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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の世間は、閉鎖の百姓根性=ムラ論理と開放の漁師気質=フネ理論で動いている。
日本の祭りを盛り上げる、神輿は村の社(やしろ)であり、山車(だし)・曳山(ひきやま)は港の小舟である。
日本民族は、農耕漁労民族で、平地に住む山の民(里山の民)と海の民(浜辺の民)である。
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2025年7月16日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「世界の歴史から考える「移民と宗教問題」 移民の信仰に対する差別と配慮
世界の中の日本人・海外の反応
日本でも在日外国人に関するニュースが連日報道されている。宗教観の違いや信仰の違いによってトラブルが生まれるのは、何も今に始まったことではない。今回は世界各国の歴史から、移民とその信仰に対する差別と配慮の実例をみていこう。
■常に背中合わせの関係にある移民と宗教問題
移民問題では目下の治安やマナー違反ばかりが報道され、宗教や宗教観の違いによる文化摩擦にまで踏み込んだ言及がなされることは少ない。これには日本人が宗教に厳格でなく、仏教や神道を習俗と受け止めてきたことが関係するのだろう。今後、インドネシアやマレーシアから日本へ移住または長期滞在する人が増えれば、イスラーム教徒用の土葬墓地を巡る問題を国会レベルで本格的に議論する必要が生じると思うのだが。
世界を見渡せば、移民と宗教問題は常に背中合わせの関係にある。その中にあって例外的存在なのがアメリカ合衆国である。イングランドからの初期の移民のうち約半分は、移住の動機が本国の宗教政策に対する不満にあったため、さまざまなタイプのプロテスタントが新天地を目指した。
連邦政府や州政府が特定の宗派や教派・教会を国教とすれば、深刻な対立が生じるは必定。最悪の場合、内戦に発展しかねないため、大統領の就任式や国会の証人喚問における宣誓に聖書を用い、プロテスタント改革派の教えを暗黙の共通認識としながら、憲法の上では国教を持たない変則的な政教分離が続けられている。
19世紀になってからはドイツや北欧から同じくプロテスタントのルター派、アイルランドやイタリアからカトリックの移民が殺到するが、先住のプロテスタントがカトリックを敵視すること甚だしく、20世紀前半まで、教皇を大悪魔呼ばわりする論調が世論の大勢を占めた。
ラテンアメリカも移民国家ばかりだが、こちらではイベリア半島からの征服者としての移住が多く、初期の移住者はカトリックに限られ、先住民を文明化の美名のもとカトリック化する政策が強硬に進められた。反乱が起きても、軍事力の差が桁違いであることから、大半がすぐさま鎮圧され、宗教に起因する大問題が発生することは極めて稀だった。
これとは対照的に、深刻な問題と化しているのは中東やアジアから白人社会への移民である。近代以前のヨーロッパではユダヤ人に対する差別が根強く、進んでキリスト教への改宗や居住地への同化を試みる者たちがいた反面、あくまでそれらを拒み、安息日(土曜日の労働禁止)や細かな食事規定など、独特な戒律を順守する者も少なからず、ゲットーと称されるユダヤ人強制隔離居住区域が設けられた地域も多かった。
20世紀後半以降、ヨーロッパにおける差別のメイン対象はユダヤ人からイスラーム教徒へと変わる。ヨーロッパでは脱宗教化が進む一方だったから、信仰と日常生活を不可分とするイスラーム教徒はよけい悪目立ちした。
アルジェリア出身者のように、フランスからの独立戦争(1954~1962年)時にフランス側に加担し、祖国を捨てる覚悟で移住した第一世代には信仰を絶対視しない世俗的な人びとが多かったが、貧困と差別に苛まれる状況が続いたことで、第2・第3世代には自己のアイデンティティーを追求するうち、イスラーム教への回帰に走る者が多く現われた。移住の動機は違っても、他の中東出身者の家庭でも似たような傾向が見られ、トルコ出身者の場合、ヨーロッパ連合(EU)への加入が遠のいて以降、その傾向が一気に加速した。
