🌺6:─2─大きな歴史からは見えなかった「庶民の生活実態」。~No.11 

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 2024年5月8日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「貧乏だがよく働き、隣人を信じる…「大きな歴史」からは見えなかった「日本人の生活実態」
 『忘れられた日本人』で知られる民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは? 
 「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が6刷とロングセラーとなっている。
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 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 「庶民」不在の歴史
 宮本は1957年(昭和32)に「庶民のわたしが、庶民の立場から、庶民の歴史を書いてみたい」と構想を述べている(『風土記日本』第二巻『中国・四国篇』月報「庶民の風土記を」)。
 また、近年の「歴史」叙述において、庶民はいつも支配者から搾取され、貧困で惨めで、反抗をくりかえしているように力説されていることに疑問を感じていたという。
 「孜々営々として働き、その爪跡は文字にのこさなくても、集落に、耕地に、港に、樹木に、道に、そのほかあらゆるものにきざみつけられている」
 村人の大半はつつましく健全に暮らしを歩んでいる。そういう人びとが農民の大半だとすると、その人たちの生きてきた姿を明らかにしておくべきではないか。
 その人びとは戦争が嫌いで、仕事の虫のように働き、貧乏ではあったが、生き抜く力をもち、隣人を信じ、人の邪魔をしてこなかった。一般大衆は声を立てたがらないからといって、彼らが平穏無事だったわけではなかった。
 宮本民俗学の重要な仕事は、こうした歴史を残しておくことだった。
 「郷土研究」としての民俗学
 宮本は、「日本民俗学の目的と方法」(1968年著作集版)で柳田国男以来の民俗学は「郷土人の意識感覚」をとおして物を見ることだったと総括的に叙述する。こうした総括は、柳田が民俗学をその初期に「郷土研究」と捉えていたことから導き出される。
 「(郷土研究というのは)郷土を研究しようとしたのでなく、郷土であるものを研究しようとしていたのであった。その『あるもの』とは何であるかと言えば、日本人の生活、ことにこの民族の一団としての過去の経歴であった。それを各自の郷土において、もしくは郷土人の意識感覚を透して、新たに学び識ろうとするのが我々どもの計画であった」(柳田国男国史民俗学』)
 それでは「郷土人の意識感覚」とはどういうものなのか。
 民衆(常民)の生活を知るためには民衆と同じ立場に立たなければならない、同じ立場に立つことによってのみ、その真意をつかみ得るというものである。柳田がこのような発想と発言をしたことには、深い意味があったと宮本は考える。
 これまでの支配者、とくに武士階級には、文字を解しない農民や漁民は、人倫もわきまえていない「愚昧の民」として映っていた。そして現在世に出ている歴史書の多くも、支配者たちの記録文献にもとづいて書かれたもので、民衆はほんの一隅に現われてくるにすぎない。
 戦後になって、庶民史料の蒐集研究が進み、民衆の歴史も明らかにされてきたが、その歴史の多くは支配者への抵抗のかたちで捉えられている。農民や漁民が貧しい生活を余儀なくされた姿が、そこに記録された農民の訴えや、数字のなかから読み取れるからである。
 しかしそれだけでは、農民・漁民が生きていくための日々の「生活感情」を明らかにすることはできない。農民・漁民の生活のなかに入りこみ、同じような感覚をもち、その生活を一度は肯定してみないとわかってこないのだ。
 民衆は支配者から搾りとられる生活を続けながら、絶望していたわけでも、暗く卑屈に生きてきたわけでもない。互いにいたわりあい、自分たちの世界を形づくる、相互扶助による共同体と個人の持続的な営みだった。そういう民衆の生活はそのなかへ入ってみなければわからない。
 柳田が「郷土であるものを」といったのは、正しくは「郷土人の感覚であるものを」ということである。そしてそのことによってだけ、民衆の生活を明らかにすることができるのではないかと宮本は考えたのだった。
 畑中 章宏(作家)
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