摩地方の重要な海人となった。これにたいして、鳥羽から伊勢にかけての海岸部に上陸して拠点を築いたのは、『度会(わたらい)』の一族である。
度会一族の聖所は、宮川のほとりに設けられた。そこには数世紀のちに、天照大神という太陽女神の聖所である、伊勢神宮内宮が建てられることになるが、度会一族が設けていた聖所は、おそらく社殿もなく森だけのある、きわめて原始的な『杜(もり)』だったことが想像される。この磯部と度会という二つのイエ集団が、伊勢を最初に開発しだした、主要な倭人=弥生人ということになる。
しかし伊勢湾口には、もうひとつ重要な海人集団がいたことも、忘れてはならない。神島(かみしま)の海人である。彼らは歴史にはほとんど関与しなかったが、海人の文化伝統の律儀な保管者になるという、ことによると歴史よりも貴重な意味をもつ、大切な使命を果たしてきた人々である。
……
ゲーター祭(1)
志摩の伊雑宮や伊勢の度会氏の聖所は、3・4世紀頃から、ヤマト王権からの文化的・政治的影響によって、原型的な倭人神道からの変質をとげてしまった。ところが神島の神道は、伊勢神宮との結びつきを保ちながらみ、古い倭人の伝統を保ち続けてきた。伊勢神宮では、倭人的な太陽祭祀に、ラジカルな変形が加えられて、原型はほとんどわからなくなる。
南紀から伊勢湾口に移動してくると、太陽祭祀の形は劇的な変化をおこす。古座や那智や新宮の太陽祭祀で表現されていた『太陽の子供』という考えが、神島ではまったく異なる、逆転した表現をあたえられるようになりのだ。それは、洗練された伊勢神宮祭祀の対極にあるような、『野性の思考』丸出しの自然児ぶりである。
神島の太陽祭祀は、真冬の季節におこなわれる。大晦日から元旦にかけての『ゲーター祭』と、正月6日におこなわれる『弓祭』がその中心となる。準備は12月中頃からはじめられる。松明をつくるための松の伐(き)りだし、『アワ』と呼ばれる太陽模型の材料となるグミの枝伐り、このアワを突き立てるための3〜4メートルもある女竹の伐りだしなど、若者たちは連日のように、裏山に入っての作業に明け暮れる。
アワづくりの作業がはじまる。集められたグミの枝をたわめて、大きな丸い輪をつくるのである。このアワを『日輪』という人もいるし、『蛇体』と推理する研究者もいる。ゲーター祭には、太陽、蛇神、海神というすべての倭人神道の要素が集合して、太陽祭祀の原始形が構成されている」
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2017年5月7日 産経ニュース「【産経抄】元寇、日露戦争…日本に加護与えた「神宿る島」、世界文化遺産登録へ 5月7日
洋上から望むこの島は、司馬遼太郎の目に「巨大な岩礁」と見えた。切り立つ崖は岩肌を真下の海に落とし、周囲にひらめく白い潮(うしお)は、島がよって立つ絶海を難所に変えた。九州本土からは約60キロ、玄界灘に浮かぶ沖ノ島(福岡県宗像市)である。
▼日本から遠く朝鮮半島や大陸を目指した先人にとり、島から先の無事は神頼みだったろう。福岡県出身の作家で写真家、藤原新也さんが書いている。「とりつく島もない、茫洋(ぼうよう)とした海の彼方に現れた“とりつく島”であり、すなわちそれは神そのものなのである」(小学館『神の島 沖ノ島』)。
▼またの名を「不言島(おいわずじま)」とも呼ぶ。島での見聞は口外無用、一木一草の持ち出しもならない。不浄の持ち込みもご法度で、上陸の際は裸体を海で清めるという。宗像大社の「沖津宮(おきつみや)」として島そのものが崇拝されてきた神体島である。
▼絶海と禁忌が守り続けたのは、神国思想の足跡かもしれない。昭和29年から46年にかけての調査で発掘された4〜9世紀の舶載品や遺構は、航路の安全を願う国家的祭祀(さいし)の変遷などを物語って、貴重だという。沖ノ島が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録される運びとなった。
▼島は海路の要衝であり防壁でもあった。元寇では神風が蒙古軍を本土から遠ざけ、司馬も描いた日露戦争では、連合艦隊がロシア艦隊を退けた日本海海戦も同島の近海を舞台とした。今日の繁栄は「神宿る島」のご加護でもあろう。
▼余談ながら宗像大社の手水(ちょうず)鉢には「洗心」と刻まれている。沖ノ島の調査を主導した出光興産創業者、出光佐三の揮毫(きごう)である。自らの足跡をたたえた記念碑建立の話を蹴り、ひそかに手跡を残したらしい。そんな先人の陰徳にも光が当たるといい。
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倭人となった縄文人は、朝鮮半島や中国大陸の黄河流域から渡って来た渡来人ではなく、台湾や沖縄や揚子江流域から海を渡って来た人々である。
漢族系中国人とは、黄河流域住民の事である。
揚子江流域住民の人々は、漢族系中国人ではなく非漢族系少数民族である。
日本人の祖先である倭人は、中国人でもなく朝鮮人でもない。
倭人は、特定の優秀、有能な母親ミトコンドリア遺伝子を受け継いだのではなく、優秀・劣等、有能・無能に関係なく数多くの雑多な母親ミトコンドリア遺伝子を受け継いだ雑種・混血児であった。
上下関係の弱い古代社会で生きていた人類は、動物のように子孫を残す主導権はオスではなくメスにあった。
メスは、子供への愛情は強かったが、オスへの愛情は少なかった。
オスは、自分の子供を産み育ててもらう為に、餌となる獲物を捕らえて届け、メスと子供を命に懸けて守った。
オスが命を犠牲にしてメスを守るのは、愛情ではなく義務であり責任であった。
倭人のミトコンドリア遺伝子には、そのメス優位の野性的生存本能が濃く残っている。
倭人の特技は倭人のものであって、朝鮮人や中国人の渡来人が持ち込んだ特技でもなければ倭人に伝えた特技でもなかった。
海人や海女は、海水温が低い朝鮮半島周辺海域や黄海及び渤海湾には存在しなかった。
北方系草原民である黄河流域や朝鮮半島の住人にとって、海とは縁がなく、ないどころか地獄、死そのもので忌み嫌う場であった。
この点で、南方系海洋民の子孫である日本人は北方系草原民の子孫である中国人や朝鮮人に感謝する必要なはい。
が、草原的生活の知識と技術を伝えてくれた事は確かであるから、その点は感謝すべきである。
朝鮮人と中国人の持ち込んだ母親ミトコンドリア遺伝子は、倭人母親ミトコンドリア遺伝子の中の1つに過ぎず、優位にある母親ミトコンドリア遺伝子ではなかった。
日本人は、中国人や朝鮮人の100%の子孫ではなく、中国人と朝鮮人の一部を受け継いだに過ぎない。
ただし、自分は中国人や朝鮮人の子孫だという日本人は、確かに倭人・縄文人・弥生人の子孫ではなく中国人や朝鮮人の子孫であろう。
日本民族とは、人種・民族・宗教・文化・言語など全てに偏見を持たず、差別せず、排除せず、疎外せず、虐げず、平等と公平をもって内包した民族である。
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