異郷へ移住しても信仰を保持する点はインド出身者も同じで、早くから海洋進出をしていた南インドのドラヴィダ系民族を例外として、その他のヒンドゥー教徒はヨーロッパ人がカーストと命名した4つの階級と不可触賤民(被差別民)からなるヴァルナ制度と地域・職業の違いなどからなる数千ものジャーティーの別が大きな足かせとなり、進んで海外進出する者は稀だった。自分より下のヴァルナ、ジャーティーの作った料理を食べれば穢れが生じ、元の共同体への復帰を認めてもらうのに、多大な出費と面倒な儀礼が必須だったからである。
このせいでヒンドゥー教徒の海外進出が大きく遅れたのとは対照的に、北西部のパンジャーブ州を本拠地とするシク教徒はイギリス植民地当局から優遇され、東南アジアや香港、上海の租界などに軍人や警察官として派遣された。イギリスがアジア植民地の大半を失ってからはイギリス本土への移住を許された者も多く、イギリスではそれまでのシク教徒の貢献に鑑み、ひげと頭髪を生涯切らない彼らの戒律を尊重して、軍事作戦やオートバイに乗車する際、シク教徒男性必須のターバンで十分代用できるとしてヘルメット着用義務を免除するなど、特別な配慮を示している。
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島崎 晋しまざき すすむ
1963年東京生まれ。立教大学文学部史学科卒業。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て、現在、歴史作家として幅広く活躍中。主な著書に『歴史を操った魔性の女たち』(廣済堂出版)、『眠れなくなるほど面白い 図解 孫子の兵法』(日本文芸社)、『仕事に効く! 繰り返す世界史』(総合法令出版)、『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『覇権の歴史を見れば、世界がわかる』(ウェッジ)など多数。
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2025年6月12日 YAHOO!JAPANニュース Book Bang「「国家と国家の権力史」と対峙した古事記研究の泰斗・三浦佑之、「コテンパンやなぁ」と万葉学者・上野誠が驚いた日本神話論とは(書評)
Book Bang
『「海の民」の日本神話』三浦佑之[著](新潮社)
万葉学の第一人者・上野誠氏が、驚きとともに深い感銘を受けた一冊がある。
古事記研究の泰斗である三浦佑之氏が刊行した『「海の民」の日本神話――古代ヤポネシア表通りをゆく』(新潮社)だ。
本書は、日本海を起点に、「古事記」「日本書紀」「万葉集」「風土記」といった古典文献のみならず、考古学や人類学など最新の知見も縦横に取り入れながら、日本神話の核心に迫っていく。
読み進めていく中で、思わず「コテンパンやなぁ」と独り言を漏らしたという上野氏。その率直な驚きと敬意がにじむ書評を紹介する。
上野誠・評「国家史から開放された神話の世界」
副題にある「ヤポネシア」は、島尾敏雄(一九一七―一九八六)に学ぶものであるが、それは、日本も一つの「シマ」であり、広く東南、北東アジアの地域の一つとして位置付けて、「日本」という国家史の枠組みから解放するための用語である。
本書は、広くいえば「海の民」の交流から見た日本神話論であり、著者の長年の研究から導き出される新論、いや新々論といえよう。目次を示すと、次のようになる。
序章 古代ヤポネシア「表通り」
第一章 海に生きる――筑紫の海の神と海の民
第二章 海の道を歩く――出雲・伯伎・稲羽
第三章 神や異界と接触する――但馬・丹後・丹波
第四章 境界の土地をめぐる――若狭と角鹿
第五章 北へ向かう、北から訪れる――越前・越中・能登
第六章 女神がつなぐ――高志と諏訪、そして出雲
終章 国家に向かう前に
通覧すると、あぁ、裏日本、日本海流の交流史から見た神話論か、とわかるだろう。が、しかし。本書の問いかけは、今日の日本列島を中心とした国家史から神話を解放するものなので、読者はこの点を注意して読むべきである。
もともと「クニ」という語は、小地域を示す言葉であった。たとえば、律令国家の「大和国」のなかにも「ヨシノノクニ」(奈良県吉野地方)や「ハツセヲグニ」(奈良県桜井市長谷)などがあった。それぞれの「クニ」が交流、競争、協調して、それぞれの時代の生活があったわけである。たとえば、「イヅモノクニ」と「コシノクニ」が「海の民」によって結ばれ、交流して、ヒト、モノの交換をして、それぞれの「クニ」が成り立っていたのである。その交流の跡を、翡翠の流通やヤチホコの神の〈ヨバヒ〉伝承からも学ぶことができるのである。
