🎑30)─2─万葉賛歌。日本天皇の万葉王朝始祖。〜No.77No.78No.79 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
 2019年6月11日 産経新聞「【万葉賛歌】時代の歌(1)「万葉王朝の始祖」高らかに
 「万葉集」の舞台となったかつての大和。畝傍山(手前)、耳成山(左端)、天香久山(右奥)の大和三山が優美な姿を見せる=奈良県橿原市、明日香村周辺(本社ヘリから、彦野公太朗撮影)
 関西で暮らし始めて40年以上になるが、歴史好きの客を案内する定番コースがある。奈良市平城宮跡(へいじょうきゅうせき)を起点に南へくだり、三輪山山麓から藤原宮跡、飛鳥へと足を延ばす。日本という国の誕生を実感できる旅だからだ。
 新元号「令和」によって注目されている「万葉集」4500余首の歌の冒頭は、別掲の雄略(ゆうりゃく)天皇長歌で始まる。うらうらとした春の岡、若菜を摘む若い女性がいる。生命のきらめきの象徴のような彼女に向かって名を名乗る、つまり結婚を申し込む「我(われ)」は、大和を治める王者。堂々たる風格が伝わってくる。
 だが雄略天皇は、5世紀後半に生きた人物である。いわゆる万葉歌が詠まれた7世紀後半から8世紀の人々にとっては、はるかに遠い昔。しかも、実際に雄略天皇の作である可能性は限りなく小さい。
 ではなぜ、この歌が万葉集の冒頭に据えられ、雄略天皇の御製(ぎょせい)(天皇の作)とされたのか。研究家の多くは「8世紀の人々が今の天皇家の直接の始祖は雄略天皇と認識していたからだ」とみる。
 雄略天皇(大泊瀬稚武天皇(おほはつせわかたけるのすめらみこと))は系譜上第21代に数えられ、西暦478年、中国の宋に使節を派遣した倭王「武(ぶ)」にあたるとされる。埼玉県行田市(ぎょうだし)の稲荷山古墳から出土した鉄剣に「ワカタケル大王」の名が刻まれ、実在が証明された最初の天皇でもある。
 日本書紀雄略天皇について、皇位継承のライバルを次々殺害する「暴虐王」の面と、葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)と語り合うなど「徳ある王」という相反する性格を持っていたと描く。大和政権の版図が東国から九州まで拡大したことや官僚制の萌芽(ほうが)も確認でき、歴史家の多くが「雄略朝こそ古代の画期」と考えている。
 「籠もよ~」に続く万葉集の2番目は、第34代舒明(じょめい)天皇の《大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山(かぐやま) 登り立ち~》で始まる、いわゆる「国見(くにみ)の歌」である。舒明天皇は天智、天武両天皇の父で、持統(じとう)天皇には祖父にあたる。
 まさに、雄略から続く皇統の正統性を強調した歌の配列といえるだろう。万葉集は、天智、天武天皇が懸命につくりあげた日本の古代国家(律令国家)の完成を言祝(ことほ)ぐ歌集なのだ。
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 籠(こ)もよみ籠(こ)持ちふくしもよみぶくし持ちこの岡(をか)に菜(な)摘(つ)ます児(こ)家(いへ)告(の)らな名告(の)らさね
そらみつ大和(やまと)の国はおしなべて我(われ)こそ居(を)れしきなべて我こそいませ我こそば告らめ家をも名をも(巻1-1)
 【口語訳】
かごも、よいかごを持ち、へらも、よいへらを持って、この岡で若菜を摘んでおられるおとめよ、家をお告げなさいな、名を名のりなさいな。(そらみつ)大和の国は、ことごとく私が治めているのだ、すべて私が支配しておられるのだ。私こそ告げよう、家も名前も。
岩波文庫版「万葉集」から)
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 新元号の出典となった「万葉集」。ゆかりの地を訪ね、最古の歌集が編まれた時代背景と、わが祖先が国づくりにかけた苦闘のあとを探ります。(客員論説委員 渡部裕明)」
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 6月12日 産経新聞「【万葉賛歌】その時代(2)大敗戦からの国づくり
 熟田津の場所は三津浜説、重信川河口説などがあるが確定していない。戦争の危機が迫る中で斉明女帝らも心を震わせながらの出航だったのだろう =松山市三津浜港(鳥越瑞絵撮影)
 「万葉集」には古代国家への産みの苦しみに関連した歌がいくつかある。中でも最大の苦難は、第38代天智天皇の2(663)年、朝鮮半島西南部の白村江(はくすきのえ)で唐・新羅(しらぎ)連合軍と対決しての大敗戦だろう。
 ここへ至ったのには、4世紀以降の長い歴史がある。日本(倭国)は国内で産しない「鉄」や最新の文化を求めて朝鮮半島に渡り、国々の抗争に巻き込まれていった。友好関係を結んでいた百済(くだら)は西暦660年、唐・新羅連合軍に攻められ、都が陥落する。
 ときの斉明(さいめい)天皇と嫡男、中大兄皇子天智天皇)は長年の友誼(ゆうぎ)を重んじ、百済を支援するため3万近い軍勢を派遣する決意を固めた。さらに女帝は68歳の高齢をおして、前線基地の九州に赴いたのである。
 別掲の歌はこの遠征の途中、滞在先の石湯行宮(いわゆのかりみや)(松山市道後温泉付近)を出発するおりに、額田王(ぬかたのおおきみ)によって歌われた名歌である。熟田津(にきたつ)の場所については諸説があるが、瀬戸内海に面した港湾だったのだろう。
 昼間ではなく、なぜ暗い夜に船出したのか。謎に迫ったのが、今年2月に亡くなった古代史家、直木孝次郎さんの論文「夜の船出」である。瀬戸内海特有の陸風(海に向かう風)が吹き始める夜を待って出航したというのだ。
 何より疑いないのは、この出航が緊迫感にあふれていたことである。石湯行宮での滞在自体、約2カ月にも及んでおり、軍勢の確保にも難航していたのだろう。歌には、ともすれば不安に駆られがちな兵士らを鼓舞し、奮い立たせる意味あいが込められていた。
 にもかかわらず、九州に着いた斉明女帝は間もなく体調を崩し、7月には崩御してしまう。中大兄皇子即位式も挙げないまま指揮を執ったが、2年後の白村江の決戦では惨敗してしまった。
 「唐軍は勢いに任せて侵攻してくるかも…」。中大兄らは恐れ、亡命してきた百済人技術者らの指導で、対馬から瀬戸内海沿岸にかけて山城(やまじろ)や烽火台(のろしだい)を設けた。さらには、都を近江(大津市)に移している。
 亡国の危機を脱したのは偶然でしかなかった。朝鮮半島新羅が唐を追い出す戦争を始めたからである。しかし天智天皇は敗戦を重くとらえ、唐にならった中央集権の国づくりに邁進(まいしん)した。そして彼の死後、志は同母弟である天武天皇やその皇后だった持統天皇に受け継がれる。(客員論説委員 渡部裕明)
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熟田津(にきたつ)に船乗(ふなの)りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕(こ)ぎ出(い)でな   (巻1-8)
【口語訳】
熟田津で船に乗り込もうと月の出を待っていると、潮も、船出にちょうどよくなってきた。さあ、今こそ漕ぎ出そう(岩波文庫版「万葉集」から)」
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🌏28)─1─大日本帝国憲法と皇室典範の隠れた意図とは、天皇を封じ込める事であった。〜No.85No.86 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 近代日本が天皇に求めた帝王学とは、先頭に立って国民と国家を引っ張っていく強力なリーダーシップではなく、国民と国家の中心にあって祈りと癒やし・励まし・慰め、そして勇気をもたらすカリスマ性であった。
 日本人が最も嫌がった天皇像とは、個性が強く、強力なリーダーシップを持ち、自分の意志で国民や国家の先頭に立ち前に出て行動する天皇であった。
 昔の日本が求めた理想的天皇像とは、リーダーシップを持たないカリスマ天皇であった。
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 明治新政府が考え天皇とは、操り人形としての「決められない天皇」であって、孝明天皇後醍醐天皇のような「決められる天皇」ではなかった。
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 天皇の親政は、嘘である。
 現代の歴史教育は嘘である。
 現代の歴史常識の多くは嘘である。
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 明治以来の近代政府が国民を信用していなかったのは、当たり前、当然の事であった。
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 明治天皇は、日清戦争日露戦争には反対であった。
 大正天皇は、第一次世界大戦やシベリア出兵を憂いていた。
 昭和天皇は、平和を希望し、満州事変、日中戦争・太平洋戦争の回避を望んでいた。
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 現代の日本史は、1946年のキリスト教の原罪史観と共産主義階級闘争史観による東京裁判史観、1980年代の日本人極悪非道な重犯罪人史観による自虐史観で毒され、改竄・捏造・歪曲されている。
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 2019年5月16日号 週刊新潮「夏裘冬扇  片山杜秀
 決められる天皇と決められない天皇
 昔、岩倉具視は500円札で、伊藤博文は1000円札。板垣退助はというと100円札だった。
 板垣は自由民権運動の立役者。戦後民主主義と相性がよい。戦後すぐ、御札に登場した。でも御札は額の多い方が嬉しい。肖像にも、額面ゆえの格の違いが、どうしても生じる。岩倉や伊藤は、額面から換算すると、民主主義の英雄、板垣の、5倍も10倍も偉い。なぜか。この2人が、明治この方の国のかたちをよくデザインしたからだと思う。『天皇の国、日本』のかたちを。
 岩倉は公家だった。天皇征夷大将軍的存在に再び押し返されることのない国作りを目指した。伊藤は長州藩士だった。天皇を担ぎつつ、自分たちの権力が長続きする国を望んだ。
 そのためにどうする?天皇の偉さを、盤石の重みをもって、国民に刷り込まねば!その決定打が、天皇から国民に一方的に下しおかれる形式を取った、大日本帝国憲法だった。岩倉と伊藤のアイデアの結晶と言ってよい。第一条は『大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス』。
 だが、それだけでは駄目だ。国民を天皇で縛るだけでなく、天皇を法で律するべきだ。
 維新の元勲たちには苦い経験があった。幕末の動乱に大活躍してしまった孝明天皇のことである。この帝(みかど)は何としても攘夷を実行せよと強く意思表示した。孝明天皇が、現実には不可能な西洋諸国打ち払いを唱え続けたゆえに、幕末の大混乱が生じたとも言える。そして、もしも天皇が先頭に立って攘夷大戦争を敢行していたら、きっと敗れ、天皇は責任をとらされて、天皇制の存続に関ったかもしれない。天皇を滅ぼしうるのは、反天皇主義者よりも、しばしば天皇自身だ。
 なぜ、そうならなかったのか。孝明天皇が突然死したからだろう。そして、周囲の言いなりになってくれる、まだ子供の明治天皇が即位したからだろう。
 親政に失敗すれば天皇制崩壊の危機。岩倉は孝明天皇の再来を恐れた。伊藤はといえば、そのうち大人になる明治天皇の政治参加を恐れた。自分たちが勝手をできなくなるからである。
 『男は黙って◯◯ビール』。昔の三船敏郎のCMだ。それと同じ。『天皇は黙って御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)』。岩倉も伊藤も安心できる落としどころであった。
 大日本帝国憲法は、表向きには天皇の大権を集中する。だが解釈と運用で、天皇本人をなるたけ黙らせておく、維新政府の戦略であった。でも、なお心配が残る。たとえば、天皇が裁量できることの少なさに退屈して退位を望み、世間が、現政権への天皇自身の不満がそこに込められていると信じたとする。明治国家はたちまち正統性を疑われる。
 また、退く天皇が、後継ぎをどの皇子にしたいと選り好みしたとする。反対勢力があれば、南北朝時代の再現になりかねない。対策は、天皇の自由意志では退位や後継ぎの指名をできなくすることだ。
 崩御するまで辞めさせない。皇位継承順も法で決める。皇室典範が、伊藤の主導で作られた所以である。
 岩倉と伊藤の思想は、敗戦を超えて延命してきたと思う。『象徴天皇も黙って御名御璽』。『辞められません、崩御するまでは』。肝心要はずっと同じだった。
 だが、革命は起きた。今回の代替わりはとてつもなく新しい。日本はきっと大きく変わる。吉と出るか、凶と出るか」
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 2019年6月12日 産経新聞上皇ご夫妻が孝明天皇陵をご参拝 「親謁の儀」で譲位ご報告
 京都府を訪問中の上皇ご夫妻は12日、京都市東山区孝明天皇陵を参拝し、譲位の報告を行う「親謁の儀」に臨まれた。午後には同市伏見区明治天皇陵も参拝し、天皇在位中から続いていた譲位に伴う一連の儀式を終えられる。
 ご夫妻は午前10時ごろ、滞在先の京都大宮御所をご出発。重要行事に用いられる「上皇旗」をつけたセンチュリーで、同市東山区孝明天皇陵に隣接する泉涌寺(せんにゅうじ)へ向かわれた。
 孝明天皇陵では、モーニング姿の上皇さまが陵へと続く塀重門(へいじゅうもん)からゆっくりと階段を上って参進し、ご拝礼。上皇后さまもロングドレスの参拝服姿で拝礼に臨まれた。
 ご夫妻は午後の明治天皇陵参拝で譲位関連の儀式を終えた後、京都大宮御所に戻って休息を取り、13日にJR京都駅から新幹線の臨時専用列車に乗って帰京される。」
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 反天皇反日的日本人は、天皇制度の廃絶と天皇家・皇室の消滅ために、天皇・皇族を実体化して政治や社会の表舞台に引きずり出そうとしている。
 メディアの天皇・皇族・皇室報道は、その意図を含んでいる。
 昭和天皇は、一人孤独に、生涯を掛けて抵抗し、皇室・皇統・血統・血筋を守る為に壮絶な死を遂げた。
 キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇や皇族を殺す為につけ狙っていた。
 日本人共産主義者は、ソ連コミンテルン中国共産党から活動資金や武器を受け取って暴力的人民革命を目指していた。
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 昭和天皇が、満州事変・日中戦争・太平洋戦争などでの開戦と終戦で選択した事は正しく、戦争責任を取るとして退位しなかった事は当然の事であった。
 戦争の責任は、政府と軍部そして国民にあって、天皇にはない。
 天皇には、戦争責任や戦争犯罪などない。
 昭和天皇は、無罪である。
 が、昭和天皇は逃げる事なく全ての戦争責任を引き受け、見苦しい言い訳じみた自己弁護・弁明はしなかった。
 昭和天皇は、誰よりも平和努力をし人道貢献を行っていた。
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 日本民族日本人は、究極の個人主義者として、人智を超えた自然を信用してもお里が知れる人など信用しなかった。
 昔から日本は、自分は自分、他人は他人、自分の事は自分で処理・処分する冷たい社会であった。
 日本民族日本人の本性は、薄情、非情、冷淡、冷血、冷酷である。
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 熱狂的天皇主義の尊皇派・勤皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、身分低い芸の民(歌舞伎役者や傀儡師・曲芸師などの地下芸人)、虐げられた賤民(非人や穢多)、蔑まされた部落民(山の民・川の民・海の民)達であった。
 日本の底辺で生きていた彼らは、マルクス主義共産主義)が認定する搾取され差別され迫害・弾圧を受けた哀れな人民・プロレタリアではない。
 さらに、キリスト教が説く、絶対神の命令に逆らったという「大罪」を持ってはいないし、絶対神の怒りを被って天罰を受ける「罪人」でもない。
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 日本民族日本人は、人とは私欲・個人欲で暴走する強欲な生き物であるとして信用していなかった。
 本音では人間不信であるがゆえに、建前として相互扶助の精神で助け合い・励まし合い・慰め合い、如何なる危機的状況に追い込まれても暴動や騒動を起こさず、人の弱みに付け込んだ略奪や殺人などの犯罪行為を戒めていた。
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 明治の元勲・元老・重臣達は、天皇を神聖不可侵として自由を制限し、皇居の中に押し込めた。
 さらに、徳川家康織田信長のような軍事独裁者が政治家として現れ軍隊=国軍を私兵化して私欲で戦争を始める事を恐れ、政治家から軍隊指揮権と参戦権を剥奪し、軍人の暴走を抑える込む為に、国権から軍事権・統帥権を切り離して天皇の大権とした。
 そして、軍備拡張費と交戦費の軍事費を国家予算内に組み込んで政府と議会が握った。
 大日本帝国憲法とは、軍事独裁者が出現して幕府を開き国を私物化させない為の法律であり、
 大日本帝国憲法の神聖不可侵とは、天皇軍事独裁者に利用させない為に創られた新語の法律用語である。
 明治の元勲・元老・重臣達は、武士階級ではない庶民階級出身の高学歴出身知的エリートを信用していなかった。
 大正末期から昭和前期。高学歴出身知的エリートの革新官僚や軍人官僚エリートが、天皇統帥権を利用して政治を壟断し、軍隊を動かして戦争へと突入した。
 歴代天皇は、全ての戦争に反対し、不服従を示していた。
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 伊藤博文は、小作農出身であった。
 山県有朋は、足軽出身であった。
 黒田清隆は、下級武士出身であった。
 東郷平八郎乃木希典も、下級武士出身であった。
 岩崎弥太郎は、最も貧しい下士出身であった。
 渋沢栄一は、百姓出身であった。
 身分低い彼らは、徳川幕府から暴力で奪った権力を正当化する為に天皇の権威を必要とした。
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 明治の元勲・元老・重臣達の多くは家禄の少ない下級武士出身で、明治維新まではその貧困故に庶民にバカにされながらも土下座しながら借金をしたり内職を分けて貰いながら食いつないだと苦い経験を持つだけに、庶民を信用していなかった。
 庶民も、元勲・元老・重臣と威張っていても、元を正せば惨めで哀れであった下級武士であっった事を知っているだけに、冷ややかに明治政府を見ていた。
 近代国家日において、政府と庶民の対立は必然であった。
 政府や元勲・元老・重臣達は、面従腹背で不服従気味の庶民を従わせる為に天皇の権威を利用した。
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 廃藩置県によって、朝敵の諸藩はもちろん官軍の諸藩の武士は家禄や職を失った。
 日本は、近代化に伴って能力主義・才能主義社会となった。
 学才・才能・技能がある士族(元武士)は、その能力生かして官吏や何らかの職に付けたは。
 能力のない士族は、職に付けないばかりか、家屋敷を追い出され、貧困層として都市に流れ込み低賃金の肉体労働で何とか家族を養った。
 明治に世にあっては、元は由緒ある武士といっても無意味、無価値であった。
 近代化の恩恵を受けられない極貧階層の士族の間では、天皇への怨嗟の声が渦巻いていた。
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 現代日本人は、日本民族の歴史が嫌いなだけに、大日本帝国憲法皇室典範の真実が読み取れないし、本当の意図が理解できない。
 特に、左翼・左派・ネットサヨク、リベラル派・革新派・ニセ保守派・一部の保守派、人権派、そして右翼・右派・ネットウヨクも同類である。
 メディア関係者にもそうした日本人が多数いる。
 そうした傾向は、高学歴出身知的エリートに強い。
 彼らには、哲学・思想・主義主張が有るようで無い、着替え可能な見せ掛けであり、書き換え自由な文学的言葉の文にすぎない。
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🕯120)─1─仏教の法力は敵を呪い殺す最強兵器であった。~No.257No.259 

