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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族の男女の出会いには、宗教祭祀が関係していた。
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日本全国に埋もれている民族神話の始まりは、女神・伊邪那美命と男神・伊邪那岐命の共同作業による国生み物語である。
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近世の道祖神は、良縁・出産・夫婦円満の神であった。
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昔の日本人による旅の目的は、男女の出会いであった。
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日本民族には、中国や朝鮮のような観念的男尊女卑はなかった。
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2024年3月18日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「なぜ「伊勢神宮は男女で参拝するな」という誤解が広まったのか…「女神が嫉妬するから」が誤りである理由
大昔の日本では男女はどのように出会いを求めたのか。仏教研究家の瓜生中さんは「平安時代には泊まり込みで『念仏会』があった。その日は無礼講で、男女が信仰そっちのけで性を謳歌していた」という――。
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※本稿は、瓜生中『教養としての「日本人論」』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■奈良時代の男女の出会いの場
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男神(ひこかみ)に 雲立ち上り 時雨降り 濡れ通るとも 我や帰らめや
(男神の峰に雲が湧き上がり、時雨が降ってびしょ濡れになっても、〈私は〉絶対に帰らない。今夜はとことん交わるつもりだから)
(『万葉集』巻九高橋虫麻呂歌集)
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この歌は筑波山の麓で歌垣を行ったときの歌である。『万葉集』には「歌垣」の歌というのが多く収録されている。歌垣とは若い男女が山に集まって歌を詠い合い、最終的には男女がカップルになって性を謳歌(おうか)するものである。
もともと天皇などが高い丘の上などに登って一円の地勢や民の生活状況を視察する「国見」に起源があると言われ、農民の間でも高みに登って周囲の田畑の状況を見てその年の豊凶を占う農耕行事に発展したらしい。
これが若い男女の求婚や見合いの場となり、さらには性の解放の場ともなったようである。「歌垣」の語は男女が垣根のように円陣を組んで「歌を懸け合った」ことに由来するといわれ、常陸(茨城県)の筑波山や摂津(大阪府)の歌垣山、肥前(佐賀県)の杵島山などが歌垣の山として知られている。恐らくこのとき男女が互いに手をつないで、西欧のフォークダンスのように踊ったのだろう。
■人類は古来性的欲求の抑制に努めてきた
性的欲求は人間の欲望の中でも最も抑えがたいものであるが、その性的衝動を発することによって人間はしばしば過ちを犯すのが常である。イザナミのようにいとも簡単に同意してくれれば良いが、同意なしに性行為に至れば立派な犯罪になって身を持ち崩すことになる。
だから、古来宗教や哲学は性的欲求の抑制に力を入れてきた。紀元前3世紀にギリシャのゼノンが提唱したストア学派(ストイシズム)は、理性を磨くことによって性的欲求を克服しようとした。これがストイック(禁欲主義)の語源である。
仏教の戒律では出家者は男女が二人きりで話をすることすら禁じており、在家者も配偶者以外と交わることを固く禁じている。キリスト教やイスラム教などの宗教も性的欲求を厳しく戒めている。
■泊まり込みの「念仏会」が男女の出会いの場に
性的欲求は人間が本性として兼ね備えているもので、容易には断つことのできない難物である。だから、歌垣のような解放の場を設けることも世界各地で行われてきた。
日本では平安時代の末から鎌倉時代にかけて念仏が大流行し、各地で在家向けの念仏会が開かれるようになった。そして、念仏会には泊まり込みで男女が集まり、無礼講の場になったらしい。兼好法師も『徒然草』の中で念仏会のときに横にいた女性に寄り添われて閉口したことを記している。
また、ギリシャ神話に登場する酒の神ドィオニュソス(バッカス)は各地の村を巡って若い男女を連れ出し、山の中や草原に集めて裸体に近い状態で飲めや歌えの大宴会を開き、性を謳歌させたという。これをバッカス祭(バッカナール)といい、バッカスはインドまで行ってこの祭りの普及に努めたという。
この祭りはすでに紀元前には風紀を乱すとして禁止されたようだが、紀元1世紀のポンペイの壁画にはバッカナールの光景を描いたものが見られる。
■「祭礼」は今も昔も男女の出会いの場
元来、「祭り」とは加護を求めて神を鄭重にまつる厳かな儀礼だった。だから、村人だけで静かに行われる祭りも各家々で行われる年忌法要なども、「祭り」という意味では祇園祭や三社祭のような多くの人が参集する祭りと何ら変わらないのである。
柳田国男は奄美大島の古老が「今日は小さな神さまがお降りになります」と言っていたことを報告している。「小さな神さま」とは村人が静かにまつる神という意味なのだろう。そして、柳田は「祭り」と「祭礼」とを区別し、村々や家々で行われる静かなものを「祭り」、神輿や山車が出て多くの見物人で賑わうものを「祭礼」としている。