今の国家史の枠組みから見れば、「新羅国」は、かつて朝鮮半島に存在した一国家だが、古代の「イヅモノクニ」の人びとから見れば、交流していた「クニ」の一つに過ぎない。スサノヲやアメノヒボコの記紀神話を見ても、ちょっと遠くから来た神くらいにしか、見ていないことがわかる。
本書が仮想敵としているのは、
(1)近代国家を無意識に前提とした国家史
(2)国家の中でも、鉄と米による王権支配論
(3)ヤマト中心史観
の三つである。読み進めていて、ふと独言を発してしまった。
えぇ、石母田正(一九一二―一九八六)なんて、コテンパンやなぁ、今の三浦先生には――。
石母田古代史学は、国家と国家の権力史であり、その中で、東アジアの国家関係を捉えようとするものであった。発表された当時は、刮目の雄であったが――。
じつは本書は、まさしく、今、読まれるべき本なのである。
A ネットで自由に結ばれ、ヒトとモノの移動が自由にできるようになり、国家や国境の意味が問われている時代
B 高度経済成長時代は、鉄の生産量と米の生産量の多寡が幸福度を計る目安であったが、もうこの二つが幸福度とは結びついていない時代
C 中央と地方との関係ですべてを考えても、もう新しいものは生まれてこない。地域間での交流や都市交流の方が、実際の生活では大切ではないのか、と思われている時代
そういう観点を反映して、本書は書かれているし、読者も、日本の古代社会の多様性について学べる本だと思う。
あらゆる歴史像は、すべて近代史であるとは、評者もわかっているのだが、それを研究に活かすことは難しい。評者なりに考えると、近代国家のゆらぎの中で生まれた学問には、一つの潮流があると思う。その一つは、ソフトなものの歴史を扱うことだ。「ムラ」から歴史を見る民俗学。香や木陰にも歴史はあると説いたアラン・コルバン(一九三六―)。非稲作民の歴史を説いた網野善彦(一九二八―二〇〇四)。彼らは、新しい歴史像を構築しようとした。本書は、その流れの中で、リニューアルされた新々神話論なのである。
もう一つ、本書の重要な特徴がある。それは歩く神話論、古代交流史になっていることだ。つまり、交流の痕跡を辿る旅になっているということである。ひっそりと、祀られている神社の神が、遠くからやって来た神だったりする。
交流によって、その地に残された痕跡というものがある。中国で発見された古代ローマの硬貨。北斎とゴッホ。なんで山の中に、海の民の祀る神のお社があるのか。糸魚川の翡翠がここにも。
近代の学問は、あまりにも頭でっかちになり過ぎている。本書を読むことによって、私たちは「古代」への旅に誘われることになるのだ。私も、ここには、行ってみたいというところがいくつかあった。そこには、付箋が貼ってある。
[レビュアー]上野誠(國學院大學特別専任教授)
1960年、福岡県生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。万葉文化論を標榜し、歴史学・民俗学・考古学など周辺領域の研究を応用した『万葉集』の新しい読み方を提案している。著書に『折口信夫 魂の古代学』(第7回角川財団学芸賞受賞)、『万葉文化論』、『日本人にとって聖なるものとは何か』、『万葉集から古代を読みとく』など多数。
協力:新潮社 新潮社 波
Book Bang編集部
【関連記事】
「国家」に抗する「海の民」 三浦佑之『「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく』
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2021年11月号 波「「国家」に抗する「海の民」 三浦佑之『「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく』
レビュー新潮社 波 [レビュー] (古典/伝承・神話)
「海の民」の日本神話
『「海の民」の日本神話』
著者
三浦 佑之 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784106038723
発売日
2021/09/24
価格
1,815円(税込)
ネット書店で購入する
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
「国家」に抗する「海の民」
[レビュアー] 赤坂憲雄(民俗学者/学習院大学教授)
赤坂憲雄・評「「国家」に抗する「海の民」」