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 仏教の法力は、人を呪い殺す事もできるが、人の病を癒やして助ける事もできる。
 歴史上で有名な看病禅師は、玄昉(げんぼう)と道鏡である。
 玄昉は、聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させた。
 道鏡は、孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍(かたわら)に寄り添い看病し治療した。
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 妙薬とは、病を治して人を助けるが、同時に毒として人を殺す。
 仏教が優れているのは、助け・殺すという二面性を持っていたからである。
 人を助ける一面性しか持たないのは、無力であり、役に立たないし、偽物である。
 毒を盛った宗教をどう使うかは、信仰する人次第である。
 問題は、宗教ではなく人間である。
 宗教を犯罪に悪用する者が、偽預言者、悪徳教祖、宗教系テロリストである。
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 ユダヤ教の聖書。
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 反宗教無神論共産主義者マルクス主義者)は、人としても信用できない。
 宗教と共産主義を比べた時、共産主義の方が宗教よりも遙かに多くの人を虐殺している。
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 2019年6月9日号 サンデー毎日「読んでたどる歴史  本郷和人
 『仏像の光と闇』 宮澤やすみ 水王舎
 仏像は呪力で敵を滅ぼす兵器でもあっかのか
 仏像とは仏教の『仏さま』の姿を造形したものである。仏さまは私たち衆生を救ってくれる、慈悲深い超越者である。だから仏像を解説する本は、仏さまの種類や特徴を説きながら、いかにそれが美しくすばらしい存在かを教えてくれる。
 本書はまったく違う。『呪い』をキーワードとして、仏さまを語る。本書によれば、仏様とは呪力によって対抗者に打撃を与え、はては滅ぼしてしまう装置である。テクノロジーとは無縁であった過去において、それは最新鋭の兵器であった。
 そうかなるほど、と納得せざるを得ない。ぼくが研究している鎌倉時代中期以降、承久の乱で敗北を喫した朝廷は軍事力を幕府に取り上げられた。それでも、自己の利益の伸長を企てる寺社の暴力集団(僧兵や神人{じにん})は、遠慮会釈(えんりょえしゃく)なく朝廷に攻撃を仕掛けてくる。このとき朝廷はどう対処したか。仏に祈るのだ。高僧を呼び集め、仏像や仏画を置き、壇を組む。護摩を焚(た)き、経典を読咒(どくじゅ)する。
 古代から仏教の理念と言えば『鎮護国家』。だからぼくは、非常時には法を修して、『平和が回復しますように』と祈りを捧(ささ)げるのだと思っていた。甘い!朝廷は法会を催して仏像の『呪い』パワーを具現化し、向かってくる敵を積極的に討伐しようとしたのだ!
 仏像は仏教だけでなく、日本に存在した天つ神、国つ神とも融合し、敵を打ち倒すパワー、加えて現世利益の能力を獲得していった。たとえばインドの破壊神マハーカーラあ出雲の大国主、三輪の大物主、日吉の大己貴(おおなむち)と同体となった結果、福の神『大黒さま』になった。本書はこのような仏の変容を時間軸にそって語り尽くす。まさに『光と闇』。仏像の本当の姿を知りたければ必読である。」
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 慈訓(じくん・じきん、持統天皇5年(691年)- 宝亀8年(777年))は、奈良時代の奈良興福寺の僧。俗姓は船氏。河内国の出身。
 興福寺の玄昉、元興寺の良敏に法相唯識を学び、審祥から華厳を学んだ。740年(天平12年)審祥による華厳経の法会では副講師をつとめ、同14年(742年)には講師となった。755年(天平勝宝7年)には宮中講師となる。翌756年(天平勝宝8年)聖武天皇が病気となった際、良弁・安寛とともに看病禅師・華厳講師をつとめ、その功により少僧都に任じられた。藤原仲麻呂政権下では仏教政策の中心者として活躍し、760年(天平宝字4年)良弁らとともに僧位制度の改正を奏上している。その後道鏡が現れると763年(天平宝字7年)僧綱を解任されたが、道鏡が失脚した770年(宝亀元年)には少僧都に復帰している。
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 良辨(ろうべん、りょうべん、持統天皇3年(689年) - 宝亀4年閏11月24日(774年1月10日))は、奈良時代華厳宗の僧。東大寺の開山。通称を金鐘行者といった。
 鷲にさらわる嬰児の頃。国会図書館所蔵・土佐光起『執金剛神縁起』絵巻より
 持統3年(689年)、相模国の柒部氏の出身である。鎌倉生まれと言われ、義淵に師事した。別伝によれば、近江国百済氏の出身、又は、福井県小浜市下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる。東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み[2]、後に全国を探し歩いた母と30年後、再会したとの伝承もある。しかし現在では別人ではないかとされているなど、史実であるかは定かでない。ただし、幼少より義淵に師事して法相唯識を学んだのは事実である。
 さらに慈訓について学び、華厳宗の奥義を受ける。東山 (奈良県生駒市)に隠棲し、自ら彫刻した執金剛神像を安置して、日々鍛錬して修行にはげみ、金鐘行者の異名をえたところ、聖武天皇の耳にとまり、羂索院を賜り、これがのちに改名されて金鐘寺となった。
 天平12年(740年)、『華厳経 』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定。天平17年(745年)に律師となる。天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となった。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階(三色十三階制)を改めるよう奏上した。聖武天皇の看病禅師も務めている。
 近江志賀の石山寺の建立に関わったことも『石山寺縁起絵巻』や、『元亨釈書』にくわし。
 宝亀4年(773年)には、 僧正に任命され、その年の閏11月24日没。東大寺開山堂には「良弁僧正坐像」(国宝)が安置されている。伊勢原市の大山寺の開基とも言われる。
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 Flying Deity Todifudo
 看病禅師 かんびょうぜんじ
 TOP > やさしい仏教入門 > 看病禅師
 ■病人に寄り添い、看病から祈祷までする僧侶を、看病禅師とか看病僧と呼びました。
 ■奈良時代に活躍しました。
 ■看病禅師は、名称の変化とともに、加持祈祷に専念する役職へと変わります。
 僧侶が看護師だった?
 病院の中でシスターの姿を見かけたら・・・?
 シスター=看護師さんのように思えて、違和感を持つ人は少ないでしょう。
     では、僧侶の姿を見かけたら・・・
 奈良時代、お医者さんと僧侶は切っても切れない関係で、看病禅師という役職がありました。
 仏教では、五明ごみょうと呼ばれる五つの分野の学問も学ばれていました。その五明のひとつに医学や薬学があり、お経とともにその最新の知識が日本へ入りました。
 もちろんお経の中にも、身体の内部構造を説明した部分や、病気と食事の関係、治療や養生について説かれた部分があります。 