また、とくに「祭例」は「ハレの日」で日常的な「ケの日」とは異なる日である。その意味で祭礼はバッカナールと同じように、常識や因習などから解放される日でもある。今も行われている祭礼の中には江戸時代ごろまで男女の出会いの場であり、性的な解放の場であったものも少なくない。そして、今も祭礼は若い男女にとっては出会いの場である。
■念仏会は今でいうカラオケや合コン
信仰の集まりである念仏会での女性の行動はいかにも不謹慎極まりない。しかし、かつて若者は念仏会などの法要を今でいうカラオケや合コンのような感覚で楽しみにしていたようである。だから、信仰はそっちのけで出会いを求めたのである。
また、浄土宗には五重相伝という特有の法会がある。7日間、寺に泊まり込んで浄土宗の秘法を授かるもので、今も浄土宗の寺院では行われている。この法会に参加すると「誉号」という格式の高い戒名を授かることができる。
しかし、若者はこの法会も男女の出会いの場と考えていた。まして泊まり込みで、基本的には男女が雑魚寝するのであるから、勢い交わりを行うものも出てくる。
僧侶などを除いた多くの日本人は、仏教をはじめとする宗教を教えや学問としてとらえることはなく、法要なども儀礼として臨んだ。だから、念仏会も五重相伝も祭礼と同じで、日常とは異なるハレの日で、それは普段の倫理観にとらわれない無礼講の日だったのである。
■江戸時代の空前の「寺社巡り」ブーム
江戸時代、幕府は社会の安寧秩序を保つために綱紀粛正に努めた。その結果、出雲阿国がはじめた女歌舞伎が取り締まりの対象となり、山東京伝などの黄表紙作者(戯作者)も手鎖の刑などに処せられた。そして、念仏会や五重相伝も風紀を乱すものとして厳しく取り締まったのである。
また、江戸時代には「お伊勢参り」が空前のブームとなり、若い女性が着の身着のままで路銀も持たずに伊勢を目指したという。このころには各宿場に彼女たちを受け入れる旅籠があり、そこにはまた彼女たちを目当てとする若い男性が集まった。女性たちは男性の相手をする見返りに、路銀をもらったり御馳走をしてもらったりして伊勢までたどり着くことができたという。
江戸時代は伊勢参宮をはじめ寺社巡りが空前のブームとなった。この時代、幕府はさまざまな形で統制を強めたが、寺社巡りに関しては寛容な態度を取った。というのは有力な寺社には多くの参詣者が集まり、その参詣者を目当てに旅籠や飲食店、土産物屋などが軒を並べた。
寺社を中心に参詣者たちが落とす金は莫大(ばくだい)なものとなり、その地方の藩が潤い、ひいては幕府もその恩恵に与ることができたからである。
■「伊勢神宮を男女で参拝してはいけない」はウソ
また、有力な寺社の近くには旅籠や飲食店の他に必ず遊郭があった。当時、講などで参詣する人の多くは男性であり、彼らはお詣りを終えると精進落としと称して遊郭に繰り込んだのである。もちろん、純粋な信仰をもって寺社巡りをする人もあったが、そういう人は一握りで、ほとんどの男性は「花より団子」というか「信仰より遊郭」だったのである。
かつて伊勢神宮にも妓楼80軒、遊女が1000人もいる大規模な歓楽街が内宮と外宮を結ぶ街道沿いにあった。しかし、明治維新を迎えて天皇家の皇祖神をまつる伊勢神宮が国家の宗廟(そうびょう)として神社界で超然たる地位を確立すると、お祓い通りや見世物横丁などとともに撤去の対象となった。
ちなみに、伊勢神宮に夫婦や男女のカップルで参拝することはタブーと言われてきた。内宮、外宮とも女神をまつっているので、男女で仲良く参拝すると両宮の祭神が嫉妬して災厄をもたらすなどと、もっともらしい説明がなされてきた。しかし、実際には男性のお目当ては遊郭での精進落としにあり、妻や恋人同伴では遊郭に通うのに都合が悪いからである。
また、成田山新勝寺の精進落としの場は船橋にあった。江戸時代には船橋に呉服屋が軒を連ねていたといい、今でも古くからの呉服屋が残っている。これは妻や娘を家に置いて成田山に参詣した男たちが精進落としに遊郭に寄ると後ろめたさを感じ、罪滅ぼしに家で待つ妻や娘に着物を買って帰った。そこに目をつけた呉服屋が商魂逞(たくま)しく店を出したのである。
■日本人もまた性に奔放だった
江戸時代、武士の間には儒教倫理が普及して男女の間には厳しい規制が敷かれた。しかし、江戸や大坂をはじめとする大都市に住む町人の間には、儒教倫理は浸透していなかった。だから、大都市の大衆は本性のままに生きることができたのだろう。
また、江戸時代には仏教的な「憂世」を「浮世」と捉え、人生を刹那的な享楽のうちに過ごすという傾向があらわれた。その傾向は井原西鶴の『好色一代男』などをはじめとする文学に如実にあらわれている。ちなみに、西鶴は風俗をテーマに作品を作っていたが、幕藩体制が安定していた江戸時代前半の元禄時代のことであり、当時はまだ取り締まりの対象にならなかった。
しかし、幕府や諸藩が財政的に逼迫して寛政の改革が行われた江戸時代後期になると、風紀の取り締まりが厳しくなっていく。「江戸っ子は宵越しの金を持たない」というのも、当時の人たちの、将来を考えずに刹那的に楽しく生きようとする態度のあらわれである。その意味で江戸時代は、冒頭に示した歌垣に見られるような日本人の奔放な性格が開花した時代ということができるのではないだろうか。
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瓜生 中(うりゅう・なか)
文筆家、仏教研究家
1954年東京生まれ。早稲田大学大学院修了。東洋哲学専攻。仏教・インド関係の研究、執筆を行い現在に至る。著書は、『知っておきたい日本の神話』『知っておきたい仏像の見方』『知っておきたい般若心経』『よくわかるお経読本』『よくわかる浄土真宗 重要経典付き』『よくわかる祝詞読本』『教養としての「日本人論」』ほか多数。
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