思えば、『出雲神話論』(講談社)の衝撃から二年足らずで、その続編との邂逅を果たすことになった。前著で先送りされた、「古代ヤポネシアの表通り」の史的景観がくっきりと浮き彫りになったことに驚きを覚える。補論の域ではない。未踏のあやうい領域に、三浦佑之さんは怖れげもなく足を踏み入れ、道標のいくつかを打ち込んでみせたのだ。守りの姿勢がかけらもない。もはや、国文学という牙城に身を寄せることもない。これは膨大な文献読みには留まらず、フィールドを訪れて読みを深めることを重ねてきた成果の詰まった著書なのである。
古事記・日本書紀・風土記、そして万葉集はいずれも、古代律令国家としての「日本」の誕生以後に属している。三浦さんが力説されてきたように、もはや「記紀神話」の時代は終わった。出雲こそがリトマス試験紙となる。なにしろ日本書紀は、出雲を視野の外に祀り捨てたテクストだった。しかし、出雲神話を豊穣に抱えこんだ古事記とて、出雲の背後に沈められた海の世界を真っすぐに物語りしているわけではない。
だから、三浦さんは古事記を核としながらも、考古学や歴史学の新しい研究を越境的に摂りこみ、古代ヤポネシアの掘り起こしへと向かわざるをえない。ここで、ヤポネシアとはむろん、島尾敏雄の綺想に富んだヤポネシア論を承けている。それは奄美・沖縄から黒潮によって北上してゆく海上の道に沿った、「日本」を超えるためのもうひとつの日本文化論の試みであった。三浦さんはさらに、古代の日本海文化圏を「表通り」へと転倒させながら、もうひとつのヤポネシア論へと足を踏みだしていったのである。
三浦さんが表明してきた、古代律令国家とともに誕生した「日本」にたいする懐疑と批判を、わたしもまた共有している。都から放射状に伸びる陸の道によって地方を支配する中央集権的な国家像としての「日本」は、中世という例外はあれ、現代にまで生きながらえてきた。だから、「日本」の誕生以前の「古代ヤポネシアの表通り」をなす環日本海世界の掘り起こしが必要とされた。古代の「日本」は陸の道によって、海の道が繋いできたヤポネシア世界を分断し、不可視の場所へと追いこんでいった、と三浦さんはいう。
その豊かな構想力が描きだした、埋もれた列島の黎明期の「国家に抗する社会」(ピエール・クラストル)に熱い共感を覚えている。そのうえで、わたし自身の妄想メモを書き留めておきたくなった。列島の古代に見いだされる国家に抗する社会としては、東北の蝦夷たちの、ゆるやかに連携する「山の民」の部族社会が浮かぶ。それにたいして、三浦さんが発見しているのは、日本海を舞台とした海の道で繋がれる地域分散型の「海の民」の社会である。それはたとえば、多島海型のネットワークで繋がれた地域連携とは異なった、もうひとつの「国家」に抗する「海の民」による地域連携であろうか。
この本の隠れた主人公は潟湖、つまりラグーンであった。それはいたるところに遍在している。三浦さんは周到に、たくさんのラグーンの所在をあきらかな名前とともに書きこんでいる。ラグーンの意味を問いかけるとき、柳田国男の明治四十二年のエッセイ、「潟に関する聯想」はいまも豊かな刺激に満ちている。日本海岸では風景の特色が潟に集まっている、と柳田は書いた。太平洋側にも、リアス式海岸ばかりでなく、潟のある風景が見られないわけではない。留保が必要か。
日本海に沿ってラグーンを抱いた海岸景観が、本州の北から南へとたどられていた。そこに見いだされていたのは、漁業/交通/稲作が交叉することで編まれてきた天然と人間との交渉史であった。「潟に関する聯想」には、三浦さんがそっと書きこんでいた潟湖の名前が次々に拾われている。そこから『「海の民」の日本神話』を照射してみるのもいい。
ラグーンに生まれる海村は、その前面に広がっている海によって遠く離れたいくつものラグーンの村と繋がり、水平的な関係のもとで交易や交流、婚姻の網の目を張り巡らしていた。と同時に、そこに流れこむ川や沢を通じて、内陸の稲作農村や、焼畑・狩猟・採集などの稲作以前をかかえた山村へ結ばれていた。山―里―海を有機的に繋いでいる結節点としてのラグーン、そこに埋めこまれた関渡津泊を起点とした交通の諸相にこそ、眼を凝らしてみたい。そして、この先には、避けがたく「青潮文化論」との連携が求められるにちがいない。
新潮社 波 2021年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです
新潮社