 看病禅師 かんびょうぜんじ
 奈良時代は、皇族のために宮中で病気平癒を祈ることが盛んに行われました。このご祈祷をする僧侶は、医療の知識や呪術的な力を具えた禅の僧侶でした。
 医療の功績があった禅師で、文献に初めて登場するのは、法蓮という僧侶です。続日本紀の703年と721年の記述の中に出てきます。
 天皇上皇が病気がちだった8世紀中頃は、看病禅師の活躍が目立ちます。756年には聖武天皇のために、126人もの看病禅師が集められました。
 また聖武天皇の看病を、法栄という僧侶が担当医師として行ったことも有名です。法栄は祈ることより医薬の面で優れていたようです。
 禅師という言葉が、しだいに看病をする僧侶、の意味を持つようになると、本来の禅師と区別するため、看病禅師という呼び名が生まれました。

 看病禅師から護持僧へ
 看病禅師は宮廷に近いことから、しだいに政治権力を握り、法王にまで上り詰める者や、天皇の命を操ろうとする者まで登場します。
 看病禅師が政治的な力を持つようになると、国家が危うくなる、と考えた桓武天皇は、看病禅師の呼び名を護持僧に改め、制度改革をしました。
 平安時代には医療は宮廷医に、僧侶は祈りに専念することになります。
  
 五明  ごみょう
 声明  しょうみよう
 言語学・文法学。
 因明  いんみょう
 論理学。
 内明  ないみょう
 形而上学。日本では宗派や学派の教理学。
 医方明  いほうみょ
 広い意味での医学。薬学のほか呪術なども含まれる。
 工巧明くぎょうみょう
 建築・工芸など。

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   ・   ・   ・   
 明治まで日本を支配していたた力は三つあった。
 政治権力、宗教権威そして天皇の権威である。
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 日本は国難が襲ってくると、敵が現れる前は呪術(じゅじゅつ)・呪力(じゅりょく)・呪いに頼ったより、敵が現れたら武器を取り命を賭けて戦った。
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 呪術・呪力・呪いに霊力を与えていたのは、神道ではなく仏教であった。
 怨敵退散の呪文は、仏教にあって神道にはない。
 憎い相手・敵に対して、呪い殺す、不幸・不運をもたらす、のは仏教であって神道ではない。
   ・   ・   ・   
 物の怪・幽霊・怨霊・悪霊・呪怨を退治するのは、死を司り、亡者に引導を授け成仏させる仏教であった。
 神道は、穢れを祓い清める神力と願いに対するご利益を与える霊験だけで、それ以上の霊力はない。
 呪術・呪力において、仏様も方が日本の神様より強力であった。
   ・   ・   ・   
 本地垂迹(ほんじすいじゃく)説で日本の何となく神と外来の通力(つうりき)の強い仏が混合した時、霊験が空気・空気圧の様に日本を支配した。
 明治の神仏分離廃仏毀釈)で、神道からおどろおどろしい、まがまがしい、得体の知れない呪術・呪力・呪いが穢れとして祓い清められた。
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 天皇・皇室・朝廷が頼れるのは、京の町衆、近在の国人(下級武士)、賤民(非人や穢多)、畿内部落民(山の民・川の民・海の民)達だけであった。
 如何なる動乱で京の町が荒れ果て世が乱れても、盗賊が京都御所に押し入って略奪と殺戮を行わなかったのは、世俗的に彼らが守り、神聖的に穢れ信仰が護っていた。
   ・   ・   ・   
 帰化人は天皇・皇室に忠誠を誓い味方し、渡来人は天皇・皇室に忠誠を拒否して敵対した。
   ・   ・   ・   
 日本の最高神は、天皇家の祖先神と崇められている女性神天照大神伊勢神宮)である。
   ・   ・   ・   

💍6)─3─護憲派・人権派・男女平等推進派は、皇統は伝統(血統)よりも憲法が優先すると主張している。~No.26No.27 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・
 日本を支配する宗教的「血の因襲」。
   ・   ・   ・   
 日本共産党支部は、2万支部
 日本共産党員は、30万人。
 党機関紙購読者は、110万人。
 日本の労働組合員約1,000万人中、共産党系約100万人。
 国政選挙の比例で獲得する票は、440万票~600万票。
 日本共産党の党則、反天皇制度、反皇室、反自衛隊反日米安保、反資本主義。
 共産主義者マルクス主義者)には、高学歴出身知的エリートが多い。
   ・   ・   ・   
 三島由紀夫「なぜわれわれは共産主義に反対するのか?それは、われわれの国體、文化・歴史・伝統と絶対に相容れず、論理的に天皇の御存在と相容れないからである」(『反革命宣言』)
   ・   ・   ・   
 2019年6月4日19:25 産経新聞「共産・志位氏が「女性、女系」容認も他野党は難色
 会見に臨む共産党志位和夫委員長=5月22日午後、国会内(春名中撮影)
 共産党志位和夫委員長は4日付の機関紙「しんぶん赤旗」のインタビューで女性・女系天皇に賛成すると強調した。“皇室容認”の姿勢を示すことで、野党共闘の推進や無党派層への支持拡大を図る狙いがみえる。しかし、今回の皇位継承のあり方に反対するなど「天皇制廃止」から完全に転向したわけではなく、他の野党は共闘は難しいとの考えが支配的だ。
 「日本国民統合の象徴である天皇を男性に限定する合理的理由はどこにもないはずです」
 志位氏はインタビューでこう答え、女性・女系天皇に賛成する立場を明らかにした。
 共産党は「(19)22年綱領草案」から「94年綱領」に至るまで「天皇制の打倒」や「天皇制の廃止」などを掲げてきた。しかし、理論的支柱である当時の不破哲三議長が主導した「2004年綱領」で「天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきもの」と明記して以降、徐々にソフト路線化を図っている。
 5月1日の天皇陛下のご即位に祝意を送ったことや、衆参両院の本会議でご即位に祝意を示す「賀詞」への賛成、志位氏の女性・女系天皇に関する発言も、ソフト路線の一環とみられる。
 「女性・女系天皇」をめぐり、立憲民主党枝野幸男代表は「女性や女系天皇に対する国民の理解や支持は非常に大きい。参院選に向けてしっかり訴えて、国民の理解をさらに広めていきたい」と発言している。
 それでも、立民幹部は共産党との連携について「無理、無理。あまり近づかれると、転んで骨折しかねない」と冷ややかだ。
 インタビューで志位氏は、天皇陛下をお招きしての国会開会式や元号について否定的に語っている。さらに「天皇とその制度を、主権者である国民の全面的なコントロールのもとにおくものとなっている」という憲法解釈を紹介するなど、他党との根本的な距離は縮まりようがない。
 共産党研究の専門家も、同党の“軟化”を額面通りに受け取らない。共産党に関する著書がある著述家は、不破氏が『新・日本共産党綱領を読む』で「将来の発展の方向としては、天皇の制度のない、民主共和制を目標とする立場に立っている」と明記していることに着目。志位氏の女性・女系天皇発言に対して「廃止を前提にした提言は拝聴に値しない」と容赦ない。
 また、男系継承の伝統を変えることになる女系天皇の実現は、見方によっては皇室廃止と同等の意味を持つことになり、共産党の従来の路線と矛盾しないとの声もある。
 一方、元日本共産党国会議員団秘書の篠原常一郎氏は、志位氏のインタビューが5ページに及んでいることにも注目した上で、こう解説する。
 「従来の支持者から『ソフト路線化』についての説明を求められているということだ。組織内の混乱が伝わってくる」
(内藤慎二)
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 6月6日18:07 産経新聞「皇統は「伝統よりも憲法が優先」 共産・志位氏
 共産党志位和夫委員長は6日の記者会見で、皇統について「伝統と日本国憲法が矛盾した場合、憲法の規定が優先されるべきだ」と述べ、伝統的な男系継承にこだわるべきではないとの見解を示した。
 志位氏は4日付の党機関紙「しんぶん赤旗」のインタビューで「日本国民統合の象徴である天皇を男性に限定する合理的理由はどこにもないはずだ」と答え、女性・女系天皇に賛成する考えを強調していた。」
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 護憲派などの反戦平和市民や人権派市民にとってに、第九条の日本国憲法平和憲法)は如何なる犠牲を出しても守るべき神聖不可侵の不磨の大典であった。
 その為には、日本中心神話及び天孫降臨神話を根拠とする現天皇家の血筋・血統を絶やすもやむを得ないと覚悟している。
 つまり、天皇の正統性を、最高神である女性神天照大神から続く血筋・血統ではなく、血筋を否定した初代神武天皇からの皇統に求めるべきであると。
 令和の天皇陛下まで、125代の万世一系男系天皇(直系長子相続)が約2000年間受け継ぎ守り続けた天皇霊天皇御霊(みたま)をゴミとして捨て去る、と言う事である。
 反宗教無神論者たちは、日本民族縄文時代から数万年という途方もない年月を、幾世代の祖先達が命を犠牲にしてまでも受け継いできた民族宗教を、現在この時、断ち切り、消滅させるべきであると。
 日本は、反宗教無神論の社会、国家に変わろうとしている。
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 皇位継承が途絶える事なく続く最善の方法は、特殊な血筋・血統に基ずく特定の家族という「血の正統性」を否定して捨て去る事である。
 特殊な血筋・血統に基ずく特定の家族とは、祖先神・氏神の人神崇拝に基ずき、自分の祖先を大事にするという事である。
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 日本の民族宗教とは、絶える事なき血脈の祖先信仰である。
 血に繋がった祖先とは、命と魂、霊、血と身体、遺伝子とDNA,心と精神、志と気概を、子や孫に託した家族である。
 つまり、日本民族日本人の信仰とは、「家族信仰」である。
 家族信仰とは、祖先から子孫へという血脈を通じ、人としての血筋・血統で、家系の中に再生、甦り、生まれ変わり、生き変わりたいという「永遠の命信仰」である。
 永遠の命信仰とは、「命讃歌」である。
 命は、死を伴う。
 祖先の死を想い、自分の死を身近に感じる事で、命の讃歌はより輝きを増す。
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 日本民族日本人が信じる創世記は、絶対神による天地創造ではなく、代々続く家族である。
 自分は、絶対神によって土や塵を集めて命を吹き込まれて創られたのではなく、家・家庭・家族・両親の間に生まれた人間だと信じていた。
 それ故に、日本人男子は、子供を産み育ててくれる女性や生命を得て生まれた子供を大事にし、命を犠牲にしても守った。
 女性や子供を何が何でも守るのが、日本民族日本人男子であった。
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 現代日本人は、自分の祖先を無価値な存在として切り捨てようとしている。
 彼らは、自分の信念で「神殺し」を行っている。
 彼らは、選挙をすれば数百万人から賛成票をえ、その倍の隠れた支持者が日本郭内に存在する。
 彼らを支持する日本人は、高学歴出身知的エリートに多くいる。
 今はまだ、反天皇反日的日本人は少数派である。
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 共産主義には希望はない。
 キェルケゴール死に至る病とは絶望である」
   ・   ・   ・   
 外国人移民(主に中国人移民)が増えれば、少数派は急増する。
 外国からの移住者は、帰化人、渡来人そして無関心の3派に分かれる。
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 6月6日11:14 産経新聞尖閣周辺に中国船 56日連続
 尖閣諸島魚釣島鈴木健児撮影)
 沖縄県尖閣諸島周辺の領海外側にある接続水域で6日、中国海警局の船4隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは56日連続で、平成24年9月の尖閣諸島国有化以降で過去最長の連続日数を更新した。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
   ・   ・   ・   
 6月5日 産経新聞「中国が狙う知的財産、日米で事件化
 電子部品製造大手「NISSHA」(京都市中京区、旧日本写真印刷)の元社員が逮捕された事件で、技術情報を持ち出された先とみられるのが中国だ。過去にも最先端の機密技術など日本企業の知的財産が流出した事件があり、和牛の遺伝資源や果物の種苗が不正に流出するケースも続発。最近では米連邦捜査局FBI)も米IT大手アップルをめぐる事件を摘発していた。
 今年2月、切削工具の中堅メーカー「富士精工」(愛知県)の製品設計図などを不正に取得したとして、不正競争防止法違反容疑で愛知県警が中国籍の同社社員を逮捕。平成24年6月には、大手プレス機械メーカー「ヨシツカ精機」(神奈川県)が管理していた機械の設計図のデータをコピーして中国の企業に不正に渡したとして、同法違反
一方、FBIは昨年、アップルの自動運転車の開発に関連する情報を盗んだとして、企業秘密を窃盗した罪で元社員の男を裁判所に訴追した。男は自動運転車開発の中国企業に転職予定だったという。」
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⚔20)─3─織田信長「オカルト朱印」改定の真意。比叡山の祟りを恐れて「第六天魔王」と名乗った。〜No.84 

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 産経新聞 iRONNA 関連テーマ
 信長「オカルト朱印」改定の真意
 織田信長という歴史上の人物を知る上で第一級の資料と言われるのが、ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの書簡『日本史』である。その書簡には信長にまつわる有名な記述がある。
 「傲慢で神をも恐れず、名誉を重んじることこの上なし。決断を内に秘め、軽々しく外に表すことがなく、戦術も巧みである。戦術を立てる際に部下の進言を聞き入れることは滅多にない」
 フロイスは実際に信長と何度も面会し、厚遇されている。フロイスが見た信長のイメージは、現在まで語り継がれる日本人の信長像に大きな影響を与えたことは言うまでもない。
 ところが、歴史研究家の橋場日月氏によれば、「これまでの信長の人物像を鵜呑みにするには、どうも引っ掛かるエピソードがいくつもある」という。今回、iRONNAがお届けするのは、信長にまつわる日本人の常識を疑い、あまたの歴史的資料などに目を凝らして、新しい信長像に迫る新連載です。橋場氏の深い洞察と大胆な仮説にどうぞご期待ください。(iRONNA編集部)
  ・  ・  
 毛利水軍に完敗し本願寺包囲網が破られた信長は、その翌年「天下布武」朱印を改定した。新しい朱印には2頭の龍が描かれているが、「黄色の旗印」「麒麟の花押」と合わせて信長のオカルト信仰を極致へ導き、天下人になるための重要なアイテムだった。朱印に龍を取り入れた真意とは。
 比叡山の祟りにビビった信長 「第六天魔王」はこうして誕生した