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7月7日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「日本の神社や場所にあてはめるのは不適切」? 本来キリスト教に結びつく「聖地」という表現が日本に“定着させられた”ワケ 辻田真佐憲が『戦前日本の「聖地」ツーリズム』(平山昇 著)を読む
『戦前日本の「聖地」ツーリズム キリスト・日蓮・皇室』(平山昇 著)NHKブックス
奈良県の橿原(かしはら)は「建国の聖地」である。そう聞いて、違和感を抱くだろうか。
橿原神宮は明治の創建で、近代ナショナリズムの産物にすぎない。祭神の神武天皇も神話上の人物だ。そういう反応はあるだろう。
だが同じことを明治のひとびとが聞いたなら、別の違和感を口にしたかもしれない。聖地という語は本来キリスト教に結びついた表現であり(聖地エルサレムというように)、日本の神社や場所にあてはめるのは不適切なのではないか、と。
そう、戦前に形成されたのは建国神話だけではなかった。聖地という枠組みも、じつは近代以降に定着したものだった。本書はその意外な事実を史料の博捜を通じて解き明かしていく。
鍵となる人物は日蓮主義者の田中智学(ちがく)である。八紘一宇の造語者としても知られる彼は、聖地という用語をはじめ日蓮の故地に用い、さらに大正期以降は皇室ゆかりの場にも広げて、その訪問を促した。関東大震災などで社会不安が広がるなか、天皇を核とする国民意識の強化が追求されたのだ。
ただ、それだけでは知識人層にしか響かなかったかもしれない。聖地という概念の一般化には、ツーリズムの存在も無視できない。
第一次世界大戦後、鉄道網の拡充にともなってひとびとの移動が活発化し、大衆ツーリズムが勃興した。そのなかで鉄道会社などによって伊勢神宮や橿原神宮などへの訪問がうながされた。ここに聖地という用語が入り込むことになった。
本書は、このプロセスを「キリスト発、日蓮経由、皇室ゆき」と、絶妙なフレーズで言い表している。
こうして聖地ツーリズムはひとびとに共通体験を与えたいっぽうで、聖地という「正しさ」ゆえに、共感しないものへの同調圧力を生み出すことになった。いわく、「橿原へ行かざれば人にあらず」と。
戦前の日本というとはじめから「国家神道」一色だったように思われているが、近年よく指摘されるように、実際は70年余という長い歳月のなかでさまざまな紆余曲折があったのである。
さて、最初の問いに戻ろう。われわれは「建国の聖地」と聞いたとき、建国には違和感を覚えても、聖地という表現については聞き流していた。本当に向き合うべきナラティブは後者というべきだろう。
明治維新では、神武創業への回帰が掲げられた。だが、その実態は西洋化にほかならなかった。そのなかで建国神話ですら知らないうちにキリスト教的な語彙で語られ、かつて猥雑だった日本の宗教空間もすっかり「浄化」されてしまった。いまや日本に還れと叫んで聖地をめぐったところで、そこで出会うのは西洋の模造かもしれないのだ。
悲しむべきか。いや、むしろ日本の本質はこのような文化の混淆にこそあるともいえるのではないか。本書は現代日本のあるべき姿を考えるうえでも示唆に富む出発点を与えてくれる。
ひらやまのぼる/1977年、長崎県生まれ。神奈川大学国際日本学部准教授。東京大学教養学部卒業、同大学院総合文化研究科博士課程修了。専門は日本近現代史。主な著書に『初詣の社会史:鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』、『鉄道が変えた社寺参詣』。
つじたまさのり/1984年生まれ。評論家・近現代史研究者。新刊『「あの戦争」は何だったのか』が7月17日に発売予定。
辻田 真佐憲/週刊文春 2025年7月10日号
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日本神道の祭祀は、数万年前の縄文祭祀である自然崇拝と祖先崇拝の流れを受けているが、移住してきた人の数ほど数多くの宗教・文化・神話の影響を受けている。
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仏教は、インドで生まれ、ガンダーラ・中央アジア・中国・半島を経て日本に伝来し、死者を祀る日本神道と習合して死者を葬る日本仏教(葬式仏教)に変貌して日本に根付いた。
仏教も神道も、同じ多神教として対立をせず和合し融合して多様性に富んだ多文化多宗教共生社会を生み出した。