 『橋場日月』 2018/08/19
 橋場日月(歴史研究家、歴史作家)
 天下統一への志は込められていなかった「岐阜」。では、信長はその二文字の何を喜んで、新しい本拠地の名称に選んだのだろうか。この二つの漢字を分析してみよう。
 まずは「岐」だ。この字は「ふなど」、「ちまた」を意味するという。これは本道から枝分かれした道、行く先が幾筋にも分かれている状態を指す。
 『古事記』に登場する「岐の神(ふなどのかみ。久那斗神と書いてくなどのかみとも)」は、黄泉(よみ)の国の亡者と化したイザナミの追っ手から逃れるために、イザナギが投げた杖(つえ)が化身したものだ。
 追っ手を遮る=来てはいけない場所を守る、ということから、町や村に通じる道や辻の境で悪神・悪霊や災厄、疫病の侵入を防ぐ「塞(さえ)の神」=道祖神(さいのかみ、どうそじん)となった。
 つまり、「岐」は魔除け・厄除けという意味を持っているのだ。厄除け志向の強い信長のパーソナリティーが、こんなところにも顔をのぞかせている。
 その上、古代出雲ではこの岐の神は龍蛇神の本体として尊ばれていたという。つまり、信長が求めてやまない龍神・蛇神の化身でもあるのだ。信長の本拠として、これほどふさわしい名前もないだろう。
 さらに付け加えると、「幾筋にも分かれる道、流れ」という「岐」は、細かく分流して伊勢湾に注ぐ木曽川・揖斐(いび)川・長良川木曽三川を表すともいい、その分流の形状は出雲神話の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)にも通じるではないか。「岐」の字もそこには含まれている。
 そして「阜」の字は、通常「大きな陸(おか)」=「丘」を示しているというが、実はそうではなく、「神が降臨するための神梯(はしご)の象徴」だということだ(白川静『漢字百話』)。
 つまり、「岐阜」は龍・大蛇の力を備え、瑞龍寺山を包含し、魔除け・厄除けの結界として機能し、神が降臨するハシゴということになる。信長が降臨させたい神は、むろん龍神・蛇神だ。
 本連載の第8回で、信長は小牧山を「飛車山(ひくまやま)」から成らせて「龍王山」とし、龍神の磐(いわ)座にしようと考えたのかもしれない、と述べたが、この岐阜命名こそがそれを裏付ける傍証になるのではないか。
 ともかく、信長はこうして稲葉山城とその城下・井口(いのくち)を、大蛇(竜)を迎える聖地「岐阜」とその中心の「岐阜城」に改めたのである。ちなみに、信長に岐阜の名称を提案したのは、沢彦宗恩(たくげんそうおん)ではなく、後に瑞龍寺の住職を務める栢堂景森(はくどうけいしん)だったという説もあるそうだ。(―岐阜市歴史博物館「Gifu信長展」解説より)
 ちょうど同じ時期、彼はもう一つ、自身の新たな象徴となるアイテムを用い始める。「天下布武」の印判である。
 長く「わが武力で全国を統一する」というスローガンを打ち出したものと言われていたこの印判も、最近では「天下=畿内を将軍が治める理想の推進役となる」という宣言に過ぎないという説が有力となっている。むろん、他にもいろいろと解釈があるようだが、ここで注目したいのは印判の紋様のバリエーションについてだ。
 永禄10(1567)年11月から使い始められた「天下布武」印は、当初は一重の楕円(だえん)形の中に天下布武の4文字が配されたものだった。これが、後年改定されて重要な意味を持つことになるので、ぜひ心にとどめておいていただきたい。
 岐阜で竜のパワーを最大限までチャージできたのか、信長は翌永禄11(1568)年8月7日に足利義昭を美濃立政寺に迎えると、9月7日岐阜城を出陣する。2年前に失敗した上洛(じょうらく)戦のリベンジというわけだ。
 破竹の勢いで進撃した織田軍総勢5万(『細川両家記』『フロイス日本史』)はあっという間に京を制圧。義昭は室町幕府15代将軍の座に就き、信長は事実上「天下」に号令する政権主宰者となった。
 しかしその後しばらくの間、信長にとっては逆境の時間が続く。元亀元(1570)年には、北近江の浅井長政の造反によって越前の朝倉義景討伐が失敗し、姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍を撃破したものの、大坂本願寺の挙兵によって摂津から退却することとなった。さらに本願寺の指示を受ける一向一揆と合流した浅井・朝倉が守山の戦い(志賀の陣)で信長の重臣森可成を討ち取るなど、まさに四面楚歌(そか)状態に陥ったのである。
 そんな中、信長は一つの手を打った。浅井・朝倉を支援する比叡山延暦寺(えんりゃくじ)に「味方できないならせめて中立せよ」と最後通告を送りつけたのだ。これが拒否されると、信長は延暦寺総攻撃を命じる。
 元亀2(1571)年9月12日、比叡山を包囲していた織田軍3万は一斉に山上を攻め登った。

 「根本中堂・山王二十一社を初め奉り、霊仏・霊社、僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞(うんか)のごとく焼き払い、灰燼(かいじん)の地となるこそ哀れなれ。山下の男女老若、右往・左往に廃忘(はいもう。狼狽(ろうばい)の意)を致し、取る物も取りあえず、悉(ことごと)くかちはだしにして八王子山へ逃げ上り、社内へ逃げこみ、諸卒四方よりときの声を上げて攻め上る。僧俗・児童(にどう)・智者・上人一々に首をきり、信長公の御目にかけ、これは山頭(比叡山上)においてその隠れなき高僧・貴僧・有智(うち)の僧と申し、そのほか美女・小童そのかずを知らず召捕り、召しつれ、御前(おんまえ)へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、これはおたすけなされ候えと声々に申し上げ候といえども、中々御許容なく、一々に首を打ち落とされ、目も当てられぬありさまなり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合わせ(状態)なり」『信長公記

 『信長公記』に記された比叡山焼き討ちの様子は、あくまでも凄惨(せいさん)で信長の一方的な残虐性が際立っている。
 他にもこの戦いでの延暦寺側の死者は「数千人」(同書)とも「男女三、四千人」(『言継卿記』)とも「約千五百人」(『耶蘇会日本通信』)とも「1120人」(『フロイス日本史』)ともいわれているが、信長は本当にこの虐殺(ジェノサイド)を積極的に行ったのだろうか。
 実は、信長が攻撃を躊躇(ちゅうちょ)したのではないかと思われる節があるのだ。この一件から2年後の元亀4(1573)年に、彼が上京(かみぎょう)を焼き討ちする際に神道家の公家、吉田兼見に問い合わせをしている。

 「南都(奈良)が相果てれば(松永久秀による焼き討ちでの東大寺焼亡)、北嶺(ほくれい、比叡山)も滅亡する。そうなれば王城(京の御所)にも災いが及ぶ、と兼見の父・兼右が説いたが、本当にそういうことになるのか」
 というものだ。これに対して兼見は「昔からそう言われていますが、典拠となるような文書はありません」と答えている(『兼見卿記』)。
 この言い伝えは当時の知識人には知れ渡っていたようで、比叡山焼き討ちの際に公家の山科言継も「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と、両者の因果関係を意識したコメントを残している(『言継卿記』)。
 信長もこの言い伝えを知っており、2年後になって「比叡山を焼き討ちした自分が今回上京にも放火すれば、それはそのまま天皇に災いをもたらすことになるのか」と心配していたのである。比叡山焼き討ち当時、すでに信長が後々、天皇へ祟(たた)ることを恐れ、不安を感じていたとしてもおかしくない。迷信に対する興味が過剰で、かつて池に潜って大蛇を探したこともあるほどの信長だからなおさらだ。
 特に、比叡山には都の表鬼門を守る日吉大社も鎮座する。かつて、赤熱した鉄片を握らせ、手がただれたら有罪とする火起請(ひぎしょう)で日吉神社の神意を問うた信長には、これもプレッシャーだった。
 延暦寺焼き討ちは、信長の意志というよりも延暦寺を監視する宇佐山城を預けられていた強硬派の明智光秀に主導されて発生した可能性が高いのだ。
 京の鬼門を守る日吉大社と、国家鎮護の道場、延暦寺。その焼き討ちは、当時の日本人に一大衝撃を与えた。
 上京焼き討ちの1カ月前、元亀4(1573)年3月19日付で、宣教師ルイス・フロイスは書簡にこう記した。
 「信長はみずから悪魔の王・諸宗の敵であると称し、『ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガ』と名乗った」(『耶蘇会日本通信』)
 ドイロクテンノ・マオウ、すなわち有名な「第六天魔王・信長」の誕生である。
 第六天というのは、人間界の上にある天上界のうち、最下部の六欲天の中で1番上の「他化自在天」を指す。この天は天魔破旬(てんまはじゅん)といわれ、魔王が住み、仏道修行を邪魔するという。かつて今川義元から天魔破旬になぞらえられた信長は、ついに自らその呼称を用いるようになったのだ。
 神仏に頼らない幸福を人々に与え、その幸せを自らの幸せとする魔王。既存の神仏関係者に金品を貢がなくとも、信長に従えば幸福になる。つまり信長自身が神となる、という意思表示である。延暦寺を破滅させ本願寺と争う信長にはふさわしい肩書といえるだろう。
 このフロイスの記録は、他に信長が「第六天魔王」を名乗った書状などが存在しないためにやや疑問が残っていた。しかし2017年、愛知県豊橋市の金西寺に伝わる開山記『當寺御開山御真筆』の中で、京都・東福寺の住持をつとめた集雲守藤(しゅううんしゅとう)が、本能寺の変直後に書いたと思われる詩文が発見されたことによって、少なくとも周囲にそう呼んだ人がいたことは証明された。
 そこには信長についてこう記されていた。
 「六天ノ魔王現形ヲ現ルヤ否ヤ」(信長とは第六天魔王がこの世に現れたものか)
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 長篠合戦図屏風に描かれた「六芒星メンズ」の謎を解く
 『橋場日月』 2018/12/1
 橋場日月(歴史研究家、歴史作家)
 長篠の戦いでも天候に恵まれた信長。もっとも、彼のために弁明すると、彼が長篠の戦いで武田軍を「必ず皆殺しにしてやる」と宣言した背景にあったのは、龍の力の盲信だけではなかった。鉄砲や弾薬を西からはるか長篠まで大量に集めてくる資金は尋常ではない。
 3000挺の鉄砲が投入されたと仮定すると、その銃の費用は現代の価値で20億円。1挺あたり300発分の火薬(長篠の戦い直後に武田家が制定した分量)は18億円、それに鉛の弾丸が1億4000万円で、トータルすると40億円近くが投入された計算になる。未明から昼過ぎまでの7~8時間で、40億円が戦場の煙と化したのだ。
 当然、信長としてはそれだけの投資を無駄にしないためにも、梅雨どきなのに鉄砲で勝つ=梅雨にもかかわらず雨が降らない条件を整えなければならない。
 そしてそれは、神頼みだけではなかった。
 ここで大阪城天守閣に所蔵されている「長篠合戦図屏風」を見てみよう。信長の本陣は六曲一隻のうちの第六扇(左端)の上部に描かれている。永楽通宝の旗印や南蛮兜(かぶと)などを奉じて控える家来たちの奥で、白馬にまたがった信長が正面の戦場を見つめているのだが、その足元に注目していただきたい。
 背中を朱の星で大きく染め抜いた白羽織の男が3人、侍(はべ)っているのがわかるだろう。
 この星印は「六芒(ろくぼう)星」という。有名な星印は安倍晴明の「五芒(ごぼう)星」だが、こちらはひとつ角が多いものの、陰陽師(おんみょうじ)の象徴として知られる晴明の五芒星(晴明桔梗)同様、陰陽師のシンボルだ。
 では、その違いは何か。安倍晴明の血統を継ぐ土御門家が朝廷の陰陽師であるのに対し、六芒星は晴明に敵対した蘆屋道満(あしやどうまん)のマークだ。元々は播磨の陰陽師だったと伝わる道満は、藤原道長に仕える晴明の力を封じるべくライバルの藤原伊周(これちか)に召し出されたという。
 妖術合戦に敗れる姿は多くの作品に描かれているが、現実の道満は伊周が道長との政争に敗れたことで元の民間陰陽師に戻ったのではないか。彼に連なるという陰陽道の系譜は、道満の子孫という土師(はじ)氏の他にも多く残っている。
 図屏風は、信長がこの道満流の民間陰陽師を戦場に伴った可能性を示唆しているのだ。ここで注意しなければならないのは、この大阪城天守閣蔵の図屏風には原本がある点だ。成瀬家本と呼ばれるもので、17世紀半ば、長篠の戦いから100年経った頃の制作と考えられている。犬山城主の成瀬家の先祖・正一は長篠の戦いに参加しているので、子孫が家の言い伝えや『甫庵信長記』などの軍記物を参照して顕彰のために描かせたのだろう。
 この成瀬家本では、信長の本陣にいる3人の男の背に六芒星はなく、濃緑の地に赤く「十六葉菊」が描かれているが、これは信長が朝廷から許された菊紋というにすぎない。
 これでは、「一番古いオリジナルの絵がそうなら、信長が陰陽師を使ったという推測は無理じゃないか」と言われそうだが、これがそうでもないのだ。
 成瀬家本の図屏風には、家康本陣に六芒星の男が2人いる。その装束は大阪城天守閣本の信長本陣の3人とまったく同じだが、その手には槍や薙刀を持つという違いがある。これは陰陽師としての職掌からはまったく外れている。
 この六芒星組が大阪城天守閣本では信長本陣に移動し、手には何も持たない陰陽師本来のいでたちに描き換えられたのは、なぜか。
 もう少しこの大阪城天守閣本を観察してみよう。
 と、さらにひとつ違うところがあった。第五扇目(左から2番目)の上、ここには羽柴秀吉の部隊が布陣している。金のひょうたんの馬印が高く掲げられ、秀吉も最前線を凝視中だ。
 問題なのはその前方に白く細長く湾曲した川が描きこまれている点だ。設楽原では、武田軍と織田・徳川連合軍の間に連吾川が南へ流れていたが、それと平行して、連合軍の布陣している丘の背後(西側)にも平行して流れる大宮川(宮川)という川がある。     成瀬家本では、この大宮川が秀吉隊のところには流れは無く、家康のすぐ後ろから流れが始まっているのだ。
 大阪城天守閣本がもっと上流から描き始めているのは、こちらの方が正しい。(ただし実際の大宮川は信長本陣よりも西なので、少しおかしいのだが)
 この川の加筆は、成瀬家本の成立から間もなくそれを模写することとなった大阪城天守閣本の制作者が、現地の地形や合戦の様子について詳しい者から修正を指示された、ということなのだろう。細部にこだわってよりリアルを追求していこうというのは、いつの時代もオタクを突き動かす本能的な欲求なのだ(笑)。
 ということは、六芒星メンズたちの移動も、信長の本陣に居るのが正しい、と考えてのことだったのではないか。
 そもそも、この六芒星を背負った男たちは戦場で何をしていたのか。陰陽師だからといって、怨敵調伏の祈祷をしたり、式神を使って敵を討とうとしていたと考えるのは早計だ。彼らは、天気予報士だったのである。
 朝廷における陰陽師の配属部署「陰陽寮」は、星の動きを観察し、天文の計算によって日食を予測するなどして暦を作成し、風雲(気象)を監視して天気を予報する、専門家集団だった。
 民間の陰陽師たちも同様に、それぞれの地域で暦を作り天気を予報する。農耕には気象の予測が何よりも大事なのだ。関東の三島暦・大宮暦、伊勢の丹生暦はその代表的なもので、特に三島暦は朝廷の陰陽暦と絡んで信長も関係する大騒動を呼ぶのだが、それはもう少し後の話である。
 六芒星陰陽師たちは、気象を観測し戦闘に適した日程を大将にアドバイスする。
 彼らは「軍配者(軍師)」とも呼ばれた。第7回の桶狭間の戦いのくだりでも紹介した軍配者は、占いや敵味方の「気」を観察することで戦機をはかったと言われているが、一方で常日頃膨大な気象データを蓄積し、体験的な予報を下す科学者たちでもあった。
 桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を信長にもたらしたのも、大蛇(龍)への祈りと彼ら軍配者の正確な気象予報だったが、長篠の戦いのときに彼らが信長の側に待機していなかったと考える方が不自然だ。これは何も信長に限ったことではなく、当時の大将たちは皆軍配者=陰陽師を戦場にともなった。
 その意味で、成瀬家本が家康本陣に六芒星メンズを描きこんだのも間違いではないのだが、大阪城天守閣本を描かせた人物は大宮川の流れのように「信長の軍配者こそが勝利の立役者だった」という伝承に触れていた可能性が高い。信長は、大蛇(龍)の力をあてにするだけではなく、最大限合理的で有利な条件で戦えるよう、手を打っていたのだ。
 信長のブレーンというのは、まさにこの軍配者たちだった。
「おみゃーら、どうだて、お天道様はしばらくの間は出ておりゃあすか」
「いーーっ、ここ2、3日は雨は降らずと勘考しとりますで、お戦にかかられませ!」
「であるか!もし外れたらワヤだで、間違いありゃせんか。そんなら始めよまいか!」
 この主従が尾張弁でこんな会話を交わしていたかと想像するのも一興だろう。
 実はこの六芒星メンズについては、もう一つ信長との深い関係性をうかがわせる事実がある。信長の織田氏は通常平氏の流れを自称していたが、本当のところは忌部(いんべ)氏だったという。
 忌部氏というのは朝廷の祭祀行事を担当した一族で、その末裔(まつえい)である織田氏は越前の織田劔(つるぎ)神社の神官だった。古代の祭祀は、あたりまえだが農耕と密接に関係しているため、暦とは切っても切れない関係がある。これだけでも陰陽師とは近しいのだが、それだけではなく忌部氏自体がユダヤ人を祖とするとも言われているのだ。
 そしてユダヤ人のシンボルは、「ダビデの星」すなわち六芒星。魔除けにも「籠目」という文様がある。竹編みの籠の編み目を図案化したもので、これも六芒星そのものだ。
 魔除けグッズ好きの信長にとって、六芒星メンズは実用的にも趣味的にも手放せない存在だっただろう。信長と陰陽師は幾重もの縁で結ばれていたのかもしれない。
 「長篠合戦図屏風」には、もう一つ、まったく系統の違う一隻がある。名古屋市博物館蔵のもので、これが一番制作年代が古い。こちらは至ってシンプルな内容だが、描かれている武者の多くが扇を使っているのが目につく。面白いではないか。最古の長篠戦図だけに、当日は暑かったという記憶がまだ残っていたのだろう。
 晴れ渡った空の下、長篠の戦いは始まり、信長は一方的な勝利を手に入れた。
 「あっという間に切り崩し、数万人を討ち果たした。最近たまっていた鬱憤(うっぷん)を晴らしてやった」
 細川藤孝(幽斎)宛てで誇らかに書き送った信長。そこには、呪術と科学というまったく相反する二つの力で大敵・武田軍を撃破した自信があふれている。
 そしてこの頃から、信長は「天の与え」という言葉をしばしば使い始める。これは敵がわざわざ出て来てくれたことを指すのだが、「天がチャンスを与えてくれている」と、ラッキーボーイぶりを口頭でも書状でもアピールするようになったのは、おのれが「神に守られた存在」であることを自分自身が最も強く信じ始めた証拠だったのではないだろうか。
 そしてこのあと、彼は越前へ兵を向けるのだった。
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🎑74)─1─日本の大築城時代 戦国の山城の謎。天皇・皇族・皇室には城がない。~No.167 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 キリスト教会は、異教徒や異端者の攻撃に対する城、砦として使用される事があった。
 戦争が始まると、政府や軍隊はキリスト教会を軍事要塞・軍事拠点として利用した。
 キリスト教系テロリストは、キリスト教会をテロ拠点に利用していた。
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 産経新聞iRONNA「関連テーマ
 「センゴク宮下英樹が語る真実の信長
 織田信長とはどんな人物だったのか。多くの研究者や歴史ファンを虜にする彼の人物像は、いまだ多くの謎に包まれる。数々の古戦場や城跡を踏査し、膨大な資料を読み解いた独自の解釈が専門家をも唸らせる人気漫画「センゴク」の著者、宮下英樹氏に、自身が思う信長像を大いに語ってもらった。
 戦国時代
 日本の大築城時代 戦国の山城の謎
 『中井均』
 日本列島には3万とも4万ともいわれる城跡が存在する。それらの大半は14世紀から17世紀までの間に築かれたものである。わずか300年間にこれだけの城が構えられたことは世界史的にみても日本だけであり、日本の中世はまさに大築城時代であった。
 ではなぜこれほど多くの城が築かれたのだろうか。17世紀以降の近世城郭は巨大な大名権力の居城に特化されるが、中世は村々の領主でも城を構えていたのである。わずか10数戸の村にも領主はおり、そうした領主たちも城を構えた結果、列島には数万の城が出現したのである。
 今、ひとつ日本の中世の城の特徴として、武士が築く点を指摘しておきたい。百姓や寺社も城郭を構えたが、それらは極めて少なく、基本的には武士のみが城を築いたのである。天皇や貴族は城を構えなかったのである。
 武士は騎兵という武装集団として誕生する。鎌倉幕府の正規軍たる武士はもちろん騎兵隊であった。この鎌倉武士政権を打倒するために挙兵した後醍醐天皇方は、真っ向から勝負しても勝つことはできない。そこで騎兵では戦えない山に閉籠することによったのである。これが山城の出現であり、南北朝時代に列島内で爆発的に出現した。この山城の出現は日本の武士を一変させた。武士は騎兵隊から歩兵隊へと変化したのである。
 こうした南北朝の初期の山城は人工的な防御施設を設けるよりも、むしろ天然の急峻な山に立て籠もることが多く、城は施設を指すだけではなく、山に閉籠する行為そのものをも指していたようである。このため、南北朝期の山城は戦争の時のみに利用され、戦争が終わると使われなくなる。
 ところが応仁・文明の乱の勃発はこうした臨時的な防御施設としての山城の姿に大きな変化をもたらした。戦争が列島全域で恒常化するに及ぶと、単に天然の要害にのみ依存できなくなり、人工的な防御施設が築かれるようになる。それらは山を切り盛りして築かれた、文字通り土から成る施設であった。兵が駐屯できる平坦地としての曲輪を山を削平して階段状に築き、その周囲には敵の進入を防ぐ土塁が巡らされ、尾根筋は遮断線となる堀切を設けて切断した。この曲輪、土塁、堀切が戦国時代の山城の最大の防御施設として紹介される場合が多いが、最も重要な防御施設は、曲輪の周囲を急傾斜となるように削り込んだ、切岸と呼ばれる施設である。山城の防御は、いかに敵に登らせないかであり、そのため曲輪周囲を急傾斜となるように、できるだけ削り込んだのである。登城道が失われた城跡では、現在もこうした切岸を登らなければならないのであるが、手で樹木を持たなければ、とても登ることはできない。築城当時の切岸はもっと急で、樹木も生えておらず、四つん這いにならなければ登れなかったであろう。そこへ頭上からは石が落とされ、矢が射かけられたのである。
 さらに曲輪や堀切が複雑に配置されることにより、城は迷路となり、ますます攻め難くなってゆく。そうして組み合わされた配置を縄張りと呼び、山城の生命線となる。戦国時代の山城で、縄張りを形成する土木施設のことを普請と言い、櫓や門などの建物を作事と言う。しかし、山城において作事はほとんど必要なく、土木施設こそが城そのものであった。天守や櫓という建造物を伴う近世城郭とは大きな違いである。まさに土から成る城だった。
 そしてこうした人工的な防御施設を伴った山城は在地の領主の累代の詰城として維持管理される。南北朝期の城が戦争のときのみに用いられたのとは大きく異なる点である。さらに戦国時代後半になると防御施設はさらなる発達を遂げる。城の出入り口となる虎口は直進して城に入れないような喰違虎口や、枡形虎口となり、土塁には折という屈曲がつけられて側面からの射撃を可能とした。さらには緩斜面の切岸の斜面移動を封鎖するために竪堀を連続して設ける畝状竪堀群や、虎口への進入を阻止するために、馬出しと呼ばれる橋頭堡が虎口前面に設けられるようになる。
 こうして16世紀の後半には土の城としての到達点を示す山城が各地で出現するが、これらは土の城からは脱皮することはなかった。
 ところが織田信長によって築かれた小牧山城では石垣が導入され、岐阜城では金箔瓦が葺かれ、安土城では天主が造営された。以後、日本の城は信長によって創造された石垣、瓦、天主という3つの要素を兼ね備えた城へと姿を変える。近世城郭の誕生である。」
・・・