神道と仏教が対立して宗教戦争をおこなった事例は一件だけであったが、聖徳太子が全国的な大乱に発展させる事なく治めた。
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日本民族は、唯一絶対神による奇跡・恩寵・救済を胡散臭く感じて敬遠し、憎悪・対立・争いを正当化する排他的不寛容な宗教・文化を排除し、数千年前の弥生時代に生み出した民族中心神話である高天原神話=天孫降臨神話=天皇神話を信じ、民族中心神話を神聖不可侵の不磨の大典として、日本国を神国とし天皇を現人神として守ってきた。
日本には、異教徒らによる宗教弾圧や宗教戦争は起きなかった。
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日本神道では、南方から海を越えてくる客人(まれびと)を主要神に加えて祀っていた。
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日本神道における最高神は女性神で、天皇の祖先神である天照大神(伊勢神宮)である。
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日本民族の、宗教祭祀は数万年前の縄文人の自然崇拝と祖先(死者)崇拝で、民族中心神話は数千年前の弥生人や古墳人が編纂していた。
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数万年前、海の民(ヤポネシア人)は独自の文化と宗教を持って丸木舟で南の海から日本列島に渡ってきた。
縄文人(日本土人)は、独自の文化と宗教を持って、日本海(縄文の海)を主要航路として日本列島を中心に南は琉球から西は半島南部、北は蝦夷地・北方領土4島、千島列島に広く住み着いていた。
数千年前の弥生時代・古墳時代には、大陸や半島から独自の文化や宗教を持った人々が列島に渡ってきた。
日本列島に渡ってきた人々は、大陸や半島から逃げてきた難民・避難民、逃亡者、亡命者、弱者・敗者達であった。
朝鮮半島の
親日派・知日派は、古朝鮮・百済・古新羅・高句麗・渤海。
反日派・敵日派は、統一新羅・高麗・李氏朝鮮・大韓帝国。
歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではなかった。
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無人の島であった日本列島に、独自の文化や宗教を持った人々が流れ着き、乱婚を繰り返し、混血を強め、雑種として日本民族が生まれた。
日本民族は、雑多の人々が持ち込んだ数多くの文化と宗教を混ぜ合わせ、諸王国乱立による弥生の大乱(倭国の乱)を鎮め、外国の侵略から日本を守り、日本を統一し、日本に平和と安寧をもたらす為に特殊な日本の文化と宗教を作り出し、日本を否定し対立を煽り混乱をもたらし悪化させる文化や宗教を排除した。
日本の中心は、閉鎖されたムラ理論による、ヤマト大王・ヤマト王権、日本天皇・日本朝廷であった。
日本民族の最大の脅威は、日本を侵略してくる残虐な外国勢力ではなく、日本列島で甚大な被害をもたらす自然災害であった。
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天皇への忠誠心と日本国への愛国心を、誓う者を帰化人として受け入れ身近に領地を与え官職への道を認めた、拒否する者を渡来人として関東などの遠方に土地を与えて官職への機会を認めなかった。
その意味で、日本には偏見と差別が存在していた。
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平安時代の人口は、約500万人。
820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済系帰化人・高句麗系帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
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834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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