#改編1)─<平成31年1月28日>〜No.1   始めに。  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・    
 ブログ作成日 令和元年
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 アニメ映画『銀河鉄道999』「男なら、負けると分かっていても戦わなければならないときがある」
 人としての生き方、男の生き方は、邪な心に支配され卑屈に逃げ惑う大人よりも、純粋に本能に従って行動する子どもの方が良く知っているのかも知れない。
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 武士は、負けても逃げなかった。
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 6つのブログ。
 当ブログは、日本中心の民族主義歴史修正主義で作成している。
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2)日本の祖先神・氏神の人神崇拝と普遍宗教の隣人愛信仰による400年宗教戦争
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易。
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 キリスト教勢力は、日本人を改宗し、日本をキリスト教国家に造り変えようとした。
 豊臣秀吉徳川家康江戸幕府は、キリスト教勢力の宗教侵略から日本と天皇を守るべくキリシタン弾圧を行っていた。
 日本国内を征服するには、西洋から大艦隊と大軍団を派遣しなくても、日本人キリシタン約40万人で教皇直属の神聖騎士団を組織して聖戦の行えばよかった。
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 開国、明治維新は、ロシアの侵略から日本と天皇を守る為に実行された。
 日本の近代化である殖産興業、富国強兵、近代教育は、ロシアの大軍を撃破する為の軍隊をつくる為であった。
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 熱狂な勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、虐げられた芸能の民、迫害された賤民(非人や穢多)、差別された部落民(山の民・海の民・川の民)達であった。

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1:昭和天皇は戦争回避とユダヤ人難民救護を希望し原爆開発中止を厳命した。
  ・  ・  
 天皇戦争犯罪・戦争責任はない。
 昭和天皇は人道貢献と平和努力を行った。
  ・  ・  
 レーニンは、世界共産革命を行う手始めとして日本とアメリカを戦争させるべく陰謀をめぐらした。
 その革命の尖兵として中国共産党日本共産党をつくるように命じた。
  ・  ・  
 日本共産党は、日本を共産主義国家に改造する為には天皇制度を打倒する暴力的人民革命が必要である、という党是を決定した。
 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリストとともに昭和天皇や皇族を殺すべく狙っていた。
 日本包囲網が、共産主義者によって諸外国に、世界に広がっていった。
 最高学府である大学では、マルクス主義が蔓延し、反天皇主義者が増え始めていた。
 日本軍、特に陸軍内部でも、貧困化している農村部を助ける為には共産主義しかないという考えが広がりを見せ始めていた。
  ・  ・  
 暴力的人民革命が成功するかどうかは、共産主義者が警察・軍隊・情報機関を掌握できるかどうかにかかっていた。
 共産主義活動原理は、5%支配であった。
  ・  ・  
 日本の戦争は、天皇と母国日本を外敵(共産主義勢力)から守る自衛戦争であった。
  ・  ・  
 日中戦争は、虐殺された非戦闘員日本人居留民(大半が女性や子供)の復讐戦・報復戦であった。
 第1回南京惨殺事件。済南虐殺事件。通州虐殺事件。その他の日本人惨殺事件。
  ・  ・  
 日中戦争は、第一次世界大戦第二次世界大戦・太平洋戦争の間に起きた第1.5世界大戦であった。
 日本軍が戦った相手は、ファシスト中国(中国国民党)軍、ナチスドイツ・ドイツ軍、ソ連軍・共産主義系人民義勇軍アメリカ軍・ボランティア部隊、その他。
 イギリスは、戦争全般に渡って軍需物資を提供していた。
 フランスは、軍需物資輸送路を提供していた。
 イタリアは、親日国家エチオピアを侵略して苦戦していた。
 日本陸軍は、世界最強に軍隊であった。
  ・  ・  
 最も陰険な相手が中国共産党であった。
  ・  ・  
 ナチス・ドイツヒトラーアメリカのルーズベルトソ連スターリン、イギリスのチャーチル、フランスのド・ゴール、イタリアのムッソリーニなど世界の首脳陣は、全員が反天皇反日であった。
  ・  ・  
 日本を戦争へと誘導したのは、マルクス主義統制経済を推進していた革新官僚や軍人エリート官僚達であった。
 彼らは高学歴出身知的エリートとして、最高学府の大学でマルクス主義的教育を受けていた。
  ・  ・  
 天皇と宮中は、イギリス・アメリカ派であった。
 陸軍は、少数派のナチス・ドイツ派と多数派のポーランド派の2派があった。
 海軍は、多数派のイギリス派と少数派のソ連派及びアメリカ派の3派があった。
  ・  ・  
 昭和天皇や軍部は、親ユダヤ派であった。
 上海ホロコースト阻止事件。
  ・  ・  
 日本軍は、戦争をしながら、数百万人の餓死者が出ている河南省の飢餓地域に大量の食料や医薬品を送り飢餓民約1,000万人を助けた。
  ・  ・  
 昭和天皇東条英機A級戦犯達は、アメリカとの絶望的な戦争を回避する為に話し合い、外交努力を続けていた。
 アメリカとイギリスは、日本との戦争を決断し、話し合いに応じながら東アジアで対日戦の準備を進めていた。
 日米英蘭の戦争は不可避であった。
  ・  ・  
 太平洋戦争時。アメリカは、日本外務省の暗号電報を傍受し解読し、日本国内の情報提供者から国家機密情報を入手して、日本の動きを正確に知っていた。
 だが、日本軍機密情報は統帥権によって厳重に守られていた為に知る事ができなかった。
 ホワイト・ハウスとアメリカ軍は、日本軍の戦闘開始時間を知っていたが、真珠湾攻撃は不可能だと確信し油断した。
 アメリカとイギリスは、日本外務省がワシントンの日本大使館に送った暗号電報「7日午後1時」という指定日時が何を意味をしているかを知っていた。
 「7日午後1時」といは、午後1時以降、日本軍が攻撃を仕掛ける事を意味する。
  ・  ・  
 昭和天皇や軍国日本は、戦争を早期に終結するべく極秘で行動していた。
 宮中・外務省・陸軍・海軍は、個別で、スイスを舞台にしてアメリカの情報機関と極秘に終戦交渉を行っていた。
 アメリカ、イギリス、ソ連の連合国は、日本が降伏を切望している事を知っていた。
  ・  ・  
 スターリンは、日露戦争の復讐戦と領土拡大の為に、日本からの降伏交渉の仲介要請を焦らしながら放置した。
 ルーズベルトは、ヤルタ会議で、南樺太・千島列島・北方領土4島・北海道の東半分をロシア領にする事を認めた。
  ・  ・  
 ホワイト・ハウスは、二つの原子爆弾投下実験を行うまで日本の降伏を認めない決定を下し、アメリカ陸軍戦略航空部隊に対して準備次第に二つの原爆投下実験を実行するように命じた。
 二つの原子爆弾とは、ウラン235型とプルトニウム239型である。
 原爆投下実験は、ウラン型とプルトニウム型の二発だけで三発目は必要なかった。
 もし、この時に水爆(水素爆弾)が完成していれば、三つ目の投下実験として水爆が京都に投下された事だろう。
 原爆投下実験は、科学的データ収集目的と対ソの政治戦略で実行された以上、日本は降伏を公言し武器を放棄しても止める事はできなかった。
 戦争を停止するか継続するかは、敗戦国ではなく戦勝国が決める特権である。
 一部のユダヤ人学者達は、原爆による破壊力データを得る為に実戦使用と人体実験を歓迎した。
 アメリカは、被曝者治療ではなく人体被害データを集める為にヒロシマナガサキに研究者を派遣した。
 アメリカは、日本人を人と認識していなかった。
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 東京裁判は、人道貢献や平和努力したA級戦犯達を「口封じ」する為にリンチ的縛り首で処刑した。
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 アメリカは、日本占領を円滑にする為に昭和天皇天皇制度を利用したが、将来的に皇室を消滅させる罠を幾つも仕掛けた。
 日本国憲法における天皇は国民の総意、直系宮家以外の11宮家から皇籍の剥奪、皇室資産の没収、男系男子相続の徹底で皇位継承権者の減少、などなど。
 連合国は、皇室の存続を認めなかった。
 その影響が、昭和から平成の御世に代わった1990年代頃から囁かれ、平成末期の2000年代には男系継承者の減少にともなう皇室存続の危機が顕在化し、令和の御世に代わって現実化した。
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 現皇室は、死滅した在来種の日本産トキと同じ運命を辿っている。
 最大の原因は、日本人の皇族への無責任な興味本位の好奇心であるが、その実は天皇家・皇室に対する無関心、民族の歴史に対する無知・無理解である。
 在来種の日本産トキを死滅させたのは、戦後教育を受けた現代日本人である。
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 アメリカ・ユダヤ人達は、昭和天皇戦争犯罪者として処刑する事を望んでいた。
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 連合国=国連は、日本を封じ込める為に内に日本国憲法と外に国連の敵国条項を定め、再軍備を禁止し、国連軍としてアメリカ軍を日本に駐屯させた。
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 中国共産党系中国軍系中国資本は、日本の国土を爆買いし、中国人移民を大量に日本へ送り込みつつある。
 日本人住民排除の池袋現象。
 
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3」西洋キリスト教文明・白人の功罪。中国共産党ソ連共産主義者による日本人女性子供虐殺事件。
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 欧米諸国やバチカン、国際赤十字社は、目の前で行われていたヒトラーホロコーストを知っていたが無視し、抗議せず、無言で放置した。
 連合軍は、せんその勝利を優先して虐殺されているユダヤ人の救出を後回しにした。
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 ヒトラーが、対米戦を決断したのは、日本軍に期待したからである。
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 ロンメルのアフリカ軍団が敗北したのは、日本海軍の戦略転換が原因であった。
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 ドイツ軍は、日本の裏切りで敗北した。
 アメリカは、ドイツ軍と戦うソ連軍の為にウラジオストック経由で大量の軍需物資を送っていた。
 日本軍は、ウラジオストックに向かうアメリカのソ連支援軍需物資輸送大船団を黙認していた。
  ・  ・  
 ユダヤ人の資産を奪ったヨーロッパ人は、ホロコーストから生き残って帰郷したユダヤ人を惨殺していた。
  ・  ・  
 アメリカやソ連などの連合軍による人道と平和に対する凶悪犯罪。
  ・  ・  
 中国共産党による人権無視の非人道な大虐殺事件。
 辛亥革命から中国共産党政権樹立までの中国革命で、殺された人民は約1億人と言われている。
 中国共産党・中国軍は、尖閣諸島と沖縄は日本に強奪された中国領であると主張し、日本領沖ノ鳥島を国家防衛の重要拠点であるとして奪おうとしている。
  ・  ・  
 ロシア人共産主義者は、日本国家と日本軍から見捨てられ逃げ惑う日本人避難民(主に女性や子供)数十万人を襲って虐殺した。
 ソ連軍は、北海道東半分を占領できなかったが、1945年9月2日迄に日本領北方領土4島を不法に占領した。
 日本降伏後の、ソ連・ロシアによる北方領土4島強奪は国際法に違反する戦争犯罪である。

   ・   ・   ・   
4〕日本文明・日本天皇大和民族と中華文明・中華皇帝の中国・朝鮮両民族との2000年戦争。
  ・  ・  
 日本民族は、乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
 日本列島に流れ着いたのは、釣り鉤文化の南方系海洋民、長江文明揚子江流域、針文化の北方系山野の民で、彼らが混血して縄文人が生まれた。
 縄文人は、日本列島を中心に、北はカムチャツカ半島、千島列島、北方領土4島、樺太、南は沖縄、西は朝鮮半島南部に広く分布し、舟で日本海を主力航路として移動していた。
 その後に、大陸や半島で生存競争に負けた敗残者である人々が、渡来系弥生人として逃げ来た。
 日本民族日本人は、縄文人弥生人敗残者が混血して生まれた。
  ・  ・  
 弥生人達は、殺し合いを始めた。
 それが弥生の大乱で、この大乱の中から邪馬台国が組織された。
 弥生の大乱の終焉と共に誕生したのがヤマト王権である。
 ヤマト王権は、征服王権ではなく有力部族の連合体であった。
  ・  ・  
 中華世界・中華文明圏(中国・朝鮮)による日本侵略。
  ・  ・  
 朝鮮は、日本を朝鮮半島から追い出し、日本を滅ぼす為に、清国(中国)やロシアをけしかけて戦争を起こしていた。
 日清戦争日露戦争は、ロシアの日本侵略から母国日本を守る為の祖国防衛戦争であった。
 清国は、日本に対する復讐戦をする為にロシアと秘密軍需同盟を結んでいた。
 朝鮮は、ロシア軍に協力すべく敵対的中立を宣言していた。
 だが、反日朝鮮人達は日本軍の後方で義兵戦争を起こしていた。
  ・  ・  
 日本は、朝鮮の戦争を引き起こす謀略から日本と天皇を守る為に併合(日韓併合)した。
 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇や皇族を殺す為につけ狙っていた。
 桜田門前事件。台中事件。
 関東大震災における朝鮮人惨殺や大杉栄殺害はこうして発生した悲劇である。
  ・  ・  
 反日朝鮮人は、シベリア出兵を好機として3・1暴動(万歳事件)を起こし、朝鮮総督を暗殺しようとした。

   ・   ・   ・   
5}人口爆発時代。軍国日本の世界戦略は、食糧・石油・原材料などを海外で確保する為であった。
 戦前の日本人は、異常気象で発生した凶作で食糧不足が発生し、飢え始めた国民に食料を確保するべく、食べ物を求めて大陸へと侵略戦争を始めた。
  ・  ・  
 アメリカ・イギリス・オランなどの反日勢力は、日本の窮状を知りながら、食糧が買えないように国内の日本資産を凍結し、輸送できないように石油を売るのを禁止した。
  ・  ・  
 戦後の日本人は、自分の食べ物を守る為に戦争孤児を餓死させ、アメリカ人兵士と日本人娼婦の間に生まれた混血児・ハーフ児童を汚れた罪深い子供と差別し死ぬに任せて放置した。

   ・   ・   ・   
6〉人口激減時代。絶望的少子高齢化は、短期的に労働者不足、中期的に消費者減少、長期的に日本民族日本人は少数派に転落、そして日本国の衰退。
  ・  ・  
 夫婦で3人以上の子どもを産み育てる。
  ・  ・  
 日本人の、男性の精子劣化、女性の卵子老化、生殖機能の退化、繁殖能力の衰退によって、人口激減か加速度的に進む。
  ・  ・  
 社会補償の受給者である老人が増加し、納税する若者が減少する。
  ・  ・  
 良き消費者である、浪費の若者が激減する。
   ・   ・   ・